■年表
(◆の後の数字は、引用集の見出しの数字に対応している)1965~1967頃 八木下浩一、在宅訪問を始める◆01
1965~1967頃 八木下、雨宮正和と山崎広光に出会う◆02
1969頃 八木下、雨宮と山崎に「自分の問題は自分でやりなさい」と言う◆03
1970 八木下、東大赤レンガの心理臨床家会議に参加◆04
197106 八木下、東大自主講座「闘争と学問」で講演◆05
197106 「八木下さんを囲む会」ができる◆06
1972頃 八木下さんを囲む会を川口の運動につなげようとする◆07
1972頃 山崎と雨宮、和田博夫が経営する浦和整形外科診療所に入所◆08
1972頃 街の中で住むとはどういうことかを考え始める◆09
1973頃 とりあえず市に「土地をよこせ」と要求し、前向きな回答を得る◆10
197404 西村秀夫を介して八木下と髙橋儀平が出会う◆11
197405 「川口に障害者の生きる場をつくる会」結成◆12
197405 市に趣意書を提出◆13
197409 市に陳情書を提出◆14
197502~06頃 市が介護職員をつけない方向で画策する◆15
197509 市から通園授産施設案が提示される◆16
197512 りぼん社から報告集を発行◆17
197601 第1派座り込み◆18
197602 市から収容施設方式・和田委託案が提示される◆19
197602 交渉の途中で山崎と雨宮が退席する◆20
197603 市に山崎・雨宮・和田の連名で要望書が提出される◆21
197604 山崎と雨宮、会から除名になる◆22
197605~06 市に見解書・公開質問書を提出◆23
197607 第2派座り込み◆24
197608 雑誌(『市民』8月号)の座談会で八木下・和田が直接討論◆25
197609~12 市から労働基準法違反案が提示される◆26
197612 第3派座り込み◆27
197703 市から診療所方式案が提示される◆28
197706~07 山崎・雨宮と身障根っ子の会、市案に賛成のビラをまく◆29
197708 第4派座り込み◆30
197708 山崎・雨宮と身障根っ子の会、座り込みを行う◆31
197712 結局、和田が理事を務める「まりも会」に委託決定される◆32
197803 「しらゆりの家」開所◆33
■引用集
◆01:八木下浩一、在宅訪問を始める(1965~1967頃)川口市には重度の寝たきり障害者が何人いて、どういう生活をおくっているのかを知りたいと思って在宅訪問を始めたのです。
障害者の住所録を福祉事務所からかっぱらって来て、住所のとこを見て訪ねて行きました。私は行く所行く所断わられて、泣きたくなる毎日でした。在宅訪問の例をあげると、お母さんが出てきて「何々さん居ますか?」と聞くと「あなたはどこから来たのか? どこで調べてきたのか?」とまず最初に私に聞きました。聞いたあげくの果て「そんな人は居ません」とドアを閉められました。となりの家に聞くと「障害者みたいな人はいますけどねえ。あまり表には出てきませんよ」という事です。
また別の例では、私がドアをノックしてお母さんがドアを開けて私の顔を見ると同時にドアを閉めました。私の指がドアにはさまって痛くって泣いたこともあります。そういう例がたくさんあります。例えば塩をかけられたとか水をかけられたりしたこともあります。(八木下[1980:157])
昭和40年くらいに、2人の男が訪ねてきた。「この家に障害者はいますか?」と聞かれて、「私です」と答えた。それが、八木下さんと荒井さんだった。その家に障害者がいるということは、どこで知ったのかは分らない。役所に尋ねて聞いたのかも。
八木下さんたちは、「外に出よう」と言った。が、当初はおつきあいしたくないと思った。あまりにもばっちいので…髪が長くて、ビーチサンダル姿。大学生で風呂もろくに入らないような人たちだった。でも話には興味があった。彼らは頭がよく、いろいろなことを知っていた。「外に出よう」とずっと言われ続けた。そして私には友達が必要だった。それが活動とつながるきっかけだった。(仲沢[2017:ページ表記無し])
◆02:八木下、雨宮正和と山崎広光に出会う(1965~1967頃)
今度は在宅訪問のやり方を変えてまたやり始めました。一人の障害者、雨宮君の家に狙いをあてて一週間に二、三回行くようにしました。はじめのうちは、さっき書いたように相手にしてくれませんでした。二週間くらい通って、やっと家の中に入れてもらって本人と対面できました。
[…]
雨宮君との話の中で、彼は「もうこんな所に居るのは嫌だ、表に行きたい」とわめいていました。私は仕様がなくて私の友達の健常者を呼び集めて、できるところから徐々に表に連れ出すことを始めました。雨宮君の顔が家に居る時と全然違って生き生きと変身しました。やはり雨宮君は六帖の中の座敷牢に閉じこめられた彼の人生から一歩、「バラ色の地域の中へ」飛び出したのです。
彼の顔がまことに生き生きとしていたのが印象的でした。雨宮君は私に対して、「(障害者が)あそこにも居る。ここにも居る」ということで「紹介するから在宅訪問をやってもらいたい」と言って私に頼んできました。私は「できることはやるけれども、限界があって、全部はできません」と言ったら「それはおかしいんじゃないか?」と言う。
なぜおかしいのかとたずねると、彼は「僕みたいに座敷の中で暮している障害者は数多く川口市にはいる。みんな家の中でテレビを見たりラジオを聴いたりしているだけで、外へは一歩も出たことのない障害者がほとんどだ。なんとかならんか」と言ってきました。これは外へ出るようになって半年ばかりした頃からです。私は「やれることはやるけれども、川口に寝たきりの障害者は何人居るかわかんないから全部回るといっても無理だ」と言い、「とにかく二、三人の家はまわる。あとは無理だ」と雨宮くんの要求をつっばねました。
ある日、私が雨宮君から紹介された家に訪ねて行ったら、そこにはコタツにすわった障害者がいました。その障害者はぼくの顔を見るとびっくりして何も話そうとしませんそした。ただお母さんだけがぺラぺラとまくしたてていたのが印象的でした。それが山崎君でした。(八木下[1980:157-160])
◆03:八木下、雨宮と山崎に「自分の問題は自分でやりなさい」と言う(1969頃)
彼らは「もう家には居たくない、何処かへ行きたいんだ」と言っていました。その間、三年ぐらいその話を彼らとしてきました。私は自分の問題として「どうしても学校へ行きたいから、そういう問題にはつき合えない」と「自分の問題は自分でやりなさい」とつっばねて、学校へ行く準備を整えました。
私は良いか悪いかわからないけれど、学校へ入学の機会を与えられて、午後の二時か三時頃まで学校に行っていたために、午後の四時頃から、できるたけ彼らの家に行って話をする努力をしました。けれども、学校の宿題をしたり子どもたちと遊ぶのが忙しく、あまり彼らと会う時間がなくなりました。(八木下[1980:160])
◆04:八木下、東大赤レンガの心理臨床家会議に参加(1970)
◆05:八木下、東大自主講座「闘争と学問」で講演(197106)
私は一九七〇年、学校に行き始めた年の秋から冬にかけて、東大赤レンガで開かれた心理臨床家会議に出て、学校の話をしたりしました。そして、一九七一年に、東大での自主講座「闘争と学問」に招かれました。それがきっかけで、故西村秀夫さんが私の訴えをまじめに受け止めてくれました。その結果、私を囲む会ができ、学生や教員などと親しくなりました。(八木下[2010:162])
八木下 いろんな影響があった。ここ(東大本郷キャンパス)にも来たことがあるわけ。安田講堂にも来たことがあるわけ。歩くように努力して、ここに来た。たまたま東大の西村先生がいたわけ。当時助教授でいたわけです。その人に捕まっちゃって、毎日のように電話かけたり、かけあったり、行ったり来たりしていたわけです。
半田 1971年頃に、東大で自主講座というのがありました。西村秀夫さんが中心となって、「闘争と学問」という自主講座があって。そのときの話ですね。
[…]
八木下 69年か、歩けるようになって電車に乗って山手線をぐるぐる乗って歩いていたら、たまたま東大の教育学部の先生と会ったわけです。それで、八木下君、「ちょっと来て下さい」と呼ばれて、駒場に連れて行かれました(笑)。「あなたもがんばんな」って言われて、そういうことから西村さんとつきあうことになった。(八木下[2017:4-5])
◆06:「八木下さんを囲む会」ができる(197106)
「身体障害と教育」をテーマとした今年六月一九日のシンポジウムから「八木下さんを囲む会」という研究会が生まれた。月一回集まって、八木下君を中心として身体障害という問題から、差別・選別の「教育」を越える道を模索している。これは「八木下さんを支援する会」ではない。障害者も健全者も同じ会のメンバーとして討論し、考える会であり、健全者中心の文化の中で育って来た私たちが、障害者によって目を開かれ、教えられる機会である。(西村[1972:37])
※掲載誌は1972年1月1日発行のため、「今年」は1971年を指している。
◆07:八木下さんを囲む会を川口の運動につなげようとする(1972頃)
私は今年の六月に東大駒場の夜間講座で障害者教育で私自身の問題をとりあげました。夜間講座の中でいろいな問題がでてきた。例えば、障害者は何んで普通学校へ入れないのか。何んで養護学校や特殊学校があるのか。何んで同じ人間なのに就学猶予や免除があるのか。同じ障害者で施設にいる人 家の中で寝ている人など 何んでいるのか。私を囲む会は そうした話し合いの中から発足したが 私は考えなけれぱならないことがでてきた。それは「私を囲む会」ではなくて健全者を告発する会でなければならなかったのではないかということだ。
