1. はじめに
本稿では障害者と「旅」の関係を取り上げる。旅路で得た障害者としてのその経験は自国ではなく海外という場所が意味あるものなのか。それとも、ひとりで行くこと、または非日常での出来事に意味があるのか。経験したその先に別の何かがあるのだろうか。
日本の障害者と「旅」の関係で、先人的な人物として石坂直行★01があげられる。1971年、石坂は介助者を同伴せず車いすでヨーロッパ10か国を旅した。その当時、車いすで海外旅行をするということは大変珍しいことであった(立岩[2018b:179])。なぜなら成人した障害者であっても営む生活の場★02は親の庇護のもとか施設かの時代の真只中で、「旅行」といえば、家族旅行、学校での旅行に限られていたからである。したがって、石坂の「旅」は日本の障害者に介助者を伴わない「旅」が夢物語でないことを実践してみせたことになる。
石坂はこのヨーロッパの旅で思いのままに動けたことで、日本の身体障害者は世界の情報から鎖されていることを知り心底疑問をもつ。多くの学者や専門家たちは視察で何を見てきたのか。石坂は「その人たちは自分の研究に都合のよいことだけ見て来るのだし、外国語のハンディキャップの点で、多くは見せるべく用意されたものの表面だけについてであろう」という(石坂[1973:3])★03。見る側が得られた情報を意図的に精査し伝えていないのであれば、都合のよいものしかみていないとも確かにいえる。だが、意図しなくても、用意されたものであれば、それだけを見るのであれば、またそれしか知る術がなければ、得られるものは限られてしまうだろう。しかし決してそれをよしとするものではなく、だからこそ、得られるべき知識や情報は誰がとりにいくかが問われることとなる★04。
石坂は、ヨーロッパの旅で自らが実感した「障害を感じさせない環境」を日本で伝えるという使命感を抱いた。帰国後、障害者のあり様は環境次第であることを日本の障害者にも知ってもらうため、数々の旅行を自身で企画した。自分と同じ体験をしてもらうことで障害観に変化をもたらそうとしたのだ。実際に石坂の旅行記を読み旅にでた障害者もいる。それが後にでてくる廉田俊二でもある。
障害当事者のリーダーのひとりであるジュディス・ヒューマン★05は1970年代に世界各国の旅路★06で互いに学び合う障害者と出会った。また、1981年から開始された「ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学派遣事業」★07において、バークレー自立生活センターの活動を学びに渡米してきた日本人研修生のなかには一生の友となった者もいて恵まれたことであったという( Heumann, Judith; Joiner, Kristen [2021])。 ジュディス・ヒューマンにとっての「旅」は一生の友との出会いでもあり、障害者運動の仲間を募るツールであった。
また、國分夏子は障害者にとっての旅行の効能について①障害者も生活の物質的充足と精神的充足を求めている②旅行によって心をリフレッシュさせたり自信をつけることができる③「外へ出ること、それ自体が障害者を認めてもらう運動になる」(國分[1994])としている。
ほかに根橋正一・井上寛は、障害者の旅の事例から旅での経験によって自立的で前向きな生き方ができるのではないかということをあげている(根橋・井上[2005])。さらに井上は石坂が今後の人生において「隔離型排除」を受けるかもしれない状況から活路を見出せたのは「海外旅行」の経験とし、「排除」を客観視できたことが、他の障害者に海外旅行を体験させたいという収斂につながったのではないかとしている。
以上のように障害者の「旅」★08には、個々に得られるものがあることは網羅的に検討されている。
石川准は、内心の自己嫌悪が強いほど存在証明は熱を帯び、存在証明に躍起となることに人生の大半は消費されるといい、「もし自分という存在そのもの、アイデンティティ抜きの裸の「わたし」に価値を実感できることができたなら、事態は一変する」 (石川[1992:37])という。存在証明から解放され自由になり「わたし」という存在の価値が最初から備わっていると実感することが可能であれば、ほんとうに好きなことだけのために人生を生きることができるとしている。たとえば、「海外」という場所だからこそ「わたし」という価値が確認できる機会になり得るのだろうか。
本稿では、障害者の「旅」についての経験を海外という環境での社会的実体験が、その後の障害者運動へむかう経験的基盤になったのではないかという見立てにより、その要因について明らかにするべく、車いすでの「旅」を経験した廉田俊二と佐藤聡におこなった半構造化インタビュー★09に焦点をあて記述していく。
2. 多くを望まない、多くを望ませないものからの離脱
2-1 障害者の「旅」
石坂は「日本の障害者は、外国に行くと特別に良い気分になる」ことについて、人間は、誰でも、時々普段の緊張や悩みから解放されて神経を休め、心の疲労を回復させるレクリエーションが必要でありそれは障害者にとって特に必要なこととしている。また、一般的に旅行が日常生活から最大限の離脱であることは誰も同じことだが、障害者にとっては、自分専用の生命維持装置から飛び出すような、他の極限への無限の離脱になるという。外国を見る以前の、離脱そのもののスリルと、意外に何事もなく旅行できるおかしさ、恐れていたトラブルにやっぱり直面したが結果的になんとかなった安心等の体験から、自分には生きられないと信じていた恐ろしい別の宇宙にも生きられることを知る。その感動は、障害者の心とからだを大きく広げてくれるという(石坂1986:225])(井上[2010:73])。
2-2. 親と離れるきっかけとなった「旅」
