戦後肢体不自由教育における医療から教育へのパラダイムチェンジ 柴垣 登(岩手大学教育学部教授)
2022.12 『遡航』005号 pp.18-34
肢体不自由教育、脳性マヒ、養護・訓練、医療、教育
要旨

本稿では、1970年代前半から後半にかけて生起した、肢体不自由教育における医療から教育へのパラダイムチェンジについて、それが生起した理由と、そのことをめぐる医療関係者と教育関係者の相克を、『肢体不自由教育』誌上で行われた両者の論争から明らかにすることを目的とする。戦後の肢体不自由教育では、軽度の肢体不自由児が対象であり、治療が第一とされた。1960年代前半から後半にかけて、肢体不自由養護学校が整備されていくにつれて、脳性マヒ児が増加していく。1970年代半ばには、肢体不自由養護学校在学児童生徒の約70%を脳性マヒ児が占めるようになった。それまでの治る子どもたちから、治らない子どもたちへと対象が変化した結果、肢体不自由教育も医療から教育へとパラダイムチェンジすることになった。このパラダイムチェンジは、学校において行われる肢体不自由教育の主体を学校が担うという当然の帰結をもたらしたが、医療関係者からの強い反対もあった。現在、医療的ケア児の増加など学校現場において教育と医療の連携の重要性がいわれている。かつてのパラダイムチェンジの経緯を踏まえて、今後の教育と医療が対等の立場で連携・協働することの重要性を述べた。

1. 目的

戦後の肢体不自由教育は、肢体不自由児施設内に設置された近隣の小中学校の特殊学級である分校や分教室から始まった。肢体不自由児施設に入所している児童の多くは、ポリオ(脊髄性小児マヒ)、脳性マヒ、先天性股関節脱臼、骨・関節結核であり(文部省[1982])、治療可能であった★1。そのため、肢体不自由児施設内においては、治療が主であり、教育は従であるという状況であった。 しかし、1950年代半ば以降に養護学校が順次整備されていくにつれて、1960年代後半には養護学校での教育が主となっていく。そのような状況の中で、脳性マヒ児が増加していき、1970年代半ばには、肢体不自由養護学校在学児童生徒の約70%を脳性マヒ児が占めるようになった(村田[1997])。 肢体不自由教育の主体が、肢体不自由児施設から養護学校へと移行していったこと、対象となる児童生徒の主たる病類が脳性マヒとなっていったことによって、肢体不自由教育も医療から教育へとパラダイムチェンジしていくことになった。本稿では、このパラダイムチェンジが生起した理由と、そのことをめぐる医療関係者と教育関係者の相克を、日本肢体不自由教育研究会が1970年から発行している機関誌『肢体不自由教育』に掲載された医療関係者と教育関係者の論稿から描き出すことを目的とする。また、そこでの論点をふまえて、近年医療的ケア児の増加などにより、医療との連携が重要になっている特別支援学校現場における、今後の教育職と医療職との連携のあり方についても述べる。

