1964年、「あすなろ学園」の開設はどのように報じられたのか ───「保護者と職員の会」の保存資料から 植木 是
2022.10 『遡航』004号 pp.100-118
自閉症児施設、あすなろ学園(三重県立高茶屋病院内)、自閉症児の親の会、新聞報道、「保護者と職員の会」保存資料
要旨

日本初の自閉症児施設「あすなろ学園」(三重県立高茶屋病院内)の開設は1964年1月15日である。当時はどのように新聞紙で報じられていたのか、現在は関係者間でも知られていない。そこで本稿では新たに発見された「保護者と職員の会」の保存資料を用いて、同資料に収録された1964年の3つの記事を掲載し、そこでどのようにあすなろ学園と自閉症が語られているのかを概観・整理した。また新聞社の検索ではアクセスしづらい記事を補足するものとして「あすなろリスト」を整理し、1960年代に焦点をあてて分析した。結果、1967~1968年の「自閉症児の親の会」全国組織化の話は複数取り上げられているが、それに先だって設立されていた専門施設、1964年あすなろ学園の開設の頃に関する記事、つまり新聞社の検索ではアクセスしづらい記事があったことが明らかとなった。このようにして、a. 1964年専門施設の開設があり、b. そこを拠点として親たちの活動が拡がり、c. 地元・各地で親の会が結成されその会の活動が拡がり、d. 1967~1968年親の会全国組織の大会の開催が新聞報道などに取り上げられ、e. これらを経て1960年代末頃より、「自閉症」ということば/概念が世に広がっていった、ということも考えられる。

1. はじめに

日本初の自閉症児施設「あすなろ学園」(三重県立高茶屋病院内)の開設は1964年1月15日のことである。1964年開設の頃のあすなろ学園および自閉症とその周辺に関して、当時はどのように報じられていたのだろうか。本稿では、新たに発見された親の会の資料★01に収録されている1964年の3つの記事を掲載し、そこでどのようにあすなろ学園と自閉症が語られているのかを概観・整理する。

1.2. 資料・方法

先にみた資料に含まれる1960年代の新聞切り抜きを表1に整理した★02。なお表1にある記事の全文(No1~20)は、「arsvi.com」ホームページ(以下、HP)の「あすなろ学園」に収録した★03。本稿ではこの資料(以下、本稿では「資料集」という)を用いる。

表1 テキスト

ところで、新聞社の記事データベースを検索すればよいではないかと思われるかもしれない。しかし、そうでもない。そのことについて(より詳しくは別途報告するが)、1.3~1.4で述べる。

1.3. なぜウェブ検索だけに頼らず、その資料集を使うのか

以下にその理由/必要性について説明する。 (1)「自閉症」という言葉自体が定着していなかった時期のことを知ろうとしている  新聞社の記事データベースを検索すると記事によっては「自閉(症)」という言葉がない場合がありうるし、実際にある。また「自閉」や「自閉的」といった言葉自体は様々に使われる。よって、キーワードとして「自閉症」を記事に付してそのキーワードが付される記事(だけ)が出てくる場合がある。またそれは同時に、キーワードが付されず出てこない可能性もあるということである。 (2)新聞社の記事データベースに単純な入力ミスがあって検出されない場合もある  (1)を踏まえるとウェブ検索、とりわけ新聞社の記事データベースに頼ればよいということだけにはならない。そこで、あすなろ学園というその施設を開設した側の認識としては(当時の報道では、「精神障害児のための施設」や「情緒障害児のための施設」と紹介されていたが、当時、どこも行き場のなかった)自閉症者(児)のための施設とされ、また後にもそのように位置づけられたあすなろ学園(についての報道)を見ていくというのは一つの有効な手立てとなる。  資料に報道のすべてが網羅されているかどうかは、もちろんわからない。しかし、当時取材を受けそれが記事になった場合には、それらをすべて保存しようとしたはずであり、もちろんすべてでないとしてもかなりの割合がここにあると推定することは不合理ではないはずだ。  上にみたことを踏まえて、筆者は新聞社の記事データベースを含めてウェブ検索を行なっており、それも活用している。ただ繰り返しになるが、先にも紹介したように単なる新聞社による誤入力によって出てこない記事も実際にあった(これについては、1.4で述べる)。  以上が、その理由/必要性である。

