遡航

論文(Peer Reviewed) 失敗に終わったとされたケア付き住宅建設運動――「川口に障害者の生きる場をつくる会」の軌跡 増田 洋介
2022年3月 『遡航』001号 pp.76-99
要旨
1960年代の終わりから身体障害者のケア付き住宅建設運動が全国各地で一定の広がりをみせ、1980年代には各運動間で連携や情報共有が行われた。一方で1970年代半ば、埼玉県川口市で展開された「川口に障害者の生きる場をつくる会(以下、生きる場をつくる会)」の運動は、それを待たずして失敗に終わったと認識されている。本稿では、生きる場をつくる会の運動について推移を追ったうえで、なぜこの運動が失敗に終わったとされたのかについて考察した。考察にあたっては当時作成された冊子、関係者による書籍や雑誌記事などを用いた。それまで地元で地道に築いてきた人間関係をもとに、従来の施設よりも小規模なものを完成させた事実を踏まえれば、運動は部分的ではあれ成功したといってもよかった。しかし、生きる場をつくる会によって要望された、障害者と健常者の協働による自主運営を行うことと公的責任を明確化した公立公営にすることの2点は、行政にはまったく受け入れられなかった。生きる場をつくる会の運動の事例は、現在の障害者福祉において今なお続く課題を示している。

■1.はじめに

 1960年代の終わりから1980年代にかけて、身体障害者のケア付き住宅建設運動が全国各地で一定の広がりをみせた。この取り組みについては、『自立生活への道』(仲村・板山編[1984])や『続・自立生活への道』(三ツ木編[1988])で多くのページを割いてとりあげられている。また1987年11月には、全国的な催しとして「『ケア付き住宅』研究集会」が開催された(「ケア付き住宅」研究集会実行委員会編[1988])。この集会は、全国各地で個々の団体が各自治体に対して要求し、試行錯誤しながら運営している実践を持ち寄り、報告と討論を通して共有し今後の展望につなげることを目的として行われたものであった。
 一方で1970年代半ば、これらとはやや様相の異なる運動があった。それは、埼玉県川口市で展開された「川口に障害者の生きる場をつくる会(以下、生きる場をつくる会)」★01の運動である。彼らも他のケア付き住宅建設運動と同様、重度障害者も地域で制約のない生活ができるように、充分な介護者がついた小規模な住宅を市街地につくってほしいと行政に要求した。そして1974年12月に、市からいったんは前向きな回答を得た。会のメンバーは、先行して取り組みを行っていた東京青い芝の会から情報を仕入れ、その動向を横目に見ながら運動を進めた。雑誌や新聞、書籍でも多くとりあげられ、全国的にも無名な運動ではなかった。しかし、『自立生活への道』や『続・自立生活への道』が刊行されたころには、およそケア付き住宅とはよべないものがつくられてしまったとして、失敗に終わった運動ということにされていた。
 「生きる場」という言葉は、彼らが運動を起こした当時はあまり注目されず、1980年代に入ってから関西の障害者運動のなかで多く使われるようになった。1984年10月に結成された「差別とたたかう共同体全国連合(現・共同連)」の結成宣言では、「われらは共に働く場、生活する場をつくり、実践し、その拡大、発展を通じて社会全体を共に生きる場としていくために全力を尽くす」と謳われた。生きる場をつくる会には、共同体思想の影響を受けていたメンバーもおり、共同連の源流のひとつである滋賀県の「あらくさ共同体」や「ひゅうまん運動」にかかわっていた者もいた(山下[2021])。また、大阪の「中部障害者解放センター(現・NPO法人ちゅうぶ)」は、発足前の1984年春から「作業所-生きる場調査」を実施し、各地の取り組みについて情報を集めた。1984年12月の発足記念イベントではテーマ別分科会のひとつとして「生きる場分科会」が開かれ、約60名の参加者によって討議が行われた(道野[1985:60-66])
 当時、生きる場をつくる会の運動に参加したなかに、のちにバリアフリー建築の第一人者になった髙橋儀平(現・東洋大学名誉教授)がいた。髙橋は東洋大学の助手をしていた1974年に生きる場の設計図面を描き、生きる場をつくる会はその図面を陳情書とともに市に提出した(髙橋[2019:34-35,241-242])。また髙橋は、1976年に神奈川、埼玉、東京、千葉の障害者世帯向け公営住宅の悉皆調査を行い、その過程で東京都のケア付住宅検討会の委員であった秋山和明や三澤了、中西正司らが都営住宅で生活している状況を見聞きした(髙橋[2019:49])。さらに1978年には、スウェーデンで新しい住宅の試みが始まっているとの情報を聞き、一番ケ瀬康子(当時・日本女子大学教授)の協力を得て調査旅行を行った。大規模施設が解体され、フォーカス・アパートなどで障害者が独立した生活をしている様子を見学した髙橋は、自分たちの方向性が間違いではないことを確信した(髙橋[2019:51-65,245])。髙橋は本格的に福祉のまちづくりの研究を志すようになり、1981年から国際障害者年日本推進協議会(現・日本障害者協議会)の生活環境問題プロジェクト小委員会の委員長を務め、障害者の住宅やまちづくり政策の提言を担当した(髙橋[2019:244])。その後も多くの自治体のまちづくりや商業施設の設計などにかかわり、東京オリンピック・パラリンピック開催時には新国立競技場のユニバーサルデザインにも携わった(髙橋[2019:167-203])。
 髙橋は、生きる場をつくる会の運動について次のように述懐している。

 「川口に障害者の生きる場を作る会」という名称の「生きる場」とは、八木下たちが日本ではじめて障害者の世界で使った言葉である。当時としてはどこまで受け入れられるかという懸念もあったが、今日でも依然として何の問題もなく素晴らしい響きをもっていると思う。[…]
 1978年3月に川口市単独事業として「しらゆりの家」が開設された。「川口に障害者の生きる場を作る会」の主張が完全に認められず障害者運動の成果とまではいえない、、、、、、、、、、、、、、、、が、小規模ケア付き住宅(定員10人)が建設されたのである。(髙橋[2019:36-38]、傍点は引用者)

 実際「しらゆりの家」は、髙橋による設計構想が一定程度採用され、当時としては設備が整った建物として完成に至った。しかし、なぜ「障害者運動の成果とまではいえない」とされているのであろうか。
 本稿ではまず第2節で、運動の推移を追う。そして第3節で、なぜ生きる場をつくる会の運動は失敗に終わったとされたのかについて考察する。

