【資料】 資料 八木下浩一 略歴と引用集(その2) 増田 洋介(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
2022.12 『遡航』005号 pp.63-83
八木下浩一、脳性マヒ者、普通学級就学運動
要旨

八木下浩一(1941/09/18~2020/02/10)は、1970年に28歳で小学校に入学した脳性マヒ者である。障害児・者の普通学級就学運動の先駆者とされており、また、大人になってから小学校に入学した障害者という点でも特徴的な存在である。本稿は前号掲載の「その1」に続き、1981年までの略歴とそれに関して記された文献からの引用をまとめたものである。

■八木下浩一・1981年までの略歴

1970年[28~29歳]がっこの会の渡部淳とのかかわりができる◆15 1971年[29~30歳]学籍を獲得して3年生になる◆16、「障害者を守る会」が八木下らの運動から離れる◆17、子供問題研究会の篠原睦治とのかかわりができる◆18、りぼん社の河野秀忠に誘われ大阪で講演を行う◆19、連続シンポジウム「闘争と学問」で報告者になり「八木下さんを囲む会」ができる◆20 1972年[30~31歳]4年生になる、「さようならCP」上映運動に参加する◆21 1973年[31~32歳]5年生になる、2学期から不登校になる◆22 1974年[32~33歳]6年生になる、ほとんど出席しない◆23 1975年[33~34歳]再度6年生になる◆24、全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の結成呼びかけ人になる◆25 1976年[34~35歳]小学校卒業、中学校には進学せず◆26 1977年[35~36歳]本を書き始める◆27 1978年[36~37歳]全障連代表幹事になる◆28 1979年[37~38歳]金井康治の普通学級就学運動(金井闘争)に加わる◆29 1980年[38~39歳]『街に生きる』刊行◆30 1981年[39~40歳]『障害者殺しの現在』刊行◆31

■引用集

◆15 がっこの会の渡部淳とのかかわりができる(1970年[28~29歳])

 「今年度は、去年一年間の闘いの末に、やっと学籍を獲得し、八木下さんの希望通り小学三年生への編入学が許可されました。しかしすでに校内の健康診断の際、校医から、「お前みたいな奴は、精神病院か養護施設へでもはいればいいんだ」と言われてきています。この言葉に憤りを感じた八木下さんは、生徒たちにこのことを知らせようとしてビラをまこうとしましたが、これに対して校長は、「退学処分を覚悟の上ならビラをまいてもいいですよ」というおどかしをしてきたのです。  このように障害者には差別扱いすることが当然だと考えている教師たちによって教育を受けていく子どもたちは、障害者に対して差別意識以外の何を植えつけられていくだろうか、と八木下さんは深い憤りと疑問をもって告発しています。彼自身こう語っています。「私は障害者差別だけでなく、あらゆる差別に反対する者として、現在の教育にたずさわるものが差別を当然視する人間であり、彼らによって差別意識が今日も着々とつくり出されていることに恐怖を抱かざるをえません」」(渡部[1971→1973:130])  「昭和46年2月ごろだったかな、オレの家庭教師やってくれる学生たちで、5年の担任のところへ行っていろいろ話し合ったんだ。そうしたら、「学籍がない」「5年はむずかしい。3年ぐらいがいいのではないか」ということだった。  じゃ、オレに適した3年生に“正式”にいく必要があると思って、これまで一緒にやってきてくれた人々との話し合いをもつようになった。東京で荒木裁判を支援している人々へも訴えてやっていった。そこでは、次のようなことが確かめられた。「“すすめる会”としてとりくむ」「学籍がないのは一番問題だ」という点では全体が一致した。だが、ここでオレは、「教育委員会の差別性をやっつけなければならない」といった。それに対して「担任とよく話し合って現状を改善していく方向でいったらよいのではないか」という意見の人々もいた。この点についていえば、オレの意見は“本質論”だろうし、“現実論”としては、改善すればよいということになるが、オレは障害者への差別性を問題にしなきゃいけないと思ってたんだ。それはいまでも正しいと思っている。  