障害者運動のために施設職員になるという道 ───広島幹也の闘いを追う 山口 和紀
2022.10 『遡航』004号 pp.119-139
社会運動、障害者運動、新左翼運動、自立生活、新潟県
要旨

本稿は障害者運動に参与した健常者がどのような形でその闘争に関わりを持ったのかを明らかにする。そのための足掛かりである。新潟県の障害者運動における中心的人物であった広島幹也について、広島の自伝的著作に基づき検討した。結果、広島が障害者運動に関わりを持ったのは、学生運動だった。おそらく広島は第二次ブント系の新左翼活動家であったが、それがダウン症であった妹の死をきっかけに障害者運動に関わりを持つようになった。これらより、健常者が障害者運動に関わりを持つようになった経緯の一つとして、新左翼運動があることが示された。

1. はじめに

1-1. 非当事者が当事者主体の運動に関わること

障害者運動は当事者主体の運動である。すくなくともそのように主張されてきたし、いまでも主張されている。しかしそれは、障害者運動を担うのが障害者「だけの」であることを意味しない。運動には同伴する健常者がおり、健常と「障害」あるいは「病」の境にある者がいる。また、障害者の中にも「健常」に近い者もいれば、「障害」や「病」により近接する者もいる。グラデーションなどと今日呼ばれるものがそこにはある。  より広く言えば、当事者主体の運動は、当事者「だけ」の運動を意味しない。そこには便宜上の、当事者と非当事者の協同が生じる。それをいかに捉えるかは、当事者主体と呼ばれる社会運動を考える上で肝要である。  協同がある一方で、当事者と非当事者の間には対立も生まれる。当事者と非当事者の間にある意識の差や、経験、社会的に置かれた場所など、その要因は様々である。日本における身体障害者による運動の嚆矢である「青い芝」運動においては「健全者手足論」と呼ばれる形で、それが顕在化した。「青い芝」運動は、脳性マヒ者による運動の主体性を厳しく守ろうとしたが、それは容易ではなかった。山下[2004]は次のように書いている。

「主体性を持ち、健常者を「手足」として使うには、相応の経験が必要である。ところが、社会から隔離され、施設や親元に囲い込まれてきた障害者の多くは、そのような機会を持つことができずにいた。[...]「今、この時、この場所」で障害者と向き合っているグループゴリラとしては、好むと好まざるとにかかわらず、主導権を握らざるを得ない場面があったということだ」(山下[2004:133])

山下[2014]が述べるのは関西における運動の事例であるが、脳性マヒの当事者が常に運動の主導権を握り続けることは難しく、時には非当事者が主導権を握ってしまうこともあった。そこで脳性マヒ者らは健常者を完全に「手足」として扱うしかないとする結論に至った(小林[2011])。これが健全者手足論である。会の障害者の中には、手足論に懐疑的な者もいた(山口[2022a])が、この考えは会の公式な見解として打ち出された。

1-2. 新左翼/学生運動という入口――障害者運動と健全者

こうした障害者と健常者、当事者と非当事者の社会運動における協同と対立という主題を考察するために、そもそもなぜ健常者/非当事者が「障害者運動」に関わりを持ったのか、すなわち非当事者の運動参与における動機と経緯を明らかにする必要があるだろう。  障害者運動において、障害者が運動に参与するようになった経緯は広く明らかになっているだろう。他方で、健常者の運動への参与の動機と経緯については、研究の蓄積が少ない。代表的な研究として山下幸子『健常であることを見つめる――一九七〇年障害当事者/健全者運動から』(山下[2014])があり、関西における「グループ・ゴリラ」のメンバーにおける参与の経緯と動機が検討されており重要である。  考察の一つの補助線として「新左翼運動」と呼ばれる運動を挙げることができるだろう。新左翼運動とは1960年代に欧米や日本の西側先進国で起こった左翼運動で、旧左翼(この国においては日本共産党)に対抗する勢力であるがゆえに「新」左翼と呼ばれる。  新左翼運動の内部にも、党派/非党派という差異がある。党派は運動の初期から複数に分派し、その一つひとつに差異がある。そうした党派的な動きを嫌う、非党派(ノンセクト)の運動が1960年代後半ごろから力を持ち、反対に党派は党派間の闘いを同時期から激化させていった。そうした動き一つひとつをここで整理することはできないが、この運動の中で、あるいはそれを嫌い、抜け出そうとする形で障害者運動に関わりを持った者たちがいた。「革命的共産主義者同盟・中核派」は、党派として障害者運動に近づき、障害者運動組織を作った。それが視覚障害者である楠敏雄と共に結成した「関西障害者解放委員会」である(山口[2022b])。  関西において健全者として障害者運動に参与した小林敏昭は次のように語っている。

「僕は島根県の田舎で育ったんですよ。で、松江の高校出て、大学で大阪に行くんですよ。それは1970年なんですね。[...]当然知ってると思うけど、70年安保というかなり大きな闘争がある、年なんですよね。[...]70年、ちょうど大学に入った時にその闘争があって。[...]大学入ってからそういう運動と接点がね。まぁ顔出したり。そういうことがあって関わりもっていくんですけどね。 ただ、そんなに僕は活動家ではなくて、はしっこのほうからそういうのを少し興味を持ちながら経験してったみたいなそういう感じが70年あるんですよね。でまぁ、半分ノンポリっていうのか、そういう活動をしながら、半分はうーん、なんていうのかな。あのー、法学部に入ったんで弁護士になるつもりだったんだけど。まぁあのだんだんだん、授業も面白くなくなってきて、大学にもだんだんいかなくなって。その政治的な活動とか、市民運動に対する興味のほうが強くなっていくんですよね。当時は、まだ新左翼運動の残骸というか。まぁ69年が東大闘争、えっと、浅間山荘が71年かな。[...]一番先鋭的な新左翼の人たちがあのまぁ過激化していった中で、いわゆる内部闘争でリンチをして殺すみたいな。そういう事件が続くんですね。そういう流れにぶつかって、かなり幻滅するわけですよね。ぼくは。もともと、そんな中心的に運動してたわけじゃないけど、何か希望があるんじゃないかとか思って。でも、結局そういう所に行きついてしまうんですよね。それでかなり幻滅したというところがあるんですよね。[...]やっぱり、新左翼的な運動にも幻滅して。それで、先が見えなくなって昼夜逆転的な生活になっちゃったりして。[...]で、そういうときに僕の友人が「こんな面白い運動やってるグループがあるから、一回行ってみないか」みたいな。それで誘われていったのが「グループゴリラ」だったんですね。」(小林[2020i])