この学校(東大)で大学生が何千 何百と来年の三月が来れば卒業して、エリートになって一般の社会人として通用する。僕たち障害者は小学校すらいけない状態なのに私だけなんで普通の小学校に通っているのだろう。ある面では正しいことをやり ある面じゃまちがったことをやってきたのじゃないかと思う。それは何であるか。いまいったように僕だけ学校に行っていて 本当の重度の人で 教育を必要とする人々を何んでまきこんでいけなかったのか。(八木下[1971])
川口の運動と「囲む会」をどうやって結びつけていくかって、考えているわけだよ。今の「囲む会」にある面では満足なわけだよ、俺は。はっきり言って、今までは良かったわけだよ、あのくらいで。これからは、俺、違うと思うよ。まず、市民運動を川口の中でやっていかなくちゃあならないと思うわけだよ。(八木下・名取[1972:55])
◆08:山崎と雨宮、和田博夫が経営する浦和整形外科診療所に入所(1972頃)
そういうことで、現在入院中の浦和整形外科診療所の和田医師のところへ相談にいった。これは医療のことではなく、和田先生が施設を持っているということで、俺としても施設に入りたいために行ったのである。
その時、和田先生は100パーセント良い施設はない、自分たちの力で市町村単位に解放された施設を町のなかに作って、たとえば親がが買物に行った帰りに寄れる程度の近い場所に作って、家庭と施設の範囲を縮めることが必要ではないか、ということを話してくれた。
それでついでに足の診察をしてもらった。立ちたいかと言われたので、立ちたいと言ったら、筋を4回手術すれば立てるだけは立たしてやると言われた。
自分としては立てれば、うまくいって歩けるのではないかと思い、施設を相談に行った俺がどういうわけか手術をする結果になってしまった。
それで、俺としてははじめての長い団体生活で、診療所のなかでの俺は重度の部類である。そのため、いくら解放的であると言っても、動けないものはつまはじきにあいながら、2年近くなにもやらずに過していた。また和田先生の方も、俺が気がつかないかぎり、施設のことは話してくれなかった。
だけど、退院したら家には帰りたくない。なぜ帰りたくないかというと、今まで浦整でやってきたことが、家に帰るごとによってぜんぶ消えてしまうおそれがあると思っていた。
それで、真剣にこれからの人生を考えるようになった。それで今までずっとつきあっていた教育問題で運動していた八木下浩一に、「教育問題も大事だけれども、くそ・小便すらも保証されていない障害者の現状がある。これをどうする」ということで「生きる場」の話し合いをはじめた。(山崎[1975:4-5])
しばらくしてまず山崎君が、続いて彼の友人の雨宮君が浦和整形外科診療所に入所して来た。せめて立てるようになりたい、できるなら歩けるようになりたい、そのためには両下肢の変形拘縮をとる手術をうけたいというのであった。
[…]
山崎君は施設入所を希望して、他からすすめられて私の所に相談に来て、入所の前提として手術をすすめられた由。手術の経過中、私から川口市内に自分が世話になれる施設の建設をすすめられて、八木下君に相談して運動を始めたとか。(和田[1978→1993:300-308])
その中で雨宮君と山崎君が手術を始めました。なぜ彼らは何回もの手術を受けなければならないかというと、健常者に近づきたい、歩きたい、自分で少しでも何かをやらなければ悪いんじゃないかと思うようになってきたのです。つまり川口市が土地と建物を出すと言った段階で彼らの意識が変わってきました。
建物を建てて、そこに雨宮君、山崎君が入ったら、そこで自分たちが何かを少しでもやらなくてはいけないと感じ始めたのは事実です。あとでそのことが問題になってきます。つまり重度障者者の場合は介護人がいなければ生きていかれないし、多額の介護料を川口市に要求することは悪いんじゃないかという発想が出てきました。
つまり川口市に土地と建物を出させて介護料まで出させるのは悪いんじゃないかという考え方のもとで彼ら二人が手術を始めたのです。彼たちの入院先の浦和整形外科の和田医師は「足を手術すれば立てるようになる、歩けるようになる、身辺自立が不可能ではない」と言葉巧みに手術に追い込みました。(八木下[1980:161-162])
◆09:街の中で住むとはどういうことかを考え始める(1972頃)
今の福祉では彼ら重度障害者が街の中で住む基盤がありません。彼たちが家から一歩外に出ようとすると、そこには大きな収容施設に行くきりしかありません。そこで私と何人かの障害者が話し合う中で地域で生きたい。つまり「重度障害者が川口の街の中で住むことが、どういうことなのか」をみんなで話し合う中で、いろんな意見が出てきました。
市営住宅で介護人付きの住宅を確保する案とか、生活保護法の枠内で市営住宅に住む案とか、または、五十人規模の収容施設を川口市内のどこかに建てる案も出てきました。一年二年議論をした結果、案がまとまりませんでした。その間、あちらこちらの収容施設とか関係者に会ったりました。(八木下[1980:160-161])
それは山崎君のような重度の障害をもった人々が、親が老人になって子供たちの身の回りの世話ができなくなったり、死んでしまったりした場合に、安心して生きて行ける場所を川口市民のために川口市内に作れるように川口市に要求したいので手伝って欲しいということであった。
その計画を実現させる現実的手段として、川口市安行という川口市街地から離れた田舎に、その当時使用してないが以前に市が経営していた木造平屋建の建物があるから、それを市から借りて自分たちで山崎君たちと生活する場所を作ろうという話だった。
社会党の議員さんからのアドバイスだったとか聞いている。沼尻さんから私のところにその話が来て、私にその診療所だった建物をみてくれとのことなので、沼尻さんや八木下君と自動車で安行に行ったのを記憶している。
しかし、この建物は市のものだと思っていたのが、実は市が民間から借りていたものであることがわかってこの計画は立ち消えになった。(和田[1978→1993:300])
◆10:とりあえず市に「土地をよこせ」と要求し、前向きな回答を得る(1973頃)
私たちは「地域で生きる、街で生きる」ということを前提として、また考えだしました。その結果、数人が寄せ集まって「地域で生きる」ことを基準として、川口市に対して「土地をよこせ」という要求をつきつけました。まだ漠然として重度障害者がどういうふうに日常生活をやっていくかが、そこの時点では決まっていませんでしたが、とにかく土地と建物を要求することでした。
当時の長堀市長は私たちの公開質問状に対して「かわいそうだから前向きに検討しようではないか」という話でした。市長がそういうことを言った段階で私たちは真剣に「地域で生きる」ことを考えなければならないことになりました。(八木下[1980:161])
◆11 西村秀夫を介して八木下と髙橋儀平が出会う(197404)
筆者は、1972年大学を卒業後、そのまま大学の助手になって3年が経ちそろそろ次の進路を探さなければならない時期に差し掛かっていた。一級建築士の資格取得前ではあったが、資格を取得し独立する方法を思案し始めていた。
そんな時、当時助手仲間であった内田雄造に廊下で呼び止められた。助手3年目の4月、「ギーちゃん、川口で障害者の人が家の図面を描いてくれる人を探している! どう、やってみない?」という軽い誘いがあったのである。聞くと、内田の東大時代の恩師で当時の東大新聞研究所助教授西村秀夫からの依頼であった。西村を介して川口駅東口前の喫茶店で、結成されたばかりの「生きる場」の代表であった脳性まひ者八木下浩一と出会うこととなる。1974年4月のことである。八木下の第一声は、「髙橋くん! ぼくたちは重度の障害者が街で生きるための住宅をつくりたい。川口市に要求しているが、そのための図面を書いてもらいたい」。
後で述べるが仙台市で第1回車いす市民交流集会が開かれたのが1973年9月であるから、その半年後ということになる。実は八木下の活動に参加するまでは仙台市の活動を知る由もなかった。
西村は当時、東大駒場で開催していた夜間自主講座に八木下を招き、八木下から「生きる場」をつくる運動への支援を依頼されていたのである。西村もまた八木下の思いを理解し、川口の運動にとって大きな精神的支柱となっていた。
当時もっとも規模が小さい障害者施設は身体障害者療護施設で、定員50人以上であった。そんな時代にあって、八木下たちの活動は、コロニーのように街から隔離された人里離れた郊外や山中ではなく、親兄弟が行き来し合える、定員10人の小規模な「施設」を川口市に求めるものであった。それは理想ではまったくなく、実際に家庭の中でもまともな生活の場が与えられない重度脳性まひ者の切実な声でもあった。「生きる場」は、「自分たちも街の中で生活したい。街の中で生活するためには、50人単位では大きすぎる。家族が4~5人で暮らすように、自分たちもそのくらいの大きさの住宅がよいのではないかと、市内で住む3人の脳性まひ者の相談から始まった。
しかし現実的には、4~5人では難しいかもしれないので10人程度であれば24時間ケアをつけても経営的に対応可能ではないかと判断し、小集団のケア付き住宅として進めることになった。(髙橋[2019:34-35])
◆12:「川口に障害者の生きる場をつくる会」結成(197405)
「川口に『障害者』の生きる場をつくる会」は、こんな中から町の中に「障害者」が生きてゆける場を行政の責任で実現させるべく一九七四年五月に結成された。(八木下・吉野[1979:38])
私たちは川口市長は土地と建物を用意するという経過を踏まえて、障害者が何人入ってどういう生活をするのか? 介護人は幾人を必要とするのか? 建物の中身をどういうふうに造ってゆくか? をいろいろな問題を考える場として「川口市に障害者の生きる場をつくる会」(通称「生きる場」)をつくりました。その中には、もちろん障害者も労働者も学生も、いろんな人が集まって、本当の障害者が街の中で住むことが、どういうことか、川口市にどういうものを造らしてゆくのか、真剣にみんなで考えていきました。(八木下[1980:162-163])
