闘病記専門オンライン古書店「パラメディカ」が、日本の「闘病記」文化にもたらしたもの 鈴木 悠平
2022.10 『遡航』004号 pp.33-46
闘病記、アーカイブ、パラメディカ、星野史雄、ナラティブ
要旨

1. はじめに

本稿の目的は、闘病記専門オンライン古書店「パラメディカ」の開設から現在までの経緯を整理し、日本における「闘病記」の歴史のなかで、その活動の意義を評価すること、および、パラメディカを含む闘病記アーカイビング活動の運営課題を考察することである。  パラメディカは、星野史雄(1952〜2016)が1998年10月に開設した闘病記専門オンライン古書店である。自分や家族の病気について、同じ病気になった患者の体験を知る手段として闘病記が役立つと考え、星野自ら古書店を巡ってさまざまな病気の闘病記を買い集め、病気の種類別に書籍リストをつくってオンライン公開し、受注販売した。星野が2016年にがんで死去した後は、星野と共に活動していた横川清司が代表を務める「NPO法人わたしのがんnet」が蔵書とデータベースを引き継いだ。星野の蔵書は公称7000冊、整理しきれていないものを含めると約1万冊に上る。現在、蔵書は静岡県の伊豆高原にある私設図書館「闘病記図書館パラメディカ」で貸し出ししている。  日本で闘病記の出版が盛んになったのは1990年代からで、本稿執筆時点(2022年)まで約30年程度のことである。パラメディカは、まだ闘病記というジャンルの黎明期で、患者・家族が書店や図書館で闘病記を手にすることも容易でなかった時代に闘病記専門古書店として立ち上がった先駆的取り組みであり、星野とパラメディカの歩みを振り返ることは、日本における闘病記普及の歴史を振り返ることにも重なる。また上述の通り、星野の死後も形態を変えてパラメディカは存続しているが、蔵書やデジタル・アーカイブの維持・管理や、施設・人員・資金面を含む運営の持続可能性といった課題は残っている。これらは、「闘病記」と呼ばれるものに限らず、病気や障害の当事者・家族等による「語り」のアーカイビング活動一般における共通課題でもあり、パラメディカの事例を本稿で考察する意義がある。  本稿ではまず、日本における闘病記の歴史を概観した上で、星野によるパラメディカの立ち上げから現在に至るまでの経緯を整理する。その後、パラメディカの歴史的意義を評価し、パラメディカを含むアーカイビング活動の課題を考察していく。

