【資料】 八木下浩一 略歴と引用集(その1) 増田 洋介
2022.10 『遡航』004号 pp.140-156
八木下浩一、脳性マヒ者、普通学級就学運動
要旨

八木下浩一(1941/09/18~2020/02/10)は、1970年に28歳で小学校に入学した脳性マヒ者である。障害児・者の普通学級就学運動の先駆者とされており、また、大人になってから小学校に入学した障害者という点でも特徴的な存在である。それにもかかわらず、八木下について真正面から取り上げた研究はほとんどない。障害児の普通学級就学運動に関する研究はそれなりの蓄積があるが、八木下の就学はせいぜい歴史上の出来事として軽く触れられるのみである。 本稿は、八木下について論考を行うための端緒とすべく、1970年までの略歴とそれに関して記された文献からの引用をまとめたものである。なお、1971年以降の略歴についても別稿でまとめる予定である。

■八木下浩一・1970年までの略歴

1941年[0歳]9月に生まれる◆01 1942~47年[0~6歳]通院に明け暮れる◆02、母親は歩けるようにしたいと思う◆03 1948年[6~7歳]入学通知が来たが母親が行けないと返事する、就学免除届は出していなかった◆04 1953~54年[11~13歳]歩けるようになり、小学校に入学させてほしいと頼みに行くが断られる◆05 1958年[16~17歳]就学時検診を受けに行くが、再び断られる◆06 1962~63年[20~22歳]大人のつきあいが多くなる◆07 1963年[21~22歳]青い芝の集会に初めて参加する◆08 1964年[22~23歳]マハラバ村へ行くがすぐ帰る◆09 1965~66年[23~25歳]浦和の授産所に入所し、1年半で退所する◆10 1967~68年[25~27歳]あちこちの集会や会議、施設や養護学校の見学に出かける◆11、女性と別れ、社会の矛盾を真剣に考える◆12 1969年[27~28歳]就学運動を始める◆13 1970年[28~29歳]小学5年生として入学するが聴講生扱い◆14

■八木下浩一・1970年までの略歴

1941年[0歳]9月に生まれる◆01 1942~47年[0~6歳]通院に明け暮れる◆02、母親は歩けるようにしたいと思う◆03 1948年[6~7歳]入学通知が来たが母親が行けないと返事する、就学免除届は出していなかった◆04 1953~54年[11~13歳]歩けるようになり、小学校に入学させてほしいと頼みに行くが断られる◆05 1958年[16~17歳]就学時検診を受けに行くが、再び断られる◆06 1962~63年[20~22歳]大人のつきあいが多くなる◆07 1963年[21~22歳]青い芝の集会に初めて参加する◆08 1964年[22~23歳]マハラバ村へ行くがすぐ帰る◆09 1965~66年[23~25歳]浦和の授産所に入所し、1年半で退所する◆10 1967~68年[25~27歳]あちこちの集会や会議、施設や養護学校の見学に出かける◆11、女性と別れ、社会の矛盾を真剣に考える◆12 1969年[27~28歳]就学運動を始める◆13 1970年[28~29歳]小学5年生として入学するが聴講生扱い◆14

■引用集

◆01 9月に生まれる(1941年[0歳])

「浩一が生れたのは、昭和16年9月18日でした。“ふた子”だったのです。生後6ヶ月、肺炎を患らったのですが、なおっておフロに入れてみると、手の指がくっついてはなれないので、驚いて浦和の小児科江原医院へつれていきました。そこでは「専門家でないと判らない」というので、駿河台の名倉病院へつれていった。名倉では手のマッサージをしてくれるだけだった。そこで日大や東大の小児科へつれていったが、「ふた子だから、発育がおそいので、そのうちになおる」という診断でしたね。どの医者でもはっきりしないので東大の整形外科へ行きました。そこでの診断は「これはリットル氏病で、脳性小児マヒをおこしているのでこのままでは歩くことはできない。」ということでした。」(八木下とく[1972:9])

◆02 通院に明け暮れる(1942~1947年[0~6歳])

「それから5年間は浩一をおぶってマッサージを受けるための通院にあけくれました。東大病院へは午前中行って、午後は東五軒町で開院している片山先生(慈恵医大)の所へ行き、その他に週に一度虎の門の佐田病院へ通いました。東大では一回2円、片山病院では3円(院長にみてもらうと5円)佐田病院では院長先生にみてもらうと1回で60円とられました。」(八木下とく[1972:9])  「私が生まれた時は、「お国のためにガンバロウ!! ガンバロウ!!」とみんなが戦争にかりだされ、若い男の人は外地へぞくぞくと戦争をやりに行きました。物がないし、特に、私の場合は双子だったために、ミルクの配給とかは一人分しか受けられないために、親は大変苦労したらしい事は、大きくなって聞きました。  私が脳性小児マヒだという事がわかったのは、生まれて半年か一年近くたってからでした。それからは連日のような医者通いがありました。東京が大空襲の時にも爆弾をかいくぐって日大病院とか東大病院とかを、一日に二回も通ったらしいという事は親から聞いています。東京都内が焼け野原になっても、私をおぶって病院に行ったそうです。」(八木下[1980:17-18])  「私の親は、私の祖母に、こんな子どもを産んだのだから、あんたはこの子を連れて家から出ていきなさい、とののしられ、それに耐えて生きてきました。ちなみに私の場合を紹介しておきますと、第二次大戦が始まった年に私は生まれたわけです。今書いたように祖母からも私の親は非国民扱いを受けて、また周りの近所、親類からも同じように非国民扱いされたわけです。[…]  私にとってここまで生きてきたこと自体不思議でたまりません。今書いたように祖母からも言われ、父親からも言われ、近所や親類からもこういう子どもを生かしておくとろくなことがないと言われてきた訳です。ちなみに私の場合は双子でした。余計に面倒臭いわけです。[…]当時は戦争の真最中で、二人の子どもを育てるのにやっとでした。私の家は、私が全然歩けなくて寝たきりで医者通いばかりやっていた訳です。一日二軒の病院を歩いていました。東京の病院で爆弾をよけながら通っていた訳です。[…]私が覚えているのは、病院通いをしながら東京が焼けていく光景を見たことです。」(八木下[1981:12-14])

