【論文(査読無し)】 難病対策における表皮水疱症者の位置づけ 戸田 真里(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
2023.02 『遡航』006号 pp.88-108
希少難病、表皮水疱症、難病対策、難病看護
要旨

本論文の目的は、希少難病である表皮水疱症(Epidermolysis Bullosa:以下、EB)を抱えた者たちが、これまでの難病対策のもと、難病医療や難病看護等の中でどのような位置づけに存在していたのかを明らかにすることである。そこで、1970年代から2015年に難病法が制定されるに至るまでの、難病対策に関する先行研究や、難病患者の療養生活に関する公的研究、そして、難病看護学研究の歴史的背景を整理した。結果、「疾患エゴ」は排除するというスモン患者たちの理念が、難病法における「公平・安定的な医療費助成制度の確立」へと連なり、EB者をはじめ多くの希少難病患者たちの経済的支援につながっていた。一方で、難病患者の療養生活に関する公的研究や難病看護学研究は、主に神経難病患者を研究対象にしており、EB者をはじめ希少難病者たちの療養生活問題は、今なお等閑視されていることが明らかになった。

第1節 本論文の目的

本論文では、希少難病である表皮水疱症(Epidermolysis Bullosa:以下、EB)を抱えた者たちが、これまでの難病対策のもと、難病医療や難病看護等の中でどのような位置づけに存在していたのかを明らかにする。 EBは遺伝性疾患でもあり、軽微な外力により、容易に皮膚や粘膜に水疱やびらんが生じる。合併症には、繰り返す水疱によって生じる手指の癒着や食道狭窄、皮膚癌などがあり、現在も治療法はなく有効な対症療法もない★01。わが国における患者数をみると、「難病の患者に対する医療等に関する法律」(以下、難病法)における指定難病受給者証を取得しているのは約300名と報告されているが、日本国内においては約500~1000名の患者が存在すると報告されている(難病情報センター 2022a; 2022b)。患者数が非常に少ないという背景からEBに関する研究は、皮膚のみに着目した医学研究(笹井ほか 1977; 橋本 1979; 新熊 2020; 玉井 2022)や、乳幼児期など限られた時期の看護学研究(上嶋 1997; 中村 2014; 和田・中込 2014)にとどまっている。 公的制度面をみると、1972年の厚生省「難病対策要綱」制定時においては、対象疾患ではなかったが(難病法制研究会 2015)、公費によって拠出される医科学研究事業の一つである「厚生省特定疾患稀少難治性疾患調査研究班」が1983年に発足し、EBの医学研究や疫学調査がはじまった(笹井 1984)。その後、1987年には医療費助成の対象疾患に追加され、続いて2015年には難病法が定める指定難病にも認定されている(難病法制研究会 2015)。つまり、歴史的経過からみれば、EB者たちは国が定めた難病患者として約35年の歴史を持っていることになる。そうであれば難病対策において、EB者たちは医療費助成のみならず、難病医療や難病看護の十分な恩恵を享受できていたはずである。しかし、上述のように、EB者たちを巡る医療や看護をはじめとする支援体制は、未だに確立はされていない。それはなぜなのか。 本論文では、難病対策が講じられるに至った1970年代から2015年に難病法が制定されるに至るまでの歴史的背景を整理する。その歴史の中で、EBをはじめ希少難病を抱える者たちがどのように位置づけられてきたのかを明らかにする。第2節では、難病対策要綱策定前後の患者や医師をはじめとする医療専門職、そして、厚生省の動向を詳細に明らかにした政策学者である衛藤の先行研究(衛藤 1993)を主に参照しながら、難病対策がどのような過程を経て政策につながったのかを概観する。続いて第3節では、難病対策要綱策定以降、公費によって拠出される医科学研究事業、特に難病患者の療養生活をテーマにした研究に着目する。そして、医療を切り離すことができない難病患者たちにとって、重要な役割となる難病看護学研究がどのように変遷をしてきたのかについても整理をする。そのうえで第4節では、EB者たちが難病対策における歴史背景の中で、どのような位置に置かれていたのかを考察する。

