遡航

1960 年代、自閉症施設の出現とその背景
――三重県における児童精神医療とその前史から
植木 是
20220915 『遡航』003号 pp.71-86
キーワード:自閉症施設、高茶屋病院、あすなろ学園、精神医療、障害児者医療・教育・福祉
要旨
日本初の自閉症児施設は1964年三重県立高茶屋病院内に開設の「あすなろ学園」である。しかしこれと現在の自閉症組織・活動との連続性、とりわけ黎明期のあすなろ学園の親の会と現在の親の会組織、そして自閉症施設の組織との連続・不連続が不明瞭である。この為本稿では、施設・施設関係者資料などに断片的に存在する、あすなろ学園設立・黎明期までにつながる記述を独自に収集し、分析を行った。結果、三重県の精神医療の中心を担い、またあすなろ学園の母胎でもあった高茶屋病院につながる、「三重県児童精神医療の前史とあすなろ学園設立に至るまでの過程」を明らかにした。また以上のことから、家族会・親の会の活動と、「自閉症支援の拠点としての施設づくり運動」との関係性・連続性を議論する入り口を明らかにした。

1. はじめに

 日本初の自閉症児施設は三重県立高茶屋病院に1964115日に開設された「あすなろ学園」である。以来、日本の自閉症施設は、自閉症児の成長とともに、年長児者問題を背景にして出現してきた。具体的には自閉症児の親の会の運動によって、とりわけ1980年代以降、1981年三重県「あさけ学園」(法人名「檜の里」、日本初の自閉症者施設)、1985年埼玉県「初雁の家」(法人名「けやきの郷」、全国2番目、関東初の自閉症者施設)のように、成人入所を可能とするかたちで全国各地に少しずつ出現してきた。しかし、それら施設づくりに関係した親の会の運動の展開過程については、ごく限られた業界のなかでのみ知られているだけで、世間一般には殆ど知られていない。また親の会とそれを支援する関係者の世代交代にともなって、組織内でも把握できていない出来事は少なくない。とりわけ、黎明期の1960年代、自閉症施設およびその施設の親の会が設立された経緯について、その実像はよくわかっていない。

これらを踏まえて、本稿の意義は、つぎのとおりである。

既存の枠組みのなかでは対処してもらえない――医療・福祉では精神・知的障害政策の狭間で、教育では就学猶予・就学免除とされ、やむなく在宅生活か大人の精神病院への入院を余儀なくされてきた――ことから、長い間苦悩してきた親たちが起こした運動があった。それは制度の谷間にあった自閉症児・者の支援拠点としての施設づくり運動(自閉症支援の制度化を求める運動)であり、支援者・施設関係者とともに行われた運動であった。本稿ではその動きに着目しつつ、あすなろ学園とその施設由来の自閉症児・者の親の会の運動が大きな源流の一つとなり展開されていったと考えられる、「自閉症支援の拠点としての施設づくり運動」の詳細に関する議論の端緒としたい。

本稿の目的は、つぎの2点を達成することである。

①1964年設立のあすなろ学園の前史について、明らかにしていく

家族会・親の会の活動と施設づくり運動との関係性・連続性を明らかにしていく議論の端緒とする

 

1.1 先行研究——あすなろ学園の公式資料より

あすなろ学園の創設者・初代園長の十亀史郎による未完の遺稿「あすなろ学園の歴史」(十亀 [1985→1988: 409-421])は、自らの余命を悟った十亀が病床で執筆し、文章も途切れたところで終わっている。本院・高茶屋病院と分院・あすなろ学園の関係性★01の詳細、そしてあすなろ学園と自閉症組織の形成に大きな役割を果たしたと考えられる家族会・親の会とその設立の経緯については触れられておらず、記述の不在がある。

あすなろ学園の公式資料・学園史によると、「1964年には30数人の入院児の親と職員によって「あすなろ学園保護者と職員の会」が結成され……これは1970年には「あすなろ学園親の会」と改称されて、現在に至っている」(あすなろ学園[1995: 13])とある。また。同じ学園史の沿革には先にみた家族会・親の会については「19706月 あすなろ学園「親の会」発足」(あすなろ学園[1995: 2])とあるが、本院・高茶屋病院と分院・あすなろ学園の関係性については記載がなく、また前者についての記載はこれらのみで、詳細は不明、記述の不在がある。

 

1.2 資料・方法

現在の自閉症組織の前身の1つである高茶屋病院と、あすなろ学園の親の組織については、ここまでみてきたように、現在の組織・活動との連続性、とりわけ黎明期のあすなろ学園の親の会と現在の親の会組織、そして自閉症施設の組織との連続・不連続が不明瞭となっている。これら断片的な記録・資料を、施設資料、施設関係者による資料などから独自に収集・分析し、とりわけ1960年代あすなろ学園設立・黎明期までにつながる資料に焦点をあてて分析する。本稿では、施設・施設関係者資料などに断片的に存在する、あすなろ学園設立・黎明期までにつながる記述を独自に収集し、分析を行った。

 

