1. はじめに
(1)問題の所在
2009年-2013年の障害者制度改革(以下、制度改革)は、障がい者制度改革推進会議(以下、推進会議)とその下に設けられた2つの部会等の議論によって、障害者に関わる全ての法制度を変えた。障害者基本法(以下、基本法)、学校教育法、障害者雇用法、障害者差別解消法等々、すべてが変化するか、新しくなったのである。制度改革により作られた政策と制度は、今日まで続いており障害者の生存と生活を規定している。制度改革は、国連の障害者権利条約(以下、権利条約)批准のための国内法の整備を目的にして、権利条約と国内法の乖離を埋める法制度の改革が求められるものであった。権利条約の作成過程でいわれた「Nothing about us without us!」(私たち抜きに私たちのことを決めるな)に基づいて推進会議と部会の構成員に障害当事者を多数起用して、権利条約に見合う権利性を担保した法案作成の議論が求められた。
推進会議の重点法案は、基本法の改正と障害者自立支援法(以下、自立支援法)に代わる総合福祉法、障害児教育法の変更と障害者差別禁止法の新設であった。その後推進会議の議論から基本法の改正法(以下、改正基本法)、福祉部会の議論から総合支援法、差別禁止部会の議論から差別解消法、特別支援教育の在り方に関する特別委員会の議論から学校教育法制の変更がなされてインクルーシブ教育の文言が入った。そして、2014年1月には障害者権利条約が批准され一連の制度改革の過程は終了した。
2016年の差別解消法施行から5年が過ぎた今日、この推進会議を中心とした制度改革の過程や制定された法律等に対して、批判的発言・指摘が行われるようになった。推進会議議長代理、日本障害フォーラム(JDF)代表の藤井克徳は次のように指摘する。
「政策審議とそれの法案化とは一致しない。ここにきて改革の動きに急ブレーキがかかっている。改正障害者基本法は2011年7月29日に成立したが、推進会議の意見書との乖離は著しい。障害者自立支援法の廃止に伴って障害者総合福祉法の新設が期待されたが、これが成らず、総合支援法になった。その内容は、自立支援法のマイナーチェンジで骨格提言は反映されなかった。差別禁止法については、差別解消法となり法律名称を含めて、意見書からのトーンダウンは目に余るものがある。」(藤井[2013])『ノーマライゼーション』2017年4月号「解消法施行から1年」には、「施行前後で何か変化があったかといえば正直言って思い当たらない」「全国各地で盛大に『障害者差別解消法の施行を祝うパレード』が開催された。多くの障害当事者が喜びと期待を持って施行の日を迎えたと思う。しかしながら、障害者の支援に関わると思われる保健師にすら『知りません』と言われてしまうのが差別解消法の現在位置」「『法ができても何も変わらない』『窓口担当者も範囲外だと対応してくれなかった』という不満も多く聞かれるのです。」などの生活における利益がないことの指摘が相次いだ。さらに、最近明らかになったいくつかの施策を見るとこれらの指摘が単なる不満ではなく法制度の不備の帰結ではないかと考えられるのである。総合支援法も差別解消法も施行後の3年見直しが言われ、見直しによって福祉部会審議による「骨格提言」と差別禁止部会の「意見」との乖離を段階的に解消できると喧伝された。総合支援法の見直しは、実質的には2018年のいわゆるトリプル報酬改定(サービス改定)であった。新たに加わった「自立生活援助」事業は、1年間限定であり、訪問系サービスでは入院中の支援が新たに認められたが対象が支援区分6に限定された。外出支援は通勤、通学には認められなかった。共生型サービスは、65歳以上の障害者の介護保険適用の固定化ともいえる負担軽減が障害者福祉制度として図られることになった。2018年改定に対して茨木尚子は次のように述べている。
「今回の改定は、『法律は大きくは変えられない、計画的、段階的に目標である”骨格提言”の実現に近づけていく』という国の方針を踏襲したものである。しかし、他の障害のない市民との平等の下での社会参加の実現という障害者権利条約の原則に立ったとき、サービスの利用解釈を少しずつ変更することや、必要な支援の報酬単価を調整するという供給手法で、いったいいつそれが実現されることになるのか疑問を感じざるを得ない。福祉政策の枠を超えて、そもそもの障害や平等についての議論の深まりや、新たな政策展開の必要性を強く感じる改定結果となっている。」(茨木[2018])2021年改訂も、2018年と同様のものであったことを見ると「新たな政策展開」なしには障害者が介助等を受けながら、自立した人間として生きていくのが困難な局面にあると考える。差別解消法においては、2021年5月民間の事業者にも障害者への合理的配慮の提供を義務づける改正法が成立した。しかし、差別禁止部会の「意見」で指摘されているように、差別禁止法で重要なこととされている差別の定義と救済の仕組みは手を付けられていない。各省庁のガイドライン(対応要領・対応指針)は、何が差別行為か何が合理的配慮かの指針になるものであるということであるが、差別の定義と救済の仕組みがなければ希薄なものにならざるを得ない。障害児教育においては、この十年間で特別支援学校は2倍になり分離教育が進んでいる。文科省が2019年に打ち出したGIGAスクール構想は、「子供たち一人ひとりに個別最適化した教育」を実現するとして能力主義教育を進めるものであり、2021年に公表された「特別支援学校設置基準の判定概要」が不足した支援学校の増設を進めるものであることから分離教育の固定化、硬直化が進められようとしていると考えざるを得ない。これらの施策が、厚労省、内閣府、文科省が表明しているように、制度改革の延長線上でなされているのである。
問われているのは、障害者政策の現状である。推進会議には多数の障害当事者が参画したため、「不十分なところはあるが良いもの」という評価が大部分であり、その評価と現実との乖離に障害者は混乱している。制度改革で審議された法制度と政策は本当にそれほど評価されるべきものであったのかどうか、現状を明らかにするために検証することが必要である。
(2)先行研究の検討
推進会議に関する研究は以下の3つに分類される。第一に、改正障害者基本法の評価についてである。
