1 背景
厚生労働省が調査・公表している2019年版の医療施設動態調査によると日本の病院の病床割合は、国公立が26%、私立が74%であった。しかしながら、1945年は医療施設調査によると国公立が61%、私立が39%であり、年代によって割合が異なっていることが分かる。このように異なる理由は、直接的には、年代によって医療に関する法律や政策が異なるためであるが、その法律や医療政策を形作ってきたその時代の人々の意識や社会情勢、歴史などの違いが根底にある。科学が発展し、政治や経済などの情勢が変わるなかで様々な社会問題が取り挙げられるようになり、医療提供は誰が担うべきなのか、国はどのように医療に関わるべきなのか等について議論されてきた。次第に医療提供に関わる各種の法律が整備され、それらに基づいて国や民間組織によって病院が設立され医療は提供されてきた。よって、2019年の日本において国公立病床が約3割、私立が約7割である状況は、今までの日本の時代によって異なる社会背景などが根底にあり、人々が医療に関して検討するなかで病床が設置されてきた結果であるとも考えられる。1948年に医療法が成立して以降、何度も医療について様々な委員会や国会などにおいて議論され、医療に関する基本的な事項を定めた医療法が改正されてきた。2014年には、将来の今以上に進むであろう超高齢社会に対応した医療提供体制を構築するため「医療介護総合確保推進法」が成立し、全国の病床再編が目指されることになった。それを受けて、2019年に厚生労働省から再編統合について特に議論が必要な公立・公的424病院が公表され、公立・公的な病院が担うべき役割や必要な病床数が論点の一つとなった。今までに厚生労働省は国が担うべき医療として政策医療を示しているが、再編統合の病院が公表されて以降、公立も含めた、国公立病院が担うべき役割について、ますます議論されようとしている。2021年7月には、厚生労働省の「地域医療構想及び医師確保計画に関するワーキンググループ」の会議が開催され、新型コロナウイルスの感染拡大に配慮しながら、将来の日本社会を見据えた病床再編成について検討が進められており、今後の日本における公私の病床のあり方が議論されようとしている。
2 本稿の目的
本稿の目的は、戦後から高度経済成長が終焉を迎える1970年代までを対象として、国公立病院が持つ病床数の推移から、国公立病床が担ってきた役割の変遷を明らかにすることである。病床は私立病院でも設置することができるが、今まで国は国公立病院を設立し、病床数を増加させてきた。そこには、私立病床に委ねることはできない、国公立の病床が望ましいと国が判断した理由と背景があるはずであり、すなわち国公立病床に国は何らかの役割を期待して設置してきたと言えるだろう。本稿では、政府発言や各種文献などから、国が国公立病床にどのような役割を期待したのか、また実際にその期待が病床数の増減として現れ、国公立病床がどのような役割を担ったと考えられるのか示す。また、本稿では戦後から1970年代までを対象とする。戦後から現在までの医療提供体制の歴史は、平成19年版厚生労働白書において、おおむね3期間に分けられており、1期:医療基盤の整備と量的拡充の時代(おおむね1945年から1985年まで)、Ⅱ期:病床規制を中心とする医療提供体制の見直しの時代(おおむね1985年から1994年まで)、Ⅲ期:医療施設の機能分化と患者の視点に立った医療提供体制の整備の時代(おおむね1992年以降)とされているが、本稿では1期のうち1945年から1979年までを1つの期間と捉える(厚生労働省2008:4)。
戦後から高度経済成長が終焉を迎える1970年代までは、日本の急激な経済成長を背景に、国は方向性としては積極的に医療提供体制および病床数の拡充を図ってきた。1949年に社会保障制度審議会が報告した「社会保障制度の確立のための覚書」では、「医療組織については総合的規格のもとに公的医療施設の整備拡充をはかる」とされ、1951年には公的医療機関に対して国庫補助も始められた。政策面においては、1961年に国民皆保険により誰もが受診や入院しやすい環境が作られ、1973年には老人医療費の無料化が行われた。このような病床の整備と医療政策の拡充は、1973年の第一次オイルショック、1979年の第二次オイルショックによる不況の到来により、これを境に見直しが検討されるようになる。そこで、本稿では戦後の1945年から第二次オイルショックが起きた1979年までを1期間と捉え、戦後から1970年代までを対象とする。
本稿では、背景で述べたように、現在、議論が始められた国公立病床の役割について検討するが、病床再編の議論では、将来に焦点が当てられるあまり、どのような経緯を経て、なぜ現在のような病床構成に至っているのかについての議論は不十分のままとなっていると考える。将来を論じるためには、過去の事例や今までの経過がどうであったのかについて理解することが不可欠であり、それを為すことで、ようやく現在の位置付けを把握し、将来を論じることが可能となる。そうでなければ、過去の繰り返しや同様の失敗に至ることがある。しかし、現在の議論では、「医療計画において定める将来の病床数の必要量を達成する」(医療法第30条の14)ために、公立・公的医療機関等については、「将来に向けた担うべき役割や病床数の具体的対応方針を策定」(公立・公的医療機関等の具体的対応方針の再検証等について、医政発0117第4号2020年1月17日)することに焦点が当てられ、医療計画の策定が始められた1980年代以降が議論の対象となりやすい。そのため、戦後から1970年代までの経過が見落とされていると考える。よって、本稿では見落とされてきた戦後から1970年頃までを対象として、国公立病床が担ってきた役割を明らかにすることで、今後の病床再編の議論に資すことができると考える。
また、本稿を通して、国公立病床に対する基本的な考え方を振り返ることができる。戦後復興を経て、高度経済成長期の1961年に国民皆保険・皆年金が成立し、日本の現在につながる基本的な社会保障制度が構築された。医療提供体制においても、この間、順調な日本経済を背景に私立病床は増加しており、そのままの流れで殆どの病床を私立に委ねるという選択もあったが、現在に至るまで国公立病床は全病床の3割程度を維持しつづけている。つまり、この時に日本の病床はそのまま私立中心を加速させるのではなく、国公立病床も維持しようとする選択がなされたとも考えられる。そこには、国公立病床には私立とは異なる何かの役割を期待したからこそ、現在に至るまで国公立病床が維持されているのではないだろうか。よって、本稿を通して、国公立病床の役割の変遷を明らかにすることで、現在に繋がる国公立病床に対する基本的な考え方を振り返ることができると考える。
3 研究方法
1)使用する文献等
