【論文(査読無し)】 コスタリカ(のプロジェクト)を&から動かす ───連載:動かなかったものを動かす1 井上 武史(メインストリーム協会)
2023.04 『遡航』007号 pp.2-11

1. はじめに

すべては2016年7月26日、私たちの誰にとっても忘れることのできないあの日から始まったと言っていいだろう。  私はその日、メキシコをずっと南に下ったパナマの手前にあるコスタリカという国のペレスセレドンという町の職場にいた。モルフォという障害者の自立生活センター★01である。日本の職場である兵庫県西宮市のメインストリーム協会★02が、2012年4月よりJICA国際協力機構の草の根技術協力事業で実施しているプロジェクトで、この自立生活センターを現地の障害当事者といっしょに設立し、ここのスタッフが日本に行って研修を受け、あるいは日本の職場のスタッフが渡航し研修をしながら日本の自立生活センターのように介助派遣サービスを提供することによって自立運営を目指していた。私はそこで、プロジェクトマネージャーという管理者をしていた。ここに年間の約半分駐在し、使った経費の精算をしたり、研修の調整をしたりするのが主な仕事だった。  日本とコスタリカとでは15時間の時差があり、その朝は15時間遅れてやって来る。いつものように自宅のアパートから徒歩で10分ほどの事務所に着き、職場のみんなが机を囲んで仕事をしている奥の中庭に面したスペースとは逆の、門を入ってすぐ右手の玄関前にあるちょっとした空間に机を出してMacを開いて私が何かの作業をし出した頃だった。奥から同僚が出て来て車椅子でスッと横に来て、「タケシ、日本は大変なことになっているな」と言った。私はその時まで何も知らず、何だろう?とインターネットのニュースを調べてみた。そして本当に日本は大変なことになっていた。  青天の霹靂とは、こうしたことを言うのだろう。日本では、ほんの数ヶ月前の4月1日に差別解消法が施行されている。各地でそれを祝う催しがなされ、私たち兵庫県の障害者団体も神戸元町に集合し、くす玉を割ってお祝いしてその後パレードをし、ビラを配りながら周知活動を行ったのだった。他国に比べずいぶんと遅れていたが2014年1月には国際連合(以下、国連)の障害者権利条約も批准しており、それまでの日本の障害者運動が主張、要求して来たものが形になり、完成したと思われた時期だった。だからこのニュースを聞いて、一つひとつ積み上げてきた積木を、悪戯な子供がわーっと瓦礫の山にしてしまって、また最初からやり直せと言われているようだと思った。その日から私は、毎日どこかの団体から出される事件への声明をチェックするのが日課となり、私も何かをしたいと思いながら、抗議行動や集会のお知らせを見るたびに、日本から遠く離れてそれに参加できない歯痒さを感じていた。  私はこれから数回にわたってこの『遡航』の誌面を借りて、私たちが2019年2月3日に発足させた「筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト」がどのような経過を経て始まり、現在までそれがどのような道筋をたどって来ているかを記すことになっている。この連載は将来的に、いわゆる『こくりょう本』というコードネームで準備中の書籍の「動かなかったものを動かす」という章を構成するはずである。 この「相模原障害者殺傷事件」が起きた日よりプロジェクト発足までの約2年半の期間はその準備期間にあたるが、プロジェクトは私が日本とコスタリカを往復する「運動」の中から発案され生まれている。しかも、準備はここに向けて一直線に進んだわけではなく、その間のさまざまな人たちとのほとんど偶然と言っていい出会いによって紆余曲折を経て進められた。そこで何が語られその人の心が「動かされたか」。こうした「動き」は表に現れるプロジェクトを水面下で動かすオペレーションシステムのようなもので、それを抜きにしてこのプロジェクトを正確に理解することは困難だろう。 この連載は現在の日本の障害者運動の同時進行的な記録であるが、私はこの後、「運動」とは文字どおり物理的に物が「動く」ように、人が「動いたり」「動かされたり」することであり、またプロジェクトとは関わった多くの人たちが協力しながら物事を「動かす」ことであることを述べるだろう。また、コロナ禍に襲われて、私たちがまったく「動けなく」なったときに私たちがどう「動かそう」としたかなども述べられるはずだ。  しかし初回の今号ではまず、2016年7月の時点で私たちがコスタリカでどのような仕事をしていたのかを述べようと思う。