第2節 日本の難病対策のはじまり

第1項 スモンの発生

スモン(SMON)は、Subacute(亜急性) Myelo(脊髄) Optico(視神経) Neuropathy (神経障害)の略であり、主な症状は、強い下痢や腹痛などの腹部症状、下肢の痺れや感覚麻痺等がある。重症患者の場合、麻痺による歩行困難や視力障害を伴う(難病情報センター 2022c)。スモンの原因であるキノホルムは、1899年にスイスで開発され、アメーバ赤痢に有効な薬剤として報告されている。1920年代より整腸剤として内服されるようになるが、1935年にアルゼンチンでスモン様の症状が確認され、スイスではキノホルムを劇薬に指定した。当時の日本も同様の対応をとったが、軍隊で使用するため1939年に劇薬指定を取り消し生産拡大に切り替えた。戦後においても、衛生環境の悪化による消化器感染の蔓延、また、海外における薬害情報が得られにくいという背景からキノホルムへの危機感はなく、厚生省の薬事審議会で承認、投与量の増加も認められ市販薬におけるキノホルム含有薬剤は186品目にも及んだ(厚生労働科学研究費補助金(難治性疾患政策研究事業)スモンに関する調査研究班 2022)。 1958年頃より日本各地でスモンの症例報告が続き、1963年頃までは年間100名以下で推移していたが、1964年に埼玉県の戸田地区などで45例のスモン患者が発生したことから、感染説が強くなった。この状況を受け厚生省は、京都大学名誉教授である医学博士の前川孫二郎を班長に最初のスモン調査研究班(以下、前川班)を設置した。厚生省が動いたこの背景には、戸田地区が東京オリンピックのボート競技会場になっていたことが影響していた。ゆえに、厚生省はスモンが感染によるものなのか原因を解明し、直ちに対策を講じなければならなかったのである。しかし前川班の発足後、新たな患者の発生がなく研究費そのものも、1964年度は30万円、1965年度は36万円が厚生科学研究補助金から支出され、1966年度は140万円が医療研究助成金から支出されるにとどまり、いずれも研究内容に対し低額であったことから、原因は究明できないまま3年間で打ち切りとなった。 だが、1967年頃から岡山県で新たに患者が集団発生し、当該地域の医療機関や行政機関がウイルス説を表明したことから、マスコミもこれらの実態を大きく報道した。地域医療や地域行政、またマスコミがウイルス説を唱えたことにより、スモンは感染性であることがより強調され、スモン患者や家族はこのような社会情勢によって精神的に、そして社会的に孤立へと追いやられることとなった。この状況を受け厚生省は、1969年5月に厚生省特別研究費から300万円を支出し、ウイルス学者の甲野禮作を班長に再度スモン研究班(以下、甲野班)を設置した。これに対し、甲野自身も研究費の低額を指摘し、スモン患者たちも「スモン対策推進に関する陳情書」を厚生省に提出し、1千万円以上の研究費を請願した。この状況をマスコミは大きく報道し、患者の訴えを支持した。その結果、厚生省は数カ月で特別研究費の200万円増額、科学技術庁の特別研究促進調整費約3千万円を追加支出した。そして、同年9月に甲野を会長とするスモン調査研究協議会が発足し、甲野班は発展的解消となった。翌年の1970年には、新潟大学神経学教授の椿忠雄がキノホルム剤との関連を解明し、厚生省は同年9月8日にキノホルム剤の販売停止措置を取り、その結果、患者数は激減した(衛藤 1993:87-91)。 衛藤は、厚生省のこれらの動向を、スモンが感染性であると疑われたことや、患者やマスコミ、世論からの突き上げによるものだけではなく、研究費の配分と日本医師会との関係が影響していたと指摘する。長いが以下に引用する。

厚生省研究補助金の中でも、医学や公衆衛生に関連した研究助成の支給対象者は、主に大学病院や国立病院の医学研究者や臨床医である。こうした勤務医の場合、日本医師会への加入率は低く、開業医に比べ医師会に対する帰属意識は希薄である。そして、開業医が医師会によって利益の保護・拡大を図ろうとするのに対し、彼らはそれを出身大学や所属する病院、あるいは先輩・後輩の繋がりに委ねる傾向にある。しかも、彼らの関心の多くは、医師会が中心課題に据えている医療費や医療体制といった政策・制度の問題よりも研究に向けられている。つまり、国立病院や大学病院の医師と医師会との間には意識のズレがあるということができ、その点で日本医師会は医師の利益集団として一枚岩ではないのである。このことは、健保問題が浮上する度に繰り返される日本医師会の強硬路線を危惧する厚生省にとって、一つの対抗措置になる。なぜなら、研究費を支給して大学病院や国公立系病院の医師の支持を取り付け、彼らと医師会との距離をさらに拡大すれば、医師会の凝集力を弱め、それは組織の弱体化にさえ結びつく。また、医師会とは別に医師集団との強力なパイプを確保することにもなる。しかも、彼らは研究・教育の点で一定の権威をもっている。折しも、メディアや世論が盛り上がり、これに乗じて、研究費の拡大を図ることが可能であった。(衛藤 1993:91-92)

スモンの原因が究明されないことに対する不安は社会に広まり、その不安は感染説へとつながった。さらに、その状況をマスコミは大きく報道を重ねた。その結果、スモン患者や家族は社会から排除されたが、そのスモン患者と家族の原因究明を求める声を掬い上げ広く社会に伝えたのもマスコミであった。そして世論の意識は、スモン患者を排除から救済へと変容し、その動向を察知した厚生省は原因究明への予算措置を大きく増額した。しかし、上記の衛藤の指摘のように、厚生省によるこれらの対応は、世論への対処だけではなく医師会への対抗措置の意図もあったと考えられる。当時の厚生省は、「健保問題が浮上する度に繰り返される日本医師会の強硬路線」への対応に苦慮し、「医師会とは別に医師集団との強力なパイプを確保する」必要があった。このような両者の関係性の中、世論が高まるスモン問題は厚生省にとって「研究費を支給して大学病院や国公立系病院の医師の支持を取り付け」るための好材料であったといえる。そして、厚生省と大学病院や国公立系病院の医師との関係はその後の難病施策にも連なる(渡部 2016)。

