【論文(査読無し)】 堆積や交錯や忘却を描く 立岩 真也
2023.02 『遡航』006号 pp.109-130
医療政策、国立療養所、医療化、「難病」
要旨

酒井美和の博士論文をもとにした、そしてその一部をさらに改稿し本誌本号に掲載された「国立療養所の設立――一九四〇年代」(酒井[2023a])、「結核病床の空床――一九五〇年代」(酒井[2023b])も加えた『国立結核療養所――その誕生から一九七〇年代まで』(酒井[2023])がこのたび(奥付は3月5日)出版される。本稿は、その「解題」として書いた文章(立岩[202303])を、すこし情報に変更のあった部分については変更して、再録するものだ。酒井の本を読んでほしいし、本が売れたらよいと思うので、再録する。 もう一つ意図がある。戸田真里の博士(学位請求)論文「希少難病と生きる―表皮水疱症者を巡る医療・福祉構造の実態」(戸田[2023b])がやはりこの3月に提出される(★02)。そこには本誌本号に掲載される「難病対策における表皮水疱症者の位置づけ」(戸田[2023a])が収録される。それは戸田が主題とする「表皮水疱症」がいまは一応「難病」のなかに含まれているものの、だからといってさしてよいことがなかった、その所以を述べようとするものである。他方本稿は、「難病」という範疇の現われ、そしてそれと「国立療養所」との関わりを書いているのだから、もちろん関係する。そこで、各々の見立てについておおまかなところを述べておく。  戸田の理解は、スモン以降の「難病」の浮上に伴い、その対応策が、拙著でもとりあげた白木博次(1917/10/22~2004/02/19)、椿忠雄(1921/03/16~1987/10/20)、井形昭弘(1928/09/16~2016/08/12)といった神経内科医、そして「難病看護学」の創始に関わった川村佐和子(1938/09/04~)らを中心になされ、そのことによって神経難病以外の難病がすみのほうに追いやられたというものだ。 私はそれはそれで間違っていないと思う。ただ二つを加える。

0. 要約の続き

一つ、拙著『病者障害者の戦後』に記したのは、それ以前、といっても1960年代半ばなのだから、数年前のことだが、酒井も本に記したように、筋ジストロフィー(ともう一つは重症心身障害)の子どもたちを国立療養所が受け入れる。国立療養所の経営にあたっていたのは医師たちであり、その仕事は「本来は」研究であるともされたから、子どもたちを収容しその原因と治療法を解決するのだということにされた。そして、その推移には厚生省が強く関わってもいたから、その予算が研究班の形成に関わり予算の配分に関わった。筋ジストロフィーはこの時にいちはやく制度化されたから、後の難病のなかには入ってはいないが、私はこの時にできた仕組みがこの国の難病政策に関わり、そしてそれは、医療・医療者による包摂、施設収容などよろしくない効果もまたもたらしたと考える。そのことを述べた(立岩[201812:84-201])。このこととスモン以降の動きとがどの程度の割合で効いているのか。これはさらに調査したらよりはっきりしたことが言えるかもしれない。 もう一つ、その上で、さきにあげた人たちの位置について。その人たちがどんな人たちであったのかについても拙著でかなりの紙数を費やして記した(立岩[201812:225-258])。神経内科が専門の医療者であることによる限界があったというだけのことではないことを述べた。「難病」の人たちにとっても、医療という枠組みでは自分たちの生活は困難なのだから別の、普通の言葉を使えば「福祉」が必要だった。むろんそんなことは誰でも言う。しかしこの時期以降、わずかずつではあるが、「必要なだけ」を要求する動きがあり、それはその神経内科的な人たち、医療者全般の知らないものだった。あまりに象徴的であるためにかえって言うのがためられるほどだが、その動きの一つの出発点だったのは「府中療育センター闘争」だったのだが、白木博次はそのセンターの初代の所長だった。その今から振り返ればなかなか「社会派」であって立派であり、患者や患者会から慕われた人たちだったその人たちと、この頃起こった運動とは長く無関係だったし、それは基本今でも同じだ。さらに「医療的ケア」については、それをあくまでも看護職の仕事としたい人たちと既に行なってきた介助・介護の仕事の人とが対立し、川村は前者の中心人物であってきた。むろんそれでは、「難病」の人たちも含む多くの人たち生きていけないから、制度を使いそれを大きくしていこうという人たちとの関係が形成され、それが大きくなっていくのはだいぶさきのことになった。このこともまた見ておいてよいと思い、本に書いた。

1. 酒井の本を読むに際して

■1 「論文審査の結果の要旨」

2022年7月に教授会に示し、全学の会議に回ったA4・2枚という「論文等審査報告書(博士)」の中の「論文審査の結果の要旨」の部分をそのまま全文引用する。これまでかなりの数の「解題」を書かせてもらっているが★01、このごろはいつもその手を使っている。

 結核療養者たちのための施設としての結核国立療養所が、その人たちが減っていった後でも、なくなったのではなく、性格を変化させて今日まで存続していることは、いくらかは知られている。ただ、幼い時から30年40年とそこに暮らしている人たちも含め、そこに入所し暮らしている例えば筋ジストロフィーの人たちも、その人たちに関わっている人たちも、どんな事情でそんなことになったのかを知らない。  本論文は、まとまった統計などが存在しないなかで、データを集められるだけ集め、その推移を追った。またその時々の施策やそれへの反応等をまとめ、記述した。医療の全部を国公立病院が担うべきだという主張は戦後比較的早くに後退するが、では、国公立、とくに国立療養所は、とくに結核による入所者が減少するなかで、何を担わされようとし、また担ったか。  例えば僻地医療を担うことが求められたが、それは回避され、多く市街地から離れた場にあった国立療養所は、親元から離れて子どもが入所生活をする場となった。また、医療者・医学者が運営者とされるその施設では、原因究明や治療法の開発に関わる研究が、収容の意義ともされ、施設の存在意義ともされた。医療・研究を前面に出し、その目標・名目のもとに、生活のいくらかについても補助・支援を行うという1970年代以降の「難病政策」の枠組みは、1960年代における、結核から重心(重症心身障害)・筋ジストロフィーへという移行のもとで、先駆的に実現された。とすると、国立療養所における病床転換は、その施設のなかについてだけでなく、この国の医療・福祉の仕組み全般に関わったとも言える。そして、その体制が1960年代にでき、そのまま60年弱、続いてきたということになる。その歴史の前半を、本論文は正確に詳細に記述することができた。  いま、国立療養所の境遇を改善し、退院を促進する動きも起こっているが、過去を知り、その成立と存続の要因を知ることは、今後を展望するためにも意義あることである。その価値を審査委員はみな認めた。  そのうえで、本論文の第一の価値である正確な記述のためにも、それを後世に残し、読者に理解させるためにも、審査員から、敗戦直後の数年について当時の厚生省によるデータには欠損があるのだから、そのことは明記し、読者に注意を促すべきことが指摘された。筆者はその指示を受け、適切な改稿を行った。  以上により、審査委員会は一致して、本論文は本研究科の博士学位論文審査基準を満たしており、博士学位を授与するに相応しいものと判断した。

