遡航

論文(Peer Reviewed) 青い芝の会において「健全者手足論」が――いかにして肯定され、批判されたのか 山口 和紀
2022年6月 『遡航』002号 pp.2-21
キーワード:青い芝の会、手足論、介助関係、生活と運動
要旨
 本稿では1970年代後半に青い芝の会が主張した「健全者手足論」と呼ばれる言説について、会の障害者らがそれをどのように議論していたのかを一次資料を用いて検討した。「健全者手足論」とは、青い芝の会の活動への健全者組織による介入を完全に退けるために、健全者(組織)の口出しを一切禁じようとしたものである。
 健全者手足論を巡る主たる争点は2つあった。第一に、健全者をどのように位置づけるのかという点であった。これには告発糾弾型の闘争か、そうではない別のあり方かという運動の方向性の違いが背景にあったと考えられる。第二に、「運動」と「生活」をどのように位置づけるのかということである。健全者手足論の肯定派は「運動」と「生活」を切り分けて考えようとしたが、それをどのように位置づけているのかという質問やそれはそもそも切り分け得ないものだとする主張が懐疑派によってなされた。

1. 序論

1.1 本稿の課題

 本稿は1970年代後半に青い芝の会において主張された「健全者組織は青い芝の手足に徹せよ」とする言説を主題とする。健全者手足論が提起された1970年代後半において、青い芝の会の障害者らがそれをどのように受け取り、応答したのかを検討する。
 まず健全者手足論について概観する。現在「手足論」という表現によって想起されるのは、「介助者は障害者の指示に口を挟んではならない」という介助関係における規範であろう。しかし、本稿が主題とするのはそのような「手足論」とは異なる。
 どのように異なるのか。青い芝の会は1970年代後半の健全者組織の位置づけを巡る混乱の中で「手足に徹する」、「手足になりきる」という表現を頻用するようになる。本稿ではこのような言説を「健全者手足論」と呼称する。反対に、従来「手足論」として位置づけられてきた「介助者は障害者の指示に口を挟まず介助行為を行うべきだ」とする主張は「介助者手足論」と呼ばれる。この健全者手足論の段階において、青い芝の会は「介助者は障害者の指示に口を挟まず介助行為を行うべきだ」というような主張はしておらず、青い芝の会はあくまでも会の運動方針に対し健全者(組織)が介入することを戒めるために用いていたとされる[小林 2011][石島 2018]。
 この健全者手足論がどのような意図によっていつ提起されたのか、すなわち形成過程に関する研究は2000年代以降に複数行われてきた[田中 2005][小林 2011][石島 2018]。これらの先行研究は、主として健全者手足論がいつどのような形で主張され始めたのかという点を議論する。これらによってすでに健全者手足論がどのような経緯で提起されたのかという点は概ね明らかになった。
 しかし、これまでの先行研究は健全者手足論の形成過程を明らかにしているものの青い芝の会内部でどのように受け入れられたのかという検討が十分ではない。少なくとも一次資料から、障害者側の主張にもとづいて、それらを検討するという部分は小林[2011]や石島[2018]においてなされたものの十分に行われてきておらず余地がある。
 そこで本稿は青い芝の会が発行した機関紙をもとにして、健全者手足論が提起された後、あるいはまさしく提起される中にあって、それがいかにして青い芝の会内部で評価されていたのかという点を検討する。具体的には、青い芝の会神奈川県連合会(以降、神奈川青い芝)および全国青い芝の会の機関誌をその対象とする。健全者手足論を分析することは、日本における障害者運動が障害者と健全者の関係をどのようにとらえていたのかを理解することに直結し価値がある。