◆13:市に趣意書を提出(197405)
わたしたちはどういう いみで いえをでたいかというと
おやはいつまでも いきて いるわけではない。きょうだいに おしつけようとするが きょうだいが めんどうをみてくれても めんどうをみられるほうが つらい。また おや きょうだいと くらしていると しゅたいせいがなくなる。めしをくって くそをたれて いるだけがにんげんではない。じぶんのかんがえをいっても「じぶんではたらけないくせに もんくをいうな」といわれる。おさえつけられてしまって じぶんでせきにんをもってできない。そのけっか おやにあまえていることになってしまう。また じぶんで できることでも あぶないからとか しくじるからといっておさえられてしまう。
げんざいあるしせつに ゆけばいいといわれるかもしれないが げんざいのしせつはしょうがいしゃにめしをくわせて かって おくだけである。しょうがいしゃをびょうにんとして みているから れいだんぼうかんぴ りはびりいりょうつきでも いろいろの きそくで しばられ かんしされている。だいきぼな しせつでは ふちゅうりょういくせんたーのように ぎむてきとなり にんげんを ものとしてしか みなくなってしまう、3どの めしも はいべんも しばられてしまう。また げんざいのように やまおくの しせつではなく かわぐちしに すみたい。しんたいしょうがいしゃでも ちえおくれでも ねたきりの ひとでも まちの なかに すむのが あたりまえだ。なぜ しょうがいしゃだけが あつまって けんじょうしゃから はなれたところで いきてゆかなければ ならないか。ぼくたちも まちに でたいし おやきょうだいや きんじょの ひとが あいにくるにも ちかい ところのほうがいい。たてものはじゅうじつしていなくても ぜいたくはいわない。3どのめしと はいべんをやりたいときに やれる。ぼくらのすむば いきるばそこから ゆきたい ところに ゆけるところがほしい。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1974a])
浦和整形病院に山崎君と雨宮君を訪ねた。八木下君と一緒だった。山崎君と雨宮君の考えをもとにして、「川口に障害者の生きる場をつくる会」の趣意書をつくろうということになった。あいにく雨宮君は手術のすぐ後で動けないので、山崎・八木下・西村の3人で駅に近い喫茶店へ行って相談した。山崎君の言うのを私が書いた。それを病院に帰って雨宮君に読んで聞かせ、意見を加えてまとめあげた。それをカナタイプで打ったのが、最初に市長へ持って行った趣意書であった。(西村[1975:6])
私たちは、74年5月にまず会の山崎・雨宮両君の談をまとめて、「生きる場」の趣意書として市長に提出しました。
[…]
「障害者」も普通の生活がしたい。一生を家族のお荷物として人間らしい生活もできないまま終わるのではなくて、自分自身の生活を自分で決めて生きてゆきたい。私たちの“生きる場”の条件としては、「障害者」も普通の社会生活をおくれるように、親や兄弟たちとも気楽に往き来できるように買い物の途中でも寄ってゆけるような又、私たちが外出したい時、職員の人に気がねしないで出かけられるようにしたい。私たち「障害者」が街の中に出ることによって地域の人たちともふれあいができる。ふれあいができることによって人間としてのお互いの理解が生まれてくると思うのです。作られたものが、社会や家庭からの「姥捨て」の場所にするというのではなく、社会の中へ出てゆくステップとしたいのです。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:9-10])
◆14:市に陳情書を提出(197409)
陳情書
1.定員10名入れる場所(建坪90坪)
2.土地を市街に見つけて下さい
3.重度者3名(山崎・雨宮・仲沢)には3名の介護者を着けて下さい。
(重度者1名に対して介護者1名を必要とします)
4.管理職員8名(炊事、洗濯、雑務)をつけて下さい
◎4.についてはホームヘルバーでもよい
以上
4項目について1日も早く実現して下さい。私達の死活に関わるものです。
(川口に障害者の生きる場をつくる会[1974b])
私たちが川口市に要求し、この三年間実現にむけて活動してきた「生きる場」とは何なのか。生きる場をつくる会が一九七四年九月に川口市に提出した陳情書にあげられている四項目が、最低限必要とした条件です。その四項目とは「一、定員一〇名入れる場所 一、土地を市街地にみつけて下さい 一、重度者には一名につき三名の介護者をつけて下さい(常時一名) 一、雑務等管理職員三名をつけて下さい」というものです。これは山の中の人里離れた隔離収容施設ではなく、街の中で地域の人ともつきあえる場所にしてほしい。
そこは買い物や散歩にも出かけられるところであり、年老いた親や、数少ない近所の知人と今までどおりつきあえる様なところであり、現在住んでいる川口の市街地に場所をみつけて下さいというのが一つです。二点目には、大規模な「障害者」だけを集めたところではなく、家族的雰開気の中でお互いの人間関係が充分できる人数であること、これが定員一〇名ということです。そして「重度障害者」が、日常的生活を制限されない、最低限トイレや食事は自由にでき、外出等の人間としてあたり前の生活ができるだけの介護職員を保障せよというのが第三点目なのです。そういう「生きる場」を私たちが今住んでいる川口の街の中へたててほしい、というものでした。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1977a:28-29])
私達の会が「障害者」もあたり前の市民生活がしたい、今ある大規模施設ではなく、小規模で家庭の延長のような場=生きる場が欲しいという主旨で、「生きる場」を川口市に要求する運動を七四年五月から始めた。これに対し民生部は「試験的にでも実現したい」と述べた。運動も進み九月に市長との交渉が行なわれ、私達は四項目の陳情書を提出した。①定員一〇名入れる場所(建坪九〇坪)。②土地を市街地に見つけて下さい。③重度者三名(山崎、雨宮、中沢)に一人三人の介護人をつけて下さい。④管理職員三名(炊事、洗濯、雑務)をつけて下さい。④については、ホームヘルパーでもよい。この四項目のうち一点でも欠けたら「生きる場」ではない。①の定員一〇名というのも既存の施設では、最低でも三〇人以上であり、人間としてではなく物として扱われている。②当然大規模の施設ともなれば、人里離れた所に建てられ親・兄弟どころか隣の人に会う事も不可能である。そのためにも土地を市街地に見つけて欲しいという、あたり前の事である。③重度者一人に三名の介護人をと言っているが、一日二四時間一人では見られない。その為にも、当然ながら三名の介護人と言っている。これも既存の施設では劣悪な介護人の不足によって一歩も外に出れず、人間としてではなく物として扱われている。等の要望書についての説明をした。この交渉の席上、市長は「完全に要望のとおりは行かなくとも、ある程度のものは作りたい」。さらに九月議会においても「ひとつ試験的にも何をおいてもやってみたい」と答弁している。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1977b:147])
これらの非分類・小規模・充分な介護体制の保障を市行政の責任で保障するという諸条件がそろってはじめて、従来の施設にあった地域社会からの隔離や非人間的処遇・職業病の発生等の問題に対処できると考えたからなのです。
しかし、これらの要求が全て勝ちとれたとしてもそれからが問題だと思います。私たちは75年の合宿の話合いで、互いの家族との関係やいかにあきらめさせられ、又、不自由さを忍んできたか、それまでの生きて来た歴史を語り合いました。その中で、基本的に、私たちの目指す“生きる場”とは、単に、小規模な施設をさすのではなく、そこを自分自身の生活の基盤としながら、それまで人間として奪われてきたものを取りもどしてゆく場であり、自分自身の甘えやあきらめとも闘う場である。又、家族や友人と対等な人間関係を結べるための場でもあり、一般社会の偏見や押しつけと闘い、「障害者」の存在を主張してゆく拠点でもあります。さらに、そこから地域の中に出てゆき、地域の人々と接する中で、人間関係を築き、「障害者」の利用できない都市構造の問題や、教育・労働をはじめとする、社会的活動の場を切りひらいてゆくための拠点なのです。私たちは、地域社会総体が「障害者」を排除するのではなく、「障害者」が「健常者」と同等の権利を保障され、地域社会に受け入れられるように変わってゆかねばならないと考えています。私たちは、地域社会全体を、「障害者」の“生きる場”へと変えてゆくためにも、地域から排除されることを拒否し、地域の中に、ひらかれた生活の場を勝ち取らねばならないと主張しているのです。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:11])
「青い芝の会」などの活動も盛んな頃だった。障害者が生きるためのことを市役所に直接訴えることはどこの地域でもあり、当然の流れだった。
「生きる場をつくる会」は、市役所相手に日本で初めての小規模施設建設を要求した。当事者が運営をするタイプということで、この要求は、他にも知られていた。話し合いをした結果、最終的には当時の市長が良いおじいさんで「いいよ」と言ってくれた。
[…]