■2.運動の推移

■2.1 運動初期

 生きる場をつくる会は、脳性マヒ者の八木下浩一を代表として1974年5月に結成された。八木下は1941年に生まれ、生後6ヶ月で肺炎を患い脳性マヒになった。埼玉県川口市で生まれ育った八木下は、障害を理由として学齢期に学校への入学を拒否されていたが、いつかは学校に行きたいと考え続け、1970年に28歳で学区内の小学校に入学した。八木下が起こしたこの運動は、現在まで続く障害児・者の普通学級就学運動の先駆けといわれている(河野[2007:16]、小国[2019])。
 その傍ら、八木下は「川口市には重度の寝たきり障害者が何人いて、どういう生活をおくっているのかを知りたい」との思いから、在宅障害者の家を訪ね歩いていた(八木下[1980:157])。訪問しても家族から拒否されて本人に会えなかったり、ときには塩をかけられて追い返されたりすることもあったが、八木下はこの在宅訪問を通じて、のちに会の運動に大きくかかわることになる脳性マヒ者の雨宮正和、山崎広光と出会った。
 この時期に前後して、八木下は大学教員の西村秀夫★02から声をかけられた。西村は、1960年代後半の大学闘争に、東京大学教養学部の学生部教官としてかかわっていた。学生への強権的な支配を進めた教授会に対して、西村は少数の教員とともに異議を唱えた(西村[1969])。大学闘争が終息していった頃、西村は志を同じくする教員や学生とともに、市民に開かれた討論の場として連続シンポジウム「闘争と学問」を企画し、1969年11月に第1回のシンポジウムを開催した(西村[1971:1])。シンポジウムは毎回、ただ講師の話を聞くのではなく、さまざまな現場で闘いを担っている人が報告者になり、参加者どうしで議論を重ねるかたちで行われた★03。そのなかで1971年6月、「身体障害と教育」と題するシンポジウムが開催され、八木下が報告者になった。
 1971年7月、西村やシンポジウムに参加していた学生、教師らによって「八木下さんを囲む会」ができ、月1回のペースで討論会が行われるようになった(連続シンポジウム実行委員会編[1971:33])。西村は「これは『八木下さんを支援する会』ではない。障害者も健全者も同じ会のメンバーとして討論し、考える会であり、健全者中心の文化の中で育って来た私たちが、障害者によって目を開かれ、教えられる機会である」と考えていた(西村[1972:37])。
 一方、在宅生活を続けていた山崎は1972年ごろ、整形外科医の和田博夫に会うために浦和市(現・さいたま市)内の「浦和整形外科診療所」を訪ねた。和田は身体障害者の機能改善医療を専門にしており、脳性マヒ者やポリオ患者の手足の拘縮をなおして歩けるようにする医者として「障害者の神様」と崇められる存在であった。勤務していた国立身体障害センターの方針転換によって和田が別の病院に配転されようとしたときには、反対する障害者によって厚生省への抗議活動が展開されたほどである。和田は、まだセンターに勤務していた時期から診療所を開業し、本業の合間を縫って手術を行っていた。また和田は、自身のシンパであった障害者とともに「根っこの会」★04を組織しており、診療所が根っこの会の本拠地になっていた(二日市[1979:80]、根っこの会編[1992]、小佐野[2007])。
 和田は医師業だけでなく、複数の施設経営にかかわっていた。山崎は当初、施設入所の相談をしたいと考えていただけで、診察してもらうつもりはなかった。しかし和田は、施設に入るためには手術して歩けるようになったほうがいいだろうと勧め、山崎はいつの間にか勧めに応じて手術を受けた(山崎[1975:4-5]、和田[1978→1993:308])。
 診療所は入院病床も備えており、山崎は何回か手術を受けながら入院生活を送った。施設入所の経験がなかった山崎にとっては、初めての長期間の団体生活であった。診療所のなかでも重度者であった山崎は、軽度者からつまはじきにあいながらも入院を続けた。それは、退院したら以前のように、家族に気兼ねしながら過ごす生活に戻ってしまうと思ったからであった。入院から2年近く経った1974年、いよいよ真剣に今後の人生を考えなければならなくなった山崎は、八木下に対して「教育問題も大事だけれども、くそ・小便すらも保証されていない障害者の現状がある。これをどうする」と問い詰めた(山崎[1975:5])。この山崎の訴えがきっかけとなり、生きる場をつくる会が結成されることになった。
 会の結成にあたり、まず趣意書が作成された。八木下、山崎に加えて西村秀夫の3人で喫茶店に行き、山崎が言うことを西村が聞き書きし、山崎と同様に和田の手術を受けていた雨宮の意見を加えて趣意書がまとめられた(西村[1975:6])。趣意書の題名は「わたしたちはどういう いみで いえをでたいかというと」であった(川口に障害者の生きる場をつくる会[1975:40])★05。生きる場をつくる会は、1974年5月にこの趣意書を川口市に提出し、交渉を開始した。
 9月に行われた3回目の交渉で、会はさらに市に対して陳情書を提出した。その内容は次のようなものであった。
陳情書

1. 定員10名入れる場所(建坪90坪)
2. 土地を市街に見つけて下さい
3. 重度者3名(山崎・雨宮・仲沢)には3名の介護者を着けて下さい。
 (重度者1名に対して介護者1名を必要とします)
4. 管理職員8名(炊事、洗濯、雑務)をつけて下さい
◎4.についてはホームヘルパーでもよい
以上

4項目について1日も早く実現して下さい。私達の死活に関わるものです。
(川口に障害者の生きる場をつくる会[1975:41])
 こうした要望に対し、川口市は前向きな姿勢を示した。1回目の交渉では、民生部長が「八木下君たち3人の考えはよくわかるから、関係者と相談して、試験的にも実現してみたい」と発言した(川口に障害者の生きる場をつくる会[1975:12])。また、9月に行われた3回目の交渉では、市長の長堀千代吉が出席して「完全に要望のとおりにいかなくても、ある程度のものは作りたい。しかし、私たちだけでは決められないから財政関係とも相談する。作ることは確かに作る」と発言した★06。そして、建設資金として1,650万円が予算計上された。
 このように当初、「生きる場」の実現は順調に進むかにみえた。しかしその後、大きく揺り戻しがおきることになる。

■2.2 運動の分断

 1975年度に入り民生部長が交代になると、市がなかなか交渉に応じなくなった。ようやく9月に行われた交渉の場で民生部長が、通園の授産施設を建設するとの通告を行った。生きる場をつくる会は、これまでの約束を反故にされたとして強く抗議した。市はその後も交渉にほとんど応じず、提出した質問書への回答も得られなかったことから、会は1976年1月19日から20日にかけて座り込みを決行した。これは1933年に市制施行されて以来、初めて行われた座り込みであった。座り込みには、会の中心であった障害者や支援者だけでなく、学生や労働組合員、他県で障害者運動を展開していた人たち、のちに県内各地で障害者と健常者が共に生きる活動を始めた人たちも参加していた。一方で生きる場をつくる会は、市民に対して「生きる場」の必要性をソフトな形でよびかけ、多くの人たちの理解を得ようとしていった。その結果、交渉の場を後日設けるとの約束を市から得て、座り込みは解かれた。会は市を追及し、通園施設案を撤回するとの確約書を1月末に受け取った(川口に障害者の生きる場をつくる会[1977:148-149])。
 こうした運動が展開されていた最中の1975年12月、『埼玉県身障根っこの会会報』に「川口市の障害者の『生きる場の会』の活動に思う」と題する和田博夫の文章が載せられた。
①「収容保護施設の設備場所は、市内の繁華街でなくてはならない」としたり、
②「日常生活動作のほとんどが、他人の介補によらなければならないような重度の障害者の収容を予定する施設を考えながら、職員と対象者の区別のない言葉どおりの共同生活の場としての施設を要求する」とか、
③「その施設はかならず公立公営でなければならない」などという激しい要求に固執しなくても、我々身障根っこの会の、
①「設備場所は市内の多少田舎でも我慢したらどうか。そこにできるだけ広い土地を用意してもらって、その収容者の数はいつまでも五人とか十人とかいわず、社会福祉事業法による福祉法人を目ざして、将来三十名ないし五十名程度になることをしのばないか」
②「そのためには公立公営一点ばりでなくて、公立民営でも民立民営でも、初めのうちは我慢できないか」
③「精神的には共同生活の場という発想は充分理解できるが、現実的には施設の中における職員とその対象者との区分の存在は、重度重症の対象者を考える限り避けられないことを理解して、職員とその対象者との新しい人間関係を創造して行くような施設を考えないか」
などという助言に耳をかしてもよかったのではないかと思われる。(和田[1975→1993:252-253])
 この文章を読んだ民生部長は、和田に会って相談を始めた。また和田は、診療所で入院生活を送っていた山崎と雨宮に対しても、自分たちの意見のほうが現実的だから賛成するようにと説得していった(和田[1978→1993:302-305])。和田は次のように考えていた。
 国中の精薄児者たちを(川口市の人を含めて)高崎市のコロニー★07に収容したり、埼玉県内の人々を嵐山コロニー★08などに収容するのと、川口市内の対象者たちを川口の田舎に収容するのとの差を、相対的に考えるのが現実的な行動と考えられないであろうか。
 本当に重度重症の人々を対象と考えるなら、精神的な面以外では職員とその対象者との共同生活の場と考えるなどということが、現実的思考と言えるのだろうか。共同生活の場を作ってくれと言われれば、ホームヘルパーを派遣すれぱすむ程度のものを考えた川口市の前福祉部長の方が常識的なのである。
 他府県にみられる公立公営の施設に問題を認めるなら、施設だけ作ってそれが公的に運営されたとして、期待通りの運営が保障されるのだろうか。保障されないからと運動している人達が、そこの職員になることを万一期待しているとしたら、そしてそれが初めから公務員としての立場を要求しているのなら、その人達が要求しているような条件がその職員たちによって実施されるとは私には思われない。
 その対象者たちの福祉の前に、まずその職員たちの社会保障の要求が求められない保障はないとしか思われない。
 進歩は苦労しないでは達せられない。障害者たちの、しかもこれまで捨てられて来た重症者の福祉の進歩のためには、その人達を支援する人達の苦労なしには進められない。公立公営の施設が苦労がないというのではない。公立公営や公立民営の施設の職員より、私立私営の施設の職員の方が苦労が多いというのである。現実の国や県の姿勢では、私立私営・公立民営・公立公営の順で、川口で問題になっている施設の建設は難しいはずである。この壁を破るには、どこからでもできるところから始めて、出来上がったら公立公営に移すように目指すべきである。(和田[1975→1993:253-254])