2. 養護学校義務制実施までの肢体不自由教育の状況

2.1. 戦後肢体不自由教育の発足

戦前には、肢体不自由児を対象とした学校は、1932年に開校した東京市立光明学校の他はなく、学齢期の肢体不自由児は小学校の通常学級に通うしかなかった★2。しかし、それも歩行や書字など通学や学習が可能な軽度の肢体不自由児に限られており、より障害の程度が重い肢体不自由児は、就学免除されていた★3。このような状況の中で、茨城や大阪、三重、熊本の各府県では小学校の中に特別な学級を設けたり、身体虚弱児や精神薄弱児の学級と併設したりしていた。これらの学級を含めて、戦前には全国でおよそ14の肢体不自由児学級に100人前後の児童が在籍していたといわれている(文部省[1978:153])。 戦後の肢体不自由教育は、肢体不自由児施設等に設けられた特殊学級から始まり、次いで公立養護学校の設置にともない養護学校での教育が行われていくという経緯をたどっている(文部省[1978])。その背景には、先述のように戦前の肢体不自由教育が東京市立光明学校や一部の府県の小学校に設置された肢体不自由学級で行われていたのみで、基盤となる学校制度や教育体系が確立されていなかったことがある。また、日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれる高木憲次の影響も大きかった。高木憲次は、戦前から東京帝国大学医学部整形外科講座教授として、肢体不自由児の治療に当たるとともに、治療・教育・職能の機能を兼備した施設の必要性を訴え、1942年5月の整肢療護園の開園に尽力した。 高木憲次は、戦後に児童福祉法の草案起草委員となり、肢体不自由問題を児童福祉法に含めることを力説した。その結果、法律の裏づけのもとに肢体不自由療育事業を発展させる基盤が確立され、1950年ごろから、児童福祉法に定められた肢体不自由児施設が各都道府県に設置されていった。肢体不自由児施設の増加にともない、入所する子供たちへの教育をどのようにするのかという問題が顕在化していった。この問題に対応するために、施設内に近隣小・中学校の特殊学級を設置したことが、戦後の肢体不自由教育の出発点となった(文部省[1978]、村田[1997])。また、その背景には、当時は養護学校が非義務教育機関であったために、これを設置・運営する場合には、建物の建築費、教職員給与費、教材費等について国からの補助がまったく受けられなかったため、やむをえず特殊学級を設けたという事情もあった(文部省[1982])。 1950年代の前半からは、地域に居住する肢体不自由児のために、小学校内に肢体不自由特殊学級が設置されはじめた。まず、1952年4月に大阪府教育委員会によって、大阪府立盲学校内に最初の肢体不自由児のための特殊学級が、肢体不自由養護学校創設の前段階として実験的研究のために設置された。また、地域社会から通学してくる肢体不自由児のための特殊学級は、1954年5月に姫路市立広畑小学校に、1955年4月には尼崎市立長洲小学校および姫路市立粟生小学校、同市立船場小学校にも設置された。その後、1956年11月に盛岡市立河北小学校に、1958年4月に西宮市立浜脇小学校に肢体不自由特殊学級が設置されている(文部省[1978]、村田[1997])。

2.2. 養護学校の整備と対象児の変化

非義務教育機関であったために、なかなか設置が進まなかった公立の肢体不自由養護学校は、1956年4月に開校した大阪府立養護学校が嚆矢となる★4。同校は、先述の大阪府立盲学校内に設置された肢体不自由児のための特殊学級を母体としたものである。また、同じ1956年4月に愛知県立養護学校が開校している。1957年の公立養護学校整備特別措置法の全面施行、および、1960年を起点とする、養護学校の設置を促進する文部省の五か年計画を受け、1969年に滋賀県立養護学校が開設されたことで、全都道府県での養護学校設置が実現した。1969年時点での養護学校数は95校、在学者数は13,080人であった。

2.3. 脳性マヒ児の増加にともなう対応の変化

養護学校の整備が進むにつれて脳性マヒ児の増加が進み、1970年代半ばには養護学校在学児童生徒の約70%を脳性マヒ児が占めるようになったことは先述のとおりである。このような状況の中で、治療を主としていた肢体不自由児への対応は、徐々に教育を主とするものに変わっていく。『肢体不自由教育』第1号(1970年2月)の巻頭言で、橋本重治東京教育大学教授★5は次のように述べている。

つくづく思うことは、日本の肢体不自由教育が、ようやく教育関係者の教育となったという点である。それでは十年も前はそうでなかったのかといわれると、正にそうであったように思う。つまり医科大学を出られたお医者さん方からの肢体不自由教育であって、師範学校や教育学部を出た先生方からの肢体不自由教育ではなかったように思うのである(橋本[1970:2])。

橋本は、肢体不自由教育を先導した高木憲次ら医療関係者への感謝の念を忘れてはならないとした上で、次のように述べている。

今や肢体不自由は、特にまた脳性マヒ児が相対的に増加したりして、広い視野に立ち、いろいろの専門の人たちが協力してこれと取り組む必要に迫られてきた。しかしこれを統合する中心的責任者として、だんだんに教師が医師にかわりつつあることは事実であるといえよう。なぜなら、養護学校が普及発達したからである(橋本[1970:3])。

このように肢体不自由教育を担う主体は、養護学校の普及発達とそれにともなう脳性マヒ児の増加によって、医療関係者から教師を中心としたさまざまな専門家からなる教育関係者へと移行していった。

