2022年、天瀬裕康(渡辺晋)さんからの寄贈 ───生存学研究所における資料受け入れの取り組み 中井 良平(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
2023.02 『遡航』006号 pp.2-8
アーカイブ、天瀬裕康(渡辺晋)、『医家芸術』、生存学研究所、式場隆三郎
要旨

立命館大学生存学研究所では長年アーカイブ活動を続けており、とりわけインタビュー記録と紙媒体資料の蓄積はかなりの量となっている。昨夏も重要な資料の寄贈があったが、保管のための物理的なスペースはなくなりつつある。他方で、紙媒体の資料は、情報のデジタル化以前の印刷物という保存形態の特性から、整理・参照が容易ではなく、寄贈に携わった少数の関係者がその内容についていくらか知っている、という状態のまま置かれていることが多い。そのままでは当然、関係者の入れ替わりにより、その資料がどのようなもので、誰から、どういった経緯で寄贈されたのかがやがて忘れ去られてしまう。そこで本稿では、天瀬裕康(渡辺晋)さんからの寄贈資料のうち『医家芸術』について、天瀬さんのご経歴に触れながら紹介するとともに、同誌の過去の研究利用/将来の利用可能性について見ていく。

0. はじめに

筆者が所属する立命館大学生存学研究所では、所長である立岩真也が指揮を執り、「生を辿り途を探す───身体×社会アーカイブの構築」と銘打った、幅広いアーカイブ活動を行っている。長年の活動により、とりわけインタビュー記録と、紙媒体の資料の蓄積はかなりの量に及んでいる。後者に関しては、大学施設内で使用できるスペースに限りがあるため、大きな物理的制約を受けざるを得ず、今後の受け入れに際しての喫緊の課題となっている。実際のところ、スペースにはもう余裕がなく、資料の設置箇所は通路にまで及んでいるという状況である。他方で、重要な資料群の寄贈は続いており、今年度は、筆者が仲介したものだけでも、故・母里啓子さん(国立公衆衛生院疫学部感染症室長)収蔵資料、天瀬裕康(渡辺晋)さん(核戦争防止国際医師会議日本支部理事)からの寄贈があった。本稿では、母里さんのご遺族と天瀬さん、寄贈に尽力いただいた方々に感謝を申し上げるとともに、天瀬さんとその資料について、簡単にではあるが、ご紹介したい。なお、天瀬さんは、本名の渡辺晋でも執筆活動などを続けてこられたが、1988年以降、「天瀬裕康」の名義での活動を広く行なっておられ、本稿では天瀬裕康さんの呼称を用いる。本稿でご紹介する天瀬さんのご経歴は、これまで筆者がご本人から伺った話や、2019年に中国新聞に掲載された天瀬さんへのインタビュー記事★01をもとに、執筆に際しご本人に確認・付記いただいたものとなる。