2. メインストリーム協会の国際協力

自立生活センターの仕事というものは、障害者が地域で生活するのをサポートすることなので、それに纏わることであればあらゆることが仕事になる。地域に根ざすことであればすべてが仕事になる。真夜中にフラッと酔っ払って事務所に入って来た近所の人の話し相手をするのも仕事であり、祭りをしよう!となればプロも顔負けのイベント屋になり、仲間が亡くなれば葬儀屋にもなって事務所で式を執り行ったりする。 オーソドックスな仕事はもちろん障害者のスタッフであれば、障害者どうしの相談業務であるピアサポートやピアカウンセリングを行い、そこから地域移行に向けての自立生活プログラムなど当事者団体こそという種々の仕事があり、それぞれ当事者のスタッフが担当している。私のような健常者スタッフであれば、内勤でコーディネーターの仕事をするのでなければ、障害者宅に行って介助の仕事をするのが基本だ。私は、コスタリカのプロジェクトが始まる前に2年間、事務所でコーディネートの業務をして、おおよそ自立生活センターの仕事全体を覚えた後にコスタリカに渡航しプロジェクトに関わることになった。 職場のメインストリーム協会は1989年11月に設立されている。日本で初の自立生活センターである東京八王子の1986年設立よりやや遅れてはいるが、現在全国に120ほどある自立生活センターのパイオニアの一つである。創立者で代表である廉田俊二が車椅子でアメリカ大陸を横断した経験もある元バックパッカーであったこともあり★03、1999年に初めて「ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業」の研修生を受け入てから積極的に国際協力を開始し、2003年パキスタンでの自立生活センターの設立支援を皮切りに、これ以降、韓国、ネパール、台湾、カンボジア、モンゴル各国で、いずれもその国最初の自立生活センターの設立に関わっている(権藤[2022a])。 コスタリカでのプロジェクトは、メインストリーム協会が展開したアジアでの一連のそれのラテンアメリカ版と言っていい。2006年6月、ネパールで自立生活センターの発足があり、私たちがカトマンズを訪問した際に協力をお願いしたJICAネパール事務所の職員の方が、私たちに「アクティブに活動する団体がある」という印象を持った。その後異動になった職員が、当時実施中であったコスタリカの技術プロジェクトからの「障害者エンパワメント」の研修の要請を、当時まだ存在したJICA大阪(2012年4月より旧JICA兵庫と統合しJICA関西となっている)で企画し、「どうせ関西でやるなら」と私たちに持って来てくれたのが発端だった。 こうして、コスタリカのプロジェクトを実施するまで、まず私たちは翌2008年から地域別研修「中米・カリブ地域障害者自立生活」というJICAの研修を受託して実施することになった。これは2010年までグァテマラ、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカという中米の4カ国で実施され、その後2011年からは地域を南米のベネズエラ、コロンビア、ペルー、ボリビア、パラグアイまで広げ「中南米地域障害者自立生活」として2013年まで実施された。コスタリカのプロジェクトは、これを終了したコスタリカの帰国研修員たちをフォローするために2011年にJICAに申請して採択されたものだった。