1.2 先行研究の整理および研究の方法

 健全者手足論について検討した主要な先行研究には田中[2005]、小林[2011]、山下[2008]、石島[2018]がある★1。田中[2005:133-134]は「介助者手足論」は神奈川青い芝と神奈川青い芝が自ら作った健全者組織「健全者支援組織行動委員会」の間で交わされた「申し合わせ」がもとになっていると指摘した。これは健全者組織行動委員会が神奈川青い芝の会の「手足」に徹するとする約束である。この「申し合わせ」については後述する。
 この田中[2005]の主張に対し、小林[2011]は青い芝の会が障害者と介助者の関係性を規定する意味での「手足論」を主張した事実はないと反論する。小林[2011]が指摘したのは、青い芝の会が提起したのはあくまでも「健全者手足論」と呼ぶべき言説であって「介助者手足論」とは明確に区別すべきということである。青い芝の会は1970年代後半の混乱期において、健全者が障害者運動の主導権を奪おうとするような言動に対して、健全者(組織)は運動において青い芝の会の手足になりきらなければならないと主張したと小林[2011]は述べる。つまり、青い芝の会は「健全者手足論」を主張したのであって、「介助者手足論」を提起した事実はないとする指摘である。
 小林[2011]の主張において重要な点は、健全者手足論は青い芝の会が積極的に提起したものではなかった可能性が高いとする指摘で、健全者手足論は「青い芝という障害当事者組織を守るために、緊急避難的に健全者に向けて提出されたものだ」とする。当時、健全者(組織)が青い芝の会の障害者、あるいはその運動に「介入」するような言動が頻発しており、それに対して、青い芝の障害者の運動に対して健全者(組織)は一切口出しをしてはならないという意味において主張されたのが「健全者手足論」であったという。
 小林[2011]の指摘は、1970年代に青い芝運動にかかわった小林自身の経験から来るものである。小林は1970年に大阪大学法学部へ入学後、1972年頃に大阪青い芝の会に健全者としてかかわりを持つようになった。そうした経験の中で健全者手足論が提起される経緯を経験した。小林はその立場から「『健全者手足論』を前提としては、青い芝の思想の肝心な部分が理解不能となってしまう」と主張し、青い芝の会における「手足論」言説の位置づけを再定義しようとした★2。
 山下[2008]も関西における青い芝運動の混乱の中で、健全者手足論が提起された経緯を検討している。山下[2008]の議論は基本的に小林[2006a][2006b]に依拠するものである。小林[2006a][2006b]が論文化されたのが小林[2011]であり、両者の論旨は同様のものと言える。山下[2008]が検討したのは青い芝の会のメンバーの介助(介護)を行っていた健全者が「手足論」に対して、どのように感じ、それを受け入れたのかということである。当時、手足論に生じた賛否が検討されている。これは自立障害者集団友人組織グループ・ゴリラという名称の健全者組織で活動したメンバーらにインタビューを行ったものである。山下[2008]においては、健常者の側から見たという点で間接的にではあるが、障害者らがどのように健全者手足論を受け入れたのかという点が検討されている。
 石島[2018]も小林[2011]をもとにした議論を行う。石島[2018:187]は「健全者手足論」が運動の行き詰まりにあって緊急避難的に提起されたとする小林の立場に「基本的には合意」する。だが他方で石島[2018]は、小林[2011]のように手足論を「健全者手足論」と「介助者手足論」に明確に分けて理解することの問題は大きいと指摘する。石島[2018]は青い芝の会は「運動」の側面に限定する形で「健全者手足論」を主張したことは事実と言えるが、他方で「生活」と「運動」は不可分なものであり「健全者は口出しをしてはならない」という規範として「生活」に侵食する可能性は最初からあったと主張する。
 青い芝の会は原則としては「運動」の側面においてのみ障害者を手足たらしめようとしていた可能性が高いが、小林[2011]は青い芝の会が「介助者は障害者の手足に徹さなければならない」という主張つまり生活における規範を原則としていたとする理解が、2000年代以降の文献でも散見されるとする。あるいは1970年代の障害者運動を通じて「(介助者)手足論」というものが形成されたという表現が見られる。こうした言説は小林[2011]や石島[2018]の主張を前提にすれば、基本的には誤りである。
 本稿は原則的に小林[2011]および石島[2018]が示した「手足論」の理解に依拠する。すなわち青い芝の会は運動の主体性を健全者から守るためにあえて緊急避難的に「健全者手足論」を提起したのであって、青い芝の会の中核的な思想とは相いれない部分がある可能性は高いという立場を取る。また「健全者手足論」と「介助者手足論」という言葉の分け方を便宜的に用いる。
 研究の手法として、本稿は青い芝の会の機関紙、とくに全国青い芝の会総連合会の機関紙『青い芝』と「青い芝の会」神奈川県連合会の機関紙『あゆみ』に掲載された議事録を分析の対象とした。それらの文献から「健全者(組織)」に関する議論がなされている資料を抽出し、そこでとくに健全者手足論がどのように議論されているかを検討した。

2. 「健全者手足論」に対し、誰が何を述べようとしたのか

2.1 神奈川青い芝における議論

 本節では神奈川青い芝の機関紙『あゆみ』に掲載された総会の議事録を資料として、健全者手足論に対して、神奈川青い芝の会の障害者らがどのようにそれを評価したのかを検討する。
 本節で検討するのは「『青い芝』神奈川連合会臨時総会議事録」と題された資料(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 1978b]である。この臨時総会は1978年6月25日に開かれたものである。出席者は30名、横田弘、矢田龍司★3などの執行部を中心に会議が進められている。この資料を検討に用いるのは、これが「健全者手足論」が提起されたとされる1970年代後半の資料であり、なおかつ「手足」という語用について会員同士での意見の食い違いが記述されているからである。まず、どのような文脈において「手足」に関する議論が出てきたのかを確認する。
我妻 「[...]『健全者組織-行動委員会は一切「声」を出さず、手足に徹する』とありますが、健全者は何も言ってはいけないと言う事ですか?」
矢田 「組織的にはそうです。個々の関わりでは違った面が出てくるでしょう。」 
(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 [1978b:11])
 この問答は、当時神奈川青い芝の会長であった矢田龍司と会員の我妻義和の間で交わされたものである。我妻は神奈川青い芝の会のメンバーである。会の執行部に対して、批判的な意見を会議において頻回に述べており、基本的には執行部に対して、対立する立場を取っていた人物である★4。
 我妻は「申し合わせ」の内容に対して、健全者は(障害者に対して)何も言ってはいけないということか、と質問をする。この「申し合わせ」というのは神奈川青い芝と、同会を支援する目的で作られた「健全者支援組織行動委員会」の間で交わされたものであり[矢田 1978]、この申し合わせは健全者手足論★5が公式見解となった最初である可能性の高いものである(田中[2005] 小林[2011])。以下、その概要が記された矢田[1978]から重要部を引用する。
「青い芝」神奈川県連合会が第三回全国大会に参加した十八名中、十名が長く在宅され、長く施設の内にいる人々であった。その行動に支援した健全者も十名である。健全者支援組織行動委員会と「青い芝」神奈川県連合会との協議の中に、すべての健全者は障害者を抑圧し、「差別する根源者であると確認しあい、会の行動にあたっては介護の手足に徹する」と申し合わせていた。それは「青い芝」神奈川県連合会、行動綱領に合致されている。
(矢田 [1978:31])