2. 日本における「闘病記」の発祥と普及の経緯

日本における闘病記の系譜をたどり、その内容や受容の変遷、社会的意義を研究した門林道子は、『臨床死生学事典』(2000)において、闘病記を「病気と闘う(向き合う)プロセスが書かれた手記」と定義した。しかし、一般的な国語辞典や百科事典等には、「闘病記」という言葉やその説明・定義が収録されてこなかった。「闘病」の語で見ても、辞書ごとに説明内容の差異が大きく、発行年代によるニュアンスの変遷がある(門林[2011:35-36])。これは、闘病記を書いたり読んだりする患者や家族の闘病体験そのものが多様であり、また、疾患の種類や症状、治療法の有無や発展、医療・看護・福祉における支援の考え方や実践の変化、人々の死生観の変化などの影響を受けて生成変化していくゆえであろう。以下では、門林[2011]『生きる力の源に がん闘病記の社会学』を主に参照しながら、本稿の目的であるパラメディカの評価に必要な範囲で、闘病記の歴史を概観する。  門林[2011]の調査によると、「闘病」という語は、医師・作家の小酒井不木(こさかいふぼく、1890〜1929)が結核患者として療養する中で使ったのが初出とされる。小酒井は1921年に雑誌『内観』で「闘病術」という題名を付して結核の治療法を論じた後、1926年に『闘病術』を出版した。同書で小酒井は医師や薬に頼って結核を治そうとする受動的・他力本願なあり方を批判し、患者本人が覚悟を持って、積極的・能動的に「病と戦う(=闘病)」ことを説いた。毎年10万人以上が死亡しており、人々は結核を大いに恐れていたこと、一方で、政府は中国侵略に始まる「総力戦」に向けて国民の動員を強化しようとしていたことなど、1920年代後半の社会情勢もあって小酒井の『闘病術』は出版後8カ月で132版を重ねるという驚異的な反響を呼び、以後、1930年代から1940年代にかけて、新聞や雑誌でも闘病記が多く集められ紹介されるようになった。この頃は「闘病記」以外にも「闘病体験記」「闘病体験録」「闘病手記」「闘病実話集」などの呼び名が混在しており、これらの手記が「闘病記」と収斂されていったのは1960年代から1970年代にかけてと考えられている(門林[2011:26-34])。  闘病記で扱われる「病」の数・種類は多く、図書館の通常の分類方法では、あらゆる疾患を横断した「闘病記」という明確なカテゴリーもないため、闘病記の正確な出版点数を捉えることは難しい。しかしながら、後述する星野のパラメディカや「健康情報棚プロジェクト」による「闘病記文庫」をはじめ、なんらかの基準で「闘病記」を捉え、集め、分類しようとする活動は存在し、それら複数のソースを参照した上で門林[2011]は、闘病記の出版点数は1970年代後半から増加し、さらに1980年代からがん闘病記急増の傾向が把握できると分析している。  闘病記の出版が盛んに行われるようになった背景としては、1)ワープロやパソコンの普及による「出版の大衆化」、2)自分の人生を物語として表現し届けようとする「自分史ブーム」、3)がんを筆頭に、診断後の治療・闘病期間が長期に渡り生活や仕事に大きな影響をもたらすような慢性疾患が社会に広がったという「疾患構造の変化」が挙げられている。1990年代後半以降、告知やインフォームド・コンセントの浸透、「ナラティヴ・ベイスト・メディスン(NBM)」を重視する動きなどもあって、医学・医療の従事者たちも、「当事者から学ぶ」手段のひとつとして闘病記に注目するようになった(門林[2011:18-22])。  星野[2012]の推論では、少なくとも年間約170冊(当時)の闘病記が出版されているとのことだが、これは書籍という形に綴じられた闘病記の数であり、ブログやソーシャル・メディアの投稿としてインターネット上に公開される「ネット闘病記」も含めるとより膨大な数となる。ネット闘病記には、個人が明確なテーマや読み手を強く意識せず書かれた「日記」の延長のようなもの(「闘病記」という意識で書かれてはいないが、話題や要素として闘病体験が多く含まれる)もあれば、なんらかの疾患・障害の「当事者」としてのアイデンティティが前面に出ており、闘病体験を中心に綴られたものもある。記事の更新頻度や分量はまちまちであり、一個人による私的なブログとして投稿しているもの、グループで運営しているもの、編集者や出版社のサポートが入っているものなど、運営形式もさまざまである。Web上で完結している闘病記もあれば、ある程度書き溜めたブログを後に書籍化する場合もある。書き手の症状の変化や死去によって更新が途絶えることもままあり、家族等によって更新停止のアナウンスがなされるものもあれば、状況が不明なままのものもある。また近年ではInstagramやYouTubeといった写真・動画投稿サービスも普及しており、テキストではなく写真や音声、映像といった媒体で投稿・公開される闘病記も今後より増えていくだろう。パラメディカ・ライフパレット編[2010]『病気になった時に読むがん闘病記読書案内』では、「ネット闘病記」の魅力として、1)(著者と読者が)出会うチャンスの増加、2)情報量の豊富さ、3)情報の新しさ、4)継続性を挙げ、リスクとして、1)相談メールの増加(による本人負担)、2)情報の不確実さを指摘している(パラメディカ・ライフパレット編[2011:118-124])。  なお、「闘病」および「闘病記」という言葉は日本で独自に立ち上がり普及したものだが、なんらかの疾患・障害のある当事者自らが体験を物語り、それらの「語り(ナラティヴ)」を集め活用しようとする活動は海外でも見られ、「PatientsLikeMe」(https://www.patientslikeme.com/)や「DIPEx International」(https://dipexinternational.org/)といった患者体験のデータベースが知られている。