主張の中心にはいたが私自身はそういう施設に入るつもりはなかった。看病する母もいたし。誰が入るかは、一緒に旅行に行った時くらいから、大変な人が入るという流れになっていった。(仲沢[2017:ページ表記無し])
市への要望書は、私と雨宮くん、山崎くん、三人の重度障害者の話を、西村秀夫さんがまとめて作りました。川口市に対し、市街地に定員一〇人のくらしの場、重度者には一人に三人の介護者、間接介護者を三人つけることを求め、交渉に入りました。学生・教員達がさまざまに関わってくれました。(八木下[2010:164])
◆15:市が介護職員をつけない方向で画策する(197502~06頃)
私たちの要求に対し、川口市は当初“生きる場”の建設を約束し、予算もつけられてゆきました。又、この初期の段階では、私たち会員のうち「重度肢体不自由」の山崎・雨宮両君が、浦和整形で和田氏の治療を受けておりましたが、和田氏が、認可基準にない施設を手がけてきたという評判もあって、和田氏や和田氏の右腕と言われた身障根っ子の会の程塚氏の意見を聞いたり、「ひふみ会」の経営する和泉園を市側と合同で見学したこともありました。しかし、相方の主張が異なるので、程塚氏もやがて来なくなり、運動としては別れていました。
この時点で、市側は、「建設」すると約束しながらも施設認可基準にないため、補助が得られないことから介護職員を付けずに済まそうと画策してきました。自活可能で介護を要さない「軽度者」のみを対象とし、「重度者」を切り捨てるため、和田氏に「重度者は県の療護施設へ行くように説得して欲しい」と依頼し、おさえつけようとさえしました。又、市営住宅を改造してホームヘルパーの派遣程度ですまし、後は家族に押しつけようと、「重度者」の家族の生活苦を利用して、親の抱き込み工作をはかってきたのです。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:15-16])
川口市は「生きる場をつくる会」の要求に対し、当初、“生きる場”の建設を約束し、一六五〇万の予算を示してきた。しかし、市当局は、七八年三月一日の“しらゆりの家”強行開所におけるまで、私たちとの約束を幾度となく破り、クルクルと猫の目のようにその方針をかえてきた。
まず、市側は建設すると約束しながらも認可基準にないため、補助が得られないことから介護職員をつけずに済まそうと画策してきた。介護を必要とする「重度者」を切りすてるため、「重度者は県の療護施設へいくように説得してほしい」と、「まりも会」和田博夫氏に依頼している。しかも、市営住宅を改造し、ホームヘルパーの派遣程度ですまそうとする。(八木下・吉野[1979:39])
山崎君たちとの診療所での日常生活を通じて、八木下君たちの考えと違った私の意見に賛成するように説得したことは事実である。
なぜなら、八木下君たちの考える、すなわち彼らのいうところの「生きる場」が川口市に作られたにしても、山崎君及びそれ以上に障害の重い人たちは、その場の対象者にはしてもらえないと考えたし、山崎君たちと日常生活を共にする人たちとの間に利害が相反しない関係を存在させることは、その人たちを近代社会の労働者と考えた場合にどうしてもできないと考えたからである。
八木下君や山崎君たちと川口市内で開かれた集会に出席したとき、公明党の議員さんも、「生きる場」という要求に対して、市側は日常生活の身の回りはどうやらできている人々を対象にしているのであって、山崎君たちはその場の対象者とは考えていないから、そのことをふまえて要求するようにと勧告していたのを記憶している。
八木下君たちの要求にまず川口市側が考えたのは、市営住宅を提供してホームヘルパーを派遣することぐらいだったはずである。
埼玉県庁の委員会で同席したその頃の川口市の福祉部長が、私に次のように話しかけて来たのも、公明党の市会議員の方の勧告の裏づけとなるものであった。
「山崎君のような重度の障害者たちの日常の生活の面倒をみる所は、市では作れないから県や国の責任でやるようにしてほしいと思っている。身体障害者の判定医である和田さんは、山崎君たちは深谷市に出来る県の療護施設で面倒をみてもらうように説得してほしい」と。
[…]
この両者の差は、たびたびの話し合いでも一致は得られなかった。埼玉身障問題をすすめる会に代わって、山崎君の支援を始めていた埼玉身障根っ子の会の代表者程塚君は、当時私に次のように言っていた。
「八木下君と何度話してみても駄目です。彼はこちら側と話すとこちら側の方針で良いようなことを言っているかと思えば、あちら側の支援者と話をしてはまた意見を変えて来る。彼とはこれ以上話し合いをしたくない」と。(和田[1978→1993:302-304])
◆16:市から通園授産施設案が提示される(197509)
四ヵ月ぷりに再開された九月二六日の交渉の席上、民生部長は一年四ヵ月にわたる川口市と私達の話合いの内容を全く無視し「施設は「生きる場」ではなく通園の授産施設を作る」と言いだした。私達は今までの交渉経過あるいは市長との約束はどうするのかと追及したが、民生部長は「当初から通園のつもりで考えていた」などとうそぶき、今までの経過、議会答弁も否定しすり変えたのである。これは正に、低賃金労働力となり得る軽度「障害者」の更正のためのものであり、私達が当初、市に要求してきた生活する場=生きる場をすり変え、さらには重度者は人里離れた既存施設にでも行けと言わんばかりのものであった。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1977b:148])
しかし、その後、市は突然約束を破って、“生きる場”の要求をすり変え、認可もとれる逃げ道として、「通園授産施設案」を強行しようとしてきました。これは、収容施設は国か県で、通園は市でという福祉体系にならって、労働力として「更生」可能な「障害者」には金をかけるが、投資の見返りのない「重度者」は、切り捨てるという行政の「姥捨て」の論理を如実にあらわしたものです。
[…]
私たちが、この市の横暴に対して闘おうと各所に支援要請した時、身障根っ子の会会長程塚氏は「公立民営でよいというのなら別だが、公立公営を要求するのでは支援できない。」という理由で支援を拒否しました。一方、和田氏は身障根っ子の会会報4号で、「場所は市内の多少田舎でもガマンしたらどうか。そこにできるだけ広い土地を用意してもらってその数もいつまでも5人とか10人とか言わず、社会福祉事業法による福祉法人めざして、将来30名ないし50名程度になることを忍ばないか。そのためには公立公営一点ばりでなくて民立民営でもはじめのうちはガマンしないか。」という劣悪な案を公表してきました。これは、私たちの「認可施設ではなく、市の責任で、小規模・街の中・充分な介護体制」という要求に対し、「認可施設をめざし、民立民営でも、大規模、多少田舎、劣悪な介護体制」で妥協すべきというキャンペーンでもあるのです。和田氏自身、巻末の論文で、「私たちの意見くらいのところでガマンすれば、川口市も考えてくれるのではないかということを根っ子の会の会報に書いた」と記しているように、明らかに、行政が「これは都合がいい」と飛びついて来ることを狙った工作だったのです。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:16-17])
ところがこの四月に市長が再選され、福祉部長が変わったら、「市は収容保護施設は考えていない。通所施設を考える」という通告を、川口市のこの問題に関係して来た身障者たちは受け取ったらしい。
彼ら川口の身障者たちは、これまでかなり非現実的だと我々には思われる激しい要求を川口市に対してつきつけており、この市当局の約束違反に対しては、彼らならさぞかし激しい抗議行動でもおこすのかと思っていたら、はなはだおとなしいようである。新聞記者会見をして記事にしてもらって、一般市民の理解を高めながら市当局に迫るのだという風に聞いている。
そんなことなら、前福祉部長との交渉の頃からの、
①「収容保護施設の設備場所は、市内の繁華街でなくてはならない」としたり、
②「日常生活動作のほとんどが、他人の介補によらなければならないような重度の障害者の収容を予定する施設を考えながら、職員と対象者の区別のない言葉どおりの共同生活の場としての施設を要求する」とか、
③「その施設はかならず公立公営でなければならない」などという激しい要求に固執しなくても、我々身障根っこの会の、
①「設備場所は市内の多少田舎でも我慢したらどうか。そこにできるだけ広い土地を用意してもらって、その収容者の数はいつまでも五人とか十人とかいわず、社会福祉事業法による福祉法人を目ざして、将来三十名ないし五十名程度になることをしのばないか」
②「そのためには公立公営一点ばりでなくて、公立民営でも民立民営でも、初めのうちは我慢できないか」
③「精神的には共同生活の場という発想は充分理解できるが、現実的には施設の中における職員とその対象者との区分の存在は、重度重症の対象者を考える限り避けられないことを理解して、職員とその対象者との新しい人間関係を創造して行くような施設を考えないか」
などという助言に耳をかしてもよかったのではないかと思われる。(和田[1975→1993:252-253])
山崎君たちを含めた八木下君たちが、川口市に対して山崎君たちのための生きる場という、その場に対する市側の考えと、八木下君を代表とする人たちの差をはっきりした形で問題とすることはないままに、川口市は山崎君たちを含めた八木下君たちに、その生きる場を作る約束をすることになった。
ところが福祉部長が代わって熊野御堂氏になると、川口市は収容施設でなくて世間なみに通所施設を作ると言い出した。
八木下君たちは約束違反だと抗議をしたが、部長は言うことをきかない。
山崎君は坐り込みをしても抗議を続けようと主張したが、八木下君はしばらく待てという。山崎君は埼玉身障根っ子の会とだけでも坐り込みをしたいから出掛けてくれと言って来る。