2. 三重県の精神医療の歩み——1868年~1912年(明治以前)~1964年(昭和39年、あすなろ学園設立の年)まで

 あすなろ学園が設立されたのは1964年(昭和39年)115日である。それではそれ以前の三重県の精神医療はどのような状況にあって、同学園は設立に至ったのか。本節では高茶屋病院関係資料よりその背景を探る。なお、あすなろ学園は三重県立高茶屋病院内に児童病棟として設立されたことから、2.1で記述するように、高茶屋病院を「本院」、あすなろ学園は「分院」と、関係者間では位置付けられ、また実際そのように呼ばれていた。

 

2.1 若生利久([1980][2009])の資料より

あすなろ学園の本院にあたる三重県立高茶屋病院(現、三重県立こころの医療センター)第二代院長の若生年久の文章(若生[1980][2009])を要約し概観・整理する。

 

2.2 時期区分、要点と特徴

以下(1)~(7)に示す。なお、若生(1980)は和暦表記であるが筆者は西暦表記に置き換え、()内に和暦を示す。

 

11868年~1912年(明治以前)——加持祈祷の類

伊勢の国における精神障害者の処遇は今日詳らかではない。しかし、神道が隆盛を極めた土地柄だけに、加持祈祷の類か、灸、漢方による治療が主流で、軽症のものは神社仏閣の片隅に住んだり、重症のものは座敷牢などに監置されていたと推察される(若生[1980: 8])★02

 

21921年(大正10年)——宮川脳病院の設立

本格的な精神病院は、1921年(大正10年)設立の宮川脳病院(100床、院長小林喬松)が嚆矢である。その後、昭和21年(1946年)に、「榊原の病院」(ママ)で治療が始まるまで、「宮川の病院」(ママ)が県内ただ一つの精神医療機関であった。「宮川」といえば、今日では、美しい桜堤か、花火大会を思い出すが、当時は精神病院を意味する程であった。戦争中は食糧も乏しく、この病院の患者さんは悲惨な状態であったときく。戦後、精神医療のニードが著しく高まった中でも、この病院は発展することなく閉鎖同様となり、昭和27年(1952年)には法務省に移管、現在の「宮川医療少年院」に転身している(若生[1980: 8])。

 

31946年(昭和21年)——「榊原の病院」(ママ)が精神病患者の治療を開始

「榊原の病院」(ママ)は、1939年(昭和14年)に京都陸軍病院の分院として、主として外傷性機能障害将兵の温泉療法を目的として設立されたが、1946年(昭和21年)に国立津病院の分院として精神病患者の治療を開始した。1956年(昭和31年)には国立榊原療養所(190) として精神専門の療養所となり、1965年(昭和40年)には260床に増床、1970年(昭和45年)に現在の国立療養所榊原病院と改称される(若生[1980: 8])。

 

41950年(昭和25年)——精神衛生法の制定と県立高茶屋病院の開設

1950年(昭和25年)、精神衛生法が公布され、県立高茶屋病院の誕生をみたが、それまでは榊原分院の143床のみで、精神医療は三重県にはほとんど存在しなかったといえよう。県立高茶屋病院は、県立医専の附属高茶屋分院の一部を借りうけ、定床193床、職員28(医師3、薬剤師1、看護者その他24) で開設された。施設は旧海軍工廠の残存建物で、凡そ病院とは呼べない代物であった。しかし、そこで黒沢良介教授及び井上正吾前院長が中心となり、病院の基礎作り、ひいては三重県の精神医療の基盤を作る努力が精力的に開始された。1950年(昭和25年)は、精神衛生法の公布と同時に、精神病者監護法(1900年(明治33年)制定)と精神病院法(1919年(大正8年)制定)が廃止となった年で、三重県にとっては名実ともに、精神医療元年といえる。1954年頃(昭和20年代の終り頃)から、大学病院と高茶屋病院の医師が集って、精神病理学、精神内分泌学、薬物療法、精神療法、作業療法など広い分野にわたって活発な勉強会と研究が行われ、多くの人材の養成と共に社会化をめざす医療の基礎が徐々に作られていった(若生[1980: 8])。

 

51954年頃(昭和20年代終り頃)——三重県の精神病患者のようす

1954年頃(昭和20年代の終り頃)」でも、まだ上記の(1)でみた様な加持祈祷や神社の片隅で身を寄せているような傾向があちこちにみられた。祈祷師による「治療」でかえって病状が悪くなって入院してくる患者も多く、座敷牢と同様な部屋に閉込められている病人もみられた(若生[1980: 8])。

 

61955年~1964年(昭和30年代)——新しい精神医療体制の構築

次々と新しい精神病院が開設され、病床の急増をみた。当時、大学病院や高茶屋病院では、分裂病やてんかん、及び非定型精神病について、病理を明らかにしようと試みると同時に、新しい治療法の開発に向け努力が続けられていた。同時に、高茶屋病院では、病棟の開放化、作業療法の推進、精神療法の研究、外勤療法の開拓などが行われ、そのために、PSW、臨床心理士、作業療法職員、レクリエーション・ワーカー、保健婦などを採用、「当時としては最も先駆的な社会化」をめざす病院体制が作られた。ソーシャル・センターやレクリエーション・センター(体育館)が出来たのは1962年(昭和37年)であった。1964年頃(昭和30年代後半)は、高茶屋病院の医療は随分進歩したが、その他の病院では医師も看護婦も不足のまま新設と増床が相次いだため、後に多くの問題を残すこととなった(若生[1980: 8-9])。