本稿では、病床数などのデータ収集のために、1945年から1953年までの数値については1955年に厚生省が発刊した『医制八十年史』(厚生省医務局1955)を用いる。本誌には総病床数や種別ごとの病床数が掲載されているが、1947年・1948年の2年間においては、総病床数等は掲載されているものの、国立・私立別の病床数はデータなしとして記載されているため、本稿においても図1・2の1947年・1948年の国立・私立別の病床数についてはデータなしとなっている。また、同じく総病床数は掲載されているものの1946年の結核病床数および1950年の感染症病床数はデータなしとして記載されているため、病床別の推移を示した図4は全種別のデータが分かる1951年以降をもとに作成した。1954年から1979年の病床数などのデータ収集には、厚生省が1951年版から現在まで毎年発刊している医療施設調査(1973年からは、医療施設動態調査・静態調査に変更)を用いる。本調査では、全国の病院や診療所の病床数などが収集され、公表されている。医療施設調査は年によって集計されている項目が異なる場合があり、本稿に用いた国立・私立別開設者のなかの法人の種類まで分かるデータや、同じく国立・私立別の病床の種別については1954年版から集計されているため、これらのデータを用いて作成した図3および、図5から図7は1954年以降のデータをもとに作成した。
2)国立・私立病床などについて
本稿で国立とは、厚生労働省・文部科学省・労働福祉事業団・三公社などを開設者として指し、公立とは都道府県および市町村を開設者として指す。よって、国公立とは、これらを含めた国立および公立を指し、国公立病床とは国立・公立病院によって設けられた病床、私立病床とは国公立以外の法人である、社会保険関係団体・会社・個人などによって設けられた病床を指す。また、本論文における国会の発言や答申などの引用に出てくる公的医療機関とは、発言者や答申・報告書などの文脈によって、医療法上の公的医療機関(医療法第31条に定められている都道府県、市町村、地方公共団体の組合、国民健康保険団体連合会、国民健康保険組合、日本赤十字社、社会福祉法人恩賜財団済生会などによって設立された病院であり国立は含まれない)を指す場合と、これらだけでなく国立病院も含めて指す場合がある。
3)本論の流れ
本論の流れとしては、次節の「4 現在までの研究」において、まずは関連する先行研究を確認する。次に、「5 戦後から1970年代における病床推移の概要」において、本稿が対象とする1945年から1979年までにおける病床推移の概要を示す。その後、6からは年代ごとに検討し、6では1940年代、7では1950年代、8では1960年代、9では1970年代における国公立病床数の推移と役割の変容について示す。それにより、1940年代は国公立が病床提供の主体であり、結核患者に病床を提供する役割を担っていたが、結核患者の減少や国公立病床の規制が始まることで、他の役割も模索するようになったことを述べる。そして、病床数を減らしながらも、常に結核病床と感染症病床においては病床提供を担いながら、新たな役割として求められるようになった長期療養が必要となる特殊疾病患者に対する病床提供の役割も担うようになった変化について明らかにする。4 現在までの研究
現在までの病床数に関する研究は、古いものとしては小林の「所要病床数の推計方法」、近年のものとしては、松田の「医療の可視化と病院経営(第9回)DPCおよびNDBデータを用いた病床機能別病床数の推計方法」、井出の「入院受療率のトレンドとアクセス性を考慮した必要病床数の推計」がある(小林1961;松田2015;井出2015)。これらは、病床数データを元にした将来推計の研究であり、本稿では、これらの研究では中心には置かれなかった戦後から1970年代までの病床数に焦点を当てる。また、医療供給体制に関する研究としては、河野の「占領期の医療制度改革の展開に関する一考察――医療供給体制の整備を中心に」があるが、占領期が中心となっており、本稿では占領期も含めて1970年代までを対象とする(河野1990)。
公的な病院の役割や病床に関する研究については、井上の「(2) 国立病院・療養所の役割」、山本の「公立病院の経営効率性は改善しているのか?:未利用病床数に対する裁量の限定を考慮したDEAによる検証」などがある(井上2002;山本2020)。前者については、今後、担うべき役割について検討し、後者については経営の視点から論じており、本稿が主題とする国公立病床が今まで担ってきた役割の変容については検討がなされていない。よって、本稿では今までの研究が対象としてこなかった期間や国公立・私立別、病床別を対象とすることで、戦後から1970年代における国公立病床の役割の変遷を明らかにする。
5 戦後から1970年代における病床推移の概要
本節では、次節以降で年代ごとに検討するために、まずは本稿が対象とする1945年から1979年における病床の推移を示す。国公立・私立病院が持つ病床数の割合を示したものが図1である。終戦直後の1945年は国公立で61%、1946年は64%と過半数を占めていた。1947年・1948年については、総病床数は公表されているものの国公立・私立病院別の病床数は公表されていないため国公立・私立の病床割合は不明である。1949年の国公立病床の割合は、1946年と比較すると16%も占める割合が下がり48%になっており、50%を下回っているが、1950年1951年は微増し、1951年には54%まで国公立病床が占める割合が増えている。このように、1945年から1951年の間は、国公立・私立病床割合の推移は一定ではないが、この間の病床設置などの医療政策は、日本の占領政策を実施した連合国軍機関である連合国最高司令官総司令部(General Headquarters、以下GHQ)の指示のもとにあるため、GHQの方針による影響があると考えられる。終戦後の日本はGHQによる間接統治を受け、それは「連合国軍最高司令官が直接、命令を国民に発出するのではなくて、覚書などの指令を終戦連絡中央事務局などをとおして、日本政府につたえる、日本政府はそれを法律・命令・規則・通牒などの形式になおして都道府県庁に伝える」方式であった(竹前1988:10)。覚書は、連合国最高司令官(SCAP:Supreme Commander for the Allied Powers)からの指示であり、SCAP Index Numberとして番号が付され、SCAPIN-775のように日本政府に発令された。よって、日本の医療に関するGHQからの指示もSCAPINにより発令されている。このようなGHQの間接統治による占領は1952年に終わるが、その後、国公立病床が占める割合は徐々に減少し、1979年には30%まで減少していた。以上から、国公立病床の割合の傾向は1951年までは一定していないが、その後は、毎年度、1〜3%程度の割合で徐々に減少していた。また、割合ではなく実際の病床数を見たものが図2である。