3. コスタリカのプロジェクト

そのときコスタリカで実施されていたJICAの技術プロジェクトは、「ブルンカ地方における人間の安全保障を重視した地域住民参加の総合リハビリテーション強化プロジェクト」、通称プロジェクトKaloie★04と呼ばれるもので、2007年から実施されている。そのそもそもの発端はさらに5年を遡る。 立岩真也が「この国におけるリハビリテーション、リハビリテーション医学の先導者であってきた」「その人は、たしかに影響力をもっていたし、重要な場所にいた」 (立岩[2016]) と評する、日本のリハビリテーションの先導者上田敏が、2002年にJICAの「障害者リハビリテーション分野青年海外協力隊巡回指導調査」の調査団の団長としてコスタリカを訪問した。それに合わせて開催された「リハビリテーションにおける戦略としてのチームワークセミナー」の基調講演を依頼された際、引き受けるにあたって提示した4つの条件の中で、今回一回限りで終わらせるのではなく「少なくとも5年間程度は継続する必要がある」ことを提言している(国際協力事業団青年海外協力隊事務局[2002])。提言どおりセミナーは5年間にわたって実施され、最終年の2006年はプロジェクトKaloieの事前調査も兼ねており、その調査団に上田も加わった。このように彼はこのプロジェクトの計画に深く関わっている。 そして翌年3月にプロジェクトは開始された。地域に根ざしたリハビリテーション(CBR)を基本に、首都に集中したリハビリテーション機能を地方に分散させるという計画だった。リハビリに関係する、保健、教育、労働などの各省庁との連携を高めることでその効果をあげようとしていた。しかしながら、「革新的で良心的なリハビリテーション」 (立岩[2016:10])を国際協力の場面で実践するはずがプロジェクトは開始してまもなく思わぬ困難に遭遇した。障害当事者参画を謳って計画したプロジェクトだったにもかかわらず、実際にプロジェクトが開始してセミナーなどを開催してもそこに障害者の姿が見えなかったのだ。そこですぐに計画を「医療リハビリサービスからインクルーシブ開発への重点のシフト」に変更している★05。これは、プロジェクトのカウンターパートである「国家リハビリテーション・特殊教育審議会」(Consejo Nacional de Rehabilitación y Educación Especial、以下、CNREE)のイニシアティブでもあった(国際協力事業団青年海外協力隊事務局[2002])。  私たちのプロジェクトは、2012年にKaloieが終了するのを切れ目なく引き継ぐものだった。「コスタリカ自立生活促進プロジェクト」★06、通称プロジェクトモルフォと呼ばれるもので、この年から5年間の計画で実施された。ペレスセレドンという首都より3時間半ほどバスで南に下ったところにある当時人口約12万人の町にプロジェクトサイトがあり、この年までに上述のJICA研修を終了した6名の障害当事者が、この町に集結し自立生活センターを設立して、日本のようにセンターを介した障害者への介助派遣サービスを確立しようというものだった。プロジェクト目標は「ペレセレドンの障害者が、介助者を使って、地域で⾃⽴⽣活を送ることができる」と設定された。 期間は5年間、予算は1億円で、大雑把に言ってこれを、日本とコスタリカで半分ずつ使うことになっていた。上記プロジェクト目標を達成するために以下の5つの成果が設定され、それぞれの成果を達成するために実際に行う活動が定められている。JICAのプロジェクト風の表現になっているが、どれも日本の自立生活センターで日常的に行われているものだ。ちなみに自立生活センターの名前がモルフォなのだが、計画時点ではまだ名称が決まっておらず以下のようになっている。

1)ペレセレドン⾃⽴⽣活センターの運営能⼒が強化される 2)ペレセレドン⾃⽴⽣活センターにて介助派遣のメカニズムが確⽴する   3)ペレセレドン⾃⽴⽣活センターにて⾃⽴⽣活を希望する障害者への⽀援体制が強化される 4)障害者エンパワメントが促進される 5)ペレセレドン⾃⽴⽣活センターの経験が他地域に普及する

先行プロジェクトであるKaloieで業務調整の専門家を務め、障害者インクルージョンを担当していた石橋陽子がそのまま私たちのプロジェクトのプロジェクトマネージャーに就任した。私はまず2012年の6月から11月までJICAの短期ボランティアとして滞在し、主に日本の職場での介助者養成研修とコーディネート業務をモルフォセンターのメンバーに伝えることからこのプロジェクトに関わり出した。 本誌3号に、権藤眞由美がメインストリーム協会代表の廉田が車椅子で旅をした経験についてインタビューした論文を投稿しているが(権藤[2022b])、1987年に廉田がアメリカ合衆国を旅しているのと同時期に、私もアメリカをグレーハウンドに乗って放浪中だった。私はその年の11月にテキサス州エルパソからメキシコのシウダーフアレスとの国境を越え、そのままチリのサンティアゴまで約8ヶ月かけて旅をしている。そうした旅を繰り返したのちに、メインストリーム協会の介助者募集を見て扉を叩いてみたというのが私のこの世界でのキャリアの始まりだった★07。 JICAの研修で来日したラテンアメリカからの障害者たちをアテンドすることが、介助に加えて私の仕事となり、コスタリカでのプロジェクトが始まると当然のように渡航して関わることになった。けれども、プロジェクトマネージャーになるというのは最初の計画にはなく、初代プロジェクトマネージャーが退職し、その後を現地駐在員として託された通訳のペルー人男性もつづいてプロジェクトを離れ、2014年春から私がプロジェクトの全責任を負うことになった。