そこでここは山崎君の言うように、坐り込みを辞さない覚悟で市に抗議をしないかぎり、川口市は山崎君たちを世話するところは作らないであろう。そのかわりすぐに公立公営が実現できて、世間一般の施設よりも職員となる人たちの良い労働条件が獲得できるのはしばらく辛抱してもらって、私たちの意見くらいのところで我慢すれば、川口市も考えてくれるのではないかということを根っ子の会の会報に書いた。(和田[1978→1993:304-305])
◆17:りぼん社から報告集を発行(197512)
八木下さんとお会いしてから既に四十年を過ぎました。脳性まひ者がまちで生きる「場」をつくる、ということがテーマの会に、何もわからずに参加したのが事の始まりでした。[…]
まもなく「生きる」をガリ版で創刊することが私の当番になりました。翌年末にはリボン社(大阪)から真っ赤な「川口に障害者の生きる場の運動」という小冊子を刊行するお手伝いもして、毎日が楽しく過ぎたように思うのです。
[…]
当時川口市へ提出した要望書(一九七五年二月)をみると、「設計に私たちの意志をどう反映させるのか」という、当事者参加のさきがけのようなことを書いています。
でもそこからが「生きる場」運動の試練でした。八木下さんが全国活動に入った時期と相関しています。市が建設に向けて動き出すと、運営について福祉施設の運営に関わる医療の専門家が介在し始めました。市は安全を求めて施設経営者に運営を任せようとしたので、私たちは当初の方向とは異なるとして入居を拒否して行きます。(髙橋[2015:16])
※「翌年末」は文脈から1975年末を指している。
◆18:第1派座り込み(197601)
七六年一月一九日、私達は「生きる場」建設の方向で交渉をもつように市当局に要求したが、誠意ある態度を示そうとはしなかったので、私達はやむを得ず一九、二〇日の両日、川口市役所において座り込みを行ない、私達会の仲間だけではなく、他の障害者団体、および地区労働者や市民からも大きな支援を受けた。そして、二〇日、会の代表と市当局との間で話し合いがもたれたが、「通園」は撤回せず、一月二六日に交渉をもつことを約束させ座り込みをといた。しかし、一月二四日の交渉の席上でも市当局は「通園」を撤回しようとしなかったが、各党議員諸氏の過去の交渉の議事録あるいは市当局の議会当弁を引用しての追及に市は、私達の正当な運動の中で自らの誤りを認めざるを得なくなり、一月二九日通園撤回の確約書を文書で私達に手渡した。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1977b:148-149])
「生きる場をつくる会」は市のこの横暴に対し、多くの「障害者」の仲間、労働者と共に川口市はじまって以来の庁舎内坐わり込み闘争に立ちあがり、通園案白紙撤回と“生きる場”建設の文書回答をかちとり、川口市は生きる場、建設に追いこまれた。(八木下・吉野[1979:39])
◆19:市から収容施設方式・和田委託案が提示される(197602)
◆20:交渉の途中で山崎と雨宮が退席する(197602)
市の発表内容は、「専門家の和田医師とも充分協議の結果、①市立民営の収容施設。②委託先は和田博夫医師。③土地はグリーンセンター脇に150坪用意する。ことに決定した。」というものです。要するに、市内でも辺ぴな郊外に建物だけを建て、経営費は一円も出さず、後は全て和田氏にまかせて逃げようというひどいものでした。ところが、この市の発表と同時に会の山崎・雨宮両君が、「この案は検討の余地がある。」として、突然退席してしまうという事態がおこりました。残った私たちは、この案に強く抗議しましたが、会の2名の「重度者」が賛成したということで市は強行をはかってきたのです。
それまで共に4項目を柱に、“生きる場”をつくろうと苦楽を共にした仲間が、突然会を無視してこのような行動に出たことは、大きな驚きでした。ところが、なんと、これは和田と行政によってあらかじめ仕組まれたことだったのです。「一円の経営費もなくて、一体どうやって『障害者』の生活費や人件費をまかなうのか!」という私たちの抗議に対して、驚いたことに川口市は、「そんなことは知らない、受託者の和田氏がこれでできると言っているのだからできるのだ。」と無責任きわまりない逃げ方をしたのでした。
和田氏たちが、山崎君たちの親に説明したところによれば、「園長には浦和整形で低賃金で働いている程塚氏がなり、職員の給料は当面3~5万円程度でやる。いずれは50人規模の施設に拡大し、法人認可を得れば一般の民営施設なみの生活と給料にできる。」という計算です。それまで、このような低賃金で働ける労働者が見つかるかという問題に対しては、浦和整形にいる「軽度障害者」等を職員として決定しているというものでした。なるほど、程塚氏が、「小規模よりも人数の多い認可施設の方が運動の力になる。」「公立民営でなければ支援しない。」と主張するわけだと納得できました。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:17-20])
しかし、次に川口市が押しだしてきたのが「和田委託案」だった。その内容は、①市立民営の収容施設、②委託先は和田博夫氏、②土地はグリーンセンター脇(辺ぴな郊外)に一五〇坪用意する、という、いわゆる建物たけを建て、経営費は一円も出さず、全て和田氏に任せてしまうというものだった。この時期に川口市と「まりも会」は「生きる場をつくる会」の内部分裂をはかり、二名の「重度障害者」に恫喝を加え、「生きる場をつくる会」から抜けさせ、二名の「重度者」が賛成したということで、市はこの案に反対する見解書、公開質問状も握りつぶし、強行をはかってきた。(八木下・吉野[1979:39-40])
外部のハゲタカのような男、浦和市で整形外科を開業している和田博雄氏が出しゃばって変なことを始めました。つまり建物と施設自体を乗っ取りにかかり、和田氏の患者だった山崎君、雨宮君をおどかし「生きる場」の分裂行動を策動したのです。
[…]
ひとつ和田氏たちがやったことを例にあげると、「生きる場」の会員であった雨宮君の親をおどかし「生きる場」から抜けるように親から説得をさせました。雨宮君の親は雨宮君に対して、殴る蹴るやの親としての脅かしを加えました。つまり和田氏は雨宮君と山崎君を「生きる場」から抜くことによって私たちが市に作らせようとしている「しらゆりの家」を乗っ取ろうという計算だったのです。そのことは二人の障害者からずっと後になって聞きました。
最終的には二人共、和田氏の脅かしに屈して「生きる場」から抜けました。私たちは二人がやめたことはショックだったけれども団結を固めて川口市に対して私たちの要求をつきつけてきました。
しかしながら川口市は建物は造るけども運営管理は民間依託をすると言ってきました。私たちはそれに対して公立公営でやるべきだと主張したのです。現在の国とか県の施設の大部分は民間委託であって、土地と建物は厚生省とか県が造って、中身が依託方式であるのですが川口市も残念ながら例外ではありませんでした。私たちはそれに対して強く撤回を求めましたけれどもそれを認めなけれぱ、この「しらゆりの家」が白紙の状態になることが必至であったので涙をのんで認める結果になりました。
民間依託は市の責任のがれであり、また川口市は依託には口出ししないわけで、つまりそこの「しらゆりの家」で障害者が病気になろうと死のうと、職員が職業病になろうと一切責任を依託先に転嫁するのです。それに対して私たちは妥協をするか徹底的に闘って、その建物の予算を反古にするか、まさに分かれ目でしたが、結局はこの案を呑まなければならなくなりました。(八木下[1980:165-166])
◆21:市に山崎・雨宮・和田の連名で要望書が提出される(197603)
◆22:山崎と雨宮、会から除名になる(197604)
そしてさらに3月半ば、私たち会の意向を一切無視したまま、山崎・雨宮両君と和田氏の連名で、川口市に対して「市の案でよいので早くつくって下さい。」という内容の文書が提出されてゆきます。4月28日、山崎・雨宮両人の出席した“生きる場をつくる会”の席上、両人の会を無視した再三の行動と、和田氏の案の不当性も説得しましたが、彼らの姿勢は変わらず票決の結果、彼らの除名となったのです。和田氏は、会には秘密にして、会員の「重度者」の生活の窮状を利用して行政と裏取引した事実を、「山崎君たちが除名を受けているような関係で、彼らの賛成を得る必要がないと思って連絡はしない。」と言いつくろい、委託の話があった時、私たちに秘密で受けたことの理由にしています。山崎君たちの除名は、和田氏が委託を受け、市が発表してから実に2ヵ月余も後のことなのです。この時間的前後関係からも、和田氏の嘘は明白です。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:20-21])
福祉部長が私に会いにきた。私の意見を読んだらしかった。老人の収容施設はすでに地方自治体である市町村が取り上げている。身障施設もその方向ですすめる可きだと説いた。福祉部長は市有地を六〇〇坪位考える、建設費一、六五〇万位だったと記憶するが、これは市がとりあえず用意する、市側の負担はそれだけで、あとは民間の経験のある法人に委託するという事だった。
この条件をめぐって、八木下君たちと山崎君たちとの間に論争がおきる、山崎君はそれで仕方ないとする、八木下君は反対、その結果は山崎君たちの八木下君から除名の通告となる。
これらの動きと前後して、私のところに前記の条件で引きうけてくれる様に福祉部長から依頼が来る。その施設に入所する人たちである山崎君たちが賛成するなら引き受ける約束をする。八木下君たちとは、意見が違ってきているし、山崎君たちが除名を受けている様な関係で彼等の賛成を得る必要はないと思って連絡はしてない。