国公立の病床数は1945年から1960年頃までは、毎年、約20,000床が増えているが、1960年頃からは毎年、約5,000床ほどの緩やかな増加数に留まっている。一方、私立による病床数は国公立以上に急激に増加しており、1954年に国公立より病床数が多くなってからは、それ以後も毎年、約20,000床が継続的に増加している。したがって、図1に示した国公立が占める割合が減った原因は、私立病院の病床数が国公立以上に増えたためであると言えるだろう。では、私立病院の開設者には、どのような者が含まれていたのか見るために、私立として1つに合計していた開設者のうち、上位2者(医療法人・個人)とその他の3者に集計しなおしたものが図3である。医療施設調査において国立と私立だけでなく、私立病院の法人別による病床数まで分かるように集計されているのは1954年からであるため、図3は1954年から1979年までの推移となる。1954年に最も病床数が多かったのは公的医療機関(都道府県、市町村、地方公共団体の組合等)であり、次に国立、その他(社会保険関係団体、学校法人、会社等)、個人、医療法人の順であった。1954年以降、全ての開設者が病床数を増加させているが、図3が示す通り、医療法人が飛びぬけて継続的に増加している。そのため別に後述するが、私立の病床数が増加した要因は医療法人にあり、私立の中でも医療法人が増床しやすい背景があったと考えられる。
以上のことから、国公立と私立病床の数と占める割合は年によって変化していることが確認できた。GHQの占領期間であった1952年頃まではGHQによる影響が考えられ、1953年以降は国公立の病床割合は継続的に減少し、私立病床のなかでも医療法人による病床が増加していることから、医療法人が増床する要因があったと考えられる。このような病床数と割合の変化は、何が影響し、国公立病床の役割はこの変化の中でどのように変わったのかについては、以降で検討する。
1946年・1947年はデータなし
1953年までは「医制八十年」、1954年以降は医療施設調査から作成 1946年・1947年はデータなし
1953年までは「医制八十年」、1954年以降は医療施設調査から作成 医療施設調査において開設者別に集計されている年が1954年からとなるため開始年は1954年となっている。
公的医療機関には、都道府県、市町村、地方公共団体の組合などが含まれる。
その他には、社会保険関係団体、学校法人、会社などが含まれる
6 戦後の1940年代における病床
1)本節の流れ
本節では、1945年から1949年における国公立病床を取り巻く状況について述べる。GHQから傷痍軍人施設などが返還され、厚生省へ移管されることにより国公立病床は急増し、主要な医療提供者の役割を担った経緯を明らかにする。2)傷痍軍人施設などの移管
『医制八十年史』における1945年の病院数を見ると、国公立病院が占める割合は46%となっているが、国公立は大規模病院が多く、病床数で見るならば図1に示した通り総病床数の61%が国公立病院の病床であった。よって、1947年・1948年を除いて、1953年までは国公立が総病床数の過半数を占めており、主な病床提供主体であったと言える。1979年には占める割合が30%まで減少した国公立の病床数が、どのような理由で、1953年頃までは主な病床提供主体として成り得たのだろうか。それには、1945年から1952年までの占領期におけるGHQの方針を背景とした、医療体制の整備の影響があると考えられる。日本政府は戦後、GHQより発せられたSCAPINによる指示を受けたり、GHQとの交渉などを通して様々な行政を行っていくが、医療については1945年9月22日のGHQ覚書「公衆衛生対策に関する件(SCAPIN48)」から戦後の医療整備が始められた。覚書では、「軍以外の病院、結核療養所及び診療所をできる限り早急に再開し、または継続すべし。病院施設不足ならば応急病院として利用し得べき学校その他の建築物を調査すべし」と示されたことで、一般病院や診療所の再開が始まった(社会保障研究所1968:2)。
国立の傷痍軍人向け医療施設であった軍事保護院については、1945年11月13日のGHQ覚書「軍事保護院」により「日本政府は、軍事保護院のあらゆる病院、療養所、患者収容所そのほか病院施設の監督権を厚生省の一般市民の医療に責任を負う期間に移管すること、およびこれらの諸施設において行う入院医療は、退役軍人およびその家族に限定しないこと」として、軍事保護院は厚生省へと移管が指示された(厚生省医務局1955:5-6)。その後、同じく国立の軍事病院である陸海軍病院に関するGHQ覚書も出され、「日本政府は、内務省が日本陸海軍の全病院、療養所、および他の療養施設の監督権を占領軍司令官より受領した際には、直ちに一般市民の医療に責任を有する厚生省に移管すること、およびこれらの諸施設において行う入院医療は、傷痍軍人及びその家族に限定しないこと」とされ、軍事保護院だけでなく、陸海軍病院も同じく厚生省の管轄となることが示された(厚生省医務局1955:5)。このような経緯でGHQから厚生省へ軍事保護院および陸海軍病院が返還されることで、厚生省が管轄する国立の医療施設であっても、軍とは引き離され、これまで軍関係者用であった軍事病院が、関係者だけでなく一般市民も対象とした国立病院へと変わったのである。
このような軍事病院だけでなく、日本全土の医療体制構築を目指していた日本医療団の病床も厚生省へ移管されており、これも戦後の国公立病院数の増加に寄与している。日本医療団は、戦時中である1942年に政府から5年間で1億円の出資を受けて創設された組織であり、「国民体力の向上に関する国策に即応し医療の普及を図るを以て目的とす」(国民医療法第29条)とされた組織である。日本医療団では、全国における既存の公立病院や民間病院などを譲り受けたり借り受けたりすることで全国的な管理体制を構築し、保健医療の体系化が構想された。しかしながら、終戦後、GHQからの日本医療団の取り扱いについての回答に基づき審議された結果、一般病床を都道府県へ、その他の結核病床・ハンセン病床等は厚生省へと移管が決められ、1947年には閣議において日本医療団の解散が決定された。それにより、全国に設立されていた軍事保護院、陸海軍病院は厚生省へ、日本医療団のもつ一般病床の多くは都道府県へ、その他は厚生省へ移管され、国立(厚生省)と公立(都道府県)の病床数が急増する状況となった。
3)医療法制定まで