◆03 母親は歩けるようにしたいと思う(1942~1947年[0~6歳])

「それよりもなによりも歩くようにさせたいと思ったので、歩行器を買ってきてその中に浩一をいれ、家の中で歩かせるようにしました。身体が大きくなって歩行器が使えなくなると、その型をもっていって家具屋で作りなおさせたりしました。あるとき、外へ出しておいたら浩一は無理に歩いたのでしょう、すぐ前の川に歩行器ごと落ちましてね、50メートルほど流されたそうです。近所の人が助けてくれましたが。私はなんとか歩けるようになってほしいと思ったので、できるだけ外へ出すようにしました。でも転ぶので心配で、最初は歩行器に入れて外がよく見えるところにしばりつけておいたこともありました。転んで頭を打って、これ以上バカになったら困ると思ったんですよ。」(八木下とく[1972:10])  「私の場合はどういう病院に行っても、どういう手当てをしても、何十回と病院をかえても歩く事はできなかったのです。寝たきりの生活が九年ぐらい続きました。私は、八年か九年寝たきりの生活であって、全然歩けない状態でしたが、私の親は変わっていて、二階のべランダにひもでゆわいてくくりつけて、表を見られるようにして、私をわざと家のベランダに立たせていました。はじめは、一体なぜ、こういう事をやるのかが私にはわかりませんでしたが、今考えてみると、歩いている子どもとかを見せて「お前も歩きたいか」と刺激を与えようとしていたのだと思います。それが、親の私に対する教育だったのでしょう。そういう事をやられた事によって、刺激を受けたことも、歩けるようになったある側面だと思っています。」(八木下[1980:18])

◆04 入学通知が来たが母親が行けないと返事する、就学免除届は出していなかった(1948年[6~7歳])

「学校のことですが、7才の時、入学通知がきました。その時はまだ歩けないので“行けない”と返事をしたのですが、就学猶予願を出した記憶はないですね。」(八木下とく[1972:10])  「その中で明らかになった問題は、親が子どもを学校にあげるとかあげないとかを決定する義務があることを知りました。子どもには、どこの学校へ行こうと行くまいと決定権がありません。つまり親とか教育委員会が子どもぬきでかってに就学猶予とか免除とか普通学校へ行くとか特殊学級や養護学校に行かせるのかを決める事を知りました。  私の場合も七歳の時は寝たきりでした。勝手に親が判断をして七歳の時、就学時健診に私を連れて行かなかったのです。寝たきりだからといって就学時健診に連れて行かないことは、親の判断でこの子の場合は歩けないから学校に入学できないのだ、と勝手に思ったのではないかと思います。  就学時健康診断に行かなくても学校には入学できるのですが、教育委員会とか学校のやり方が私には腹が立ちます。私は過去二回か三回、親といっしょに学校に足を運んで、ぜひ、学校に入れるようにお願いしに行ったのに、簡単に追いかえされました。私が、けしからんと言いたいことは、勝手に教育委員会や学校が、足が不自由とか手が不自由である私を就学免除にしようとしたことです。  たまたま私の親は就学猶予や就学免除はとらなかったですが、たいていの重度障害児の親は、教育委員会の人たちにごまかされ、猶予や免除規定をとるのです。障害児の親は、障害児をもつことで、劣等感とか逃げたがる場合があり、教育委員会はそれをうまく利用して就学猶予とか免除をとります。私の問題は、親がかわっていたために就学猶予や免除をとらなかっただけです。」(八木下[1980:28-29])

◆05 歩けるようになり、小学校に入学させてほしいと頼みに行くが断られる(1953~54年[11~13歳])

 「やっと十才になって歩けるようになったので学校へ行かせてくれって言ったわけだよ。まだ早いんじゃないかって言うことでよ、断わったわけだよ。あと一年待ってくれっていう形で。また一年たって行ったわけなんだよ親が。そしたら、また、学校へ行くことはむずかしいんじゃないかって、他の学校へ行けっていうわけなんだよ。他の学校はどこだって聞いたら、養護学校だって。あのころ特殊学級なかったわけだよ。養護学校へ行けっていうことになったわけだよ。親は行けっていうわけだよ。お前行った方が得じゃねえかって。俺はやだって言ったわけだよ。小ちゃくて物心ついてないから、漠然と「やだっ」て言ったらしいんだけど。何で普通の学校へ行けないんだって言ったらしいんだ。じゃあしょうがねえだろうっていうことで親はあきらめちゃったわけだよ。」(八木下[1971:26])  「昭和28年2月ごろ(12才)歩けるようになり、学校へ行きたいと思ったので、おふくろと一しょに川口市立芝小学校へ行って交渉した。来年は妹が入学するので、同じ学年にならないようにしたかった。学校長は不在だったので、教頭と話し、その後校医が手、足の運動などを検査した。1週間ぐらい経って「まだ入学するのは早い」という回答が来た。  昭和29年3月ごろ(13才)再び、芝小学校と入学交渉。学校側は「障害者だから、普通の学校は無理、それにいじめられると可愛そうだし、ふんいきにもなれないことが多い。養護学校へ行くほうがよい。」といった。これは学校側の意志だけでなく、教委の意向が加えられていたんだろう。障害者だからといって、なぜ普通の小学校へ行けないのか、小さいながら漠然と「おかしい」と感じた。」(八木下[1972a:5-6])  「私は先に述べたように、脳性小児マヒで九歳まで寝たきりの生活を続けてきました。皆が学校へ行く年代の時、私は家で寝たきりでした。だから学校には行かれませんでした。私の場合、九歳からぼちぼちつたい歩きができるようになりました。そういうことがずっと続く中で、十二歳の時初めて、地元の芝小学校に入学の手続きを取りに行きました。つまり体格検査と知能検査を受けに行ったのです。  その結果は学校に来ることはまだ早いと言われて、しぶしぶ帰って来ました。なぜまだ早いかというと私は歩けないし、言語障害があるということで校医の先生はまだ早いと言って私に入学の許可をくれませんでした。私は小さいながら仕方がないと、あきらめてその場は母親と帰って来ました。そして私は家の中にずっといて歩く訓練と家の窓から表をながめる生活を続けていました。」(八木下[1980:23-24])