川口市教育委員会とは学籍のことで何度も交渉をもった。おしかけていったんだ。ちょうど1年前のようにね。そうした中で、中本学校教育課長は、①学籍、学年のことは、私の権限ではないので今なんともいえない。②学令児童を就学させるに必要な小学校を市町村は設置しなければならない。③学令児童生徒期間における八木下さんに対する行政組織の義務不履行の件は追求されてもやむをえない。④特殊学級、養護学校は、本人・保護者が希望する時のみ入学できるもので、強制されるものではない。⑤八木下さんの学籍及び学年についての要求は、3月27日までに回答する。ということを発言していた。  つまり、入学させて一年、こっちがやめないでいたんで、学籍をやらないとしょうがないということになってきたんじゃないか。一年のこともあって、かんたんにひきさがらないということをよく知っているし、支援してくれる人々も交渉に出てくれるので、“うるさい”ので、何とか早くしたいと気がはたらいたんだろう。教委がうんといってしまえば学校は受けいれることになっているし、入れちゃえば教委は学校まかせにできるんじゃないか。  オレは5年のはじめに学籍がないことに気づいていたんだが、それは、差別性を明らかにするために必要だったんじゃないか。聴講生なんて、ないはずのものにされて、そこを問題にしなけれならないと思っていたんで、そのままで通学してきたんだ。  教育委員会が開かれ、オレのことが討論されたらしい。中本課長もいっていたが、教育委員会議は秘密会だからと、傍聴は認められなかった。学務課は、最初は傍聴できるといっていたのだが、あっちの都合で変えてきたんだろう。このころ、支援してくれている人々や団体で、教育委員会あてに、学籍をつくるように要請書を内容証明、配達証明つきでおくった。  担任は、オレのことで何か報告しなければならないことがあったのだろう、「知能テストを受けなさい。教育相談所へ行くように」といってきた。知能テストをやって、I・Qを測って、オレの入学をきめようというのだろうが、あんなものオレにできっこないし、オレの知能なんて測れるわけはない。時間をきめて、ここまで何分っていわれて、早くやれっていわれれば、障害者はあせってできないんだ。あれは障害者のことを考えてやっていない。それに、I・Q、I・Qというけど、あれで人間の値うちをきめるみたいでおかしい。だからオレは受けるのをきっぱりと拒否した。  3月10日すぎが一ばん忙しかった。毎日、会議、交渉の連続だった。その中で、オレの行動への批判もあったが、オレの考えは最初とは変っていない。  4月、始業式なので学校へ行った。学籍をやるという連絡を教委からは受けていた。始業式の時“組がえをやるから”といわれ、校長室で待たされていた。発表をみると、3年2組へ入ることになったが、同じ組には、近所の子が数人いた。オレの推測だが、教育委員会は県・文部省と連絡をとって、法律的にいって拒否できないので入れることになったのではないか。」(八木下[1972c:20-22])  「そのうちに、なんだかんだやっている中で、時間がたって一学期の始まる二日前の校長との話し合いの中で、「最終的なことを言うと、三年生から認める」と言いました。私はシブシブ校長の案をのむことにしました。私は始業式の時母親と一緒に学校へ行きました。それで校長と打ち合わせをやって三年二組に決まりました。子どもたちは私を学校の中でみているから、あんまり驚きませんでした。  ちょうど芝小の場合は、三年生はクラス替えをすることになっていました。私が行った時はそのためにまず自己紹介をやりました。むろん、私も自己紹介をやりました。私は一時とまどったけれども、「六年生から下って来たけれども、よろしくお願いします」と言いました。  ある生徒は、「八木下君は六年生から三年生に落第して来たのはどういうわけですか」と聞きました。私は、なんて答えていいのか、モジモジしました。私は思いきって言いました。「六年生の勉強にはついて行かれないから、三年生に下ってあなた方と勉強をやりたいのです」。子どもは納得したかどうかはわからないけれども、一応そこの場ではおさまりました。前もって答えておかなければいけないと思って、「私の場合は去年は聴講生であったけれども、今学期から学籍が認められて、普通の子どもと同様の扱いをされます」と言いました。」(八木下[1980a:55-56])