短くまとめればこういうことだ。そのうえで、今回の私の文章はしょうしょう長くなる。第2節に、かなり前に書いた文章にいくらかを加えて掲載させてもらう。天田城介・樫田美雄編『社会学――医療・看護・介護・リハビリテーションを学ぶ人たちへ』(仮題、天田・樫田編[2023])のために文章を依頼され、題を「難病」(立岩[2023**])と依頼された通りのものにした原稿を2020年8月に送付した。なかなかその本が出ないので、ただ待っていても、と思い、本の原稿には分量の制約があるので、それよりも長い文章にして、ここに収録することにした。もちろん、この(酒井の)本に関わる内容のものだからだが、酒井の後にも、関係する論文を書き、博士(学位申請)論文を提出する人がいる★02。それらの人たちのためにも、ある程度の「見取り図」的なものを本書に収録してもらうのはよいだろうと考えた。そして本節(第1節)では、本書(酒井のこの本)が対象にしたものをどう見るかについて、簡単に記す。

■2 力の配置

これもいつものことになってしまっているが、ひとの本の解説・解題という文章で、私の本を知らせ・宣伝する。ついでに私の本も知られ売れてほしいという素直な思いもあるが、「やー(自分の本を)読んでもらえてないな」というすこし悲しい思いもあってのことだ。酒井さんに限らず、たいがいそうだ。ちなみに、そういうことを露骨に言うと、すまないという気持ちにもなるのか、なにか引用してくれたりすることもあるのだが、すると、「そういうことでは(そういうことを言っているのでは)ないんだよな」ということにもなる、とかいうこともあるので、あまり強くは言わない(言えない)。また「ここはこういうことではないか」というところについて、メモのような文章のようなものを書いて、メールで送ると、それがほぼそのまま貼り付けられて、そこだけ他の部分と違う書き口になっていたりする、と同僚(美馬達哉)に冷やかされたりする。なかなか難しいものだ。それでも、論文や本を作ってもらうに際し、私としてできることはする。ただ加えて一つ、筆者の論文・著作とは別に、「私はこういうことなんではないかと思う」というところを、こうやって別の文章にしてみるのもありかと思うことにした。 さらに加えて、今回は、いつもにも増して、私がやってきたつもりの仕事、具体的には『病者障害者の戦後』(立岩[201811])は、本書が対象としている国立療養所をどう捉えるかについて(も)書いたものだ。そしてその(私の)本は、ものごとをまず、こういうふうに見てみようということを述べた本でもあった。 身体とか医療とか施設とか書く時、「生政治」「生権力」といった言葉が使われるのだが、しかしそれは間違ってはいないとしても、多くの場合、みながあらかじめ知っていること以外、そんなにたいしたことは言われない。それよりも、結局は残るだろうやっかいなところをきちんと考えるためにも、まず、普通に調べてわかって書けることを書いていけばよいと私は書いている。それで「退屈な」「凡庸な」といった言葉を幾度か使っているし、それは、実際、調べていくなかで思ったことでもある★03。利害関係者(たち)がいる。病や障害について言えば、まずその本人(近頃は「当事者」と呼ぶ人が多い)がいるのだが、実際にはあまり力を持たないことが多い。その人の周りに家族がいる。医療や看護や福祉の業界の人たちがいる。それに関わるお金を集め渡す役の政府・行政がある。それに影響力があることになっている政治家がおり政党がある。さらに加えれば、報道機関、言論に関わる人たちがいる。まずそれらの各々の利害や、その対立や、綱引きや押し付け合いを見ていこうというのだ。  そして、皆が知っていることだが、その一つひとつの内部も一様ではない。業界の人たちにしても、例えば医療と福祉の人たちは、時に利害は一致せず、対立したり、お客を巡って綱引きしたり、押し付け合ったりすることもある。同じ医療の人たちであっても、開業医たち、主にその人たちの組織である医師会と、それとはまた別のところで働く人たちの利害は異なることがある。また同じ施設でも経営する側と働く側とは対立することがある、とともに、ときには、例えばその施設=職場の存亡の危機といった時には、一致して動くこともある。その力の配置を、力のかかり具合を、その帰結を調べよう。ただそれだけだ。  こうした仕事は、きちんとしようとすれば時間と手間はかかるが、本来は、そう難しいことではない。誰がやってもよい。だが、看護学といった領域の人たちは――ナイチンゲールにはそういうセンスがあったと思うのだが――まずそういう仕事をしない。社会福祉学の人たちも意外としない。社会の組み立てを調べるのが社会学者の仕事なら、社会学者がやったらよいのだが、理由はさらに不明なのだが、そして明らかによろしくないことだが、そうした仕事は少ない。それで私は、古本で入手した、そして本書の筆者も用いた『国立療養所史』全4巻を専ら使って、本を書いた。たいへん安直なやり方ではあったが、それでもかなりのことがわかったように思う。