◆06 就学時検診を受けに行くが、再び断られる(1958年[16~17歳])

「その間、弟も妹も普通の学校に入学し、まだ通っていました。私の場合は、なぜ妹とか弟が学校に行くのに私だけは、歩けないというだけでなんで学校に行ってはいけないのかが、よくわかりませんでした。  それは十六歳の時でした。また、芝小学校に入学健診に行きました。その時も十二歳の時と同じようにまだ早いと言われて仕方なく家へ帰って来ました。それからは私の足も強くなり、またあまり転ばなくなり、年中表にいました。そのうちに、川口教育委員会が熊谷の養護学校に行きなさいと言って来ました。当時、埼玉県の場合、養護学校は熊谷に一校だけでした。その熊谷養護学校は寄宿舎付きで、泊まりがけで行かなければならなかったのです。  私の場合は、過保護のために、一週間も一ヵ月も親と離れるのが恐かったのです。そういう単純な理由で熊谷の養護学校に行くのを嫌ったのです。なぜ地元にある普通の小学校に入れてもらえないのか、私にはわかりませんでした。そんな疑問を私はもっていたために熊谷の学校に行くのはいやでした。もっとくわしく言うと、私は手が悪いとか、足が悪いというだけで兄弟と別の学校へ、また寄宿舎付きの遠い学校へなぜ私ひとりが行かなければいけないのかという素朴な疑問をもっていたのでした。  そんないろいろのことを考えながら私はずっと過ごしてきました。二十歳になっても私は、やはり普通の学校へ行きたいと思っていました。なぜそういうふうに考えたのか、足が悪いとか手が悪いとか、からだの一部が悪いとかで学校に行けないということは、おかしいと思っていました。だから、いつかは、普通の小学校に行きたいなと思い、その時期を私は考えていました。」(八木下[1980:24-26])  「半田(鴻巣市・NPO法人あん):一二歳のときと一六歳のときに、(この会場の)目の前の芝小学校に入学したいと言ったが、断られているんですよね。どう断られたんですか? 八木下:まだしっかり歩けないからってことで断られちゃったわけ。それで、校長とか教育長とかが養護学校に行きなさいと言っていた。俺は嫌だから行かなかったんだけれど、29歳くらいの時に僕も学校に行きたいなあという気持ちがあって、教育委員会に芝小学校に行きますと言いに行ったわけ。」(埼玉障害者自立生活協会通信編集部[2015:6])

◆07 大人のつきあいが多くなる(1962~63年[20~22歳])

「二十歳をすぎてからは、大人のつきあいとかまた男女関係が多くなりました。つまり、女の人ともつきあったり、女の人のアパートに行って話をしたりする事が、多くなりました。同時に、女の人を好きになった事もありました。  私は、そういう生活のなかで次第にいろんな事を考えるようになりました。私は何のために生きてゆくか、何でふられたのか、私がどういう立場にいるのか、また、私がなぜ働けないのか、なぜ好きな女性にふられたのか? といった事を考えて、悩むようになってきました。今現在もすっきりしませんが、次の点ははっきりしています。つまり、今まで何人かの女性とつきあってきましたが、にげられる事がありました。それは私が劣等生だという個人的な問題もあるが、今の社会的な問題として、「働けないものはダメだ。特に障害者はもてない」という事です。これで私の価値観が変わってきました。[…]  また、私は二十歳すぎから、やくざとつきあったりチンピラとつきあったり、ゆずり、たかり、脅喝まがいの事をやったりもしました。そういう生活が、いやになってきました。その中で、泥くさい部分とか、なぜ、できないといわれる中学生とか高校生とかが、強引な事をやるかが多少わかるようになってきました。  やはり、暴走族とか非行グループにも「はじめ」はあります。その「はじめ」がなぜなのかを知ってもいいのではないでしょうか。その仲間に、私が入って三年か四年ぐらい一緒につきあってきましたが、私の身を置く所はどこにもない事に気づいて、浦和の授産所に行きました。振り返ってみると、やはり私は、他の障害者とは違う事で歩ける様になったし、また、やりたい事をやって親と年中ぶつかっていました。そこいらへんが、私の個人史的な背景をふまえて、今現在、私が生きていく糧になってる事は事実です。  たとえば、二十二歳の時、ある女性にふられて、私は、障害者である事を自覚しました。それまでは、障害者であるとか劣等生であるとかをあまり感じませんでした。その事があって、みじめだとかわびしさとかを感じるようになりました。私は今、障害者解放運動に関わっていますが、それをきっかけにやるようになったのは事実です。  私は、自分の良いところは、子どもの時から「意地」がある事だと思います。つまり、ふられてもふられても、ぶつかっていくし、また、ふられる事によって、人間が変わっていくと思ってる事です。  二十二歳の時に女性にふられたその事から、チンピラとかやくざとかとつきあうようになって、彼たちのやってる事もある程度理解でき、それをきっかけに、劣等生の気持ちがわかる様になってきました。そういう事をふまえて、二、三年、やくざとかチンピラとつきあう中で、私自身が何をやって、どう生きていくかを考える様になりました。きっかけは、やくざとかチンピラとの関係じゃなくて、また女性にふられたからです。私はやはり、障害者としての自覚を持つ様になりました。もともと、私は足が悪いし、手も悪いし、何もできないのですから、今の「能力主義」には、どうしても役にたたないです。役にたたないから、金もはいらないし、収入もないためにやはり、男女関係はうまくいかないという事がはっきりとわかりました。  そういうことから、自分自身の意識が変わって、自分が差別されているし、もっともっと寝たきりの障害者がどうなっているのか、という事を若干でも、考える様になりました。  私は野球が好きで、近所の子どもたちを集めては、野球のコーチとか審判を二十一歳頃から始めてきました。その中からやはり、子どもたちの関係とか、子どもたちの親たちの関係を作る様になりました。少年野球の地区代表に選ばれて監督をやった事もあるし、その中で、大人のクラブの野球コーチもやってきました。毎週日曜日など、朝の四時から午後の三時、四時頃まで、グラウンドへ行って野球の指導をやっていました。」(八木下[1980:19-22])