 

71964年(昭和39年)——児童精神医療の進展

1964年(昭和39年)、高茶屋病院内に60床の「児童病凍(あすなろ学園)」が開設され心に障害をもった児童・生徒に対する治療と教育の場が誕生した。当時この種の施設は他県にも殆どなく、全国の注目を浴びるところとなった。情緒障害の小・中生が県内外から来院した。入院治療を受けつつ、院内学級または地元の小・中学校の障害児学級に通学する方式で,モデル的な運営がなされた(若生[2009: 27]、下線部筆者)。

 

なお若生(2009)は高茶屋病院黎明期を回顧しており、(7)の他には同病院でおこなわれた「ユニークな社会化をめざす医療」として、例えばアルコール依存症治療や家族会、地域医療などの取り組みなどがある(本稿ではあすなろ学園設立期までに焦点を絞るため、ここまでに留めておく)。

 

3. 高茶屋病院の前史と黎明期——関連する病院/人の動きと、その関係性

本節では、井上([1982: 3][1987: 1463])および、橋本明(精神医療史研究)らによるサイト「近代日本精神医療史研究会」の情報を参照する。三重県立高茶屋病院(現・三重県立こころの医療センター)の前史および黎明期に関して、両者を参照しながら要約すると、以下(1)~(3)のようになる。

 

1)三重県立医学専門学校★03精神神経科講座★04の設立——19473

戦後初期の三重県の精神医療人事は「京大閥」が中心で、同講座初代教授は京大精神科出身の黒澤良介(終戦前まで台北帝国大学助教授)であった(井上[1982: 3][1987: 1463 , 近代日本精神医療史研究会[2022])。

 

2)高茶屋病院、三重県立医学専門学校附属病院分院の一部を借用して設立——19503

三重県立医学専門学校附属病院分院を一部借用して1950年に開設されたのが、三重県立高茶屋病院である。三重県立医学専門学校附属病院(本院)は津市立病院を移管して開院したものだが、同附属病院のほとんどの精神科入院病床は同じ津市内の高茶屋の分院に置かれていた★05。そして分院の精神科入院患者が新たに開設された高茶屋病院に転院すると同時に、分院の精神科入院病床はなくなった(井上[1982: 3][1987: 1463 , 近代日本精神医療史研究会[2022])。

高茶屋病院初代院長の井上正吾は(1)でみたながれで黒澤とおなじ京大精神科出身である。

 

3)三重県立医学専門学校との深い関係性——医局と医者

同じ県立ではあるが精神病院の高茶屋病院と医専/医大(学制移行段階により並記)の三重県立医学専門学校は別の組織である。しかし初期の高茶屋病院は実質、三重医専/三重医大の精神科の附属病院のような役割を果たしていた(井上[1982: 3][1987: 1463, 近代日本精神医療史研究会[2022])。

その関係性は、以下、adのようなものであった。

 

a. 三重医専/三重医大の附属病院(本院)では精神科入院治療が実質、不可能であった。

b. 高茶屋病院は臨床的な教育の場が提供可能で、精神科関連書籍が整備されていた。

c. 関係者間では実質、三重医専/三重医大の精神科医局といえば、高茶屋病院の医局を指していた★06

d. 院長・井上と教授・黒澤は、京大閥のつながりがあっただけではなく、実質、相互乗り入れ的に仕事をしていた。具体的には高茶屋病院の医局には病院顧問としての黒澤教授の机があり週1回病棟回診を実施、井上院長は非常勤講師として週1回附属病院(本院)外来で学生指導を実施していた。

 

あすなろ学園20周年(1986年、高茶屋病院より分離独立以来)を記した公式資料である、あすなろ学園([2005: 1])には、〈村上・黒沢・井上による構想〉というふうにあるが、以上のことから、具体的には、村上らの関係性は次のようなものであったと考えられる。a.この三者は京大閥としてのつながりがあったほか、b.本院(三重大(三重県立医科大)病院)と分院(高茶屋病院)のような医療現場における関係性でのつながりがあり、c. のちにつづくおなじく京大閥の後輩たち(あすなろ学園の十亀、小池ら)、にそのながれは続いていった。

 

4. あすなろ学園の前史——成立とその背景

現在に連なる現場関係者によるものとして、あすなろ学園後身施設の、三重県立子ども心身医療センター地域連携課課長(現、同部長)である高橋悟(2020)を足掛かりにしてみていく。また、あすなろ学園(2005)、十亀(1985→1988)、若生(2009)ほか資料を補足しながらみていく。以下、(1)~(4)に、その時期区分と特徴の要点を整理して示す。