1. 天瀬裕康(渡辺晋)さんについて

天瀬裕康さんは1931年に広島県呉市に生まれた。原爆投下時は広島県安佐郡飯室村★02(広島市街から直線距離で20キロ)で被爆者の救護にあたり、自身も救護被爆者(3号)。その後、岡山大学で学び医師となる。長年、広島県大竹市で開業医として活動し、2021年に閉院。現在も、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)日本支部理事(渡辺晋名義)を務めている。また、SF作品に傾倒し、星新一・小松左京・筒井康隆らが作品発表を行ったSF同人誌、『宇宙塵』(1953-2013)において、同誌の初期から同人活動を行なった。その後も自身でのSF同人誌の主催、『SFマガジン』(早川書房)での「科学読物」連載など、精力的な活動を続け、自身のSF小説の出版も行なっている。1969年には、SFファンによる表彰「日本SFファンダム賞」を受賞(渡辺晋名義)している★03。また、自身の関心に基づく調査と執筆をライフワークとし、多岐にわたるジャンルにおいて、執筆(多くは自費出版)を続けて来られた。例えば、後述する『「医家芸術」目録(抄)』(渡辺晋名義)や『ジュノー記念祭』、作家の梶山季之についての評伝『梶山季之の文学空間』などでは、調査に基づいた執筆を、『異臭の六日間』では自身の被爆体験に基づいた文学作品を残されてきた。ここでは紹介しきれないのだが、ご本人からお送りいただいたそれら作品のリストを生存学研究所サイト(http://www.arsvi.com/w/ah09.htm)にて掲載しているので、ご覧いただきたい。  天瀬さんと筆者は、筆者の祖父が主宰していた文藝同人誌『広島文藝派』に天瀬さんが長らく参加されていたという縁で知り合った。前述の『異臭の六日間』は1996年に同誌に掲載された表題作を含む8編の物語から成る原爆文学となっている。  天瀬さんが戦中を経験した呉は、軍港と海軍工廠★04を備えていたために、繰り返し空襲の標的となった。1945年には14回もの空襲を受け、2000人以上の民間人が亡くなり★05、7月1日の呉市街空襲で街は壊滅的な被害を受けた。学徒動員先の呉海軍工廠から自宅に戻り就寝中だった天瀬さんは空襲警報で自宅から防空壕、山へと逃れ、一命をとりとめた。呉市によると、この空襲で市街の大半が焼失したという★06。天瀬さんは避難の途中、倒壊する建物の柱により火傷を負い、その後体調を崩し、親類が住職を務める飯室の寺で療養することになる。この時天瀬さんは旧制呉一中の2年生だった。  8月6日、音と振動、「クラゲのような雲」、そして黒い雨として、当初原爆の投下は飯室の天瀬さんに経験された。やがて、原爆で火傷を負った重症の人々がトラックで寺に運び込まれてきた。人々は次々に息絶え、天瀬さんはその遺体を大八車で運んだ。本堂には負傷した人々が収容され、そこから漂ってくる例えようのない匂いが、強烈な記憶として天瀬さんに残ることになる。  SF作品の執筆に傾倒する一方、天瀬さんは長い間自身の被爆体験について書くことができずにいた。その記憶を思い出すのはひどく辛いことだった。1983年に『中国新聞』に掲載された26遍の掌編小説では、核兵器について僅かに触れたが、自身の具体的な体験について書くことができるようになったのはもっと後、天瀬さんの中の戦争の記憶が薄れはじめた頃だった。同時に、天瀬さんは人々の戦争についての記憶が風化していくことに危機感を抱き、歳を重ねながら、執筆意欲は衰えるどころかますます旺盛になっていく。『異臭の六日間』が出版された2016年には、『核戦争防止国際医師会議(IPPNW)私記』(中国新聞社事業情報センター)も記し、同書は2019年には『Private Record of IPPNW』として英訳された。

2. 天瀬さん寄贈資料について

2-1. 『医家芸術』

ここまで短く天瀬裕康さんについてご紹介してきたが、次に、今夏に天瀬さんから寄贈いただいた資料について触れたい。  天瀬さんが長年住まわれた大竹からのご夫婦での転居に伴い、今回多くの書籍・資料を寄贈いただくことになった。いずれも貴重なものであるのだが、現時点で資料の整理にあたっている筆者は医学文献について明るくはなく、僅かではあるが、ここでは社会科学的な観点からの紹介を行いたい。  おそらくまとまったコレクションとして国会図書館を除けば最大のものとなっているのが、1957年から続く医師たちの文藝誌、『医家芸術』である。同誌は、精神科医の式場隆三郎を初代委員長として創刊された。次項で先行研究における『医家芸術』の扱いを見ていきたい。

2-2. 先行研究における『医家芸術』

それ以前については不明であるが、研究論文に関する情報がWeb上で参照できるようになって以降、『医家芸術』および同誌を主催する「医家芸術クラブ」について言及した論文は極めて少数に限られており、筆者が見つけられたものは僅かに2本のみだった。西脇[2022]と河内[2009]である。前者は日本点字図書館創立70周年の節目に際し、同図書館の後援を行った式場に着目し、式場が亡くなり寄稿が止まる同誌100号までの誌面上の、同図書館に関連する記事を調査したものである。後者は昭和の画家・山下清のメディア等での語られ方を分析したものであるが、「天才画家」としての山下を世に広めた式場と、医家芸術クラブについて言及が行われている★07。  西脇が掲載した資料(『医家芸術』掲載記事)によれば、『医家芸術』創刊初期という時期は、日本点字図書館の設立者である本間一夫と式場が協力し、式場が同図書館の後援会長となり、文藝春秋社とソニーの協力のもと各地に「耳で聞く文芸(原文ママ)春秋のテープ」が送られはじめる時期と重なっていた(西脇[2022:38-46])。『医家芸術』では、式場からのその経過の報告や、本間による寄稿が行われていたことが発見され、これまで十分に明らかになっていなかった二人の接点や協力の経緯について、いくらか輪郭が与えられたという(西脇[2022:46-50])。