◆16 学籍を獲得して3年生になる(1971年[29~30歳])

 「今年度は、去年一年間の闘いの末に、やっと学籍を獲得し、八木下さんの希望通り小学三年生への編入学が許可されました。しかしすでに校内の健康診断の際、校医から、「お前みたいな奴は、精神病院か養護施設へでもはいればいいんだ」と言われてきています。この言葉に憤りを感じた八木下さんは、生徒たちにこのことを知らせようとしてビラをまこうとしましたが、これに対して校長は、「退学処分を覚悟の上ならビラをまいてもいいですよ」というおどかしをしてきたのです。  このように障害者には差別扱いすることが当然だと考えている教師たちによって教育を受けていく子どもたちは、障害者に対して差別意識以外の何を植えつけられていくだろうか、と八木下さんは深い憤りと疑問をもって告発しています。彼自身こう語っています。「私は障害者差別だけでなく、あらゆる差別に反対する者として、現在の教育にたずさわるものが差別を当然視する人間であり、彼らによって差別意識が今日も着々とつくり出されていることに恐怖を抱かざるをえません」」(渡部[1971→1973:130])  「昭和46年2月ごろだったかな、オレの家庭教師やってくれる学生たちで、5年の担任のところへ行っていろいろ話し合ったんだ。そうしたら、「学籍がない」「5年はむずかしい。3年ぐらいがいいのではないか」ということだった。  じゃ、オレに適した3年生に“正式”にいく必要があると思って、これまで一緒にやってきてくれた人々との話し合いをもつようになった。東京で荒木裁判を支援している人々へも訴えてやっていった。そこでは、次のようなことが確かめられた。「“すすめる会”としてとりくむ」「学籍がないのは一番問題だ」という点では全体が一致した。だが、ここでオレは、「教育委員会の差別性をやっつけなければならない」といった。それに対して「担任とよく話し合って現状を改善していく方向でいったらよいのではないか」という意見の人々もいた。この点についていえば、オレの意見は“本質論”だろうし、“現実論”としては、改善すればよいということになるが、オレは障害者への差別性を問題にしなきゃいけないと思ってたんだ。それはいまでも正しいと思っている。  川口市教育委員会とは学籍のことで何度も交渉をもった。おしかけていったんだ。ちょうど1年前のようにね。そうした中で、中本学校教育課長は、①学籍、学年のことは、私の権限ではないので今なんともいえない。②学令児童を就学させるに必要な小学校を市町村は設置しなければならない。③学令児童生徒期間における八木下さんに対する行政組織の義務不履行の件は追求されてもやむをえない。④特殊学級、養護学校は、本人・保護者が希望する時のみ入学できるもので、強制されるものではない。⑤八木下さんの学籍及び学年についての要求は、3月27日までに回答する。ということを発言していた。  つまり、入学させて一年、こっちがやめないでいたんで、学籍をやらないとしょうがないということになってきたんじゃないか。一年のこともあって、かんたんにひきさがらないということをよく知っているし、支援してくれる人々も交渉に出てくれるので、“うるさい”ので、何とか早くしたいと気がはたらいたんだろう。教委がうんといってしまえば学校は受けいれることになっているし、入れちゃえば教委は学校まかせにできるんじゃないか。  オレは5年のはじめに学籍がないことに気づいていたんだが、それは、差別性を明らかにするために必要だったんじゃないか。聴講生なんて、ないはずのものにされて、そこを問題にしなけれならないと思っていたんで、そのままで通学してきたんだ。  教育委員会が開かれ、オレのことが討論されたらしい。中本課長もいっていたが、教育委員会議は秘密会だからと、傍聴は認められなかった。学務課は、最初は傍聴できるといっていたのだが、あっちの都合で変えてきたんだろう。このころ、支援してくれている人々や団体で、教育委員会あてに、学籍をつくるように要請書を内容証明、配達証明つきでおくった。  担任は、オレのことで何か報告しなければならないことがあったのだろう、「知能テストを受けなさい。教育相談所へ行くように」といってきた。知能テストをやって、I・Qを測って、オレの入学をきめようというのだろうが、あんなものオレにできっこないし、オレの知能なんて測れるわけはない。時間をきめて、ここまで何分っていわれて、早くやれっていわれれば、障害者はあせってできないんだ。あれは障害者のことを考えてやっていない。それに、I・Q、I・Qというけど、あれで人間の値うちをきめるみたいでおかしい。だからオレは受けるのをきっぱりと拒否した。  3月10日すぎが一ばん忙しかった。毎日、会議、交渉の連続だった。その中で、オレの行動への批判もあったが、オレの考えは最初とは変っていない。  4月、始業式なので学校へ行った。学籍をやるという連絡を教委からは受けていた。始業式の時“組がえをやるから”といわれ、校長室で待たされていた。発表をみると、3年2組へ入ることになったが、同じ組には、近所の子が数人いた。オレの推測だが、教育委員会は県・文部省と連絡をとって、法律的にいって拒否できないので入れることになったのではないか。」(八木下[1972c:20-22])  「そのうちに、なんだかんだやっている中で、時間がたって一学期の始まる二日前の校長との話し合いの中で、「最終的なことを言うと、三年生から認める」と言いました。私はシブシブ校長の案をのむことにしました。私は始業式の時母親と一緒に学校へ行きました。それで校長と打ち合わせをやって三年二組に決まりました。子どもたちは私を学校の中でみているから、あんまり驚きませんでした。  ちょうど芝小の場合は、三年生はクラス替えをすることになっていました。私が行った時はそのためにまず自己紹介をやりました。むろん、私も自己紹介をやりました。私は一時とまどったけれども、「六年生から下って来たけれども、よろしくお願いします」と言いました。  ある生徒は、「八木下君は六年生から三年生に落第して来たのはどういうわけですか」と聞きました。私は、なんて答えていいのか、モジモジしました。私は思いきって言いました。「六年生の勉強にはついて行かれないから、三年生に下ってあなた方と勉強をやりたいのです」。子どもは納得したかどうかはわからないけれども、一応そこの場ではおさまりました。前もって答えておかなければいけないと思って、「私の場合は去年は聴講生であったけれども、今学期から学籍が認められて、普通の子どもと同様の扱いをされます」と言いました。」(八木下[1980a:55-56])

◆17 「障害者を守る会」が八木下らの運動から離れる(1971年[29~30歳])