 このように「申し合わせ」とは神奈川青い芝の会と健全者支援組織行動委員会の間で交わされた「健全者支援組織行動委員会は神奈川青い芝の介護の手足に徹する」とする約束のことである。
 同組織の詳細について確認する。この健全者支援組織行動委員会の明確な結成日時は不明であるが、山口[2021]によれば1977年4月頃である可能性が高い。この組織の解散は1978年4月頃である。矢田[1978]によればこの組織が解散した直接の経緯は、介助の負担が極限に達した健全者側と障害者に生じた口論であった。神奈川青い芝の会は1978年3月18日から30日まで養護学校義務化阻止の街頭行動を行う予定であったが、行動のための介助を担っていたのが健全者支援組織行動委員会だった。街頭行動のために多くの障害者が同会の事務所に寝泊まりしていた。
 しかし、健常者側は障害者に対して数が少なく特定の者に大きな負担がかかっている状況だった。18日から始まった行動であったが、同月29日には健全者支援組織行動委員会のリーダーは「精神的にも肉体的にも限界」(矢田 [1978:32])であった。そして介助は成り立たなくなり、街頭行動の開始時刻であった午後1時になっても、障害者らは全員が「ふとんの中」に放置された。これをきっかけとして口論が起こり、最終的に「健全者はやっぱり敵であった。自分の都合に合わなくなった場合、暴力をする。ただちにこの事務所から出て行ってくれ」([矢田 1978:32])という発言が障害者の側から飛び出す。
 後日、神奈川青い芝はこの組織の解体を正式決定し、その後は少なくとも同名の組織の再結成はされていない。1977年4月に結成したとする山口[2021]の説が正しければ、組織としては1年ほどしか続かなかったと言える。青い芝の会の「介護の手足に徹する」という申し合わせを行っていた組織が、健常者が集まらず特定の者に介助の負担が集まった末の口論によって解散を迎えたのだが、このことは本稿における重要点でもある。
 我妻の質問はこの「申し合わせ」についてのものであり、「健全者は何も言ってはいけないと言う事ですか」と問うものである。健全者が何も言えず、障害者に対して常に低位に置かれることを問題視したと考えられる。この質問に対し、矢田は「組織的」にはその理解が正しい、つまり「何も言ってはいけない」というのは健全者が「組織」としての青い芝の会に対して口出ししてはならないということであって、個人的な障害者と健常者の関係性におけるものではないということである。ここで矢田は「運動」と「生活」を分けて考え、「運動」については手足であるが、「生活」においては別のあり方があるという返答を行ったと整理しうる。これは小林[2011]の立場に合致する。
 続いて、先の質問部分の続きを引用する。
我妻 「会長は、健全者をどう思っているのですか?」
矢田 「行動委員会は、『青い芝』の行動に対して支援する、ということがあります。全国的な状況から言って関西やその他に於ては、組織と組織が共に斗って行こうではないかと言うことが強くあった訳です。」
我妻 「質問していることと違うでしょう。」
矢田 「健全者は、例えどんな状況であっても差別者の根源ではないか、と考えております。」
我妻 「そうしますと、この活動方針の二番目に『個々の健全者との関わりを深める』とあり、それと矛盾しませんか。」
矢田 「矛盾ではないと思います。『やっぱり差別者である』と言う自覚を持った人々と関わり続けて行くという事です。ここの議案書の中で私が言っている健全者との関わりは、はっきりとした方針を確立する段階ではないか、と思います。」
我妻 「『青い芝』の運動には、みんなが外へ出て生活すると言う事があるでしょう。それなのに健全者は敵だ、あるいはロボットだと言う事ではどうしたらいいのですか。それをはっきりしなければ、活動方針など出しても意味がないでしょう」
矢田 「例えば在宅訪問の中で健全者は我々の家庭の中に入り込む。そして我々は健全者 の家庭には入れないと言うような、大きな壁がある。それらをなくして行こうではないかそれには[...]」
(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 [1978b:11])
 我妻の問いは、矢田の指摘するように健全者がどんな状況であっても「差別の根源者」であるとするならば、「個々の健全者との関わりを深める」という神奈川青い芝の方針と矛盾するのではないかという指摘である。さらに我妻は「健全者は敵だ」とか「健全者はロボットだ(我妻なりの「手足」の言いかえであると考えられる)」というのでは、「個々の健全者との関わりを深める」などと活動方針を出しても無意味だと指摘する。
 ここで問題にされているのは「青い芝の決めることに対して健全者が介入してはならない」とする運動上の方針と、生活において相互に理解を深めようとコミュニケーションをすることは矛盾するのかという点、すなわち「運動」の方針と「生活」の齟齬についてのものである。
