「手をつなぐ育成会」の資料整理作業について ───歴史に沿い、現在に至ることをわかる 高 雅郁
2022.10 『遡航』004号 pp.87-95
育成会、親の会、機関誌、知的障害、arsvi.com
要旨

本稿は、筆者が立命館大学生存学研究所のアルバイトとして行った知的障害のある子どもを持つ親の会連合会である「育成会」の資料整理の記録である。2022年に創立70周年に迎える育成会は、各都道府県及び市町村にて親の会として取り組みを行っている組織である。1956年4月15日に発刊した機関誌『手をつなぐ親たち』は、1993年3月1日刊行した第445号まで「指導誌」の位置付けで発行された。第446号(1993年4月1日刊行)から「情報交流誌」に変更し、知的障害のある当事者の声を掲載することが増え、誌名も『手をつなぐ』に変わって、現在に至る。主に日本全国の知的障害のある人と、その家族や関係者に対する発信をしている。 資料整理の手順は、特別に貸し出していただいた資料を分類し、「Book Turner」という電子書籍化支援システムの装置を使用して資料をスキャンしデータとして保存するというものである。資料がデータとして長続き保存すると同時に、より広範に利用できるよう、著作権の配慮を注意したうえで、まずは機関誌の目次を手作業で入力して、生存学研究所のホームページであるarsvi.comに掲載している。現在は第500号(1997年10月1日刊行)まで掲載されている。目次掲載の作業は現在も継続中である。今後もテーマごとに内容の部分を抜粋して掲載する予定である。

一、はじめに:「育成会」とは

「手をつなぐ育成会」(通称:育成会)は1952年に知的障害のある子どもを持つ親たちが設立した民間団体(当時の名称は「全国精神薄弱児育成会」)である。同会は1955年に社団法人の法人格を取得し、1959年に社会福祉法人格に変更を行った。1995年には、名称を「社会福祉法人全日本手をつなぐ育成会」に変更し、事業を行ってきた。その後、会の改革のため、2014年社会福祉法人格を返上し、任意団体「全国手をつなぐ育成会連合会」として活動を続けた。2020年4月には、一般社団法人格を取得し「一般社団法人全国手をつなぐ育成会連合会」として活躍している。今年(2022年)に70周年を迎える。 同会はその長い歴史の中で、会の発展と会をとりまく社会情勢に応じて、日本における様々な福祉制度や政策、サービスの推進について良い面も悪い面も影響を与えてきた。その影響は日本社会だけではなく、東アジアを含めた世界に対しても広がっている。

二、資料入手の経緯

筆者は、立命館大学大学院先端総合学術研究科に入学する前に、台湾で知的障害のある子どもを持つ親の会連合会「中華民国智障者家長総会」(日本と海外で英語名称の略語の「PAPID」として知られている)に勤めていたことがある。台湾と日本の親の会における連携のなかで、筆者は育成会の会長久保厚子氏と数回にわたって面識と交流の機会を得た。 2017年6月、筆者は久保氏に対し育成会創刊からの機関誌を生存学研究所に貸出・寄贈できないかと打診した。その後一度、久保氏に会うため滋賀県大津市まで行き、相談をした。そして、生存学研究所所長の立岩真也氏から、久保氏にも資料の貸出・寄贈についてメールで説明・提案をした。資料の貸出の承諾を得ることができ、2018年1月、8箱の段ボールの資料が生存学研究所の書庫(立命館大学創思館4階416室)に届いた。 資料をどのように扱うかについて、それらの膨大な資料を生存学研究所の書庫に寄贈することができるかを久保氏と相談した。しかし、同会はそれらの資料を利用していく予定があり、寄贈することは難しいということになった。その代わりに研究使用の目的のもので、無償での貸出を行うこととなった。 紙面を複写、あるいは電子データ化することによって、研究所がそれらの資料を保存できる形にして保存することの許可を得た。それらは著作権への配慮を行ったうえで、内容をウェブサイトに一般公開されないように行われることになった。これらの資料は、保存のための作業が終了したあとに原本を返却する方針となった。

三、資料整理作業の概要:

前述の通り、生存学研究所では、複写によって紙のままで保存するのではなく、永続的な保存を行うために電子データ化によって保存することとなった。資料整理作業の手順を以下に説明する。