■3 供給の仕組み、にまつわること

そして加えて、ここでは医療・福祉が供給されることになっているのだから、それがどういう仕組みになっていて、そして、その何をよしとするのかということがある。一番簡単なのは、一方は、すべて自己負担で、供給は民間が担うというかたちであり、他方は、すべてが公費によって運営され、医療機関はすべて国公立、働く人はみな公務員というかたちである。ただ現実には、もっと複雑にまじりあっていることが多い。前者(負担の場面)では、一部自己負担ということがあり、どの制度・施設を使うかでそれが変わったりもする。本書に記述されていることでは「特別会計化」(p.33, 131)もこのことに関わる。後者(供給の場面)では、国公立と私的機関との併存ということがある。半官半民とか、公設民営とか、その間も連続的である。これは事実がどうなっているかということでもあり、またどうあったらよいのかという問題でもある。私は、考えて、費用は社会的に負担し、供給(機関)は民間を認めてよいとした★04。そして現実に、私的に経営される医院があり、国公立の施設がある。そこで実際には何が起こってきたか。 例えば、「医療の社会化」という言葉が、いっときスローガンとしてあったのだが、それは実質的には、その費用を社会的に賄うべきであるという主張――それに私は同意する――だけでなく、医療機関を国公立のものとし、医療者を公務員とするのがよいという主張であったはずである。今どきそれを現実的なこととして考える人は少ないし、私も結局その立場には立たないが、しかしその主張にもっともなところはある。こうした主張・運動についても誰か研究してほしいものだと思う。そして、敗戦直後のこの国にやってきたGHQのなかには、そういう方角を向いた人たちがいた。そうした「進歩的な」考え・考えの人たちは、すぐに、朝鮮戦争などで防共・反共の方角に方針が変更されるなかで、後退させられるのだが、いっときは力を持っていたようだ。  本書は「日本医療団」にふれている(p.30, 52)。私の本にも記述がある(立岩[201812:72ff.])。すくなくとも合わせて読んでほしいと思う。またこれも誰かもっときちんと研究してくれたらよいと思う。戦争遂行の絡みもあり、国策として、国家の意向を反映しつつ政府機関ではない種々の「中間団体」が作られていったという歴史があったわけだが、その一環ということであったかもしれない。そしてこうした性格の団体が、戦争直後、軍国主義の温床になったということで、解体が迫られ、解体された。日本医療団の解体もその一部であったということかもしれない。ではどうするか、いくつか案があったのだが結局国立療養所に組み込まれた(立岩[201812:77-79])。ただそれ以前、本書に記されているように(p.53)、日本医療団の発足に際しても医師会からの反対があったという。その医師会的な勢力は自らの仕事を確保しようとするし、同時に、ある部分は避けようとするかもしれない。他方の国公立や半官的な施設の側は、あるいはそれを担当する官庁・官僚は、その組織の正当性・必要性を言おうとする場合があるだろう。その時、「社会防衛」は国家の仕事である、だから、国公立でという理解・主張の仕方がある。また、国家が引き受ける責任があるから、という主張もある。社会防衛は国家は責任、となれば、両者は重なることもある。  本書第7章「難病と病床」で紹介される「難病」に関わる国会での質疑・答弁もそのように読むことができる。明らかなことは、「共起ネットワーク」(p.155)からは、すくなくとも今回の本書での使い方のもとでは、たいしたことはわからないということだ。「難病」という語とは直接に対応しないとしても、国家が何に対応すべきだとされたのか、いくらかを伺い知ることはできる。すると、国立療養所が、まず結核、ハンセン病、精神障害の施設にされたこと、加えてそれ以前から戦争由来の脊髄損傷などの障害への対応が仕事とされた(cf.坂井[2019])ことも理解はできる。そしてそれらのなかでも変動はあり、ハンセン病療養所は長く、やがて消滅していくことも見込んで、そのままにされ、他方、精神病院は、すでに存在する国立療養所や国公立の使い回し程度では足りないということになったのか、経営的にやっていける条件を付与する/させることによって、民間病院が参入し、膨張し、そのお客を手放そうとしないで、認知症など新たなお客を確保することに努めて今日に至る、ということであるのかもしれない★05。「普通の医療」は民間の医院であるとかが務め、その利益を確保しつつ、「高度医療」については都市部に置かれる専門の医療機関や大学の付属病院が担う、となると、地の利もよくはなく、施設も古くてそう立派ではない、しかし医療施設ということで医師がその施設長を務める国立療養所はどんな役割を果たすかということになる。通院ではなく、そこで長期に暮らす人たち、その暮らしに文句を言わない(言えない)人たちの施設になる。そして、そのことはそこで暮らす人たちにとってはよかったか、よくはなかった。よくはないなら、よくしたほうがよいし、それでもいたくない人はいなくてもすむようにすればよい。そのことをさきほどから紹介している本に書いたし、以下では第2節3「それは困難をももたらした、そこで」以降にそのことを書いている。本書が描いたことは、おおまかにはそのように捉えられるだろうと私は考える経緯・変化の一部だ。結核療養の人たちは減っていった、公私の区分けでいえば公の部分がだんだんと減っていった、といったことはおおまかには知られている。しかし、具体的にどんな具合だったのか。とくに敗戦直後の数年間については確かな集計だとは想定できないことなどに留意しながら、集計する必要はあり、意義がある。誰もがこの本を買うべきだとは言わないでおこう。なんでこんなところに居続けなければならないと思いながら、(旧)国立療養所に今も暮らす人たちにしても、本書を読んで理解したからといってどうなるということはない。しかしその人たちとともに将来を考える人たち、考えるべき人たち、教育・経営・行政に関わる人たちは、是非読んでほしいと思う。  そして研究しようという人たち。あきれるほど社会(科)学者たちは仕事をしてこなかった。これから進んでいけばと、進めていければと思う。なにもないのだから、皆がわかったことを集めて、寄せ集めていこう。その重要な一部を本書は集めてくれた。  私は「見立て」「筋」が大事だと思う人間だ。だからこの文章を書いている。しかし、恐竜の化石にしたって、古墳の跡にしたって、夏目漱石の新たな書簡にしたって、まず発見して報告し記述することだ。さらに加えるなら、長年の怠業が災いしてか、私たちは使えるような「先行研究」「枠組み」をもっていない。あるとされているそれらは、実際にはたいしたことがない。そういうものに無理やりはめ込むより、そんな手間をかける時間があったら、対象とするものを調べて書くことだ。それをどう見立てるかは、そういう仕事をしながら、皆で、私も加えてもらって、考えていける。そう思っている。

2, 「難病」に書いたこと+

本稿の冒頭に記したように、以下は、「難病」という題のべつに書いた原稿に、いくらかを加えたもの。本書の読者には参考になると思って、また研究をしよう、まとめようという人たちのために、掲載する。