 主として肢体障害者のうち、日常生活のすべてまたはその大部分を人の世話にならなけれぱならないような人たちを収容して、その生活を維持する社会福祉施設として療護施設というものがある。その中ではそのような重度な障害を有する人たちの身の回りを世話する介補職員という人たちが必要とされるが、国のたてまえは五十人の障害者を二十人の職員で世話することになっている。それでは充分な世話はできないだろうとして、革新自治体というところでは、二十人の職員のほかに何名かを国の基準のほかに用意するところが多い。埼玉県では三名か四名を余分に用意されているようである。
 東京都は三十名を国の基準外に用意して、療護施設を作ってその経営を民間に委託して、一つは仕事をはじめて何年か経過し、一つはこの五、六月から仕事がはじまろうとしている。
[…]
 さきに書いたように国はこのことを認めてはいない。東京都がやっと認めたところである。埼玉県はまだそのみちにほど遠いが、一歩みちをすすめている。山崎君や雨宮君の母親たちは、一人の母が一人の障害者を、その夫や他の子供たちの世話をしながら生きて来ている。このような母親たちが、世の中にはなおたくさん生きつづけているはずである。
 国の基準以下の数の世話をする人でも、この老いて来た母親たちの代わりをしなければならないと、私たちは覚悟しなけれぱならないだろう。(和田[1976→1993:279-281])
 1976年2月、市は交渉の場で「専門家の和田医師とも充分協議の結果、①市立民営の収容施設。②委託先は和田博夫医師。③土地はグリーンセンター脇に150坪用意する」との新たな案を提示した(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:17])。グリーンセンターは、植物園や集会堂などを備えた広大な公園で、交通の便が悪い郊外に位置していた。民間委託の方針も含め、これまで生きる場をつくる会が要求してきたこととは相容れない内容であり、会のメンバーは強く抗議した。
 しかし、その交渉中に突如、山崎と雨宮が「この案は検討の余地がある」として退席する事態がおきた。まったく思いもよらなかった出来事にほかのメンバーは唖然とし、その場は混乱した(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:17])。さらに翌3月には、山崎と雨宮、和田の連名で、市の案でよいので早く開設してほしいという内容の要望書が市に提出された。のちに八木下は次のように記している。
 ひとつ和田氏たちがやったことを例にあげると、「生きる場」の会員であった雨宮君の親をおどかし「生きる場」から抜けるように親から説得をさせました。雨宮君の親は雨宮君に対して、殴る蹴るやの親としての脅かしを加えました。つまり和田氏は雨宮君と山崎君を「生きる場」から抜くことによって私たちが市に作らせようとしている「しらゆりの家」を乗っ取ろうという計算だったのです。そのことは二人の障害者からずっと後になって聞きました。
 最終的には二人共、和田氏の脅かしに屈して「生きる場」から抜けました。私たちは二人がやめたことはショックだったけれども団結を固めて川口市に対して私たちの要求をつきつけてきました。(八木下[1980:165-166])
 会のメンバーは、山崎と雨宮を説得したが受け入れられず、2人は会から除名になった(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:20-21])。生きる場をつくる会は、山崎、雨宮らよりも自分たちが正統であるとして運動を継続することを決め、和田への委託案に反対する見解書や公開質問状を市に提出した。しかし市は、2人の障害者が賛成したことを理由にして強行を図ろうとした。会は抗議し、7月1日から3日にかけて2回目の座り込みを行った。このときには、近隣の公共施設で映画「さようならCP」の上映会も開催され、200人ほどの参加者を集めた(川口に障害者の生きる場をつくる会[1977:150])。