 「「障害者を守る会」っていうのは、学校へ行けるところまでは応援したわけだよ。バックに日共があったからだよ。その他に埼玉県の障害者という前提があったことも事実だよ。その会は、学校へ行くという要求が通ったところで、八木下君のは終ったというんだよ。それに、ぜいたくなんだと言うわけだよ。やっぱり俺の問題じゃないわけなんかだよ。戦後二六年間だよ、学校に行けない障害者は例えば川口だけでも三〇〇~五〇〇人いる。文部省の統計はいく人のっているかわかんないけど四〇倍位いると思うんだ。四畳半の部屋でだよ、牢屋みたいにつくってだよ、そういうのがあるんだから現実としては。そのへんを明らかにしなくっちゃ。やっぱり俺の問題は解決つかないわけだよ。だから、俺が居直って学校へ行けたといって喜んで斗争をやめちゃったら終りだよ。そんなことやりたくないから、俺はやっていきたいわけだ。だってよ、今の障害者は、要求を出すことだって不可能なわけだ。ちっちゃなことだって要求できない。例えばだよ、遊びにデパートへ行きたくっても連れてってくれということは要求として出てこないんだよ。悪いとか迷惑かけるとか、そんなことを考えるんだよ、障害者というのは。そういう立場に追い込まれてゆくんだね。親とか、社会の中で、例えば新聞とか本とか、マルクスの資本論とか読めた人間は変っていくんだ。それも読めない状態なんだ。そこらへんを明らかにしていくところに障害者問題・教育の問題の大きなウエイトが残っているわけだよ。」(八木下[1971:28])★01  「私は日本共産党は一番進歩的政党であると信じていたので、あちらこちらで共産党の人々と一緒に何かを考えたり、やってきたりした事もありました。しかしながら、蕨市の共産党の議員は養護学校義務化についての問題点とか障害児の置かれている立場を理解しないで、ただやたらしっちゃかめっちゃか養護学校へ行け! と親のところへ来てまくしたてているだけです。」(八木下[1980a:118])

◆18 子供問題研究会の篠原睦治とのかかわりができる(1971年[29~30歳])

 「Q:70年代前半といえば八木下浩一さんとの出会いについてお聞かせいただけますか。  八木下浩一さんと出会った頃は、すでに助手になっていたから、70年前後だと思う。当時、八木下さんはぼくの妻と同じ生年月日で、20代後半だった。彼は脳性マヒ者で、川口市(埼玉)に住んでいた。彼は、ずっと就学猶予で大人になったけれど、彼は「近くの普通学校に行きたい」と宣言をした(1968年)。そこから、就学運動が始まったわけ。  まず、ぼくは、八木下浩一が月刊誌『婦人教師』(明治図書)でインタビューに答えていたのを読んだ。そこで、ぼくは共鳴した。だけど会うのは面倒くさい、というか、びびっていた。突然、彼は、篠原はそういうことを考えてる人間だと伝え聞いて、ぼくの研究室にやってきた。それは1971年か1972年だった。  そこで、彼は、「言語障害」のまま、必死になってしゃべる。ぼくに「応援しろ」、「一緒に考えろ」、「一緒に闘え」とね。こっちはびびるよね。その時、もっとびびったのは、彼の言葉がよくわからない。わからないんだけど、重い言葉を発してるのはびんびん伝わってくる。だけどその言葉を、「悪いけどもう一回言って」とか「わからないよ」とか、逆に聞いた振りをするとか、どれもできなかった。専門家は、相手の言動を自分たちの理論枠で解釈して、都合よく聞くことに気づき出していた頃だから、八木下さんの言葉は“神の声”のごとく聞かなくてはと思っていたので、すごく葛藤した。  最近はだいぶご無沙汰しているけれど、その後、八木下さんとのつきあいはずっと続いた。つきあいを続ける中で、聞き返しや確認をしながらだけれど、普通の会話ができるようになる。それで納得できる部分と納得できない部分があるから、よくけんかもした。  そういったつきあいのなかで、ぽくは、「障害」を、個人の属性として捉えることに疑問を持つようになった。「障害」を個人の特性として、研究や教育・治療の対象にするんじゃなくて、「言語障害」に即して言えば、お互いの出会いの中でじっくりと語りあうことで、分かりあっていく。ぼくの「関係としての障害」というこだわり方の出発点は間違いなく八木下さんとの出会いからだ。」(東京大学大学院教育学研究科小国ゼミ[2017b:17-18])

◆19 りぼん社の河野秀忠に誘われ大阪で講演を行う(1971年[29~30歳])

 「当時、大阪市住吉区の下町に、「青麦印刷所」というところがあった。この青麦印刷の代表者は、以前に東京に住み、大阪での障害者福祉の拠点として印刷所を開いていた(後に事業の失敗と福祉サギにあい解散した)。映画「さようならCP」の原一男監督(現・おおさか映画塾代表)の友人でもあったこの代表者に、なんとなく紹介されたのが、今日に至る友人となった快男児・八木下浩一である。  八木下は、ボクと同じ四二年生まれで、歩けるけれどアテトーゼの強い脳性マヒ者(現在は車イス使用)である。ボクが安保だ、反戦だと、正しいけれど青い匂いに夢中になっていた六七年、埼玉県川口市で、就学猶予(就学猶予、免除・障害を理由として義務教育を受けなくてもよいとする制度。まぁ、ありていにいえば、障害児は学校に来てはいけないということを恩着せがましく規定した差別制度。この制度規定は現在でも生きていることをお忘れなきよう)によって普通学校に就学できなかったのは、明確に障害者差別であるから小学校に入学させろと要求していた。  この動きは、全国的にも注目を集め七〇年に小学校への八木下編入をもって、一応の収束をするが、当時の世間では、障害児の教育要求といえば、養護学校設置要求が主流である。全国の教育現場や教育委員会は、「八木下就学」に電流にふれたように身震いしたし、今日の「障害児も地域、校区の普通学校に通う」ことを目的とする様々な活動のルーツであったといっても過言ではない。  この八木下が、ボクたちのコドクな観念を解き放った。八木下の就学運動講演会を連合体で開こうということになったのだ。  初めて八木下とご対面した時、開口一番「なんで俺を呼ぶんだよォ」と、分かりにくい言葉でスゴむ。ボクは答えようがなくて「オモロそうやからや」と、やっと探り当てた言葉を投げた。八木下がニヤリと笑い、ボクも笑ってなんとなくお互いにホッとした。  七一年、この講演会は大成功だったが、後にも先にも連合体の事業はこれだけで、以後、府中療育所闘争・映画「さようならCP」上映運動へ連合体は溶けて行く。」(河野[2007:15-17])