■1 薄幸の美少女がという難病もあるが

難病はまず「やっかいな病」といったぐらいの日常語だ。すこし本を集めていくと、1970年代、『父ちゃんのポーが聞こえる――則子・その愛と死』(ハンチントン病)『瞳に涙が光っていたら――クリーゼとたたかう青春の詩』(重症筋無力症)、『母さんより早く死にたい――愛の詩』(重症筋無力症)等々といった本が出ている(すぐ後で紹介する95冊のリストにある最初の3冊)。これは本人や家族の手記ものだが、同時期、薄命の(美)少女の話が少女漫画等に、そしてテレビドラマや映画に描かれる。そういう難病のイメージがある。その伝統は今も続いているだろう。 最もやっかいな病は普通なら癌だろうし、実際、しぬほどたくさん出ている「難病を克服する」方法を説くたいがいは怪しげな本では、癌は難病の中に入れられている。ただ、美少女もの~難病という系列では、胃癌等だと普通な感じで、すこし違う。骨肉腫だの白血病ということになると難病っぽい感じがする。こうした病や病人たちの描かれ方の歴史というものもある。いかにも、そういうことを調べるのが好きそうな人たちがいそうなものだが、そうした研究があることを私は知らない。誰かやってみてもわるくはないと思う。そして、これから書いていく制度の流れとたしかに関係して、難病には、聞いたことのない難しい名前のものを含め、数少ない人のかかる珍しい病というイメージもある。そのおのおのがどんなものであって、それがどんな生活上の困難その他をもたらしているのかということがある。これまで関心をもたれることが少なかったから、一つひとつもっとわかった方がよいということはあるだろう。そうした必要に沿うものとして『難病カルテ――患者たちのいま』(蒔田[2014])といった本もある。それを読むのもよいだろう。そして私は、筋ジストロフィーの人たちに関わる歴史を主に記述した『病者障害者の戦後』(立岩[201812])で、その本の末尾にその人たちや関係者の本を95冊列挙した。また、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の本人が書いたたくさんの本を取り上げた『ALS』(立岩[200411])の後に出た本を35冊、そしてそれ以外に77冊の「難病本」をあげた。本は2018年に出ているから、その後に出たものを別途知らせる必要もある。そして私たちのサイトには69種類の「難病」の頁がある(http://www.arsvi.com/d/n02.htm)。そのサイトの表紙(http://www.arsvi.com/~「生存学」で検索)にも「難病」という項目がある。「生存学 難病」で検索してもらってもよい。現在その更新の作業は停滞しているのだが、情報を提供してくれれば、それはほぼ必ず掲載していく。収集や整理の作業をやってみたいという人も歓迎だ。そのサイトを運営している研究所では、医学の専門書ではない様々な本や資料を集めて、書庫に並べて、上記ホームページ(以下HP)にそのリストをいろいろと載せるということをずっとやってきている。今あげた約200冊もその一部だ。 こうして、このような言葉の使い方の流れもあるとか、こんな病気・障害もあるとか、そんな話もできるかもしれないのだが、これから書くのは、それとは少し違う話だ。 この言葉は、業界用語としてあり、政治の言葉としてある。社会的支援がこれまでなされていなかったが、それをなさねばという気持ちのもとで、具体的に政府のお金を出させる対象として「難病」が現れた――以下面倒なので多くの場合「」を外す 。そして、それを主導した一つは医療の側であり、そのお金を出させる根拠を研究に置いた。それは、この国に特殊なことでもあるが、それだけとは言えない。医学・医療への偏りは、ある程度この近代の社会によくあることでもある。それに偶然的な要因も加わって、この国の今の状態を作ったのだ。そのように捉えられることを言う。そして、その結果よくないことも起こってきた。その事情がわかると、ではどうしたらよいかも言える。なのでそれを言う。以上を述べる。ただ、専門に研究しているわけではない私には確認できていない部分がある。おおまかな構図だけを示す。それでも、以下すこしややこしいことを書かざるをえないが、仕方がない。さきに記したサイトにこの文章についての頁(「立岩 堆積や交錯や忘却を描く」で検索すると出てくるはず)を作って、関係するページ(ファイル)をリンクさせておくから、分量の制約ゆえどうしても詳しくは書けない部分はそれで補っていただきたい。

■2 難病という仕掛けの歴史

難病が制度のなかに登場するのは1970年代の初めだが、話はそれよりは前から、1960年代の半ばには始まっている。身体の状態に関わり、そのときどきの制度では対応できず、なんとかしてほしいと思う人たちがいた。それは本人だったり家族だったりする。そして、社会問題に関心のある人たち、この時期には医療者たちが、その困難な人たちに目を向け、支援し、なんとかしてくれと政治に訴えた。私が調べて『病者障害者の戦後』に書いたのは、筋ジストロフィーの人たちのこと、その人たちに関わった人たちのことだ。1960年代前半、子と自らの窮状を訴える親たちの組織ができ、それに同情した医療者たちもいた。親たちは国会に陳情に行き、新聞が報道し、政治家が約束し、1965年に政策対応が始まる。結核の人たちをたくさん受け入れ、その後その人たちの入所が減っていった国立療養所が受け入れた。そこは病院であり、その長は医師・医学者だった。受け入れの理由も研究と治療ということであり、その医師たちが研究班を作り、厚生省(現在は厚生労働省)がその研究班に研究費を支給するという仕組みができた。私は、これが1970年代以降の日本の「難病体制」の「型」を作ったのではないかと思う。医療者主導の研究・治療という枠組みが作られ、お金が施設収容の費用に行くという部分は後の他のものと同じではないが、その枠組みのもとでのいくらかの生活援助という仕組みの原型がここに現れた。ちなみに筋ジストロフィーは、後の基準からは、また私たちの語感からも難病ということになるだろうが、この時に制度が作られたから、70年代の難病には入っていない。こんな具合に言葉は使われてきた。もう現役の官僚などはそうしたいきさつをほぼ知らないはずだ。 そして、その少し後、大きな役割を果たした一つは「薬害スモン」だった。これはキノホルムという薬品による健康被害だったのだが、しばらくは原因がわからなかった。生活の困難があり、「奇病」とされ、伝染病であるとの説もあり差別もあった。薬害にも今は難病というイメージはないかもしれないが、「難病看護学」の創始者の一人である川村佐和子はスモンについて難病という語を意識的に使い始めたのが69年だったと後で述べている。次に記す72年の制度のもとでの難病に薬害スモンは入っている。一つの挿話として、難病の原因究明を求める集会が開催されたのはキノホルム説が現れた70年8月の直前で、まだ原因不明だったその時機ゆえその集会が盛り上がったということもあったようだ(スモンに関わって立岩[201812:43-44,54-55,60-61])。そして薬害スモンは「神経」に作用しているというということで――という理解でよいか、たいして自信はない――、医学者では神経内科の人たちが研究し発言した。薬害スモン(と新潟水俣病)の原因を発見したのは椿忠雄という人だったが、この人はまた日本ALS協会の立ち上げにも関わり、長く「恩人」のように扱われる人だった(立岩[200411:325][201812:227-237])。こうして「神経難病」という範疇が前面に出て、研究施設・病院、そこを拠点にした医師や看護師たちがいて、そこから「難病看護学会」といった学会も生まれ、そしてその学会は続いている。そこに関わっている直系の弟子たちは川村らその創始者たちから、創成期の苦難と栄光について聞いたことはあるにしても、社会のなかでの「位置」についてあまり考えることはないのではないか。そういうことを調べたり考えたりする意味はあって、そんな仕事をする(はずである)ところに社会学の意義もある。以上とどこまで直接的な関係があるのか私にはよくわからないのだが、「ベーチェット病患者を救う医師の会」が「「難病対策救済基本法」試案」を作成し、それが1971年2月20日の『朝日新聞』朝刊に掲載された。難病とその政策の歴史についての数少ない研究書――ほとんど唯一、衛藤幹子の著作(衛藤[1993])が貴重な書籍としてある――そして研究論文(たいへん少ない)では、これが難病という言葉を一般化させたきっかけだとされている。 そして同年10月、厚生省から「難病対策要綱」が発表される。そこでは難病は、「①原因不明、治療方法未確立であり、かつ後遺症を残すおそれの少なくない疾病。②経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず、介護等に著しく人手を要するため、家族の負担が重く、又精神的にも負担の大きい疾病。」ということになった。また、「ねたきり老人、がんなど、すでに別個の対策の体系が存するものについては、この対策から、除外する」とされた。(まだ)なおせないというおもには医学的な規定と、生活の困難に対応しようという気持ちと、大きくは2つが列挙されており、普通には両方の要件を満たしたものが難病だということになるだろう(より詳しくは先に紹介したHPの頁を参照のこと)。他方、民間の動きとしては、翌72年4月に「全国難病団体連絡協議会(全難連)」が結成されている。そこには「全国腎臓病患者連絡協議会(全腎協)」などが加盟している。腎臓病は、たしかになおらないというものではあるのだが、やはり、今の難病のイメージからは少し不思議だ。それは希少なものではない。しかし、今でも地方の難病連絡協議会といった組織には腎臓病の人たちの団体が加盟していることがある(葛城[2019])。腎臓病の人は何十万といて、今から考えるとこれも不思議に思えるが、その人たちとその組織は、困難を自覚し、それを社会に訴えていくことにした。困難な病を抱える人たちの組織として、他の困難を抱える人たちとともに訴えた。人工透析にたいへんお金がかかり、金がなくなって死んでしまう人もいたのである。それで公費負担を求める運動があった(有吉[2013])。ちなみに、実質的な公費負担は障害者福祉の制度を使ってわりあい早くに実現し、そのこともあって、腎臓病は難病という制度からは外れることになった。ちなみに、この時期、今は難病には括られないものを難病に含めて発言・運動したのは民間団体に限らない。例えば、当時の社会問題について発言し政策に関わった白木博次という医学者は「重症心身障害児(重心)」も難病の人に含めて発言している★06。こうして「制度としての難病」は、研究の対象としての難病であるとともに、というよりはその医療・研究という枠組みでのもとで、生活を(生活も)改善しようというものだ。研究は金を出させる名目のようなものでもありつつ、しかしその実質においても医療・研究という条件・制約がかかることになった。「特定疾患治療研究事業対象疾患」(のちにこの辺の名称は幾度か変更される)に指定されることによって、「研究事業」のもとで医療費の軽減などが行なわれてきた。また原因・治療法の解明を求めるとともに、生活上の困難の軽減、医療費負担軽減策を求めた人たちが「特定疾患」への認定を求めてきた。  その後のことはやはりHPの「難病:歴史」の年表等を見てもらいたい。おおまかには72年の枠組みのもとで、名称をときどき変えながら、制度の対象とするその数をだんだんと増やしていったということになる。細かいことでもあり、列挙すると煩雑でもある。いま紹介したHPの年表等を見ていただきたい。比較的に大きなこととしては、2014年、「難病の患者に対する医療等に関する法律(難病法)」が成立している。その法律で言う「指定難病」の数はかなり増えて、翌年にかけて306が指定された。この指定難病は、条文には明記されていないことも含めると、「発病の機構が明らかでない」、「治療方法が確立していない」、「長期の療養を必要とする」、「患者数が人口の0.1%程度に達しない」、「客観的な診断基準等が確立している」の5要件を満たすことが必要だとされた。数はかなり増えたが、おおまかには1970年代初頭に始まったものを引き継いでいるということだ。このあたりの歴史について、まずはごくごくたんたんとしたものでよいから、誰か書いてほしいと、長らく思っている。