第2項 患者運動の広がり

日本では、スモンの症例報告が行われてから10年以上に渡り、その原因が判明しなかったことなどから、感染説が主流となっていた。その結果、社会的孤立に追いやられることとなった患者たちは、各地でスモン患者会を立ち上げていった。特に埼玉県の戸田地区で患者が多発していたことから、当該地域の中島病院の中にもスモン患者の会が組織された。 中島病院にはスモン患者の診療と研究のために、東京大学医学部附属病院の神経内科医が派遣されており、また、東京大学医学部衛生看護学科出身で保健師である川村佐和子が東京大学医学部保健学科疫学研究室で研究をしつつ、中島病院の健康相談室に非常勤で勤務をしていた。川村は患者からの相談に対応しつつ、1967年12月に、スモン患者たちが神経内科医の井形昭弘に病気に関する悩みを話す機会を設けた。この取り組みを契機に、中島病院においてスモン患者の会が結成されるに至った。そして、1969年6月に小冊子「スモンの広場」を発行し、この冊子がマスコミに取り上げられることとなり、冊子を制作した川村に全国のスモン患者から連絡が入るようになる。これを契機に同年11月26日に「全国スモンの会」が結成され、会長に当事者である相良よし光、副会長・事務局長に川村が就任した(川村 1979:41-66; 川村・川口 2008:171-191)。 全国スモンの会の、当初の最大の主な目標はスモンの原因解明であった。しかし、その原因が研究されるその間にも、患者の生活は日に日に困窮を増すことから、全国スモンの会は、1970年3月にスモン調査研究協議会に対し「SMONの保健社会研究班(仮称)の設置についての要望書」を提出した。同年5月には衆議院社会労働委員会において参考人として出席していた全国スモン患者会会長の相良が、スモン研究において社会学的な側面の必要性を訴え、同じく参考人で出席していたスモン調査研究協議会会長の甲野もその意見を支持した。その結果、同年6月にはスモン調査研究協議会に保健社会部門が加えられ、医学者を中心とした医学研究のみならず、社会科学系の研究者が参画することになった。このことは、これまでの医学系研究組織にはない画期的な構成となり、しかも、実現にこぎつけたのはスモン患者たちによるものであった。 一方で、全国スモン患者会のみならず、1970年3月にはスモンと同様に原因が不明で治療法がなく、就労が困難となり生活に困窮をきたすなど、精神的・社会的にも孤立が生じるベーチェット病患者を診察し支援する医師たちによって、「ベーチェット病患者を救う医師の会」が結成され、国会に対しベーチェット病に関する研究費の獲得や治療費の公費負担を訴えていた。また、同年6月には当事者自身の会である「ベーチェット病友の会」が結成された。さらに、全国スモンの会より早くに立ち上げられていた、1963年発足の「日本筋ジストロフィー協会」も研究費の増額や病床の確保を厚生省や国会に求めていた。こうした中、国会ではこれらの病気を「社会病」と称し議論される動きが促進する。まず、スモンとベーチェット病が1970年3月5日に衆議院社会労働委員会で取り上げられ、社会病救済基金制度の提案が行われた。続く3月30日の衆議院予算委員会においてはスモンやベーチェット病、筋ジストロフィー等、原因不明の社会病に対し調査研究だけではない特別対策措置の必要性が議論された。結果、1971年7月より1ヵ月間に20日以上入院をしたスモン患者に限り、研究協力謝金という名目で月額1万円が支給されることで決着がついた(衛藤 1993:103-111)。

第3項 薬害から難病対策へ

スモン問題を契機に1970年からベーチェット病、サルコイドーシス、筋ジストロフィー、1971年にはリウマチの問題が国会審議で議論されるようになり、これらの病気は「社会病」と呼ばれていた。その後「難病」という表現に切り替わったのは、先述した「ベーチェット病患者を救う医師の会」がこの言葉を使用したことによる。同会が1971年2月に「難病救済基本法試案」を作成し、その全文が新聞で掲載されたことから「社会病」から「難病」という表現がマスコミを通じて広まった。また、同会事務局の医師である守屋美喜雄は「難病救済基本法試案」作成に関し、ベーチェット病のみならず広く難病を対象としなくてはならないと述べている(衛藤 1993:117)。 それは全国スモンの会でも同様の意向であった。全国スモンの会の副会長、後述する日本難病看護学会発足の中心人物でもある川村が、同学会誌に以下の内容で全国スモンの会の当時の方針について述べている。