◆08 青い芝の会の集会に初めて参加する(1963年[21~22歳])

「私が故横塚晃一さんと初めて会ったのは、たぶん一九六三年ごろだったと思います。当時の私は、チンピラとかやくざとつきあって、遊んでいました。二二歳のころです。ゆすりやたかりなんかも、やっていました。そんなある日、私がうちにいたら、近所に住む姉の家のお母さんが、ちょっとうちに来てくれないかと、呼びに来たのです。その家には、私より年上の寝たきりの息子さんがいました。たしか、お父さんは元は陸軍の軍人で、毎日車で送り迎えがつくほど、位が高かったらしいです。息子さんの兄弟は日本航空のパイロットじゃなかったかと思います。前に私が外をぶらついていたら、お父さんが声をかけてきて、うちにも障害者がいるんだと聞いたことがありましたが、その家に入るのは初めてでした。  行ってみたら、寝たきりの息子さんの周りに、何人も障害者が来ていて、会議をやっているようすでした。それが、青い芝の会議でした。息子さんは、どこで知り合ったのかわかりませんが、青い芝に入っていたのです。その中に、たしか、横塚さんもいたように思います。その後、その寝たきりの息子さんは、青い芝の連中の仲介で、施設に入り、そこで亡くなったと聞いています。  それから、横塚さんたち青い芝の連中に誘われて、彼らの拠点である「久留米園」に連れて行かれました。びっくりしました。障害者ばっかりで。ほんとのところ、すごく気持ち悪くなりました。それから、和田博夫氏という医者がやっていた浦和整形外科にも行きました。あっちこっち連れて行かれました。事務所での会議にも参加しました。そういうところが、青い芝の拠点だったと思います。  私は、その頃、何回目かの失恋をしたことがきっかけで、自分自身の意識が変わり、自分が差別されているということを考え始めていました。それで、やくざとかチンピラとのつきあいじゃなくて、ほかの障害者のことに関心が向いて来ました。この息子さんのような寝たきりの障害者がどうやっているのかということも、考えるようになりました。  でも、この頃の私は、青い芝の会議に出ても、話の内容がまだよくわかりませんでした。当時の青い芝の中では横塚さんよりも、磯部真教さんなどが、すごく過激な感じがしていました。」(八木下[2010:160-161])

◆09 マハラバ村へ行くがすぐ帰る(1964年[22~23歳])

「茨城の土浦のそばの坊さんで、障害者の施設みたいなことをやっている人がいました。浩一はその人の所へもいったんです。どこで知ったのか、そこでは竹細工などをやっていたようですが、山の中でバスの停留所から40分歩くんだそうです。浩一は「閉じこめられるみたいでイヤだ」といってすぐ帰って来ました。」(八木下とく[1972:12])★01  「横塚さんたちがこもっていた閑居山のマハラバ村にも出かけて、三日か四日くらい泊まりました。和尚さんの話を聞きました。ああそうかと気付かされたところもありました。でも、ずっといる気にはなれませんでした。」(八木下[2010:161])  「八木下:[…]青い芝の人たちは閑居山というお寺にお坊さんがいて。障害者をいっぱい集めてお経を読ませていたんですが、それが出来なきゃダメだというわけです。おれなんか関係ないからね。関係ないと思ったわけです。たまたま一週間、二週間位居て、それから山の下に下りてきただけですよ。横塚君が35歳位かな。その頃に会ったんじゃ無いかと僕は思うわけです。なぜこんな所にいるのかと。山を僕だけ下りてきたわけです。閑居山というところはひどいじゃ無いかと思って下りてきたわけ。  半田:青い芝との関係で、マハラバ村の話ですね。八木下さんが22、23歳くらいの話ですね。」(東京大学大学院教育学研究科小国ゼミ[2017a:9-10])

◆10 浦和の授産所に入所し、1年半で退所する(1965~66年[23~25歳])