1.4. ウェブ検索について ――現在の新聞社の記事データベースではうまくいかないことがある、その一例

朝日、毎日、読売の大手3紙は検索システムを整備してきている★04。詳しくは別途報告するが、たとえば朝日新聞の場合、1960年代の「自閉」および「自閉症」に関する検索結果は15件(2022年8月23日現在)★05であった。一方、朝日新聞で「あすなろ学園の開設」について報じた記事は1件で、1964年10月19日朝日新聞「精神障害児の病院 津市の「あすなろ学園」を見る」である。しかし、この記事は上にみた15件の検索結果には含まれていない。また「自閉」および「自閉症」、そして「あすなろ学園」でもヒットせず、「あすなろ」でようやくヒットする。その理由は、「あすなろう学園」(*下線部筆者)と入力されているためである(2022年8月23日現在)。つまりこの場合、朝日新聞の検索システムの明らかな誤作業によるものである。  上にみたようなことからも、いわゆる「あすなろ学園の開設について報じた記事」には、検索システムの通常の活用法だけではなかなかアクセスが困難な実情にあることがわかる。

1.5. 資料を入手した経緯

さて、ここでは資料集とそれらを入手した経緯について、以下に説明する。 ・経緯1  筆者は、自閉症施設の黎明期を知るための聴き取りと資料収集を、2004年より三重県の自閉症施設とその関係者、親の会とその周辺から進めてきた。当時は、筆者の勤めてきた「おおすぎれんげの里」の先輩施設であるあすなろ学園、「あさけ学園」に問い合わせてもよくわからない状態であった。また資料は既に散逸しており、いずれも資料室あるいは書庫とは名ばかりのもので倉庫のような状態にあり、また引継ぎも十分にできていない状況にあった。そのなかで、「三重県自閉症協会」の活動を通じて貴重な資料が発掘され、世に出る機会に恵まれた。2020年6月29 日「三重県立子ども心身発達医療センター」(*2017年よりあすなろ学園が再編統合化された後進施設)での出来事であった。当時三重県自閉症協会役員・前会長、おおすぎれんげの里評議員・中野喜美による報告(三重県自閉症協会[2020])によると、以下のようである。

~あすなろ学園の歴史~ 令和2年6月29日に「三重県立子ども心身発達医療センター」の高橋課長様からお誘いをいただき、「三重県立子ども心身発達医療センター」の前身である「あすなろ学園」が歩んできた資料や、その親の会の活動の記録を拝見することができました。 資料を並べていただいた部屋に入ると、昭和40年代前半のアルバムから始まり年代順にきれいに並べられていました。そして、年表までプリントしていただいてあり時代の流れがとてもよくわかります。 懐かしいとは言えないくらい私たちが知らない時代の資料は、色あせて用紙の大きさや紙質も様々で、中には、こよりで綴じてあるものもありました。 「三重県自閉症協会」の前身である、「自閉症児を守る会」が発足するもっと前から「あすなろ学園の親の会」(入院している子どもの保護者会)の活動は始まっていました。その親の会のお父さんお母さんたちが、手書きの要望書・嘆願書で行政を動かしてきてくださった軌跡がありました。感動でした! この頃の医師や職員さんたちからも、大きな後押しがあったようです。 このような先輩方の力強い活動があったからこそ、今の子どもたちの環境があるのだと感謝です! そして、資料の外側の机の上には、緑色の表紙の親の会の文集もありました。パラリとめくったページには、母親としてこどもを慈しむあたたかい言葉が綴られていました。先輩方のこどもを思うが故の資料の言葉に触れ、文集の中の母として同じ気持ちの言葉に触れ、胸が熱くなりました。 貴重な資料を残していてくださって、ありがとうございました。この度は拝見させていただきまして、ありがとうございました。(三重県自閉症協会[2020])