4. コスタリカの障害者運動の誕生

この2014年は私にとっても人生の大きな転換点であったが、同様にプロジェクトにとっても5年の期間で大きく方向を変える年となった。ここまでプロジェクトはとても苦しい時期を過ごしていた。私たちはこのプロジェクトの「ペレセレドンの障害者が、介助者を使って、地域で⾃⽴⽣活を送ることができる」という目標を、日本の障害者の介助制度が整備されていく過程を参考にしながら、一人一人実態を積み上げていくことによって、最終的に国の制度になることを目指して開始した。東京の脳性麻痺の人たちが一人また一人と施設を出て、そこに都からだんだんと予算が付くようになり、それが都の制度となってさらに全国の自治体にまで広がり、最終的に2003年に支援費制度という国の制度になったようにである。 というのは、私たちがプロジェクトの計画を立てていた頃、先行プロジェクトKaloieに関わっていた障害当事者たちの何人かがCNREEから、十分ではないにしても介助者料としてお金が支払われていたからだった。私たちは、それまで日本でやって来たように必要な支給量が出るまで行政と交渉を重ねていくことで、介助者派遣制度が実現するはずだと考えたのだった。 しかし交渉はうまくいかず、それどころか窓口になるCNREEからは門戸を閉ざされ会ってもくれないような状態だった。さらにプロジェクトが2年目に入り、前任者が帰任の挨拶をメールで送った後あたりから、介助料の他に年金を上積みする形で出されていた生活を補填するための補助金なども徐々に打ち切られるようになった。よくよく調べてみるとこうした予算に法的な根拠はなく、CNREEがJICAとのプロジェクトをやっている間、責任者がその権限で動かせる予算から支払われているに過ぎなかった。先行プロジェクトから関わりのあった関係者が、潮が引いていくように去っていくのがわかった。 コスタリカは、国連の障害者権利条約を2008年9月29日に批准している。翌年にはそれを国内で導入できるように、3人の議員の提案で「障害者の自立の促進のための法律」(通称、自立法)★08と呼ばれる法案が国会に提出されている。これは、権利条約の12条「法律の前にひとしく認められる権利」と19条「自立した生活及び地域社会への包容」が一つになった法案で、介助者派遣サービスが理念だけではなくきちんと予算を付けて運用することまで書かれていた。プロジェクトでは、上述のように実態を積み重ねていくことによって介助者派遣制度を実現しようとしていたが、並行してこの法案が国会を通過することができるように働きかけることも計画の中に入っていたので、ここにすべてを集中させることになった。そこにしか道は残されておらず選択肢はなかった。