■2.3 2つの座談会

 このように泥沼化した状況のなか、2つの雑誌で誌上座談会が組まれた。雑誌『市民(第二次)』1976年8月号の誌上座談会「障害者にとって施設とは」(高杉ほか[1976])と、『新地平』1976年11月号の誌上座談会「障害者が“地域で生きる”とは」(八木下ほか[1976])である。とくに前者の座談会は、和田博夫を吊るしあげるために、生きる場をつくる会側から持ち込まれた企画であったという。
 まずは、『市民(第二次)』1976年8月号の座談会についてみていく。
和田 […]長期的には、いまの施設より小さい二十から三十人の、もっとすれば八木下君たちのいう十人程度のものが公的に認められるような社会にしなければならない。それすらも、もっと先にいけばなくてすむような社会にならなければいけないと思う。[…]当面はやっぱり私立私営でも公立民営でもわたしの生きている間ぐらいはあっちこっちに作っていかなければならない。われわれの施設だって万全だとはいえませんよ。さっきだれかが改良的だと言われたようですが、何か他の施設と多少ちがったものだというものとして作っていくつもりです。[…]
八木下 和田さんの言っていることはぼくにはわからない。いいこと言っているような、そしてよく聞いてみると体制側だと思うんです。つまりおカネがないからうんぬんかんかんで終わっている。たとえばぼくたちが川口でやっていることは、アパートでもどこでもいいから障害者は住むべきだということです。絹ちゃん★09みたいに結婚しなさいと、相手がいないやつは介護者でもなんでもつけなさいと。それを行政側は最低保障すべきなんです。ともかく過渡的な段階で、川口のやり方があるんじゃないか。いま和田先生が言ったのは、市立民営がいいけど、しょうがないから民間委託でがまんしようということではないかと思う。[…]
新井★10 ぼくは個人的に話を聞いているんですが、基本的には八木下さんの話も和田さんの話も最終的にこういう方向になったらいいんだということでは同じことを言っているように聞こえるんですよ。各人が家庭で完全に介護者をつけるだけのものが取れれば、あるいは途中の段階としては公立公営で十人規模のものができればいいみたい感じですね。[…]
八木下 […]ぼくたちの運動は川口市に施設ではない“生きていける場”を作っていこうというもので、障害者十人に介護者が三十人ぐらいのものを作ってくれと要求したら、市は作りますよと言って、いったん約束をしたのに、市側はその時調査不足で、あとからよく調べたら、これは大変な話だ、障害者十人にたいして一億のカネがかかる、百人いたら十億もかかってしまって大変だということで、民間とやっていきたい、市だけではだめなので、専門家なんかをあわてて呼んできて、公立民営で作りたいと。それなら安くあがる。[…]和田さんがさっきから将来的には小さい施設がいいんだと言ってるけど、それじゃあなんで川口市の民間委託のは大きいのかということを和田さんはどう考えてるのか、そこらへんに和田さんに矛盾があると思うんだ。
和田 さっきから言ってるように、小さなものがいいんだということは、長期展望の見通しのなかでのことで、いまの彼我の力で実際に取れるかどうかという運動論で、予測の問題と彼我の力との判定なんですよ。[…]あなたたちが市と約束したというのは“生活する場”を作るという約束ですね。あなた方は、世話をする人とされる人との共同生活の場ということだけど、すれ違ってるんだよ。彼らは共同生活の場というから、常識的にホームヘルパーぐらいを派遺すればいいだろう、あるいは家族が介護すればいいだろうと考えていたわけなんだ。[…]川口市はホームヘルパーという程度なら納得したんですよ。そこのところがわたしらと違ってるんだ。そこで、基本的には共同生活の場というけど、施設の中でよく問題になっている介護する人と介護を受ける側との人間関係の新たな関係を作っていかなければならないということをわたしは言ったでしょう。そういうつもりで、介護する人とされる人の区別を前提として要求しないと、わたしらの理解では、あなたたちはそこを明確にしないままに市に要求してるから、市ははっきりすれぱするほど、そこから先はガンとして受けつけないわけだ。[…]都立の施設の中で問題になっている、いわゆる対象者の人たちの人権を守るのが先なのか、それを介護する労働者の人権を守ることが先なのか、あるいは同時並行的にできるのかということになると、わたしは同時並行的にはできないと思う。(高杉ほか[1976:66-70])
高杉★11 いままでの、事実経過がどっちがどうだというような話は、ひじょうに複雑千万で第三者にわかりにくい話だと思いますが、[…]もう一度問題をもとにもどしましよう。つまり、いまそういう問題がひじょうに複雑微妙にからんでしまって、にっちもさっちもいかんような形になりよるという事実は事実としてある。しかし、もう一つ、現実に地域で生活しているというふうな状況のなかで、三井さん夫妻と、その陰でいったいどういう長期的展望に立ってやっておられるのかということを出してもらって話の展開をもう少し、一般論ではないけど、ひきもどしてみたいというふうに思うわけです。
三井★12 いま、話を聞いてて、ひじょうに参考になる話なんですね。八木下さんの川口でやってる「生きる場」という話を彼らからちょっと聞いたことがあるわけなんだけど、「生きる場」をやってるというなかでぼくらが感じていたのは、当然に行政の側からいけば、「公共の福祉」という名のもとに、全体のニードということを盾にして出てくるだろう。そうすれば当然、施設認可基準なり、そういったものにあてはまった形での施設づくりに、行政としては向かざるをえないんだというふうに思っていたわけです。そういう意昧では、行政に要請していったとすれば、そういう方向でまるめこまれるのがおちなんだというふうにぼくらは考えていたわけです。(高杉ほか[1976:71-72])★13
 また、『新地平』1976年11月号の座談会は、次のようなものであった。
村田★14 […]施設におこる問題は社会の人たちには全然わからないでしょ。今の施設は独立したものとして社会に存在している。そうじゃなくて川口の「障害者の生きる場」みたいに、地域の中の施設になっていくのがいいんじゃないか。少人数で、どこの誰がそこにいるということが地域の人にわかっている。そして職員も、その地域の人間が職員としてはいっている、そういう中で生活していくのがいいんじゃないかと思うわけね。[…]
八木下 […]あんなもの、ぼくはいいとは思ってないよ。川口で一〇人の施設をつくったのは、それを媒介にしておもてに出ていくステップとして使うという意味ですよ。しょうがないからつくったわけですよ。いずれはぶっこわしますよ。
村田 ぼくはあくまでも、施設なんていうものは絶対にあってはならん、あることがまちがっていると思うし、そこで人間性をなくしていくものだと思う。今の施設は、管理体制を十分にして、障害者を人間扱いしないでやっていこうと、そして、八木下くんが言ったように、酒を飲みたい時にも飲ませないものとしてあるわけでしょ、外出・外泊も自由にはできないわけでしょ。だけど、今の段階で言うならば、施設の内容を変えろということですよ。障害者の生活の場になるようなものにしていかなきゃいけない。変えるにはどうしたらいいかというと、やっぱり川口でやったようなものが必要だと思うわけね。
水沢★15 施設の内容改善ということは、現実的な課題としてたしかにあるけれど、同時に今の社会、特にその支配層が施設を必要としている問題、あるいは、今の社会の中で施設にはいらざるをえない人たちがいるという問題、そのことをどう根本的に解決していくのかということを、施設に収容されている障害者、または施設労働者が基本的なところでおさえきって闘いを組んでいかないと、やはりいつまでたっても施設は残っていくんじゃないかと思うんですよね。[…]
 川口市の「障害者の生きる場」をつくる運動について言えば、今の社会において生きていく場、団結の基盤そのものを破壊されている障害者が、生きる場、団結していく場所ないし力をつくっていく運動だと思う。そういう意味で、現在的には非常に評価すべきだと思うんですけれども。(八木下ほか[1976:58-59])
八木下 ぼくは、施設を否定しながら施設をつくるという矛盾を自分で感じて、やっててイヤになるわけですよ。やっぱり、労働者がわからなかったら、市民意識が変わらなかったら、いくら「施設反対」と言っても施設は存在すると思う。これから、市民をオルグしたり、これは労働者の問題なんだということを、ぼくたちは徹底的に言わなくちゃいけないんじゃないかと思っています。
北野★16 社会福祉闘争の中で、施設の問題点は「大規模・分類・隔離」の三つだという。だから、そのアンチ・テーぜとして「小規模・非分類・地域化(町なかに)」というふうに立てられるわけね。七生福祉園は園生だけで四百人をこえてるし、職員も二百人以上という最大級の規模だ。じゃあ、七生を小規模化する闘いを組む、町なかに分散させるということになるのかどうか。
 そうじゃなくて、「大規模で隔離されて分類されている」施設がなぜ生み出されてきたのか、なぜ、それを行政なり社会が必要とし、要求してきたのか――そこの構造をかえていかなけれぱならない。たしかに、小さけれぱもっと解決しやすいんじゃないか、という幻想はある。でも、町なかにある小さな施設、しかもいろんな障害者がいるというところが、一体どんな施設なのか。七生の問題がより凝縮された形であるだけなんですよ。
八木下 川口の場合でも同じだと思う。一〇人いたって、二百人、三百人いたって同じなんだよ。同じなんだけど、やっぱり、ぶっこわしながらつくっていく、つくっていきながらぶっこわしていくという作業を、これからやろうとしているわけです。
水沢 「大規模・分類・隔離」に対するアンチとして「小規模・非分類・地域化」が出てきているというけど、厚生省は彼らなりに今までの施設収容主義を反省して、在宅対策を重視すると、「コミュニティ・ケア(地域福祉)」みたいなことを言ってるわけでしょう。それは、逆に地域の中に再隔離していく、さらにきめ細かく分類収容していくことでしかない。そのことに根底的に対決しきれる質を、ぼくらの現在の運動の中でつくっていかないと、敵側のやり方に負けていってしまうんじゃないかと思うんですね。(八木下ほか[1976:63])★17
 これらの座談会で述べられていることを整理すると、次の通りである。
 座談会の参加者は和田も含めて皆、公立公営が理想であり、大規模よりも小規模なもののほうがよく、介護者は多いほうがよく、地域から隔離されないほうがよいという意見で一致している。八木下は「あんなもの、ぼくはいいとは思ってない」「つくっていきながらぶっこわしていく」と言う。そして和田でさえも「もっと先にいけば(施設が)なくてすむような社会にならなければいけないと思う」とまで述べている。一方で「川口の『障害者の生きる場』みたいに、地域の中の施設になっていくのがいい」「現在的には非常に評価すべき」といった意見もあげられている。これらだけみれば、目指すべき方向性は一致していて、違うのは急進的か漸進的かという点であるかのようにみえる。
 しかし、介護する側とされる側、職員と入所者の区別がないほうがよいという意見に対しては、和田はあり得ないとして完全否定し、介護する側=労働者の処遇改善と介護される側=入所者の処遇改善は両立し得ないと述べている。つまり和田は、労働運動と障害者運動を互いに対立するものとして考えているのである。これは、障害者問題を労働者の問題として捉えようとする考え方や、一般市民の意識を変えていこうとする考え方とは、根本的に相容れない。
 また行政も、「大規模・分類・隔離」から「小規模・非分類・地域化」へと施策を転換しようとしているとはいえ、さらにその先――介護する側とされる側、職員と入所者の区別をなくすことまでは、到底考えていない。あくまで介護する側とされる側、職員と入所者を区別したうえでの施設認可基準を設定し、それに則った運営形態を求めることになる。したがって行政への要望という形をとる以上、介護する側=職員と介護される側=入所者とを区別する運営形態――和田が考えているのと同様な形態しか見込めないだろうと予想されたのである。そして実際、その予想通りの展開になっていった。