我妻は運動において「健全者は敵である」としつつ、それと同時に生活において「関わりを深める」ことは矛盾するのではないかと批判する。他方で、矢田はこれは矛盾ではなく、両者は整合するという立場を取る。つまり、運動における口出しの禁止と生活における良好な関係性の構築を「矛盾」と取るのか、それとも整合的なものであり両立すると取るのか、こうしたすれ違いが生じていたことが指摘できる。
 この発言以降、この「矛盾」に対しての発言がいくつかなされている。まず、小仲井千鶴子の発言を引用する★6。
我妻「まして重度障害者を敵の中に放り出して、そのあとどうするのですか?」
小仲井「自立と解放を言う前に何か忘れていませんか?私はバス問題の中で最後まで行動しましたが、私たちは殺される存在だから、バスに載ることも拒否されてしまう
健全者は生存権を認められているからバスに乗れるのです。
我々が一番に考えなくてはいけないのは、我々はいつでも殺される立場にある、と言う事です。」
(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 [1978b:12])
 我妻の問いに対して小仲井は、障害者は「いつでも殺される立場にある」ということを一番に考える必要があるという旨の発言をする。小仲井の主張は運動と生活についての矛盾点についての議論から一度離れて、より根本的な「殺される立場」ということから議論を出発させるべきだとするものである。
 小仲井はなぜこのような発言をしたのだろうか。小仲井が議論の出発点として障害者が「いつでも殺される立場にある」ということをここで強調したのは、小仲井が健全者と共生するということは健全者に対して自分たちがへりくだることではないと考えていたからであろう。つまり、「いつでも殺される立場」であり「健全者は差別の根源者」であることを出発点とした障害者としての強い主張を貫き、その上で健全者との共生が果たされなければならないと小仲井は主張したとも言い換えうる。小仲井の立場からすれば、我妻の主張は「融和路線」のように映ったであろう。小仲井は「融和路線」に対して、「強硬路線」を貫くべきだと主張しようとしたがために「いつでも殺される立場」に立ち戻って議論すべきという点を確認したものと考えられる。
 つまりここでは、青い芝の会が強く厳しい主張を健全者社会に対して投げかけつづけるという告発糾弾型の闘争を貫くのか、それともそうではない路線によって健全者との共生を図るのかということまで議論が広がっていると言える。
 次に横田弘の発言を引用する。
横田「私達脳性マヒ者、特に重度脳性マヒ者は、生まれて数多くの健全者によって殺されている訳です。殺されない者は差別を受けている訳です。健全者個人がどうのこうのと言うことではなく、健全者そのものが我々にとって大きな敵なのです。
 しかし、現実に我々が社会に生きている以上、健全者と関わりを持たなければならない、と言う大きな矛盾を持っている訳です。健全者を少しずつ、私達の方へ近づけて行かなければならない、根本的に言えばそう言う事です。
 それとこの『事務所に健全者の専従者をおく』と言う事は、全く別の問題としてとらえて戴きたい。
 これは『行動委員会』に我々の行動の保障をしてもらって来たが、おかしな関係になってしまい解散してしまい、事務所の維持が困難な状況になった、と言うことで前の活動方針案が出された訳です。それについて新しい活動方針案ではカットされております。
 我妻さんの言われる通り、我々は健全者と関りを持ち続けて行かなければならないが、それは正直言ってむずかしく、これからも考え続けて行きたいと思っております。」
(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 [1978b:12])
 ここで横田は障害者が社会に生きる以上は、健全者との関わりをもたなければならないが、健全者そのものは障害者にとって敵であり、そのことは確かに「矛盾」であると述べる。それに続き「健全者を少しずつ私達(障害者=筆者注)の方へ近づけて行かなければならない」とする。
 ここまでを整理する。『青い芝』神奈川連合会臨時総会議事録においては、大きく二つの立場があったことを確認できる。Aは「健全者は敵であるというような強い批判的主張」に懐疑的な立場である。運動的観点から来る強い主張を健全者に対してぶつける主張に対して、実際の健全者と障害者の「生活」に目を向けるべきだという主張をする。これは我妻が取った立場である。
 Bは障害者が「殺される立場」であることを出発点とする主張を貫き通し、そのうえで健全者による差別を解消する道を取るべきであるとする立場である。これは矢田、横田、小仲井が取った立場であると言える。この立場は横田弘における「健全者を少しずつ、私達の方へ近づけて行かなければならない、根本的に言えばそう言う事です」(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 [1978b:12])という発言に端的に表される。