1946年2月には、GHQ覚書「社会救済(SCAPIN775)」により、日本政府は都道府県や地方政府機関を通し、困窮者に対して平等に差別なく食料や医療を提供する全国的政府機関を設立すること、そして私的または準政府機関に委任しないことが明記され、医療提供における国の責任が示された。これにより、国の責任の下、国公立病院が担うべき役割として、困窮者を含めた日本国民に対して平等な医療の提供が示されたが、では、どのように実際に医療を提供するのかについては、日本政府に検討が迫られた。ちょうどその頃、日本における社会政策研究の中心的人物の一人であった大河内一男らは、社会保障制度について研究するため研究者たちと社会保障研究会をつくり社会保障案をまとめた。本案では、「医療は国営を究極の目的とし、それに到達するまでは社会保険運営の医療施設を全国的に設置する。」、「医療は国営を原則」として、医療は国営を中心とすることが提案された(社会保障研究所1968:159)。そして、日本政府は社会保障制度について検討するため、1946年3月に「社会保険制度調査会」を設置したが、そのうちの小委員会では、大河内らの社会保障案を下敷きとして「現行保険制度の改善方策」を答申として取りまとめた。本答申では医療制度について「公的医療機関はこれを拡充整備すること」として、ここでも医療については公的な機関が中心的に関わっていくことが提案されている(社会保障研究所1968:163)。その後、1947年2月には医療制度審議会が設置され、厚生大臣からの諮問を受けて翌年に「医療機関の整備改善に関する答申」を公表したが、社会保険制度調査会の報告を引き継いで、公的医療機関を中心とした医療の拡充整備の必要性を説いた。私的医療機関については、「公的医療機関の及ばない場合並びにこれを必要としない対象に対する医療機関として存置すること」として、公的医療機関の補助役として位置付けられた(社会保障研究所1968:532)。
以上のように、日本政府はGHQからの指示に基づき日本における医療に関して、社会保険制度調査会や医療制度審議会などにおいて検討を行い、医療は国公立を中心とする方向性を示した。一方のGHQ側の動きとしては、アメリカ政府に日本の社会保障に関して調査を要請し、1947年8月にワンデルを団長としたアメリカ社会保障制度調査団が来日した。翌1948年に勧告をまとめてGHQに提出しており、そこでは、「病院の公的奉仕の性格を認識せしめる事」、「単一の総合的計画により全国的病院組織を確立すること」、「病院の設立費用は、公金により、主として国庫負担となす事」、「病院の経常費の大部分は、公金によりまかなはるべき事」とされ、医療は公的なものであり、公金により設立および運営されることが勧告された(社会保障研究所1968:24-97)。
このように社会保険制度調査会や医療制度審議会の答申、ワンデル勧告において、日本の医療提供について、国公立中心の方向性が示された。これらの方向性を実行するため医療に関する法律の検討が求められ、1948年3月には日本政府によって医薬制度調査会に「国民医療法改正の具体的方針如何」が諮問された。同調査会は医療法案等を答申し、厚生省は答申を基に医療法案を作成した。医療法案はGHQにより一部修正され、1948年7月に医療法は成立し、病院は20床以上、診療所は患者を48時間以上は収容できないこと、必要があれば国は設置費用の一部を補助することなどが定められた。また、先の医療制度審議会の答申を取り入れて、医療提供は公的医療機関を中心とした想定がなされ、公的医療機関は、「都道府県、市町村、その他厚生大臣のさだめる者の解説する病院または診療所をいう(第31条)」として定められた。
以上のように審議会の答申や勧告などを取り入れながら、国公立病院に主な医療提供者としての役割を担わせた医療法が1948年7月に成立した。このような流れであったため、図1〜3において示されたように、戦後初期である1940年代は、GHQによる医療機関の接収や日本政府への返還などがあり、国公立病床の割合の推移は一定ではなく年によって異なる結果に繋がったと考えられる。そして、公的機関による医療提供がGHQの方針として示されたため、日本政府による国公立病床の整備が行われ、国公立病床の割合が高くなったと言えるだろう。
4)国公立病床の増床鈍化
前述したように、医療提供者として、国公立を中心とした整備が目指されたたが、1950年頃に国公立病床の増床数が鈍化し始める。その最初のきざはしは、まだ国公立病床が過半数を占めていた1948年に見られた。1948年8月にマッカーサーの要請により、アメリカ医師会調査団が来日した。GHQで日本の医療関係を統括していたC.F.サムス(公衆衛生福祉局長)によると、その理由は以下の通りであった。
「1947年社会保障制度調査団が合衆国の連邦社会保障総局から招かれて来日し、調査と勧告を行なった。その諮問委員会が滞在中、アメリカの国会議員が連邦政府社会保障総局のいく人かと、GHQ公衆衛生福祉局が結託して、日本で強制国民健康保険制度を使って国家医療をしようという黒い陰謀があると中傷した。これは全く事実に反することであったが、アメリカ本国では、公の議論を巻き起こした。ある者はわれわれを支持し、ある者は批判した。そこでわれわれは、アメリカ医師会の代表から成る使節団の来日と事実調査および勧告を要請した」上記の回想でサムスは、アメリカでは医療は私立が中心となっているがワンデル勧告では医療は国公立主体とすることを唱えており、国家医療を日本で実施することはアメリカの私立中心と異なるため、これは黒い陰謀であるとして中傷されたと述べている。そのため、アメリカ医師会調査団が来日し、ワンデル勧告に関わる事実の調査と新たなる報告が行われた。アメリカ医師会調査団による報告は、「日本側関係公私団体の公衆衛生並びに福祉計画、特に社会保険の医療分野を検討し、変更を企画するにあたっての助言と、参考の書」(社会保障研究所1968:98)とされ、ワンデル勧告とは異なる方向性が示された。ワンデル勧告では国公立中心の医療が勧告されているが、アメリカ医師会調査団の報告書では、それは権威の集中であり、社会主義的計画であるとして非難された。そして、「然しながら、我が国に於けるアメリカ病院協会の如き任意団体が病院計画を拡充、改良する重要な要素となるべきことはあり得る事である」(社会保障研究所1968:104)として、任意団体等による病院計画が重要な要素となるとして指摘されたのである。
(C.F.サムス1986:355)
また、ワンデル勧告に基づき、1949年に社会保障制度審議会が設置されたが、審議会においても徐々に、国公立病院を中心とした医療から私立病院へと流れていく。1949年11月の総会において「社会保障制度の確立のための覚書」が可決され、そこでは「医療組織については総合的規格のもとに公的医療施設の整備拡充を図るとともに、開業医の協力しえる体制を整え、また公衆衛生活動の強化拡充をはか必要がある」とされ、国公立病床の整備拡充は変わらないものの、私立病床を提供する開業医との協力体制を整える方向性が示された(社会保障研究所1968:171)。
5)国公立病院の特別会計化