■2.4 「しらゆりの家」の開所

 1976年夏以降の経緯について、生きる場をつくる会の関係者によって書かれた文章にもとづき辿っていく。とくにカギ括弧内の文言はそれらの文献からそのまま引用しているため、生きる場をつくる会側による一方的な喧伝が多分に含まれているであろうことをあらかじめ断っておきたい。
 9月の交渉で和田委託案は撤回され、市から新たな案が提示された。その案は「①土地は柳崎地区に550坪。予算は建築費7,500万、年間運営費1,000万。②定員10名の小規模施設とする。③『障害者』の生活費、人件費として1,000万程度をつける。④公立民営方式とするが、和田博夫氏には委託しない。⑤今後も会とよく話し合って案を練り上げてゆく」とするものであった。提示された柳崎地区の土地は、工場と公営住宅に囲まれた区画で、グリーンセンター脇に比べれば市街地に近くなった(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:24-25])。
 会は、土地については了承したが、運営形態や予算に大きな問題があるとして交渉を続けた。市から示された運営費を検証したところ、職員4名を住みこませ24時間体制で働かせることを強いる案であることが明らかになった。会の追及によって次に市から出された案は、「重度者5名・中軽度者5名の計10名に対し、7名の介護職員・施設長1名・炊事2名の計10名にする。昼間5名・夜間2名、のべ7名(公休1名を含む)の介護者を配置する」というものであった。これは、週88時間拘束、54時間勤務、週3回の夜勤で、夜勤の時間は施設内宿泊として労働時間から除外されるという、著しく労働基準法に反する案であった。市は「労基法など守っていたら、とても施設なんか出来ない」「障害者は外出しないから、外出介護などは考えていない」と答弁し、「これが市の最終的見解」であるとして交渉を打ち切り、強行を図ってきた(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:25-26]、八木下・吉野[1979:40])。
 これに対して生きる場をつくる会は、市議会開会中の12月16日から17日にかけて3回目の座り込みに入り、議場で市長が「労基法を守る。職員を増員する」と答弁せざるをえなくなるまで追い込んだ。1977年2月の交渉では、「重度者5名、中軽度者5名の計10名に対し、直接介護職員12名、施設長1名、炊事2名の計15名、労働条件は公務員なみとし、問題があれば増員する」との回答を得た(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:26])。
 しかし翌3月になると、市はその回答も反故にし「対象は『重度者』十名、診療所方式をとる」との案を示した。7か月分で1,996万円が計上された予算のうち、人件費に1,615万円をあて、残りの月30万円程度で入所者10人の食費、生活費、事務費、設備維持費をまかなうというものであり、算定根拠も「委託先との交渉が終了するまで秘密事項だ」として明らかにしなかった(八木下・吉野[1979:40-41])。委託先は、和田が理事を務め、東京久留米園、和泉園、清瀬療護園などの入所施設を運営する社会福祉法人まりも会であった。市はこの案をもとに設置条例を作成し、9月議会に上程しようとした(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:28])。これを阻止するために8月24日から25日にかけて、会は4回目の座り込みを行った。結果として、民間への運営委託はついに撤回させられなかったものの、まりも会への委託案を白紙に戻すとの確約を得た(八木下・吉野[1979:41])。
 一方で同時期、山崎、雨宮と和田のシンパである根っこの会は、「市の案にもろ手を上げて賛成します」「生きる場をつくる会の圧力に屈せずガンバレ!」という内容のビラまきを行った。委託先が白紙に戻された直後の8月29日には、今度は彼らが座り込みを行い、まりも会委託案の復活を求めた(『読売新聞』1977.8.30朝刊 埼玉県版 20面、川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:28])。
 10月に開所する予定にしていたものを翌年3月に延期させられ、さらに先延ばしにさせられては困ると考えた市は、まりも会以外の社会福祉法人に対して運営受託の要請を行った。しかし結局、手を挙げる法人がなかった。八木下は、次のように記している。
 市側は市長自らが私たちの行動の場に出てきて「まりも会」には委託をしないと確約をしました。「別の法人を見つける」「私たちと協議をして委託先を見つけたい」と民生部長は言っていました。しかしながら最終的には委託先は「まりも会」に決まってしまったのです。
 川口市は一九七七年八月ごろから関東近辺の福祉法人にこの「しらゆりの家」を引受けてもらたいたいという要請状を送りました。返事がきたのは十六くらいの団体で、多分よい返事は四つの団体くらいであとの団体は断わってきました。その四団体も最終的には断りました。[…]
 最終的には川口市は他の福祉法人に全部断わられた結果、市が直接運営するか、民間委託をするか、二つに一つしかなくなりました。結局は恥も外聞もなく委託先として「まりも会」が決まりました。(八木下[1980:167-8])
 1978年3月1日、「しらゆりの家」と名付けられた施設が開所した。当日、市長代行が参加して開所式典が行われようとしたところ、現地に50人ほどが集まって抗議活動が行われ、式典の開催が阻止された(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:2])。半年後の10月にも現地で抗議集会が行われ、「『生きる場をつくる会』は“しらゆりの家”の『障害者』『労働者』と共に、更に厳しく行政、『まりも会』と闘い続けてゆく」(八木下・吉野[1979:46])と叫ばれた。しかしその後、実態としての運動は急速に萎んでいった。

■3.なぜ、生きる場をつくる会の運動は失敗に終わったとされたのか

 市に提出した趣意書や陳情書の内容からみれば、生きる場をつくる会の運動が獲得したものは、けっして少なくなかったといえる。重度障害者が街なかで暮らすことが一般的ではなく、それを実現するだけの国の制度もないなか、市独自の条例を制定させ、地元・川口市内の市街地に定員10名のものをつくらせたことは、やはり画期的であったはずである。そして何よりも、切実に「いえをでたい」と希望していた雨宮と山崎が「しらゆりの家」に入ることができたという事実がある。もとをたどれば、生きる場をつくる会の運動は、八木下が在宅訪問のなかで雨宮と山崎に出会ったところから始まった。生きる場をつくる会が結成されたのも、山崎の「いえをでたい」という要望が発端であった。こうした経緯を踏まえれば、運動は部分的には成功したと考えられてもよかった。
 しかし、運動の結果については、完全に失敗に終わったと捉える者が多かった。それは、生きる場=ケア付き住宅を地域社会のなかにどのように位置づくものとして考えていたかに起因していた。市に対する陳情書のなかで雨宮や山崎とともに入居予定者として名を連ねていた仲沢睦美★18は、次のように振り返っている。
 いろいろあって場所も内容も思い通りではなかったが施設はできた。自分たちに運営はさせてもらえず、東京の社会福祉法人がやることになった。話が違うと怒っている人もいて、要求が全部通るまで交渉を続けるという話もあった。そのとき、重度障害者のお母さんに「明日の100円よりも、今日の10円がないと今日すら生きられない人がいる」といわれた。結局はせっかく作ったのだからというか、「とにかくできた、必要な人が入れた」ということで良しとするしかなかった。(仲沢[2017])
 また、会のなかで精神的支柱のような存在になっていた西村秀夫は、次のように述べている。
 このグループが求めたのは「施設に収容される」ことではなく、「地域の住宅に住む」ことだった。しかし川口市当局は一貫してこの点について無理解だった。重度障害者が介助付きで町の中の住宅に住むということがあり得ることとは思えなかったのだろう。約2年かかって「10人以下の小施設」を町の中に建てるということを約束したが、管理体制の点で難航を続けた。[…]昭和53年3月、社会福祉法人『まりも会』の経営する『白百合の家』が開設された。場所は市街地であり、人数は10人と少数であった。しかし、内容は従来の療護施設と変わらないものになってしまったのである。(西村[1981:26])
 生きる場をつくる会は和田博夫に対してだけでなく、まりも会についても劣悪な法人であると喧伝した。しかし、本当にそう考えていたとすれば、やや不思議でもある。
 まりも会は1962年に、田中豊と妻の寿美子、そして和田を中心として設立された。田中豊は1952年4月、国立身体障害センターに心理判定員として入職した。その3か月後の1952年7月に和田がセンターに着任し、公私にわたって親交を深めていった。国立身体障害センターには入所期限があり、また機能改善の見込みがないとされた者は入所することができなかった。田中夫妻と和田は、行き場のない障害者が暮らせる場づくりの必要性を実感していた。そして1960年12月、無認可施設として「東京久留米園」を開設した。開設当時は粗末な建物で、田中一家は2階の6畳2間に住み込んだ。
 開設から2年後の1962年10月、社会福祉法人の認可を受けて生活保護法の救護施設となった。法人の理事長には和田の軍医時代の上官であり、設立にあたって多額の寄付をした医師の山田進弘が就任し、園長は寿美子が務めた。豊と和田は、国家公務員という立場を考慮して役員には名を連ねなかった。しかし、実質的な運営は豊と寿美子が担い、必要に応じて和田が協議に加わる形で行われた。豊は園の運営について、管理的ではなく自由で開放的な方針をとった。運営上のすべての問題について入所者と職員との間で協議することを前提とし、飲酒や喫煙をはじめ外出や男女交際、政治活動や宗教活動などの制約を可能な限り取り払い、入所者の自主判断に任せた(川村[2001:96-115])。
 こうした環境のもと、園では入所者による自主的な読書会や勉強会が自然発生的に開かれるようになった。それらの会には職員や豊も参加し、既存の施設では考えられないような入所者、職員、管理者の三者によって構成される会が継続的に開かれた。豊は、会のなかで自らの知識や考え――障害者解放論や運動論などを語った。触発された入所者は、当時まだ萌芽期にあった青い芝の会へと活動の場を広げていった。青い芝の会の活動家は、東京久留米園を会議や集会の場としてよく利用した。豊は、青い芝の会にも同調的で協力的であった(川村[2001:121-127])。
 全国青い芝の会の初代代表幹事を務めた横塚晃一は、次のように記している。
 私は、七、八年前から国立身障センター当時の恩師である田中豊先生の始められた東京久留米園に度々遊びに行き、教えを乞うておりました。そこには今では五十人ほどの重度障害者がおりますが、他の収容施設と違う点は、外泊、外出、面会、入所者の酒、たばこに至るまで大幅な自由が認められているということです。しかし時には入所者が外出先で事故を起し、ケガをして帰るようなこともあり、そのため警察等から「こんな重度者をなぜもっとよく管理しないのか」と言われるそうですが、「責任は各自が負うべきであり、また、園としては私が負う。運営規則など変えるつもりはない」と田中先生は突っぱねるそうです。(横塚[1971→2010:125])
 このように、田中豊は障害者の主体性を認め、障害者も社会のなかで主体的存在であるべきという考え方の持ち主であった。しかし和田は、この点で田中と正反対の考えであった。そのことは、和田の次の文章から如実に知ることができる。
 議論というものは、絶対に悪いとか絶対に良いとかいうものは少ないものである。その各々がどういう立場から言っているかに関係するのであって、互いに反面の真理を語っている場合が多い。
 A「障害者は障害者だけで働ける場所をという前に、できるだけ健康人の社会にまじわり、可愛がられる人となり、そこに職を求めてそこで頑張るように辛抱しなければならない」
 B「社会の人々は、我々障害者に対する理解が少ない。我々障害者を能力一杯に認めてくれず、就職の機会も少ない。我々の働ける場所を作ってほしい」
 […]
 私が国立更生指導所の職員としての立場から、障害者の諸君に望むところは「A」の立場である。(和田[1956→1995:11])
 障害者に対する和田の考え方は、医師としての立場から治療を施す客体として捉えるものであった。一方、田中豊の考え方については、豊が施設長を務めた清瀬療護園で1978年から1991年まで職員として働き、人となりをよく知っていた川村邦彦が次のように述べている。