東俊裕(2011)によれば、改正基本法は権利規定が不明確なだけではなく「可能な限り」という限定修辞が多用されており、権利という面でも不十分だった。だが、前進面も押えることが重要となる。すなわち、社会モデル、合理的配慮、インクルーシブ教育の文言が入ったこと、政策委員会が設置されたことである、と論及した。尾上浩二(2011、2013)、崔栄繫(2011)、太田修平(2015)などの言及は、上記、東の「前進面」のみに限定されている。
しかし、実際の制度を変更せずに障害者の要求する言辞が法文に入るのは、制度の実効過程でマイナスになる可能性がある。インクルーシブ教育という文言が入ったにもかかわらず、制度としては特別支援教育が継続された障害児教育はこの10年で児童・生徒数、学校数がともに2倍に増えて、分離教育がさらに進行しているという状況がある。障害者の希求する言葉のみが法文のみに入ることについて、改めて検討する必要がある。
第二に、推進会議の法的位置づけについての法学からの論及である。
杉山有紗・小川有布子(2019)によれば、憲法41条において国会が唯一の立法機関と規定されており、推進会議の審議は前立法過程への関与と考えられる。内閣立法の前立法過程、すなわち立法の企画立案は(a)各省庁内部の作業→(b)内閣法制局の予備審査→(c)政府部内での折衝(法令協議)→(d)各政党への説明→(e)閣議請願→(f)内閣法制局の審査→(g)閣議→(h)与党国会対策委員会への説明であり、これを経て国会提出となる。推進会議の関与は、(a)の段階のみである、としている。植木淳(2011)杉山(2016)も推進会議における当事者の政策形成過程への関わりについて同様に論じた。
推進会議の構成員である尾上浩二(2010)によると、法律制定やその法律を受けての具体的制度化をどのように進めていくのかが今後の課題であるとしており、同様の発言は他の複数の構成員も行っていた。だが、推進会議の審議の法的位置を考えると、自らの審議内容を政策に反映するためにはどうするべきかを考える必要があるが、推進会議の審議が行われている最中には審議内容がそのまま政策に反映されることが当然のように考えていたように思える。しかし、実際はその思惑通りにはならなかった。それは、なぜなのかを政治的背景を踏まえて審議内容を分析して詳細な検討を行う。
第三に、制度改革が不十分のものになった原因への言及である。
茨木(2011)は権利性が希薄であったからであるとし、小澤温(2012,2018)は事業者やサービス運営者等が入らない議論は非現実的で、それが結果につながったとした。伊藤修平(2016)は社会保障費の増大を抑制する方向に向かっている政治が問題だったと論じた。引間智子(2016)、君塚葵(2011)、三田優子(2012)、吉川かおり(2009)は、当事者参画そのものに問題があり、推進会議に参加できたのは、審議に参加できる能力があるものだけであり、従って一部の障害当事者の意思の注入でしかないとした。山崎公士は、当事者参画における主体の問題であり、「障害者の声が制度改革にどの程度生かされたのかについては、厳しく評価せざるを得ない。1.各省庁の守旧的姿勢、2.これを打破する方向での政治的意思・力量の不十分さ、3.行政との折衝、立法過程でのパフォーマンス等における当事者委員を含む推進会議全構成員の技術的利器量の不足、等々がある。」(山崎,2012)とした。
上記を俯瞰すると、制度改革が不十分なものになった原因として当事者参画の代表性への疑問が浮上している。確かに、構成員に選ばれなかった社会的、身体的に重度である障害者を念頭に置き、「政治的意思」を発揮する必要があったのかもしれない。だが、制度改革が当初思い描いた形と異質な様相を呈したのは、それだけの理由ではないだろう。推進会議を巡って激しく動いた政治の動向すなわち長きにわたって続いた自民党政権の転覆と民主党政権の誕生、しかし推進会議を蚊帳の外に置き、民主党政権は求心力を低下させ、自公政権に政権が再び移行した。その度に推進会議の政策実現性の低下していったことの解明も必要である。また、障害者運動が全国的に大規模に展開することなく、ロビー活動に限定されていった障害者運動の縮小ともいえる事態も一因であるように思われる。これらのことを検証して真の原因を考察する必要があり、本研究はこのことに論及している。
(3)本論文の目的
本論文の目的は、当初非常に期待されていた推進会議の議論がどのような変遷を辿り不十分な結果になっていったか論証することである。改正基本法の評価は、不十分な点も指摘した東以外、概ね「当事者参画によって社会モデルなどの障害者が望んでいた言辞が入ったため評価できる」というような肯定的なものが大半を占めていた。しかし、制度改革最後の法制度の差別解消法施行後5年が経過した今日、「何も変わっていない」という指摘が障害者福祉分野や法律関係の学者や推進会議の構成員の一部、また、一般の障害者からも数多く挙げられた。制度改革は「障害者が実感できる改革」を第一義的な目的として進められたということを考えると、「何も変わっていない」という指摘は批判的であるとも言える。しかし、それはすくい上げられにくいと言われる一般の障害者達の声であるため、その観点からの分析は有効である。また「不十分なところはあるが素晴らしい」の「不十分なところ」を分析した研究もないのでそれはなされなければならないと考える。本研究は改正基本法について法文および議事録を参照した審議内容から不十分な点を明らかにするものである。
(4)分析方法
第一に、制度改革・推進会議の成り立ちの要因と特徴について始まりから流れに沿って詳細に検討する。「不十分なところ」が、いかなる意味で不十分なのか、その原因は何なのかは、すべてを検討すれば明らかになるはずである。第二に、当事者参画と障害者運動の沈黙について検討する。当事者参画と障害者運動の沈黙の相互関係とそれらの「不十分なところ」との関係について検討する。第三に、政治状況について検討する。先行研究によれば、当事者参画において、当事者の議論がどれだけ取り入れられるのかは政治状況によって決まる、とされている。それを検討することで、「不十分なところ」がなぜあったのかと、不十分さの度合いについても明らかになるだろう。第四に、改正基本法を詳細に検討する。制度改革全体を貫くもっとも重要な法制は、改正基本法である。その成否が制度改革を決めるスプリングボードである。そこで改正基本法について特に詳細に分析することが必要である。詳細に検討することで制度改革の評価が明らかになると思われる。2. 障がい者制度改革推進会議の成り立ち