3. 「パラメディカ」の成り立ち〜現在までの時系列

3-1. 乳がんで妻を亡くし、闘病記を探し求める

パラメディカ店主の星野文雄は1952年に秋田県で生まれ、早稲田大学第一文学部中国文学科を卒業、同大学院で修士課程を修了した。詩や文学よりも「本そのもの」への関心が強いことを自覚した星野は、書誌学の研究を志して慶應義塾大学附属図書館の教授に師事していたが、教授が肺がんで急逝してしまう。星野は、大学院在学中の28歳で結婚した妻の光子氏と愛犬のサリーを養うためもあり、研究者の道を諦め、予備校講師として働くことを選択した(星野[2012:68-69])。  1993年、妻の光子氏が40歳のときに乳がんが発覚して入院、手術で左乳房を全摘出することとなった(退院、肺への転移、再手術を経て44歳で死去)。星野は乳がんに関する情報を書店やインターネットで集め、闘病中の妻に要約して伝えていたが、このとき特に求められたのが「同じ乳がん患者の体験談」つまり闘病記であった。しかし、当時はまだインターネット環境が充実しておらず、接続時間に応じて費用がかかる上、現在のようにキーワード検索をすればがんの闘病記が大量に見つかる状況でもなかった。また新刊書店の医学書フロアを訪ねても医師向けの専門書ばかりで難しく、妻の存命中に参考にできた闘病記は、乳がん患者会の会報に掲載された手記と、ジャーナリスト・千葉敦子[1987]の『乳がんなんかに敗けられない』だけだった(星野[2012:104-105])。  妻の死後、星野は予備校の職を辞し、世の中に乳がんの闘病記がどれほど存在するのか、図書館や書店を回って本格的に調べることにした。当時(1997〜1998年頃)は図書館や書店に「闘病記」という分類がなく、書名や内容で検索できる端末もなかった。他のエッセイと一緒になっている「日本文学・随筆」カテゴリーから探さなければならず、タイトルに病名が入っていないものもあるため、闘病記を探し出すのは難しかったという。新刊書店の棚の回転は早く、たいていの闘病記は「無名の著者」によるもので自費出版も多いため、そもそもの取り扱い数も限られており、よほどの話題作でない限りまもなく絶版になってしまうという事情もあった(古田[2021])。図書新聞 編[1990]『古書店地図帖』を手がかりに古書店でも闘病記を探し回ったが、すでにつぶれてしまっていた店もあり、老舗の古書店にはそもそも闘病記がないなど、成果は芳しくなかった。星野による闘病記の発見・収集が容易になったのは、当時、都市郊外での出店を増やしていた全国古書チェーン店によるところが大きい。そこには古い年代の本も、自費出版本も大量に置いてあり、次代をさかのぼってさまざまな闘病記を見つけることができた。星野は、はじめは東京と埼玉から、その後、千葉、神奈川、栃木、群馬と関東一円まで探索範囲を広げて、毎日各地の古書チェーン店を訪ね闘病記を大量に買い集めた。はじめは乳がんの闘病記のみを集めていたが、途中からあらゆる病気の闘病記を集めることにしたという(星野[2012:113-116])。