1. 資料を確認・分類して、リストを作成

まずは、8箱分の段ボールの中に何が入っていたのかを確認し、それらのリスト作成を行った。届いた資料は、多くは年度ごとに製本された機関誌であった。また、同会の年度大会開催要項や総会資料集、同会の創立してからの各種の出版物も多く含まれていた。市販されてないものと絶版の書籍も多く含まれていた。重複している文献は除くと、合計で790点の資料が貸し出されたことになる。その詳細は付録として示す。

2. 電子データ化する

次に、「Book Turner(ブックターナー)」を使用し、貸し出された資料をスキャンした後、連携アプリで編集しPDFデータにする作業がある。 「Book Turner」とは、電子書籍化支援システムのことで、粘着テープによってページめくりをする機能が付いている。資料や書籍のページを自動的にめくって、紙面資料を一ページごとに写真撮影をしてスキャンする機能である。本来はページの自動めくり機能を使用することによって作業効率を上げたいところではあったが、貴重な資料を破損しないように、ページめくりの作業は手動モードで行うことにした。撮影する際には、光が反射しないよう注意しながら作業をした。 資料の大きさと製本状態によって、撮影するiPadを設置する高さも調整しなければならなかった。また、データを利用するときの読みやすさを配慮しつつ、製本された機関誌などの資料も1号ごとに撮影スキャンをした。iPadに連携するアプリは撮影された画像を最多4つまで保存できる。撮影スキャンした後の画像はアプリで編集して、パソコンに保存してから、アプリ内のデータを削除し、次の撮影スキャンの作業に進む。例えば、1冊の製本に12号の機関誌が入っているとする。最初の4号を撮影スキャンして、アプリで編集して、完成したPDFデータをパソコンに保存して、アプリにあるデータを削除し、次の4号の機関誌を撮影スキャンする。このような手順を3回振り返し、1冊分のPDFデータが完成する。資料の分量によって、作業時間は異なる。例えば、1号で50ページの機関誌であれば、撮影スキャンに約15~20分間はかかる。 その後は、撮影された画像を編集する作業に入る。編集は、以下の流れで行う。 ①ページ編集:ページが漏れていない(撮影されていないページがないか)かどうか、撮影された画像の精細度など(撮影された画像が鮮明に映っているか)を各ページで確認する。 ②トリミング:撮影された画像の不要な部分を取り除く。また、撮影するとき、資料の状態により、画像が曲がってしまった可能性もあるので、トリミング(画像を切り抜くこと)のプロセスで補正する。 ③色補正:撮影スキャンの光により、画像の精細度は変わる。編集時に確認し、読みにくい場合は、色補正を行う。これも工数がかかる要因になっている。 ④出力確認:以上の編集が完成した後、プレビューをして、全体をもう一度確認する。問題があれば、①~③に戻って再び編集する。 ⑤PDF作成:プレビューで特に問題がなければ、最後に編集した画像をPDFデータに変換する★01。 1号の機関誌には編集段階で約60~90分間がかかった。分量と作業の熟練度にもよるが、1冊ごとに製本された1年間分の12号の機関誌を電子データ化するための作業時間は約23~24時間かかる。この作業を主に筆者がアルバイトとして行い、同研究科の院生坂本唯氏も、短期間アルバイトとして撮影スキャンと編集作業に携わった。 この段階の作業は2022年9月に完成して、育成会に貸し出した資料の原本を返却した。現在、作成したPDFデータを十数枚のCR-ROMに保存して、生存学研究所の書庫に配架している。また、育成会にもお礼として、作成したPDFデータをCR-ROMに保存して資料返却と同時に送付した。