(1)障害者自立支援法違憲訴訟と基本合意文書
2006年10月から全面的に施行された自立支援法はあらゆるサービスに対価を払うという、それまでの障害者支援の法律と全く違う概念を取り入れて障害者の生活を困窮させていった。自立支援法は、障害程度区分によってサービスを限定した上に、応益負担によってさらにサービスを限定するばかりか福祉作業所に通所する障害者からも給食費や施設利用費の名目で金銭の支払いをさせ、その結果、多くの障害者は社会との接点を奪われていった(阿部幸恵[2007])。この法律に対しては施行前から全国規模で障害者と支援者による最大10000人規模の反対運動が起こっていた。にもかかわらず、障害者の声は届かずに施行された。ほとんどの障害者はもともとの収入が生活保護の水準でギリギリの生活を送っていた。そこへ1割の負担はあまりにも重すぎた。結果的に支援を受けたいが1割負担のために支援の使用を控えるという障害者が続出した。こうした障害者達の苦しみが全国各地で「自立支援法は憲法違反である」という訴訟を起させたのである。障害者自立支援法訴訟の勝利をめざす会世話人共同代表の勝又和夫と三澤了は連名で次のように記した。
「この法律が施行されたことにより、極めて多くの障害者はその痛みをまともに受けることとなり、施設を去って行った人が1,600人を数えるだけでなく、地域での生活にも大きな影響が及びました。これらの問題に対し、全国各地をはじめ、中央においても法の問題点を指摘する運動が年毎に強まる中で、我慢の限界を感じた障害のある人たちが全国各地で『この法律は憲法の第13条、第14条、第25条に違反する』として、次々に司法の場に訴えるに至りました。」(勝又・三澤[2010])2008年10月31日に東京都、埼玉県、大阪府等、全国8か所の地方裁判所に30名の原告が一斉提訴を行った。この動きは第3次まで続き、最終的に71人の原告が全国14か所で訴訟を提起した。その間に下記に取り上げる衆議院選挙があり、自立支援法の廃止を掲げて選挙を戦った民主党が自民党を下して、2009年9月16日に民主党政権が発足する。そして、2010年1月7日に自立支援法の違憲裁判を闘った全国訴訟団と国とが和解し、「基本合意文書」が取り交わされた。
基本合意文書には次のように記されている。
「障害者自立支援法違憲訴訟の原告ら71名は、国(厚生労働省)による話し合い解決の呼びかけに応じ、これまで協議を重ねてきたが、今般、本訴訟を提起した目的・意義に照らし、国(厚生労働省)がその趣旨を理解し、今後の障害者福祉施策を、障害のある当事者が社会の対等な一員として安心して暮らすことのできるものとするために最善を尽くすことを約束したため、次のとおり、国(厚生労働省)と本基本合意に至ったものである。」また、この文書の中には次の文章も記された。
「今後の新たな障害者制度全般の改革のため、障害者を中心とした『障がい者制度改革推進本部』を速やかに設置し、そこにおいて新たな総合的福祉制度を策定することとしたことを、原告らは評価するとともに、新たな総合的福祉制度を策定するに当たって、国(厚生労働省)は、今後推進本部において、上記の反省に立ち、原告団・弁護団提出の本日付要望書を考慮の上、障害者の参画の下に十分な議論を行う。」上記文書の中の「上記の反省」とは、自立支援法の立法過程において十分な実態調査がなく、障害者の意見を踏まえることなしに制度を実施し、「応益負担により障害者、家族、関係者に多大な混乱と生活への悪影響を招き、障害者の人間としての尊厳を深く傷つけたこと」に対する反省であり、それを踏まえて障害者参画の下で新たな制度の検討を行うとしている。
(2)衆議院選挙と政権交代
2009年8月の衆議院選挙の結果、民主党は勝利し、社民党・国民新党との連立政権が誕生した。当時の民主党の選挙のマニュフェストには「『障害者自立支援法』を廃止して障がい者福祉制度を抜本的に見直す。」と掲げられていた。その具体策には2項目あり、1つ目は「『障害者自立支援法』は廃止し、『制度の谷間』がなく、サービスの利用者負担を応能負担とする障がい者総合福祉法(仮称)を制定する」、2つ目は「わが国の障がい者施策を総合的かつ集中的に改革し、『国連障害者権利条約』の批准に必要な国内法の整備を行うために、内閣に『障がい者制度改革推進本部』を設置する」とあった。そのため、障害者やその家族等は大いに期待した。重度知的障害及び自閉症の子供を持つ早稲田大学教授の岡部耕典は、上記した民主党のマニュフェストや障がい者政策プロジェクトチーム(PT)報告書など、当時の民主党の障害者政策が記されている冊子等を読み込み、「この取り組みが意外なほど実直かつ『正攻法』であり、取り上げるべき論点は網羅され、取るべき方向性も直截に示されている」「個々の『約束』もさることながら、構想されている政策形成の『かたち』がまず評価できる。だから、すばやく、しこしことやるのがよく、あとは結果についてこさせる、この4年間は無駄ではなく、それだけのものが出来ている、そのように思う。」(岡部[2009])と民主党政権の障害者政策を絶賛している。また、障害者で障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)事務局長(当時)である太田修平は「『応益負担を廃止し、制度の谷間のない新たな福祉法制を、4年間の任期中に作り上げていきたい』と、政権交代早々、長妻昭新厚生労働大臣(当時)はマスコミのインタビューに応えた。昨年10月30日に全国から1万人が集まった『さよなら! 障害者自立支援法 つくろう! 私たちの新法を! 10・30全国大フォーラム』に、厚生労働大臣として、長妻厚労相は初めて出席し、同様の挨拶を行い、多くの障害当事者・関係者など参加者から大きな拍手を浴びた。」(太田[2010])として、民主党政権に対する障害者の期待を物語るエピソードを語った。こうして障害者やその関係者の大きな期待の中、2009年12月8日の閣議決定で内閣総理大臣を本部長とする障がい者制度改革推進本部(以下推進本部)を設置し、12月15日に推進会議を内閣府に設置することを閣議決定した。