3-2. オンライン古書店「パラメディカ」の誕生

星野は妻の死後1年間は仕事をしないと決め、予備校の退職金と妻の保険金を交通費と本代に充てて闘病記収集に取り組んでいたが、お金も少なくなり、買い集めた闘病記も大量となってきた。そこで、埼玉県の浦和市で父が所有していた貸しビルの清掃・帳簿といった管理業務を手伝うことで、テナント料からいくばくかの収入を受け取り、同じビル6階の半分を倉庫、半分を居住スペースとして生活することにした。その後、大量に集めた闘病記コレクションをどうすればよいか悩んでいたところ、大学時代の先輩から「これからはインターネットの時代だよ」とアドバイスを受け、「オンライン古書店」という形態に思い至った。当時1998年はマイクロソフトが「Microsoft Windows 98」を発売し、プロバイダー接続料の値下げ合戦も起こるなど、妻の闘病時と比べてインターネットが盛り上がりを見せていた。1998年10月、星野はそれまで集めた闘病記のリストをインターネット上に公開し、オンライン古書店パラメディカを創設した(星野[2012:120-122])。   パラメディカでの古書販売は、サイト上の闘病記リストを見た患者が注文メールを送り、それを受け取った星野が梱包・発送するという方法だ。2002年までは、午後だけ店舗も開けていたが、以後はオンライン専門店としての運営に切り替えた。パラメディカ開業後も星野は闘病記収集を続け、購入した本すべてに目を通して分類し、内容や特徴、どんな人におすすめかといった紹介コメントを付してリスト化していた。開店して1年ほどの注文は微々たるものだったが、徐々に増えていき、2004年頃までには患者からの注文メールが毎日届くようになり(星野[2004])、ピーク時には1カ月で50〜60冊の注文を受けるほどとなった(星野[2012:16])。

3-3. オンライン古書店から「闘病記のポータルサイト」へ。公立図書館での「闘病記文庫」の実現

星野が運営するパラメディカは、次第に「オンライン古書店」から「闘病記のポータルサイト」へとその役割を拡張していくことになる。はじめは星野も、他のオンライン古書店と同様、売り切れた本は公開リストから削除していたが、データは全て残しておいたほうが良いとの助言を受けて、在庫がない本もリストに残すことにした。パラメディカで品切れだったとしても、書籍リストが残っていれば、患者がそれを見て自分に合いそうな本を図書館などで探すことができるからだ(星野[2012:120-121])。星野自身も、パラメディカが目指すのは「かつて刊行された全ての闘病記を集め、病名別のリストを作ること」(星野[2012:162])であると、ビジョンを言語化するようになった。書籍という形で闘病記が見つからない病気については、インターネット上で患者会やブログを探し、あれば内容を確認してパラメディカ上のリンク集に追加していった。しかし、患者会や闘病記サイトの運営者は患者本人であることが多く、病状の悪化や死去などが理由か、いつのまにか閉ざされているサイトも多かったという。星野も、自分が倒れれば同じようにパラメディカも消滅してしまうと危機感を覚え、「闘病記が揃った公立図書館や、病院の院内図書室があれば良いのに」(星野[2012:163-164])と願うようになった。  2004年、東京都内の大学病院で図書館司書として働いていた石井保志からの誘いを受け、星野は市民に健康情報を届ける「棚(図書館)」の在り方を考える任意団体「健康情報棚プロジェクト」に参加することとなった。石井は、闘病記や患者会の資料は、医学図書館にあるような医学文献・専門書と、公立図書館にあるような家庭医学書や健康雑誌の中間に位置する「隙間の情報」であり、いずれの図書館も熱心に集めることがないことへの問題意識を持っており、パラメディカの取り組みに関心を抱いていた(星野[2012:165-167])。健康情報棚プロジェクトには、図書館の司書、看護学・社会学の研究者など多職種のメンバーが集まっており、星野もその勉強会に参加した。同プロジェクトは、パラメディカのリストを参考に闘病記を集め、公立図書館に寄贈して「闘病記文庫」をつくることを目指して活動し、2005年6月には都立中央図書館に闘病記文庫の第1号が誕生した。公立図書館の蔵書は基本的に「十進分類法」で配列されるため、通常の運用では病名別に闘病記を並べることは考えにくかったが、闘病記文庫を備品の本としてではなくパンフレットとして受けいれてもらう形式を取ることで、病名別に分類した約1000冊の闘病記の一括寄贈・設置に成功した。この取り組みをきっかけに、全国各地の公立図書館でも闘病記文庫の設置が広がり、2012年時点で約140ヵ所と数えられている(星野[2012:168-170])。