「オレは家に居られなくなった。つまり家の中での人間関係が悪くなってしまって、居づらくなったんだ。23才の時だった。そこで浦和にある埼玉県身体障害者作業所へ行った。それは寮制になっていたが人間性が全く認められていなかったことに驚ろいた。在所者の目はトロンとして活気がなく、4時ごろから隠れて酒を飲む人もいた。クリーニングするのだが、夏になると40度にもなる作業所で働かされて、月給は高い人で15000円,低い人は2000円程度だった。オレの場合は親から1日150円位の食費を出してもらって納めていたが、1日の作業料は120円で30円の損だった。  そうした作業所の中で、オレは「こんな状態でいいのか、斗わなくてはいけないんじゃないか」と仲間に話したが、仲間は「八木下さんはいく所があるからいいが、オレたちは行くところがない。」とあきらめているようだった。オレはしつこく討論しようとした。土曜日の夜など仲間を寝かさずに“これでいいのか”“賃金のごまかしがあるのを見逃がしていいのか”と議論した。  あまりしつこかったからか、あるいはだれかの指し金か、仲間がみんなでオレをおそうようになった。障害者の仲間が障害者のオレを襲う。リンチに近い状態だったが、悲しいことだった。そんなことが何度もあった。フトンむしにされたり、首をしめられたり。オレがやられるということより、仲間同志が何んで対立し、いがみ合うのかが悲しかった。  そのころオレは、いずれは学校へ行かなくてはならないとは考えていた。作業所には45人ぐらいいたようだった。下は16才から、上は48才だった。1年5ヶ月ほどいたが、さっきのようなことがあって居づらくなって、自分の考えで退所し家に帰ってきた。」(八木下[1972a:7-8])  「それこれやっているうちに私の場合、ぶらぶら遊んでいるのがいやになって、たまたま福祉事務所に私の職業があるかないかを相談に行ったら、浦和の授産所があいていました。それでいろいろ考えたあげくに、そこに入ることに私自身が自分で決めて授産所に一年五ヵ月行っていました。私はその間の約一年半の中で何を経験し、何を考えたかというと、からだが悪いということはどういうことか、いわゆる障害者といわれる人たちの中でつきあってゆくということがどういうことか、同じかまのめしを食いながら考えたり話し合ったりしてきました。  その中で私自身も低賃金で雇われましたが、仲間の障害者たちも低賃金でした。私の場合は、一ヵ月三,五〇〇円(一九六五年)でした。私の職場は、クリーニング工場で、夏になるとプレス・アイロンなどのため温度が四五度にもなります。私は一番障害が重いために、アイロンやプレスには使ってもらえなかったのです。私は工場の中で何をやっていたかというと、洗い場とか、庭の草むしりをやらされていました。仲間たちはみんな労働もきついし、賃金も安いことをあきらめきっていました。  私はこの工場に来るまでいわゆる障害者といわれる人とは、全然つきあいもなかったし、見たこともないし、障害者という文字も言葉も聞いたことも見たこともなかったのです。私は、この工場に来て、障害者たちのおかれている立場があんまりひどいので、私自身もびっくりして半年近く何も言えませんでした。そういうことがあって、障害者の差別問題を、真剣に自分の問題として考えるようになりました。私はその工場に一年半近くしかいませんでした。  けれども私はそこの工場に入ってよかったと思います。よけい普通学校へ行きたいなあと感じて、五十歳になっても六十歳になっても学校に行きたいのだと、強く感じるようになりました。」(八木下[1980:26-27])  「障害者のことを考え始めた私は、何か仕事がないかと福祉事務所に相談に行ったら、たまたま浦和の授産所があいているというので、思い切って入ることに決めました。私はいちばん障害が重いので、工賃もわずかでしたが、他の障害者もひどく安い工賃でした。これは障害者差別だと考えて、仲間の障害者たちに話しかけましたが、みんなあきらめきっていて反応もないし、かえっていじめを受けたりしました。一年半ほど授産所にいて、うちに帰りました。それが一九六六年、二五歳のころです。」(八木下[2010:161])

◆11 あちこちの集会や会議、施設や養護学校の見学に出かける(1967~68年[25~27歳])

「授産工場から帰って来て、私は障害者の集まるあっちこっちの集会とか会議に出るようになりました。それが二十五歳の時です。  私は障害者の施設とか授産所とか、特に養護学校をたずねて、今の施設の問題はどこにあるのかをまわりながら勉強して歩きました。とくに学校の問題については、よけいにくわしく調べてまわりました。」(八木下[1980:27])

◆12 女性と別れ、社会の矛盾を真剣に考える(1967~68年[25~27歳])

「帰ってきてからは、大人とのつきあいが始まった。実はある女性が好きになって、2~3年つき合った。彼女なりにボクのことを考えてくれていたが、家庭の事情でしかたなく別れた。彼女自身、ボクとは結婚できなかったのだ。それはボクは学校も出ていないし、働けないので、彼女からみれば、ボクから離れていくのは当然のなりゆきであった。  彼女にふられて、ボクは社会的矛盾を真剣に考えるようになった。彼女は何もいわずに去っていったが、それは、ボクに学校に行かせる一つの直接的な契機にもなったように思う。」(八木下[1972a:8])

◆13 就学運動を始める(1969年[27~28歳])