廉田は、1961年兵庫県に生まれる。姫路市立飾磨中学2年生の7月に体育館玄関の屋根上から下に駐車していたバイクの上に転落し脊椎を損傷した。7か月の入院後、一旦自宅へ戻るが翌年に岡山市にある旭川療育園で入所生活を送る。岡山では養護学校中等部に在籍し学んだが高等部は養護学校ではなく地元の普通高校への進学を希望する。しかし、受験先の高校★10から呼び出しがかかり母親と中学校の担任も含め話し合う場がもたれた。そこで出された条件は、教室の移動を家族に責任をもってやってもらうということだった。
日本における障害児、障害者の介助は家族にその多くの役割が担わされている。立岩真也は、子の障害によって親がしなければならない理由はなく、法的な根拠はあるとしつつもその正当性を問うている。そして、その義務を負い負担するのは社会全体とするのがよいとしている。そこで義務と面倒をみることを分けて考え、面倒をみる人がいることは無論いてもよいが面倒をみる義務を他人が課すこと、国家が課すということは全く別のことだと言っている。(立岩[1990→2012:360-363])。
廉田の場合は、高校がその義務を廉田の家族に課したということになる。その条件を受け入れなければ、筆記試験で合格水準に達していたとしても入学できなかった可能性は否めない。その後、廉田は合格し入学することにはなるのだが、家族に介助の義務が課されていたことで母親が3年間の移動の介助を担うことになった。
廉田:それまでを思い返せばね、高校の行き帰りもずっとお母ちゃんが車で運転して、横に乗って送り迎え…、そんなんしないと高校なんて通われへんのですよ。高校の中の3階建ての教室も、母親がおんぶして教室移動っていうのじゃないと、学校は受け入れ認めないとかね。そういう時代だったんですけども。それぐらいべったりみたいな状況やのに…、そんだけずっと一緒におったけど。(省略)もともと相談したんですよね。「俺、ちょっとハワイ行こう思とんねん」。それで、「いや、そうめん屋やろう思って★11」みたいちょっと変わってますよね。それまでずっと一緒やったけども、さすがにアホらしい思たんやろね。(廉田[i2018])
このようにして廉田は、移動の介助を担ってくれていた親と離れひとりで「旅」に出ることになる。
2-3 「旅」と身体
筋ジストロフィー患者である貝谷嘉洋★12は、「旅」について海外旅行はおろか学校の行事を除いては旅行をしたことがなく、その理由として「介助の問題」★13をあげている。(貝谷[1999:65])
障害者が「旅」出るということは旅路でのアクシデントだけでなく、自らの体調管理も必要となってくる。実際に、廉田も「旅」の道中で褥瘡★14について記している。何十時間も座ったままの状態は腰に負担がかかり、褥瘡も悪化する。飛行機の中では横になることもできずその苦痛は薬を飲めばすぐに解放されるものでもない。廉田は他にも、足に痛みを感じないことで靴を脱ぐと足の指が化膿していたこともあった。そこでの処置は、道中の一部を共にした看護師の京子さんが手当てをしてくれたことで事なきを得た。
むろん、身体には、移動する際の環境によるバリアー、介助者、障害の理解の問題もある。そして、出会う人によって障害者に対する意識もちがう。
横田弘は「よく健常者が、身障者に“理解”を示して“身障者も同じ人間だ”なんていうね。でもはたしてそうかなあ。いや絶対に違うんだよ。おれたちの最大の生活環境は一人一人が持っている肉体なんだ。これはどこへ行こうとついてまわる。そこに横塚晃一の私の世界、横田弘の私の世界があるんじゃないか[…]」(高杉[1973:254])
立岩は、この文章では論じられないけれど…と前置きし「「姿」「形」自体は個人に残るものとしてあり続け、皆がそれぞれ「異なる」人ではあるのだが、異なりと受け取る側がいるから異なりが現れるのであるにしても[…]と同時にその「個人」の能力のなさが問題にされる場面がある。移動は自分でできないが「私が」決めることはできる」(立岩[2020:97])では、「私が決める」ことができてもそこは健常者と同じであると横田はいうだろうか。「絶対に違うんだよ」と言い切れるものはなにか。たとえば、身体を動かすまでに「私が決める、人を介す、移動する」人を介すということが同じではないとされるのか。もしくは「異なり」と受け取る側がいることが横田のいう同じ人間ではないのか。いや、そうではなく自らの肉体を常に客観的にみることを必要とされる状態があることがそう言わせるのではないか。おれたちが持つ肉体は移動の仕方、身体の状態の見極め、褥瘡があれば痛みと治療は切り離すことはできない。さらに人を介すことが避けられないとき、立岩のいう「結局のところ、私たちはままならない身体を持って、思い通りにならない生を生きる[…]摩擦は生じる。減らしていっても十分に残っている、波乱万丈は起こってしまうと思う」(立岩[2021:205])といっていることに否定はない。それぞれの生活環境はそれぞれの肉体にあるという横田のことばは、もっている肉体が同じではないということが同じ人間ではないということであり健常者と障害者の身体の状態に限定されるのであれば、確かにそれは同じであるとは言えないのではないだろうか。
3. 「旅」は「修行」
3-1 海を越えての「修行」
大学2年の廉田は、合コンの場では友人のひろしと「二人揃ったら最強」といわれていた。だが、いつもその場を盛り上げただけで、目的の彼女をつくることができずいい目をみているのは他の参加者たちだけということに気づく。そこで、ひろしと面白い自分たちに彼女ができない理由を考えた結果、自分たちが求めている彼女像は「(省略)、合コンに来るような軽いやつらちゃうねんから」。「俺らはもうちょっと奥ゆかしい、大和撫子タイプが好きなんや」となった。では、どこにいるのか。最終的に、「もう今の日本にはおらん」という話になり何か根拠があるわけではなく話の流れから韓国に出会いを求めて旅をすることになった。廉田が車を運転し下関からフェリーに乗って韓国へ渡った。これが廉田自身が大学に行っている間は、「旅人になる」決心をしたときであり自分の人生を変えていったきっかけはこの「旅」にあったという。