(3)障がい者制度改革推進会議の誕生
2010年1月12日に推進会議は内閣府に設置された。マニュフェストに先立って発表された民主党政策INDEX2009には、推進会議の役割について「わが国の障害者施策を総合的かつ集中的に改革し、国連障害者権利条約の批准に必要な国内法の整備を行う」と書かれていた。そのためには障害者に関わる国内法の総点検を行い、教育や雇用の制度を権利条約に見合うように抜本的に改正し、障害者差別禁止法は一から作ることが必要だった。さらに、国内の障害者の権利の監視機関創設は必須条件であった。それには省庁をまたぐ議論ができることが必要であり、そのために内閣府に担当大臣を据え、担当室を置いた。その際の内閣府特命担当大臣として、制度改革を担当したのが社民党党首の福島瑞穂であった。
推進会議の設置根拠は2009年12月15日の閣議決定であった。構成員からは推進会議の設置根拠について第2回推進会議(2010年2月2日開催)で以下のような発言がされている。
「森祐司委員 日本身体障害者団体連合会の常務理事兼事務局長の森でございます。また第4回推進会議(2010年3月1日開催)にも同様の発言があり、これについては当時の担当大臣であった福島が答えている。
福島大臣がいらっしゃる間に是非お願いしたいことがありますので、お願いしたいと思います。このように、日本の障害者施策が変わっていく、あるいは理念も変わっていくというような大変大きな重い会議になろうかと思います。また、推進本部の方もこれを受けてやっていただくわけでございますが、是非、法律的な根拠をつくっていただきたいと思っておるわけでございます。 したがいまして、障がい者制度推進本部並びに推進会議の設置の根拠となる法律を、現在開かれている第 174 通常国会に提出して、速やかに成立させることをお願い申し上げる次第でございます。以上です。」
「新谷友良委員 全難聴の新谷です。先ほど、森さんから発言がございましたけれども、障がい者制度改革推進法ですか、名前はちょっとわかりませんけれども、とにかくこの会議の進め方全部が法的根拠を持った動きであるということ。それから、予算措置も非常に大切な問題になってくると思いますので、通常国会で是非この法案を上程、成立させていただきたいというのが、私どものお願いです。よろしく御配慮をお願いいたします。」
「新谷委員 それから、2点目ですけれども、前回御質問しましたし、先ほど大臣からも御説明がございましたように、各省庁での施策検討と推進会議の関係についてです。前回お願いしました背景には、第2回の推進会議だったと思いますけれども、大臣にお答えいただいた障がい者制度改革推進本部やこの推進会議の設置根拠となる、例えば障害者制度改革推進法といったものがまだ国会に提案されていないということが背景にございました。推進会議の設置が法的な根拠を持つようになると、先ほど大臣から御説明があったり、先日私たちが懸念しました問題もおのずから整理の道がついていくのではないかと思います。そういう意味で、障害者制度改革の旗振り役、エンジン役として、推進本部と推進会議がその役割を十分に発揮できるように、各省庁での障害者制度改革が推進していくように、是非今国会への法案提出を実現いただきたいと思います。」日本障害フォーラム(以下、JDF)の要望書には「推進会議がその役割を最大限に発揮するためには、これまでにも要望申しあげているとおり、障がい者制度推進本部ならびに推進会議の設置に関する法的整備が早急に必要」(JDF,2010)とあり、障害者制度改革推進法案を早期に成立させ、推進会議に法的根拠を持たせるように法案を早急に提出、成立させて欲しい、と要望した。しかし、その要望は実らなかった。推進法案は提出されたが議案の審査なしに廃案となり国会は通らなかったため、推進会議は法的根拠がないまま議論を進めることとなった。杉山・小川(2019)は「法的根拠を持つ方が、他の障害者関連審議体との関係で優位性を保つ」ことができるとした。また東(2010)は、「第一次意見は単なる行程表ではない。各省庁の官僚に守らせるものとしてある」と述べているが、推進法があれば「官僚に守らせる」ための手段になっていたと思われる。
「福島大臣 設置法のことなんですが、閣議決定をして推進会議が発足して、設置法をつくるまでもなく実はもうスタートしているということなんですが、皆さんの御要望はしかと受け止めてやっていきたいと思っています。
ただ、1つ、これは閣議決定を経てやっていることなので、何か遜色があるとかそういうこともない。これは進行している話ですので、設置法についての要望は、今、予算委員会で国会の中の状況はまだ法案を出すことができない。それは理解をしておりますし、また設置法がなくて推進会議がスタートしたわけですが、それはとても重く、他の省庁との関係でも全く問題や遜色はないということを改めて今日申し上げたいと思います。」
3. 障がい者制度改革推進会議の特徴
(1) 国連の障害者の権利に関する条約の存在
第1の特徴は、国連の障害者権利条約の批准のための国内法の整備ということである。2006年12月に権利条約が国連総会で採択され、2008年5月に発効した。条約作成検討のために設置されたアドホック委員会で各国の障害者NGOが多く参加し、発言した。しかし、「第2回の会合以降、NGOを排除しようという動きが見え隠れ」(東,2006)していた。その際にNGOは統一したスローガンとして「Nothing about us without us!」(私たち抜きに私たちのことを決めるな)を発言の締めの言葉として使用した。そのような経過を経て採択された権利条約だが、当初は日本の国内法に照らしてみた場合、様々な国内法の整備をしなければ批准できない状況だった。例えば、障害者差別禁止法がなく、障害者の権利に関するモニタリング機関もなかった。また医学モデルに基づいている障害者手帳制度、特別支援教育とインクルーシブ教育との乖離の修正など、多くの法整備が求められた。