[…]
このように「しらゆりの家」の成立過程を記憶していたところ、この文章を山崎君に読んでもらったら、事実誤認があるという。[…]
②熊野御堂氏と私の会談後、市から提案された条件は、こちらから八木下君たちに連絡をしている。その条件に賛成する山崎君・雨宮君が除名になったのであると言う。(和田[1978→1993:305-308])
◆23:市に見解書・公開質問書を提出(197605~06)
◆24:第2派座り込み(197607)
行政は、私たちの和田委託案に反対する見解書や市長あての公開質問状も握りつぶし、山崎雨宮君が賛成したことを理由に強行しようとしたのです。76年7月1日より3日間に渡って私たちは、「無責任な民間委託案反対!和田委託案白紙撤回!四項目を実現せよ!」と第2派座り込み闘争に起ち上り、退去命令の発令される中、市を追求し、市長に対し市の案の撤回と「生きる場」建設の約束の実行を迫りました。その結果、7月13日の市長交渉を経て、9月2日の交渉の席上、市長同席の元で、和田委託案の白紙撤回と新たな案が提出され、現在の“しらゆりの家”の原型となってゆきました。その案は当初、①土地は柳崎地区に550坪。予算は建築費7,500万、年間運営費1,000万。②定員10名の小規模施設とする。③「障害者」の生活費、人件費として1,000万程度をつける。④公立民営方式とするが、和田博夫氏には委託しない。⑤今後も会とよく話し合って案を練り上げてゆくというものでした。
この案は、和田委託案とどう違っているのでしょうか。まず、将来認可施設に拡大する予定であったものから、定員10名の小規模という事が一応確認されました。そのため、立地条件も辺ぴな場所から、一応市街地でないという問題を持ちながらも川口市街へ近く、住宅街の中で予算も、1,600万から7,500万へとなりました。そして経営費は全くなしというものから、一応、生活費・人件費を市の負担しようということになり、和田氏には委託しないということになりましたが、民間委託方式だけは生命線として堅持する構えは変えませんでした。
後に、和田氏たちが再び介入して来た時判明したことなのですが、大野市長は、私たちには「和田氏には委託しない。」と確約したにも関わらず山崎、雨宮両君と会見し「施設は和田氏に委託する。」と裏で二枚舌を使っていたのです。行政は、約束を反古にするなど何とも思っていません。これは、まず「生きる場をつくる会」の弱い環を抱き込み、運動を崩壊、分裂させ、加えて和田氏を利用して責任のがれをしようと目論んだのか、どういうわけか「会」の結束が、かえって固まって、第1派に倍する座り込みによって反撃され、改善せざるを得なくなった時、こわい圧力団体には一応の譲歩をするが、一方、いつでも、どんなに劣悪な案でも市の案に賛成する用意のある「障害者」を武器として温存し、常にこの両者を両天びんにかけ自己の逃げ路は確保した上で、圧力団体と決裂した時、「ほらこの障害者たちは大賛成していますよ。」と彼等の賛成を楯にとって、さも「障害者」の要望に答えたかのようなポーズをとりつつ、和田氏と結託して力で強行しようという工作だったのです。私たちの反撃によって相当な譲歩をよぎなくされつつも、和田氏たちとの、ゆ着はそのまま続いていたのです。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:24-25])
◆25:雑誌(『市民』8月号)の座談会で八木下・和田が直接討論(197608)
八木下 説明しますよ。ぼくたちの運動は川口市に施設ではない“生きていける場”を作っていこうというもので、障害者十人に介護者が三十人ぐらいのものを作ってくれと要求したら、市は作りますよと言って、いったん約束をしたのに、市側はその時調査不足で、あとからよく調べたら、これは大変な話だ、障害者十人にたいして一億のカネがかかる、百人いたら十億もかかってしまって大変だということで、民間とやっていきたい、市だけではだめなので、専門家なんかをあわてて呼んできて、公立民営で作りたいと。それなら安くあがる。なぜ安くあがるかというと、福祉法人の民間委託なら、国が建設費の八割の費用をもってくれるからで、ぼくたちが交渉をつづけているのに、市側は勝手に別のところでそういう安上がりの交渉をやったという経過がある。ぼくたちは、充実したものを作ってほしいと、いま現在も要求しているわけです。
和田さんがさっきから将来的には小さい施設がいいんだと言ってるけど、それじゃあなんで川口市の民間委託のは大きいのかということを和田さんはどう考えてるのか、そこらへんに和田さんに矛盾があると思うんだ。
和田 さっきから言ってるように、小さなものがいいんだということは、長期展望の見通しのなかでのことで、いまの彼我の力で実際に取れるかどうかという運動論で、予測の問題と彼我の力との判定なんですよ。いまの八木下君の話に多少事実の誤認があるので一つ二つ指摘しときます。
わたしはけっして財政的に、川口だからできるできないなんてことはひとつも言ってないんだ。原則として、いまやれることは市立市営。でもどうしてもダメな時は、公立民営でも私立私営でも作って具体的に敵さん方と対決しなければしょうがない。と同時に、本当に在宅で、あるいは都営住宅で市営住宅でやる集団があるなら、それもいい。その両面とをやっていかなくてはならないというのが前提なんです。
もう一つ、あなたたちが市と約束したというのは“生活する場”を作るという約束ですね。あなた方は、世話をする人とされる人との共同生活の場ということだけど、すれ違ってるんだよ。彼らは共同生活の場というから、常識的にホームヘルパーぐらいを派遺すれぱいいだろう、あるいは家族が介護すれぱいいだろうと考えていたわけなんだ。そしてこんど見通しが変わったらその約束を破って、通常施設ときたわけで、それでこの前の坐り込みになったんだよね。
その過程でわれわれのほうの了解では、だんだん要求がエスカレートして、こんどは職員をよこせでしょ。川口市はホームヘルパーという程度なら納得したんですよ。そこのところがわたしらと違ってるんだ。そこで、基本的には共同生活の場というけど、施設の中でよく問題になっている介護する人と介護を受ける側との人間関係の新たな関係を作っていかなければならないということをわたしは言ったでしょう。そういうつもりで、介護する人とされる人の区別を前提として要求しないと、わたしらの理解では、あなたたちはそこを明確にしないままに市に要求してるから、市ははっきりすればするほど、そこから先はガンとして受けつけないわけだ。わたしらの段階は市が共同生活の場にホームヘルパーぐらい出すというならばそれをすすめたんだけど、担当部長が変わった段階で通常施設になってしまった。
都立の施設の中で問題になっている、いわゆる対象者の人たちの人権を守るのが先なのか、それを介護する労働者の人権を守ることが先なのか、あるいは同時並行的にできるのかということになると、わたしは同時並行的にはできないと思う。少なくともまず、世話をする人間が多少苦労をかぶらなければならん。われわれの集団は常に低賃金・オーバーワークなんです。だから民立民営から、公立民営に、あるいは公立公営といった方向に解消する運動をつづける集団なんですよ。労働者の福祉が保障されなかったら、対象の障害者の介護ができないというような集団だったらわたしは信用できない。わたしは直接介護してないのに、何をなまいきなこというか、といわれても、そういう集団は信用できない。それがわたしたちと一緒に生きてきてくださってる施設の職員諸君の意見です。現実に働いているわけですよ、状況は、いい悪いは別として。こういう運動をやってる和田がけしからんというのなら、批判はいつでも受けますよ。
八木下 ちょっと待ってください。事実関係がちがいますよ。ぼくたちは、はじめから十人の介護者をつけてくれと言ってきた。要望書も出てます。何かしでかしたかもわからないし、どこでどうかん違いしたのかもわからないけども、ごまかしたとか、そういうことはあくまでも違うとぼくたちは言ってますよ。いま和田さんが言ったことは違いますよ。(高杉ほか[1976:69-70])
◆26:市から労働基準法違反案が提示される(197609~12)
◆27:第3派座り込み(197612)
私たちは、市の案を検討した結果、多くの不満点をもちながらも場所、建坪に関しては一応了承した。しかし、運営形態や予算に対しては、全く「障害者」の生活の実情を無視したものであり、既存の隔離収容施設と比べてもひどい内容であるということを訴え、具体的な交渉にはいってゆきました。川口市は、はじめ建物を建ててから細かいことを決めようと設計プランの先行を主張しました。まず市と私たち相方で建物の設計図を出し合って明らかになったことは、玄関や管理室から居室全てが一望できるという、収容所的設計であるということ。そして、施設内に「職員住宅」という名目の部屋が設けられ、住み込みで24時間働かす腹づもりであることでした。また、市の運営予算は年間1,000万円で、私たちの試算では、年間8,000万円内外という計算ですが、このズレは職員の人数がまず大きなものでした。市の案では、「重度者4名・中軽度者6名の計10名に対し介護職員4名をつける。」というものです。これは、いわゆる認可基準での定員50名に対し、20名の職員をつけるという基準を単純に定員10名だからと5で割り、4名にしてきたというおそまつなものでした。「まず、建物を建ててから」と行政側がゆずらなかったのは、何とか住み込みのたこ部屋をつくってしまってから4名で強行しようという作戦だったのです。私たちは、介護職員の人数で決着がつくまでは設計プランニングを中断し、介護体制の交渉へとはいりました。4名ではローテーションすら組めず、とても10名の「障害者」の面側を見れません。私たちの追求によって、次に市の出したのは、「重度者5名・中軽度者5名の計10名に対し、7名の介護職員・施設長1名・炊事2名の計10名にする。昼間5名・夜間2名、のべ7名(公休1名を含む)の介護者を配置する。」という案でした。その勤務体制は、週88時間拘束、54時間勤務というおそろしく前近代的なもので、週3回もの泊まり込み労働を強いられるのです。しかも、夜勤の時間は、施設内宿泊として労働時間から除外され、週88時間も働かされながら実際は44時間労働と計算していたのです。