小林は1970年に大阪大学に入学し、「70年安保」などの闘争に惹かれ、顔を出すようになる。しかし、ちょうどそれは新左翼の内ゲバが苛烈化する時期でもあり、そうした運動そのものに幻滅をする。そこで目標を失っていた時期に出会ったのが、健全者として障害者運動にかかわるという道だった。  こうした新左翼運動や学生運動に幻滅して、そこから障害者運動にという道がまずあるだろう。そうした筋の人物としては、大賀重太郎がいる。角岡伸彦の『カニは横に歩く――自立障害者たちの半世紀』(角岡[2010])には次のようにある。

「大賀は一九五一年に兵庫県相生市に生まれ、間もなく姫路に移り住んだ。東大安田講堂に学生が立て籠った六九年、神戸大学に入学する。キャンパス内は学生運動が盛んだった。大賀も三里塚闘争などには参加したが、次第に運動内にある権力構造に嫌気がさし、ユースホステルに理想郷を求めた。学生ながら香川県の小豆島でユース経営に挑戦したり、岡山県にコミューンを作ったりなどしたが、いずれも失敗。一年余りで大学を中退し、家業の鉄工所を手伝っていた。そして友人に誘われるまま『カニは横に歩く』を観る。 その頃、大賀は、姫路城からさほど遠くない城下町のたたずまいを残した梅ケ枝町の一軒家に住んでいた。かつては置屋だった建物で、娼妓が鎮座したであろう見せ窓まであった。当時は独身で、来る者拒まずだった大賀の家には、『カニは横に歩く』にかかわりのある地元の障害者、介護者をはじめ、赤軍派やべ平連の活動家が出入りし、さながら若衆宿の様相を呈していた。仲間にさほど普及していなかった電話を持っていたことから、元置屋の大賀宅は、地元・姫路のグループ・リボンとゴリラの事務所兼たまり場になった。」(角岡[2010:68-69])

大賀は小林より一年早く1969年に神戸大学に入学している。「次第に運動内にある権力構造に嫌気がさし」、やはり友人に誘われ障害者運動に出会う。こうした流れがどの程度大きかったのかは分からない。また障害者運動に出会うこととそこに留まり続けるということもまた異なることだろう。そのことはここでは論じることはできない。  党派に属し、党派の活動として障害者運動にかかわった事例(関西障害者解放委員会における中核派)があり、そうした新左翼/学生運動そのものに幻滅し、嫌気がさし障害者運動に出会うという事例もある。  新左翼/学生運動から障害者運動へという流れは確かにあった。その全体像を知るには検証が不足しているし、どの程度の規模・割合でそうした動きが生じたのかを今から調べることは難しいだろう。しかし、そうした一人ひとりの動きを知り、記録していくことに意味はある。本稿の目的はこの点にある。

1-3. 考察の対象とする人物――広島幹也

そこで本稿は広島幹也を取り上げる。広島幹也(ひろしま みきや、1953年9月1日~2012年6月20日)がどのようにして障害者運動に関わるようになり、新潟で自立生活運動に関わるようになったのかを書く。広島は丹羽宗治という名前も使っていたようだが、本稿では広島に統一する。  後述するように広島は新左翼の活動家であった。その主たる「戦場」は三里塚であったようだ。そしてその意識は、党派への所属がいつまで続いたのかは定かでないが引き継がれ、障害者運動への関わりもその意識から来るものであったと考えられる。本稿は、広島がどのように新左翼運動の経験が障害者運動に繋がったのかを問いとして設定し、広島の自伝的記録から考察したい。

2. 広島幹也の通った道

2-1. 新潟県に生まれ、新潟高校に進学する

広島幹也は1953年9月1日、新潟県に生まれた。広島にはダウン症の妹、利美がいる。家族に障害者がいたことは広島にとって障害者問題を考える大きな動機になっていたようである。広島の妹である利美は「ダウン症」で、年も「一回り」違っていたために、一般的な兄弟という感じではなかった(広島[2012:10])。利美は広島が24歳のころに逝去、「その時、僕は、本当の悲しみというものを思い知らされました」(広島[2012:10])と振り返る。  広島は1972年3月に新潟県立新潟高校を卒業する。生まれてから高校を卒業する間のことは定かでない。広島はおそらく1969年4月に新潟高校に入学しているが、この時期は新潟県において高校紛争が起きていた時期でもある。こうした運動がどこでどのように起きていたかは十分に明らかでない。しかし、「東京高等裁判所 昭和4848年(行コ)7474号」(東京高等裁判所[1973])の判決文には次のようなことが書いてある。

「昭和四四年九月一四日、新潟中央高等学校(以下「中央高校」という。)の文化祭当日、控訴人を含む○○高校生及び明訓高校、新潟南高等学校(以下「南高校」という。)の高校生ら合計一〇数名は、中央高校の前庭で反戦フォークソングを唱い、中央高校生活指導部長から野立の雰囲気を壊す等の理由で制止された。ところが、控訴人らは右制止に従わず、中央高校からの連絡を受けて来校した○○高校のD生活部長外二校の生活指導部長の注意を受けて、一応フォークソングは取り止めたものの、その後、中央高校生活指導部長に面会を強要し、反戦思想のない文化祭はナンセンスであるとして、同人の前記制止措置を誹謗し、また、中央高校教頭に対し、三校の生活指導部長に連絡したことに対する自己批判を迫ったりなどした。」