「たまたま、俺は、「守る会」の先生と付き合ったわけだよ。その先生に俺の問題をつきつけたわけだよ。おまえたちどう思うかって。本気でやる気あるのかって言うから、じゃやりましょうということになって、さきおととしの十一月から教育委員会と交渉始めたわけだよ。教育委員会と三回か四回交渉やったんだよ。俺はもっと二〇回か三〇回位「教育とは何か」って聞きたかった、個人的にはだよ。しかし、埼玉県の連中は四回か五回位しか行かなかったわけだよ。そこで、去年の一月の終りごろ決ったわけだよ。」(八木下[1971:26])  「オレは「小学校へ行きたいがどうしたらよいだろう」と障害者問題をすすめる会でだしたんだ。みんないろいろ考えてくれて、まず、川口市教育委員会あてに“公開質問状”をだしたんだ。それが就学運動のはじまりだ。  教育長からは一向に返事がこないので、電話をかけたら、「そんなものは届いていない」という話だ。そこで、こんどは、内容証明配達証明つきのものでだしたら、やっと返事がきた。返事の内容は「八木下君の教育は終っています」ということだ。教育委員会としては、「15才を過ぎているから、関係ない」と、要するにそういうことでした。オレはそれじゃ気がすまないので、「会いたい」と電話をかけた。はじめのうちは逃げているようすだったが、そのうち逃げきれなくなって、「会おうじゃないか」と教育委員会の方でもいってきた。「すすめる会」のメンバー4~5人と教育委員会へ行くと、中本課長補佐が出てきた。教委側は、「八木下くんの場合、免除願いが親から出ています」ということを言ったので、「証拠をみせろ」と迫ると、「あとで手紙でおくりましょう」ということになり、その日は別れたんだ。一週間待っても手紙がこないので、また電話をかけた。居留守をつかってごまかそうとするようなので、また、私を先頭に、この前のメンバーで、教育委員会へおしかけていきました。「免除願はあるのか、ないのか」と問いただすとこの前の時と同じことをくり返していたが、結局「もう少し待ってくれ、市役所にないから、県の方に問いあわせているところだ。」というので、しかたがないから帰ってきた。  こうした交渉の中で、教育委員会側の中には、猶予願いのことで返答に困ると、「猶予願いを出さなくても、身体検査で落ちてしまえば、しかたがないじゃないか。障害者には教育権などないも同じだ」と明らかな差別的言動をとった者もいた。  その後、何回も教育委員会へおしかけていった。一人でいったこともあったし、「すすめる会」「青い芝の会」「全障研」「障害者の医療と生活を守る会」「川口市教組」なども支援してくれて、共同行動をとったこともあった。  何回目かの交渉では、「市役所は火事で焼け、県庁も火事に遭って、書類がなくなっちゃっている。親が猶予願いを出していることはたしかだ」と、課長補佐が言った。そこで、その場で電話をかけさせて、親にも教育委員会へ来てもらったが、親は「猶予願いなど出した覚えはない」ときっぱりと言った。オレは「猶予願いなどは問題じゃない。教育委員会は親のせいにして貴任のがれをしているが、猶予願いを親がたとえ出していたとしても、本人の知ったことではない。オレはあくまで、小学校に入りたいんだ」と言った。教委も返事のしようがないのか、「わかりました」といい、譲歩的な発言をするようになりました。  もうひと押しだということで、みんなと出向いて、交渉していると、課長補佐は、こんどは「訪問教師がいいんじゃないか」と提案してきた。オレは「そんなものはごまかしだ。あくまでもオレは普通学校へ行きたいんだ。30になっても、40になっても、オレは正しいことをやってんだ。そんなごまかしはだめだ」とはねつけ、その日は終った。  また、知り合いの市議をつれて、二人でのりこんだこともあった。そしたら、課長補佐よりえらい人、森本課長が出て「八木下さんの問題はたいへんだ。これまでほっぽりだしておいて申しわけない。何かいい提案はありませんか」と逆にオレに聞いてきた。「提案なんかない。オレは学校に行きたいんだ」というと、森本課長は「普通学校ではムリでしょう。訪問教師はどうでしょう」といって、神奈川、八王子などに電話をかけてそのやり方などを調べていた。そして「訪問教師制を実行にうつすから、八木下さんも協力してほしい」と頼まれそうになったので、オレは「他の子どもたちのことは知らないが、オレはいやだ」と主張した。  その後の話だが、同行した市議は市議会で「訪問教師を実施せよ」という演説をし、市長も「こういう制度はつくろう」と同意したらしい。オレはそれを聞いて、森本課長にあい、「よけいなことをやるな。オレはそんなことをやれって言った覚えはない。身体障害、知恵おくれだって普通学校へ行くべきなんだ」と主張し、40分ぐらい話し合ったら、森本課長も「わかりました」ということだった。この段階になると市教委もオレをほっとけなくなって、県や文部省と連絡をとりだしたらしい。そして、普通学級へ入れなくては、という判断をしていたと思う。だからオレのいうことに「ウンウン」とものわかりげに聞いていたんだよ。」(八木下[1972b:13-15])  「そういうことを調べながら私は、教育とは何なのかと、また自分が何で学校に行きたいのかということを考え、川口教育委員会と交渉に入りました。それが二十七歳の時です。 […]  川口教育委員会は、はじめ私の子どものことで学校に行くとか行かないとかで来ていると思ったらしいのです。そのうち私のことだと聞いて教育委員会もびっくりするやらおどろくやら大さわぎでした。そして、あなたの言っていることはちんぷんかんぷんでわからないと言われました。言語障害もあるために、聞きとれなかったのだろうけれども、親を連れて来いとか、何だかんだ言ってごまかしていました。私は一週間に一回くらい必ず教育委員会に足を運んだために、教育委員会も困って、真剣に相手をしなければならなくなりました。その間二ヵ月か三ヵ月の間相手にしてもらえなかったのです。そういうことが続いていたわけです。  教育委員会も逃げるわけにはいかなくなったと思って教育委員会の次長が出てきて、八木下さんの場合は簡単にいって大人だから、学校に行く権利はありませんと言うだけで、なぜ私が学校に行けないのかということを全然説明はしてくれませんでした。つまり次長の言うことは大人だから義務教育は終わってますと言うだけで、なぜ義務教育が終わったのかということを答えてくれませんでした。そういうことが一ヵ月間続きました。  そのうち、八木下さんの家の親は、免除願いを出しているから教育委員会の責任とか学校の責任は終えているのでもう来ないでくれというしまつ。そこで私がたずねたわけです。もし免除願いを出しているならその書類を見せて下さいということで、一時帰ってきました。  一週間くらいして教育委員会に行きましたら、まだ見つかっていないからあと一週間くらいしたらまた来て下さいということで帰って来ました。また一週間たって行ったらまだなくて、県教育委員会に送ったということで、また二週間くらいたったら来てもらいたいと、その次長が言ったので、私はわかりましたと言ってまた静かに帰って来ました。  また二週間くらいたって行ったわけです。今度は県教育委員会にも書類がないことが判明しました。じゃあどこへ書類がいったのかという私の質問に、次長は県の事務所が火事になったとか、川口市の事務所が火事になったので書類が燃えたのではないか、というのです。これでは全くわかりません。そのうち、たぶん燃えちゃったのでしょう、親がやらなかったら罰則だからたぶんやってあるんじゃないかと思います、と市の教育委員会が答えるのです。  それは、おかしいじゃないかと思い、書類が焼けたとか、親が出さなかったとか出したとかいうのは、おかしいんじゃないかと聞いたら、ないものはないんだと言っているばかりで、何も解決はしませんでした。