2.4. 1961年 養護学校対象児童生徒の判別基準の改訂

肢体不自由教育を担う主体が医療関係者から教育関係者へと移行したことにより、肢体不自由教育の対象となる児童生徒の基準や教育的措置、養護学校の教育内容や方法も変化していく。その一つが対象児童生徒の判別基準の改訂である。1953年6月に文部次官通達として出された「教育上特別な取り扱いを要する児童生徒の判別基準について」では、肢体不自由児の教育的措置について次のように定められていた(文部省[1978:422])。

定義

肢体(四肢と体幹)に不自由なところがあり、そのままでは将来生業を営む上に支障をきたす虞のあるものを肢体不自由者とする。

基準

1 きわめて長期にわたり病状が持続し、あるいはしばしば再発をくり返すもの、および終生不治で機能障害が高度のもの。 2 治療に長期間(二か年以上)を要するもの。 3 比較的短期間で治療の完了するもの。 4 約一か年で治療が完了するもの。またはこの間に運動機能の相当の自然改善、進歩が望まれるもの。

教育的措置

1 基準1に規定した程度に該当するものに対しては、就学免除を考慮する。 2 基準2に規定した程度に該当するものに対しては、養護学校(有寮)か特殊学級に入れて、教育を行い治療を受けることが望ましい。 3 基準3に規定した程度に該当するものに対しては、特殊学級に入れて指導するか、または普通学級で特に留意して指導するのが望ましい。 4 基準4に規定した程度に該当するものに対しては、就学猶予を考慮する。

一見してわかるように、この判別基準は治療に要する期間の長さによって教育的措置が決められている。このように規定された理由は、「当時は、まだ肢体不自由教育は、主として肢体不自由児施設内教育として行われていたこと、したがって、教育の主対象が外科的手術を必要とする単純肢体不自由児であったために、医学的観点が重視されたと思われるから」であるとされる(文部省[1982:12])。 しかし、治療が困難な脳性マヒ児が増加するにしたがって、治療の期間で教育的措置を決めることは困難になる。1961年10月の学校教育法施行令第22条の2において養護学校の対象となる肢体不自由児の障害の程度は次のように規定され、肢体不自由による機能障害の重さの程度を基準としたものとなった(文部省[1978:423])。

 一 体幹の機能の障害が体幹を支持することが不可能又は困難な程度のもの  二 上肢の機能の障害が筆記をすることが不可能又は困難な程度のもの  三 下肢の機能の障害が歩行をすることが不可能又は困難な程度のもの  四 前三号に掲げるもののほか、肢体の機能の障害がこれらと同程度のもの  五 肢体の機能障害が前各号に掲げる程度に達しないもののうち、六月以上の医学的観察指導を必要とする程度のもの

2.5. 1971年 養護学校(肢体不自由教育)学習指導要領の改訂

二つめの変化は、1971年の養護学校学習指導要領の改訂である。肢体不自由養護学校の学習指導要領は1963年に初めて制定された。この学習指導要領は、「肢体不自由という単一の障害を有するもので、しかも学校の教室に通って教育を受けられるものを対象として作成され、重複障害児や肢体不自由児施設等の入所療養中のものについては、特例という形で考慮」されるものであった(村田[1997:103])。 しかし、1960年代前半から1970年代にかけて、養護学校の普及発達とそれにともなう脳性マヒ児が増加したことによって、「肢体不自由単一の障害を有するもので、しかも学校の教室に通って教育を受けられるものを対象とした」当初の学習指導要領では、十分な対応が難しくなった。それは、増加した脳性マヒ児の多くが、障害が重度であったり、他の障害を重複していたりしていたためである。そのため、1971年には学習指導要領の改訂が行われ、小学部は1971年から、中学部は1972年から、高等部は1973年から実施された。この学習指導要領は、①障害を克服し、積極的に社会参加していくための能力を養うことを重視するという肢体不自由養護学校各部(小学部、中学部、高等部)の教育目標を明確にすること、②児童生徒の障害の種類、程度や能力・適性等の多様性に応ずるため、教育課程の弾力的な編成が可能になるようにすること、③心身の発達上の遅滞や欠陥を補うために必要な特別な指導分野を充実するために、「養護・訓練」の領域を新設することを大きな特徴としていた(村田[1971]、文部省[1978])。 この学習指導要領の改訂において重要なことは、②に関連して脳性マヒ等の児童および生徒に係る特例★6が規定されたことと重複障害者の教育の方向性★7が定められたこと、そして③の「養護・訓練」の新設である。このうち、脳性マヒ等の児童および生徒に係る特例と、重複障害者の教育の方向性については、肢体不自由養護学校における脳性マヒ児の増加と、脳性マヒ児を中心とした重複障害児が増加したことによる。