前述してきたように、1946年に社会保障の中心人物の一人であった大河内一男らが提案した医療は国営の路線は日本政府の方針となり、GHQのワンデル報告においても国公立中心の方向性が示された。しかし、サムスが回想で述べたように、私立病院が中心であったアメリカ本国では、国公立中心を示したワンデル報告は糾弾され、新たにアメリカ医師会調査団が派遣された。アメリカ医師会調査団は報告書においてワンデル報告とは異なる意見である、私立の任意団体による医療提供組織を整備する方向性を示した。それは、助言と参考の書としての報告書であったが、日本政府はアメリカ医師会調査団の報告書を受けて、国公立病床整備の促進に、変化が見られ始めた。その最初の端緒となるのが、1949年の国立病院の特別会計化である。一般会計を特別会計にすることで、一般会計とは別に特定の収入と特定の支出として資金の流れを明確化できるが、国立病院の特別会計化では、今までより患者の医療費が高額になることが懸念された。厚生技官(医務局長)東龍太郎および、厚生事務官(医務局次長)の久下勝次は、特別会計化に関して、以下のように述べている。「先ほどから繰返して申し上げております通り、特別会計になったから、今までの國立病院の性格をかえるようなことは絶対にございません。と申しますのは國立病院は一般の國民に対して平等に医療を行う機関である。この國立病院の本質が、國としてそれを守っておる限りさようなことは絶対にないことを私から申し上げます。」(第5回国会衆議院厚生委員会第8号1949年4月13日東龍太郎発言)東は国立病院は一般の国民に対して平等に医療を提供する役割を担っており、それは今後も変わらないことを述べた。久下は、特別会計化することで基本的に有料として診療費を徴収する方向を推し進めること、人事面でも効率化を行うことを利点として述べている。国立病院の役割として平等な医療の提供が述べられたが、今まで基本的に無料または減免による軽費であったために経済的事情によらず受診や入院が可能となっていたものが、基本は有料とし、減免による軽費の措置を講じる体制への変化が行われたのである。戦後、医療は国が提供するものとして国公立病床の整備拡充が行われ、経済的事情によらず誰もが入院できる病床が基本であったが、病床数が増え入院できる患者は増えたものの基本は有料へと変わったのであった。
「結局國立病院の経営はやはり当然医療費のとれる人からは医療費をいただいて医療を行って行くというのが建前であります以上、そういう面における能率の増進ということが、特別会計をやることによって相当期待せられるということは大なる利点であると思うのであります。そういたしますことは、同時に病院の歳出の面におきましてもむだを省いて行き、あるいは職員の勤務につきましても適材を適所に配置いたしますとかいうようなことが、当然特別会計の実施によって期待をせられますので、それらの点から病院全般が能率的になって行くということは、國立病院の運営上特別会計制をとる利点であると考えるのであります。」(第5回国会衆議院厚生委員会第8号1949年4月13日久下勝次発言)
7 1950年代:国公立病床の減少
1)本節の流れ
本節では、1950年代における国公立病床の推移と求められた役割について検討する。1950年代に入り、国公立病床の割合は減少し、代わりに私立病床が増加していく。特に、国の方針により、医療法人が顕著に増床し、今までは医療は国公立が主体として提供する役割を担っていたが、私立の中でも医療法人に医療提供の役割が期待されるようになる変化を述べる。そして、国公立には、結核患者が減るなか結核病床は維持しつつも僻地への病床設置の役割が新たに期待されるようになった経緯を検討する。2)国公立病床の割合の減少と私立病床の増加
前述してきたように、国立病院は特別会計化され診療費は有料が基本となるなか、1950年頃から私立病院に対する整備も始められた。1950年の社会保障制度に関する勧告では、「公的医療機関や私的医療機関は本制度に協力し、これに従事するものの生活安定をはかる必要がある。国は以上の施設の推進と拡充のために大幅の補助をなすとともにその責任をもたねばならぬ。ただし、施設の設置や運営については地方公共団体が中心となることが望ましい」とされたが、「以上のような立場から、私的医療機関の普及とあわせて医療機関の整備はつぎのようになされなければならない」として、初めて私立病院の普及が明記された。また、「医療機関は公私を問わず、本制度に協力参加すること」も記載され、公私を問わないとすることで、今までの公的医療機関が中心であった病床提供が、徐々に私立病床の設置へと舵が切られたことが窺える(社会保障研究所1968:196-197)。私立病床の増床へと向けた動きは、図1〜3においても見ることができる。図1~3において、1951年以降、国公立病床が占める割合が減少し、私立病床の増加、特に医療法人による病床が増加していることを示した。この要因としては、1950年に施行された医療法人制度がある。厚生事務官の久下勝次(医務局次長)は、以下のように、医療法改正の文脈において、財政上の理由から公的医療機関の整備が十分には行われておらず、医療機関整備のひとつとして医療法人制度の創設の必要性について述べている。
「ことに医療法におきましては、御承知の通り公的医療機関の開設に対して、国庫補助を與え得る規定もございますが、先般御審議をいただきました予算にも現われております通り、私どもの希望にかかわりませず、財政上の理由から、この方も十分に実現を見ていないというふうなことであります。これらの問題が未解決のままに、この法案が改正になったからといつて、ただちに医療機関が整備できるというふうには考えておらないのでありますが、少くとも医療機関整備に関する一つの隘路を打開するということにはなり得ると考えておりますとともに、お話のありましたような点、その他医療機関整備の障害となっておりまするような各般の事態につきましては、私どもとしては、今後全力を盡しまして、その改正に努めたいと思っている次第であります。」(第7回国会衆議院厚生委員会第25号1950年4月10日)上記に示したように、1950年の厚生委員会における医療法改正の文脈において、財政上の理由から医療法人という私立病床を設置できる新たな私立法人について言及されており、その後、医療法の改正により医療法人制度は成立した。また、医療法人について1950年8月2日厚生省発医第98号各都道府県知事宛厚生事務次官通知において、「本法制定の趣旨は、私人による病院経営の経済的困難を、医療事業の経営主体に対し、法人格取得の途を拓き、資金集積の方途を容易に講ぜしめること等により、緩和せんとするものであること」と明記されており、私人による病院経営がしやすくなるよう意図されて作られたものが医療法人であったことが分かる。前述したように、1950年の社会保障制度に関する勧告において、私的医療機関の普及と整備の必要性についても述べられ、国による私立病床の整備が示されただけでなく、実際に私立病床が設置しやすい医療法人がつくられた。それにより、私立病床設置の基礎は整えられ、特に医療法人が設置しやすい環境が作られ、1950年代以降において医療法人による増床に繋がったと考えられる。
3)結核病床の推移