5. 「自立法」の成立に向けて

モルフォセンターでは、前年2013年6月より代表が発足時のマイノルからルイスへと交代している。2014年度の年度が変わるタイミングで事務所も新しい場所に移転した。日本で研修を終えたあと、首都に拠点を作るべくサンホセで活動していたカルロスがペレスセレドンに来て活動することになり、プロジェクトには気分を変えて再出発するような空気が流れていた。 私のこの年度の最初の赴任は6月で、この年はサッカーのワールドカップ、ブラジル大会のあった年でもあった。コスタリカは初めてベスト8に進出し、大活躍したキーパーのケイロス・ナバスはこの町の出身だったので、帰国後の凱旋パレードも目の前で見ている。プロジェクトのマネージャーとしてまず一番にしなければならない仕事は、活動をまとめて報告書にすることと、経費の精算をするために、コスタリカでの領収書を精査して翻訳を付けて日本の職場に送ることだった。 プロジェクトに最も大きく影響を与えたのは間違いなく、その前月、5月8日の政権交代だった。国民解放党のラウラ・チンチージャ大統領から、市民行動党のルイス・ギジェルモ・ソリス大統領の政権に代わっていた。活動で上がってくる領収書には、新しく選ばれた議員に面会に行くための交通費や日当が上がるようになった。驚いたのは、6月の領収書を整理していたときに、「大統領府の障害者問題政策委員会会合出席」と付された領収書を見つけたことだ。これに出席したルイスに聞くと、大統領府から連絡があって出席したということだったが、障害者のテーマは副大統領のアナ・エレナ・チャコンが担当しており、彼女こそが2009年に国会に出された「自立法」を提案した3人の議員のうちの一人だった。 また、彼女にはアドバイザーとしてエリカ・アルバレスという弁護士で自らも片足を切断した障害のある女性が付いていた。エリカは私たちがJICAの研修を実施するための事前調査で、2008年6月に初めてコスタリカを訪問したときに開催したサンホセでの自立生活セミナーに参加しており、訪問中に彼女の出身地であるナランホという町への視察にも同行してくれている。モルフォセンターのスタッフたちとも懇意の仲であった。副大統領の娘さんが知的障害を持つということもあり、彼女たちは権利条約12条をもとにして、知的や精神障害者が法的な権利を奪われている状況を変えようとしており、障害者の地域生活を求める私たちと目的が一致していた。 私は海外でこうして働くのも、プロジェクトを運営するという経験も初めてであったが、よく耳にする「海外では政権が交代するとそれまでとはまったく反対になるくらいに政策が変わってしまう」という挿話が目の前でドラスティックに展開するとは思いもしなかったし、現実に起こったことは想像をはるかに超えるものだった。 しかし、だからと言ってそのあと物事が順調に進んだというわけではなかった。ここからの3年間が、私がコロナ禍の中断を挟んで合計11年間関わったコスタリカの障害者の仲間たちとの活動のクライマックスであり、ここでの経験が後にさまざまな場面で応用されるようになる。 Asamblea Legislativa と呼ばれるコスタリカの国会では、日本の通常国会にあたる審議は毎年8月1日から開かれる。これから3年間毎年私たちもここを目指してペレスセレドンから首都に行き、議員をつかまえてロビーイングを行うことになる。 この年の8月20日に国会で、まず「障害者の自立のフォーラム」と題された集まりが開催された。国会議員で法案の推進者の一人であるオスカル・ロペス議員、当時のCNREEの代表であったフランシスコ・アソフェイファ、その傘下にある障害当事者団体の連絡会COINDISの代表であったマヌエル・メヒアなどに並んで、モルフォセンターからはウェンディ・バランテスが登壇した。日本で自立生活を紹介するときによくやるように、自分の介助者を使った一日を追ったビデオを会場に集まった参加者に見せながら、法律の早期成立を訴えた★09。 プロジェクトでは、コスタリカで使う予算の大半がモルフォセンターの6名の障害者スタッフ宅に派遣される介助者への支払いに充てられていた。ここから20%の手数料を差し引いてセンターの運営費に充てていた。潤沢なJICAのプロジェクト予算を使って実際に日本でなされているような自立生活センターの運営ができた。これがこのプロジェクトの最大の武器だった。また予算は、同じ年の3月にコスタリカ全国から障害者を募ってサンホセの会場に集め、自立生活の考え方と実践を広めるための「全国集会」を開催するためにも使われた。 さらに今度は、そこでつながりの出来た障害当事者の仲間を国会のこのフォーラムに動員した。モルフォセンターに関わりのある限られた障害者たちだけが主張しているのではなく、広く望まれている法律であることを示すために「国会を障害者でいっぱいにしましょう」と全土に呼びかけ、遠方から来る仲間にはプロジェクト予算を使って支援を行った。いつも国会に議員に会いに行った後には、モルフォセンターの仲間のごく限られた人数で向かいにあるレストランへご飯を食べに行っていた。この日はレストランにも延々と車椅子の列が出来て、それを見ながら私は「ああ、今日コスタリカで初めて障害者運動というのが生まれたんだ」と感じていた。 翌2015年6月に、モルフォセンター代表のルイスがメインストリーム協会に二度目の研修に行っている。21歳の時に川に飛び込んで頸椎を損傷し、その後リオ・クラーロというコスタリカ南部の田舎町で引きこもって過ごしていた彼を、2008年に私たちが初めてサンビトという地域の主要都市で実施したセミナーにひっぱり出した。これがきっかけで、翌年来日し、自立生活研修を受けこのプロジェクトに関わり出した。当時25歳だった。当初ルイスに再度研修をすることは計画されていなかった。