3-4. 「パラメティカ」店主・星野の死と、運営の引き継ぎ

妻が乳がんで亡くなったことをきっかけに闘病記を集めパラメディカを立ち上げた星野だったが、自身も2010年7月に大腸がん(ステージ4)が発覚し、「がん闘病者」となった。星野はその後もパラメディカの運営、闘病記の収集を続けながら治療を受け、2度目の抗がん剤治療が終わった2012年に、妻の闘病記と自身の闘病記、そして「パラメディカ」運営の記録を兼ねた書籍『闘病記専門書店の店主が、がんになって考えたこと』(産経新聞出版)を執筆・出版した。2013年の初め、パラメディカのサイト上に「しばらく、休業いたします。」と掲示し、その後は個人のFacebook(フェイスブック)アカウントで近況を投稿するようになった(古田[2021])。星野は2016年4月19日、63歳で死去し(朝日新聞[2016])、自身のFacebook投稿は2016年1月28日が最後(星野[2016])となっているが、2015年10月27日の投稿では、朝日新聞社「アピタル」で隔週連載「闘病記おたくの闘病記」を始めたこと(星野[2015-1])を報告し、2015年12月26日の投稿では、抗がん剤治療を続けながら「杖をついてでもブックオフに行くという、この執念!」(星野[2015-2])と記すなど、身体が動く限りギリギリまで活動を続けていたことが伺える。  星野の死後、「NPO法人わたしのがんnet(代表:横川清司)」がパラメディカの運営を引き継ぐこととなった。わたしのがんnetは、がんとともに生きる当事者と家族が孤立しない社会を目指すNPO法人で、星野も2014年9月の発足時から運営に関わっていた。星野は2014年5月ごろ、フリーランス・ライターの古田雄介によるメールインタビューで蔵書を没後にどうしたいか尋ねられた際は、「本は捨てるか売却するように伝えてあります。図書館への寄贈などはまったく考えておりません。苦労なしに手に入れた資料は大切にされないことを知っていますから。私の役目はほぼ終わりました」(古田[2021])と答えていた。しかし、星野が亡くなる少し前にわたしのがんnet代表の横川が見舞いに行った際にパラメディカを引き継ぐことを提案すると、静かに頷き承諾したという(古田[2021])。横川は、星野が蔵書処分の意向を語っていた一方で、横川からの引き継ぎ提案を承諾した理由について、以下のように述懐している。

個人の蔵書は公設の図書館に寄贈しても1冊1冊でバラバラにされてしまうし、マーカーがついたものは破棄される可能性が高い。そうなるくらいならいっそ処分してほしいということではないかと思います。本心は蔵書をこのままのかたちで残したかったのでは。 (古田[2021])