当時、全国スモンの会の理念や方針については、初代会長故相良よし光氏の方針によって、多くの専門家から意見を聞き、決定するという方針をとった。中でも、筆者が大変印象深く思い起こすことは、東京大学医学部の故白木博次教授が神経病理学の立場から、毎週、全国スモンの会の会長・副会長と討論する時間を作ってくださり、スモン問題とは何ぞやという分析や問題解決のための作戦会議をしたことであった。故白木先生は世界の神経病理学者の中でも5本の指に入ると聞かされていた研究者で、先生の研究室の議論は、医学的内容にとどまらず、弁護士の参加や他の病気療養者や障害を持つ方々が随時加わり、世界の動向を踏まえて大変幅の広い、そして深い真剣な討論が熟成する時間であった。例えば、これまでの療養者の運動のように、疾患エゴ(一つの疾患療養者のみの問題解決を求め、自覚されないままに他疾患療養者の問題解決を抑えているという意味)に陥ってはいけない。それでは、疾患ごとに対策のための法律を作らねばならず、縦割り行政の弊害を重ねてしまう。また、スモンという神経系疾患は脳神経系総体の研究成果につながるところが多く、スモンだけの原因究明や治療法の開発はあり得ない。世界の医学研究者は脳神経系疾患の解明と治療法開発に向かっているが、多額の研究費が必要であり、脳神経系疾患を対象とする医療機関の経営は治療法がないまま、障害の深刻さのために赤字が多く、実際世界で拠点となる病院の閉鎖が相次いでいる。スモン問題の解決は社会的にも克服すべき条件が多いことなどがあった。このような討論の背景をもって、スモン療養者の運動はスモンの根拠資料から「(脳神経系)難病問題を浮き彫りにし、対策は「(脳神経系)難病療養者全員に届くように」という理念を持つようになった。(中略)「スモン」対策を「難病」対策として要望し続ける際の課題は他にもあった。難病対策基本法(案)を要望したほうが良いという意見も多くあり、検討課題になった。当時は、公害(水俣病、第二水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病)が社会的に問題となり、水俣病はスモンと同じ脳神経系の障害による疾患であり、大規模な裁判中であり、1967年に公害対策基本法が制定された。また、サリドマイド問題も1950年代からはじまり、世界的に多数の被害者が出て、1962年には原因が服用薬の副作用によると解明された。薬害という大きな問題が社会に提起され、薬害対策の法律化が議論されていた。このような中で「難病対策を法律化するのであれば、スモン問題を薬害や公害としてとらえ、これらの対策の中にいれることが良いのではないか」という提案が有力者から持ち込まれた。議論の結果、全国スモンの会はこの提案を受けない、この時点では、法律化を要望しないと結論した。理由は、第1にスモンは未だ原因が判明していないため、原因が判明している水俣病などと同一の対策とは違う問題を持っていること、第2にスモン療養者が同じ境遇にあると病棟や外来室で仲間意識を持ってきた、ALSやパーキンソン、筋ジストロフィー療養者など(神経系難病者)の問題解決に寄与できなくなることであった。その結果、難病対策は難病対策要綱となった。(川村 2021:207-208)

上記から、全国スモンの会の方針決定の過程に、「世界の神経病理学者の中でも5本の指に入ると聞かされていた研究者」である東京大学医学部の白木博次が深く関わっていたことがわかる。その白木からの影響を受けた全国スモンの会は、スモン問題を「(脳神経系)難病問題を浮き彫りにし」たとし、今後の方針として「(脳神経系)難病療養者全員に届くように」という理念」に大きく舵を切り替えた。その要因には、白木による助言、すなわち、スモンのみが救済されるという「疾患エゴ」を排除すること、そしてそれは「スモンという神経系疾患は脳神経系総体の研究成果につながるところが多」いこと、そして、そこには「多額の研究費は必要」という背景を踏まえ、「スモンだけの原因究明や治療法の開発はあり得ない」とした、脳神経系医学者としての視点があった。つまり、原因究明を第一の主な目的として立ち上げられた全国スモンの会は、その運動が展開される中でスモンは薬害であることが判明したが、その救済措置をサリドマイドなどの「薬害」ではなく、スモンの主症状である「神経症状」という特質に依拠したのである。「神経症状」という特質に依拠した難病運動は後の難病患者支援にも影響を及ぼす。 一方で、全国スモンの会のこの方針は、厚生省にとって都合がいいものでもあった。衛藤は以下のように指摘する。

問題の焦点はすでにスモンからベーチェット病を始めとする他の疾患に波及し、それらを一括して難病対策が形づくられようとしている。このように、一定の制度的枠組みの中に収められた今となっては、敢えてスモンをその難病の枠組みから切り離し、別立ての施策を講じるよりも、その中に留めて置くほうが予算的にも、また手続き的にも望ましい。スモン患者の救済は、難病対策の中から実施されることになった。そのため、原因不明を要件とする難病の中に、原因の明らかなスモンが混じる。(衛藤 1993:123-124)

このように、スモン患者たちによる患者運動のもと、「疾患エゴ」を排除した難病対策が実施されるようになった。しかしその内実は「原因不明を要件とする難病の中に、原因の明らかなスモンが混じる」こととなった。これらの背景には、衛藤が指摘したように、スモンを難病対策の中に留めておくほうが「予算的にも、また手続き的にも」厚生省にとっては都合がよく、患者運動と厚生省の利害が一致するという側面もあったと考えられる。

第3節 難病対策要綱策定以降の難病医療・看護の変遷

第1項 難病対策要綱の3本柱

以上の経緯から、厚生省は1972年10月に、難病対策の総合的な指針として「難病対策要綱」を発表した。要綱では、「(1)調査研究の推進(2)医療施設の整備(3)医療費の自己負担の解消」が、3本柱として進められることになった(厚生労働省 2022a)(図)。