この○○高校がどこかは伏せられている。しかし、1969年9月の段階で、新潟高校からさほど離れていない新潟南高校、新潟中央高校において、学生紛争があったことは確かである。広島もこうした運動に参加していた可能性がある。  広島は新潟高校を卒業した後、11年間浪人し、1973年に明治大学に入学する。

2-2. 障害者運動に関わる2つのきっかけ

広島が障害者運動に関わるまでに、2つのターニングポイントがあったという。ひとつは浪人時代にみたテレビ番組、もうひとつは1977年の全国障害者解放連絡運動連絡会議の第2回大会(会場は明治大学)だった。  そのテレビ番組はNHKの1970年~1975年まで放送されていた『七〇年代われらの世界』という番組だった。そこで脳性麻痺者のインタビューを見て「頭をハンマーで殴られた思いで何も言えずに固まって」しまったという。浪人時代であるから、1972年4月~1973年3月までの間と考えら、1972年06月29日(木曜日)に放送された『「生命の制御」 ―その科学と倫理―』である可能性が高い。同番組の内容は定かではないが、NHKのアーカイブ(NHK[不詳])には番組内容の欄に出演者が記されている。宮城音弥、高橋晄正、渡辺格、松下寛、林基之などが出演している。このうち高橋晄正とはおそらく、1960年代~1970年代に保健薬などの薬についての批判を行った内科医のことを指している。高橋については松枝[2014]に詳しい。高橋は薬害被害、医療告発を展開していた。その主張は一般に認知され社会的影響力があった(松枝[2014:251])から、薬によって生命を操作するというような文脈でキャスティングされたのだろう。渡辺格はおそらく、分子生物学者の渡辺格(わたなべ いたる、1916年9月27日~2007年3月23日)だろう。渡辺は遺伝子操作の研究者であるから、遺伝子を制御すること、「生命の制御」という文脈において出演したと考えられる。  広島は脳性麻痺者のインタビューを見て衝撃を受けたとしているが、この内容については定かでない。広島はこの体験について次のように述べている。

「僕は障がい児の家族で、親の苦労を見てきたつもりでした。社会の冷たい視線も味わいました。障がい児への理解は乏しく、障がい者の幸せのためには福祉の充実が必要で、それは施設を充実させることであると思っていたのでした。 でも、そこには本人(当事者)の気持ちなどどこにも入っていなかったのです。僕が反発した『人道的立場』が偽善的なのではなく、障がい者のためだと思い込んで、自分の意見が正しいと勘違いしていた自分こそ偽善者だったのです。ショックでした。」(広島[2012:2])

もう一つは全障連第2回大会である。同大会が行われたのは1977年8月13日~14日であった。場所は明治大学和泉公社で、代表幹事は横塚晃一★01、事務局長は楠敏雄★02であった。  同大会が行われたのは広島が明治大学に在学していた時期であった。この頃、広島は政治経済学部学生会(自治会)の委員長だった。セクトに所属していたものと見られるが、広島[2012]には明示されないが、傍証は残っている。『広島幹也さんを偲ぶ』には発行元である「広島幹也さんを偲ぶ会」の住所として、東京都のとある住所が書かれており、さらにそこには「川本勉気付」とある。  この川本勉の活動家としての名前は、畑中文治である。本名が川本勉ということである。畑中は共産主義者同盟首都圏委員会の指導者である。共産主義者同盟首都圏委員会は1988年に分派した流れである。『広島幹也さんを偲ぶ』には『風をよむ』という雑誌に掲載された原稿が再掲されているが、この『風をよむ』は共産主義者同盟首都圏委員会の発行する雑誌である。このことから、広島は共産主義者同盟首都圏委員会と強い結びつきがあったと考えられる。  ただし、共産主義者同盟首都圏委員会は1983年に共産主義者同盟赫旗派から分派した組織がもとになっているから、広島が自治会の委員長だった1977年頃はどうだったかは分からない。畑中との交友関係から考えると、1977年時点では共産主義者同盟遊撃派に属していた可能性が高い。畑中は情況派、遊撃派、共産主義者同盟首都圏委員会と進んだ人物だからである。遊撃派であるとすると、後述する三里塚での闘争とも辻褄は合う。おそらくは1977年時点では遊撃派に属していた可能性が高い。  また後述する黛は次のように述べている。

「うん、でそのブントのね、彼はブントだっていったんだな。で、その当時の仲間がこれを発行したみたい、まとめて。」 「いやあ、本人はブントだって言ってたよ。[...]だから関西と同じようにやっぱり解放同盟と障害者運動がいっしょになってやらないとだめだよなって言ってたんよ。」(黛[2022i])

この記述からも前述の広島が遊撃派に属していた可能性は高い。本稿ではその検討はこれで留める。  広島は政治経済学部自治会の委員長であったのと同時に、明治大学の全学部を網羅する全学学生中央執行委員会の副委員長であった。そのために「つまり、全障連大会を受け入れる側であり、その中心的な位置にいた」(広島[2012:3])。その時、はじめて障害者運動と出会ったという。特に「青い芝の会」の主張が強烈だったと振り返っている。  このとき、同大会には新潟から会田きよみが「新潟外に出よう会」★03という名義で参加している。発言は次であった。