パラメディカの引き継ぎは、ウェブサイトと蔵書の2方面で行われた。まず「パラメディカ」ウェブサイトの方は、星野の死後もしばらくは、更新なしの休業状態のまま公開されていた。しかし星野が契約していた無料ホームページサービスが終了することを機に、2016年にわたしのがんnetが運営するドメインに移管された。その後数年間は、ドメイン移管対応以上のことは行わず、星野が作成した元のレイアウトのまま載せるだけであったが、2020年から「HOSHINO DB  〜星野史雄さんのライブラリデータベース〜」というページを新設し、星野が残した蔵書リストを、検索のしやすいデータベースへと登録し直す作業が行われている。HOSHINO DBでは星野がパラメディカで集めた蔵書が、タイトル、著者、出版社、発行年、職業・背景・他、星野さんのコメント、カーリル、ISBN、身体部位等の「タグ」付きでリスト化されており、訪問者はサイト上でフィルタリング・ソートできるほか、図書館情報サイト「カーリル」のリンクをクリックして、全国のどの図書館で借りられるかを調べることができる。HOSHINO DBは2022年現在も更新継続中とのことであり、本稿執筆時点で880冊の蔵書がデータ登録されていた(わたしのがんnet[2020])。  紙の蔵書は、星野の死後しばらくは貸倉庫に置いていたが、保管料もかかり、そのままでは人に見てもらうこともできないという問題があった。横川の両親が1967年頃に静岡県の伊豆高原に建てていた別荘が偶然空いたため、そちらに蔵書を移し、2018年4月に私設図書館「闘病記図書館パラメディカ」として公開した。書棚には「乳がん」「胃がん」「難病」「子ども」など、カテゴリーごとの札を貼って星野の蔵書を並べている。訪問客は月に10人ほどで(2019年当時)、 患者や家族だけでなく、地元の医師、ご近所さん、図書館の司書などさまざまな人が訪ねている(中村[2019])。開館は毎月第1・3週の金曜・土曜で、COVID-19感染拡大により2020年3月からしばらくは定期開館を見送っていたが、2022年4月から定期開館を再開している(わたしのがんnet[2020,2022])。私設図書館としての本の貸し出し以外にも、「子どものがん教育やワークショップの際に絵本を持って行く」「がん教育を担当する先生向けの研修会で、先生たちに触れてもらう」「がん専門病院で闘病記展を開く」「わたしのがんnet.の事務所(渋谷区)で開くカフェ(勉強会)で活用する」(中村[2019])といった形で星野の蔵書が活用されている。  星野が集めたパラメディカの蔵書は、公称7000冊だが、整理しきれていないものまで含めると1万冊を超えるという(古田[2021])。星野が闘病記を著した2012年時点では「361種の病名別に2852タイトル」(星野[2012:128])とあり、横川が蔵書を譲り受けたときには「当初聞いていた冊数の2倍の約7000冊に上った」(中村[2019])とあることからも、生前の星野による闘病記収集はまさにライフワークとして、死の直前まで続いていたことが伺える。精神疾患も含めてあらゆる病気の闘病記が集められており、病名は約360、がんが全体の3分の1を占め、乳がんが最も多く、次いで胃がんが多い(中村[2019])。また星野は、注文客とのメールのやり取りを通して死生観についての本も扱うべきと考え、病気ごとのリストとは別に「末期医療・死・別離」というリストも作成していた(星野[2012:210])。