◆20 連続シンポジウム「闘争と学問」で報告者になり「八木下さんを囲む会」ができる(1971年[29~30歳])

 「八木下:いろんな影響があった。ここ(東大本郷キャンパス)にも来たことがあるわけ。安田講堂にも来たことがあるわけ。歩くように努力して、ここに来た。たまたま東大の西村先生がいたわけ。当時助教授でいたわけです。その人に捕まっちゃって、毎日のように電話かけたり、かけあったり、行ったり来たりしていたわけです。 半田:1971年頃に、東大で自主講座というのがありました。西村秀夫さんが中心となって、「闘争と学問」という自主講座があって、そのときの話ですね。 […] 八木下:69年か、歩けるようになって電車に乗って山手線をぐるぐる乗って歩いていたら、たまたま東大の教育学部の先生と会ったわけです。それで、八木下君、「ちょっと来て下さい」と呼ばれて、駒場に連れて行かれました(笑)。「あなたもがんばんな」って言われて、そういうことから西村さんとつきあうことになった。」(東京大学大学院教育学研究科小国ゼミ[2017a:4-5])  「「身体障害と教育」をテーマとした今年六月一九日のシンポジウムから「八木下さんを囲む会」という研究会が生まれた。月一回集まって、八木下君を中心として身体障害という問題から、差別・選別の「教育」を越える道を模索している。これは「八木下さんを支援する会」ではない。障害者も健全者も同じ会のメンバーとして討論し、考える会であり、健全者中心の文化の中で育って来た私たちが、障害者によって目を開かれ、教えられる機会である。」(西村 [1972a:37])★02  「昨年六月一九日、二九才の小学三年生八木下さんを報告者としたシンポジウムの終りに、彼の提案で「八木下さんを囲む会」ができた。それ以来毎月一回三十~四十人の人々(「障害者」「健全者」教師も施設労働者も学生も主婦もいる)が、八木下さんを中心に討論を重ねてきた。生産性第一主義のこの社会の中から「障害者」として切捨てられている人々が、自立してとらえ直す時、彼にとって教育とは何か明らかにしようとしてきた。それは、切捨る側「健全者」にとっても、人間観を新しくし、教育、労働、闘争を考え直す機会になった。生産に役立たない人々を、同じ人間として尊重する人間観に立つことがこの時代の課題になっているのではないか。  その一点をおさえてみるとき、選別教育の犯罪性が見えてくる。その「教育」をこえる道はどこに拓かれるのか。就学を拒まれている人たちを学校に入れてゆくことにより、普通学級を変えてゆこうとしている人たち(「がっこの会」「教育を考える会」の人たち)がいる。特殊学級の存在を前提として、「特殊」といわれている子供たちの自立を助け、共に闘ってゆこうとしている人たちがいる。小学四年になった八木下さん自身もクラス日常から「教育」を告発する歩みを進めようとし、参加者も、それぞれ自分の問題とのとりくみを進めてゆくだろう。」(西村[1972b:13])  「六・一九シンポにおける八木下さんの提案を受け、「八木下さんを囲む会」ができた。第一回は七月二十五日に行なわれ、以後、毎月一回行なわれている。障害者、施設に働く人、主婦、学生、教師等様々な人々が出席している。毎回三〇人ぐらいで新しい人が次々に出席している。  第一回目は、健全者が施設に行って障害者を遊ばせてあげる、といったボランティア活動、また、健全者・障害者といったランクづけを行ない、健全者を絶対化し、障害者を健全者に近づけるといったかたちで行なわれるリハビリに対する批判が、具体的に平田君という脳性マヒの人から、一人で旅行をしたり、友達と水泳をしたりしながらの成長を語ることによりなされていったと思う。どしゃぶりの雨の中、不思議な明るさが室を包んでいたことを覚えている。  第二回、第三回は脳性マヒの山崎君の、訪問教師を受けたいという希望をめぐり、何のために何を学ぶのか、訪問教師の実体を知ろうという方向で討論が進んでいる。現在、山崎君のところには、会のメンバーの一人が家庭教師として行っているが、何を、どうやるのか、試行錯誤している段階である。八木下さんからは、山崎君のやりたいと思うことを明確にし、家庭教師の給料を教育委に出させるという運動を組んだらという提案があった。まだ問題をにつめていく必要がある。  八木下さん自身、裁判斗争のためのカンパをつのっているが、会での具体的な取り組みはなされていない。また、八木下さんは小学校に行っているのだが、そこでの運動に対する取り組みもいまだない。教育体制が差別状況を強化していく中で、斗いはどのようになしうるのか。寝たきりの障害者をどのようなかたちで視野に入れるのか。個別の問題の中で、障害者問題をとらえる視点は何か。会の抱えている課題は大きい。」(岩立[1971:33])  「私は、今年の6月に東大駒場の夜間講座で、障害者教育で、私自身の問題をとりあげました。  夜間講座の中でいろいな問題がでてきた。例えば、障害者はなんで普通学校へ入れないのか。なんで養護学校や特殊学校があるのか。なんで、同じ人間なのに、就学猶予や免除があるのか。同じ障害者で、施設にいる人、家の中で寝ている人などがなんでいるのか。