2.2 第二回全国委員会議事録の検討

 「手足」という言葉の意味そのものを青い芝の会内部で議論していることを記録した文献は、前述した日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会[1978b]のみである。しかし、健全者をどのように位置づけるかという議論は日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会[1978]の「第二回全国委員会議事録」に記述がある。この第二回全国委員会というのは、まさしく全国青い芝の会において健全者手足論を公式見解として採用することが定まった会議である。
 第二回全国委員会では、1978年5月に全国常任委員会がすでに決定していた「自立障害者集団友人組織・全国健全者連絡協議会」の解体と新たに「青い芝の会の手足となる健全者集団」として再出発するという事項が議案として出され、それが承認された。つまり、第二回全国委員会において、全国常任委員会の決定事項でしかなかった全健協の解体と「青い芝の手足となる健全者組織」としての再出発が認められ、全国青い芝としての公式見解となるのである。
 ここで検討するのは横田弘と磯部真教の問答である。はじめに、横田と磯部の関係性について触れたい。横田と磯部は会において対立する関係にあった[立岩 2019:258]が、横田と磯部はそもそもの出自が異なる。初期青い芝には2つの大きな流れがある[廣野 2020:12]。1950年代末に救護施設東久留米園の脳性麻痺者が集団で青い芝の会に入会する。このグループは「くるめ園グループ」と呼ばれる。秋山和明や寺田純一、本稿で取り上げる磯部がこれに含まれる。2つ目はマハラバ村の流れである。これは神奈川青い芝の会の横塚や横田を中心とする。
 運動への姿勢も大きく異なる。横田や横塚が健全者を告発・糾弾する形での運動を志向する一方で、磯部はそうした運動からの脱却を試みた。1975年11月24日の第二回全国代表者会議において磯部は執行部を追われることになるが、これはそうした主張に起因する。磯部を会長とする東京青い芝の会は、神奈川青い芝や関西の青い芝とは異なる立場を取っていた。立岩[2019:259]は「その組織には制度改革・改善の志向が一貫してあったが、それは『過激』な傾向に対して常に批判的なものでもあった」とする。
 ここでは「第二回全国委員会議事録」から、磯部と横田の間で交わされた議論を取り上げる。横田弘はこのとき、全国「青い芝」の会会長を務めていた。まずは磯部が横田に対して疑問を投げかける。
磯部 磯部、横田問答をこれからやります。[...]九ページの下から三行目のまん中、「青い芝の手足となる健全者集団」言葉としてはなかなか意義のある何ともいえない言葉なんですけど、このことについては、これ以上追及はさけると、脳性マヒ者の、という言葉がこの議案書の中には相当使われているわけですけれども、先ほど横田君が健全者と一緒じゃなきゃいきられねえんじゃないかと、なるほど生活すると、生きるということからすれば、そういう側面が多くあると思います。そこで、ご質問をしたいんです。生活するということと、運動するということと、一体どういう風にお考えなのかと、これは単純な質問ですね。
(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会 [1978:32])
 ここで、磯部は横田に対し「青い芝の手足となる健全者集団」という記述について触れた上で、「生活」と「運動」をどのように考えているのかと質問をする。「生活」とは障害者の日常生活を指しており「運動」とは青い芝の会の運動についての諸活動を指していると考えられる。「健全者手足論」はもともとは運動における規範として提出されていることは小林[2011]の議論する通りであろうが、石島[2018]の述べるように提起のその瞬間においても、運動と生活の不可分性の問題が提起されていたことが分かる。
 青い芝の会にとって「生活」そのものがある種の「運動」でもあった。つまり、障害者が街に出て「生活」をするということそのものが「運動」であるという側面があり、明確に両者を切り分けることは原理的に難しい。磯部が問うのは横田にとって「生活」と「運動」とはどのようなものであり、どのようにそれを位置づけているのかということである。
 横田はこの問いに対し、次のように応答する。
横田 さっきから磯部さんにいじめられているわけですけど、少し頭が混乱して質問に対して、まちがっていたらごめんなさい。えーと、まず初めの生活における問題として、健全者に関わらなければ生きられないと、これは磯部さんもその通りであると、お認めになったと思います。運動体のことについてですか。やはり私は運動としての青い芝は脳性マヒ者だけの集団で、脳性マヒが運動をすすめていかない限り青い芝とはいいがたい。脳性マヒ者の運動体とはいいがたいと思います。[...]私はこの際もう一回青い芝が、青い芝原点(ママ)に立ち帰って、障害者の中でも、抑圧、あるいは殺されていく対象として脳性マヒ者であり、CP者であるというところからもう一回、生きるとは何かを考えたい。健全者とのかかわりも考えたい。考えていかなければならないのではないかと思います。お答えになっていないところがありましたら、又質問してください。
(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会 [1978:33])
 磯部の問いは生活と運動をどのように位置づけるかであった。この問いからすれば横田の発言は、少なくとも直接的には回答になっておらず婉曲したものである。横田はまず「健全者に関わらなければ生きていけない」ことを認め、それは「磯部さんもその通りであると、お認めになった」と述べている。このことから「生活」においては、脳性マヒ者は健全者に関わり続けることが必要であるという共通の認識があることが分かる。健全者との関わりは身体障害者が生きていこうとするとき必要になることであり、健全者がなければ街で生活していくことはできない。このことは両者の共通の前提としてあった。そのうえで横田は運動組織としては「脳性マヒ者が運動を進めていかないと青い芝とはいいがたい」と述べ、青い芝の原点に立ち返って「健全者との関わりも考えたい」としている。
 この横田の回答から分かることは、横田にとっても「生活」と「運動」の位置付けを明確にすることは困難なことであり、そのことも含めてこれからかかわりを考えていこうとしていたことである。つまり、青い芝の会は「運動」の次元においては、健全者(組織)に対して手足に徹するように求めていたのであろうが、しかし実際の「生活」においてはどうかということは十分に議論されていなかったと言える。健全者手足論が「運動」の主体性を健全者(組織)から青い芝の会に取り戻そうとする過程において緊急避難的に提起されたものという前提[小林 2011]を踏まえれば、「生活」についてを議論する余裕が当時の会にはなかったということであるとまず言いうるが別の事情もあると考えられる。
 この議論においては、両者の「運動」と「生活」それぞれに対する見解の違いが如実に表れている。運動における方針という側面のみで見た場合には、過激で告発型の運動を志向する横田と、そうした運動の過激さを否定し、別の道を模索しようとする磯部という構図として整理できる。石島[2018:183]は「[…]健全者を締め出すという手足のあり方を打ち出す際には、それは運動の場面に限定される必要があった」とするが、告発糾弾型の闘争を指向する横田は「運動」と「生活」を分けて考え、「運動」において強い主張を行うということをした。対して、磯部はそれに対して批判的見解を示すために「運動」と「生活」をどのように考えるのかという発問をしたとまず整理できる。
 さらに、そうした「運動」方針の違いは、生活における自立をどのように志向するかという点から生じるものである。立岩[1990→2012]および土屋[2019]によれば、日本の自立生活運動は3つの流れに整理できる。1つ目は差別の糾弾を中心にすえ、健常者との関係の中で自らの生活を行っていこうとする流れである。神奈川青い芝や関西青い芝はこの流れに位置づけうる。2つ目は、1つ目の流れの関心を共有しながら、公的な生活の保障を志向し、それを自律的に統制しようとする流れである。3つ目は所得保障を中心的課題とし、介助の極小化による自律性の確保を目指し、理解の得られるところから運動しようとする流れである。磯部をはじめとする東京青い芝がこの立場を取る。
 1、2の流れでは介助者を集めることが困難である。それらの流れは健全者を糾弾し差別者として位置づけるために、介助者としては常に自らの立場性を糾弾されることになるため、継続的なかかわりを持ち続けることは難しい[土屋 2019]。山下[2008]は、関西の健全者運動においては活動する者の流動性が高かったことを明らかにしているが、運動が持つ価値観に起因するものであると言いうる。「健全者手足論」という方策は、1つ目と2つ目の流れには親和的であるが、磯部が立脚する3つ目の流れにはそぐわない。
 磯部からすれば横田が生活における問題をあえて避けて、議論を運動においてのみ行おうとしていたように感じられていたはずである。それゆえ、このような運動と生活をどのように位置づけるかという問いを横田に投げかけた。それに対して横田はやはりはぐらかすようにして答えた。このように捉えることが自然であると考える。
 