上にみた「高橋課長」は地域連携室ソーシャルワーカー(社会福祉士)・高橋悟(現・部長、これをきっかけに2022年度より三重県自閉症協会顧問となる)のことで、西田寿美園長(児童精神科医、現・おおすぎれんげの里診療所所長)のもと最後のあすなろ学園史『あすなろの30年』(あすなろ学園[2016])の編集作業の中心的役割を担った重要人物である。あすなろ学園転籍の前には「城山れんげの里」の前身の敷地建物にもあたる「県立樹心寮・県立センターはばたき」に在籍し、その当時「三重県社会福祉士会」の立ち上げ時には柳誠四郎(おおすぎれんげの里初代施設長・常務理事、現・理事長)らと活動してきた「ソーシャルワーカーの同志」的つながりでもある。  筆者は2016年あすなろ学園地域連携室を訪れた。その際、「2020年におおすぎれんげの里が設立20周年を迎えるため、それに向けた記念事業にも向けて、是非、施設設立の経緯がわかるもの、例えば親の会とか施設職員の活動に関する資料・情報について、何か収集する手がかりはないか」と申し出ていた。その背景には、施設立ち上げに人生の大半をかけてきた施設づくり運動の担い手となった親たちの高齢化があり、何とかこの歴史を紡いでいくことが大切だと感じていた筆者、そしてその大切さを教えてくれる、後述する宮本隆彦ら施設づくり運動親の会発起人会主要メンバーのわが子らへの尊い想いがあった。その想いを伝えていくなかで、その過程で種々の困難がありながらもご協力をいただいた結果、前述の資料群(三重県自閉症協会[2020])が発掘されたのである。  高橋(2020a , 2020b)の私信によると次のようである。

ある時、中央倉庫で探し物をしていると、たくさんの資料の中から、昭和39年前後からの古い資料が見つかりました。あすなろ学園時代の保護者会の活動や当時の新聞の切り抜きなどです(高橋[2020a]、下線部筆者)。 あるきっかけがあり、中央倉庫に眠るかつてあった保護者の活動に関する資料を見つけることになった(高橋[2020b]、下線部筆者)。

・経緯2  先に述べたとおり、2016年当時は資料が散逸した状態にあった。しかしながら、高橋課長より「おそらく、2017年再編新築される三重県子ども心身発達医療センターへの移転作業の際には、色々と昔のものも出てくると思われる。その時には捨てないように保管していきたい」と協力を得られた。また筆者は同時期に親の会と対話交流し、第二、第三世代にあたる三重県自閉症協会の当時の会長・中野と事務局長・横山美香のほか、第一世代にあたる元あすなろ学園親の会で現あさけ学園親の会、元日本自閉症協会副会長で当時「檜の里(あさけ学園)」理事、当時「岐阜県自閉症協会」会長・水野佐知子にも取材・協力依頼していた。  それらを受けて水野は「2019年岐阜県自閉症協会設立50周年に向けて、自閉症施設の歴史に関する資料・情報収集に向けて何か手がかりはないか」と筆者と連携の後に高橋へ協力依頼をした経緯があった。これらの縁――あすなろ、あさけ、れんげに連なる親の会と施設職員の歴史――がつながった結果として、この度の共有・公開が実現したものである。 ・経緯3  2020年10月2日にあすなろ学園(2017年再編統合化に伴い閉園)後身施設の三重県子ども心身発達医療センターにおいて、①〈個人情報の取り扱いには十分に留意したうえで〉、②〈自閉症児者のための更なる支援の発展のために共有〉し、また③〈今後も収集・保管、そして分析していくこと〉を、同センター医療連携室・高橋悟課長(当時)とおおすぎ評議員・おおすぎ連合保護者会会長・おおすぎ設立発起人会役員の宮本隆彦は合意した。またその橋渡し役として筆者は同席・合意し、また、あさけ学園親の会役員で岐阜県自閉症協会会長(当時、現在は岐阜市支部/ブロック長)・水野佐知子にも筆者は橋渡し役として後日その経緯を伝え合意を得たものである。その後の流れで、親の会と施設設立発起人会の立場として宮本側からの働きかけもあり、いわゆる自閉症施設関係者、とりわけおおすぎれんげの里理事長の柳誠四郎、れんげの里前納欣人施設長、三重県自閉症協会及び関係する親の会、あさけ学園近藤裕彦施設長、にて共有・保管がなされた。なお新聞の切り抜きは、他の資料とともにファイル内に保存されていたが、他と同様に劣化が著しいため高橋によって順次施設事務室によりスキャンされ保存・共有された。