私を囲む会は、そうした話し合いの中から発足したが、私は考えなけれぱならないことがでてきた。それは「私を囲む会」ではなくて、「健全者を告発する会」でなければならなかったのではないかということだ。  この学校(東大)で、大学生が何千、何百と来年3月が来れば卒業して、エリートになって一般の社会人として通用する。僕たち障害者は小学校すらいけない状態なのに、私だけなんで普通の小学校に通っているのだろう。ある面では正しいことをやり、ある面じゃ、まちがったことをやってきたのじゃないかと思う。それは何であるか。いまいったように僕だけ学校に行っていて、本当に重度の人で、教育を必要とする人々をなんでまきこんでいけなかったのか。僕の闘争になんでまきこんでいかなかったかと考えると、僕の中にも、障害者自身を特に重度障害者を差別視するものがあったんじゃないかと思う。重度障害者は、施設という場の中におしこまれちゃって、社会から隔離され、全然人間として認められない状況で、僕が学校に入ったことに問題があるんじゃないかと思う。」(八木下[1972d:30-31])  「会津:[…]西村さんはやっぱり八木下さんの告発を非常に重く受け止めてまして、やっぱり特権的な教員で東大にいて世の中を差別する側にまわってるってことを、どうやったらそこから変えられるかといって。中から変えられるかって思ってたけどどうも自分には無理だみたいな感じで思われたと思うんで、結果的には北海道に行かれましたね。北海道の施設に。福祉施設に。[…] 八木下〔浩一〕さんとの話でちょっと覚えてないのは、横田、横塚と、八木下と、どっちが先にどうだったかっていうのはちょっと今の時点ではわかりません。ぼくのおぼろげな記憶では、先に八木下さんを呼んで話を聞いているわけですね、このシンポジウムで。それが2回あったんじゃないかな、違ったかな? 1回だけだったかな? 川本:ぼくは立看を見た記憶がありますね。八木下さんが来る時の。 会津:あのころのシンポジウムで、テーマによっては告発する側とさせる側の激論というか議論がいつもあったの、最首さん覚えてる? 「おまえらは差別してる側じゃないか!」って、夜間中学のタカノさんとか。八木下さんはそこまできつく言わないけど、かなりずけずけ言ってきたし、ほかでもやっぱり。東大に来るっていうだけで、東大じゃない人から見ると「悪の塊」みたいなとこに(笑)。個々人の問題じゃなくて。最首さんはそうでもないかもしれないけど、西村さんとかまじめだから受け止めちゃうわけですよね。 最首:そうそう。 会津:そういう構造。ぼくらも高校生だったり学生の側から見て「教師ってのはわかってないじゃないか」ってのはしょっちゅう平気で言ってましたから。  そこにもう一人、鵜木さんって、身体障害持った東大の学生。本郷まで行った。たしかね、全共闘、駒場共闘だったか覚えてないけど。下の名前がこれに書いてないんですけど、これでいうと116回をウノキさんがしゃべってるわけです。「教育における差別の三」として☆。彼も事務局によく来てて、ぼくけっこう事務局では話をしたのも覚えてて。「自分は障害者なんだけど、東大生なんだよね」というようなことで。それ以上はあんまり詳しいことは覚えてないんですけど、そうとう…もちろん西村さんともそういう議論したりしてるので。八木下さんの問題に鵜木さんがつなげたかどうかははっきり覚えてないし、たぶん違ったんじゃないかっていう気はしますけど。[…] もう一つは、夜学というのはシリーズで。「身体障害と教育」ってご存知ですか? 「夜学の記録」というパンフレットを出して。これが「身体障害と教育」と、夜間中学と、あと一つか二つあって。おぼろげな記録であれなんですけど、岩立さんが起こしたか、ぼくが起こしたか、一緒にやったか。西村さんがわりと積極的にこれをやって。岩立さんが第1回に「題無し」と称して原稿を書いてるんですよね。それが「八木下さんを囲む会」というのに派生していくわけです。彼を中心にして。連続シンポジウムではなくて、八木下さんを囲む会って。これは資料の第1回のところに書いてあるので、これもしあれでしたらあとでぜんぶ送りますけれども。余分もあるので。  八木下さんは提案してんだな。「6月19日のシンポでの提案を受けて、八木下さんを囲む会が7月25日にできて、以後毎月一回行われてる」ということなので。「障害者と施設で働く主婦・学生・教師と毎回30人ぐらい」というので、いろんな。「第1回がヒラタくんという脳性麻痺の人の話、第2回、3回はヤマザキくん等々」っていうんで、ここにその横田さんたちが来たかどうかはあれですけど、ちょっとたぶん違ってたんじゃないかなっていう感じがします。これができてんのが12月ですから半年後ですね。第1回の八木下さんを呼んでから。その最後に「今後以下のようなものを出すのを計画してます」って、教育だけのシリーズでテーマが20個ぐらい並んでるんですけど、実際に出たのが夜間中学ともう一つだったかな、そんなにはできなかったんですけど。自分たちでテープ起こししてましたから、けっこうたいへんだった気がしますね。」(会津[i2022b])