2.3 横塚晃一 1978「健全者集団に対する見解

 本節では、当時全国青い芝の会長であった横塚晃一★7が1978年7月7日に記した『健全者集団に対する見解』と題された資料、すなわち横塚[1978]を検討する。
 横塚[1978]は全国青い芝機関紙『青い芝』No.104 の冒頭(pp.3-4)に掲載された文章で、「この横塚会長の見解は、第四回大会までに全国常任委員会が計画しなければならない基本的な方針であることが、一九七八月三十日の全国常任委員会で確認されています」と文章の末尾に付記されている。これらのことから、横塚が全国青い芝会長という立場から書いた文章であり、会としても重要な位置づけの文章であったことが分かる。本資料をここで取り上げるのは、このように青い芝の会長という立場で健全者との関係について横塚が記したものであるからである。
 しかし、常に健全者というものが私達脳性マヒ者にとって「諸刃の剣」であることを私達は忘れてはなりません。つまり青い芝の会(脳性マヒ者)がこの社会の中で自己を主張して生きようとする限り、手足となりきって活動する健全者をどうしても必要とします。が、健全者を私達の手足となりきらせることは、健全者の変革を目指して行動し始めたばかりの私達脳性マヒ者にとってはまだまだ先の長い、いばらの道であります。手足がいつ胴体をはなれて走り出すかもわからないし、そうなった時には脳性マヒ者は取り残され生命さえ危うくなるという危険性を常にはらんでいるのです。
(横塚 [1978:3-4])
 ここで注目したいのは「つまり青い芝の会(脳性マヒ者)がこの社会の中で自己を主張して生きようとする限り、手足となりきって活動する健全者をどうしても必要とします」という部分である。横塚は手足となりきって活動する健全者が「どうしても」必要であると述べている。これは換言すれば、手足となって活動する健全者を抜きにして、青い芝の会は成り立たないということである。前述の磯部横田問答においてもこのことは確認されていた。
 しかし同時に横塚は「手足」としての健全者の危険性を指摘する。健全者を手足になりきらせることは困難なことであり、ともすれば命の危険すらも障害者にもたらすことであると述べる。困難なことでありリスクは大きいが、それでもそれをなさなければならないとする見解を横塚が会長という立場において示している。このことはまず重要である。
 小林[2011]はこの横塚[1978]について記述の矛盾点を指摘する。横塚[1978]の冒頭部には次のようにある。
私達はこれらの健全者組織と青い芝の会との関係を「やってやる」「理解していただく」というような今までの障害者と健全者の関係ではなく、むしろ敵対する関係の中でしのぎをけずりあい、しかもその中に障害者対健全者の新しい関係を求めて葛藤を続けていくべきものと位置づけてきました。
横塚[1978:3]
 ここでは健全者と障害者の関係を「敵対する関係の中でしのぎをけずりあい、しかもその中に障害者対健全者の新しい関係を求めていくべきもの」としている。しかし、横塚[1978]の末尾近くには次のようにある。
青い芝の会と健全者集団は相互不干渉的なものではなく、健全者の変革に向けて激しくぶつかりあう関係であるべきです。
(横塚 [1978:4])
 これらの記述について小林[2011]は、冒頭部では「しのぎをけずりあい」、「新しい関係を求めて葛藤を続けていく」として変革の相互性を説いているにもかかわらず、末尾部では「健全者の変革に向けて激しくぶつかりあう関係であるべき」と変革の必要性を健全者のみに限定してしまっていると指摘する。小林[2011]の述べるように、横塚[1978]の論理は確かに内部で齟齬をきたしているようにも読みうる。
 しかし、重要なのはこの「齟齬」をどのように見るかということであろう。単純に矛盾し、混乱をきたしている以上のことがあるのではないか。横塚[1978]は、ここまでの検討を踏まえて、次のように読むことによって整合性を保って読みうると考える。
 まず横塚は「殺される立場にある」という点から、変革の必要性を「健全者」のみに限定していた。これは矢田や横田といった執行部によって主張されたものと合致する。すなわち、青い芝の会というのは健全者側に歩み寄るのではなく「殺される立場」という点から、健全者に対して鋭く強い批判を繰り出していくことがまず必要不可欠であるとする立場である。しかしこのような主張に立った場合にも、健全者と障害者の関係の構築を放棄した訳ではなかった。自分たちの主張を貫き通した上で健全者と障害者が共生できる道を探そうとしたのである。最初の段階において変革の対象を健全者に限定し、その次の段階において共生の道を開こうとしたと理解することによって、論理の整合性が保たれるだろう。

3. 健全者手足論はどのように評価されたのか

3.1 争点はどこに生じたのか

 本研究の調査範囲において、健全者手足論に「健全者を手足として扱うべきではない」とする明確な反対の姿勢を明言していた者はいなかった。他方で、健全者手足論に対する批判的な言及、あるいは疑義を差し挟もうとする趣旨の主張は複数なされていた。ここでは便宜的に、健全者手足論を提起し肯定しようとした者たちを肯定派、反対にそれを肯定せず、疑義を差し挟もうとした者たちを懐疑派と呼ぼう。

健全者手足論を巡り、肯定/懐疑派において意見が分かれていた点は次の2つである。
a) 健全者をどのように位置づけるのか
b) 「運動」と「生活」をどのように位置づけるのか