「発足して2か月位です。全障連が結成されたころ、私自身が中途障害者になってみて、差別の重みがわかってきた。やはり障害者差別に対する運動をしなければと思い、学生時代の友人で教員とか近所に住む知恵おくれの子を持つ親とかと話しながら、近所にある精神病院と重度精神障害者の施設があり、そこの職員にもっと障害者の側の立場をとらえて、その職業にあたれというような呼びかけをして何回か交流会をもちやっと会をつくった。その中でやっているのは在宅訪問と教員の意識を変えることです。私自身も障害者になったといっても、まだまだ障害者を差別しているというのは持っていると思うんです。もっともっと正面から真剣に障害者の告発とか差別していないということ自体が、差別をしていることを知らないでいっている部落解放運動とか民族差別解放運動をしている人々が障害者差別の言葉を平気で使う。養護学校の教員とか施設の労働者は使っている。外へ出ようというのは障害者に体当たりしようという意味も含んでいるのですが、あらためて自分達一人一人のエゴをまずやめようというところでやっています。」(全国障害者解放連絡会議[1978:98])

近所にある精神病院と重度精神障害者の施設とは、新潟信愛病院(青山信愛会)と十字園(更生慈仁会)を指していると思われる――会田の経営する喫茶「けやき」からは徒歩で5分ほどの場所にある――が、広島は後に更生慈仁会が運営する青松学園で働くことになる。

三里塚闘争を経て新潟へ

全障連第2回大会で障害者運動と出会った広島であったが、そのまま障害者運動の世界に入ったわけではなかった。広島はこの時期、三里塚闘争に参加していた。三里塚闘争とは、成田空港の建設を阻止しようとする運動のことである。  1977年1月、当時の福田内閣が「年内開港」を宣言、闘争は激化する。1977年4月17日には1万7千人を超える――正確な数字は分からず2万人という説もあるが、これは三里塚闘争史上最大のものであった――反対派が集まった決起集会が開かれている。広島[2012:6]は1977年5月7日の「妨害鉄塔」を当局側が「闇討ち的撤去」によって倒したことに始まる一連の動きについて触れた上で「私はもちろんその渦中にいました」と述べている。  この三里塚闘争の中で、広島に「一大事件」が起きた。

「二月の要塞攻防戦の後、三月開港実力阻止のために、要塞に籠城し徹底抗戦する部隊を支援の全党派で編成することになります。私は、自分もその一人に入るものだと思っていました。当然逮捕は覚悟の上、下手をすれば命が、ということなのですが、当たり前のこととして徹底抗戦部隊に入るつもりでいました。しかし、思わぬ耳珠から、その籠城メンバーから外れることになります。でも、それで良かったのです。もしその部隊に入っていたら、私は妹の死に目に会えなかったのですから・・・。」広島[2012:7]

1978年3月10日、広島は祖父の死の知らせを受けて新潟に帰省していた。葬式を終え13日、妹の利美が吐血し、即入院となる。同日、利美が逝去。12歳だった。このとき、広島は24歳である。広島は次のように振り返る。

「僕は自分がやっている闘いは、ひいては『障がい者の解放』にもつながるのだという想いを抱いていました。妹からは帰省する度に『とうきょうに行かないで』と言われ、そう言われながらも、活動のために闘争の場に舞い戻っていました。妹の急死に僕の思考は停止しました。」広島[2012:8]

広島は妹の死後、三里塚で1年間暮らしている。その時の暮らしについて、広島は次のように述べている。

「三里塚での生活は1年間だけでしたが、今から思い起こすと、とても思い出深く、また、随分助けられました。と言うのは、まだ妹を亡くした僕の悲しみは癒されることなく、一人になると必ず涙を流していたからです。」広島[2012:8-9]

2-4. 「施設解体」のために福祉業界へ――青松学園へ入職

妹の死を経て、広島は新潟に戻り、障害者運動に関わろうと決意する。在籍していた明治大学は学費を未納のため中退となった(広島[2012:8])。  新潟に戻った広島は「家業」を手伝いながら就職活動をした。父親がダウン症児の親の会である「小鳩会」の新潟支部の事務局長をしていたこともあり、その事務局長の仕事も手伝っていた――小鳩会の新潟支部は広島の親が立ち上げた「ようなもの」で、妹が亡くなるまでは父親が事務局長をしていた(広島[2012:13])。  時期は定かでないが、この頃、広島は黛正(まゆずみ ただし)★04に出会っている。黛は次のように語っている。

「なんか広島さんは妹さんがダウンだったんだよね。ほいで最初ね、広島さんよりは広島さんのお父さんが広島せいいちっていうんだけども、でその人が小鳩会っていう新潟県のダウン症の親の会の会長さんやっていて。でそのおやじさんがあれだな、おれがときどき福井達雨を呼んで講演会開いたりしたときに彼が来ていてね。ほいでそのお父さんと最初に知り合いになったんだけれども」(黛[2022i])

出会いは黛が主催した講演会――福井達雨(ふくい たつう)★05がゲスト講師だった――に参加したことである。黛は「はまぐみ」から直行して「白衣姿」であったことから、新興宗教の祖としか見えなかったという。もう一つ、黛の主催する映画会にも参加した記憶があると広島[2012:13]は述べている。広島が新潟に帰郷するのは1978年であるが、黛がはまぐみに入職したのが1979年のことであり、篠原を講師に迎えた講演会というのは1979年以降に開催されているはずだ。広島と黛の出会いはすくなくとも1979年以降のことであろう。  その後、あるいは同時期に、広島は会田きよみ(あいだ きよみ)にも出会っている。会田が全障連第2回大会に参加していたことは前述した。広島[2012:13-14]は、会田に出会った頃の時系列をよく覚えていないと述べた上で、会田との出会いは社会福祉センターの会議室で、おそらくは「障害者の生活を支える会」の立ち上げのための会議であったのではないかと述べている。  この頃、広島は次の目標を持っていたという。

「第一に、新潟の障害者運動と繋がること。第二に、「親の会」の活動とも繋がりを持てるようにすること。そして第三に、福祉労働者となり、障害者運動と連帯ができる福祉労働運動を作り出すこと」(広島[2012:15])