このようなことは、他に類例を見ないものです。このことは、74年7月26日、基監発―第387号通達―「当直について」及び寄宿条件の通達に違反し、又週当りの労働時間、それ自体が全面的に労働基準法に違反するというものだったのです。
[…]
76年12月16日、私たちは充分な支援体制を組み多くの「障害者」・市民・労働者と共に第3派座り込み闘争に突入しました。12月市議会の真最中に、私たちは座り込みを貫撤し、「労働法違反の民間委託案反対!「障害者」の飼い殺しと労働者の使い捨てを許さない!」と市を追求しました。その結果、野党各党のあっせんもあり、ついに大野市長が市議会の席で、「労基法を守る。職員を増員する。」と答弁せざるを得なくなっていたのです。そして、翌年2月4日の交渉において、川口市は、「重度者5名、中軽度者5名の計10名に対し、直接介護職員12名、施設長1名、炊事2名の計15名、労働条件は公務員なみとし、問題があれば増員する。」と回答してきました。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:25-26])
再び「和田委託案」をつぶされた市側は、何とか住みこみのたこ部屋をつくってしまってから四名で強行しようという“たこ部屋方式介護者四名案”を打ちだしてくる。四名ではローテーションすら組めず、十名の「障害者」の介護はとてもできない。
「生きる場をつくる会」の追及によって、市は次に労基法違反の介護者七名案をうちだしてきた。「重度者五名、中軽度者五名の計十名に対し、七名の介護職員、施設長一名、炊事一名の計十名にする。昼間五名、夜間二名、のべ七名の介護者を配置する」というもので、その勤務体制は、週八十八時間拘束、五十四時間勤務という中に週三回も泊まり込みという他に類例をみないものだった。夜勤の時間は、施設内宿泊として労働時間から除外され、週八十八時間も働かされながら、実際には四十四時間労働として計算していた。
川口市は「これは労基法違反だ」という会の追及に対して「労基法など守っていたら、とても施設なんか出来ない」「障害者は外出しないから、外出介護などは考えていない」と答弁。「これが市の最終的見解。これ以上、職員はふやさない。他の『障害者』はこの案でいいと賛成しているので、市としてはこれで実現する。あなた方とはこれ以上話すことはない」と一方的に交渉をうちきり、強行をはかってきた。法をおかしてまでも、安あがり劣悪なものを押しつけ、効率的に管理してしまおうとする行政のあり方に対し、「生きる場をつくる会」は充分な支援体制をくみ、第三派坐わり込み闘争に突入した。その結果、市側は「労基法を守る。職員を増員する」と答弁せざるを得なくなった。(八木下・吉野[1979:40])
◆28:市から診療所方式案が提示される(197703)
◆30:第4派座り込み(197708)
この三年間、様々な迂余曲折を経ながらも現在まで至っているが、またまた、今までの話を全く無視した形で、設計図の問題と並行してある療護施設に準じた診療所形式なる運営方式を私達に一方的に押しつけてきている。「生きる場」とは、私達「障害者」のまさに生活する場であり、治療や療法の場では決してない。そして、私達は医療を常時必要とする「病人」ではないにも拘らず、医療の場=医務室として生活の場に欠くことのできない居室や息抜き=うるおいの場である娯楽=談話室のスべースを大幅に削りとられてしまっている。医療に関しては、常時医療を必要としているわけではないのだから近くの医師に嘱託医になってもらい定期的に診察してもらえばそれで解決する問題である。
委託先にいたっては、以前、市長自ら交渉に出席し、「委託先については和田医師を避けた形で考えたい」と答弁しているにも拘らず、和田医師個人あるいは和田医師が理事になっている療護施設を経営する社会福祉法人に委託しようとする動きがある。委託先については、私達会に対して、まだ市としては決定していないから発表できないと答弁しながらも噂によれぱ、当の和田医師は「川口市は俺達でやる」と言いふらし、職員までつのっている有様である。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1977b:152-153])
「重度」分類収容、療護施設の小規模化・診療所形式(施設=医療機関)という論理、安価な予算措置、責任逃れの民間委託という路線が、和田氏「まりも会」、市当局との間でつくられ、9月議会に「重度身体障害者養護施設“しらゆりの家”」設置管理条例の上提が強行されようとしました。私たちは、これに対し、「非分類!医療機関でなく生活の場を!生きる場の終身的隔離収容所化反対!無責任な民間委託反対!予算の算定基準を示せ!」と77年8月23日第4派座り込み闘争に決起したのです。その結果、川口市企画部及び市民相談室より、「市長の約束どうりまりも会には委託しない」という市の確約と、9月議会への設置・管理条例の上提の中止となりました。しかし、民間委託と「重度」分類の意志は固く、補正予算も組めないという中で、市の方針を打ち砕くことはできませんでした。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:28])
七六年三月議会において、川口市はそれまでの約束を一切反古にする暴挙にでてきた。その内容は、「対象は『重度者』十名、診療所方式をとる」とするものであった。「重度者」五名、「軽度者」五名との約束を「重度」分類収容へ、また、運営形態も診療所方式にかえたわけで、単に認可施設をそのまま小さくしたものにすぎない。また、七ヵ月分で一九九六万円という運営予算のうち、人件費は一六一五万円で、残りの月額三十万円程度で十人の食費、生活費、事務費、設備維持費を全てまかなおうとするひどさで、その算定根拠も「委託先との交渉が終了するまで秘密事項だ」と主張、明らかにしようとはしなかった。
「まりも会」の行政下支えもあり、「重度分類収容、診療所方式、安価な予算措置、責任のがれの民間委託」という路線がつくられ、強行されようとした。「生きる場をつくる会」は、「非分類! 医療機関でなく、生活の場を! 無責任な民間委託反対!」と第四派坐わり込みに決起。しかし、「まりも会」には委託しないと確約をとりながらも、市側の民間委託、「重度」分類の方針は、打ち砕くことはできなかった。(八木下・吉野[1979:40-41])
ここで登場するのが先に述べた和田氏なのです。和田氏がやっている、社会福祉法人「まりも会」は四つ程の施設を持っていますが、全部安上がりの依託の施設ばかりで、障害者が本当の人間としての社会生活を過せないばかりでなく、労働者の使い捨てをやっています。その「まりも会」に市は「しらゆりの家」の運営を委託しようとしたのです。それに対して私たちは降害者を食いものにしている和田「まりも会」には、絶対に委託をしてほしくないという怒りをこめて四回めの坐り込みをやりました。
それに対して市側は市長自らが私たちの行動の場に出てきて「まりも会」には委託をしないと確約をしました。(八木下[1980:166-167])
◆29:山崎・雨宮と身障根っ子の会、市案に賛成のビラをまく(197706~07)
◆31:山崎・雨宮と身障根っ子の会、座り込みを行う(197708)
私たちがこの案と闘っている時、山崎、雨宮両君に、身障根っ子の会の程塚、春山氏が支援者として、「大野市長は、生きる場をつくる会の圧力に屈せずガンバレ!生きる場をつくる会は、重度者の敵です。わたくしたちは市の案にもろ手を上げて賛成します。」という驚くべきビラをまいたのです。ついに、完全に行政側にまわって、行政を利する敵対活動が行なわれるようになったのです。さらに、まりも会の清瀬療護園と浦和整形で、「川口の施設をまりも会が受けることに決定した。園長は程塚氏がなる。そこで働かないか。」と職員の募集までもが行なわれていったのです。
[…]
私たちの第4派座り込みの直後、川口市から「まりも会」が委託を撤回されたことに対し、山崎・雨宮両君と身障根っ子の会が座り込みました。その内容は、「大野市長は、重度分類収容で和田氏に委託せよ。川口市の案にもろ手を上げて賛成する。」というものです。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:28])
◆32:結局、和田が理事を務める「まりも会」に委託決定される(197712)
◆33:「しらゆりの家」開所(197803)
10月開所が3月開所へと延期され、川口市は委託先の法人を探して、血まなこになりましたが、このような低劣な案で引き受ける法人などほかにあるわけがありません。その結果、またも私たちとの約束を反古にして、和田氏が巻末の論文に、「……一度依頼したまりも会をことわりながら、他の法人が引き受けてくれるところがないとして再びまりも会に、委託を要請してきたのである。」と得意気に記しているように、12月議会でだましうち的にまりも会委託が上提されたのです。そして、78年3月1日の強行開所という事態を向えてきたのです。(川口に障害者の生きる場をつくる会[1978:28])
八木下君たちは、私の関係したところでなければ法人委託も承知するとした時期もある。現在は民間法人委託反対だという。これほど首尾一貫してないのである。