■3 それは困難をももたらした、そこで

この体制をどう見て、どのように評価するのか。 筋ジストロフィーでもALSでもよいのだが、それらは難「病」と言われるとともに、(最)重度の障害ともいわれる。これはどういうことになっているのだろう。まず、「病」と「障害」とはどのようにして使い分けられているのだろう。言葉の意味するものは、時によって人によって場合によってかなり異なるし、曖昧でもある。だから正解というものはない。そのことはわかったうえで、そう大きく外れていないだろうというところを幾度か書いて、『不如意の身体』(立岩[201811])にまとめた。病は、「苦しみ」そして「死に向かうもの」である。他方の障害は、基本的には「できない」ことであるが、加えて実際には、姿形が「異なる」ことがかなり大きな契機としてある。さらに、病・障害という言葉自体の意味ではないのだが、感染そしてさらに犯罪につながるとされる「加害」が社会的には問題にされてきた。 ただ直接に身体をなおす仕事、とくに侵襲的な行為を行ってよいとされる人として医療者・医師がいる。つまり、病に応ずる医療者は、できない状態をできる状態にする(ことを期待される)人でもある。同じ人たちが病と障害の両方の人たちに関わることがある。これも両者の境界がはっきりしないことに関わるだろう。 そのように整理してみると、多くの場合には、両方の契機がある。病人か障害者か、というふうに周囲の人たちのみならず本人たちも思ってしまうところがある。しかしこれはすこしでも考えれば間違っている。病人かつ障害者、ということがたくさんある。とくに「難病」の場合には両方にまたがっていることが多いことがわかる。あるいはむしろ、障害の要素の方が大きいことがある。そしてこれは難病が現れてきた事情からも不思議ではない。その生活の困難さが問題にされた。そしてなおらない。なおらずに死んでしまう病もあるが、その状態が続く。その状態の大きな部分は「できない」ことだ。例えば、私はその人たちについての本『ALS』(前出)を書いたことがあるのだが、「ALS(筋萎縮性側索硬化症)」はそういう状態だ。ALS自体は、呼吸を人工呼吸器によって補うといったことが必要になるが、死をもたらすものではない。動かないことによる身体の苦痛を軽減するのも、身体の位置を微妙に変えるといったことで対応がなされる。身体が動かなくなり、自分の身体によっては様々なことができなくなる。そして、その人たちのために医療(者)ができることは多くはない。つまり、今のところ、できないことをなおすことはできない。それを補うのは、人による介護(介助)ということになる。 こうして、なおせないという条件のもとでだが、「障害」という部分のほうがずっと大きい。他にもそうした「難病」はたくさんある。しかし、その「難病」は先に述べたように、医療、医学研究を理由に金を出すことが先行した。実質的には生活のためのお金なのだが、「建前」としては、研究のためにということになってきた。そこで、うまくはまらないこと、使い勝手がわるいということになる。実質的に生活のために使えるのであれば、お金はなんのためにも使えるからその限りでは困らないとは言える。しかし、それは生活するのに十分に支給される場合だ。そんなことにはまったくなっていない。 次に人について。医療者たちは(できないことも含め)なおすことが仕事の人たちだから、なおらない人に関心をあまりもたないし、実際にできることも少ない。できることが少ないから関心をもたないということにもなる。とすると、本人たちに主に対応することのできる人は医療者ではないということになる。それでも、1960年代から70年代に関わったのは、さきに述べたようにもう少し熱心な人たちだった。その人たちは、たんなる技術者・科学者というよりは困難を抱える人たちに同情的な「社会派」の人たちだった。今よりは人の生活に関心を向ける医療者・看護者たちがいたということであり、それはまずはよいことだと言えようが、ことはそう単純でない。一人ひとりの思想や行ない、行なったこと行なわなかったことを,『病者障害者の戦後』で述べた。その一人ひとりが同じでない。ただ、その後のより普通な医療者も含め、それらの人たちは、病気を(実現はしなくとも)「なおすこと」を仕事にしている人であり、それ以外のことが仕事としてできるわけではない。しかしその医療の場に人が囲われることになった。そして、そのままだいぶ長い時間が経ってしまった★07。すると、いちばんわかりやすくは、障害の部分への対応が欠落してしまう。もっとわかりやすくは介助を得ることができない。看護の人たちは在宅看護で対応するのだと主張したが、実際には1回30分とかせいぜい1時間程度の訪問によっては長い時間の対応はできない。それを拡大する現実的な展望もない。そうした状態が続くことによって、家族が長い時間介助(介護)するか、そうでなければ早めに死んでしまうということになった。それを変えよう、具体的には介助・介護の仕事をする人も、医療・看護職がやってきた仕事の一部をできるようにしようという動きがあり、それに対して、自分たちの仕事がすでに十分に確保できている医師たちはさして反対しなかったが、看護の学会・業界が反対・抵抗した★08。とすると、対処するべきその場所を間違っているかもしれないということだ。対処するべきことの大きな部分は、「できないこと」である。しかし、医療はそういうことに対応する仕事ではない。身体を「できる」ようにすることはあるが、いつもそうはうまくいかない。日本の制度では「障害」はその状態が固定された場合に認定されるものだから、その時点で、なおすためにできることはないか少ないというということになる。すると「できない」ことを前提にした対応が必要なのだが、「難病という仕組み」は、むしろその可能性から人を引き離すものとして作用したということだ。これは、ここまで見たように日本に起こった特殊なできごとではある。しかし、医療によって対応しよういう流れ、そして補うことについては手を抜こうという動き・考えは世界中にあってきたし、今もある。その意味では、医療の優位とそれに伴う生活の困難という構造の日本的なかたちであると捉えるのがよいだろう。その状態がずいぶん長く続いてきた。しかしそれでは生きたい人は困る。他方に、同じ1970年代以降、介助(介護)の制度を作らせ広げ使ってきた人たちがいた。その人たちは、医療者とは仲良くはなれないという人たちだった。なかにはなおすためのことをいろいろされたのだが、痛いばかりでよいことはなかったという人たちもいた。医療から離れて、人・社会の力・お金を使って暮らそうということになる。その恨みがあり、敵意をもつこともあり、「自分たちは病人ではない、障害者だ」と主張した。これはいくらかは誇張している。もちろん医療も必要な時には使ってきた。ただ、例えば脳性まひであれば、その障害自体について医療がすることはたいへん少ない。にもかかわらずなされた手術やリハビリテーションは無効である以上に苦痛を与え、かえって身体によくないことがあった★09。こうして、二つの別の流れがあった。互いが単純に知らないということもあったし、知らないから警戒していたこともあるかもしれない。それで、壁のある状態は続いた。 しかし、仕事をする人はそれですんでいるとしても、暮らしていこうという人はそれではすまない。そのままだと死んでしまう。その人たちは、「難病」の医療・看護・政策と別に活動してきた人たち、「障害者」のやり方を学び、その人たちが関わった制度を使って暮らすことになった。そうして壁がすこしずつ低くなってきた。私もまた、壁があるのはよくないと思って、必要なものは使えるようになった方がよいと思って、『ALS』を書き、そしてこんど手にとりやすい易しい本として『介助の仕事』(立岩[202003])を書いたのでもある。