3. 1971年学習指導要領をめぐる医療関係者と教育関係者の相克

3.1. 医療者からの批判

肢体不自由教育が医療から教育へと移行していったことについて、医療の側からは比較的好意的な見方と批判的な見方があった。例えば、医学博士であり当時福岡教育大学の肢体不自由児教育教員養成課程教授であった城戸正明は次のように述べ、医療や他の専門家との連携を図りつつも、肢体不自由教育の場においては教員がリーダーシップをとること、そのための識見と主体性を持つために一層努力することの必要性を強調している。

今後の肢体不自由教育の充実と発展のためには、教育の場で子どもたちの学習を阻害しているものはなになのか、これをどうしたら軽減することができるかを、これらの問題に関係ある医療面(医師、療法士など)や、家庭、その他福祉面の専門家たちとのチーム・カンファレンスの中で解決点を見い出していくべきでありますが、これらのチームワークのメンバーの一員として、教育の場では教師はチームリーダーとしての識見と主体性を持つために、なおいっそうの今後の努力が必要だと考えられます(城戸[1972:3])。

一方で、医療から教育への移行について厳しい意見もあった。その急先鋒であったのは、当時整肢療護園長・日本障害者リハビリテーション協会事務局長であった小池文英★8である。特に小池が問題にしたのが養護・訓練という領域が新たに設けられたことと、その実施の主体が教師に移ったことにあった。 養護・訓練とは、「児童または生徒の心身の障害の状態を改善し、または克服するために必要な知識、技能、態度および習慣を養い、もって心身の調和的発達の基盤をつちかう」ことを目標として、「心身の適応」、「感覚機能の向上」、「運動機能の向上」、「意思の伝達」の4つの区分に分けられた内容を、「個々の児童または生徒の心身の障害の状態、発達段階および経験の程度に応じて」、「個別にその指導の方法を適切に定め」て指導するものであり、「必要に応じて専門の医師およびその他の専門家の指導・助言を求め、個々の児童または生徒に即した適切な指導ができるように」しなければならないものである。昭和38年の養護学校小学部学習指導要領(肢体不自由教育編)では、「機能訓練」と呼ばれ、内容は「機能の訓練」「職能の訓練」「言語の訓練」の3つに分かれていたが、その指導計画の作成にあたっては「専門医の処方に基づき、必要がある場合にはその指導を求め、上記内容のうち個々の児童に最も適したものを選定することが必要」とされていた(文部省[1963:9-10])。 小池は、機能訓練から養護・訓練になったことについて、まず「改定後わずか約二年しかたっていないこの短い間に、多くを期待すること自体がそもそも誤りである」とした上で、養護・訓練がその意図する目的を達成するかどうかは人の問題に帰着するとし、「肢体不自由養護学校についていうならば、機能訓練を担当する専門職員をいかにして養成するか、という問題につながる」のであり、「従来より多数の関係者の重大な関心事であり、種々の論議が展開されてきたところである」と述べている(小池[1973:2])。また、一般のリハビリテーションにおいて「理学療法」や「作業療法」という用語が使用されるのに対して、肢体不自由養護学校では「機能訓練」や「職能訓練」と呼んでいることについて「養護学校においては一般のリハビリテーションにおける理学療法や作業療法とは違った(より高次の)内容のサービスが行われているから、したがって名称もおのずから異なるのである、というのであるならば、まことにもっともであり、わが国の特殊教育が国際的水準をぬきんでている一つの証左でもある、ということになるのであって、まことにご同慶の至りである」と皮肉を述べている。その上で、「これは単に用語の問題のみにとどまらず、その背後に、養護・訓練の今後のあり方に関する本質的な課題につながっていると考えるので、真剣に検討してほしいところである」と、養護・訓練に対する教育の側の検討を求めている(小池[1973:3])。 小池はこの後、『肢体不自由教育』誌上で、動作訓練★9をもって肢体不自由児の身体運動の不自由を改善しようとする成瀬悟策九州大学教育学部教授と「成瀬・小池論争★10」と呼ばれる論争を繰り広げている。その発端となったのが、『肢体不自由教育』第16号(1973年9月)に掲載された「動作訓練に対する疑問 -『養護・訓練』と関連して-」と題する論稿である。