 

1)高茶屋病院における児童精神科医療の構想——1961年、院長井上による構想

あすなろ学園が当時の院長、井上によって構想されたのは1961年である(高橋[2020])。

井上は、先に3でみたように、十亀の京大精神科の先輩にあたるが、前任地である奈良の吉田病院から1950年に、高茶屋病院初代院長として赴任した。また井上は戦争期、ビルマのインパール作戦に軍医として参加、 10万人余の兵隊の殆どが戦死または戦病死したなか、あらゆる苦難を乗り越えて無事帰還した兵士の1人であった(若生[2009: 26])。副院長は1953年に同じく京大精神科から赴任した鳩谷龍である。鳩谷は終戦時、軍医として満蒙地区に派遣されていたがソ連軍の参戦により捕虜となり、極寒のシべリアでの数年間の強制労働ののち帰国し、京都大学に復帰していた(若生[2009: 26])。

高茶屋病院では1955年頃(昭和30年代)から病棟の開放化、作業療法の推進、精神療法の研究、外勤療法の開拓などが行われ、そのために、PSW 、臨床心理士、作業療法職員、レクリエーション・ワーカー、保健婦などを採用、「当時としては最も先駆的な社会化」をめざす病院体制が作られた(若生[2009: 26])。このような高茶屋病院の活動が評価され、井上は1968年に日本精神神経学会より第3回の呉秀三賞(井上[1987: 1463])★07を受賞している。

この時期——1961年の井上による構想の頃——に、高茶屋病院が精神科で児童の臨床に本格的に取り組みだそうとしたことを、日本における児童精神医学の展開過程と照らしてみる。それは、1960年の日本児童精神医学会の設立と時期的に重なる。黎明期の児童精神学会では、精神病として捉えようとしていた自閉症★08と、神経症の一部として捉えようとしていた学校恐怖症が注目の的で、この2つの疾患をどう取り扱うかということに議論が集中していた時期にあった。この時期、日本でもほぼ前例がない中、井上、十亀らの高茶屋病院は、1962年に精神科児童入院治療を開始している。1960年の児童精神医学会の設立と1961年の井上による構想を経て、1962年より本格的に自閉症を含めた児童精神科臨床を開始していくことは、精神科児童入院治療他、「当時としては最も先駆的な社会化」や「ユニークな社会化をめざす医療」を標榜した高茶屋病院としてはごく自然なながれだったと考えられる★09

 

2)多くの構想を抱いた院長・井上と副院長・鳩谷他、彼らにつづく京大閥の医師たち

井上は精神病院の持つべき多様な機能として、児童精神科病棟や老人精神医療、社会復帰病棟、ハーフ・ウェイ・ハウス(half-way house)等々、多くの構想を持っていた。井上がそういった編成を考えていた時期に、後にあすなろ学園園長となる、井上の京大の後輩にあたる十亀史郎が高茶屋病院に就職した。井上の回想によれば「高茶屋病院の初期の頃、これから精神科医療には何が必要だろうかと、京都大学精神科村上仁教授や三重大学精神科黒沢良介教授とよく話していたが、2人とも児童精神科が必要という意見であった。村上教授にお願いしたら、児童をやりたがっている医者がいるので宜しくということで、京都大学から赴任してきたのが初めに十亀史郎(初代園長)で、次いで小池清廉だった」(十亀[1985→ 1988: 409-410 ] ; あすなろ学園[2005: 1])という。

小池は、十亀の京大高木門下生の兄弟子にあたり、あすなろ学園より8か月ほど早くできていた、いわゆる「動く重症児」として自閉症児を収容していたびわこ学園(西日本初、全国2番目に設立の重症児施設)★10に勤務していたが、1968年にあすなろ学園に移籍してきた。

当時のことを十亀は「19617月に高茶屋病院に赴任したが、本当は文献の早く入手できる京都大学に帰りたかった。井上院長から高茶屋にとどまってくれるなら、児童病棟をつくろうと言われ、そういうところから、あすなろ学園は始まっている」(十亀[1985→1988: 409-410; あすなろ学園[2005: 1])と回顧している。

 

3)あすなろ学園の設計——1961年末から

あすなろ学園の設計には1961年末よりとりかかり、以来、設計にあたっては、梅ヶ丘病院(東京、都立)、水口病院万葉園(滋賀)、びわこ学園他を見学した(十亀[1985→1988: 11-14])。またこの間、精神科医・黒丸正四郎(神戸医大教授)、林脩三(京都大学精神科児童室出身。当時、大阪市児童相談所所長)、高木隆郎(当時、京都大学講師、村上仁教授のもと精神科児童室主宰)らによる指導のもと、建築集団DACにより設計図案が作成され、厚生省百井技官の助言、黒沢・村上から激励を受けながら(十亀[1985→1988: 14])、開設準備が進められていった。

 