川口市は八木下君たちの説を入れて、一度依頼したまりも会を断りながら、他の法人に引き受けてくれるところがないとして再びまりも会に委託を要請してきたのである。
市長さんが変わったところで、干六百五十万円の建設費は七千万円余となり、経常費すべて市負担の完全なる川口市立社会福祉法人まりも会経営の「しらゆりの家」は誕生したのである。ときに昭和五十三年三月一目、その中で山崎君は、障害者として、市民としての権利を主張できるようにしてくれたのは、八木下君であると感謝している。
だが運動の実際面においては、埼玉身障根っ子の会に同調しないわけにいかなかった。(和田[1978→1993:307])
3月1日、埼玉県わらび市郊外の一角にひとつの小さな施設ができて、その開所式が行なわれるという日であった。だがその日の午前中、新しくできた「しらゆりの家」の玄関におよそ50人の障害者をふくむ団体が押しかけ、激しい抗議集会が行なわれた。「川口に障害者の生きる場をつくる会」(代表・八木下浩一)の会員だった。
ふり返ること4年、彼らは地元に根を張って生き、障害者の真の自立を目差して健常者と共に共同生活の場を求め、川口市当局に働きかけてきた。親に頼るのみの「在宅」にあらず、さりとて隔離収容、規則ずくめで自由のない「施設」にあらず、10人程度の、きわめて家庭的なふんい気の中での人間的な暮らしを求めていた。
だが行政はそんな彼らの願いを理解しなかった。「もっと困っていて施設を求める人間がたくさんいる」「できるだけ多くの市民のニーズ(要求)に答えなければならない」と小規模施設に反対し続けた。
しかし生きる場の会の地域住民を巻き込んだ激しい抵抗に会うと、今度は会の要求する公立公営を無視し、民間の法人に委託しようとした。それも会が以前よりクレームをつけて反対していたまりも会という法人で、この会の運営を握っている中心人物は障害者の施設収容化を肯定し、障害者を受け入れる社会を目差すのではなく、社会に障害者を合わせようという考えの持ち主だった。
かくしてここに又ひとつの小さな“障害者収容所”ができたのである。(本間[1978])
「まりも会」の委託を撤回した川口市は、血まなこで委託先の法人をさがし回ったが、このような劣悪案で引きうける法人は他にはなく、あせりにあせった市は再び「まりも会」に委託を要請、七八年三月一日に強行開所となった経過がある。
ここにあるのは、「いかにして安あがりに、いかに責任のがれを、いかにして効率的に管理するか」という行政の意図の一貫のみである、そのためには、都合の悪い約束は全て反古にし、不誠実の限りをつくす。この行政と結託し、「障害者」の運動をくい物にし、施設を手中にしようとする「まりも会」和田博夫氏春山敏秀氏を、また「障害者」の要求を圧殺する施設管理屋であり、民間委託によってもたらされる二重の権力構造を撃ち、公立公営をかちとらねば、“生きる場”の実現はありえない。(八木下・吉野[1979:41])
「別の法人を見つける」「私たちと協議をして委託先を見つけたい」と民生部長は言っていました。しかしながら最終的には委託先は「まりも会」に決まってしまったのです。
川口市は一九七七年八月ごろから関東近辺の福祉法人にこの「しらゆりの家」を引受けてもらたいたいという要請状を送りました。返事がきたのは十六くらいの団体で、多分よい返事は四つの団体くらいであとの団体は断わってきました。その四団体も最終的には断りました。
なぜ断わってきたのかというと、今日の日本の社会福祉の現状が現われています。私たちもその四団体の三ヵ所の法人の理事とお目にかかって直接話をしましたが、「今の自分たちの施設で手がいっぱいであり、他には手も出せない状況だ」と三人の理事は同じ答えでした。「今の身体障害者の収容施設は誰かに犠牲が及ぶ、また犠牲を覚悟でやらなければ出来ません」という事をその三人の理事は言っていました。だから川口市の要請を断わったのです。
最終的には川口市は他の福祉法人に全部断わられた結果、市が直接運営するか、民間委託をするか、二つに一つしかなくなりました。結局は恥も外聞もなく委託先として「まりも会」が決まりました。
私たちの反対をおしきって、社会福祉法人「まりも会」に委託した事は、川口市長が私たちとの約束を破談にした事になり、許せない事です。七八年三月から開所した「しらゆりの家」で働く労働者の職業病、園生の処遇など問題点は沢山あります(それについては『福祉労働』第2号、現代書館刊に詳しく述べました)。
私たちは今もって、「まりも会」への委託は認めていません。今後も抗議行動とか、障害者の生き方を模索してゆきます。私たちは、今後十年先、二十年先に障害者が地域で生きる姿を考えているのです。(八木下[1980:167-168])
このグループが求めたのは「施設に収容される」ことではなく、「地域の住宅に住む」ことだった。しかし川口市当局は一貫してこの点について無理解だった。重度障害者が介助付きで町の中の住宅に住むということがあり得ることとは思えなかったのだろう。約2年かかって「10人以下の小施設」を町の中に建てるということを約束したが、管理体制の点で難航を続けた。[…]昭和53年3月、社会福祉法人『まりも会』の経営する『白百合の家』が開設された。場所は市街地であり、人数は10人と少数であった。しかし、内容は従来の療護施設と変わらないものになってしまったのである。(西村[1981:26])
いろいろあって場所も内容も思い通りではなかったが施設はできた。自分たちに運営はさせてもらえず、東京の社会福祉法人がやることになった。話が違うと怒っている人もいて、要求が全部通るまで交渉を続けるという話もあった。そのとき、重度障害者のお母さんに「明日の100円よりも、今日の10円がないと今日すら生きられない人がいる」といわれた。結局はせっかく作ったのだからというか、「とにかくできた、必要な人が入れた」ということで良しとするしかなかった。(仲沢[2017:ページ表記無し])
1978年3月に川口市単独事業として「しらゆりの家」が開設された。「川口に障害者の生きる場を作る会」の主張が完全に認められず障害者運動の成果とまではいえないが、小規模ケア付き住宅(定員10人)が建設されたのである。(髙橋[2019:36-38])
■文献
本間康二 1978 「障害者の自立を踏みにじるな――行政の画策と法人の介入を斬る」,『月刊障害者問題』24:1川口に障害者の生きる場をつくる会 1974a 「わたしたちはどういう いみで いえをでたいかというと」 → 川口に障害者の生きる場をつくる会[1975:40]
―――― 1974b 「陳情書」 → 川口に障害者の生きる場をつくる会[1975:41]
―――― 1975 『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り、自ら運営する!』,りぼん社
―――― 1977a 「障害者の生きる場をつくるために 第1回」,『月刊自治研』215:28-34
―――― 1977b 「障害者の生きる場をつくるために 第2回」,『月刊自治研』216:146-153
―――― 1978 『娑婆も冥土もほど遠く――「生きる場」活動報告その2』
増田洋介 2022 「失敗に終わったとされたケア付き住宅建設運動――「川口に障害者の生きる場をつくる会』の軌跡」,『遡航』1:76-99
仲沢睦美 2017 「障害者のくらしいまむかし『Vol.1 仲沢睦美の場合』」,『シンポジウム「障害者のくらしいまむかし」資料集』:ページ表記なし(NPO法人リンクス主催,2017年3月18日開催,於:青木会館)
西村秀夫 1972 「障害者の教育権と内なる差別意識の克服」,『婦人教師』57:35-40
―――― 1975 「市のお役人との交渉で感じたこと」,川口に障害者の生きる場をつくる会[1975:6-8]
―――― 1981 「『ケアー付き自立』を求めて――経過と展望」,札幌いちご会[1981:23-33]
札幌いちご会 1981 『心の足を大地につけて――完全なる社会参加への道』,ノーム・ミニコミセンター
髙橋儀平 2015 「八木下さんと『あかんねん』」,『SSTK通信』185:16-17
―――― 2019 『福祉のまちづくり その思想と展開――障害当事者との共生に向けて』,彰国社
高杉晋吾・和田博夫・八木下浩一・鎌谷正代・三井俊明・三井絹子・新井啓太 1976 「座談会 障害者にとって施設とは」,『市民(第二次)』11:52-78
東京大学大学院教育学研究科小国ゼミ編 2017 『「障害児」の普通学校・普通学級就学運動の証言――1979年養護学区義務化反対闘争とその後』
和田博夫 1975 「川口市の障害者の『生きる場の会』の活動に思う」,『埼玉県身障根っこの会会報』4 → 和田[1993:251-255]
―――― 1978 「『しらゆりの家』の成立の過程」,『ひふみ』18 → 和田[1993:298-308]
―――― 1993 『障害者の医療はいかにあるべきか 1 福祉と施設の模索』,梟社
八木下浩一 1971 「東大連続シンポに向けて」 → 八木下・名取[1972:60-61]
―――― 1980 『街に生きる――ある脳性マヒ者の半生』,現代書館
―――― 2010 「かっこいい横塚さんとかっこ悪い私――『母よ!殺すな』復刊によせて」,『月刊情況第三期』11(10):160-175
―――― 2017 「就学闘争と埼玉での障害者自立生活運動」,東京大学大学院教育学研究科小国ゼミ編[2017:3-13]
八木下浩一・名取弘文 1972 「なぜ三十歳で小学校に行くのか」,『理想』467:46-61
八木下浩一・吉野敬子 1979 「『障害者』にとって地域に生きるとは」,『季刊福祉労働』2:37-46
山崎広光 1975 「これまでのこと」,川口に障害者の生きる場をつくる会[1975:4-5]