4. 「パラメティカ」の活動の歴史的意義

3. 公開/限定公開

4. 実名/匿名

本章では、パラメディカの活動にどのような特徴があり、日本における闘病記の歴史の中でどのような意義があったのか、また闘病記の著者や読者にどのような価値をもたらしたのかを考察する。  前節までの整理の通り、星野の妻の乳がん闘病からパラメディカ立ち上げまでの1990年代は、闘病記の出版点数は増加していたものの、現在のようにインターネット検索等で闘病記を簡単に見つけられる状況ではなかった。新刊書店や図書館では入手が難しい自費出版書籍も含めて、星野自ら新古書店を巡って闘病記を幅広く収集し、オンラインで書籍リストを公開・販売したことは、当時非常に珍しく先駆的な取り組みであったと言える。またパラメディカは、オンライン古書店として闘病記を直接販売するだけでなく、書籍リストを作成し、デジタル・データベースとして公開していた。星野が作成したデータベースには、書籍名や著者、出版社や発行年といった基本的な情報だけでなく、がんの種類や著者の職業・背景など、ユーザーが自分に合った闘病記と出合いやすくするための多様なメタデータが付与されている。星野が参画した健康情報棚プロジェクトで闘病記文庫を設置する際にもパラメディカの書籍リストが参考にされたように、公開されたデータベースは、図書館や研究者などの二次利用が可能になっている。近年、書籍を含む有形・無形の文化・産業資源をデジタル化により保存し、ユーザーが検索・利活用できるようメディアとして継続的に提供する「デジタルアーカイブ」の重要性が語られているが(岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所 編[2009])、パラメディカはこのデジタルアーカイブの先駆け的存在と言えるだろう。  闘病記の著者と読者の橋渡しという面でもパラメディカの果たした役割は大きい。星野は、闘病記を「呆然とする新米患者が、先輩患者の体験を知る手段」(星野[2012:126])であるとし、「自分と同じ病気で年齢なども近い人の闘病記を3冊ぐらい読めば、どのような治療法があるかもわかり、ある程度病気と向き合う見通しが立つ」(医療福祉生協[2013:6])と考えている。門林[2011]は加えて、同じ病を経験した著者と読者の間で闘病記を通したピアカウンセリングともいえる体験の共有が行われていると指摘している。読者は闘病記を読むことで、自分と同じ、あるいは似たような病気を経験した先輩患者が病気にどのように対処し、どのように生きたかを学び、自分の状況と照らし合わせながら、自分は病気とどう向き合い、どう生きていくかを考えることができるのである(門林[2011:189-194])。  また星野は、闘病記は「患者サイドからの、心の症例報告」(星野[2012:124])であり、自身の人生の回顧、同じ闘病者への助言や医療への提言など様々なメッセージが込められていると分析している。門林[2011]は、闘病記を書く行為には、思考や感情の整理を通したセラピー的効果があることや、闘病記を書くことを通して著者が自分の経験を捉え直し「新たなる自分」を形成することにつながると分析している(門林[2011:242-244])。また、患者遺族が闘病記を書く場合もあり、遺族にとってのグリーフワークとなりうることも指摘している(門林[2011:180-184])。  以上のように、闘病記を書く・読むことには様々な意味があるが、これを可能にするためには実際に闘病記が発見され、読者の手に渡り、読まれることが必要である。しかし前述の通り、闘病記の多くは自費出版であり、知名度も低く流通部数も少ない。星野がパラメディカを立ち上げ、「闘病記」というカテゴリーに特化した書店とデータベースを開いたことで、著者・読者が自力ではなかなか届けられなかった・見つけられなかった書籍との出合いが増えたであろうことは間違いないだろう。また星野は、単に書籍を集めるだけでなく、書籍を評価・選定し読者に紹介する「キュレーター」としての役割も担っていた。闘病記の中には「営利主義の似非(えせ)療法を推奨する怪しい本もあり、見つけるたびに除外」(古田[2021])して質の担保を試みていたこと、パラメディカで闘病記を注文する人とは「電話や手紙、ネットで相手とコミュニケーションを取りながら、本を勧め」(中村[2019])ていたことなどが、星野や清川への取材記事で明らかになっている。またパラメディカの利用者向けに以下のような助言も残している。

『闘病記』を読む7カ条〜星野店主からの提言〜 一、患者さんが100人いれば、100通りの闘病生活がある。 二、治療法は日々進歩しているので、闘病記中の特定の治療法にあまり目を奪われないように。 三、闘病記が書かれた時期や、住んでいる地域の特殊性に注意すること。 四、同じ病気の闘病記をできるだけ何冊か読み比べるとよい。 五、筆者が有名人か否かにこだわらないこと。 六、主治医になったつもりで、客観的に読んでみる必要も。 七、宗教、健康食品がらみのPR本には要注意。 (わたしのがんnet[2016] 「星野史雄 パラメディカ」)

星野は妻の死後、「何かに突き動かされるようにして」(星野[2012:122])闘病記を集め始めたという。しかし以下に横川が述懐する通り、パラメディカは星野自身のグリーフワークとしてだけでなく、星野が元来もっていた分類欲や探究心が発揮されたライフワークでもあったに違いない。 「蔵書を読んでいるとグリーフワークだけでやっていた感じを受けないんですよ。分類欲や探究心をくすぐられたりして、すごく生き生きとして向き合っているのが伝わってくるんです。面白くてしょうがなかったんじゃないかなあって思います」(古田[2021])