 豊は決して手術が至上とは考えてはいなかった。そこが盟友と称された和田との微妙にして大きな違いであった。豊は次のように考えていたのである。身障者がなぜ手術をしなければならないのか。障害を持ったままでもよいではないか。手術をして障害を取り除き、生活しやすくなったり働けるようになるのは現実的な要求として大切だが、だからといって次から次へ手術してよいのだろうか。むしろ変わるべきは社会の側で、身障者がそのままの姿で暮らせる社会であるべきなのだ。身障者が手術をして「人並み」になって社会に近づくのではなく、社会が身障者に近づかなくてはならないのではないか。
 豊が示したこうした考えは、今に至れば多くの人が口にする障害者リハビリテーションの常識的思想ではある。しかし舞台は、ノーマライゼーションも「完全参加と平等」も唱えられていなかった時代の出来事である。障害当事者を含めて多くの人が手術を望んで疑わなかった時代に、豊と和田の間に身障者リハビリテーションアプローチをめぐって、すなわち望ましい社会を作り出すその方法論を巡って、すでにこのような相克が萌芽していたのである。(川村[2001:85-87])
 このように和田と田中豊との間には、障害者観や社会観に根本的な相違があった。ひと言で「まりも会」といっても、内部には正反対の考え方が並立していたのである。しかし生きる場については、和田を主体とした運営形態にしたいとの思惑がまず前提としてあり、そのうえで社会福祉法人格をもつ団体を委託先にするほうが都合がよいという行政側の事情があった。つまり、まりも会は和田が運営権を得るための一手段として利用されたのである。のちに和田は、田中豊や他のまりも会の理事と対立し、1980年代半ばに理事の座を追われている。それでもなお、しらゆりの家の施設長は開設時から1992年まで、和田のシンパである根っこの会の春山敏秀が務め続けた。
 生きる場をつくる会が発足してまもなく作成したリーフレットには、副題として「『障害者』が自ら創り、自ら運営する!」と記された。しかし和田は、それを真っ向から否定する人物であった。規模の大小や閉鎖性の有無、職員の労働条件など相互に連関する争点は存在していたが、生きる場をつくる会と和田との間のもっとも根本的で決定的な対立点は、障害者と健常者の垣根を取り払った協働による自主運営を認めるか否かであった。
 さらに、生きる場をつくる会は自主運営を求めるとともに、行政の責任を明確にする必要があるとして公立公営にすることも求めた。しかし、行政側としては公立にするとなれば、何らかの法的基準を定めたうえで、その基準に則った運営形態を求める必要がある。自主運営と公立公営を同時に求めることはある種矛盾しており、要望として無理があった。そして結果として、自主運営も公立公営のどちらも得ることができなかったことによって、生きる場をつくる会は自らの運動を失敗したものとして規定したのであった。
 その後、1980年代以降の埼玉では、ケア付き住宅の実現に向けて別の方法――民設民営の形態をとりながら自治体からの補助を獲得するという手段が模索され、1988年に実現に至ることになる。そしてこの方法は、全国的なケア付き住宅建設運動の趨勢に合致したものでもあった。これについては、稿をあらためて論じたい。

■4.おわりに

 本稿では、「川口に障害者の生きる場をつくる会」の運動について推移を追ったうえで、なぜ生きる場をつくる会の運動が失敗に終わったとされたかについて考察した。それまで地元で地道に築いてきた人間関係の延長線上で、従来の施設よりも小規模なものができたという事実を踏まえれば、運動は部分的ではあっても成功したといってもよい。しかし、職員と入所者の垣根を超えた自主運営についての要望と、公的責任を明確化した公立公営についての要望はまったく受け入れられなかった。そもそも自主運営と公立公営を両立させることには無理があったが、この2つの要望が実現できなかったことをもって、生きる場をつくる会は自らの結果が失敗に終わったと規定したのである。
 ただし、公立公営ではなく民設民営であったとしても、行政からお金を得るならば行政が定める法的基準と無縁ではいられない。現在、定員10名程度の「施設」はグループホームとして認可を受け、地域の至る所で運営されている。在宅生活の支援も、行政の基準に沿った障害福祉サービスとして供給されている。障害者の生活を保障する制度はたしかに充実したが、それと同時に、制度の枠からはみ出すような生活が困難になったと考えることもできる。かつて八木下が代表を務めていたこともある埼玉障害者自立生活協会★19の総会記念シンポジウム「ハコのない施設になっていない?」(2019年5月開催)の呼びかけ文では、次のように述べられている。
 当協会の発足当初、制度はありませんでした。障害の種類程度に関らず、共に学び暮らすという地域生活を探っていくうえで、問題や課題は明快でした。障害当事者と一緒に手探りし、けんかをしたり個人の生活の中で出てくる具体的な問題をみんで話し合ったり、行政にも投げかけ、話し合いながら解決してくることができました。
 でも、制度ができ、充実し始めると、見えない規制や障害当事者と支援する側の隔たりができてきていませんか? 地域生活での問題解決の糸口を探るにも「制度に基づく守秘義務」やしばりが強くなり、サービスの受け手と支援者という関係だけになり、人と人としての「暮らし方」の問題や悩みを出し合えなくなっていませんか?(埼玉障害者自立生活協会[2019:2])
 障害者の地域生活を支援するための制度の多くは、障害者運動が追求し獲得し、また自らつくってきたものでもある。しかし一方で、制度が充実すればするほど、その制度に自ら縛られるというジレンマが生じる。生きる場をつくる会の運動から40年以上経つが、障害者と健常者が地域で共にどのように住まいどのように生きるか、そしてそのための仕組みをどのように配置するかは、現在的課題として存在し続けている。