けれども、2012年にプロジェクトが開始し、日本の職場からスタッフが訪れてさまざまな業務や活動についての研修を行い、2015年には「もうあまり教えることはない」というほどになっていたため、予算を一度日本で研修したメンバーにアップデートした情報を伝えるための研修に充ててもらうことにした。 JICAのプロジェクトは、PCMプロジェクト・サイクル・マネージメントという開発援助の分野で一般的な手法を用いて実施されている。予算と期間に応じて関わる人材を決定して計画を立て、それをPDMプロジェクト・デザイン・マトリクスという表にして関係者全員が共通の認識を持てるようにして実施する。始まれば四半期ごとにモニタリングしてそれを評価し、問題や新たな課題があれば修正してまた実施するというサイクルを期間中繰り返す。そして最終的にプロジェクト目標を達成するように導いていく。 先のような当初なかった日本での研修を現地での研修に振り替える計画の変更はプロジェクトマネージャーの裁量の一つであり、むしろそれが仕事であると言っていい。現地に常駐しながら、コスタリカのスタッフの変化や成長を確認して、日本の職場の意向とのずれを調整するのが仕事であった。プロジェクトでは通訳や翻訳の作業をすることもあったが、国際協力プロジェクトのマネージメントという仕事は、文化間のギャップを埋める翻訳のような作業であると感じるようになった。 ルイスは滞在中、仙台で開催されたJIL全国自立生活センター協議会のセミナーにも参加し、集まった全国の障害当事者の仲間の前でコスタリカのプロジェクトの成果も発表した。その他さまざまな日程をこなし、念願だったメインストリーム協会代表廉田よりTRY活動のオーガナイズの経験を学ぶという目的も果たしてコスタリカに帰国した。 私はこの年、ルイス滞在中彼のアテンドをして、後を追うように一週間後にはコスタリカに向けて出発している。2014年の国会では結局「自立法」の発議まで行かず、プロジェクトは残り2年となっていた。コスタリカの職場に着くと、ルイスは研修から帰ったばかりで、持ち帰った「メインストリームイズム」をモルフォセンターにも浸透させようと、職場内でのコミュニケーションをよくするための企画をさまざま考えて実行しようとしていた。私は法案の行方も気になりながら、ルイスのやることには口を挟まずしばらく様子を見ていた。準備だけはしておこうと、17305号という法案番号のついた「自立法」周知用のステッカーをプロジェクトの予算で1,000枚作っていた。 8月に入り、15日はコスタリカの「母の日」であったので、スタッフの各々が地元の町から母親たちを招待して、これまでの感謝を伝えようとパーティーが開催された。プロのマリアッチの楽団も登場するかなり大規模なものであった。さすがにこれが終わったら、法律の成立のために動き出すだろうと思っていたら、職場ではさらにスタッフの親睦旅行の企画まで出だした。ちょうど、これはちょっと一言いうべきだろうというタイミングで、大統領府にいるエリカから「ここ二週間ほどが山なので圧力をかけてほしい」という連絡が入り、慌てて準備に取りかかったのだった。 職場の運動担当のウェンディと、前年よりもずっと規模を大きくして「いくら使ってもいいから出来るだけたくさんで行きましょう」と相談した。人間の鎖で国会を取り囲むのを目標に出かけ、全国に動員も呼びかけた。残念ながら取り囲むのには人数はまったく足りなかったが、それでも国会内に入って多くの車椅子の仲間たちが議員の執務室に行き、この法律の必要性を訴え、ステッカーを配っていっしょに写真を撮ってそれをフェイスブックに賛同の証拠としてあげた。しかしこの年は審議入りのリストに「自立法」は上がっていたものの、審議はなされずその年の国会は閉じられた。 2016年プロジェクト最後の年、モルフォセンターのスタッフたちももう最後この年で成立させるつもりで、TRYをコスタリカでやることを計画していた。TRYは1986年に廉田がメインストリーム協会を創立する前に行っていた活動で、大阪〜東京間を「野宿しながら」、当時国鉄だった駅のバリアフリー化を訴えながら歩くものだった(権藤[2022b])。現在では日本や海外でも広く行われるようになっており、ルイスもそれを聞いて自分でもやりたいと直接、廉田から教えを受けたのが前年の研修だった。 TRYにはルイス、マイノル、ウェンディの3人のメンバーとそれをサポートする介助者たちが参加することになった。通常バスが往復するルートには3,000メートルを超える山が立ちはだかっているためそこを避け、いったん太平洋岸まで下って平坦な道を行き、再度首都に向けて北上するというルートでおおよそ280kmを2週間かけて歩き、5月5日木曜日にゴールである国会に到着した。メディアの対応をカルロス・バランテスが事務所に残って担当した。 プロジェクトでは、これまでテレビや新聞に活動を売り込んで取り上げてもらおうとさまざま働きかけていたにもかかわらず、ほとんど相手にしてもらえなかった。私は日本にいてこの行軍を見守っていた。出発のときの取材は地元のいつものローカル局のみであったが、時間が経つとともにだんだんと評判が広がっていった。到着間近にCanal7というコスタリカの人なら誰でも見ているような大きなテレビ局が、これもまた朝の皆が見ている時間帯に10分近くに及ぶインタビューをしたので、到着時はほとんど英雄たちが帰還するような出迎えになっていた。 そのまま国会で議員たちに法案への賛同を約束するレターにサインを求め、翌週5月9日の国会で1回目の採決が賛成多数となり法案が通過した。コスタリカの国会は一院制であるが、法案を通すためには2回の採決を経なければならず、2回目の6月30日、これも無事通過して「自立法」が成立した。8月18日には首都の国立競技場内にある広間で大統領の署名式があり、署名とともに9379号という法律が成立した。セレモニーでは、大統領、副大統領、当時国連の障害担当の特別報告官であったカタリーナ・デバンダスと並んでルイスが登壇して挨拶をした。