図1_戸田
図1

第2項で詳述する「(1)調査研究の推進」では、「特定疾患調査研究事業」が創設され、スモンをはじめとする8疾患が調査研究の対象となった★02。また、「(3)医療費の自己負担の解消」では「特定疾患治療研究事業」が創設され、上記8疾患のうちスモンを含む4疾患が、研究への「協力謝金」という名目のもと、医療費助成の対象となった★03。2つの研究事業の対象疾患は年々増加し、2009年には、「特定疾患調査研究事業」は130疾患、「特定疾患治療研究事業」は56疾患となった(厚生労働省 2022b; 辻 2015)。 「(2)医療施設の整備」については、東京都が日本で初めての難病の独立専門施設である、東京都立神経病院と東京都神経科学総合研究所を整備するなど、国の難病対策を先行する形となった。東京都立神経病院は1980年に脳・神経系疾患を中心とした医療機関として設立され、初代院長はスモンの原因を発表した椿が着任した。また、東京都神経科学総合研究所は、1972年に脳・神経系疾患の予防や治療、看護、地域ケア・システムの構築などを研究する機関として設置され、全国スモンの会の副会長であった川村が研究者として所属していた。そして、これら専門機関の設置の背景には、第2節で引用した川村が述べていた、「世界の神経病理学者の中でも5本の指に入ると聞かされていた研究者」である東京大学医学部の白木の存在があった。1968年4月、白木は大学教授の職にあったが、都立府中療育センターの院長を兼任、その後1970年4月に院長職は離れるが、東京都の参与を兼任し、1975年3月まで当時の美濃部都政の医療政策を牽引した。その中で、東京都立神経病院と東京都神経科学総合研究所が設立された(衛藤 1993:139-143; 立岩 2018:243-258)。 現在、都立神経病院は、約300床の入院専門医療機関となっている(地方独立行政法人東京都立病院機構東京都立神経病院 2022)。また、東京都神経科学総合研究所は、2012年4月に東京都精神医学総合研究所・東京都臨床医学総合研究所と統合し、東京都医学総合研究所として発足、さらに、公益財団法人として認定されている。現在、東京都医学総合研究所では、「難病ケア看護ユニット」が、第3項で詳述する難病看護の中心的研究機関の役割を担っている(公益財団法人東京都医学総合研究所社会健康医学研究センター難病ケア看護ユニット難病ケア看護データベース 2022)。

第2項 難病患者の療養生活に関する調査研究

難病対策要綱における3本柱のうち、「(1)調査研究の推進」においては、医学者等専門家によって構成される厚生省特定疾患調査研究班(以下、研究班)が組織され、疾患の診断基準や治療法等、公費によって実施されてきた(渡部 2016)。研究班は、1972年に8研究班から発足し、翌年の1973年には20班、1974年は30班、1975年は40班と増加し続ける。1976年には研究班の大幅な編成が行われ、それまでは疾患別による縦割りの研究班構成のみだったのに対し、各研究班に共通する「テーマ別研究班」、つまり、横断的な視点が加えられることとなった(高瀬ほか 1985)。その「テーマ別研究班」の一つとして、難病患者の療養生活に関する調査研究である「難病の治療・看護に関する研究班」が立ち上げられた。「難病の治療・看護に関する研究班」は、各疾患の診断や治療法等を対象とする医科学的な研究班とは異なり、難病患者の治療、特に看護支援に着目し、研究班の構成員に看護職者たちが初めて参画し研究が行われることとなった。その後、研究班の名称や構成員、主とするテーマによって分岐、また統合を重ね、2022年現在においても難病患者の療養生活を対象にした公費による研究は継続している(厚生労働省難病患者の支援体制に関する研究班 2022)。 本項では、難病対策要綱策定以降における公費による研究事業のうち、難病患者の療養生活支援に関する研究がどのように変遷してきたのかを概観する。そのため、通年ごとの研究班動向を詳細に追うのではなく、5年間隔の研究代表者、研究内容等を一覧にまとめた(表)。 「難病の治療・看護に関する研究班」は、初代班長に国立病院医療センター院長の小山善之が就いている。研究班は約3年単位で見直しが行われており、立ち上げられたばかりの「難病の治療・看護に関する研究班」では、通院や入院など主に医療機関における難病患者の実態調査が行われており、対象は医療費助成の対象疾患患者全般にわたっていた。次いで1980年の研究班では、1976年の研究目的がほぼ踏襲されており、初代班長の所属先と同じく国立病院医療センター院長の松葉卓郎が班長を担っている。1990年の研究班からは、名称が変わって「難病のケア・システム調査研究班」となり、その後も名称等を変更しながら継続され、2005年と2010年では、「重症難病患者の地域医療体制の構築に関する研究」「特定疾患患者における生活の質(Quality of Life, QOL)の向上に関する研究」「特定疾患患者の自立支援体制の確立に関する研究」と3つの研究班に分岐している。2015年以降は、再度、1つの研究班にまとめられ、2020年度からは「難病患者の総合的地域支援体制に関する研究」として研究班が継続している。 研究内容に関しては、国立静岡病院院長で神経内科医の宇尾野公義が研究班班長を担うようになった1985年以降は、神経難病、特にALS(筋萎縮性側索硬化症: amyotrophic lateral sclerosis)患者への在宅ケアや長期入院先等が研究の中心となっていく。研究班員も大半が国立病院や国立療養所の神経内科医等によって構成されており、2005年と2010年においては、前述のように3つの研究班に分岐をしているが、研究班構成員の多くは国立病院や国立療養所の神経内科医が重複していた。2010年以降は、疾患群を問わず就労支援が検討されるようになってはきたが、依然、神経難病患者を中心にした療養生活支援体制に関する研究内容が大半を占めていた。