4)高茶屋病院児童部門の開設——1962

井上の構想を十亀が具体化させる形で、児童精神科臨床の試みは19624月に週3回の外来診療として開始され、同5月には成人病棟の一部(当時の神経症病棟)を使って入院治療の試みが始められた。病棟職員数との関係もあり、入院児童は15名~20名程度とし、この年に最初の自閉症児が入院したと記録されている(あすなろ学園[2005: 1 ; 高橋[2020])。

 

5)日本初の「自閉症児施設補助金(厚生省)」を受託——196312

19634月には保母7名と看護婦1名が児童病棟設立のために採用されるとともに、同7月には入院病棟建設が着工、12月に十亀が厚生省へ陳情に出向き、我が国初の「自閉症児施設補助金」(あすなろ学園[1995: 2])★11が認められることになった。

 

6)自閉症児施設あすなろ学園建物の完成——19641

19641月に建物(1983年まで年長児病棟として使用された)が完成し、「あすなろ学園」(定床60床)と命名されて正式に発足した。この時点における児童病棟の職員配置は医師2名(十亀史郎、田中雅文、高茶屋病院と兼務)、心理技術者2名(同兼務)、PSW1名、保母8名、看護婦8名、看護助手2名、事務1名であった(あすなろ学園[2005: 1; 高橋[2020])。

 

5. あすなろ学園という名称の由来

本節では建物完成以前のいつ頃から院内の児童グループ及び児童病棟に「あすなろ学園」という名称が使われ出したのか、その由来についてみていく。あすなろ学園の公式資料によると、「19641月に児童病棟は完成して職員の合議により「あすなろ学園」と名づけられた」(あすなろ学園[2005: 1])とある。十亀はこれには触れていないが、十亀の京大の後輩であすなろ学園元医師の齋藤聡明(現・斎藤メンタルクリニック理事長)が記述している。その要点を整理し、以下(1)~(4)に示す。

 

1)「あすなろ」の発案者はソーシャルワーカーの青井光子——1963

1963年、児童病棟の名称を何にするかということで、院内職員間に「公募」案件としてかけることになった。そこでPSWの青井光子(後の十亀夫人)の「あすなろ」が主任者会議で多数決のもと、「たんぽぽ」を小差でおさえ、採用されることになった。このため当初は児童病棟=あすなろの名称で、スタートした。それがいつのまにか通称「あすなろ学園」と「学園」がつくようになった(斎藤[1995: 252])。

 

2)「学園」と名付けられた由縁——地域連携・相談室での雑談から

十亀は、当時、PSWの部屋(相談室、地域連携室 筆者補足)によく出入りし、児童病棟のあり方について雑談を交わしていたという。ソーシャルワーカーの渡辺朝子らが、医療と教育と保育とをドッキングさせるなら「学園」がいいだろうと提案し、十亀もそれを気に入っていた。……隣にある肢体不自由児施設が、「草の実学園」と名付けられたことも影響してるだろう(斎藤[1995: 252])。

またこの考え方のもとになった、「学校教育重視、あたりまえの生活重視」(斎藤[1995: 252])、「医療と教育・生活重視の考え方は施設運営の車の両輪である」ということばは、自閉症児者の親の会・施設関係者の間では研修・勉強会等を通じて語り継がれている。

 

3)児童精神医学会誌に論文「あすなろ学園紹介」を寄稿する——1964

1964年『児童精神医学とその近接領域』2号で、「「あすなろ学園紹介」の論文を書いていところからみて、「学園」をつけたことに関しては、十亀の意志が十分働いていたようだ」(斎藤[1995: 252])。

つまりこの頃——1964115日開所式以降——から、積極的に「あすなろ学園」と対外的にも発信していったといえる。

 

4)「学園」という名前がもつ1960年代前半の世の雰囲気

齋藤は次のようにいう。

 

……ニイルの「サマーヒル学園」の影響もあるだろう。1963年、舟木一夫が学生服姿でステージに立ち、「高校3年生」、「修学旅行」、「学園広場」とつづけざまに学園物をヒットさせていた。いわゆる団塊の世代が、中・高校生になっていた時期で、中・高校生が巨大なマーケットを形成していた。「学園広場」は、今思えば何の変哲もない歌で曜時私は中3だったが、熱狂的にこの歌を歌った記憶がある。時代は、高度成長経済が、実りつつあった。1964年、新幹線が走り、東京オリンピックが開催された。カラーテレビが普及し、マイカーが道路を占領し始めた。日本の未来が、夢と希望に満ち溢れていた束の間の時代である。「学園」という言葉が、夢と希望を喚起できた束の間の時代といえる(檜になろうとするあすなろの夢と希望) (斎藤[1995: 252])。

 

いずれにせよ、病院・治療施設である高茶屋病院児童病棟に、あすなろ「学園」という名称が付けられたことからは、当時は不就学の状況にあった精神障害児・病児への教育保障の問題に取り組むという明確な意思を読み取ることができる。そして高度経済成長期で活況にあった日本の情勢からみると「世の雰囲気」として学園ということばに概ね好意的、肯定的な印象があったことがうかがえる。