1950年代以降の病床別割合の推移を示したものが図4である。1946年は結核病床数がデータなし、1950年は感染症病床がデータなしのため、図4は1951年から作成した。図4には示されていない1945年については、一般病床が67%、感染症病床が18%、精神病床が13%、結核病床が0.5%であった。1945年には、わずか0.5%しか設置されていなかった結核病床は、GHQによる結核患者の隔離や入院の命令により急激に病床数を伸ばし、1955年には全病床の47%が結核病床となった。1955年に全病床の半分が結核病床であった背景には、世界の傾向と同様に日本でも結核が蔓延していたことにあり、1947年から1950年における日本人の死因第一位は結核であった。しかし、結核が死因となる順位は、1951年〜1952年には第2位、1953年には第5位へと変化し、その代わり、1951年からは脳血管疾患が死因1位、2位には悪性新生物が上がってくるようになった。つまり、1950年頃まで日本人の結核による死亡割合は増加するが、その後は減少するという傾向を辿っており、病床はその傾向を5年ほど遅れて後追いする形で、1955年まで結核病床の割合を増加させ、その後、減少するという推移を示した。図5は、結核病床の開設者の推移である。病床別の開設者が集計され始めた年が1954年になるため、1954年から1979年の推移となっている。1954年以前については詳細は分からないが、国立結核療養所の病床が総結核病床に占める割合が、1947年は64%、1948年は66%となり、その後、減少を始め、1949年は54%、1950年は53%、1951年は46%となっていることから()、1950年頃まで結核病床の約半数は国立であったと考えられる。また、図5が示すように公立も含めた国公立の結核病床の割合で見ると、常に50%以上を国公立が占めている。以上から、1940年代は結核総病床の6〜7割が国公立であり、日本人の最も高い死亡原因となる結核の治療と療養を国公立病床が担っていたと言える。その後、1950年に入り、結核が死因となる割合が減少し、図5が示すように1950年代後半から結核病床数は減少し始めるものの、国公立は結核病床においては50%以上の割合を占めていた。したがって、私立などが結核病床を減らすなか、結核については、主な病床提供者の役割を国公立が担い続けたことが分かる。
4)国公立に対する僻地における病床設置への期待
前述したように、1950年代に日本人の主な死因は結核から脳血管疾患や悪性新生物に移り変わり、それに合わせて図4・図5が示したように結核病床が減り、一般病床が増え始めるというように病床構成も変わり始めた。1950年代は病床の面においては、結核から脳血管疾患などの病に対応できる一般病床へと転換する動きが起こり始めたと言える。このような変化を受けて、総合的な病院計画について検討の必要性が唱えられるようになる。1956年に社会保障制度審議会は「医療保障制度に関する勧告」を公表し、医療における機会の不平等について指摘し、以下のように勧告している。「医療法制度の確立に当って、国がもっとも力を注がねばならないのは、私的医療機関をも含めての医療機関網の整備である。ことに無医村解消のための積極策としては、公営診療所などの設置など公的医療機関網の整備が必要となってくる。もちろん、このことは従来しばしばみられたような公的医療機関の濫設を意味するものであってはならない。とくに国民経済力と見合わないようなぜい沢な病院が一地域に多数偏在するごときは厳に戒めなければならないとともに、今後はいやしくも公的資金により開設設置される病院については、それがどの省の所管に属するとしても、医療機関網の計画的整備の見地から、強力に、その地理的配置、規模、設備、機能などについての規制を行うべきである。」(社会保障研究所1968:231)このように勧告では、私立病院も含めた医療機関ネットワークの構築、偏在する病院立地の是正、特に無医村解消のため国公立病院・診療所の整備が必要であるとするが、従来みられたような公的医療機関の濫設であってはならないと公的医療機関の設置については警告している。また、医療機関網の計画的設置のために、公的資金による病院については規制を行わなければならないとして、規制の必要性を記している。
「つぎに、公的医療機関の中枢となるべき国立病院については、従前の軍施設を引きついだものなどが多く、その配置の均衡、立地条件その他についての問題が少なくないから、この際体型的にその整備を断行する必要がある。」(社会保障研究所1968:232)
以上の流れのなか、「医療機関整備計画」(1950年)や「基幹病院整備計画要綱」(1951年)を基に、1959年に厚生省は医療機関整備計画案を公表した。本計画案では、診療所の整備は私的医療機関を中心として整備すること、僻地については公的医療機関の出張診療所を設置することとされた。また私的医療機関の普及を図るため、医療金融公庫を通じて積極的に資金の融通を図ることとされた。すなわち、1950年代においては国公立病院には出張診療所を設置し、僻地医療を実施する役割が期待され、私立病院・診療所は医療金融公庫を通じた積極的な地域医療への貢献が期待されるようになったと考えられる。
1946年は結核病床数がデータなし、1950年は感染症病床がデータなしのため1951年から作成
1953年までは「医制八十年」、1954年以降は医療施設調査から作成 医療施設調査から作成
医療施設調査において開設者別かつ病床別に集計されている年が1954年からとなるため開始年は1954年となっている。その他には医療法人、個人、会社、済生会、厚生連、社会保険関係団体、独立行政法人などが含まれる。
8 1960年代:国公立病床の役割の模索
本節では、1950年代に国公立には僻地への病床設置が求められるようになったが、実際には財政難のため1960年代に入っても設置は進まず、国公立病床の役割を新たに模索する経緯を述べる。その結果、国公立病床が新たな役割を探していた状況と社会的要請の合致により、長期療養を必要とする特殊疾病患者への病床提供を新たな役割として担おうとする経緯を検討する。1961年に国民皆保険が始まり、誰もがどこでも平等に医療を受けられる体制の早急な構築が要求され、医療機関の整備が求められるようになった。今まで述べてきたように、財政難、疾病構造の変化などを受けて、医療提供体制の変革が必要と考えられるようになり、1962年に医療法の一部が改正された。1962年の改正では、都道府県知事が病床過剰地区において国公立病院の新設および増床に許可を与えないことができるという形で規制され、その一方で僻地への病院・診療所の整備について努力義務が課された。今までの勧告などで報告されてきたように、病院の立地が偏在しており、都市部に集中しているとして、国公立病床が都市部において増加することを抑制し、僻地へ分散していくことが狙われた。しかし、財政難から僻地への医療整備は円滑には進まず、医療金融公庫を利用した私立病院の新設と増床の促進が行われ、図2に示したように1960年代に入ってからも継続的な私立病床の増床へと導かれた。また、病床過剰地区における国公立病床の規制が設けられたとはいえ、図2にある通り、国公立病床も緩やかな継続的増床が行われた。