表1_戸田
表1

第3項 難病看護と難病看護師

上述の公費による研究班と併存しながら、難病看護に特化した研究も重ねられてきた。その代表的な研究機関として挙げられるのが、第1項で述べた、脳・神経系疾患の予防や治療、看護、地域ケア・システムの構築などを研究する機関である、東京都神経科学総合研究所(現、東京都医学総合研究所 社会健康医学センター難病ケア看護ユニット)である。そして、難病看護において中心的な役割を担ってきたのが、全国スモンの会の副会長であった川村である。川村は日本で初めての難病独立専門施設である、東京都立神経病院や東京都神経科学総合研究所にも所属し、1973年には「在宅看護研究会」を立ち上げ、在宅人工呼吸療法を行うALS患者への支援等に関する研究を行う。「在宅看護研究会」設立に関して川村は、自著の中で以下のように記している。

在宅難病患者を訪問援助している者が職種や立場を超えて、集まり、仕事の研鑽をはかり、仕事の体系化をしようという会である。(川村 1979:121)

当時は、在宅医療や在宅看護、特に在宅人工呼吸療法患者への支援に関する経験や技術は確立されておらず、また、制度も整備されていなかった。ゆえに、個々の事例から「仕事の体系化」を図る必要があった。 その後、「在宅看護研究会」は、1997年に「日本難病看護学会」に改編され、学会事務局は、東京都医学総合研究所 社会健康医学センター難病ケア看護ユニットが担ってきている(本田 2022)。日本難病看護学会への改編以降も、神経難病患者、ALS患者への在宅看護に関する研究が中心に行われ(牛込 2002)、近年では、人工呼吸器装着に関する意思決定支援への研究関心が高まっている(申ほか 2019; 長谷川 2022)。難病患者たちの福祉に関する研究を行っている堀内啓子は、このような学会の傾向に関して以下のように指摘している。

(日本難病看護学会の傾向として)神経系疾患患者の看護及びケアに集中している。特に、呼吸障害による人工呼吸器装着患者の居宅長期療養上の支援システム(サービス提供システムやニーズ把握、ネットワークなど)に関する事例研究が多く、しかも年々増える。(堀内 2006:22)

そして2013年には、「日本難病看護学会認定・難病看護師(以下、難病看護師)」制度を発足させる。日本難病看護学会では、難病看護師は以下の役割を果たすことを目指すとしている。

・難病の病態・病期に応じた看護判断に基づき、患者の主体的な療養生活を支援する看護践ができる ・質の高い療養生活を送ることができるよう、難病患者・家族に対して相談・助言を行うことができる ・難病患者・家族の支援について、看護職員・関係職種の職員に対して連携し、助言・支持ができる ・難病患者・家族の生活の質向上を目指した地域としての取り組みに参画し、社会支援システムの向上・創造に寄与できる (日本難病看護学会 2023)

難病看護師の認定を得るには、経験年数等の受験資格をクリアし、年に1回開催される講習と認定試験に合格をしなくてはならない。講習のテキストは、『難病看護の基礎と実践』(川村・中山 2014)が用いられており、難病対策の歴史の変遷や、医療費助成の対象疾患の中でも患者数が多い消化器系難病や膠原病系難病にも触れられてはいるが、テキストの大半は、神経難病患者への看護に重点が置かれている。例えば、「皮膚症状への看護」の項目においても、皮膚難病患者へのケアではなく、神経難病患者の長期臥床に伴う褥瘡、いわゆる、床ずれ等への看護に関する内容となっている。 一方で、第1章で述べたように2015年の難病法において対象となる疾患が大幅に拡大された。その多くが希少難病である。このような時代背景を受け、近年の日本難病看護学会誌では、今後の難病看護師の方向性に関する記述が散見されるようになる。東京都医学総合研究所 難病看護ケアユニットリーダーであり、日本難病看護学会理事でもある中山優季は、難病看護師の方向性について以下のように述べている。

♯神経難病か難病か? (難病認定看護師の)専門性についての検討開始当初は、「神経難病専門看護師(仮称)」であったが、難病法の制定に伴い、対象疾患が増加することが見込まれている中、難病は神経難病に限らないため、名称を「難病看護師」とすることとした。とはいえ、看護特に、訪問看護を利用する難病患者は、神経系難病が最も多いため、現行の教育内容は、神経難病が主体となっている。難病看護は、日本独自の難病患者を支える仕組みの中で培われてきたものであり、疾患ごとではなく、難病看護としても共通の知として、位置づけられてきた。このことの実証的な取り組みも必要であろう。訪問看護をより多く要するような状態像と、ADLは自立しており、症状コントロールが必要な状態像への看護では、療養生活支援の専門家としての役割は同じであっても看護提供内容は異なる側面があるといえる。(中山 2022:41)