廉田:とにかくその「彼女ができない」とかっていうのも、「欲しい」とかっていうのもなかなか…、克服するために旅をうまく使ってるんですよ。韓国行って合コンしに行って、とかね。そういうふうに自分の苦手な部分とか、コンプレックスのこととかを…、ヨーロッパをずっとひとり旅したのも、「自分の行動範囲が狭いな」と思って、障害のない人と比べたら。
廉田:「合コンせえへん?」って言うこと自体が恥ずかしかったんですよ、韓国行って。俺の中で修行やったんですけどね。そもそも合コンしに行ってるけども、ハングル喋られへんし(笑)。
――私もそこを質問したいと思って。「どうやって合コンに参加してるんやろ?」と思って。
廉田:すごいでしょう?参加どころか、俺らが企画せなあかん側やからね、設定して。これ修行でしょ? その時点で。なかなか達成するの難しいですよ、テーマとしては。
廉田:そういうふうにたぶん自分をこう、大きくするというか、視野を広げるとかっていうのに俺はいつも旅を、通してやってきたので、っていうのがもともとあるんですよ。で、外国好きっていうのが合ってるのかどうか分からないですけれども。(廉田[i2018])
廉田が「旅」に求めているものは、合コンだけではない。合コンでの出会いと彼女をつくるという目的もあるが、それとは別に障害のない人と比べたときの行動範囲の狭さと自己のコンプレックスに「旅」を通じてどう向き合うのかという経験の過程が本筋の目的なのである。廉田が、「旅」のなかみは自分でつくった「修行」ということの意味である。
廉田は、ひろしと合コンメンバーを集めるため、日本語学科のある釜山(プサン)大学や他大学もたずねたりしたが、車中泊や野宿ばかりでは出会いはなかった。そこで仲間を集めるためにユースに泊まり、日本人大学生2人と出会う。何の目的で韓国へ来たのかたずねると、戦時中に日韓併合されて出稼ぎに来ていた韓国人が大勢いたが、戦争で原爆が落とされ広島、長崎で被爆し自分の国に引き上げたあと、日本政府、韓国政府のどちらからも援助されず宙ぶらりんになったことについて韓国で活動しその本を書いたリーダーに会いに来たのだという。合コン三昧だった廉田は、同じ大学生で同じ年頃の日本人のその話を聞いたことで尊敬の念がうまれ、「釜山市在住」という情報のみで一緒に著者を探すことにした。言葉もたいして喋れなかったらしいのだが、方方をたずねてまわり、2日間で著者をみつけることができた。
廉田:もうめっちゃ盛り上がって、「わあーっ!」てなって。その人のとこの家、色んな人に聞いて聞いて行って、盛り上がって。で、日本語喋れるんですよ、50過ぎてる人ですから。その、日本…、その時の50過ぎてる人は無理やり日本語教育されてるから、皆喋れるじゃないですか。そっからが面白かったんですよね。まるで俺とひろしがその人に会いたかったかのように、俺ら2人が質問して、この2人が書きとるっていうね。何かおもろいことになってもうて。何やろあの盛り上がり。
――:一心同体になっちゃったの、そこで?
廉田:[…]そこ泊めてもらうんですけども、ご馳走してもらって。その人が面白かったんですよ、話が。言ってる話は、被曝者の話だったりとか、朝鮮人、韓国人に対する差別とか、自分らがどんなひどい目受けたかみたいな話もあったりとかね、日本人との色んないざこざとか、そんなこと…、人権の話なんですよ、簡単に言えば。…なんだけど、その人の話し方が面白いし、上手なんでしょうね、たぶん。こっちはちょっと引き込まれていくような、聞いたことない話で。すごいそこで俺、興味持ったというか。
それでね、その時にほんとに思ったのは、これ人権の話してるんやけど、俺、そもそもその人権とかね…、そう、よくあるパターンですよ。「そんなんは、このこっちの賢い組が考えることで、俺ら関係ないねん」みたいな。自分障害者やのにね。そんな感覚やったんですよ。何かわかります? あの、「そんなん考えるのはこっちの賢い人らの、堅い話の。俺らちょっと面白い人たちやねん」みたいな、感じやって、「俺らとは関係ない」と思ってたはずの人たちやったんやけど。「これ身近なことやな」とか。全然、遠い話やなくて。堅い話とか賢い奴がやる話じゃなくて、誰にでも関係あることで、っていうのをそこで、気づきましたかね、その旅で。そっからかな。その人の影響…、何かそういう話を聞くのが面白いとか、ってなったとこらへんから、自分ちょっと変わったんじゃないですかね。[…]ちょっと大阪から東京歩いてみよか、みたいな旅をすることになるんですよ。(廉田[i2018])
廉田は、人の出会いから触発され自分にとっての障害者としての気づきを落とし込んでいく。人権の話は、俺ら以外のひとの話から俺の話でもあると感じた。それまで話し手であった廉田がこの「旅」では聞き手になる面白さを知った。出口治明は「僕は年齢に価値を置いておらず、年功序列という考え方にもほとんど興味がなく基準は面白い人かどうかであって、求めているのは自分に刺激を与えてくれる人」であり、人とのつながりは「自分」というコンテンツ次第だという(出口[2020b:84])。廉田にとって人権の話は少なくとも自分がする話でも考える話でもなかった。韓国へいき、他大学の学生と会いその活動家に出会うまでは…である。その後、廉田が日本のバリアフリー問題について考え大阪から東京を歩く旅へとつながっていくことになる。