しょうがないから私の親に教育委員会に来てもらうように伝えて欲しいと次長に頼みました。その結果、次長はしぶしぶ電話で私の親と話をして就学猶予や免除を出したのかということを聞きました。その結果、親は出してないとのことでした。そこで電話ではだめだから、一回教育委員会に来てもらうということで電話をきりました。  私は、もし親が就学猶予や就学免除を出していても出していなくても、私は学校へ行く権利がありますと言って、そこの場所はひきあげて帰って来ました。三日たって今度、親と私と二人で教育委員会に行さました。私の親は、その次長とは、二、三回会ったことがあるし、また直接話をしたことがあるために、初めは教育委員会に行くのをいやがっていました。  私の説得に応じて教育委員会に行って就学猶予や免除の書類を出してないということをはっきり言ってくれました。次長との話の中で私の親は、この子は一度言いだしたら言うことはきかないし、また小学校へ行くことが当然だと思っている、と言ってくれました。教育委員会の側は、親の説得にかかりました。それはどういうことかというと、行かれない、行っては困るんだということを親から私に逆に説得をさせようと教育委員会は考えていたようでした。  それに対して親は無駄だと思うと、うちの浩一は一度言ったら親の言うことなんてきかない子どもだから、と言って教育委員会の頼みを断わりました。それでその場は、終わりました。私はまた四日たって教育委員会に行きました。教育委員会の言っていることはもう意味が通じなくなりました。つまり一度は就学免除をしてあったと、その書類は火事で焼けたとか言った事が、親が教育委員会に来たことによって就学猶予の願いを出していないことが証明されました。それによって川口教育委員会の言ってることが、でたらめだとわかりました。  その結果、私をおのずから小学校に入学させないわけにはいかなくなりました。まだなんとか、かんとか言っていましたけれども、入学させない理由がなくなったために、今度は学校の問題にすりかえてきました。つまり地元の小学校が私をひきうけると言えば川口教育委員会は許可をしますと次長は、はっきり言いました。  その教育委員会と半年のやりとりの中で、障害者の運動団体が二回程教育委員会と話し合いをもちました。また、ある女子大生が私と一緒に教育委員会に何回か足を運んでくれました。半年間教育委員会のやりとりの中で、障害者団体とか、一人の市民の協力があったために、私は教育委員会を追い込むことができました。ただ半年のやりとりの中で教育委員会の次長の頭をそろばんでひっぱたいたというハプニングがあったことも事実です。 […]  そういう経過をふまえて川口教育委員会を納得させました。今度は地元の芝小学校に舞台が移って、芝小学校の校長とやりとりを始めました。校長は教育委員会から連絡があったらしく、私が行ったとたんに、あなたはもう帰って下さいと言うばかりでつっけんどんでした。  そこであなたは大人だから学校に来られちゃ困りますと言っていました。私は過去二回の就学時の健康診断を受けに来たのに学校に入れてくれませんでした。だから二十七歳になって小学校の門をくぐらなけれぱいけなくなったのです。それは私の責任でもないし、親の責任でもありません、と言いました。  校長先生いわく、一つは大人だからもう学校には入れないと言っていました。二つめは、からだが悪いから、別の学校に行ってもらいたいと言っていました。私ぼそれはおかしいと思いました。  一つめの問題については、川口市教育委員会とのやりとりの中で解決がついています。  二つめの問題については、私は障害者だからといって別の学校に行くのはおかしいと思います。つまり、障害者だからといって、養護学校や特殊学級に行きなさいと校長は言っていますが、私は何のために二十七年間も同じ事をやってこなければいけなかったのか、障害をもつだけで養護学校とか特殊学級とかへ、また目が見えないとか、口がきけないとか、耳が聞こえないだけでろう学校、盲学校に行かなければいけないのか、普通の小学校とか中学で点字とか手話を普通の子どもたちと勉強をしなけれぱいけないのに、今の小学校は足が悪いとか、手が悪いとか、知恵おくれだけで、普通学級から切りすてる教育をやっている事を私は認めたくなかったのです。校長と話し合いの中で私はそういうことを強く言いました。だから私を芝小学校に入れてほしいとお願いに来ただけなのです、ということを言って帰って来ました。入れるか入れないかは、一週間後に返事をもらいたいということでその場はひきあげて帰って来ました。  また一方では、川口教職員組合に私の問題を考えてほしいということを、言いに行きました。初めはちんぷんかんぷんで、びっくりしたような顔つきで、迷っていました。話し合いが進む中で、だんだんこれはえらい問題だなあと若干の先生方は、感じるようになりました。  一方、一週間経てまた芝小学校の校長先生に会いに行きました。ところが校長はいなかったのです。教頭と話をしてきました。その中でどうしても校長と相談した結果、あなたを学校に上げることは不可能ですという。私はなんで不可能なのか、どういう理由で入学させてもらえないのかを、たずねてみました。教頭は、あくまでも障害者が来る学校ではないと、さすがに大人だから来ちゃいけないとは言わなかったのです。  つまり教育委員会のミスとか学校の責任を感じて、大人だから来ちゃいけないと言わなくなったのだと思います。教頭は逆に私のことを障害者だからという理由で学校に上げないようにと言い方をかえてきました。そこら辺が、川口教育委員会と芝小学校の違いがでてきています。つまりあれだけ教育委員会は、大人だから学校に入れないと言っていたのに、なぜ、芝小学校の校長とか教頭が、その事を言わないかというと、つまり就学猶予や免除をとっていなかったということを認めたからです。  私にとっては、就学猶予や免除はとってあってもなくっても関係ありません。もっと大事なことは、もし私の親が就学猶予や免除を出していても私はそんなことはおかまいなくやっていたんではないかと思います。  話をもどして、教頭との話し合いの中で障害者だからといって、特殊学級とか、養護学校に行かせることを私は認めるわけにはいきません。私の場合は、ここで生まれて、ここで育って過去二回も学校に入れてもらいたいと言ってきました。障害があるとか、ないとかは私にとっては別問題であって、芝小学校に入るのは、当然だと思います。そういうことを校長に伝えてほしいということを言って帰って、来ました。  また三日たって校長のところへ出向いて話し合いに行きました。校長は、いっかんして、障害者は、別の学校に行きなさいと言うだけで、結局は水かけ論に終わってその場はまた帰って来ました。  一方では芝小学校のPTAにも人を通じて私が小学校に入るのをじゃましないようにと頼んできました。その結果PTA会長もやむをえなくなり、反対はしないということで約束してくれました。 […]  その結果入れるようになりました。ただ、入れるんじゃなくて、いろいろの条件がくっついてきました。一つは、一週間に三回しか来てはいけないと、もう一つは、六年生からやってもらいたいと、学校当局はそういうふうに言ってきました。それについて私は小学校というところは、毎日行くのではないかと思うのです。もう一つの問題は、小学校というところは一年生からやるところであって、六年生からやるところではありません。私はこの二つの問題が解決しなければ、芝小学校に行く価値がありません。校長先生の言っている二つのことは全然認めるわけにはいきません。そういうことを、二週間か三週間同じ事をくりかえし話し合ってきました。その結果、毎日来てもいいと、だけれども六年生でなければ困ります、と校長先生は言っていました。私は仕方がないから毎日通うことだけを認めました。」(八木下[1980:29-37])★02