 それぞれについてこれまでの検討を整理する。まずa)の争点についてである。健全者を「手足」として位置づけることに対して、それが議論として広がった形での健全者を「敵」としてみなすことに疑義を差し挟もうとする者がいた。神奈川青い芝における議論において、我妻は「健全者は敵だ」とか「健全者はロボットだ」というのでは、「個々の健全者との関わりを深める」などと活動方針を出しても無意味だと主張した(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 [1978b:11])。
対して、小仲井からは障害者が「いつでも殺される立場にある」ということを一番に考えるべきだとする主張がなされた(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 [1978b:12])。横田からは「健全者個人がどうのこうのと言うことではなく、健全者そのものが我々にとって大きな敵」であり、「健全者を少しずつ、健全者を少しずつ、私達の方へ近づけて行かなければならない」という発言がなされた(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 [1978b:12])。ここでは健全者の位置づけが争点となっている。
 次にb)についてである。肯定派は「運動」と「生活」を分けて考え、その主張の対象を「運動」に限定することによって「運動」論としての健全者手足論を主張した。それに対し、懐疑派は「運動」と「生活」を弁別することそのものに対して、疑義を差し挟む主張を行った。
 そもそも健全者手足論は「運動」と「生活」を分けて考えることができるという前提を含みこんでいる。健全者手足論は「運動」の局面においてのみ健全者の口出しを禁じるという「運動論」であるから、その肯定派は必然的に「運動」と「生活」が分けて考えうるという論理を主張せざるを得ないことになる。もし「運動」と「生活」が不可分であると考えるならば、「生活」においては適応されずに「運動」においてのみ適応される論理というものは最初からあり得ないからだ。
 「第二回全国委員会」において、磯部は横田に対して「生活することと、運動するということと、一体どういう風にお考えなのか」(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会 [1978:32])と質問する。これに対して横田は「運動」と「生活」の位置付けをあいまいにしつつも、明確に「運動」と「生活」を切り分けた形で返答する(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会 [1978:33])。
 健全者手足論の肯定派と懐疑派の間にあった考え方の相違は、健全者手足論という論理が前提とする「運動」と「生活」が分けて考えうるのか、そうでないのかという点にあったと整理しうる。

3.2 肯定派/懐疑派の背景には何があるのか

 3.1で検討した意見の相違はどのような背景によって生じたのだろうか。まずa)健全者をどのように位置づけるのかという争点について検討しよう。この争点の背景として、運動の形態に対する姿勢の違いを指摘できる。具体的には、告発糾弾型の運動を指向した側と、そうした告発糾弾型の運動から離れようとした側という違いである。
 小林[2011]や山下[2008]が明らかにしたように、そもそも健全者手足論は関西や神奈川における運動の行き詰まりをどのように解決するかという議論の中で提起されたものである。当時、健全者を糾弾する形での運動、すなわち告発糾弾型の運動は様々な形でうまくいかなくなっていた。直接的に問題とされたのは健全者が青い芝の運動に対して口出しをしたことであったが、重度の障害者が地域に出ていく分だけの十分な介助者を確保することができず一部の健全者が無理をして運動を続けるという構造が固定化されつつあったことも大きな問題であった[小林 2011]。
 そうした環境では障害者と健全者の生活における関係性の構築も難しくなっており、障害者と健全者(組織)の軋轢が深まる結果となった。神奈川青い芝において、健全者支援組織が解体に追い込まれた経緯も、直接の発端は介助の負担が一部の健全者に重くのしかかったことに起因する「口論」であったことはその意味で重要である。
 このような状況に追い込まれた執行部は、障害者自身によって健全者社会を糾弾していく運動として青い芝の会があるということを再確認し、それを健全者の側に徹底させるという方針を取ろうとする。そのために運動の局面においては「健全者を排除」し、口出しを徹底的に排除する必要があった[石島 2018]。
他方に告発糾弾型の運動からの脱却を目指そうとした者たちがいる。懐疑的主張を行った磯部をはじめとする東京青い芝の会は「過激」な運動に対し、常に批判的姿勢を取っていた(立岩[2019:259])。磯部が横田に対して健全者手足論についての批判的論調の質問を投げかけたのは、告発糾弾型の運動を指向する横田と、それに批判的な磯部という構図があると言いうる。こうした運動の指向の違いが健全者手足論への意見の相違を生んだ。
 次にb) 「運動」と「生活」をどのように位置づけるのかという争点についてである。そもそも健全者手足論は「運動」と「生活」を分けて考えることができるという前提を含みこんでいる。健全者手足論は、「運動」の局面においてのみ健全者の口出しを禁じるという「運動論」であるから、「運動」と「生活」は別のものとして位置付けられる必要がある。もし「運動」と「生活」が不可分であると考えるならば、「生活」においては適応されずに「運動」においてのみ適応される論理というものは最初からあり得ないからだ。
 石島[2018:183-184]は、第二回全国代表者会議において運動と生活を「全く別の事だ」(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会 [1978:34])と述べた白石清春に対して、とくに重度のCP者において「運動」と「生活」が切り離せないものであるとする反論が大阪青い芝のメンバー長沢★8や福岡青い芝の中山善人からなされたことを指摘する。ここでは長沢の発言を引用する。
寝たっきりの障害者が生活をする場合、その人の生活をとらえた場合、生活そのものが運動だということになる訳です。
(日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会総連合会 [1978:33])
 健全者手足論に対して、そもそも「運動」と「生活」が切り離せるものではないとする主張が行われた背景には、障害の重軽による状況の差があったと考えられる。その理由はまず一つに、地域で生活することがより困難である重度の障害者にとっては、地域で生活していくということそのものが持つ「運動」としての側面が、軽度の障害者よりも強いからである。それは一般により重度である方が地域生活が難しく、軽度であれば地域生活の可能性が大きいという状況に起因する。
 換言するならば、より障害が重度である方が「運動」と「生活」はより密接な関係を持つようになり、切り離し難くなるということである。より重度であるほどに不可分性が高まるのである。重度障害者にとっては「生活」のほとんどの場面が、そこで生活していくことができるかどうかを巡る「運動」であり、それを切り離すということそのものが受け入れがたかった。
   第二に現実的問題として、より障害の程度が重い方が、生活の場面において健全者による介護(介助)行為を多く必要とする。そのため健全者との関係性が崩れるおそれのある健全者手足論に対して、より慎重にならざるを得なかったということがあると考えられる。そうした重度障害のメンバーが多い地域の青い芝の会は、会としても慎重になるという構造があったものと考えうる。ただし本稿はその点については十分な検討を行っていない。
 こうした背景を踏まえたとき、横塚[1978]に述べられていることは注目に値する。横塚[1978:3-4]は健全者を手足となりきらせることの困難さを指摘したうえで、「手足がいつ胴体をはなれて走り出すかもわからないし、そうなった時には脳性マヒ者は取り残され生命さえ危うくなるという危険性を常にはらんでいるのです」と述べている。横塚は会長という立場から、障害者が健全者によって「取り残され生命さえ危うくなる」危険性があるということを認識しそのことに文章中で触れつつも、健全者手足論を肯定したのである。「運動」における強硬な姿勢によって、「生活」が脅かされる危険を認識しつつも健全者手足論が徹底されるべきだという論理を横塚が立てたことは重要な点であろう。