3-2 後に続いた旅人
廉田がバリアフリーの活動をしていることは、母校である関西学院大学でも知られていた。当時、在学生だった佐藤は、「旅」に関心があり先輩の横須賀俊司を通じて廉田を紹介してもらい、ヨーロッパ旅行の手ほどきを受ける。廉田から「ヨーロッパは、バリアフリーでもないし、電車もホームがなく抱えてもらわないと乗れない、けれども周りの人に声をかけて頼めば乗せてもらえるから根性さえあれば旅はできる」と言われ、佐藤は「ああ、根性かあ」と思い「じゃ頑張ります」とこたえた。廉田から聞いた旅の話は面白く「車いすの旅人はカッコいいな」「自分も旅人になろう」と思ったという。佐藤は1989年9月からヨーロッパに渡りパリ、スペイン、オランダ、スイス、ミュンヘン、イタリア、モナコ、スペイン、ロンドン、移動は電車かヒッチハイクだった。道中はバリアフリーではなくみんなに抱え上げてもらった。帰りは中国の飛行機だったため、中国に1泊して日本へ帰国した。では、旅の道中はどうだったのか。
実際に佐藤が楽しかったのは、最初の約1ヶ月半ぐらいで、旅の中盤になると観光で行くには石畳みばかり、歴史的な建物や美術館巡りに飽きがきてしまった。
3-3 万事窮すからの脱却
次は佐藤の「旅」の経験を記す。佐藤は、廉田から伝授された旅人はホテルに泊まらず野宿をすると言われていたので、そのとおりに野宿を実行する。着いて2日目に黒人に野宿は危ないからホテルに泊まるよう声をかけられたが小さい駅の外の歩道で野宿を決行した。翌朝、清掃車から撒かれた消毒液で目が覚め、お腹と紐でつないでいた鞄は本人が全く気付かぬ間に盗られていた。警察へ行き相談したが日本大使館へ相談にいくよう言われる。
大使館へ行くとVISAのトラベラーズチェックの再発行について問い合わせをしてくれ、教えてもらった通りにNTTのようなところへ行き日本人が対応してくれる予定になっていた、たか子さんにコレクトコールで電話をする。だが、電話口にでた男性から「たか子さんは2週間のバケーションをとっている」と言われた。佐藤は、「俺お金ないから、終わったなあ。俺はフランスでホームレスとして生きてくしかねぇな」と思った。
佐藤:そしたらその男の人が、「お前辞書を持っているか。」って聞いたんですよ。僕は辞書を枕にして寝ていたので(笑)、盗られずに持っていたんですよ。それで、「あります。」って言ったら、「じゃ今から自分がスペルをひとつずつ言うから、お前、辞書を引け。この電話は何時間かかってもいいから、そうやって会話しよう。」って言われたんです。俺、そんなんでわかるかな、って自信なかったんですけど、でもそれしか生きてく術がないから、言われるままにやったんですよ。そしたら、スペルをひとつずつ、「sky(スカイ)のS」とか「blue(ブルー)のB」とか言って教えてくれるんです。その通りやって辞書引いてったら、1時間ぐらいかかったんですけど、何を言っているか全部わかったんですよ。
[…]その時にね、自分は考え方がすごく変わったんです。今まで自分にもし何かトラブルが起きたら、自分で対処ができないかもしれない。だから1番やりたいことがあっても、リスクが高かったら、2番目、3番目の、トラブル起きても自分で対処できるものを選んでやっていたんです。でも、「俺、結構いけるなあ。」と思ったんです。「追い込まれてもやれるわ。」と思って。自信がついて、「これからは1番やりたいことをやろう。」って思ったんです。その時にうまくいかなくても、俺、絶対何とかできるわ、って自信がついたんです。そこから考え方と生き方が変わったんですよ。だからその後、メインストリームの活動を始めて、最初どうなるかわからなかった時に、あんまり不安じゃなかったんです。何とかやれるって、もう自信持っているから。自分が一番やりたいことをやろうって。その時に、思ったんですね。(佐藤[i2018])
「旅のよいところは、自分を再発見することである。ちょっと苦い反省もしなければならなかったし、やる気さえあればいろいろなことができるという発見もあった。自分の意思をはっきりと伝えること、主張すること、それに伴い責任をとることの大切さを痛感し、ちょっとそれは大きな発見だった」(高橋[1992:17])
日本国内の「旅」であれば、盗難にあってもその後の対処の際に会話で困ることはないだろう。佐藤の電話の相手もどうやったら言葉が通じるか、困っていることを解決するためにどうしたらよいかを考え、そして、時間をかけての共同作業である。佐藤にとって、旅でのアクシデントが自信へと変わり何よりも自分が一番やりたいことをやろうと思えた瞬間となった。
廉田は自身の著書に西洋人の笑顔についてこう記している。
「パリの街でも、ぼくが車いすをこいでいて目が合った人は、必ずといっていいほど微笑みかけてくれます。[…]ほんとうに日本では車いすの人を見かけて、微笑みかける人はめったにいません。それより、できるだけ見ないようにして通りすぎたり、見てはいけないものを見てしまったという感じです★15」(廉田[1987:56])。
微笑みかけられて、嫌な顔をする人はいないであろう。でも目を背けられたり見えていないような素振りは、存在の否定ともとることができる。西洋人の笑顔は、廉田の旅で感じた日本とのちがいであった。
4. 手段としての「旅」
4-1 つかず離れずではなく離れられずを知る