これに先立つ『肢体不自由教育』第14号(1973年3月)に成瀬の「養護訓練への提言 -機能訓練から動作訓練へ-」という論稿が掲載されており、小池のこの論稿では、成瀬の提唱した動作訓練に対して、医学的立場からの批判や反論を行うとともに、成瀬による動作訓練が「臨床的効果からしても、理論的基礎から考えても、あるいは理念のうえからみても、こうした動作訓練は、それ自体が教育的働きかけであり、養護・訓練における『心身の障害の状態を改善し、克服するために必要な知識、技能、態度および習慣を養い、もって心身の調和的発達の基盤を培う』という目標そのものとまさしく一致する」という考えと、「からだの不自由な子どもを眼前にして、医療の場にある人は、むしろ積極的に身体機能の回復・増進をめざして機能訓練を進めるのが当然かもしれない。教育の現場において、養護・訓練を担当する先生がたが、教育活動の一環として脳性マヒ児を指導されるときは、この機能訓練になじめないかもしれない。そんなとき、他の教科学習や生活指導と同様の対象、すなわち被教育者自身の主体的活動へのはたらきかけとして考える動作訓練の立場に立つほうが、あまりちぐはぐな感じをいだかずに、一貫した態度で子どもたちに接することができるのではあるまいか」という動作訓練こそが教育現場に適切なものであるとの考えに反論したものである。 小池は、脳性マヒ児が多種類の随伴障害を有することから、医療現場では小児科医、小児神経科医、整形外科医、眼科医、耳鼻咽喉科医、精神科医、歯科医師など多数の専門家によるチーム・アプローチで行われているのに対して、養護学校ではチームではなく、教師による単独アプローチを志向しているように思われるとして、今後チームによるアプローチをもっと真剣に考慮すべきであると述べている(小池[1973:53-54])。小池の立場は、肢体不自由養護学校が今後「チーム・アプローチの鉄則を逸脱して、万が一にも教育的領域のわく内だけに閉じ込めようとするのであるならば、それはあまりに悲しき退歩と言わざるをえ」ず、「望むらくは『養護・訓練』の設定によって、今後そのプラスの面が生かされるとともに、チーム・アプローチの面においても遺憾なきよう願ってやまない。更に願うことを許されるならば、これを契機として、あらゆる専門家を養護学校内に招き入れて、彼らの知識・技術を貪婪に吸収し、あるいは最大限に活用するような積極的な姿勢を打ち出していただきたいものと念願する次第である」というものであり、肢体不自由養護学校から医療職がしめ出されることに対する危惧の念を表明していた。 当時静岡療護園長であった望月達夫は、全国的な養護・訓練の実情と、それに対する校医の意識をアンケートによって調査し、その結果を『肢体不自由教育』第20号(1974年12月)に発表している。その結果、校医からの回答の大部分が「養訓は校医の指示によるべし、多くの回答が応用動作にとどめるべし」であること、「校医として養訓を児童の障害治療の上で重大なものであると考え、教師の独走には危惧を感じていることを示」しており、「この点について、現場で養訓を担当する教師はどう考えているのだろうか」と疑問を呈している。また、肢体不自由養護学校で動作訓練が好意的に取り入れられつつある状況については、「成瀬教授はじめ本法の提唱者が教育界の方であるためか、全国の学校に急速に広まりつつある。そして校医の指示と無関係に(当時学校の訓練は校医の指示を要したころ)行われ、いくつかのトラブルと偶発事故もあった。脳性マヒの訓練は確立されたものはなく、新しい試みがなされるのは当然であるが、この傾向には問題がある」とし、「教師が本法を実施したいと考えるなら、何故これらの校医の同意をえて実施しようといないのだろうか。校医と無関係にいやがる子をおさえつけて、筋の他動的伸展が行われるのが、提唱者の真意とは思われないが、それが行われているのも事実である」として、教師が勝手に動作訓練を行うことに対しての危惧の念を示している。そして、「まして、医療ではA医がいやならB医の診療を受ける患者の自由があるに対し、義務教育の中の養訓を拒否する自由は児童生徒にはないであろう。それだけに問題は大きい」と結んでいる(望月[1974:4-10])。 小池、望月に代表される医療の側からは、それまでの肢体不自由養護学校における機能訓練が養護・訓練に替わること、その実施主体が医師やPT・OT等の医療職から教師に替わることに対して強い危機感があった。