こうした状況の中でも権利条約の「批准」を急ぐ動きが政府を中心にみられ、2009年1月16日に内閣官房から、開催中の国会で承認を予定していることが明らかにされた。当時の政府は「障害者基本法やいくつかの施行令を主な担保法として、これらを権利条約に基づき改正することで、批准の要件は満たすと考えた。」(DPI日本会議事務局,2009)しかし上記のような国内法の整備が不十分であるという理由もあり、「DPI日本会議を含むJDFとしては、権利条約の批准は歓迎するも、拙速な批准には賛成できない、という立場」(同上)であった。結果として、2009年の自民党政権では権利条約は批准されなかった。その後、上述のように衆議院選挙で政権交代が起こり、権利条約の批准のための国内法整備を行う推進会議が設置された。
(2)当事者参画
第2の特徴は、障害者権条約策定の際のスローガンである”Nothing about us, without us!”(私たち抜きに私たちのことを決めてはならない!)に則った当事者参画である。推進会議の構成員は26人のうち14名が障害者あるいは家族であった。障害種別は身体障害のみならず、知的障害者や精神障害者も含まれていた。身体障害も下肢障害や視覚障害、聴覚障害、視覚と聴覚の障害を併せ持った盲聾者など様々な障害者が構成員だった。さらに、現在の障害者運動を担っている障害者インターナショナル(DPI)や日本障害フォーラム(JDF)等に所属し、その団体を代表するような障害者が集まったのである。また、内閣府内に置かれた担当室の室長を障害のある弁護士の東俊裕が担った。こうした当事者参画があったからこそ障害者や関係者は制度改革に大いに期待した。当時、DPI日本会議事務局(2010)は「まさに『新しい形』を具現化しているメンバー構成である。今までの各省庁の審議会や分科会のメンバー選考の基準とは根本的に異なるものだ。(中略)『形式的参加から国際人権条約という人権ベースでの実質的参加へ』のパラダイム・シフトといえる。」と言って「人権ベース」での議論と障害者に対する実質的で真っ当な何らかの健常者との平等を担保するような「利益」があることを期待した。
障害者基本法に基づいて設置されていた中央障害者施策推進協議会(以下、施策推進協議会)にも多くの当事者が参画していた。しかし、長瀬修によれば施策推進協議会は「形式的な存在であり、例えば2009年は1回、2008年は2回しか開催されていないことに象徴されるように、実質的な機能を持っていない」(長瀬[2011])とし、政策作成過程への当事者参画は推進会議が初めてであるとした。
(3)3年間で11の分野にわたる法制度の変更
第3の特徴は、たった3年の間に基本法をはじめとして、11の分野で制度の変更が集中的に行われたということである。推進会議はまず自立支援法に代わる制度の議論を行う総合福祉部会を厚生労働省の下におき、2010年4月27日に議論を開始した。さらに、差別禁止部会が内閣府にでき、議論の開始は2010年11月22日であった。両部会とも推進会議の下に置かれるという形を取ったので、議論の経過や内容は推進会議に報告された。2つの部会の議論は紆余曲折を経て障害者総合支援法と障害者差別解消法になったが、当初の国連障害者権利条約に見合うような形として目指された総合福祉法と差別禁止法からは後に述べるようにかけ離れたものとなった。障害児教育に関する議論は文科省の下に「特別支援教育の在り方に関する特別委員会」を設置して2010年7月20日から議論が開始された。こちらも推進会議に議論や経過が報告されるという形を取った。だが、結果的に特別支援教育はインクルーシブ教育であるという見解が示され、分離教育をさらに拡大させるものとなった。(有松[2013],堀[2021])
(4)政治的な変化
第4の特徴は、激しい政治的変化の中で行われていたということである。推進会議は2010年1月12日に始まり、2012年3月12日に第38回で終了するが、差別禁止部会は2012年9月14日まで続いた。その間に起こった政治的変化は、まず2010年7月11日の参議院選挙で民主党が議席を減らして与野党のねじれ国会になったことであり、2011年3月11日には東日本大震災と福島原発事故が起こり、さらに2012年12月4日に自公政権への政権交代が起こった。その基底にあるのは、民主党政権は誕生したばかりで非常に脆弱だったという事実である。民主党政権の揺らぎは、推進会議の政府の中での存在感や影響力の低下に直結した。民主党政権の揺らぎとして、まず挙げられるのが担当大臣であった社民党党首福島瑞穂の罷免であった。2010年5月28日の臨時閣議で米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)を「名護市辺野古」周辺に移設する対処方針を決定した。その際、閣議での署名を拒否し、大臣辞任も拒否した福島を罷免した。この罷免で、社民党は5月30日に連立離脱を決定している。
推進会議の初代担当大臣であった福島が罷免された後、社民党の連立政権離脱決定翌日の2010年5月31日、第13回推進会議が開かれた。その中で福島は担当大臣として次のように挨拶している。
「まさにこの推進会議が、この6月、考えをまとめます。法律をつくるということも今後、工程表としてあります。みんなでとにかく気持ちを一つにして、一丸となって、困難な課題ですが、とりわけこの4年間で日本の障害者施策を本当にがらっと、うんと変えるために一緒に頑張り合いましょう。私も一生皆さんたちと木本を一つにして頑張りたいと思っておりますし、とりわけこの推進会議が、これから4年間すばらしい成果をとにかく出すことができるよう、議員あるいは個人の立場として皆さんたちと一緒にやってまいります。」この推進会議を「制度改革のエンジン部隊」と位置づけ、共に戦うという気概を示し、省庁ヒアリングなどで障害者の側に立って意見していた福島が去った。このことで、推進会議の政治的位置が揺らいだことは否めない。
次に2010年6月8日に内閣総理大臣であった鳩山由紀夫も基地移設問題や社民党の連立離脱などの責任を取って辞任した。鳩山と福島は推進会議にも良く出席していたが、以降の大臣の出席はごく少ない限られた時だけになった。
その後、2010年6月8日に菅直人政権が発足する。しかし2010年7月11日に行われた参議院選挙で民主党は議席を減らし、参議院で過半数を維持できなくなった。そして2011年3月11日に東日本大震災が起こった。震災対応をめぐる内閣への不信任案提出の動きなどを受け、菅は2011年8月26日辞任を表明した。
さらに2011年8月29日、後任の首相には野田佳彦が就任した。2012年12月14日の衆議院選挙で自民党に敗退したことにより、再び政権交代が起こり、自民党と公明党の連立政権となった。