「檜になろうとするあすなろの夢と希望」ということばは、「あすなろ(の木)成長してあすは檜(の木)になろう」という、自閉症施設由来のいわゆる自閉症施設の親の会・施設関係者の「あいことば」となっていく。それは、1980年代以降の成人入所を可能とした自閉症支援の拠点づくり運動へとつながる★12

 

6. まとめ

 本稿では、三重県の精神医療の中心を担い、またあすなろ学園の母胎でもあった高茶屋病院とその関係者による資料を手がかりにしながら、三重県児童精神医療の前史とあすなろ学園設立に至るまでの過程を明らかにした。

家族会・親の会の活動と施設づくり運動との関係性・連続性を明らかにしていくことについては、より詳細には親の会(家族会)関係者に聴き取りをしているが、当時のこと、つまり親の集りが正式なものでなかった時代のことを詳らかに知るものは既に亡くなっており、また途中でこの種の集りや活動を去っていったりしていない。ただ、朧気に当時のことを伝え聴いていたり、推察することができる人物は(この種の歴史好きが親の会関係者にもいることで)ごく僅かながら存在はする。

あすなろ学園開設前後の親の会(家族会)の設立経緯とその周辺の詳細について、あすなろ学園開設がどのように新聞紙等で当時報じられていたのかも含めて、今後の課題としたい。

 

■註

★01 あすなろ学園の設置・経営主体は三重県立高茶屋病院で、三重県立高茶屋病院が本院(成人病棟)、あすなろ学園が分院(児童病棟)という位置づけであった。

★02 他方、いわゆる「明治以前」(1868年以前)の三重県精神医療に関して、井上(1987)には次のようにある。「医学ことに精神医学に影響のあるできごとや学者について、2~3略記してみよう……1. 伊勢神宮や斎宮について……2. 徳川時代に精神医学に関係あった人たち……」(井上[1987: 1461-1463])。井上は上記の「2.……」(井上[1987: 1461-1462])では、次の6名の徳川時代の三重県領域の精神医療の活動にかかわった医師を記述している。「本居 宣長」、「谷川 士清(たにがわ ことすが)」、「角倉 玄磧(すみくら げんせき)」、「馬場 亀久生(ばば きくお)」、「江口 襄」である。以下、いわゆる「日本政府(明治政府)樹立」以降(明治元年=1912年)につながる医師について取り上げる。

前出の「馬場 亀久生」は、漢蘭折衷派として津藩の典医「馬場 道朔」の7代目子孫で、1912年(明治元年)の三重医学校創立に尽力した(井上[1987: 1462])。

同じく「江口」は、山田赤十字病院の初代院長で法医学者であったが、日本の精神医学の発展について、呉秀三は「神戸氏の精神病学」と「江口氏の精神病学」を高く評価している。1893年(明治26年)「相馬事件」で、江口は精神病と法医学に精通していたことから大いに活躍した(井上[1987: 1461-1462])。

★03 後の三重県立医科大学、現・三重大学医学部。三重県立医学専門学校は194312月設立、翌19444月開校、19513月には廃校され、19476月三重県立医科大学が設置される。その後三重県立大学医学部を経て国立移管後に現在の三重大学医学部となる(井上[1982: 3][1987: 1463 , 近代日本精神医療史研究会[2022])。

★04 近代日本精神医療史研究会(2022)によると当時は、「正確には医学専門学校に「講座制」はなかったのかもしれないが、県立医科大学の同年6月の設置を見越してのことなのだろうか」とある。

★05 近代日本精神医療史研究会(2022)によると当時は、「渡辺朝子さん(黎明期高茶屋病院ソーシャルワーカー、あすなろ学園の名称発案者のひとり *補足筆者)によれば、この分院はおもに結核療養所として機能していたようだ」とある。

★06 近代日本精神医療史研究会(2022)によると、よく似た事例として、「歴史的文脈は異なるが、かつて東京帝国大学の精神病学教室が附属病院のある本郷構内ではなく、東京府巣鴨病院内に置かれていたことを想起させる」とある。

★07 授賞の理由は、三重県立高茶屋病院長としての精神病院管理、患者の社会復帰、児童精神医療などへの献身的な努力と、我国の精神科医療に於ける模範的な実績であった(近代精神医療史研究会 2022)。井上(1982)には次のようにある。

 

昭和433月に日本精神神経学会長から高茶屋病院長に対して出された呉秀三賞表彰状の文面に、「長年にわたり精神病院管理・患者の社会復帰・児童精神医療などの諸問題に献身的努力を傾けられ、我が国の精神科医療に模範的な実績を果されると共に将来の進むべき道を示されました」とあり、精神医療として進むべき道はあやまりなかったと思っている。」(井上[1982: 3]、下線部筆者)

 

なお第1回(1966年)は東京都立松沢病院・昭和医科大学附属烏山病院、第2回(1967年)は茨城県立友部病院の古川復一、第4回(1969年)は日本精神病院協会の創設者でもある金子凖二である。これ以降、呉秀三賞は実施されていない。ちなみに、1969年は精神医療の学界が紛争した時期(例として日本精神神経学会(金沢大会)、日本児童精神学会(千葉大会)など)であるが、この影響があったのかどうかの調査は今後の課題としたい。