3. 機関誌の目次を作成・掲載する

先方は著作権上の懸念から、PDFデータをウェブサイトに公開しないように求めた。筆者は、撮影スキャンの作業をしながら、これらの資料をどのように有効で広範に運用できるかを考えていた。資料の中から、まず機関誌に着目した。 同誌は知的障害のある子どもを持つ親や家庭に発信しているが、読者数は決して少なくはなかったと考えうる。当時の育成会の専任理事仲野好雄氏は「全国二百十七万人の親達四百万の大同団結こそ最も大切でその基盤の上に立ち親達自ら努力する者の頭上にのみ神は恩恵を垂れ給ひ、私達の前途たるや実に洋々たるものと云えませう」(第1号、p.14。19560415)と述べている。 機関誌は、創刊当時は「指導誌」という位置付けであった。そのため政府や専門家からの伝達事項も多く見られた。「此の度文部省初等中等教育局、厚生省児童局監修による日本最初の精薄指導誌を発行することになりました。」(仲野好雄、第1号、p.13。19560415)とある。 日本における初めての知的障害者に関する定期的に発刊している機関誌で、1956年創刊して以来、月に1号の頻度で発刊し、現在まで続いている。そこには膨大な情報量がある。  機関誌の内容を知るために重要となるのが目次である。筆者は、育成会の機関誌の目次のページを作成し、生存学研究所ホームページ(HP)のarsvi.comに掲載することにした。目次を公開すれば、多くの人が検索できるからだ。古い資料であることもあり、光学文字認識(OCR、画像からテキストを抽出する機能)は用いることができないように思われた。そこで目次を作成する作業では、電子データ化されたPDFを開いて、手作業で一文字ずつを入力することとした。 各号の機関誌には目次が付いている。そのまま入力すれば効率的に作業できると考えたが、最初の作業に入るとき、機関誌に付いている目次と実際の内容とを照らし合わせて、本来の目次に登録されてない内容が実際には含まれていることがあるとわかった。そこで筆者は、実際の内容に沿って目次ページを作成した。 日本語が母語ではない筆者にとって、日本語の発音がわからないとき、発音を調べてからでないと入力できない文字も多くあった。また、古い資料の中には現在あまり使用していない旧字体で記載された部分などがあり、それらの旧字体の意味と入力方法を調べる時間も必要だった。  また、HP(arsvi.comのこと)に載せるため、目次の文字内容だけではなく、HPで用いられているプログラミング言語も必要である。筆者はプログラミング言語の知識がなく、研修を受け、簡単なタグを覚えた。読者がウェブサイトにアクセスし、そのページを開いた際にどのように読みうるかを考え、タグをつけながら、目次を作成する。作成したデータをHPのアップロード作業の担当者に送付し、タグが正しく表記されているかどうかを再び確認した。アップロード後にずれているところを発見したら、再修正してからHPに公開するようにした。 筆者は50号ごとにデータをアップロード担当者に送っている。第1号から第50号は2019年3月10日に掲載され、現在は第500号まで(2022年10月18日掲載)公開されている。以下のページからアクセスできる。 ①『手をつなぐ親たち』http://www.arsvi.com/m/oyatachi.htm (第1号から第445号まで) ②『手をつなぐ』http://www.arsvi.com/m/tewotsunagu.htm (第446号から第500号まで)

4. 今後の作業について

機関誌の目次作成作業は今後も続いていく予定である。著作権に違反しないように注意しつつ、機関誌の内容から一部を抜粋して、arsvi.comに内容を資料として掲載することも考えている。 また、貸し出した資料の原本を育成会の久保氏宛に返送したところ、久保氏から、続きの資料も生存学研究所に送れるとの連絡があった。研究所と相談後、続きの資料も貸出を受けることに決め、筆者からその旨を久保氏に連絡した。次に届く資料の分量は予想できなかったが、これまでの経験から一人でスキャン作業をすることは時間がかかり過ぎると考える。作業の人手を増やすことでより効率的に進められるのではないかと考えた。