しかしながら、1963年に医療制度調査会によって出された「医療制度全般についての改善の基本方針に関する答申」では、国公立病床の規制が、以下のように早くも否定されると共に、国立病院は「特色のある運営」を行なって「採算のとり難い高度の設備を必要とする施設」であり、病床は長期療養者、特殊な疾病の患者、貧困者を対象とするべきであることが示された(社会保障研究所1968:637-655)。国立病床の役割として、今までは貧困者への病床提供や僻地医療を担うことが期待されてきたが、ここで長期療養者や特殊疾病者も特に国立病床が担うべき患者として以下のように追加されたのである。
「厚生省所管の医療施設は国立としての立場から特色のある運営を行い、医療の水準を向上させるような努力を払うべきである。したがって、これらの施設は原則として、採算のとり難い高度の設備を必要とする施設、長期療養を必要とする施設、特殊な疾病のための施設、貧困者のための施設等とすべきである。」(社会保障研究所1968:650)国立病床が担うべき特色として、採算が取りにくく高度設備が必要となり、長期療養を要する特殊な疾病の患者の受け入れが示されたが、このように示された背景には、社会的な要因があると考えられる。その一つとして、1961年に日本で初めて開設された、重症心身障害児施設の島田療育園が挙げられる。島田療育園は、1500万円の寄付をもとに障害児の親や関係者の活動により開園された施設である。国からは1961年に重症心身障害児療育研究委託費として400万円、1962年には委託費600万円が補助された。そのような経過のなか、1963年に、障害児の娘がいる作家の水上勉は、「拝啓池田総理大臣殿」と題した文章(水上1963)『中央公論誌』(1963年6月号)のなかで国の障害児者に対する政策や補助費が不十分であるとして厳しく批判した。その反響は大きく、重症心身障害児や島田療育園の存在が知られるようになり、これを契機に施設入所療育費が公費負担されるようになった。このように1960年代に入ってから、重症心身障害児の親や関係者による活動が行われ療育園が作られ、水上勉の批判により社会的にも国による障害児支援が注目されるようになった。また、親の会の積極的な活動は、国から補助を得るだけでなく、厚生省に医療が必要となる重症心身障害児などの入所施設の設置を求める流れへと広がった。その結果、国立の医療施設において重症心身障害児者の入所が検討されるようになり、国立病床の役割として、長期療養を必要とする特殊疾病の患者を受け入れることが想定されるようになったと考えられる。その後、厚生省は1964年に前述した国立結核療養所に筋ジストロフィー病床を設置し、筋ジストロフィー児者の受け入れを始めた。また、1966年から重症心身障害児の病床も設置を始めており、長期療養の特殊疾病患者の病床が実際に国立において設置され始めた。
9 1970年代:国公立病床の役割の拡充
1)本節の流れ
本節では、1970年代に入り、国公立病床が1960年代の長期療養者や特殊疾病患者の病床を担う役割を拡充する方向へと進む経過について検討する。1970年代には国公立病床の規制化を見直そうとする提案がなされ、国公立病床の整備が再びなされようとする動きが見られた。その整備には、今までの結核病床と感染症病床は維持しつつ、新たに獲得した重症心身障害児などの特殊疾病患者の病床に、精神病床も加えて、長期療養を要する特殊疾病患者の病床を担う役割を拡充する流れを考察する。2)国公立病床に対する規制緩和の動き
国民皆保険を迎え、制度上は誰もが医療にアクセスしやすい環境となった1960年代において、国公立病床でも特に国立は長期療養患者、特殊疾病患者、貧困者への病床提供が求められるようになったことを述べた。また、医療が必要となる障害児者の病床も設置されるようになったことも述べた。そして、前述した「医療制度全般について改善の基本方針に関する答申」において、がん・高血圧・心臓病などの成人病、結核、精神病患者、身体および知的障害者などの施設整備を急ぐ必要があるとしていることから、1940年代から50年代には結核病床が中心であった国公立病床が、1960年代に入ってからは、結核以外の特殊疾病を含めた病床を担おうとする動きが見られるようになった。このような流れのなか、1960年代には都道府県知事が病床過剰地区において国公立病院の新設および増床に許可を与えないことができるという形で行われた規制や、僻地への病院・診療所の整備について国公立病院には努力義務が課されるという国公立病床に対する厳しい方針は1970年代に入り、変化が見られるようになる。1970年の社会保険審議会「医療保険の前提問題についての意見書」においては、以下のように示された。
「疾病予防、治療、リハビリテーションを通じる一貫した国民医療の確保という観点の下で、医療機関の機能分化、適正配置、各種医療機関相互の連携補完の関係の強化、共同利用施設の整備等、総合的かつ体系的な整備を行い、医療の効率化をはかることが必要である。その具体化にあたっては、公的医療機関を中心に大幅な公費の投入、地域計画の確立が必要である」(社会保障研究所1975:221)公的医療機関に大幅な公費の投入が必要と記された点において、今までの規制に向けた流れとは異なる変化が見られた。また、1971年の社会保障制度審議会の答申「医療保険制度の改正について」では、次のように述べられている。
「皆保険になっても自由開業本位の体制は変わらず、私的医療機関が医療制度の主体をなす姿は変わっていない。私的医療機関に対しては多額の低利資金が貸し付けられ、その増強が図られる半面、公的医療機関の病床についての法律的な規制が行われた。先進諸国と比べ、わが国の医療機関の公私の分担区分は著しくゆがめられている」(社会保障制度審議会事務局1971:760)
「現在、経営主体ごとに無計画に設けられている国公立病院など公的病院について、地域的、機能的にその役割を再編成し、計画的にその整備を行う。これについては、現在、本来は公的医療機関の守備範囲とされるべき分野でも、私的医療機関が存在している場合は、それを優先させているという姿を改めることはもちろんであり、公的病院の整備について加えられている一切の不合理な制度的、実際的な制約を取り除くとともに、整備に必要な公的投資を積極的に行ってこれを促進すべきである。」(社会保障制度審議会事務局1971:762)以上のように、公私の分担区分について言及されるとともに、公的病院の規制を取り除くべきあるという、1950年代から1960年代に行われてきた国公立病床の規制化と全く反対の方針が提案されたのである。このように1970年代に入ってから方針が変化した背景には、高度経済成長を受けて拡充してきた社会保障制度の発展が要因の一つとして考えられるだろう。1961年に国民皆保険・皆年金がなされ、誰もが受診したり年金を受け取ったりできる環境が制度として整えられた。そして、1973年は福祉元年と呼ばれ高齢者の医療費が無料化する共に、医療費が高額になる場合は補助が受けられる高額療養費制度も始められた。このように公費を投入し社会保障制度を拡充しようとする流れが高度経済成長を背景に促され、その流れのなかにあった国公立病床も公費を投入し、病床整備を行おうとする方針へと繋がったと考えられる。