3.2 教育の側の見解

以上見てきたように、小池は医療の立場から、教育だけでなく医学的な立場の専門家をはじめとする多様な専門家によるチーム・アプローチによって養護・訓練が実施されることを求めていた。では、このことに関して教育の側ではどのような考え方をとっていたのであろうか。 『肢体不自由教育』第15号(1973年6月)に、当時国立特殊教育総合研究所肢体不自由教育研究室長を務めていた村田茂の「養護・訓練をめぐって -脳性マヒ児の動作訓練研修会における講義から-」という論稿が掲載されている。この論稿で村田は、養護・訓練の名称の意味や、養護・訓練が新設された意義、養護・訓練の性格、養護・訓練の内容の考え方(それまでの機能訓練との関連)などについて説明を加えている。その中で、それまでの機能訓練との違いについて次のように述べている。

従来の機能訓練の場合、実施する上におきましては、必ず医師の処方を必要としておりました。すなわち、旧学習指導要領の総則に、「機能訓練の時間においては、特別な技能を有する教職員が、学校医の処方に基づき、…」とありましたように、必ず学校医の処方を必要としたわけであります。養護・訓練は、先ほど申し上げましたように、養護・訓練すなわち機能訓練ではなく、機能訓練以外の種々の内容も含まれていることから、またこの養護・訓練の時間の指導を担当する教師の専門性および主体性というものを明確にさせるために、従来の機能訓練の場合と異なり、医師の処方を必要とするという表現をとっておりません。 すなわち、養護・訓練の「指導計画の作成と内容の取り扱い」におきまして、「必要に応じて専門の医師およびその他の専門家の指導・助言を求め…」というように記述されております。「必要に応じて」と申しますのは、養護・訓練の時間の指導を担当する教師の専門的な立場からみて、必要がなければ指導・助言を求めなくてもよいという意味であり、また、「その他の専門家」と申しますのは、医師だけではなく、たとえば臨床心理学者からも指導・助言を求められるように、という意味であります(村田[1973:11])。

ここにあるように、養護・訓練は従来の機能訓練ではなく、機能訓練以外の種々の内容も含まれているということが一つのポイントであろう。先にみたように、小池においては、あくまで医療者の立場から、肢体不自由養護学校において実施される訓練は、一般のリハビリテーションにおける「理学療法」や「作業療法」の内容に即したものであり、その実施は本来専門的な教育を受けて養成されるPTやOTであるべきという考えが強かった。 しかし、教育の立場からは「従来の機能訓練は、内容的にも方法的にも理学療法や作業療法等に基礎を置くものに限られて」いたが、この頃になると「養護・訓練の指導の具体的に展開する際に、従来の『機能訓練』の立場に制約されず、新たな発想から新たな方法を適用しようとする試みが見られ始め」ていること、「このような試みに対して、従来の機能訓練の立場から、とかくの批判があるが、それらの議論が、理論的・方法的な問題よりも周辺的な問題に流れがちであり」、「現在のところ、脳性まひ児の運動障害を改善するための技法については、これという決め手になるものはないように思われるが、それらをめぐる不毛の議論よりも、それらの実践の積み重ねを通じて、養護・訓練の指導をより具体化していくことこそ、現下の課題」であるとの考え方があった。それまでの医師の処方を必要とするような医療に偏した訓練のあり方から、医療に限らず有効な指導法を具体化したいというのが教育の立場であったといえる。また、小池が強く訴えていたチーム・アプローチについては、重度・重複障害児の指導に関わって、「重度・重複障害児の教育を具体的に進めていく際に、前述した養護・訓練の指導が重点になるが、このような観点からも、重度・重複障害児に関連のある養護・訓練を中心とした種々の専門家によるチーム・アプローチの体制の確立が強く望まれる」としている(村田[1997:124-126])。しかし、これはあくまでも『肢体不自由教育』第15号において村田が述べているように、養護・訓練の時間の指導を担当する教師が主導する、医師だけではなく、たとえば臨床心理学者なども含む専門家によるチーム・アプロ―チであり、小池の医療現場におけるチーム・アプローチとは異なる。そこには、医療が主導して進められてきた戦後の肢体不自由教育の実践をふまえつつも、脳性マヒ児の増加という児童生徒の変化に応じた新たな教育への指向が、このような変化を生じさせたと考えられる。