6. さて、私のできることは?

一回目の採決の後、私はヒューマンケア協会の中西正司代表よりメールをいただき、「JICAのプロジェクト支援で過去最大の成果です。ありがとうございました。」と労いの言葉をいただいている。また、この年の11月には、シカゴの自立生活センターAccess Living の代表で、伝説的な障害者運動リーダーであるマーカ・ブリスト、同じくダラスのジュリー・エスピノザ、日本からJILの代表、副代表などそうそうたる日米の自立生活運動のリーダーたちをモルフォセンターに迎えることになった。 JICAのプロジェクトによって一国の法律を成立させたインパクトで、以降、私は一介の自立生活センターの健常者職員では到底考えられないような人脈を広げることになった。また私は、コスタリカでこうした仕事にかかわれたからこそできることがあるのではないか?冒頭の相模原事件の後、自分にできることは何か?と日々考えるようになった。コスタリカは、日本と同じように軍隊を持たない平和主義国家として知られる。コスタリカの職場にいるとそれを市民が誇りに思っていることがわかる。そして、コスタリカで働いたことで、人権意識と民主主義国家のあるべき姿を学んだ。町に出る、店に入る、交通機関を利用する。あらゆる公的な場所にそれがどういう法律の裏づけによるものなのかが貼ってあり記されている。 私たちの「自立法」が法律になったとき、まったく感覚的なものでしかないのだけれども、これは国民の合意という確かなものに基づいている、そう私には感じられていた。一方日本の「差別解消法」はどうなのだろうと振り返ったとき、何かそうしたものが欠けているように思えた。そうして、国民的な「合意」を得られるような大きなシステムの変換ができる運動にしなくてはならないと考えるようになった。 振り返ってみると、私たちがこのJICAのプロジェクトで成果を上げられたのは、プロジェクトに日本の障害者運動の経験を持ち込んだからである。コスタリカはもはや発展途上国ではないが支援を受ける国ではある。支援がなければ、これだけ潤沢な予算を使って人を「動員」することは困難だっただろう。そして私は、後に日本の障害者運動にJICAのプロジェクトの手法を取り入れることになる。もう一つ付け加えておくと、私たちがコスタリカでプロジェクトを開始した2012年頃より、街頭での「大行動」を伴う運動は影を潜めるようになる。 ここまで述べたように、私はコスタリカの障害者の仲間たちとともにその実践を積めた例外的な人間であった。冒頭で述べたとおり、これは物事を「動かす」ことにまつわる物語であるが、日本の障害者運動が「動かなくなった」理由も後に有松玲の研究とともに検討することになるだろう。しかしこれも冒頭で述べたとおり、コスタリカでの経験がそのまま「筋ジス病棟の未来を考えるプロジェクト」に結びついたのではなかった。

■註

■文献