◆21 4年生になる、「さようならCP」上映運動に参加する(1972年[30~31歳])

 「私は学校のことと地域で生きる場のことで手いっぱいでしたが、一九七二年から大阪の河野秀忠さんの頼みで、関西に時々行き、「さようならCP」上映運動に参加し、講演や討論に協力しました。もちろん、映画の中に出てくる横塚さんや小山さん、矢田さんたちも、各地の上映会に参加して講演や討論をしていました。この上映運動は七三年秋ごろまで、名古屋・東海、九州までにわたって行われました。その中から、自立障害者集団・グループ・リボン(後の関西青い芝の中心)、自立障害者集団友人組織・グループ・ゴリラ、大阪青い芝などが、つくられていきました。」(八木下[2010:163])

◆22 5年生になる、2学期から不登校になる(1973年[31~32歳])

 「五年生の二学期から、八木下さんはほとんど学校へ行っていない。頭では「いかなくてはいけない」と思いながらも、いざ行こうとすると〝はき気〟がするのだという。病院で診てもらったが異常はなかった。  八木下さんは、学校に通っているうちに、自分が精神的に骨抜きにされてしまったような気がするという。学校にいるときと学校の外にいるときとでは、自分の気持ちがだんだんずれ「二重人格」になってしまった。そういう気持ちのアンバランスがこうじて「登校拒否」になったのではないかと八木下さんは自分自身を診断する。「道で友だちにあっても、つい逃げだしてしまう」と八木下さんは苦しそうだ。  何が彼をそんなに疲れさすのだろうか。  子どもは正直だと思うよ。おれがおとなであるということ、障害者であるということで嫌悪感があったと思うな。当たりまえだと思うよ。ヒゲづらの三十男と十いくつじゃ、仲良くなれっこないよ。  とくに、できる子はおれから逃げるという感じだった。おれがおとなだから、その子にとっては、立場はちがうけど二人の先生がいて、四つの目で監視されているように感じたんだろうな。それと、おれなんかとつきあっていると、勉強がおろそかになるという感覚があったんだろう。」(のびのび編集部[1975:32])  「この八木下君が、子供のときに小学校に入れてもらえなかったので、大人になってから就学権を保障してくれという要求を川口市の教育委員会に出したときに、応援に行った浦和市の「埼玉の身障問題をすすめる会」という会の人々がいる。八木下君の要求は入れられて小学校入学を許可されているが、彼は学校への出席がかんばしくないので、「すすめる会」の会長である沼尻さんなる女性から、障害者運動の信用に関するから他の障害者運動も大切だろうが、まず自分の獲得した権利を実行する義務を果たすように勧告されている場面に私も同席した経験がある。  八木下君は障害者運動が大事だとして学校にあまり行かなかったようにも聞いているが、学校というところはどんな扱いを彼にしたのであろうか。  後日、浦和市の小沢市会議員から、彼女の友人である川口市の小学校の教師が八木下君の学校に出て来ないことを責めているという話を聞いたが、小沢氏は八木下君は学校に行っているはずだとは申していた。」(和田[1978→1993:299-300])  「半田(鴻巣市・NPO法人あん):もう一つ学校のところで聞きたいことがあるんですが、八木下さん五年生の時に不登校になってしまうわけです。その不登校の理由をお聞かせ願いたいんですが。 八木下:あの、全障連の大会の方が大事だと思って、全障連に行くようになっちゃったわけですね。うちに帰ってきて疲れちゃって、学校に行ってね、いつも疲れちゃってね。そういうことがあるわけ。それで行けなくなっちゃったわけ。それで家庭教師を付けたわけ。そこにいる、高橋儀平の女がいるわけ。怖かったなあ、今も怒ってる?今もそう思っているわけ。あのそういう感じで家庭教師を四人くらい雇ったわけ、女だけ、男はダメ。 半田:「街に生きる」とちょっと違うんですけど。これによると不登校の大きな原因は教員の無理解とか生徒との交流もままならなくなって、子供との関係とか教育の関係とかが疲れたとあったんですが… 八木下:その間、小学校には一週間に三回くらい通っていたのね、僕は。うまくいきっこないでしょ、それじゃ。」(埼玉障害者自立生活協会通信編集部[2015:8])

