遡航

緒言 立岩 真也
2022年3月 『遡航』001号 p.2
 原稿がたくさん査読で落とされる。査読をいちどでもやったことのある人はわかると思うが、それははかなりの部分、もっともなことだ。そのこと自体をどうこう言うつもりは、ここではない――そのうち言う。ここではそれより、そんなことをしている間に、あるいはその手前で怖気づいてためらっている間に、いやそんな仕組みがあろうとなかろうと、思いがあろうとなかろうと、とにかく、書かれないことが多すぎる。それがよくない。おびただしい過去のことそして現在のことが調べられ書かれることがないまま積み上がる。積み上がるならまだよい。知られず忘れられたことは、消えていく、あるいは最初からないことになる。それは未来の構想も痩せたものにする。誤らせることにもなる。
 だから、書かれるべきものをまずたくさん書いてもらう。それを、何度でもやりとりし、よくしてもらって、よくなったら、載せていく。職業研究者になるつもりなどなく、査読なんかどうでもよという人には査読付きでないただの論文という形態でも掲載させてもらう。ただその場合でも、間違いを指摘し、意見を言い、よくなることを期待し、よくしてもらう。さらに、資料を資料として提示する、その営みにも場を提供する。
 なにがよい、の基準になるのか。そのことについても考えることはあるが、それは、また次の号に、もっと長い文章で述べることにする。とにかく調べられ書かれることが、あまりに調べられ書かれていない。それはほんとうにまったくだめだ。それだけは確実に言える。それで、日頃忙しい忙しいと言っている人たちが、なんでわざわざこんなことをと言われるのだろうが、この雑誌は発刊された。ごくごく真面目に、言論状況全般が改善されるまで、1000本掲載されるまでは、続けていこうと考えている。

                       2022.3 『遡航』刊行委員会
                       立岩 真也