また、同じく日本難病看護学会理事の藤田美江も難病看護師の方向性について以下の課題を記している

日本難病看護学会は、神経筋疾患患者への看護を中心に発展してきた歴史がある。一方、「難病の患者に対する医療等に関する法律」が施行され、医療費助成対象疾患(指定難病)は338疾患に拡大した(2021年1月)。(中略)そのため、難病看護師が神経筋疾患だけわかっていて、他の疾患についてはわからないということは好ましくはないだろう。しかし、現実的にすべてを網羅するような教育プログラムを構築することは不可能であり、看護師の専門性を高めようとすれば、ある程度焦点をあてる疾患群を絞らざるを得ない。看護系学会には、日本慢性看護学会があり、慢性疾患を有している患者の看護という点では重複することも多い。イギリスではパーキンソン病(PD)のケアマネジメントの専門家としてPD Nurse Specialistの資格があり、日本でも日本パーキンソン病・運動障害疾患学会(Movement Disorder Society of Japan:MDSJ)が、全国でPDナース研修会を開催するようになった。専門・認定看護師があまりにも細分化しすぎていくと、何を目指せばよいのかわかりにくくなる問題点も生じてくる。また、病棟にしろ、訪問看護ステーションにしろ、特定の疾患患者だけを看護することは考えにくい。われわれは細分化していくことで専門性を高めようとするのか、難病看護ジェネラリストの育成を目指すのか、今後、サブスペシャリティーとしての疾患あるいは疾患群をどのように考えるか、悩ましい課題である。(藤田 2022:50)

以上のように、社会的背景から神経難病患者以外の看護についても専門性を広げるべきか「悩ましい課題」として捉えられてはいる。だが、「訪問看護を利用する難病患者は、神経系難病が最も多い」や、専門性を担保するためには「ある程度焦点をあてる疾患群を絞らざるを得ない」等の理由で、現状維持の必要性も語られている。

第4節 考察

第2節では、スモンの発生から難病対策要綱が策定されるまでの経過を概観した。1960年代は集団発生という疫学的背景から感染説が有力視され、スモン患者たちは病状による苦痛のみならず、社会的に排除される環境に追い込まれた。だが、1970年代には薬害であることが判明、その結果、患者の発生が食い止められるなど、劇的な展開でスモンの原因究明に至った。しかし、すでに薬害によって発症してしまったスモン患者たちや、患者たちを支援してきた医療者は、国に対する救済措置として、「薬害」という枠組みではなく、スモンの主症状である「神経症状」という特質に依拠し、他の神経症状等を抱えた者たちと共に「難病対策」の必要性を訴えた。その背景には、川村が述べていたように、スモンのみが救済されるという「疾患エゴ」を排除し、「病棟や外来室で仲間意識を持ってきた、ALSやパーキンソン、筋ジストロフィー療養者など(神経系難病者)の問題解決に寄与できなくなること」(川村 2021:208)を避けるためであった。その結果、難病対策要綱は、スモンのみならず他の疾患を含めた医療費助成支援へと広がりを見せた。第1節で前述したように、EBは1987年に医療費助成の対象疾患に追加されている。その背景には、スモン患者や支援者である医療者たちが、「疾患エゴ」を排除した理念のもと難病対策運動を展開したという経緯があり、だからこそ医療費に関する支援をEB者たちも受けられることになったといえる。 一方で、第3節では厚生省特定疾患調査研究班による難病患者の療養生活支援に関する研究の変遷を概観したところ、各研究班班長の専門領域は、1980年度まで内科や外科であったのに対し、1985年度の宇尾野公義(宇尾野 1986)から2020年度の小森哲夫(小森 2021)に至るまで、約35年間にわたり神経内科医師もしくは医学者であり、ゆえに、研究対象はALS患者を主とした神経難病に集中していた。前述のようにスモン対策で中心的に関わった医学者としては、1960年代に東京都立府中療育センターの初代院長に就き、難病対策が大きく動き出した1970年代に東京都の参与を兼任し当時の美濃部都政の医療政策を牽引した東京大学医学部の神経病理学者の白木や、スモンの原因を解明し日本初の難病専門医療機関である東京都立神経病院の初代院長であった椿が挙げられる。このように神経内科医師もしくは医学者たちが難病対策の中心となる流れは、難病対策要綱が策定されてからも引き継がれてきた。渡部は、難病対策要綱体制下における神経内科医師や医学者たちについて、以下のように指摘している。

スモン対策で主要な役割を果たした研究医のうち多くを占めたのは、神経内科を専門領域とする専門医であったが、同時期に彼らが医科学研究で取り扱っていた疾患群が難病に包括されていったと考えられる。難病の公費医療では、対象となる疾患リストが研究医の組織によって選定され、選定の境界は医科学研究の対象となるかということに依存する。このような制度は患者の立場からすれば疾患間の不平等を生じるが、難病の公費医療は当初から主に神経内科を専門領域とする研究医という狭いコミュニティの医科学研究の論理によって運用されてきたのであり、患者の利益は政策にとって重要な問題ではあるが必ずしも第一義的な要素ではなかったのである。(渡部 2016:111)