2. 資料集にある記事

以下、記事1~3全文(記事番号は掲載日順)を示す。すべて1964年あすなろ学園開設当初の取り組みを伝えるものである。ここでは、日本では従来の施設、病院では行き場のなかった自閉症児に対応し得る唯一の施設であった当時の園の様子を伝えている、そこでの実践の捉えられ方(それは施設側の説明の仕方であったかもしれないが)がわかる。 (1)記事1全文  以下に全文を示す。なお、下線部は筆者が付したものである。

・1964年5月14日毎日新聞「よみがえった情緒障害児 あすなろ学園の四ヶ月」 よみがえった情緒障害児 生活すべてにメス もう2人が明るく退園 〝さよなら″とお別れの手をふるママにも悲しみやさみしさの表情一つ現わさぬ子、月曜日の朝になると、急に頭痛や腹痛を訴えて学校へ行きたがらぬ子——この子ら(情緒障害児)が〝あすなろ学園″=津市高茶屋=にはいって四ヶ月が過ぎた。いまでは面会を終わって帰る母親にすがって泣き〝学校へ行くんだ″とダダをこねて保母さんを困らせるまでになった。以下は精神医学に新しく登場した〝情緒障害児の治療のレポート″ あすなろの四ヶ月(四角カッコで囲い)  〝あすなろ学園″は、津市高茶屋小森町の高台にある県立高茶屋病院の第十四病舎にある。広大な敷地は、静かで、明るい。学園のグラウンドには、遊具がならび、幼稚園のよう。この一月、同園が全国にさきがけてつくったもので、四才から十五才までのこどもが生活している。 自分の中に閉じこもって、家族、学校、友だちの集団の中には、全然はいれない幼児期自閉症、月曜日になると腹が痛くなる(小児科の診断を受けても、なんら身体的な症状はない。土曜日の午後からはしゃぎ、日曜日は朝から飛び回っている)学校恐怖症の子らである。A子ちゃん(六つ)は、アルファベットを全部読み。知能指数は小学二、三年程度。でも母親に連れ添われ入院した当時は〝すぐ迎えにくるからね。さよなら″と家へ帰るお母さんと顔を合わせても、さみしがるでなし、まったくの無表情。A子ちゃんにとってママは見も知らぬ他人といった表情。同院は「自分の意思、性格を十分話せない、この子たちの診断にあたっては、ただ母親が語る〝わが子″を参考にするだけ。その母親の声も、どこまで客観性をもっているか疑問だった。いたいけなこどものすべてを知って、一日も早く健全な精神にかえらせよう」と〝あすなろ学園″が建てられた。 母親にも精神療法 十亀(そがめ)史郎医師(三二)ら医師九人、看護婦など十八人、計二十七人が、チーム・ワークをとり、患児の全生活にタッチして治療の対象をつかみ、治療を施すのがねらい。学園は児童部と思春期部(中学生)に分けられている。児童室には、自動車、電話のオモチャがならび、大型の積み木も幾組かある。療法スケジュールに従い、朝の体操から一日がはじまる。オルガン伴奏で遊戯を楽しみ、ピカソばりの絵を描いている。 回復後は、すぐ母校へ帰れるよう算数、国語の基礎学習は欠かさない。休憩時間には運動場で遊戯、また絵画で心理療法を施すのをはじめ、すべてが、生活、環境のなかで健康な精神を取り戻していく療法である。 喜々と学び、遊ぶその姿は、正常児と変わらないが、保母、看護婦の目は一人々々のちょっとした動作やクセにも気を配っている。治療の資料をとるのだ。家庭では〝はれもの″のように大事に扱われてきた子たちだが、ホウキを持って掃除に加わるし、給食の配ゼンが楽しそうだ。 A子ちゃんは、乳児時代、理性が強くて、愛情の薄い母親に育てられ、母親の性格そのままを受けついだ。人間的な暖かみを知らないまま入学前になっても、喜びや悲しみの表情は、顔に現れぬので、主治医と相談して入園した。患児の治療とともに、母親の精神療法も並行して行なわれている。 担当のケース・ワーカー岡本聡美(二三)は「週一回、お母さんたちと会い、家庭のこと、お母さんに改めて〝自分″と〝家庭″を見直してもらっている。最近のお母さんたちの育児法は、本屋さんに並んでいる〝育児読本″そのままだ。子どもは左キキなどそれぞれの特徴をもっている。画一的な育児でなく、子どもの特徴に合わせた育児や指導をしていくべきではないでしょうか…」と語る。 この四ヶ月で、すでに二人が退院して母校に帰っていった。いつも、保母さんたちに、だっこされてきたA子ちゃんは、ママがケース・ワーカーに面接にくると、いっときもママから離れない。母も子も人間としての情緒を次第に取り戻している時期だ、と医師たちはいう。