■4 あらためて医学・医療の位置

枠組みとしては同じ枠組みのもとで、「指定難病」の数は増えてきた。しかし、一つずつ認めていくのではまにあわないということはずっと言われてきた。それはいろいろな種類の難病の組織、そうした組織の連合体においても言われてきたことだ。残ったものを拾っていっても、結局「谷間」は残る、だから、そのようなやり方と違うやり方にするべきだと、と言ってきた。ただその同じ組織が、この枠組みのもとで数を増やす流れに乗ってきたのでもある。どうしたものか。すぐに実現するかどうかはともかく、いや実現させるために力を尽くすためにも、どのような方角を向くのかをはっきりさせた方がよい。まず誤解はないと思うが、本人にとって益の方が大きいならなおすことは否定されなない。そのために原因究明が必要なことはあるだろう。原因を知ること自体が目的なのではなく、治療法・対処法を知ることが必要であり、そのために機序がわかるとよいということだ。 ただ一つ、なおるようになる可能性があるとされるところにお金が集中してしまうことには注意しておいた方がよい。『ALS』にも書いたのだが、原因究明と治療法の開発が必要だとされ、それはすぐにも可能だといったことが言われ、言われ続け、その後ずいぶんな時間が経ったが、残念ながらさほど大きな進展はなかった。筋ジストロフィーについても、その前、1960年代に研究が始まり、それは施策の始まりでもあったのだが、同様な状態が続いている。このことは『病者障害者の戦後』に記した。その可能性がないと言っているのではない。そのうちなんとかなってほしいし、その可能性はあると思う。しかし、ならば二つ以上を同時に進めるべきである。すくなくとも、当座暮らすためには、障害に対する対応が求められる、医療が通常は提供できないものが必要である。 そして根治の方法がわからないなら仕方がない。その場しのぎであっても、対処法は大切だ。この時代の医療者たちがそういう部分に関心を向けにくい人たちであることは述べたが、それはよいことではない。心身をよい状態にする、保つというのがその人たちの「本来」の仕事のはずだ。現実には不得意かもしれないが、それでも、その人たちの持てる技術・地域を使ってできることはあるはずだ。例えば苦痛を減らすことはとても大切だ。苦痛への対処の仕方がよくないから、もっと上手になった方がよいし、その方法を開発する必要もある。そしてそれは「難病」の枠に入らないとそれはできないか。本来はそんなことはないはずだ。 「原因」を調べ、メカニズムを解明して、対処法を見出していく時には、ある程度、個別にみていった方がよく、この場合には難病政策における疾患別という対応も一定の意味があることもあるだろう。そしてとくに、その病・障害の人の数が少ないものへの対応が大切だ。あえて英語に難病という言葉に対応する言葉を求めればというとき、「rare disease」という言葉――ある程度重なっているが日本語での「難病」は珍しい病というだけでないことをここまで述べてきた―― と「orphan disease」という言葉があるのだが、これはかかっている人が少ないために取り残されてしまっている病のことを言う。そしてその病の人に対して必要とされるが開発されにくい薬のことを「orphan drug(直訳すれば孤児薬)」と言う。お客が少ないので、開発がなされない。これはよくない。そこで、市場にまかせるのでなく、寄付に頼るのでもなく、政府が金を出すという体制はわるくない。そしてそれは研究開発に限らない。当該の人の少ない病・障害について対応できる医療者・医療機関がわずかで不便だということはたしかに多くある。それも用意するべきだ。だから疾患別に対応すること、そして患者の少ない病に個別に対応することの積極的な意味はある。日本での体制が他の(国の)やり方と比べてどの程度機能しているのか、成果を収めているのか。私にはそのようなことを評価する材料もなにもないからわからないが、誰か研究して評価するとよいと思う。 加えれば、医療費については他の疾患と特に別建てにすべき理由はない。ただ現行の医療における自己(家族)負担が高すぎるから、現行の減免制度を維持すべき合理的で差し迫った根拠はあると考えるべきである。