四、資料がどう活用されるか

育成会の資料整理作業が続いている中ではあるが、これらの資料がどのように活用されるかも重要である。  筆者は、この作業を開始するより前に、育成会の機関誌に寄稿したことがある★02。掲載されて届いた機関誌を読み、掲載されている内容が多様であることを知ったが、当誌の沿革やその変遷についてはあまり分からなかった。 台湾にて知的障害のある子どもを持つ親の会連合会で勤めていた経験もあり、日本の育成会の資料を整理しながら、日台の親の会の仕組みや発展の異同を少しずつ理解することができた。また、資料整理や目次作成の過程で、台湾にはあまり残されていなかった、台湾の親の会連合会(1992年設立)と育成会との交流の情報も目に入った。 例えば、第465号(1994年11月01日刊行)と第493号(1997年03月01日刊行)には、台湾の親の会が育成会と交流訪問に来日したという記事が掲載されていた。また、それより前に、第330号(1983年08月01日刊行)で初めて当誌に「台湾」という言葉が出現していることもわかった。それは、同号の「世界各地より」のコーナーで、「浦野敬子」という人物が書いた記事「国際智障者作品交流展」にあった。「智障者」は台湾にて「知的障害者」との意味である。1983年当時は台湾の親の会連合会がまだ設立されていなかったが、浦野氏は当時台湾に在住して、初期の日台の親の会の繋がりに力を入れた人物であった。 この記事の冒頭には「中華民国と日本の精神薄弱の人々の初めての作品交流展が、中華民国新竹市(台北より高速バスで一時間)において開催されました。…[中略]…本作品展は、京都山科と新竹市のロータリクラブの後援により開催されました」と書かれていた。記事のタイトルには、当時日本で使われていた「精神薄弱者」を使用せずに、台湾で使っている「智障者」を用いていた。また、台湾は「中華民国」との正式な国名で書かれて、現在の台湾の国際における情勢から読むと、当時の時代にそう書かれた意味が重要になるではないかと思われた。 また、当時の日台の知的障害者が芸術作品(アールブリュット)で初めて交流したという事実は、すでに2006年に国連で採択された障害者権利条約第30条の文化や余暇活動などの権利を表したものではないかとも読み取れた。 さらに、筆者が研究する「わかりやすい情報」について、日本の「わかりやすい障害者権利条約」の作成についての論文★03を執筆するにあたっても、当時そのわかりやすい障害者権利条約の作成に関わっていた久保田美也子氏の文章「わかりやすい条約学習会――障害者の権利条約を知ろう」(第627号、pp.34-35。20080501)が育成会の機関誌に載っており、参考にすることができた。 ほかにも多くの研究者が、筆者が掲載した目次から得られた情報を研究の参考にしていることがわかっている。 例えば、立命館大学大学院先端総合学術研究科の山口和紀氏が障害者運動について研究し、「広島幹也」という人物を調べたとき、育成会の機関誌の目次から情報が出てきたという。その情報から検索し、広島幹也氏と中村与吉氏との関りがあったことがわかった。中村与吉氏は当時、新潟市立明生園園長として、育成会の機関誌『手をつなぐ親たち』にも多数の寄稿をしていた。目次で検索出来た情報に沿って、PDF化された機関誌の内容を読むことで、中村与吉氏のことや広島幹也氏との関連もさらにわかるようになったと山口氏の論文にも書かれた★04。 また、山梨大学大学院社会医学講座の特任助教の由井秀樹氏も、arsvi.comに掲載されているこの目次ページを読み、研究資料の収集のために、京都にある立命館大学生存学研究所までに足を運び、PDFにされた機関誌を閲覧したことがある。  現在でも多く議論されているテーマ、例えば、優生不妊手術、成年後見制度、入所施設や地域生活、自立生活、本人活動、虐待や権利擁護、障害者の就労、教育権の問題、年金や保険制度、生活保護や収入源保障、余暇活動や文化活動、社会参加等々、全生涯に関わる広範囲のテーマが、育成会の機関誌が創刊してから現在に至るまで掲載されている。初期は政府や専門家などの関係者の発信ツールとしての位置付けの中での寄稿が中心であったが、徐々に政府や専門家の発信だけではなく、各地の親たちと知的障害のある本人、そして兄弟姉妹や福祉・医療・教育・就労関係者、研究者などによる交流の媒体としてもみなされるようになってきた。 目次は逐次に公開されている。第1号から第445号までの指導誌『手をつなぐ親たち』の目次ページは、arsvi.comの最多アクセスのページに3回もなったという。このページが他の研究者にも多く利用されていると推測される。

五、おわりに

保城広至によれば、研究者は「自分の説にとって都合の悪い資料は無視し、都合の良い資料の身を証拠として挙げる」という「プロクルーステースの寝台」問題がある(保城 2015:12)★05。 育成会とその関係者たちは、知的障害のある人に関するものだけではなく、すべての人に関わる法令や政策、サービスシステムなどを親の力で推進した。彼らの運動から公的制度になったものも多く存在する。 なぜ知的障害のある子どもを持つ親たちはそのように運動を進めたのか。その始まりや現在に至る過程において、異なる方向に推進していたら、現在はどんな社会になっていたのだろうか。「親」といっても、百人いれば百人がそれぞれに異なっているものであり、親や関係者たちは各時代にどのように議論して、制度やサービスを政府と交渉し、それらが公的制度になっていったのだろうか。 これらのことを知ろうとする過程の中で、日本の福祉制度やサービスに力を入れる知的障害のある子どもを持つ親の会の資料を入手する機会を得たのである。現在に至ることは歴史から積み重なっているものである。この70年間の歴史の変化を筆者はまだ体系的に整理しえていないが、育成会の機関誌や関連資料を整理しながら、保城の言葉が胸に響き、特に議論されている題に対して、「プロクルーステースの寝台の問題」にならないようにと常に自分自身に言い聞かせている。目次の公開によって、研究者や関心がある人々には、歴史の流れから何かが見えてきただろう。