また、難病患者の療養生活支援に関する研究班班長の所属先は、国立病院や国立療養所の院長等であった。第2節で衛藤が指摘していた点、すなわち、難病対策における「厚生省と大学病院や国公立系病院の医師とのパイプ」は、医科学研究のみならず、難病患者の療養生活支援に関する研究においても、根付いていた。 さらに、神経筋疾患に特化した医科学研究の動向は、難病看護学研究においても同様であった。第3節で日本難病看護学会の変遷を概観したところ、「難病看護」と表してはいても、実質的には神経難病患者の看護研究を主にしていた。さらに、難病看護師の育成に至っても、「難病の病態・病期に応じた看護判断に基づき、患者の主体的な療養生活を支援する看護実践ができる」等と、役割が示されていても、これらを実践できるのは神経難病患者への支援に限られるようなプログラム構成となっていた。当然、神経難病、特にALS患者への看護支援に重点が置かれてきた背景には疾患そのものの重症性がある。患者や家族が抱える課題は重く、かつ多く、それゆえに優先的に検討すべき対象となったのであった(神門ほか 1997; 隅田 2003; 山本 2006)。だが、日本における「難病看護」は、「難病患者全般への看護」ではなく、「神経難病患者への看護」という対象の狭い看護を意味していた。 これまで、難病対策に関する先行研究において、衛藤や渡部が主に指摘をしてきたのは、医科学研究における研究医の専門領域や所属先であった。だが、本論文において明らかになったのは、医科学研究と同様に、難病患者の療養生活に関する研究においても、国立病院や国立療養所に所属する神経内科を専門とする医師たちによって行われていたことであった。さらに、難病看護学研究においても、難病と表しつつも神経難病患者を主に対象とした研究が、難病法制定以降も進められているということであった。 筆者は博士予備論文において、EBの医科学研究を整理した(戸田 2020a)。特に1983年に立ち上げられた「厚生省特定疾患稀少難治性疾患調査研究班」から、2018年度の「厚生労働科学研究費補助金難治性疾患等政策研究事業希少難治性皮膚疾患に関する調査研究」に着目した。そこでは、1995年の報告書までは、医科学研究が中心ではあったが、EB患者のQOL等、療養生活に関する研究も含まれていた。しかし、厚生省特定疾患調査研究事業の見直しにより、1996年度以降は「テーマ別研究班」で難病患者のQOLに関する研究等が行われることとなり、その後、EB患者のQOLに関する研究は行われなくなった。だが、上述のようにテーマ別研究班における難病患者の療養生活に関する研究も、神経難病患者を対象としており、難病看護学研究においても同様の傾向にあった。前述の中山は、日本難病看護学会誌において、研究班によるこれまでの実績に関し以下のように述べている。

これら政策研究班の中で、看護職の研究者たちは、一例ごとの看護実践からの看護ケア技術(食事、排せつ、気道浄化、多岐にわたる)やよりよく暮らしていくための支援システム(在宅診療・専門医、かかりつけ医、保健師による支援など)の提唱をしてきた。特に、1980年代より試行的に実施されてきた在宅人工呼吸療法の実践例を蓄積し、1990年の診療報酬に貢献したことは、大きな成果といえる。(中山 2022:37)

研究班構成員の中には、日本難病看護学会の看護研究者も複数存在した。つまり、研究班の神経内科医師や日本難病看護学会の看護研究者たちは、共に連携を図りながら神経難病患者たちの生活を支えるための看護や支援システムの構築を行った。そして、その研究成果が診療報酬項目の新設に貢献するなど、在宅人工呼吸療法を行う神経難病患者たちの生活に寄り添ってきた。その意義は極めて大きい。一方で、EB者たちは日本における皮膚ケア環境の過酷さからその改善を求め、街頭での署名活動や厚生労働省への陳情を重ね診療報酬の新設につなげた。その過程には研究班や難病看護学研究者等の協力者はおらず、さらに、EB者たちが求めるケア環境は実現できないという医療者まで存在していた(戸田 2020b)。これらから言えることは、長きにわたり公費によって難病患者の療養生活に関する研究は行われてはきたが、その研究成果は、EB者たちをはじめ多くの希少難病者の日常生活に恩恵をもたらすものではなかったということである★04。

第5節 まとめ

本稿では、以下の3点が明らかになった。 1点目は、「疾患エゴ」は排除するというスモン患者たちの理念が難病法における「公平・安定的な医療費助成制度の確立」へと連なり、EB者をはじめ多くの難病患者たちの経済的支援につながっていたということである。医療費の公費助成は、生涯にわたり医療を切り離すことができない難病患者たちにとって、重要な位置づけになっていることは言うまでもない。 2点目は、公費による難病患者の療養生活に関する調査研究の歴史を確認したところ、長年にわたり、そして現在においてもなお、神経難病患者を主な研究対象としていた。それは、神経難病患者以外の患者たちにとっては、公平とは言い難い環境に今なお位置づけられているということである。 3点目は、難病看護においても2点目と同様の傾向にあり、日本における「難病看護」は、「神経難病患者への看護」という対象の狭い看護を意味していたということである。2点目と3点目に関しては、特に日本の難病対策の契機がスモンであったことに大きく影響を受けていた。つまり、スモン問題を薬害ではなく、スモンの主症状である「神経症状」に依拠したため、難病対策に関わる主要な医療者は、神経内科を専門とする医学者たちが占めることになったのである。ゆえに、現在においても、「難病の療養生活支援」は、実質的に「神経難病患者への療養生活支援」を意味している。 これらを総合的に解釈するならば、EB者をはじめ希少難病者たちは、難病法のもと医療費助成支援を受けることができていた。だが、彼らの療養生活、すなわち、日常生活における問題は等閑視され、現在においても周縁化されたままであることが明確となった。