3.3 終わりに

 ここまで健全者手足論を巡る議論について整理した。本稿で明らかになったことは先行研究で示された枠組みを出るものではないが、それを一次資料によって裏付け、それを再整理した点が意義である。
 健全者手足論についての今後の研究課題は次にあると考える。第一に、石島[2018:187-188]が指摘する、健全者手足論が介助者手足論へと変化していく過程を明らかにすることである。健全者手足論は1970年代の時点で「運動」から「生活」の論理へと「侵食」(石島[2018:183])していると考えられるが、その後はどのような理解がなされていたのだろうか。そのことを明らかにすることは、日本の自立生活運動における介助関係のあり方を知ることに直結する。これは1970年代後半から、それ以降についての議論である。
 第二に、そもそも健全者運動において障害者の「手足」になって動く必要があるとする規範がどの時点において、どのように生じたのかを明らかにすることである。健全者手足論が形成される以前の「萌芽」的議論について検討し、それがどのように形成されたのかを明らかにすることは、障害者運動において障害者と健全者の関係性の規定がいかに社会的に形成されたのかを知ることにつながるだろう。これは1970年代初頭を中心とする議論である。

■註

★1. 本稿では原則的に小林[2011]の示す区分に従い、「介助者(介護者)手足論」と「健全者手足論」を区別して用いる。小林[2011]は、青い芝の会はもともと運動について健全者からの口出しを禁じた「健全者手足論」を提起したが、それが変化しあたかも介助者へ障害者へ口出しすることを禁じる「介助者手足論」を青い芝の会が提起したかのように捉えられていると指摘する。この記述は「介助者手足論」ではなく、「健全者手足論」の先行研究として田中[2005]、小林[2011]、山下[2008]、石島[2018]を挙げることができるという意味である。
★2. ただし、小林は確かに青い芝運動をすぐ傍らで経験したが、直接に手足論が形成される議論を知っていたわけではないことをインタビューにおいて語っている。「そのあとに手足論の「見解」が全国青い芝から出るんだけれども。出たときには、(自分は=筆者注)青い芝とかグループゴリラとかの中心部分にいたのではなくて、その大衆運動部分っていうかな。市民運動をつくるっていう部分で、それはもちろん青い芝の一部なんだけど、市民運動的な色の強いところに居たので若干距離がある。だから、その当時の混乱の状況のなかで、その議論をしてあの文章をまとめていくっていう中心にはないない。それはあとで出るかもわからないけど、だから、関西で緊急アピールがでたときはびっくりしたっていうかな。だからぼくは、よくわかってなかったというか。そういう議論がされているっていうことを全然知らなかった」[小林 2020]
★3. 矢田龍司(やた りゅうじ)は、神奈川青い芝の会に所属していた。1973年に事務局長になり、1978年には会長に就任している。
★4. 我妻について。例えば、「青い芝」神奈川県連合会の第十五回総会では「委任状」の形式に対して反発し「僕はやめた。こんな総会あるか」と批判を述べて退場している[日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会 1978a:5]。執行部に対し批判的な立場であった我妻は、ここで引用した部分についても単に執行部を批判するために述べた可能性もある。
★5. 手足論の初出については山口[2021]に議論がある。関連する文章の文脈から、神奈川青い芝における「申し合わせ」は1977年9月頃である可能性が高い。これを初出と考える場合には、「緊急あぴいる」よりも数か月早く提出されていたと考えられる。
★6. 小仲井千鶴子(こなかい ちづこ)は、神奈川青い芝の会に所属した会員。全国青い芝の活動にも積極的に関与し続けた。女性の障害当事者として神奈川青い芝「婦人部」でも活躍していた。
★7. 横塚晃一(よこづか こういち)は、1935年生まれ。神奈川青い芝の会に所属していた。全国青い芝の会の会長に選出されたのは1973年10月。1978年に死去。
★8. 発言者の姓のみが記載されおり、名前が記載されていないが、おそらく発言者は長沢香代子である。長沢はのちに結婚し、入部姓を名乗っている。この点について石島[2018:190]は「入部(長沢)香代子と思われる。ただし、この会議が開かれた1978年にはすでに福岡に移り福岡青い芝の事務局長をしていたはずであるので、別人の可能性もある」としている。


■文献

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