(2)記事2全文  以下に全文を示す。なお、下線部は筆者が付したものである。

・1964年6月19日朝日新聞「精神障害児の病院 津市の「あすなろ学園」を見る」 みんなの健康 三重県の津駅から南や約六キロ、旧参宮道を横切った城山地区の丘陵地帯に県立高茶屋病院(精神病院)がある。ここは旧海軍工廠(こうしょう)の病院跡で七万三千平方メートルの広大な病院敷地は病める魂をいやす包容力を感じさせる。 昭和二十五年に設立されたこの病院の両隣には精神薄弱者更生補導施設、養護学校、身体障害児を収容する草の実学園(いずれも県立)などがあり、この高台一帯はさながら三重県の誇る〝精神身体障害者センター″だ。 こういう環境の中にもう一つ、今年の一月から『あすなろ学園』が開設された。高茶屋病院内付属の児童病棟(病棟)だが、情緒障害や精神障害のあるこどもたちの病院であり、幼稚園であり、学校であり、生活の場であるところに、その特色があって、全国でも、珍しい取り組みとして関係者の注目を集めている。 明るい患者たち 初夏の明るい日ざしが降り注ぐ六月初旬の昼さがり――広い学園運動場の一角にある〝ジャングルジム″で六、七人の子どもたちがここで生活を共にしており、徳島、広島、岐阜、名古屋など、県外から来ている子もまじっている。四歳のK子ちゃん、六歳のA君は共に自閉症。この病気は、一、二歳ごろから急に母親や周囲の者に対して無関心になり、ひとりごとをいったり、ひとり遊び、ひとり笑いをするようになる。そして食事や排便など、生理的欲求以外は何も要求せず、心理的には全く社会と隔絶した文字通り”自閉“の世界の住人となる。半面、自分の好きなことにかけては天才的な才能を示す場合が少なくない。K子ちゃんは一度聞いたメロディーを、あざやかにオルガンに再現してゆく。入学前のA君は患児に異常な関心を持ち、〝独学″で小学校三―四年生で習う漢字を自由に読み書きできるという。 強迫症状もとれて軽い分裂病だというL子ちゃんは小学一年生。一月に入園したころは寝室のドアを開けたり閉めたりする強迫症状が強く、話のあとには必ず「ホント」とつけるのが口ぐせ。家に手紙を書くときも「おかあさん、はやくあいにきてねホント。おみやげもってきてねホント。――L子よりホント」といった調子。しかし、五カ月の療養生活を送った現在、言葉の表現がスムーズになって強迫症状も、うす皮をはぐようにとれ、対人関係にも積極性が見えてきた。 学校恐怖症で、自宅ではガンとして登校を拒否していたE子さん(中学二年生)も最近メキメキよくなり、いまでは毎朝六時半の汽車に乗って、ここから元気に通学している。 完備した治療施設 こうして、あすなろ学園では、徐々ではあるが、治療の成果をあげつつある。八百平方メートルあまりの近代施設には「児童用」「思春期用」に分けた室をはじめ、遊戯治療用のオモチャがいっぱいあって砂場まで設けられているプレールーム、寝室、浴室、臨床チーム室、観察室などが完備され、医師が交代で数人、ケースワーカー一、保母八、看護婦二、看護助手一人が治療や生活指導にあたっている。 担当医の十亀(そがめ)史郎医師は「これらのこどもたちは、いろいろ病名がついているが、普通の病気のように、一つの症状に対して一つの原因があるのではない。そのほとんどが、家庭環境、発育途上の中に持続的な問題があるのだから、それを取除き、適切な環境と愛情を与えることが第一」と、治療方針を語る。そのためには鉄格子やのぞき窓のある〝看視″された〝収容施設″では効果は期待できないのだ。 世間の冷たい目 それにしても、あすなろ学園に対する世間の目はまだ冷たく、理解が足りない。精神障害児への偏見がある。だから、入院させて病気をなおしてやりたい親ごころにも、ついブレーキがかかる。学園で正規の学校教育を受けられるようにもしたいが派遣教員はいまのところ実現しそうにはないという。 しかし「のりかけた船。当分は赤字の連続だが、気ながに、できる限りのことをやってみますよ」――何ごとも患者優先主義の井上正吾高茶屋病院長は決意のほどを見せていた。 ダ足かも知れないが、ここを見て「小児病棟」という言葉を思い出させるものが一つあった。それはカギである。開放的な〝学園″なのにドアが、やたらと多く、出入りのたびに保母さんがガチャガチャ、カギで開け閉めする。あるいは、病院としては当然の処置の一つかもしれぬ。 精神障害児は、早く適切な治療さえすれば、なおせるものが多いのだ。世間の偏見が、彼らの治療を、おおきくはばんでいることを考えると、こうした病院の中にかけられるカギを気にするまえに、社会の方が、これらのこどもたちに対してかけている〝心のカギ″を早くあけるべきではないかと感じさせられた。 写真説明:静かな環境に包み込まれた津市の「あすなろ学園」 中見出し:適切な環境と愛情  〝閉ざされた心″をひらく 写真説明:左 あすなろ学園 十亀 史郎医師 中央 ケースワーカー 岡本 聡美さん 右 高茶屋病院院長 井上 正吾さん