4. 改正障害者基本法作成までの議論の流れ
(1)障害者基本法とは何か
基本法の前身は1970年に制定された心身障害者対策基本法である。この法律については下記のように言われている。「昭和35年精神薄弱者福祉法が制定されたのを機に、国は福祉、教育、雇用など関連分野をまとめ、心身障害者福祉対策を一貫した体系、有機的連携のもとに障害に応じた施策を強力に推し進めるために基本法に踏み切ったといわれている。」(初山泰弘,1993)
しかし、障害者をめぐる状況はその後激変する。アメリカで連邦政府の資金援助を受けたいかなる施策事業は障害者の参加を拒んではならないという障害者への差別禁止条項である第504条を含んだリハビリテーション法が議会の承認を得た。そして国連では1981年に「国際障害者年」、1983年から1992年の「国連障害者の十年」、アメリカのADA(障害を持つアメリカ人法)など障害者の権利を認める動きを後押しする動きが世界に広がっていった。
そのような世界的動向の中、1993年に心身障害者対策基本法は障害者基本法になった。基本法について、1993年の基本法が全ての障害者制度に関与する法制度になったことを指して板山賢治(1997)は「『障害者基本法』は障害者の憲法」であると述べ、また、尾上(2012)も「障害者基本法は、障害者分野の憲法であるとも言われています」と述べている。楠敏雄(2012)は改正基本法について「目的の中に『権利保障』の規定を盛り込むことが不可欠であると考えています。厚労省の官僚は推進会議のメンバーたちに『権利という用語は日本社会になじまない』とか『権利性を明記するのは時期尚早だ』と広言しているようですが、これらはまったく的外れな指摘です。」と述べ、基本法の性質上、その目的の中に権利規定を盛り込むべきであると訴えている。さらに、東(2011)が「成立した改正基本法も権利規定が不明確である」と述べて、基本法の権利性に言及している。
つまり東(2011)の言葉を借りるなら、基本法は全ての障害者制度に関与するものなので権利性が重要なものであると言える。さらに改正基本法は上記のことと共に権利条約批准のための国内法の整備の一環であったことから、権利規定を条文に盛り込み、その権利を具現化するための仕組みとして全般的権限を持った委員会等の設置など障害者の権利を担保するような仕組みが改正基本法には必要だったのである。
(2)第一次意見
推進会議の第1回(2010年1月12日)から14回(2010年6月7日)は障害者制度改革の全行程を決定することが主な目的だった。その中でも、雇用や教育など具体的な事柄が話し合われて様々な要望や制度的な問題点が出され、議論された。また各省庁や関係団体に対するヒアリングも行われた。その議論の帰結が第一次意見である。この第一次意見は2010年6月29日に開かれた第2回制度改革推進本部で小川推進会議議長から推進本部長である総理大臣菅直人に手渡された。第一次意見書では、「はじめに」において国際的な障害者の権利の動向と国内における障害者制度改革の必要性が記述されている。そして「障害者制度改革の基本的考え方」として「『権利の主体』である社会の一員」、「『差別』のない社会づくり」や「社会モデル」などが挙げられている。さらに「障害者制度改革の基本的方向と今後の進め方」では、2010年中に第二次意見を政府に提出し、それ以降は提出した意見に基づいて基本法の改正案や制度改革の推進体制に関する法案を2011年の通常国会に提出すべきであるとされている。また労働及び雇用や教育、医療、所得保障等障害者の生活のあらゆる場面についてなされていた議論の帰結として、雇用や教育など項目ごとの「推進会議の問題認識」と「政府に求める今後の取組みに対する意見」を具体的に示している。
この第一次意見の閣議決定を受けて東は以下のように述べている。
「この閣議決定も、改革に向けた大枠の工程表を政府全体の意思として示したものとなっている。このような意味で、この閣議決定は、関係各省庁全体にまたがる制度改革の幕を切って落とすものとなり、制度改革はいよいよこれからが正念場を迎えることになったわけである。Nothing about us without usのスローガンは、障害者の権利条約で示された政策決定過程への当事者参画として息づいている。しかし、この当事者参画を本格的に取り入れた政府の歴史的試みが具体的に実を結ぶには、これからなお多くの時間と障害当事者をはじめとする関係各位のますますの努力が求められることになるだろう。」(東,2010)
(3)第二次意見
第二次意見は基本法の項目に沿って目的や定義等について推進会議の認識と政府に求める事項に関する意見を示している。そこでは、障害の定義に社会モデル的な観点を取り入れることや差別の禁止を明確に打ち出すこと、障害のある女性や子供の権利を確保することを明確化することなどが書かれ、従来の基本法にはなかった項目も積極的に追加され、「障害の予防」については削除されている。また以前の障害者基本法にはなかった「前文」も入った方がいいという推進会議内の議論を経て「はじめに」という「前文」に当たる部分が入った。その「はじめに」にはこれまでの障害者基本法の経過を振り返り、国外の障害者差別禁止法制に触れ、今後は権利条約に見合うような制度を日本に作っていかなければならいと書かれている。また、国・地方レベルで当事者が過半数を占めるモニタリング機関の設置についても触れられている。この機関は、基本法の理念に基づき障害者基本計画及び障害者に関する基本的な政策に関する調査審議を行うとともに、施策の実施状況を監視し、必要に応じて応答義務を伴う勧告を行うことができる機関として中央障害者施策推進協議会及び障がい者制度改革推進会議を発展的に改組して作られるとある。
第二次意見は第15回から29回の15回にわたり議論された。しかし基礎としてあるのはあくまでも第一次意見であるので、第1回からの議論の帰結である第一次意見から生み出されたものである。
(4)改正障害者基本法