そのために広島は福祉施設に入ろうとする。そのターゲットが社会福祉法人「更生慈仁会」であった。  この更生慈仁会について、その概略を述べておきたい。更生慈仁会のHPに掲載された「沿革」(更生慈仁会[不詳])によると、大正2年(1913年)に新潟精神病者慈仁会が設立される。これを前身とするのが現在の社会福祉法人更生慈仁会である。  この「精神病者慈仁会」には、明治44年(1911年)に開設された新潟脳病院が関わる。呉秀三[2012:105]は次のように新潟脳病院を記す。

「新潟脳病院(新潟縣西蒲原郡板井輪村大字平島)ハ、明治四十四年七月醫師長谷川寛治の設立ニカカリ、其敷地三千餘坪、西洋造二階建一棟、平屋造四棟、病室三十個、収容定員六十人(男三十、女三十)、現収容数二十一(男十六、女五)、職員醫員二、薬局員二、事務員一、看護人八ナリ。管理者醫學士長谷川寛治(明治十七東京大學醫學部卒業、同年石川県甲種醫學校教諭兼金沢病院内科醫長、幾ナク新潟醫學校教諭兼附属病院長、二十年新潟醫學校長、二十一年新潟区病院長、二十三年私立長谷川病院設立、現在新潟県醫師会長たり)ニシテ、醫長は醫學士大成潔(明治十八年生。明治四十二年東京帝國大學醫科大學卒業、四十三年二月同醫科大學副手兼東京府巣鴨病院醫員嘱托、四十四年七月本院院長となる)ナリ。」(呉秀三[2012:105])

ここには新潟県医師会会長であった長谷川博治が、明治44年(1911)に開設したのが新潟脳病院であると述べられている。この新潟脳病院は、昭和28年(1953年)に医療法人青山信愛会が運営する「新潟精神病院」へと改組・名称変更されている(青山信愛会[不詳])。  新潟脳病院が青山信愛会「新潟精神病院」となる3年前に、昭和25年(1955年)に財団法人新潟県更生慈仁会が設立される。更生慈仁会[不詳]には次のようにある。

「昭和2525年 財団法人新潟県更生慈仁会に組織変更  会長 長谷川 寛 木造収容舎、事務所、作業場等を建築し、精神病院退院者を収容して、農耕、牧畜等の作業指導を行い、更生自立を援助」 (更生慈仁会[不詳])

財団法人「新潟県更生慈仁会」の理事長は、長谷川寛である。定かではないが長谷川寛は、新潟脳病院を設立した長谷川寛治の息子であると思われる。すなわちこの「精神病院退院者」とは新潟脳病院のことを主に指している。つまり更生慈仁会とは新潟脳病院の患者の更生自立を主たる目的とした組織である。新潟脳病院があったという(現在の)新潟県西区平島から、更生慈仁会がある新潟県西区上新栄町まではおよそ4kmである。  昭和44年(1969年)に新潟県新潟市を流れる信濃川の分水路を構築するための工事が始まる。新潟脳病院がある「平島地区」はまさしく、その分水路の起点であり、移転を余儀なくされる。そこで移転したのが、新潟県西区上新栄町であった。つまり、昭和44年の時点で「更生慈仁会」と新潟脳病院を前身とする「新潟精神病院」は同じ場所に所在することになった。  昭和48年(1973年)、社会福祉法人更生慈仁会へと変更される。同年、精神薄弱者授産施設(通所)の「青松学園」が上新栄町に開設される。7月1日のことである。その翌年、昭和49年(1974年)には精神薄弱者更生施設「十字園」も開設される。その後、更生慈仁会は保育園、児童更生施設、障害者の作業所、老人福祉施設、知的障害者グループホーム、知的障害者グループホームなどを有する大規模な法人になっていくが、その歴史についてここでは触れることができない。  また、新潟精神病院ではツツガムシ接種事件というものも起きている。厚生省医務・公衆衛生局[1953]には次のことが書かれている。厚生省医務・公衆衛生局[1953]は、厚生省が新潟県知事に宛てた勧告である。

「貴管下医療法人青山信愛会新潟精神病院に入院中の精神病患者に対して恙虫病原体を接種した事件については、衆議院文教委員会及び日本弁護士連合会においても人権侵犯の疑ある事件としてとりあげられたところであるが、当局における調査の結果は左記のとおりであって甚だ遺憾であると認められるので、今後再びかかることのないよう新潟精神病院長及び新潟大学医学部長に対して貴職から十分注意されたい。」(厚生省医務・公衆衛生局[1953])

このツツガムシ事件は、新潟精神病院に入院していた精神病患者に対して、ツツガムシ(マダニの一種)の病原体を注入することで、発熱効果による精神病の治癒を狙ったものである。当時未認可の薬が使用されたこともあり、人権侵犯の疑ある事件として国会で取り上げられるに至った。  広島の話に戻る。広島が就職したのはこの更生慈仁会の「青松学園」である。広島がこうした歴史、事件を知って更生慈仁会に入ろうとしたのかは広島[2012]からは定かでないが、次のように述懐している。

「福祉施設職員への道の一番のターゲットは更生慈仁会でした。中村与吉さんには、妹が小さいときに「明正学園」などでお世話になっておりましたので、親を通して挨拶に伺いました。そして、幸いにも七九年の秋も深まりを見せた頃、Mさんの産休代替えとしてお声掛けを頂いたのです」(広島[2012:14])