4. 今後の医療と教育のあり方

脳性マヒ児の増加とそれに伴う重度・重複障害児の増加は、治療を主とし、教育を従とする肢体不自由児施設から始まった戦後肢体不自由教育の系譜を引きずっていた、それまでの肢体不自由教育のしがらみから脱するという結果をもたらした。成瀬・小池論争が行われた際、この論争が教育現場に混乱をもたらすのではないかという心配があった。しかし、このような論争は逆に教育現場では好意的に受け取られ、また、その結果として成瀬の動作理論に賛意を示す者が多かったとされる(肢体不自由教育編集部[1974:60])。こののち、教師が主導し、動作訓練(動作法とも呼称される)を主たる指導法として養護・訓練の指導を行う肢体不自由養護学校が多くなっていく。 また、医療から教育へのパラダイムチェンジは、思わぬところへ波及する。1960年ごろから始まった脳性マヒの不随意運動に対して定位脳手術★11が始まった事由や衰退した要因を検証した小井戸は、定位脳手術が衰退した要因として、「社会福祉領域における脳性麻痺者/児への支援の拡充と障害者に対する人権意識の高まり」とともに、1979年の養護学校義務化に向け肢体不自由児教育の場が整えられていったことで、「親たちは我が子と同じ境遇にある子どもの存在を実感し、教育を受けながら暮らしのイメージを持てる時代」になり、そのような生活環境の変化によって「手術に関する情報の共有と選択の手段を得た家族は、危険な脳手術にかけてまで我が子の障害をなおそうとはしなくなった」としている(小井戸[2022:69])。肢体不自由教育における医療から教育へのパラダイムチェンジは、肢体不自由児の親の意識やその生活をも変えることにつながっていった。 しかし、肢体不自由教育の主体が教育になったからといって、その障害から生じる生活上や学習上の困難を改善する上で、医療との連携や協働の必要性が減じるわけではない。特に近年は、医療的ケアを必要とする児童生徒の増加によって、あらためて教育と医療の連携が重視されるようになっている。そこで問われるのは、連携を進める上での両者の関係性の問題であると考えられる。どちらかが主でどちらかが従というような関係ではなく、両者がその役割を明確にした上で、対等な立場で必要な連携や協働を進めていく必要がある。この点に関して、2013年当時「心身障害児総合医療センター(整肢療護園の後身)むらさき愛育園園長」の北住は、自身が校医や指導医として肢体不自由特別支援学校に30年以上関わった経験と、外来で肢体不自由、重度・重複障害、知的障害、自閉症スペクトラム障害などの子どもの診療を通して学校と間接的に関わってきた経験をもとに、教育と医療の協働について、学校は「医師の意見は十分に尊重」しつつも、「学校が医療的な対応に流されてしまわないようにすること、いわば『学校の医療化』を防ぐこと」が大切であるとし、具体的に次のようなことを避ける必要があるとしている。

・医学的診断や医学的な整理を求めすぎる。 ・問題が生じた場合には医療的な原因だけを追い過ぎる。 ・医療的な判断や対応、医師の判断に頼り過ぎる。 ・医学的な数値のみを重視し過ぎる。 ・薬に頼り過ぎる、あるいは逆に問題を薬の影響と考え過ぎる。 ・医療的ケアに依存し過ぎ、医療的ケアの実施のみを優先し過ぎる。 ・教員の関りが、医療的ケアなど医療的対応に追われてしまう。 ・医療的な面の安全性のみを重視し過ぎて、活動や生活に過度の制限を加えてしまう(北住[2013:3])。