5. 「パラメディカ」の事例から、「語り」のアーカイビング活動の運営課題を考察する

最後に、パラメディカの開設から星野の死、わたしのがんnetへの運営引き継ぎまで一連の経緯から、パラメディカを含む「語り」のアーカイビング活動の運営課題を考察する。  第一に、大量の蔵書を管理するための物理的なスペースや費用をどう確保するかという課題がある。公称7000冊、未分類のものを含むと1万冊に及ぶパラメディカの蔵書を、わたしのがんnetが引き継ぎ保管しているが、横川の実家別荘に偶然空きができるまでは有料の貸し倉庫を使用しており、保管するだけで費用がかかり続けていた。星野の死後も毎年新たな闘病記が出版され続けるなか、今後も蔵書を追加・更新していくのかどうかという問題もある。  第二に、オンライン上のデータベースを維持・更新し続けられるかという課題がある。ホームページ作成サービスやブログ・プラットフォームが閉鎖される、管理者の病状や経済状況の悪化、死去などによって契約更新が不可能になるといった要因で、オンライン上のデータベースが引き継ぎ・保管されないままに消失してしまうリスクは常にある。パラメディカに関しては生前の星野と横川の合意によりわたしのがんnetへの移管に成功したが、星野[2012]や門林[2011]が事例や資料として書籍で紹介していた「闘病記ライブラリー」「健康情報棚プロジェクト」「闘病記出版点数」といったサイトは、本稿執筆時点でアクセス不能になっていることが確認されている★01。ウェブサイト公開終了の経緯は不明であるが、上記3サイト以外にもさまざまな理由で公開・更新終了となったデジタルアーカイブは他にも存在すると推測される。閉鎖されたデジタルアーカイブがどの程度あり、どのような原因で閉鎖に至ったのか、今後さらなる調査が必要であろう。  第三に、多様な闘病記を病気の種類や内容に応じて分類し、著者のメッセージや読者のニーズに合わせて選定・紹介するといった、キュレーション活動のための知識や技術、人員をどのように集め、育て、引き継いでいくかという課題がある。横川も、パラメディカを引き継ぐ際に古書店ではなく図書館とした理由として、「星野さんがすごいのは、電話や手紙、ネットで相手とコミュニケーションを取りながら、本を勧めること。それはできない」(中村[2019])と述べている。集めた本を全て読み込み、評価・選定し、分類し、コメントを付し、パラメディカに問い合わせてきた一人ひとりに合わせて個別に本を紹介するといった星野のような「職人芸」の継承は容易ではないことが伺える。また第2節で述べた通り、現在は紙の書籍以外の多様なネット闘病記が生まれており、検索エンジンだけでなくソーシャル・メディアや会員制コミュニティサービスなど、コンテンツの発信・受信経路も多様化しているなか、これらをどのようにアーカイブしていくか、そのためにどのような技術や仕組みが必要となるかもあわせて考える必要がある。  そして第四に、上記3つの課題への対応を含む、アーカイビング活動全体を支えるためのファイナンスや組織運営をどのように行うかという課題がある。星野は、予備校の退職金と妻の生命保険金を元手にパラメディカを設立し、その後もパラメディカ自体を事業として収益化はしておらず、生活費と闘病記収集の資金は、父から受け継いだ雑居ビルの賃貸料と、予備校退職後に得た女子大の非常勤講師の仕事でまかなっていた。わたしのがんnetでは、私設図書館内のカフェ運営や、外部での研修・ワークショップを行っているものの、図書館としてのパラメディカ利用自体は無料である。これは横川の実家別荘が偶然利用可能であったことで、地代・家賃がかからないで済むことも大きいと思われるが、全ての団体が、星野やわたしのがんnetのように非営利でアーカイビング活動を続けられる環境を持てるとは限らない。どんなテーマを扱い、「語り」をどの程度、どのように収集し、どんな人にどうやって届けるかなど、活動の目的に応じて、求められる資金や人材等の運営リソースは異なるが、なんらかの形で持続可能性を担保する必要があることは間違いない。これらの課題は、パラメディカを含む多様なアーカイビング活動を、その運営や資金面に着目して調査・分析することで明らかになるだろう。