広島が挨拶をしたという中村与吉(なかむら よきち)は、白根市役所[1992]によると次のような人物である。1917年生まれ。1974年更生慈仁会「十字園」に就職、その後更生慈仁会理事などを歴任した。広島は「明正学園」でお世話になったと述べているが、これはおそらく誤植である。正しくは「明正園」で、これは新潟市が運営する知的障害の入所施設である。中村もこの「明正園」で職員をしていたことがある。明正園の開設は昭和32年(1957年)であるから、辻褄が合う。中村は全日本精神薄弱児育成会が発行する『手をつなぐ親たち』に「新潟市立明生園園長」という肩書で、いくつかの寄稿をしている。例えば、1957年9月14日発行の『手をつなぐ親たち』No.18には「新潟市立「明生園」の誕生をめぐって 思いつくままの記」(中村[1957])という題で寄稿をしている。  1980年の1月から広島は入職する。配属されたのは青松学園だった。青松学園とは前述したとおり、社会福祉法人更生慈仁会の施設で、いわゆる「精神薄弱児授産施設」に当たる通所施設である。通所していた利用者の性格がどのようなものであったか、つまりどの程度の範囲からどの程度重度の「精神薄弱」児が通所していたかなどは定かでない。広島は「まだ『福祉業界』が全くマイナーな時代でしたから、僕のようなものがもぐり込めたということでしょう」(広島[2012:14])と述べている。  もっとも、広島はこの青松学園を「敵」と見なしていた。

「就職後は、”敵情視察”を兼ねて、福祉施設職員としてのある程度の恰好をつけるため、愛護協会の通信講座を受講したり、社会福祉主事というお飾りの「資格」を取ったりします。それは、ひとえに「施設」というものを批判する根拠を探るためでした。全障連は、福祉施設とりわけ「収容施設」(昔はこういう言い方でしたよね)を「隔離・抹殺の地」であると規定し、「施設解体」をスローガンとしていました。この「施設解体」も、今でこそ一般的に言われるようになりましたが、あの頃「施設解体」を主張するものは即「過激派」と見なされました。まあ、事実そうなのですが、それで困るのは、そうレッテルを貼られるとそこで対話の余地が失われてしまうからなのです。僕も、とりあえずそんな「過激なこと」を口にするのは慎みました。前述したように、まずは福祉職員としての体裁をとり、来るべきチャンス?を待つことにしたのです。」(広島[2012:14])

2-5. 障害者解放闘争に連帯する福祉労働運動というもくろみ

新潟へ帰郷した広島の目的は3つあった。

「第一に、新潟の障がい者運動と繋がること。第二に、「親の会」の活動とも連携を持てるようにすること。そして、第三に、福祉労働者となり、障害者運動と連帯ができる福祉労働運動を作り出すこと。この三点が基本でした。  更には、僕が開始しようとした運動は「障害者のための福祉」ではなく「障害者差別との闘い」でしたから、反差別闘争と言えば、部落解放闘争がその先頭を切っていましたので、その部落解放闘争との連携も十分考慮に入れるべき事と考えていました。」(広島[2012:15])

障害者運動とのつながりについては、広島は黛正との繋がり(具体的には講演会を開くなど)があった。また、何年であるかは分からないが、東京大学で学生運動をしていた黒岩秩子(くろいわ ちづこ、1940年生、旧姓は北大路)経由で、最首悟の講演会も新潟で行っている。親の会との連携もこうした講演会を通じて模索していた。  福祉労働運動については、広島は職場(青松学園)において労働組合づくりを行おうとしていた。2度、労働組合づくりを試みている。一度目は、おそらくは1983年頃であるという(広島[2012:16-17])が、失敗に終わる。  この頃、広島は黛正と行動を共にするようになる。

「そんなことで、前述した「共に生きる教育を求める新潟県連絡会」の就学運動を始め、「福祉を考える会」という学習会を一緒にやったり、「『共生』の窓から見えるもの」と銘打った連続シンポジウムを開催したりしていきます。篠田さんともその過程で出会うのですが、ほんとに親しい付き合いが始まるのは我が家が女池から現在の場所に移ってからのことでした」(広島[2012:18-19])

共に生きる教育を求める新潟県連絡会は、前述の会田きよみ、黛正と活動していた組織である。その活動の詳細は分からないが、北村小夜編『障害児の高校進学ガイド――「うちらも行くんよ!」14都道府県の取り組み』(北村編 [1993])に、共に生きる教育を求める新潟県連絡会名で「新潟における障害児の高校進学問題をめぐる動き」という文章がある。  ここで述べられている「篠田さん」とは篠田隆(1959年生)のことであろう。篠田自身については、篠田の「新潟市における障害者の運動の歴史」(篠田[2001: 081-088])や、インタビューの篠田隆・篠田恵[2019i]に詳しい(篠田[2019])。  篠田は幼少の頃から新潟県にあるはまぐみ学園に入所していた。入所したのは1967年、9歳のときである。篠田ははまぐみ学園の園長に「[...]友達が欲しいんですけれど、誰かいませんかね」と聞いたところ、当時新潟大学医学部で医学生をしていた黛を紹介された(篠田 [2001:81]。その園長というのは、当時、はまぐみ学園の施設等をしていた医師、倉田久介である(黛[2000:9])。黛は「[...]そろそろ思春期に入り人生の問題で悩んでいるので、友達というか相談相手になってやってほしいと倉田先生から言われ付き合い始めました」(黛[2000:9])と述べている。その後、黛は篠田が自立生活をする手助けをすることになる。本稿で書きうる部分に関しては後述し、黛のことに関しては別稿を設ける。  この時期、つまりは1980年代後半頃、広島は全障連の大会にも何度か参加している。具体的には「滋賀、長野、高槻」(広島[2012:19])とある。滋賀は1988年7月29日から31日に滋賀大学教育学部にて行われた第13回だと思われる。こうした動きの中で新潟の障害者運動を決定づける高橋修との出会いがあった。

2-6. 高橋修との出会い

1980年代後半から1990年頃に広島、篠田、黛らは高橋修に出会っている。高橋修は新潟県長岡市に1948年に生まれ、1999年2月27日に死去した人物である。高橋については立岩[2020]の第9章「高橋修 一九四八~一九九九」に詳しい。ここで触れておかなければならないのは、高橋が1991年に自立生活センター立川(CIL立川)を代表として立ち上げたということであろう。広島は次のように述べている。