(3)記事3全文  以下に全文を示す。なお、下線部は筆者が付したものである。

・1964年10月19日毎日新聞「学校恐怖症で注目の発表 学力優等児に多い 津の医師ら二人 必要な環境の調整」 写真上 十亀 医師  写真下 田中 医師 最近、学校へ行くのをこわがるこどもがふえており、こうしたこどもをもつ、父母を心配させているが、津市高茶屋小森町の県立高茶屋病院の医師十亀(そがめ)史郎(三二)と同田中雅文(三一)の両氏がこのほど福岡市の九州大学で開かれた「児童精神医学会」で〝学校恐怖症児の家族関係″と〝学校恐怖症児の入院治療″という二つの研究発表を行ない注目されている。 〝学校恐怖症″にかかっているのは比較的知能の高い学力優等の児童に多く、本人は、学校へ行きたい気持をもちながら〝給食がまずい″〝先生によくあてられる″〝きらいな音楽の時間に歌わされる″などちいさなことから学校へ行かなくなる。しかし、この病気は、精薄児や非行少年が学校をきらったり、ズル休みをするのとはっきり区別される。 〝学校恐怖症″のこどもはきちょうめんであると同時にわがままな性格のこどもが多く、夕方から夜にかけてはきげんがよくあすの時間割のノートや教科書をきちんとカバンにつめて準備して寝るが、当日の朝になるとむずかって起きなかったり、頭痛などを訴え、学校に行きたがらないという。 この入院治療施設として県立高茶屋病院に「あすなろ学園」=精神障害児童施設=というのが設けられている。全国では、はじめての施設で、十亀、田中両医師が担当〝学校恐怖症″治療と研究に取り組んでいる。……(ママ) この病気は放置しておくと、自分の室にとじこもって読書や模型の組み立てなどにふけって家族との交渉すらなくなり、精神病的な症状を呈するようになる。一方、学校恐怖症の子どもをもつ親は絶望的な気持をもつようになる。専門医と家族が会って、一しょに考え、〝環境調整″が大切であることを結論している。 どうしても学校に行かない子供が入院することによって学校に行くようになった例としては①環境に原因があり家族から分離した②病院では、他の子供たちといやでも集団生活をせねばならず、グループ生活になれてくるなどの点をあげており、両氏は「入院治療は環境が〝権威″と〝保護″の両面を持っているため心理的に安定感を与えるためか、家族療法より効果は大きい」と語っている。 また両氏は津市の小中学生約一万五千五百人について調べたところ明らかに〝学校恐怖症″のこどもが三十人あった。これは約五百人に一人の割合でこの病気のこどもがいることを示している。