第二次意見の議論が2010年12月17日に終わり、約2か月後の2011年2月14日の第30回会議で、事務局から基本法改正案(以下改正案)が出された。改正案では、総則における「国際的協調」、基本的施策における「障害者である子ども等への支援」、「選挙における配慮」「刑事手続きにおける配慮等」「国際協力」「障害者政策委員会」が新たに追加された。しかし「前文」や「障害のある女性」についての項目は入っておらず、また、第二次意見では精神障害者に対する強制入院や社会的入院について言及していたが、改正案では全く触れられていなかった。そして「地域社会における共生等」や「医療、介護等」「障害者である子ども等への支援」において「可能な限り」という権利に制限をかけるような言葉が付いた。これは主に地域生活に関する部分に付いていた。その他にも多くの問題がある、第二次意見から乖離した改正案が出されたことについて構成員は下記のように批判した。「障害者の人権は制限をしていいということがこの「可能な限り」ということなんでしょうか。(中略)私ども推進会議の問題認識と大きくずれているのではないでしょうか。」(尾上委員) 「今回の改正は障害者権利条約を受けて、我が国における障害者の、言わば基本的人権の保障を中心とする権利を保障するためになされたはずなんです。であれば、1条において明確にされるべきは、今回の改正によって障害のある人が我が国において生存し、生活していくことにおいてどのような権利が保障されたのかということが明確にならなければならないはずなんです。ところが、(中略)この目的は、「福祉の増進」という言葉をカットしたと言いながらも、結局のところは、障害者は福祉の対象にされているんです。なぜならば、社会参加の支援等のためなんです。そのことがどこでちゃんと形に表われているかというと、6を見てもらったらわかるんです。国及び地方公共団体の責務のところを見たら、明確に国及び地方公共団体の責務は福祉の増進と書いてあり、その部分できちっと形に表れてくるわけです。 こういうことでは本来私たちが望んでいた今回の改正の抜本的趣旨が失われていると思いますので、是非この点がなぜそうなったのかについて御説明いただければありがたいと思います。」(竹下義樹委員:社会福祉法人日本盲人会連合副会長)構成員たちはそうした意見を表明し、「今日が最後ではございません。ここからまさしく議論を始めていっていただきたいということでございます」という園田政務官の言葉を信じて、少しでも第二次意見に近づけるための訂正案を出し合っていた。しかし東日本大震災後、4月18日に開催された第31回の推進会議で出された2つ目の改正案は第一次、第二次意見とさらに距離が開いた。つまり前回提出した改正案での議論で出てきた問題点は手つかずのまま残り、そのうえ第30回改正案では付いていなかった「可能な限り」が「教育」において入った。さらに「障害者である子ども等への支援」は削除され、第30回推進会議で指摘した「前文」や「障害のある女性」、精神障害者に対する強制入院や社会的入院は第31回でも入っておらず、「地域社会における共生等」や「医療、介護等」の「可能な限り」も放置された状態だった。第30回の構成員の言葉を借りるならば、「本来私たちが望んでいた今回の改正の抜本的趣旨が失われている」改正案と言わざるを得ない。しかも第31回推進会議の時点で手続き上は閣議決定のみとなっているため今から変更することは難しいと議長代理の藤井が述べたのである。議論はこのような経過をたどり、問題点は修正されないまま国会を通過した。「可能な限り」という文言は改正前の基本法では1か所だったのに対して、改正基本法では6か所に増加した。
「基本的に、これまで私たちが議論してきたことが、ほとんどこれには反映されていないということを非常に残念に思います。(中略)現在、提示されている案というのは、将来性というか、将来展望がこれからは見えない。 少なくとも将来展望を踏まえた形で障害者施策のあり方を示すというのが、基本法の本来あるべきことではないのかというふうに思いますので、そういう意味では、現在の原案について、抜本的に見直していただきたいとお願いしたいと思います。」(松井亮輔委員:法政大学名誉教授)
障害者基本法は障害者の憲法と呼ばれる権利法である。本来、権利法に権利を制限する言辞が入るのはあってはならないことであるので、権利を制限する「可能な限り」が6か所もあるのは権利法として成り立っていない。そして、最も権利性が問われる地域生活と教育に主に目立っているのは、障害者の生活と生きる力を削ぐものである。担当室長だった東(2011)も改正基本法に関して「権利性が十分に確保されているとは言えない」と述べて権利性が十分でないことを指摘し、批判している。
改正基本法の意義のひとつとして第2条で「社会的障壁」が定義され、社会モデルが導入されたことが挙げられている。しかし、医学的な診断のみで障害者を等級分けする障害者手帳制度や、それに付随する障害者年金制度、介助における障害程度区分に社会モデルは反映されていない。いくら文言が評価されたとしても、実質的に良い方向の変化がなければ、ギリギリの生存を続ける障害者には何の利益にもならない。岩崎晋也(2004)が言うように権利が付与されるからこそたんなる理念、たんなる言葉ではなくなるのである。
5. 結果としてもたらされたもの
改正基本法は、構成員たちが思い描いたような権利性が高いものにならなかった。その結果は尾を引き、障害者制度改革の結果として生まれた法律や、権利性の高まりの表れである障害者運動にも影響を及ぼしている。改正基本法の権利性が後退したことによって起こったことの第1は、制度改革によって生まれた他の法律への悪影響である。総合支援法は、総合福祉部会がまとめた「障害者総合福祉法の骨格に関する総合福祉部会の提言」を無視し、障害者自立支援法の法律名を変えただけのものとして成立した。障害者差別解消法も差別禁止部会で議論された内容をまとめた「部会意見」と乖離して、差別規定や救済制度もない法律となった。また障害児教育に関しては「特別支援教育はインクルーシブ教育と矛盾しない」という文部科学省の「報告」により、分離教育がますます進んでいるという現状を生み出した。(有松[2013],堀[2021])
総合福祉部会の副部会長である茨木は権利性が不十分な基本法が二つの部会の審議に与える影響を下記のように懸念している。