「上記のように、高橋修さんの「動き」を追うように我々も進んで行きました。まあ、簡単に言えば「広域自立集団・高橋組系篠田組」といったところです」(広島[2012:20])

新潟の障害者運動は、篠田の「動き」を追うようにして自立生活センターを立ち上げていくことになる。高橋との出会いについては定かでない。広島は「九〇年前後の年に行われた大阪大会」に広島は参加していなかったが、篠田と黛が参加し、ここで彼らが高橋修に出会っていると述べている(広島[2012:19])。他方で、篠田は別のことを語っている。

「はじめ黛さんを通じて付き合っていたが、高橋さんと親しくなった。そりゃそういうことか。じゃあ黛さんは高橋さんのこと知ってたってことですよね? 篠田隆:はい。 立岩:なんで知ってたんだろ、黛さんは。黛さん、なんだろ? 高橋さんも25ぐらいまでたぶん家からほとんど出ないような暮らしで、 篠田恵:そうですよね。 立岩:で、そのあと関東のほうに行って。だから新潟の人との直の付き合いって、っていうか例えば黛さんってなんで知ってるんだろ? 篠田恵:彼は、この方は、黛さんに連れられて85年くらい大阪の集会で、 立岩:85年に集会に行った? 篠田隆:共同連。共同連。 篠田恵:出会ったっていう。 篠田隆:そこで出会ったの。 立岩:どこで会ったって? 篠田隆:そこで、大阪の共同連の、 立岩:大阪で共同連の集会があって、 篠田恵:黛さんと。 立岩:黛さんと一緒に行ったってこと? 篠田隆:はい。そこで高橋さんと。 立岩:なるほど。そこで高橋さんに会った。ちなみにその時に黛さんはその前から高橋さんのこと知ってたのか、そこで会って、 篠田隆:いや、そこで会って。 立岩:で、会って話したら高橋さん実は長岡の出身でみたいな、新潟県人だってことがわかったみたいな。 篠田恵:私が聞いてたのは、その前に黛さんは高橋さんと会ってて、 立岩:共同連の前に? 篠田恵:はい。高橋さんに会わせたくって共同連の集会に連れてったみたい」(篠田・篠田[2019i])

広島の理解では1990年頃の全障連大会で篠田と黛が高橋と出会ったということになっている。しかし、篠田の理解では、そもそも黛が高橋と知り合いで、黛は篠田を高橋に会わせるために1985年に行われた共同連の大阪大会に連れていったということになっている。どちらの理解が正しいかは分からないが、1980年代の後半ごろに高橋と出会っていることは確かであろう。

2-7. CIL新潟の設立へ

高橋修との出会いの後、新潟における障害者運動の「号砲」となったのは、1991年に上越市で起こった母親を亡くした在宅障害児の餓死事件だった。この事件について篠田は次のように説明している。

「この事件はヘルパーも頼んでいない母子家庭で、母親が脳卒中で倒れてそのまま亡くなり、残された障害児が食事を取ることもできずに、十日後くらいに亡くなってしまったという大きな事件だった。その頃、上越市ではヘルパー制度は週に二回派遣で、一回の派遣では二時間程度のものだった。」(篠田[2000:86])

広島らはまずこのことに対する行政の責任を問う運動を行った(広島[2012:20])。そしてその闘争は「具体的な障害者の自立生活への行政の支援策を求めて行く取り組みへと連なって行った」(広島[2012:10])。  1995年、CIL新潟が設立される。代表は篠田である。これについて広島は次のように述べている。

「新潟では篠田さんを中心に、と言うか、私とまゆずみさんが篠田さんの背中を押して(と言うとまだ聞こえは良いですが、背中を押しながら尻を蹴飛ばしていたかな?!)「介護保障を考える会」というものを作り、それがCIL新潟の母体となって行くのです」(広島[2012:20])

2-8. CIL新潟とその後

この当時、広島は次のような目論見を持っていた。

「当時の私の目論見は、まず確固とした障害者運動を確立し(自立生活センター)、それを柱としてそれに連帯する福祉労働者の組合を作ること(福祉ユニオン)。そして、そうした障害者運動と福祉労働者の協働した取り組みを地域政党(市民新党にいがた)が政策として、市政・県政に反映させて行く、という考えでした。」(広島[2012:21])

福祉ユニオンについては、広島は勤務先である更生慈仁会だけでなく、県内の福祉労働者が個人加盟する形での設立を望んでいた。ここで連携していたのは全日本自治団体労働組合(自治労)で、社民党で新潟市議になった室橋春季(1999年に当選)がサポート役についていた。しかし、自治労との連携はあるきっかけで崩壊する。  広島は「市民政党にいがた」を1994年に立ち上げていた。これに広島がどのように関わっていたかは広島[2012]には述べられていないが、自治労は広島が「市民政党にいがた」の構成員であることを知り、両者の関係は決裂するに至る(広島[2012:21-22])。  これは広島にとって、障害者解放運動に連帯する福祉労働運動を立ち上げる目論見に失敗したことを意味した(広島[2012:22])。しかし、広島は「なんと言っても確固とした障がい者運動をこの新潟においても根付かして行くことが柱」だとして、CIL新潟の運営委員として参加することにしたという(広島[2012:22])。  しかし、立ち上げからまもなく、介助スタッフと障害当事者の間に軋轢が生じ始める。広島は次のように述べている。

「その頃私は、頻繁に篠田宅に顔を出し様々な相談に乗っていました。篠田家の二人の子どもの愛慈保育園への送迎をうちの子どもの送迎のついでに行ったり、まさに家族ぐるみの付き合いでした。しかし、その相談事の中身がCIL新潟の運営に関することが多くを占めるようになり、ついには「やめたい」とまで愚痴をこぼすようになってしまっていたのです」(広島[2012:22])