佐藤:その時に、自分はできるだけ障害者と離れて生きていこう★16と思っていたんですけど、新しい街に行くと、「この街の障害者はどうしてんのかな」っていうのが、すごく気になったんです。それで障害者を探すようになったんです(笑)。全然見つけられなかったりするけど。歩いていて障害者を見つけて…、スペインのあたりかな、その時にね、視覚障害者が歩いているのを見つけたんですよ、白杖。その時思わず後ろつけて行きました(笑)。「この人どこ行くんだろう?」と思って。つけて行った時に自分は、ハッと気がついたんですよ。「俺、ほんとに障害者のことが気になるんだなあ」って。もう嫌で嫌で、こんな活動やめようと思っていたけど、でも実は自分は障害者のことが気になって、気になって仕方ないんだな、っていうことに気がついたんです。「それだったらこれから障害者の活動やってこうかな。」って、思ったんですよね。ヨーロッパの旅で、自分は障害者のことが気になって仕方がないってことがわかったんです。(佐藤[i2018])
高田公理は「メタルフォーゼの欲求を満たすのが旅である」(高田[1993:194])と言っている。また「生命はもともと「自分でいつづけたいけれど、常に自分以外のものになりたい」という正反対のモチベーションを持つ両義的な存在であると言える」としている。(高田[1993:194])
現代人の観光への欲求を支えているのは、いちおう完成したアイデンティティを危機にさらしてみる、そのことによってメタルフォーゼを体験し、あらためてアイデンティティをさらに強固なものにする、そういうダイナミズムが想定できる(高田[1993:195])
佐藤が嫌で嫌でやめたかった活動は、廉田を紹介してくれた先輩に連れられて行く障害者運動だった。障害者運動で戦っている人たちの主張はまちがってはいないが、その抗議する姿は激しく佐藤には重く感じた。だが、ヨーロッパに行く前には北海道でバリアフリーの旅を経験しており、障害者運動の意義は理解していた。それでもその後も障害者と関わらないで生きていくという気持ちをひそかに持ち続けていたことになる。佐藤は日本ではなく海外で障害者のことが気になる自分を自覚する。「障害者と関わらないでいこう」と思っていた日常から離れたことで自分の関心ごとが明確になったともいえる。
4-2 見たことのない風景、そして挑むにたるもの
廉田は、1987年に財団法人広げよう愛の輪基金によって募集された「ミスタードーナツ障害者米国留学派遣」事業(以下、派遣事業)に応募している。応募したきっかけは、派遣事業で5期生の松兼功が1986年1月から半年間のバークレーの生活を書いた『あめりかガラガラ異邦人』(松兼[1987])を読んだことだ。バークレーCILのことは、以前にマイケルウィンターと桑名敦子がテレビのドキュメンタリー番組にでていたのを見た記憶があり、自立生活センターのことは何となく知っていたという。障害者が自立していて介助者がサポートしお金を払っている状況を「文化の違い?」と思い、気にはなっていた。
1987年に派遣事業に応募し書類審査は通過したが、東京の戸山サンライズでおこなわれた英語テストと面接を受け不合格となった。廉田によれば同部屋だった鬼塚と寝坊し日本リハビリテーション協会の職員に起こされて試験に向かったとのことだった。不合格になった詳細は不明だったが、「廉田は面接時に今回だめでも次回があるみたいな印象をうけ、障害者を暇だと思っているような感じがした」という。その後、アメリカに行きたい気持ちはかわらず、1987年夏から留学ビザを取得し単独渡米する。Berkeley language schoolに籍をおきバークレーCILでボランティアをしながらセンターのノウハウを学んだ。
――ヒッチハイク横断。(笑)
廉田:横断とか色々しながら、してた。大学卒業してからね。その時はアメリカかぶれしてて(笑)。介助制度のこととか、やっぱカルチャーショックやったんですよ。それで、「西宮でこれ俺が作らなあかんな」みたいな。「自立センターと出会う」っていうのがそういうことなんですけども、「自分に何が向いてるやろう?」とか、「何がしたいんか?」みたいな、自分探しの旅なんですけども。自立センターの時に思ったこと、「これ、俺がやりたい仕事じゃないかな?」とか「俺にしかできへん」。いや、日本にそんなセンターがあることも知らんかったし。あの、「日本人みんな知らんやろう」ぐらいに思とったんですよ。「俺しか知らんのちゃうか?」ぐらいな勢いで(笑)。そんなんで、「これ作らなあかんな」みたいな感じで帰って。まあ面白かったんですよ、バークレーに障害者がウジョウジョいる姿が。(廉田[i2018])
廉田が見たバークレーの障害者の光景は、西宮にCILをつくりたい気持ちへと駆り立てた。もともと旅へ出る前になんとなくCILのことは知っていたが、実際に行ってみるとかなりのインパクトがあったということになる。廉田のこの経験は、後に「第9回車いす市民全国集会・兵庫」のアテンダントサービス導入★17に繋がることとなる。
4-3 旅を介して自己をつかむ
メインストリーム協会(以下、メインストリーム)の創業は、1989年★18である。その当時は暇だったらしく、旅好きメンバーは安いチケットを購入し自分たちで手配をして韓国へ行っていた。しかし、裕福だったわけでなく、現地では安いホテルをみつけ泊まるというバックパッカーのような旅であった。
廉田:その頃よく言ってたのは、[…]メンバーが一緒にメインストリームやってるから、「うちはもう野宿できるスタッフやねん」とかって言ってた。そもそも旅好きなんですよ。そのTRYから始まっててっていう。佐藤も初めて俺に何か、色んな話(はなし)しに来た時は、たぶん、何か「ヨーロッパを旅したいんやけど」みたいなことで相談に来たような気がするんで。その前に行ってひとり旅してたから。そんなこともあって、基本旅好きな人たちがおったんですよ。その、「出かけるのが好き」というか、あと「野宿もできる」みたいな。そんなんから始まっての自立センタースタートですかね、簡単に言えば」(廉田[i2018])