■5 どのように認められないものを認めさせるか

難病体制は、「その他」を取り込むものとして機能してきたことを述べた。では現在、「その他」として何が残っているのか。本項と次項に記すことは、また幾人かの人たちの研究に関わっていて、その人たちの役に立つようにとは思うのだが、長くなってしまうから、それはまた別途、ということで★10、以下ほぼ2020年の原稿のままにしておく。  実際に多くの人たちが困っているのは、痛いとか疲れるといった状態にあることだ。いまある名称としては「慢性疲労症候群」とか「線維筋痛症」といったものだ。私が知る人で「複合性局所疼痛症候群(CRPS)」について論文を書いた大野真由子はその症候群の本人で、韓国や米国ではそれが障害に認定されていることを紹介する論文等を書いて、博士論文にまとめた(大野[2011][2012][2013])★11。これらの症状・状態をもたらす機制は少なくとも今のところはよくわからないようだ。この時代の医学・医療が得意とするのは、身体の特定の部位に病巣を見つけ、それをなんとかするというものだが、痛みや疲れはそうしたものではないように思える。だから、なかなか得意でないということが一つにある。わからないし、自分たちはたいしたことができないし、手術といった派手なことをしてさっぱりとなおせるというものでもない。関心をもちにくく、避けようとしたり、心のもちようだなどど言ってしまったりする。しかし、身体に起こっているその様子を見れば、どこかに理由はあるのだろう。解明はなされた方がよいし、基本的な機序がわからなくても、なぜかある対処法が有効であるといった場合は、他の疾患でも多々ある。そうした部分で医療はもっとできることはある。だから、現実にはさぼってしまいがちなのだが、さぼってはいけない、医学・医療はきちんと仕事をするべきだと前節で述べた。 では難病指定を求めるという方角はどれほど有効か。疲労や痛みは、すくなくとも何十万という数の人たちのことだから、希少性という条件は満たさない。それはそのような条件を設定している側がわるいのだという主張はもっともだが、難病の定義を広げてその法律のもとでという要求の方向とともに、どの法律にいれてもらうかはどうでもよいからなんとかせよという主張ももっともだ。そしてより大きなことは、指定を得られたとしてどのぐらい得をするかということだ。不得意であっても、関心をもちにくくとも、あるいはだからこそ、対処法の開発はなされるべきだ。それは主張するべきだし、実現するべきだ。その状態を難病指定ということで得られるならそれもよいが、他のより多くの人たちがかかっている疾患と同様に研究がなされるべきことを主張してもよい。 そしてもう一つ、この難病の枠のなかでは生活の部分は基本的には対応されないということだ。痛みや疲労が「その他」であってきた事情は、医療の対象になってこなかったという事情とともに、障害者関係の法で規定される障害の範囲が狭いままであることによる。今一部で起こっていることは、そのすきまの部分を病気~難病という範疇をもってきていくらか埋めようという動きであるようにも見える。その事情自体はわからなくはない。しかし、それは本来は筋が違うだろう。医療以外の社会サービスの多くは障害に関わる法・制度によって対応されるべきである。なんらかの身体的な事情に関わって不都合が生ずるのであれば、それは障害であるとにするのが理屈としては一貫しているし、疲労や痛み自体をなくす技術がない、すくなくとも十分にはない間はそうするべきだし、そうするしかないということだ。 だから、疼痛・疲労などによって活動・生活が妨げられることを勘案してこなかった障害認定のあり方を変える必要がある。障害は普通に可視的なものとして想定されているとすると、たしかに痛みや疲労は見えやすいものではない。足がないとか手がないとかいったわかりやすい欠損・障害ではない。しかしわかりやすかろうとわかりにくかろうと、不都合・不便はある。場所・機序・名称…がわからないことは多々ある。本来は所謂「インペアメント」の場所が特定されていることを障害を有することの条件にしてはならない、不便(ディスアビリティ)の方を見よ、というのがずっと言われてきたことであり、ようやくいちおうは認められるようになってきたことだ。 すると一つ、疲労や痛みは誰もが経験することだと言われる。それ自体はその通りだ。しかし、程度の差というものは時にまったく重要・重大なことであり、「普通の人」もいくらかは経験するという事実は、それをたくさん経験している人にはなにもしなくてよいという理由にはまったくならない。 一つ、その状態とその程度を測定することができない、あるいは困難であることが言われる。尺度自体がないわけではないらしいが、客観的な測定といったことが他のものよりは困難であることは認めよう。そして、その本人が言うことに依拠せざるをえない、というより依拠するべきである。それなのに、制度的な対応を望むと、「客観的な基準」が必要だといったことが言われる。なにかしらを測定する方法はすでにあるのかもしれないし、これからできたり改善されたりすることがあるだろう。しかしすくなくとも現在は、そしてたぶん今後も限界はあるだろう。痛みとか疲労といったもの、それがその人において感じられるものであることは誰もが認める。その人の言葉によってわかるしかない部分がある。ここ数十年「ナラティブ」とかそういうものが大切だとさんざん言われた。この間、人文社会的な言論はそんなことは言ってきたし、そのぐらいのことしか言ってこなかったともいえる。他にも言うことがあるだろう、芸が足りない、と私は思うが、言っていること自体は間違っていない。にもかかわらず、結局その一芸は生かされていない。これは困ったことである。 まず、疲れるものは疲れるし、痛いものは痛い。そのこと自体について、嘘をつく要因はない。だからそれは、解明され軽減のための技術が開発され改善され適用されるべきだ。 疑いをかけられる場合があるとすればそれは、サービスやお金の受給の場面、そして労働の軽減が求められるといった場合だ。「詐称」「詐病」の可能性が言われる。つまり、ほしいので、あるいは働きたくないので、嘘をついているのではないかということだ。 たしかに人は嘘はつける。嘘をつく人はいないと言い切る必要はないと私は思う。しかし、それがどれほど大きな問題かと考えることだ。さほど大きな問題ではないというのが答えになると考える。まず一つ、社会サービスは、人にやってもらうということであって、人にもよるし、場合にもよるが、たいがいの場合には、自分でできるなら自分でした方がさっさとすんで、気も楽で、それでよかろうということになる。一つ、ものとして支給されるものについて。疲労を補うための「自助具」などあまり考えつかないが、もしあったとしてそれは、不都合を補うためのものだから、不都合がなければいらないものである。すると残るのは、生活保護などの所得保障であり、労働の軽減措置等である。 疲れていないのに疲れていると言って公的扶助を得ようとする、その可能性はないではない。しかし、実際には働いて収入を得ているのにそれを隠してというのではなく、現に働いていないのであれば、あれこれ理由は求めず、公的扶助がなされてよいという主張は可能であり、私は妥当であると考える。そして働けないと働かないとの間はときに曖昧であり、それをとやかく言わないほうがよいという理由も加えることができよう。そしてそれで社会が大きく困ることはない。そして、ことのよしあしはともかく、多くの人は働こうとする。その意を汲もうというのであれば、むしろその人の申告に応じた方がよい。つまり、まったく働けないとしてしまうのではなく、その人の状態に応じて、いくらかを軽減して働いてもらう。それでよいはずだ。そして疑われる側の人には次のように言える。病気をしてそれで身体がうまく動かないとか、長い時間仕事ができないとったことはある。そのことをすっと受け入れて、必要なものは必要だと言い、そして必要なものを受け取るという当たり前なことにためらいがあるなら、なによりそれは(不当に)損なことだから、やめた方がよい。とすれば、そのように思えるように、求めると疑われるからといった理由で、求めることを阻害しないように制度の側はあった方がよいということである。つまり、本当は痛くないのではないか、疲れてはいないのではないか、気のせいではないか、と、そんなことがないではないとしても、言わない、言わないことを前提に制度を組み立てた方がよいということだ。