「改正法案は、第3条『地域における共生』の『全て障害者は、可能な限り、どこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないこと』(下線は茨木)という規定に見るように、総じて現行障害者基本法の一部改訂にとどまった表現となっており、第二次意見書に盛り込まれた多くの新機軸に足枷がかけられたような内容となっていることは否めない。障害者基本法の改正は、続く障がい者総合福祉法(仮称)や障害者差別禁止法にとって、そのスプリングボードとなることが期待されてきた。特に、他の者との平等の下に障害者の地域生活の権利が基本法に明確に規定されることは重要なポイントであったが、『可能な限り』という一節が加わったことで、その権利性の担保については当事者の期待とは隔たりのある結果となった。」(茨木,[2011])権利性なき改正基本法がもたらした第2のことは、障害者運動の後退である。制度改革の当初、三澤(2009)は「また障害者運動も政策づくりの責任の一部を担う意思をしっかりと持ち続ける覚悟が必要となるだろう」と述べ、東(2010)も次のように述べている。「そのように権利性を入れるためには、障害者の力の大結集が必要です。」また太田も「障害者運動が問われている」「増していく当事者運動の役割」と述べ、次のように記している。
「自立支援法を恒久化させ介護保険との統合への道を開くような改正は絶対に許してはいけない。全国的な運動を展開させていく必要がある」(太田, 2010, 32)しかし自立支援法が名だけを変えて総合支援法になった時、全国的な運動の展開としての障害者運動はなかった。その要因として考えられるのは次の点である。
第1点目は、当事者参画ということに多くの障害者が自らの思いを実現できると期待を高まらせたということである。会議の様子はライブ中継され、それを見た障害者は第一次、第二次意見の権利性にあふれた「社会モデル」「当事者の権利」「合理的配慮」などの言葉が出てきているのに官僚たちがその議論の時点では反発しないこともあって、自分たちの期待したものが実現できるかのような高揚感を感じた、ということが考えられる。後に実際に法制度の不備があったとしても、それを指摘することは身内への文句になると思う程に当事者参加に期待したということである。
第2点目は当事者参画への期待の継続である。尾上(2011)は「3年後見直しの附則が設けられたので、ぜひとも、次の見直しに結びつけていく動きを作り出していくことが求められる。その点から、新たに設けられた障害者政策委員会が重要な役割を持つことになる。」と提起している。「3年後の見直し」や当事者参画の「政策委員会への期待」などが推進会議の議論が終わっても改革を持続させていきたいという思いと結びつき、現実の法制度がいかに不十分でも批判をためらってしまったということである。
第3点目は、各法制度には文言だけ見れば「良い言葉」が入った、ということで現実が覆い隠されてしまったということである。改正基本法では権利性が担保できなかったということと「社会的障壁」「合理的配慮」などの権利性の高い言葉との乖離が激しいものとなった。また総合支援法は骨格提言の”総合福祉法”という法律名だけを引いて、中身は変わらないのに名だけを変えて看板だけ良いものにした。障害児教育は悲願のインクルーシブ教育になったが、実は特別支援教育の固定化であった。この「良い言葉」が「成果」として喧伝されたこともあり、現実への批判がくらまされてしまったのである。
第4点目は、改革が進んでいるはずなのに、障害者の現実はより困難さを増しているため、この事態をどのように理解していいのか、大いなる混乱状態に陥っているということである。「さよなら自立支援法」のような全国的な障害者の集会はその後行われていない。1970年代の障害者運動と共にあった雑誌である『DPIわれら自身の声』「リハビリテーション研究」は刊行を停止し、「ノーマライゼーション」は休刊(その後、「新ノーマライゼーション」として復刊したが厳しい現実という)、『福祉労働』の発行も年4回から2回になり、2018年前後にそうした雑誌が次々と後退したのはその混乱の証左であるだろう。
6. おわりに
制度改革最初の法律である改正基本法は、権利性を担保して制度改革全体のスプリングボードになることが期待された。だが権利規定もなく、権利性が不十分なものになった結果、総合支援法・差別解消法ともに、不十分なものになった。それだけでなく、改正基本法が権利性の担保がないまま成立したことが、障害者権利条約の国内実施が危ぶまれる事態を招いているのである。権利条約は、第三十三条で国内での実施措置を規定している。重要なのは、「国内人権機関に関するパリ原則を考慮した条約の実施を促進し、保護し、および監視するための枠組みを構築すること」という項目である。
東(2009)は次のように述べている。「制度改革により障害者政策委員会が設置されたが、これは、パリ原則からすると、独立性がなく、しかも、実施を促進し、保護し、および監視するといった全般的な権限を付与されているものでもないので、本条約が求めている国内実施体制の構築は、未だに実施されていない状態と言える。」として「したがって現段階では、条約の国際的実施措置による条約実施への期待が大きい」としたのである。
国際的実施措置とは、権利条約権利委員会に政府の実施報告と障害者団体などが作成したパラレルレポートを提出し、その審査とそれに基づく勧告を国内実施に結び付けるというものである。だが、政府は、今まで何度も子供の権利や女性の権利に関する厳しい勧告を受けても是正することがなかったことを考えると、国際的実施措置を国内実施として法律や制度に具体化するのはかなり難しい。2020年日本の報告が実施される予定であったが、コロナ感染拡大の中で延期になり、次の予定はたっていない。さらに、国内法整備がなくとも批准ができるため、国によって権利に関する認識に差があり、報告を出さない国も多く、その是正のため国連の人権機関の見直しが進んでおり、政府報告と審査そのものが今までのようにあるのかどうかも見通せない。
立岩真也(2010)は「障害者の問題は基本的には体制の問題である」と述べている。そうであるならば、日本の障害者が置かれている現状はどういうところなのかを見定めることが重要であると考える。そのためには、制度改革の多方面からの検討分析が必要である。
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