★08 たとえば文献として、高木(2009)。

★09 本院と分院のような関係でいうと、先にみた三重医大(後の国立三重大医学部)が本院で、その分院が高茶屋病院、そしてその分院があすなろ学園という関係性になる。筆者が関わる自閉症支援の現場に伝わるところでは、高木、小池も同門となり、特に精神科児童室を主宰した高木以降の取り組みでは、病棟の現場にも当時の京大学生運動の気風があったと伝えられている。京大病院のとある医務室を「解放区」として開放して、患者の出入りを自由にし、自由闊達にたばこをふかしたり、議論が行われたそうである。

あすなろ学園が居住施設、すなわち病院でありながら、生活重視の施設としてできた事情は、1955年頃の井上の構想、つまり、★06のような精神科医療の実現化をねらいとしたものであったということのほか、教育・生活重視の考え方があった。つまり、教育を受けることもできない生活では治療も成り立たないと考えられ、教育を含めたふつうの生活への働きかけを行う場としての「学園」だったのである。

★10 19634月、滋賀県に設立。日本初は島田療育園(19615月、東京)である。

★11 厚生労働省、三重県に問い合わせているが、この詳細は不明である。しかしながら、あすなろ学園の公式資料(あすなろ学園[1995][2005])には僅かながら記述がある。

あすなろ学園(1995)には次のようにある。

 

高茶屋病院において児童精神科の試みを始めてから1年が経過し、児童専用の病棟を開設する準備が急速度で進められた。19634月には保母7名と看護婦1名が児童病棟設立のために採用されるとともに、7月には入院病建設が着工し、12月に十亀が児童病棟管理医に任命された。病棟認可にあたっては井上と十亀が厚生省へ陳情に出向き、我が国初の「自閉症児施設補助金」が認められることになった(あすなろ学園[1995: 2]、下線部筆者)

 

また、あすなろ学園(2005)には次のようにある。

 

1963年の年度初めに児童精神科棟を建設することが決定し、保育士7名、看 護師1名が児童病棟要員として事前採用された。……彼を三重県に引きとめるべく、井上院長は児童専門病棟の新築を決断したようだ。井上と十亀は厚生省担当課に陳情して自閉症児入院治療施設補助金を認めさせた。我が国では初めてのことである」(あすなろ学園[2005: 1]、下線部筆者)

 

 井上(1986)が『生きること 愛すること——十亀史郎追悼集』(1986年 十亀史郎追悼集編集委員会編 非売品)に寄せた文には、次のような記述がある。

 

チャンスをのがさない// 二十年先をみとおす識見をもっておられた。児童精神医療が、今日の如く盛んになる事を知っていられた。/ そしてまた、チャンスを確実に物にするセンスもあり情報に明るかった。自閉症児施設として認められた、最初の施設であったように思う。朝井県議とともに東京の木村俊夫先生(当時は官房長官だったように思うが) に会いにゆき、即決で自閉症児の補助金を貰えるようにしてもらった事もある。/ その後はあまり自身が表面に出ず、親の会等を表に立てていられたようにみうけるが、親の会を組織だてる組織力も大したもので、もちろん彼を助けた職員の協力も大きかった(井上[1986: 43]、下線部筆者)。

 

 ここには「自閉症児の補助金」とある。さて、井上と十亀が東京の木村俊夫に陳情の際に連れ添った「朝井県議」とは、朝井憲一三重県議会議員のことである。「三重県議会」ホームページでは、昭和42年(=1967年)から現在までの「会派の流れ」がわかる。それによると朝井は、1967年「県政クラブ」→19686月「無所属クラブ」同年9月「民主クラブ」→1971年「純無所属」(会派1名)という所属の変遷である(三重県議会 2016~2022)。朝井に関してはあまり情報がないが、三重県庁近くの津市偕楽公園のSL機関車の掲示板につぎのようにある。

 

蒸気機関車(SL)機関車の歩み……D51499号について/ この機関車は昭和十六年二月一日に兵庫県で誕生し、三重県内の関西線、紀勢線、参宮線を雨の日も32年以上走り続け、昭和四十八年九月十七日、役目を終えました。その間に走った距離はなんと205万キロメートル(地球を51周)にもなりました。/ 多くの人々に親しまれたこの機関車は、昭和四十八年十月九日に大型トレーラーでこの公園に運ばれました。//この機関車は、朝井憲一氏から経費の寄贈を受け国鉄より貸与されたものです(津偕楽公園[2021]、下線部筆者)

 