2-3. 医師たちの意見表明の場としての『医家芸術』

 西脇によれば、1953年にオランダのハーグで開かれた「国際医家美術展」で日本の出品作品が一位に選ばれたことが『医家芸術』創刊の契機となったそうだ(西脇[2022:51])。1954年には当時日本医師会副会長の武見太郎(1957年から会長)、美術展の世話役だった式場隆三郎らが集まり、「日本医家美術協会」「日本医家芸術クラブ」が結成され、3年後に『医家芸術』が創刊される流れとなった(西脇[2022:51])。  『医家芸術』については、天瀬さんが2003年末までの網羅的な目録『「医家芸術」目録(抄)』を作成・出版されており、あわせて寄贈いただいている。それによれば同年までに47巻12号、通巻554号が刊行されている。そのタイトルや創刊の経緯から、医師らの芸術活動に特化した紙面になっていると想像されるかもしれないが、天瀬さんの分類(渡辺[2004:11])によると、「座談会」「随筆」「評論・論説」のコーナーが毎号かなりの部分を占めており、会員である医師らが、芸術に限定されず自身の考えを表明する場としても、同誌が機能していたことがわかる。例えば、1957年9月の第1号では「あなたは癌を避けられるか」のテーマで(渡辺[2004:12])、15号(1958年11月)では、橋本龍伍・武見・式場によって「厚生大臣を囲んで」(渡辺[2004:15])、138号(1969年2月)では和田寿郎が参加し「心臓移植をめぐつて(目録のママ)」(渡辺[2004:46])、234号(1977年2月、特集「安楽死」)では太田典礼が参加し「安楽死を語る」(渡辺[2004:77])といった座談会が開かれている。  前述の通り、武見は同誌の刊行に関わっており、1970年代後半まで頻繁に紙面に登場している。和田寿郎が参加した座談会は1968年11月に行われており、これは同年8月の和田による「心臓移植事件」から日が浅い時期のものである。筆者が所属している生存学研究で行われてきた数多くの研究・アーカイブ成果のひとつとして、植村要による同事件関連資料の情報収集があり、その一部に和田に関連する資料の一覧が作成されているのだが、同対談はリストから漏れている★08。過去の研究論文やその他Web上にも同対談に関する情報は見つけられず、同対談は研究者に未発見の和田関連資料である可能性がある。

3. 考察

式場と深い関わりがあり創刊時から寄稿を行っていた日本点字図書館創設者の本間と『医家芸術』の関わりを、またそこで自身の組織について言及されていたことを、同図書館関係者らが長らく知ることがなかったように、未発見の事実を記した文章が、今後同誌から見つけられる可能性は十分にあるだろう。おそらく、西脇が示した発見の事例は、同誌がこれまでほとんど学術的な研究の対象とされてこなかったことを示しているのではないだろうか。  長い歴史や蓄積を持ちながら一般には知られておらず、国会図書館に網羅的なコレクションがあるとはいえ、決してアクセスしやすいわけではない同誌のような資料を、埋もれさせることなく調査・研究の対象としていくための課題は少なくない。とりわけ───生存学研究所で行っているアーカイブ活動においてもそのことが度々問題にされるのだが───著作権に関わる課題は大きなものであるだろう。しかしながら、同誌に関しては天瀬さんが詳細な目録を作ってくださっていたために、「現物」の『医家芸術』は研究所で保管したまま、また筆者が十分な調査の時間を取れない中でも、目録をめくりながら、このように内容について報告することが可能となった。大きな手間を要する作業のため、手軽な方法とは決して言えはしないが、目録の作成は、資料の存在を人々に知らせる重要な手段であることは言うまでもない。

■謝辞

改めまして、天瀬さんからの今回のご寄贈に心より御礼申し上げます。またこの場をお借りして、『「医家芸術」目録(抄)』をはじめ、天瀬さんの長年の調査・執筆活動に敬意を表します。