このような状況の中で、広島は1996年12月に更生慈仁会青松学園を退職する。このことについて広島は、そもそも福祉労働者の組合を作る目的で更生慈仁会に入っているのに、それが頓挫した以上はそこに居る意味が「大分削がれてしまった」と感じたと述べている(広島[2012:22])。そして、CILでの活動に軸を移すために、1997年12月にCIL新潟に就職をする。  広島[2012]は、更生慈仁会を退職した時点で記述が止まっている。その後のことは、ほとんど分からない。広島[2012]の末尾にある略歴によれば、CIL新潟に就職した3か月後の1998年2月に脳梗塞を発症する。2002年にCIL新潟を母体として「スペースBe」(いわゆる小規模作業所)が設立される。2006年にはNPO法人として「スペースBe」が独立し、広島は理事長になっている(広島[2012:45])。そして、2012年6月30日、広島は亡くなった。58歳であった。

3. 考察

3-1. 運動のために施設の職員になる

広島が障害者運動に参与した経緯とその動機について考察する。広島[2012]はあくまでも広島自身が自伝的に著したものに過ぎないことは留意したい。  障害者運動との接点を最初に持ったのは、おそらくは明治大学で行われた全障連の第2回大会である。1977年のことだった。それ以前には直接的な接点は持っていなかったようで、広島の自意識としては新左翼活動家というような意識が強かっただろう。三里塚で11年住んでいたこともあるし、逮捕され、ときには死すとも構わないとして「決死隊」に入ろうともしていた(広島[2012:7-8])。同時期に広島のダウン症の妹である利美が逝去した。このことが広島を障害者運動に関わる直接的な契機になったようである。広島は次のように述べている。

「まぁ、そんなことで、一九七七年から七八年にかけては、全障連大会での「障害者解放闘争」との遭遇、三里塚の激闘、そして帰郷の決意と、まさに僕の人生の一大転換期だったのです。 そして、新潟に帰ったら障がい者運動に関わろう。障がい者に一番多く接することができる場所、それは福祉施設。できたらそこの職員になろう、という想いを胸に帰郷したのでした。」(広島[2012:8])

ここに述べられている通り、広島の意識としては、障害者運動に関わるために「福祉施設」に入ろうということだった。広島が結果として入った「青松学園」は前述の通り、知的薄弱児者のための施設だったから、身体障害者の運動というよりも別の意識があったのかもしれない。妹がダウン症であったことから、知的障害者の施設からの解放という意識があった可能性も高い。それは広島[2012]からは定かでない。  広島は、自身の目論見として障害者運動に連帯する福祉労働者の運動という語用を選んでいる。あくまでも自分自身の運動としては、障害者の運動に連帯する、別の運動という意識が強かったことが見て取れる。  おおまかに言えば、広島は障害者運動と出会い、とくに妹の死に強く影響され故郷である新潟に帰郷することになる。そこで広島は自分自身の運動として、福祉労働者の労働運動(直接的には労働組合の設立)を図る。その運動は障害者運動と「連帯する」運動であって、独立したものであるという意識を広島は持っていたようだ。しかし、それは失敗し、晩年はCIL新潟の活動に力を尽くしたようだ。  こうした運動のために施設の職員になり、それは具体的に障害者運動との連帯を意識しているというケースは少なからずあっただろう。広島のように具体的に「施設解体」を掲げ、そのために施設に「もぐりこんだ」というケースがどこまであったのかは不明ではあるが、少なからずあっただろうと考えられる。

3-2. 学生運動とそのあと

三里塚闘争などの障害者運動以外の課題に取り組み、そこから離れ、障害者運動に参与するようになるケースは他にもあっただろう。前述した大賀重太郎や小林敏昭はそのケースであると言える。非常に大きく言えば、広島もこのケースに入ると言ってよい。  しかしそこにはやはり差異がある。それを便宜的に整理すると、次のように分けられるだろう。ただし、これらは厳密に分けることはできない。新左翼セクトにいたが、ノンセクトラジカルになり、その後は障害者運動にというケースも多くあっただろうし、その反対もあるだろう。

A)新左翼セクト運動→障害者運動 B)新左翼ノンセクト運動→障害者運動 C)セクト/ノンセクト運動そのものを忌避→障害者運動

広島はおおむねAのケースであると言いうる。広島がどこまで「セクト」の一員であるという意識を持ち続けたかはわからない。しかし、新潟に帰郷するまでセクト活動家であったことは事実であり、その後も広島の追悼集がそうしたセクト時代の人脈から発行されたように交友関係は持ち続けた。他方で、小林敏昭の場合はBのケースである。  また一概に障害者運動といっても多様な形がある。健全者運動と呼ばれるような障害者運動の近傍で活動する形もあっただろうし、他に所得を得るための仕事をしながら細々と運動に関わり続ける道もあった。また広島のように施設解体を目指して福祉施設に入るということもその道の一つであった。こうしたケース分析はより精緻に行われるべきものであろうが、本稿の趣旨はそこにないためここまでに留め、今後の課題としたい。

4. おわりに

本稿は障害者運動に関わった者の道筋を辿ろうとする試みの、一部分である。広島はやや特異な人物であると言いうるかもしれない。少なくとも、広島のような経験を持ち同じように志した者は新潟にはいなかったようである。  学生運動における志や熱量を障害者運動に持ち込み、そこで闘おうとした者は多くいた。そのように考えることは、これまで蓄積されてきた研究や資料によって確かだと言えよう。しかしながら、その道筋を追い、運動の中の差や一人ひとりの差を見ていくことは十全に行われてきたとは言い難い。本稿は一部分ながらそれを試みたものである。  今後も一人ひとりの跡を追い、学生運動と障害者運動の間がどのように架橋されたのか、あるいはそこに断絶があったのかを明らかにしていく。