 井上、十亀、朝井の陳情を受けて「自閉症児の補助金」を即決した木村俊夫(1909年(明治42年)115—1983年(昭和58年)121日没)とは、当時官房長官で、三重県東員町生まれ、のちの東員町名誉町民の三重県選出の衆議院議員である。内閣官房長官のほか、経済企画庁長官、外務大臣等をつとめた。祖父・木村誓太郎、父・木村秀興はいずれも衆議院議員であった。第三高等学校 (旧制)を経て、1938年(昭和13年)東京帝国大学法学部法律学科と政治学科を卒業し、逓信省に入省、その後運輸省に転任する。戦後は佐藤栄作の支援を受けて運輸省海運総局総務課長から政界に転身し、1949年(昭和24年)第24回衆議院議員総選挙で旧三重1区から保守系無所属で当選する。当初は吉田茂が率いた自由党に所属し、後に自民党に保守合同し所属する。当選12回。晩年は「最後の佐藤派」として無派閥であった。1977年(昭和52年)自民党アジア・アフリカ問題研究会(AA研)の代表世話人に就任し、党内ハト派の代表的存在であった。1983年(昭和58年)、勲一等旭日大綬章を受章する(廣[1985 : 190])。

 

 以上のように、井上、十亀は厚生省への陳情と並行して、地元の県会議員、国会議員・内閣官房長官という厚生省に対して大きな政治的影響力をもった人物にも陳情を行なったり、事前に通じていたことがわかる。

さて井上(1986)の「自閉症児の補助金」について、これ以上の詳細は不明である。これに関する詳細およびその周辺(金額、通知文書、内容、エピソード等々)など、何かを御存知の方いらっしゃれば、是非とも御教示いただけると幸甚である。

★12 各県に最低一カ所の自閉症支援拠点施設をつくっていこうという、各県に由縁のある木の名称を法人名に入れる自閉症施設づくり運動である(「あすなろの木からあすは檜の木のように育っていこうと」いうふうに)。例えば「あすなろ発」の設立順に、あすなろ学園(三重)「檜の里・あさけ学園」(三重)「けやきの郷・初雁の家」(埼玉)「槇の里・いすみ学園」(千葉)「梅の里・あいの家」(茨城)、のようにである(*その他詳細は植木(2022)を参照のこと)。これら自閉症施設づくりを推進する「自閉症児親の会」の運動は、自閉症児親の会の「施設部会」を経て、「全自者協」(旧・全国自閉症者施設協議会、現・全日本自閉症支援者協会)として現在につながる。

 

■文献リスト

あすなろ学園編,1995,『あすなろの10年』,三重県立小児心療センターあすなろ学園.

――――,2005,『あすなろの20年』,三重県立小児心療センターあすなろ学園.

――――,2016,『あすなろの30年』,三重県立小児心療センターあすなろ学園.

井上 正吾,1982,30周年を祝って」,三重県立高茶屋病院,1982,『創立30周年記念誌』: 3.

――――,1986,「児童精神医療への出発」,十亀史郎追悼集編集委員会編,『生きること 愛すること 十亀史郎追悼集』十亀記念事業委員会: 41-44.

――――,1987,「日本精神医学風土記――2部 第9回 三重県」,『臨床精神医学』16-10: 1461-1470.

近代日本精神医療史研究会,2022,「私説・日本精神医療風土記(その27)三重県(国立療養所榊原病院、三重県立高茶屋病院など)」(2022225日 取得, http://kenkyukaiblog.jugem.jp/?eid=615.

廣 新二,1985,『日本政治史に残る三重県選出国会議員』扶桑文庫.

三重県議会ホームページ, 2021,「会派の流れ」,20211222日取得, https://www.pref.mie.lg.jp/KENGIKAI/07640011772.htm.

齋藤 聡明,1995,「あすなろ学園の歴史」,『こころの臨床 ア・ラ・カルト』14-3: 252-

257.

十亀 史郎,[1964] 1985,「あすなろ学園紹介」,十亀 史郎,1988,『十亀史郎著作集 下 児童精神医学論集』黎明書房.(=初出1964,『児童精神医学とその近接領域』5-: 132-134.

――――,1985,「あすなろ学園の歴史」未発表・未完十亀[1988: 409-421.

――――,1988,『十亀史郎著作集 下 児童精神医学論集』黎明書房.

高木 隆郎,2009,『自閉症 幼児期精神病から発達障害へ』星和書店.

高橋 悟,2020,022 あすなろ(資料 あすなろ史)」(私信).

津偕楽公園公式ホームページ,2021,SL機関車」,20211222日取得,http://www.xhotzone.net/vh/24a/vh28112002.php2022920日閉鎖確認(*代替え参考情報として「椿ティドットコム(2022)」)).

椿ティドットコム,2022,「【津駅徒歩5分】D51 499号機【偕楽公園】」,2022年9月20日取得, https://tsubakit.com/2021/06/05/d51-499/.

植木 是,2022,1960年代の黎明期自閉症児の親の会と全国組織化の過程――三重県あすなろ学園とその親の会、および「自閉症児親の会」の関係資料から」,『立命館生存学研究』6.

若生 年久,1980,「三重の精神医療の歩み」,三重県精神障害者家族連合会,1980,『あゆみ——精神衛生三重県大会十周年記念』: 8-9.

――――,2009,3.『先輩に聴く』「三重県における精神医療の展開」2――三重県立高茶屋病院をめぐって」,三重精神医会抄録(2009年),2014,『三重医学』57-1: 26-29.