メインストリームのメンバーたちは、「旅」イコール「野宿」的なものがあり、佐藤もそれを実行していた。廉田の旅での「野宿」は外せない項目であるから、道中すべてでなくてもそれは実践されなければならなかった。だがそれは、トラブルでもアクシデントだけの要素だけではない。メインストリームのメンバーにとっては何が起こるかわからない未知の楽しさでもあるからだ。横須賀俊司はそれを「障害という経験」の読み替えといっている。たとえば、この読み替えは障害者運動で困難な壁にあたっても読み替えていくことが可能なのだろうか。むしろ、それを可能とするために、日頃の読み替えが困難を感じたときにおのずと発揮されているのではないか。
廉田:「メインストリーム・ツアー」っていうのを組んで、他でもしとったかも分からへんけど。自立プログラムをやっても、みんなその気にはなるけど、当時90年代なかなか制度も整ってないから、自立する勇気も持ちにくいですよ。
今でこそこんな事務所があったらね、「じゃ練習してみようか」ってなるけど。練習するとこもないから、施設から出るか、出てアパート借りて、家財道具一式揃えて、ってなったらもう、大きな賭けじゃない、博打みたいなんで。あかんかったら、ってなったらもう、何のこっちゃ分からへんし、みんなそのリスク背負いたくないから、なかなか自立は難しかって。そんなんやから、なかなか進まないし、1週間に1回そういうプログラムやっても、また帰って施設に戻っていったらおんなじ生活に戻るし★19。そんなんよりは、「ちょっとアメリカとか連れて行こか」みたいな。何か「メインストリーム・ツアー」とかって、「自立ツアー」とかって言って、アメリカ行くツアー組んだりとか、もやってましたね。その方が洗脳しやすいですよ。(廉田[i2018])
廉田:10日間ぐらい連れて行って、「おもろいやろ!」言って、遊ぶだけ遊んで(笑)。夜、夜通しかかって、「どや自立?」って、「やりたい!」みたいになる方が簡単なんですよ。そんなことをやったり、だから結構ね、海外に繰り出すみたいなことは、何かの拍子にしてたんですよ、そういう。(廉田[i2018])
介助者を得るプログラムに「フィールドトリップ」というものがある。障害者が外出することを諦める自己規制を取り払い、実践で街中に出て経験する。「積極的に行動しての失敗は自分たちにとって形ある教訓か処方箋を残してくれる」(岡原・立岩[1995→2012:238])。廉田たちの「旅」と通じるところがある。
「新しい情報の創出には、創造主体の独創性もさることながら、その固定観念を揺さぶる異界からの刺激が必要不可欠なのです。そして、その新しい刺激を、常に人びとに与える機会が旅によってもたらされます」(高田 [1993:197])
日本という場所でなく海外に行くことで、日本での生活の悩みであったり不安は感じられない、というか思う暇もないほどひたすら遊びに徹するのだ。ただこの「旅」で共有する時間は、遊びの楽しさを共有するだけではない。廉田や佐藤がそうしてきたように、困難なことを楽しさや面白さに読み替えていくこと、それを直に体験してもらうのだ。さらに「旅」を共にすることで信頼関係も織りこまれていく。困難は避けたり乗り越えるものでなく、面白く解釈し解決に向けて共に考えていくのである。それは、「旅」を楽しみ「旅」で自立につなげるというメインストリームでは有効な自立生活の誘いであり、メインストリームの「通過儀礼」でもある。
5. おわりに
「海外」という場所は、「わたし」という価値が確認できる「地」ではなく、その場所における「わたし」という存在はまだ成長過程である
出口は「僕は「リアリズムが何よりも重要である」と常々いっているのですが、これはタテヨコ算数の話と一緒です。要するにエビデンスたり得る「数字」とファクト「事実」を拠り所とした「ロジック(論理)」を積み上げていくことが重要で、確たる根拠のない社会常識を前提にした自らに都合のいいロジックを展開してはいけない[…]」(出口[2020b:125])という。メインストリームの読み替えは、はたして確たる社会常識を前提にした自らに都合のいいロジックの展開であろうか。横須賀の理論によれば、それは単に都合のよいロジックの展開にはならない。
障害者は自分を生きやすくするために,「障害という経験」を主体的に意味付け,独自に解釈する枠組みを形成する。この解釈枠組みがある一定の成員に共有されると、それが「文化」としての位置を占めることになるのだ。障害者はきわめて苛酷で困難な「障害という経験」を何とか生きやすく,できれば楽しめるような経験へと現実構成するために「障害という経験」を読み替えていくのである(横須賀[1999:25])
廉田と佐藤は限りなくシンプルに、有益なものを得ることを目的なり前提として「旅」をしていない。たとえば、安全性や効率性を優先させるなら旅先のあらゆる事象を調べ、可能な限り整えて旅路を進めば比較的安全にかつ合理的に得たいものを得ることができる。しかし、そこに多少の喜びや達成感はあるにしても、想定内に近いものしか得ることはできないだろう。廉田ははじめから未知なる要素を見込んだ「旅」を選択している。計画がないということは「旅」の達成感は担保されない。何かしらに意味をもたせることなく、役に立つのかもわからない。ただ自分の思うまま、心のままに行動を起こす。旅先で「障害があることを通じての経験」をする。そこには困難な体験もある。そこで彼らの読み替えが作動する。障害の有無にかかわらず、「旅」は人々に変化をもたらす。だが、障害者だからこその経験もあり、その経験は彼らたちの経験として語られる。語れることができるという自信は後の彼らの社会参加とつながる。少なくとも廉田と佐藤は「旅」での経験から障害者運動へ向かい地続きとなった。経験的基盤の先には実直に「旅」を通じて人と出会い、障害者がもつ身体を介しての経験による語りの深化があった。