3)国公立病床が担う役割の拡充
前述したように、1970年代に入り、国公立病床の規制撤廃が提案されたり、公費の投入が求められるように変化し始めたなか、実際の国公立病床はどのような経過を辿ったのであろうか。病床数については、図2に示した通り、1970年代は毎年約5,000床程度の緩やかな増加であり、大きく伸びてはいない。では、病床別の推移はどのような変化であったか示したものが図6である。医療施設調査において、国立・公立・私立などの開設者別の病床数の集計が始められた年が1954年であるため、図6は1954年が開始年となっている。また、その開始年である1954年の病床数を基準となる1として、毎年の病床数の推移を示した。全体の流れとしては、結核病床数は継続的に減少しており、感染症病床は1960年代に微増するものの、1970年代に入ってからは減少に転じている。継続的に増加している病床は一般病床と精神病床であり、特に精神病床数は数の面で言えば1954年と比較すると1979年には約4倍にまで伸びている。その点から、国公立病床が最も力を入れて増やそうとした病床は精神病床であったと言える。本稿では言及しないが、この時期、国公立病床だけでなく私立病床も同様に精神病床を急増させており、その事については後藤(2019)が詳細を述べている。図7は、開設者別の感染症病床数の推移である。1970年頃まで総病床数は増加し、その後、減少を始めている。しかしながら、常に公立とくに市町村による病床数が最も多く、感染症病床においては市町村病床が最も大きな役割を果たしていると言える。感染症病床は1897年の伝染病予防法により市町村は伝染病院または隔離病舎設置の義務が課せられており、その結果、実態としても市町村の病床が最も多くなっていることが分かる。
以上のことから、国公立病床は病床数を減らしながらも、1970年代においても図5が示したように結核病床では国公立が半分以上を担い、感染症病床においても国公立病床が約8割を担い続けていた。また、病床の中では特に精神病床の増床に力を入れており、それは結核および感染症病床が減少したことによる診療収入減を精神病床の増床で当時は補ったと考えられる。日本は世界で精神病床が最も多く、世界が精神病床を減らしていくなか、反対に激増させてきたことは周知の通りだが、国公立病床も精神病床を増床させてきたと言える。
医療施設調査から作成
医療施設調査において開設者別かつ病床別に集計されている年が1954年からとなるため開始年は1954年となっている 医療施設調査から作成
医療施設調査において開設者別かつ病床別に集計されている年が1954年からとなるため開始年は1954年となっている。その他には医療法人、個人、会社、済生会、厚生連、社会保険関係団体、独立行政法人などが含まれる。
10 まとめ
本稿を通して、終戦直後の病床においては国公立が約6割を占めており、主な日本の病床提供を担っていたことが確認された。GHQおよび日本政府ともに病院は国公立を中心として構成していく方向性で進めていたが、1948年のアメリカ医師会調査団の来日以降、流れは少しずつ私立へと促された。それはGHQの日本における医療政策の転換によるものであり、日本政府も財政難などの理由から私立病床が設置しやすい環境の整備へと向かった。国民に対して平等に病床を提供するという国公立病院の役割は私立病院とも共有されるようになり、公私ともに病床数自体が増加していくなか、国公立の増床率を遥かに上回る割合で私立病床が増加していった。そして、国公立病床には僻地の医療を担う役割が期待されたが、実際には財政難で進まず、国公立病床は他の役割を模索するようになった。そのなか、大都市における国公立病床が規制されたが、その後、数年で規制が否定される方向に反転し、1960年代以降は新たに国公立病院における病床が担うべき役割として、長期療養患者や特殊疾病患者を含めた、がん、精神・身体・知的障害者への病床提供が求められた。国公立病床の病床別推移を見てみると、戦後から現在までに渡り、結核病床および感染症病床については、病床数は減少するものの最も高い割合で病床提供を行っていた。減少する病床を補う形で、精神病床および一般病床を増加させており、特に戦後から1970年頃までにかけては精神病床の増床割合が高かった。以上のことから、終戦直後の1940年代は国公立病床は主要な医療の担い手であり、日本人の死因1位であった結核の病床を担う役割であった。しかし、GHQおよび日本政府の方針により、私立病床を整備する方向性が示されるだけでなく、疾病構造の変化により結核患者が減少することで、結核病床だけでなく、他疾病の病床も担う役割が求められるようになった。その時期に、重症心身障害児などの病床が親の会から求められるだけでなく、社会的にも関心が高まったことを受けて、重症心身障害児などを含めた、長期療養が必要となる特殊疾病患者の病床も担う役割へ変化した。それは、結核病床が減少するなか、新たな役割を探し求めたいた国公立病床と、重症心身障害児などの病床を求める親や関係や、後押しをする社会、それぞれの思いが合致したことにより生み出された、新たな国公立病床の役割と言えるだろう。この時期を契機として、国公立病床は、精神障害、結核や感染症、特殊疾病の患者など、主な日本人の死因ではないけれども一定数は必要となる病床を担う役割へと自ら変化させたと考えられる。
このように本稿を通して、戦後から1970年代までにおいて国公立病床が担う役割の変遷を示すことができた。しかしながら、本稿の限界として、病床数などのデータが集計されておらず一部データがない年や項目があり、その点は前後の数値から推測をするしかなかったことが挙げられる。また、1945年から1979年という34年間を対象とすることで、その間の方向性と流れを把握することは可能となるが、その分、一つ一つの検討が深められず、結果だけを述べるような点が出てしまった。
また、本稿に関する課題としては、本稿では国公立病床の役割として国立と公立をひとつの病床として取り扱った点が挙げられる。国立病床、公立病床のそれぞれにも国として、公立として求められる役割も考えられ、今後の検討課題としたい。
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