それでは上にみたことからわかることを(より詳しくは別途報告するが)2.1、2.2で、短く列記する。

2.1. 記事の特徴1――自閉症という語がある記事、ない記事、他

その特徴は以下A~Dのように整理できる。 A. すくなくとも記事の(メインの)題に「自閉症」が使われている記事はない。 B. 記事1、2については「(幼児期)自閉症」が使われているが、記事3については「自閉症」が使われていない。 C. すべてに共通して「学校恐怖症」★06という語が使われている。 D. この時点ではまだ「自閉症児施設」、「自閉症施設」という記載は確認できない。

2.2. 記事の特徴2――その人たちについて、どのような捉えられ方がなされているか

その特徴は以下a~fのように整理できる。 a. 治療(精神科/精神障害)の対象として捉えられようとしている  例として以下の記述を挙げる。なお下線部は筆者が付した。

・「同院は「自分の意思、性格を十分話せない、この子たちの診断にあたっては、ただ母親が語る〝わが子″を参考にするだけ。その母親の声も、どこまで客観性をもっているか疑問だった。いたいけなこどものすべてを知って、一日も早く健全な精神にかえらせよう」と〝あすなろ学園″が建てられた」【記事1】 ・「医師九人、看護婦など十八人、計二十七人が、チーム・ワークをとり、患児の全生活にタッチして治療の対象をつかみ、治療を施すのがねらい」【記事1】 ・「精神障害児は、早く適切な治療さえすれば、なおせるものが多いのだ。世間の偏見が、彼らの治療を、おおきくはばんでいる[…]」【記事2】 ・「〝学校恐怖症児の入院治療″」【記事3】

b. 治療のほか教育・生活面でのはたらきかけが必要とされている  例として以下の記述を挙げる。なお下線部は筆者が付した。

・「[…]患児の全生活にタッチして治療の対象をつかみ、治療を施すのがねらい」(再掲)【記事1】 ・「情緒障害や精神障害のあるこどもたちの病院であり、幼稚園であり、学校であり、生活の場である」【記事2】 ・「初夏の明るい日ざしが降り注ぐ六月初旬の昼さがり――広い学園運動場の一角にある〝ジャングルジム″で六、七人の子どもたちがここで生活を共にしており[…]」【記事2】 ・「学園で正規の学校教育を受けられるようにもしたいが派遣教員はいまのところ実現しそうにはないという」【記事2】 ・「[…]病院では、他の子供たちといやでも集団生活をせねばならず、グループ生活になれてくる[…]」【記事3】

医師による治療のほか、心理面からの箱庭療法や遊戯療法などのはたらきかけ、福祉面からのケースワーク・保育・家庭支援、教育面での幼児教育・保育支援的なはたらきかけを模索していたことがわかる。 c. 全国的に〈さきがけ/珍しい取り組み/はじめて〉の対象とされている  例として以下の記述を挙げる。なお下線部は筆者が付した。

・「同園が全国にさきがけてつくったもので、四才から十五才までのこどもが生活している」【記事1】 ・「情緒障害や精神障害のあるこどもたちの病院であり、幼稚園であり、学校であり、生活の場であるところに、その特色があって、全国でも、珍しい取り組みとして関係者の注目を集めている」【記事2】 ・「入院治療施設として県立高茶屋病院に「あすなろ学園」=精神障害児童施設=というのが設けられている。全国では、はじめての施設」【記事3】

治療を前提としながら、生活(福祉)を捉えようとしていること、そして就学猶予・就学免除にあったこのような子どもたちに対して、必要な支援(教育・心理・福祉での支援)を模索し始めていることがわかる。 d. 入所(院)してからよくなった、といわれている  例として以下の記述を挙げる。なお下線部は筆者が付した。