そして、以上のようなことに陥らないように、「医療サイドのスタッフも心がけるとともに、学校内スタッフが子供一人一人の日々の現実の様子と全体像を詳しく把握し、それぞれの子供に合った適切な対応の仕方を自らが考えていく努力が必要」としている(北住[2013:3])。 医療からの提言に対して、教育の場では学習指導要領において、「各学校に在籍する児童生徒の障害が重度・重複化,多様化してきていることから,児童生徒の中には,発熱しやすい,発作が起きやすい,疲労しやすいなどの傾向のある者が見られる。そのため,児童生徒の保健及び安全について留意することが極めて重要である。そこで,学校医等との連絡を十分にとることが必要」であるとしている(文部科学省[2018:286])。また、「特に重複障害者等の指導においては、必要に応じて,専門の医師,看護師,理学療法士,作業療法士,言語聴覚士,心理学や教育学の専門家等に指導・助言を求めたり,連絡を取り合ったりすることが重要」とされ(文部科学省[2018:285])、教育と医療との間で緊密な関係性を構築することが求められている。 このような状況の中で、今後の両者の連携・協働はかつてのような二項対立的なものであってはならず、対等の関係でなくてはならない。北住がいうように教育と医療それぞれの「専門性を大事にしながら関係性も基本にしていく」ことが求められる。教育の場において「担当する子供と関係の深い教員が、その子供の現実の姿を大事にし、関係性を基本にした主体的な判断をしていけるようになることが、重要」であり(北住[2013:3])、そのためには教育の側もその専門性を高めていくことが求められている。北住は、「医師の意見は十分に尊重されるべき」であるとしつつ、「医師の判断が全て正しい訳ではありません。医師には判断がつきかねる課題や、単純な医学的判断では不適切な判断となってしまうことも少なくありません」(北住[2013:3])と述べているが、教育の側においても自分たちのできることとわかることに限界があることを承知した上で、主体性を発揮しつつ、医療とどのように連携・協働していけばよいのかを考えることが求められる。徳永は教育における多職種との連携は「『適切な指導ができるようにする』ことが目的」であり、教員は「責任をもって、そして教員としての自負をもって肢体不自由のある子供を捉え、『指導』をするために連携し、助言を受けた内容を、指導の文脈に生かしていく力が必要に」なるとしている。その上で連携を図っていくためには「学校での指導のことだけが分かればよいのではなく、前述の【特別支援教育の専門性】に整理された、連携を図る相手の職務内容や立場等を理解し、それらを尊重した上で、分かりやすい言葉で説明したり、コミュニケーションを取ったりしていく力が重要な専門性の一つだと考えられ」るとしている(徳永[2013:7-8])。教育の専門家として相応の専門性を持つことが、医療や多職種との対等な連携・協働を行う上での大前提となる。 かつての養護・訓練は、1999年の養護学校学習指導要領の改訂によって「自立活動」に名称が変更された。その理由は、養護・訓練について「自立を目指した主体的な活動を一層推進する観点から、目標にその旨を明記し、内容についても、コミュニケーションや運動・動作の基本的技能に関する指導等が充実されるよう改善する」ためである(文部省[2000:6])。このような変更の背景には、障害のある人の「自立」についての考え方や、障害のある人を取り巻く社会の変化、さらには「障害」についての考え方が変化したことがある。現在ではさらにインクルーシブ教育の実現が目指される中で、障害のある人の教育に限らず、教育そのもののパラダイムチェンジが求められている。かつての医療から教育へのパラダイムチェンジは、子供を中心としたものではなかったが、現在の教育と医療の連携・協働に求められるのは、「自立を目指した主体的な活動を一層推進する」ことであり、子供を中心とした両者の対等な関係性の構築という新たなパラダイムチェンジでなければならない。

【付記】

本研究は、JSPS科研費(課題番号A21H044061)の研究成果の一部である。