◆14 小学5年生として入学するが聴講生扱い(1970年[28~29歳])

「重度脳性麻薄者である八木下さんは(現在二九才)、去年はじめて小学校への通学が許可され、埼玉県川口市立芝小学校五年生のクラスへ通っていました。ところが、去年一年間学校側は八木下さんの「学ぴたい」という要求をまったく無視しつづけてきたのです。教師たちは、八木下さんが授業中に手を上げても一度として答える機会を与えず、教材も渡さず、「お前は字が書けないのだから」ということでテスト用紙すら配らないという状態でした。もちろん通知表の評価もなく、階段があるため特別教室への移動が困難で、その授業に出席できないことを気にもとめていませんでした。  こうしたことについて問いただした八木下さんに対して、校長ははっきりと、「障害者は能力的に劣るから、勉強する資格はない」と言ってのけたのです。」(渡部[1971→1973:129-130])  「オレの入学は3月末に決まったが、どこの学校へ入れるかがまた問題だったらしい。特殊学級のある学校という話も出たが、オレは自分の学区の学校、芝小へ入れろと主張したんだ。結果は主張どおり芝小へ行くことになったが、オレは1~2年に入れるように言ったが、学校では「5~6年がいい」といって、5年生に編入され、4月から通学をはじめた。  通学しはじめて1ヶ月ぐらいたって、おかしいと思った。テスト用紙は配られないし、教材もくれないので、担任に聞いたら「君は学籍がない」といわれた。小学校にはないはずの聴購生だということなんだろう。それから、学籍を獲得するための闘争をはじめなけれぱと考えるようになった。」(八木下[1972b:15])  「八木下君の5年生としての1年間は、“小学生”としては矛盾に満ちたものであった。彼を5年生として迎え入れた芝小学校では、入学そのものを条件つきで認めたのであった。 […]  誓約書という形式をとり、保護者の署名捺印はあるものの、28才の彼には、全く知らされていないことであった。  こうした扱いは、教室においても、当然のようにして、彼の行動を規制したのである。  担任は、K教諭であり、山田校長の弁によれば「K先生は、立派な先生です。だから彼に八木下さんを頼んだ」とのことである。  K先生自身、「本人の勉強する意志は認めるが、15才以上の者は小中学校に入学・在籍することはできないのは法律できまっているので、法律をまげて入っている以上特別扱いするのは当然である。私の本分は、他の40人の生徒にある。勉強というのは国語、算数だけではない。学校というものの雰囲気になれるというために入れたのであるから、その雰囲気をこわさないという条件は、親も本人も認めているはずだ。他の生徒への指導のこともあり、あくまで特別扱いしている。障害者だから書けないし作れないから、テスト用紙、教材もおかないのは当然だし、学籍は、教育委員会レべルのことで私には判らないが本来なら学籍がないのだから、教科書もないはずだ。1年にいれると他の子どもへの刺激が強すぎるし、6年では学力的にむりだし、5年が適当と判断した。6年に進級したければ、私が担任するし、中学へ進みたいということなら進めるようにしてあげたい」と語ったように、障害者、学令を越した者ということをたてにして、特別扱いを続けていたのである。」(北村[1972:16-18])  「そのうちに一学期が終わりそうになりました。そこで、通信簿がないことに気がつきました。なんでなかったのかというと学籍がないからです。五月の終わり頃教科書が出たから学籍簿があるのだと思っていました。ところが、あい変わらず聴講生でした。  担任にも「なぜ通信簿が出ないのか。また、毎日学校に来ているのになぜ私だけ通信簿が出ないのか」とたずねたら、やはり「聴講生であって学籍簿がないために私は出したくても出せません」と言っていました。校長にたずねたら、「八木下君の場合は大人だから児童だとは言えない。だから通信簿は出ない」と言います。私は、「おかしい、たしかに児童だと言えないけれども、しかし、学校に通っていることは事実だし、先生でもないし児童でもないしやっぱり生徒だと思う」と私は校長に向って言いました。  校長いわく「たしかに先生じゃないし、また、児童でもない、じゃあなんなのか」と校長も一瞬考えていました。私はそこで、「生徒なんだ」と、「だから通信簿を出せ」と言ったら、校長はよわった顔をして、だまりこんでしまいました。とにかく私は「通信簿をもらいたいのだ」と言い続けました。  そのうち学校は夏休みにはいりました。夏休みの間、川口教育委員会に行って「通信簿はなぜ出ないんだ」と言ってきました。そうしたら、「八木下さんの場合は大人だし、聴講生であるから通信簿だけは出せない。かんべんしてもらいたい」と言っていました。」(八木下[1980:46-47])