・「生活すべてにメス もう2人が明るく退園」【記事1】 ・「[…]この子ら(情緒障害児)が〝あすなろ学園″=津市高茶屋=にはいって四ヶ月が過ぎた。いまでは面会を終わって帰る母親にすがって泣き〝学校へ行くんだ″とダダをこねて保母さんを 困らせるまでになった」【記事1】 ・「入学前のA君は患児に異常な関心を持ち、〝独学″で小学校三―四年生で習う漢字を自由に読み書きできるという」【記事2】 ・「[…]五カ月の療養生活を送った現在、言葉の表現がスムーズになって強迫症状も、うす皮をはぐようにとれ、対人関係にも積極性が見えてきた」【記事2】 ・「[…]自宅ではガンとして登校を拒否していたE子さん(中学二年生)も最近メキメキよくなり、いまでは毎朝六時半の汽車に乗って、ここから元気に通学している」【記事2】 ・「どうしても学校に行かない子供が入院することによって学校に行くようになった[…]」【記事3】

e. 本人のみではなく家族療法・家庭支援を並行実施する  例として以下の記述を挙げる。なお下線部は筆者が付した。

・「患児の治療とともに、母親の精神療法も並行して行なわれている」【記事1】 ・「担当のケース・ワーカー[…]は「週一回、お母さんたちと会い、家庭のこと、お母さんに改めて〝自分″と〝家庭″を見直してもらっている[…]」」【記事1】 ・「家に手紙を書くときも「おかあさん、はやくあいにきてねホント。おみやげもってきてねホント。――L子よりホント」といった調子」【記事2】 ・「専門医と家族が会って、一しょに考え、〝環境調整″が大切である[…]」【記事3】 ・「[…]「入院治療は環境が〝権威″と〝保護″の両面を持っているため心理的に安定感を与えるためか、家族療法より効果は大きい」と語っている」【記事3】

f. 小括:終身収容型の施設を目指していない  上にみたことから、あすなろ学園は開設当初からなんとかして「なおす」ことに力点を置き、入院治療施設ではあるものの、終身収容型の施設を目指していない。そうした取り組みのなかでは、「通える子は病院から地域の学校へ通う」、「通えない子も制度化されていないが院内教育・学習を支援する」、「退園して地元の家庭、保育・幼稚園、学校に帰る」ということ、そして施設開設から4~5ヵ月間での(医学的管理のみだけではなく、教育・生活面からみた総合的なはたらきかけをめざした)治療の効果を紹介している。

3. まとめ

本稿では、あすなろ学園開設の時期、どのように報じられていたのか、新聞社の検索結果ではなかなかアクセスしづらい記事を補足するものとして、新たに発見されたあすなろ学園親の会の保存資料にある新聞切り抜きから「あすなろリスト」を整理し、1960年代に焦点をあててみてきた。そのなかでは1967~1968年の「自閉症児の親の会」全国組織化の話は複数取り上げられているが、それに先だって設立されていた専門施設、1964年あすなろ学園の開設の頃に関する記事(上に見たようなアクセスしづらい記事)があったことが明らかとなった。  自閉症とその周辺の疾病・障害をもつ児童の処遇問題に関しては、a. 1964年専門施設の開設があり、b. そこを拠点として親たちの活動が拡がり、c. 地元・各地で親の会が結成されその会の活動が拡がり、d. 1967~1968年親の会全国組織の大会の開催が新聞報道などに取り上げられ、e. これらを経て1960年代末頃より、「自閉症」ということば/概念が(親の会からすると正しい認識をもってもらったかどうか、あるいは十分であったかどうかはさておいて、であるが)世に広がっていった、ということも考えられる(なお、1960年代は、まだまだ世間一般では、ほとんど知られていないことば/概念であったと考えられるが、その検討は別の機会とする★07)。  本稿で紹介した3つを含む新聞記事については、今回の資料集にあったものに、データベースで検索して見つけたものを加え、別稿で紹介・分析する。また、①親の会の結成とその周辺を詳細にみていくこと、②朝日、毎日、読売の大手新聞3社の検索システムでの「自閉」および「自閉症」の検索結果(「朝日リスト」、「毎日リスト」、「読売リスト」)と「あすなろリスト」を照らしてみていくこと、③「自ら閉ざす」ということばのイメージからくるもの(引きこもり、学校恐怖症、登校拒否、不登校、他神経症等との兼ね合い、および、いわゆる世間一般の「誤解」や「偏見」を助長するようなできごとも含めて)との関連、およびその周辺についての検討について、今後の課題とする。