■6 どんな民間の活動が何をできるか

以上、社会・制度がどうあればよいかについて基本的なことを述べた。最後に、それを主張し実現するために動くことのできる一つでもある民間組織、その活動についての方向も示されるだろうと思う。 疾患別・障害別という制度に規定される部分もあり、また各疾患別の専門医にかかる人たちやその家族のつながりがもとになって作られてきた疾患・障害別の組織がある。1960年代から70年代にできた組織では50年以上の歴史を有するものがある。大きな全国組織もあるし、そうでないものもある。 そうした組織のある部分は、いくらか停滞期でそして転換期にあるのかもしれない。まず、ちょっとした情報の入手ぐらいであれば、ネットで検索すればまずまずのことがわかる。そんなこともあって若い人が加入しない。他方、たいへんだたいへんだと言いながら役職を続けることに生きがいを感じている年上の人もいる。そんなことで世代交代もうまくいかない。かつて意義のあった活動のなかには今はそうないものもあるが、同じ活動が続いていく。そうして停滞や縮小といった道を辿っているところがある。 しかしまず、停滞したり、さらになくなったりしても、それで用がすむのであれば、なにも問題はない。組織が常にあった方がよい、活発な方がよいなどとは言えないのだ。それを確認しておく。そのうえで、オンラインもオフラインも含め、愚痴を言いあったり、生活上の小技を伝え合うといった組織、組織というほどでなく人の集まり・つながりは、今後も必要とされるだろうし、現にたくさんある。多く個別の疾患・障害に対応したそうした組織が存在する価値は今でもこれからも失われはしないだろう。それは、小さなものであってもかまわない。かえってその地域の小さな集まりとしてあり、なかには消えていく、おおまかにいえばセルフヘルプグループとしてあってよいだろう。 ただ、何かを要求するとか、手間のかかる支援を担おうとするときには、このような集まり・組織では難しい。そしてようやく指定難病に登録されたまた登録されていない多くの疾患・障害については本人や関係者の数が少ないく、少ないと力が弱いということになる。そしてさらに、心身がつらいから、起き上がるのもつらく、動きにくいということも当然ある。辛さは、ときに結びつく絆にもなるが、他方で、本人たちの間でぶつかる要因になることも多い。そして、原因がはっきりしていないことにも関係して、対処法としていろいろな説が唱えられると、どちらの説に付くか、どういう説を唱え実践している人たちに付くかといったことで、対立し分裂し消耗するといったこともある。さらに、個別の団体の連合体のような組織もある。各組織の規模も異なり、既に指定されている難病の団体とそうでないところもある。何を求めるかにも違いもある。そのわりには、既得権益を守るといった性格の団体にならず、今困っているところに手を貸そうという姿勢があって立派だと思えたりもするのだが、それでもその舵取りはなかなか難しいことがある。そうした事態を捉える冷静な研究があるべきだが、私は知らない――さきにあげた葛城の本(葛城[2019])に少しだけ記述がある。ただ、「指定難病」という枠を前提にせざるをえず、活動を維持・展開すること自体にいくらか無理があるだろうとは言えるだろうと思う。ここしばらくを見ると、疾患別というより、機能、例えば人工呼吸器を使っている人たちのつながりといったもののほうが機能しているように思える。そして、前節までに述べたように、以前からも今も大きな問題・課題は、(残念ながら)なおらない、しかしそこそこに長い人生を生きるにあたって必要なものを得ることだ。それは、すくなくとも今のところ自動的に得られるようなものではない。それを得られるようにする活動、制度につなげるという仕事がある。これはたんに同じ病・障害を共有しているというだけでできる仕事ではない。  今までもそして今でもある程度はそうなのだが、患者団体(たいがいは関係者も含むから患者・関係者団体)をやってこれたのは、家族がいて収入やら介助やらがなんとかまにあっていて余裕があるからというところがある。するとそうした組織は、余裕のない人が求めるものには対応できないということにもなる。ネットでとってくれる情報もあるが、それを使って実際に役立つところまでもっていくには、具体的でときに手間のかかる援助が必要な場合があるのだが、その必要をあまり感じずその技術・知識ももっていない組織だと役に立たない。これはこれで種別を超えて、そして資金をもち有償の仕事として活動を行なえる組織が適している。 私は今、国立療養所に暮らしてきたおもに筋ジストロフィーの人たちの療養所の生活をよくしようという、そして出たい人は出られるようにしようという活動に関わっている――関連情報はさきに紹介したHP表紙から「こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす」にある。今施設にいる人は、普通は自らがそこを出ようとする時に使える資源をもっていない。そして筋ジストロフィーの全国組織は、1960年代、自分たちの子どもが療養所で暮らせるようにと医療者とともに政治に訴え、施設収容を実現させてきた組織である。それと別の方向に行こうという話には乗りにくいところがある。また、在宅で家族の介助でなんとかやれている人たちが多いなら、病院を出たいという切実さや、家族はあてにしないまたできないという現実がなかなか伝わらない。また、組織もそのための技・知識をもっていない。別の種類の組織・運動が関わった方がうまくいく。実際いま進められているその動きには、自立生活センターと呼ばれる組織が関わり、その全国組織、そして「DPI日本協議会」といった(一部難病関係の団体も入っている)組織が支持して、全国に広がりつつある。それはいちど「難病」を巡って起こった分断の後、だいぶ経ってからのできごとだ。そこには障害者施設からの地域移行と多く共通するとともに、過分な権限を持っている(と思っている)医療者・病院との関係をどうとっていくかといった、いくらか違った(より困難な)要因もある。本章では、なぜそんなことになったのかを述べ、そしてその事情をわかったうえで、変えていくことができることを示した。