■注

★01 文献によって、川口に障害者の生きる場を作る会、川口市に障害者の生きる場を作る会、川口に「障害者」の生きる場をつくる会などと表記の揺れがある。本稿では便宜上、川口に障害者の生きる場をつくる会と表記を統一している。文献リストも同じく、この表記で統一している。
★02 西村は1931年に千葉県で生まれ、東京帝国大学理学部に進学。太平洋戦争の勃発によって繰り上げ卒業となり、1941年に陸軍技術中尉として満州に出征した。終戦翌年の1946年に日本に引き揚げ、厚生省技官や高校教員を経て、1951年に東京大学教養学部の学生部厚生課長に就任した。事務官ではなく助教授の肩書きを与えられていたが、教授会には議席がなかった。おもな業務は学生相談で、着任当初は経済問題や健康問題への対応が中心だったが、経済復興とともにそれらの問題は薄れていき、大学での学生生活に関する相談が中心になっていった。学生が友人たちとの出会いに充足感を得ていることを知った西村は、学生を募って合宿セミナーを開き、集団討議などを通して学生生活の諸問題について学生とともに考えた。しかし1960年代後半、大学闘争の激化とともに学生と教授陣との溝が深まるにつれて、西村にも攻撃の矛先が向くようになった。それでも西村は、学生と教授陣との対話を成り立たせるために尽力し、学生への強権的な支配を進めた教授会に対しても異議を唱えた。また、学生同士の衝突や流血の事態が勃発しそうになると、その場に駆けつけて回避しようとした。しかし、大学に機動隊が導入され衝突が鎮圧されつつあった1968年12月、西村は心身の疲労がピークに達し休職した。1969年11月に復職した西村は、厚生課長を自ら辞任して進路相談室の専任相談員になった(西村[1969][1970])。
 後に、西村は1974年6月に次男を自死で亡くした。ほかにも心労が重なり、同年12月から翌1975年1月にかけて沼津の牛臥病院で療養生活を送った。同年8月に東京大学を退職し、家族の事情により北海道に転居した。9月から札幌郡広島町(現・北広島市)の身体障害者授産施設「北海道リハビリー」で授産部長として勤務する傍ら、当時建設計画が進められていた「北海道立福祉村」の推進会議に参加した。しかしその構想に疑問を感じ、会議の参加者であった脳性マヒ者の小山内美智子らが1977年1月に結成した札幌いちご会のケア付き住宅建設運動に助力した。1983年8月に再び東京に転居した後は、身体障害者授産施設「泉の家」の施設長に就任し、1989年3月まで勤務した。それと並行して、1987年に発足した世田谷区の「在宅ケア研究会」で身体障害者の地域生活調査に携わり、1990年に設立された「自立生活センターHANDS世田谷」の活動にも助言した(西村[1982][1983][1991][1992][2001a][2001b])。また西村は、内村鑑三の流れを汲む無教会主義の敬虔なクリスチャンであり、キリスト教の教えに関する多くの講義や講演、講話を行うとともに数々の論考を遺している。
★03 1969年11月、1回目のシンポジウムが「東大の現状と『自主改革路線』」というテーマで開催された(西村[1971:1])。シンポジウムは、「精神科医師連合はなぜ粘り強く斗うか」「社会学科共斗の生活・斗争・模索」「林学科斗争の軌跡と現状」といった東大の学内闘争に関するテーマを経て、「なぜ公害にとりくむにいたったか」「解放大学労働者部会からの提起」「斗う高校生の諸問題」「ベトナム人留学生の場合」というように、テーマをらせん状に広げていった。なかでも、彼らの関心のひとつの焦点は教育問題であった。西村らは、「『教育』が体制の求める人材の選別・形成の機構と化し、さらに近代的・合理的に再編される現状」において「どこに選別・差別の『教育』をこえる道を開くことができるのか」(西村[1971:1])との問題意識のもと、連続シンポジウムを続けた。「廃墟における自己形成」「中教審答申批判」「伝習館高校の処分問題」「教育への抑圧の諸形態」「通信簿廃止」「『入試改革案』批判」をテーマにしたシンポジウムが行われた後、「教育における差別」に的を絞った企画が進められた。そして「精薄児教育と差別」「定時制高校の当面する問題」に続き、「身体障害と教育」をテーマにしたシンポジウムが開催された。
★04 文献によっては、身障根っ子の会、根っ子の会などとも表記されているが、本稿では便宜上、根っこの会と表記を統一している。
★05 趣意書の全文は以下の通り。
 わたしたちはどういう いみで いえをでたいかというと  おやはいつまでも いきて いるわけではない。きょうだいに おしつけようとするが きょうだいが めんどうをみてくれても めんどうをみられるほうが つらい。また おや きょうだいと くらしていると しゅたいせいがなくなる。めしをくって くそをたれて いるだけがにんげんではない。じぶんのかんがえをいっても「じぶんではたらけないくせに もんくをいうな」といわれる。おさえつけられてしまって じぶんでせきにんをもってできない。そのけっか おやにあまえていることになってしまう。また じぶんで できることでも あぶないからとか しくじるからといっておさえられてしまう。
 げんざいあるしせつに ゆけばいいといわれるかもしれないが げんざいのしせつはしょうがいしゃにめしをくわせて かって おくだけである。しょうがいしゃをびょうにんとして みているから れいだんぼうかんぴ りはびりいりょうつきでも いろいろの きそくで しばられ かんしされている。だいきぼな しせつでは ふちゅうりょういくせんたーのように ぎむてきとなり にんげんを ものとしてしか みなくなってしまう、3どの めしも はいぺんも しばられてしまう。また げんざいのように やまおくの しせつではなく かわぐちしに すみたい。しんたいしょうがいしゃでも ちえおくれでも ねたきりの ひとでも まちの なかに すむのが あたりまえだ。なぜ しょうがいしゃだけが あつまって けんじょうしゃから はなれたところで いきてゆかなければ ならないか。ぼくたちも まちに でたいし おやきょうだいや きんじょの ひとが あいにくるにも ちかい ところのほうがいい。たてものはじゅうじつしていなくても ぜいたくはいわない。3どのめしと はいべんをやりたいときに やれる。ぼくらのすむば いきるば そこから ゆきたい ところに ゆけるところがほしい。
★06 長堀は、1972年5月から1976年5月までの1期のみ市長を務めた。生きる場をつくる会の主要メンバーのひとりであった仲沢睦美は、「当時の市長が良いおじいさんで『いいよ』と言ってくれた」と述懐している(仲沢[2017])。長堀の前任は「川口自民党」を率いていた大物政治家の大野元美で、1957年2月から1972年4月まで4期にわたり市長を務めていた。1972年に辞職して県知事選に立候補したが、革新候補の畑和に敗れた。1976年5月、長堀の任期満了に伴って行われた選挙で川口市長に返り咲き、さらに1981年4月まで2期にわたって市長を務めた。長堀は、市長就任前は川口市に本店をおく青木信用金庫の理事長を務めていたが、政治家としての実績はほとんどなく、いわば大野の不在を埋めるための「つなぎ役」であった。
★07 国立コロニーのぞみの園(現・国立重度知的障害者総合施設のぞみの園)。1971年に開設された。
★08 埼玉県立コロニー嵐山郷(現・埼玉県立嵐山郷)。1975年に開設された。
★09 三井絹子。脳性マヒ者。1945年生。20歳で東京都立府中療育センターに入所。劣悪で非人道的な処遇に抵抗し、東京都庁前で1年9か月座り込みを行った後、結婚して施設を退所し地域生活を始めた。
★10 新井啓太。健常者。誌面上では東京がっこの会会員と表記されているが、生きる場をつくる会のメンバーでもあった。
★11 高杉晋吾。健常者。1933年生。団体紙記者を経てフリーランスのジャーナリストになり、障害者差別や部落差別、医療問題や環境問題などをとりあげたルポを多数発表している。
★12 三井俊明。健常者。三井絹子の夫。
★13 この座談会には、ほかに脳性マヒ者で関西青い芝の会会長の鎌谷正代も参加していた。
★14 村田実。脳性マヒ者。1939年生。座談会当時は、和田が理事を務めていたまりも会が運営する東京久留米園に入所しながら、普通学校就学運動を行っていた。その後、学校就学は叶わなかったが、1981年に施設を出て地域生活を送った。
★15 水沢洋。健常者。自治体ケースワーカー。
★16 北野浩平。健常者。知的障害児者入所施設の東京都七尾福祉園職員。
★17 この座談会には、ほかに国立小児病院の心理療法士で、普通学級就学運動を行っている「教育を考える会(通称・がっこの会)」の中心的人物であった渡部淳も参加していた。
★18 仲沢(1938年生)は陳情書に名前を連ねてはいたが、すぐに家を出て暮らすようなつもりはなかったという。中学1年のときにポリオを発症するまでは、普通学校に通っていた。障害をもつようになってからも家族との関係は良好で、ほかのきょうだいと分け隔てなく育てられた。父親が亡くなった後は、脳内出血で寝たきりになっていた母親との2人暮らしになったが、母を介護しながらの毎日にもあまり不満を感じず、むしろあたりまえの生活だと思いながら過ごしていた(仲沢[2017])。
★19 埼玉障害者自立生活協会は、障害のある人もない人も分け隔てなく学び働き暮らす地域づくりを行う団体として、1992年2月に社団法人格を取得した。その前身は1980年8月、スウェーデンの視察旅行を行うために八木下を代表として結成された「埼玉社会福祉研究会」である(埼玉社会福祉研究会編[1981])。その後、1986年10月に「国際障害者年・サイタマ五年目のつどい」を開催し、県内のグループや個人のネットワーク団体として活動を本格的に始めた。1991年4月、事業部分を担う埼玉障害者自立生活協会(改組時は設立準備会)と、運動部分を担う任意団体の「埼玉障害者市民ネットワーク」に分かれ、現在に至っている(山下[2010])。