■註
★01 1924年10月30日生まれ。中学生の頃、柔道でケガをしたことで手足が少し不自由になる。その際に筋ジストロフィーの一種であると診断を受けたが、日常生活に影響はなかった。その後、就職し車通勤をしていたのだが、出勤途中の信号待ちでわき見運転のダンプカーに追突された。交通事故から半年後に突然両脚がマヒし車椅子生活となる。ヨーロッパのひとり旅は介助者なしで11か国を20日間で移動した。石坂の「旅」について『病者障害者の戦後——生政治史点描』の該当箇所に以下の記述がある。「石坂は七一年に車いすで単独でヨーロッパへの団体旅行に参加し、その体験をさきの本に書いた。「その本の与えたインパクト」は「大きかった[…]これは日本におけるバリアフリー旅行の歴史の出発点ともいえる書物だろう」(馬場2004:18])と馬場は述べる。」(立岩[2018:179])石坂は帰国後、第一勧業銀行に勤めながら東京都に公共建造物の改善の要望を出すなど他に障害者の海外旅行企画にも携わっていた。★02 障害者に自己選択の権利はなかった。扶養義務者によって家で過ごすのか施設に入所するのか生活形態は本人の意思抜きで決められていく。その行為は親の愛情であると、親自身も世間も思っていたのだが障害者にとっては監視や自立の疎外以外のなにものでもなかった。(岡原[1995→2012:119-157])。父母の会における障害認識および運動の歴史的変容については「先天性四肢障害児父母の会における障害認識の変容(1)「子どものありのまま」を認める運動へ」→(堀[2014:145-163])を参照。
★03 草薙威一郎は1973年の北欧の福祉施設視察に同行した際に、スウェーデンの担当者とある話をしている。日本から来た視察者の質問は、建物の築年数や予算の質問ばかりだった。説明していたスウェーデンの担当者は草薙に「視察に来た人は「税務署の人なのか」とたずね「「人間の尊厳を守るためにはどうしたらいいのか」とか福祉に対する考え方を話したかったのだ」と言っていたという(草薙[1998:100])
★04 「旅」に関することはではないが、誰が見るかの視点について、例えば川内美彦は、「福祉のまちづくり」の仙台大会の議論について以下のように考察している。行政や技術者が分離された環境の中で育ったことで、障害者のことを知らないのだという自覚なしに、理念ではなく具体的な解決策を優先してしまうことになっているのはないかという。そして、「障害のある当事者側にも、従来のような憐みのこもった目で障害のある人をとらえる伝統的な姿勢に違和感を持たず、それに真っ向から異を唱える筋張った権利主張になじめない人がいて、次第に、抽象的な「権利」や「差別」よりも、わかりやすい「段差」や「寸法」に気を取られる人が主流となって今日に至っているのではないか」それは障害者が権利を軸とした主張を技術にインプットすることができなかったのではないか(川内[2021:166])
★05 1947年生まれ。政策過程で障害者が主体となって直接参加しリハビリテーション法504条項、障害者差別撤廃法であるADA法、IDEA(障害のある個人教育法)などを成立させた、米国の障害者運動・自立生活運動の世界的リーダーである。ビル・クリントン政権下で特殊教育リハビリテーションサービス局(OSERS)7年半、その後、世界銀行で障害と開発アドバイザー、コロンビア独別区で知的障害・リハビリテーションサービス局の責任者、国務省では障害者の権利の促進に関する業務などを担った。日本の障害者運動との関わりは、1983年に開催された「日米障害者セミナー」で来日し全国各地で講演会をおこなったことによる。
★06 ジュディヒューマンは「わたしは人と人とをつなぐことが好きで、そのための場なら喜んで設ける人間だ。誰かと出会ったら、その人をまた別の誰かに紹介するようにしている。できるだけ多くの情報を吸い上げ、できるだけ多くの人とそれを共有しようとしてきた。旅をするうちに、国際的な障害運動家たちの小さなネットワークができ、彼らとは友だちになった」(Heumann,Judith; Joiner, Kristen[2021:229])といっている。
★07 障害者を対象としたミスタードーナツ障害者米国留学派遣は1981年から開始され(1991年からはダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業に名称変更)は、40年間で海外17か国、528名の研修生の派遣を行っている。
★08 「障害」の有無や海外の地に言及されているものではないが出口は、「新しいアウトプットを生み出すには、「人・本・旅」によるインプットが不可欠」と言い、人との出会いや「旅=現場」で様々な考え方や発想に触れることを説いている(出口[2020a:245])。そして、その3つのなかでももっとも強く心を動かすのは五感で感じる「旅」であるという(出口[2020c:90])
★09 本論文ではある人へのインタビューをその人の著作物と捉え、文献表には聞き手等を示したうえで、(廉田[i2018])などと記す。
★10 廉田は入学の時の面接で性悪いなと思っていた教員たちも、入学してからは親切だったと記している(廉田[1987:44])。
★11 廉田が障害者になってから祖母は「結婚はできないだろう」と思い込みその打開策として「お金持ちになれば良い、(祖母の意見)」と言われた廉田は「お金持ち」を目指す。大学浪人中に、父の友人からハワイにそうめん屋がないことを聞き、一攫千金のチャンスと捉えひとりでリサーチにいく。当時、大学に進学する意味が見いだせず母親に相談し大学へ行くお金をハワイ行きにあててもらい渡航したが、商売には語学や経営の勉強が必要だと考え帰国後に「大学に行く」と言い出した。その後、関西学院大学商学部に入学する。このハワイ行きが廉田にとって1人で外国へ行く面白さを知ったはじめての経験となった。車の運転免許は高校2年の18歳に取得し浪人中に、車で九州1周、 大学在学中には四国、北海道、韓国一周の「旅」をする。