■文献

「ケア付き住宅」研究集会実行委員会編 1988 『ケア付き住宅を考える――「ケア付き住宅」
研究集会報告書・資料集』(1987年11月7・8日開催,於:横浜市健康福祉総合センター・障害者研修保養センター横浜あゆみ荘)
二日市安 1979 『私的障害者運動史』,たいまつ社
川口に障害者の生きる場をつくる会 1975 『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り、自ら運営する!』,りぼん社
―――― 1977 「障害者の生きる場をつくるために 第2回」,『月刊自治研』216:146-153
―――― 1978 『娑婆も冥土もほど遠く――「生きる場」活動報告その2』
川村邦彦 2001 「田中豊」,川村・石井[2001:9-162]
川村邦彦・石井司 2001 『シリーズ 福祉に生きる45 田中豊/田中寿美子』,大空社
河野秀忠 2007 『障害者市民ものがたり――もうひとつの現代史』,NHK出版
小国喜弘 2019 「大規模施設も養護学校もいらない――八木下浩一・『街に生きる』意味と就学運動」,小国編[2019:33-52]
小国喜弘編 2019 『障害児の共生教育運動――養護学校義務化反対をめぐる教育思想』,東京大学出版会
道野孝之 1985 「新たなくらしづくり」,『季刊福祉労働』26:56-68
三ツ木任一編 1988 『続・自立生活への道――障害者福祉の新しい展開』,全国社会福祉協議会
仲村優一・板山賢治編 1984 『自立生活への道――全身性障害者の挑戦』,全国社会福祉協議会
仲沢睦美 2017 「障害者のくらしいまむかし『Vol.1 仲沢睦美の場合』」,『シンポジウム「障 害者のくらしいまむかし」資料集』:ページ表記なし(NPO法人リンクス主催,2017年3月18日開催,於:青木会館)
根っこの会 1992 『きみも歩ける――身障者に機能改善医療を!』,新泉社
西村秀夫 1969 「東大闘争と私」,田畑書店編集部編[1969:115-143]
―――― 1970 『教育をたずねて――東大闘争のなかで』,筑摩書房
―――― 1971 「『夜学』について」,連続シンポジウム実行委員会[1971:1-2]
―――― 1972 「障害者の教育権と内なる差別意識の克服」,『婦人教師』57:35-40
―――― 1975 「市のお役人との交渉で感じたこと」,川口に障害者の生きる場をつくる会[1975:6-8]
―――― 1981 「『ケアー付き自立』を求めて――経過と展望」,札幌いちご会[1981:23-33]
―――― 1982 「共に生きる」,『季刊パテーマ』3 → 西村秀夫先生記念文集刊行会編[2007:325-329,332-335,352-358]
―――― 1983 「札幌いちご会のあゆみ」,障害者自立生活セミナー実行委員会編[1983:77-80]
―――― 1991 「泉の家へ」,『西村先生信仰五十周年記念感話会用資料集』 → 西村秀夫先生記念文集刊行会編[2007:362-365]
―――― 1992 「札幌いちご会の役割」,『HSKいちご通信』93 → 西村秀夫先生記念文集刊行会編[2007:358-361]
―――― 2001a 「私の入門」(1月9日今井館講話)→ 西村秀夫先生記念文集刊行会編[2007:303-310]
―――― 2001b 「私のとってのイエス・キリスト」(2月13日今井館講話)→ 西村秀夫先生記念文集刊行会編[2007:311-316]
西村秀夫先生記念文集刊行会編 2007 『西村秀夫記念文集――時代の課題に応えて』
小佐野彰 2007 「全身に障害のある人に対する医療の歴史と私達の到達点――現状の脳性マヒ者の二次障害治療についての考察」,『二次障害情報ネット』,http://nijishogai.net/bunken/ronbun_osano-iryonorekishi.pdf
連続シンポジウム実行委員会 1971 『シリーズ「夜学の記録」第1集 身体障害と教育(その1)』
埼玉社会福祉研究会編 1981 『ハンディキャップレポート――親と子のスウェーデン福祉体験記』,現代書館
埼玉障害者自立生活協会 2019 「ハコのない施設になっていない?――地域で共に暮らすってどんなこと?」,『SSTK通信』211:2-3
札幌いちご会 1981 『心の足を大地につけて――完全なる社会参加への道』,ノーム・ミニコミセンター
障害者自立生活セミナー実行委員会 1983 『障害者の自立生活』
田畑書店編集部編 1969 『私はこう考える――東大闘争 教官の発言』,田畑書店
髙橋儀平 2019 『福祉のまちづくり その思想と展開――障害当事者との共生に向けて』,彰国社
高杉晋吾・和田博夫・八木下浩一・鎌谷正代・三井俊明・三井絹子・新井啓太 1976 「座談会  障害者にとって施設とは」,『市民(第二次)』11:52-78
和田博夫 1956 「お互いの立場について」,『共生の友』創刊号 → 和田[1995:11-12]
―――― 1975 「川口市の障害者の『生きる場の会』の活動に思う」,『埼玉県身障根っこの会会報』4 → 和田[1993:251-255]
―――― 1976 「『生きる場の会』に寄せて」,『のびろ』27 → 和田[1993:279-281]
―――― 1978 「『しらゆりの家』の成立の過程」,『ひふみ』18 → 和田[1993:298-308]
―――― 1993 『障害者の医療はいかにあるべきか1 福祉と施設の模索』,梟社
―――― 1995 『障害者の医療はいかにあるべきか3 障害者とともに歩んで』,梟社
八木下浩一 1971a 「八木下さんの談話」,連続シンポジウム実行委員会[1971:26-29]
―――― 1971b 「東大シンポに向けて」, 八木下ほか[1972:30-32]
―――― 1972a 「わたしの就学運動」,八木下ほか[1972:13-16]
―――― 1972b 「学籍獲得闘争のこと」,八木下ほか[1972:20-22]
―――― 1980 『街に生きる――ある脳性マヒ者の半生』,現代書館
八木下浩一ほか 1972 『わたしの30年間』
八木下浩一・村田実・北野浩平・渡部淳・水沢洋 1976 「座談会  障害者が“地域で生きる”とは」,『新地平』30:52-63
八木下浩一・吉野敬子 1979 「『障害者』にとって地域に生きるとは」,『季刊福祉労働』2:37- 46
山下浩志 2010 「写真で見る――共に学び・働き・暮らしあう埼玉年表1978~2009 参考にして!」,共に学び・働く――「障害」というしがらみを編み直す,https://yellow-room.at.webry.info/201005/article_3.html
―――― 2021 「障害者と出会い内なる差別問う 2021.4.14 すいごごカフェ 菊地一範さん(地域自立支援グループあん)」,共に学び・働く――「障害」というしがらみを編み直す,https://yellow-room.at.webry.info/202109/article_2.html
山崎広光 1975 「これまでのこと」,川口に障害者の生きる場をつくる会[1975:4-5]
横塚晃一 1971 「我々の手で小さな施設を」,『あゆみ』12 → 横塚[2010:124-127]
―――― 2010 『母よ!殺すな[第2版]』,生活書院