★12 1970年生まれ。進行性の難病であるデュシェンヌ型筋ジストロフィー患者。中学2年から車いす生活となるが、両親やその知人の理解により小中高と普通学校で学ぶ。1993年に関西学院大学商学部卒業後に、「財団法人 広げよう愛の輪基金」(第15期生)で制度を利用しカリフォルニア大学バークレイ校ゴールドマン公共政策大学院に進学し行政学修士号を取得する。2000年上智大学博士後期課程文学研究科(社会学専攻)に進学。2001年にNPO法人バリアフリー協会設立。2005年に上智大学博士課程修了。著書に『ジョイスティック車で大陸を駆ける——障害あっても移動しやすい未来を』(貝谷[2003])『介護漫才——筋ジストロフィー青年と新人ヘルパーの7年間』(貝谷[2009])がある。令和4年6月現在、一般社団法人日本筋ジストロフィー協会理事で調査研究部門を担当しており父親である貝谷久宣は前年度まで代表理事その後、上級顧問となっている。
★13 14歳で車いすを使うようになった際に学校側から校内での介助はすべて両親がやるように要求してきたという。両親は毎日背負って階段を移動することは危険だと思い、キャタピラ付きの階段昇降機を購入した。貝谷は、母親が毎日学校に来て介助をしてもらうことに恥ずかしさを感じその思いを貝谷の両親は正論として受けたという。クラスメートに車いすを押してもらったり、トイレに移しかえてもらったり、取れないものを取ってもらうもらうことを学校が禁止するのはおかしいと伝え原則的には学校側は認めなかったが実際には校内の介助はクラスメートによるものだった。(貝谷[1999])
★14 寝たきりの状態や車いす生活で長時間同じ体勢いることにより皮膚の血流が滞ってしまい皮膚に病変をきたすことを指す。褥瘡が悪化すると、潰瘍や細菌感染が生じる場合もある。
★15 「日本の社会は、男性が優位だし、会社に行っている人が優位だし、それから全ての面で健常者が優位なんですよね。それが海外に行くことによって、平等な立場に立たされる。言葉の面でも、言語障害の人も同じレベルに立てるっていう。[…]あと広いスペースに行くと、車椅子でも自分の障害を忘れちゃうくらい広く行動出来る。あとカルチャーショックですね。カルチャーショックっていうのはひとつの治療行為だと思うんですね。それによってすごく生き生きしてきますよね。自分だけが不幸じゃないっていうか。障害って資格だと思うんですね。人間は空飛べないとか、羽根がないってことを劣等感に思わないでしょ。それと同じである程度障害があっても、日本社会で底辺層に置かれてれば劣等感かもしれないけど、海外でいろんな体験すれば、自分でも出来ることとか(分かったり)、いつも人から注目される存在じゃない、人からかわいそうだと思われる存在じゃなくて一個の、一人としての存在としてかな、そういうところですごい自信がつくんじゃないかな。」BさんBさんは、旅行は障害者にとってリハビリになると言い、國分は障害者が自身に自信をつけ生活のめりはりを付けるにも旅行が有効なものであると解釈している。(國分[1994])
★16 佐藤は障解研を大学2回生の時に一度辞めている。その理由は横須賀と角岡は同じ学年で、議論好きで佐藤の中の差別意識を批判され自分の中にある差別意識を認識する。「「自分の中の差別意識って、なくせないんじゃないかなって思えてきて。そんな奴が運動をしないほうがいいんじゃないかな。」って思いだしたんです。[…]それは構造的で例えば途上国資源を安く日本が買って、それで日本人が豊かに暮らしている。だから自分たちが豊かなのは、途上国の人たちを搾取して、その上に成り立っているっていう構造があって。「その社会の中で生きているんだから、俺もう差別意識とか、なくせないんじゃないかな。」とか思いだしたんですよ。そうすると、「やっぱり嫌だな」と思ってきて、それで1回嫌になって辞めたんです、それで、これからはできるだけ障害者に関わらずに生きていこうと思ったんですよ。ほんとに(笑)。嫌だなと思って、批判されるのも」(佐藤[i2018])佐藤の「嫌だなと思って、批判されるのも」については別稿(権藤[2023])にて記す。
★17 詳しくは、「アテンダントサービスの導入プロセスによるアメリカ自立生活運動の受容に関する一考察」→(横須賀[2016:19-31])を参照。
★18 ホームページ(https://www.cilmsa.com/pg66.html)に創業1989年とあり、NPO法人ポータルサイト(https://www.npo-omepage.go.jp/npoportal/detail/028000294)の設立認証は2002年12月2日となっている。
★19 施設の生活が如実にあらわされているものを引用して以下に記す。「自由というものにあれほどあこがれていたはずなのに、家での生活が[…]苦痛に感じられて仕方がなかった。[…]「なにか選ぶとか、なにかを食べたい、という意思さえ持てなくなっていた。[…]だから、それを聞かれるのがこわかった。彼はこうした〈不自然さ〉にとうとう耐えられなくなり、「寮に入りたい」と言い出した。[…]寮生活にもどると、彼はとにかくやたら張り切った。「燃えたぎる若い血が燃えた」という。いまや施設が彼の「社会」だった。(近田[1985:76-77])
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