◆23 6年生になる、ほとんど出席しない(1974年[32~33歳])/◆24 再度6年生になる(1975年[33~34歳])

 「六年生になって八木下さんは八日間しか出席していない。学年初め、クラスで「今年の目標」を書かされたとき、「学校を休まないようにしたい」と書いたのに――。  八木下さんはしきりに「学校がこわい」という。  学校にいっているうち、おれは〝学校〟にうずまってしまった。頭の中では勝てるわけないと思っていても、どうしても競争してしまうんだ。  五年の聴講生のときは、ゆっくりいこうと思っていたから気づかなかったけど、そのあと三年から四年になる中でおれの意識が、健全者ぺースになっちゃった。早く書かなくちゃいけない、早く答えを出さなくちゃいけないと思うようになってきたんだな。おれぱかりでなく、学校ではみんな競争相手、敵なんだ。  そういう学校のべースにはまりこんだのは、ぼくの弱さであって、そういうことで負けてしまった。それでいまはその学校にいってないわけだ。  「彼は学校には戻ってこないような気がする」と奥山先生はいう。八木下さんには芝小学校にはいる前から、八木下さんなりの勉強観があり、その〝勉強〟は学校にはなかった、そして八木下さんは来なくなったのだろうと奥山先生は考えている。そして「学校というところは、八木下さんばかりでなく子どもたちにとってあまりおもしろいところではないのかもしれない」とつぶやく。」(のびのび編集部[1975:32-34])  「私は、一九七三年に五年生になり、担任が変わりました。新しい担任は、休み時間でも書き取りをやらすなど、教室から出さないのです。また、「授業参観に来ない親は教育に熱心でないし、来ない親は知らない。絶対に出て来いと伝えろ」と言うので、四二人中の三七人の親が参観に来ました。私は母親に「出てゆかなくてもいいよ」と言ったのですが、「だって理由を書かなくてはいけないし、めんどくさいから出て行くよ」と参観に来ました。この担任の下で、私はどうやっても早く書けないのに、どう「早くやれ」とか「やめてしまえ」とか言われ、精神的に追い込まれました。その翌年、六年生になりましたが、クラスも担任も変わりませんでした。私は、ついに登校拒否になりました。母親には、「なんでもいいから、学校をやめるか、行くか、どちらかにしなさい」と言われました。  これは後になってわかったことですが、実はこの先生の子どもは自閉症でした。浦和の普通学級に行ってました。その子は電車が好きで、金網を破って線路に入ったりしていたということを、後になって聞きました。その子を含めた地域での生活と、職場での私たち生徒や親との関係が、なかなかつながらず、先生も悩んでたのでしよう。 […]  夏休みには体調が直り、休み明けにまた悪くなりました。医師のすすめで、半年学校を休みました。  一九七五年が明け、三学期から学校に行きだしました。もう一回六年生をやってみたいと学校に話し、学校もあきらめて認められました。五年間要求しても付かなかった階段の手ですりを要求し、付くまで家で勉強すると宣言したら、夏休みに設置され、二学期からまじめに通いました。」(八木下[2010:163-164])

◆25 全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の結成呼びかけ人になる(1975年[33~34歳])

 「一九七五年中頃から、ボクたちは度々、旧国鉄(現JR)新大阪駅構内にあった喫茶店で密談(といっても、障害者仲間四~五人とボクなんだから、当時の状況ではいやでも目立つ)を重ねていた。幸いなことに、当時の新大阪駅は、今のようにゾロゾロと人間がいるという様子ではなく、みんな貧しくて、閑古鳥がひょろひょろ歩いていたから、長い時間喫茶店のテーブルを占拠することができたのだった。  ヒソヒソ、ボソボソと密談らしきものを続けていたメンバーは、(肩書きは当時のもの)関東障害者解放委員会のYさん(脳性マヒ者)、関西障害者解放委員会のKさん(視覚障害者)、関西青い芝の会連合会のKさん(脳性マヒ者)、時折、全国青い芝の会のYさん(脳性マヒ者)と、付録のボクだった。  テーマは、それまで意見や見識を巡って、時に対立、批判を交わしてきた団体ではあっても、「養護学校義務化阻止」などの共通の課題を担い合うことや、具体的な活動を共有することで、それぞれの小さな領域から飛び出し、全国各地で苦闘を続けている障害者市民にエールを送ること。また、ゆるやかでも、しっかりとした大きなテーブルを作り、そこに障害の種別を超えて集まり、政治課題をも担える、障害者市民の自己決定・自己実現を基調としたうねりと、全国組織を作ることだった。一応、メンバーをイニシャルで表わしているけれども、人権に関心のあるひとならば「アア、あのひとかァ」と容易に想像がつくひとたちばかりだろう。  関東を代表して密談に加わったYさんは、ボクのポン友でもあるのだが、このひと、ボクに輪をかけたアバウトな性格。なんでも「俺にまかせてくれよなぁ」と、安請け合いをしてしまう。それの対極を張るのが、視覚障害者のKさん。もう几帳面が服を着て、白杖を使っているような人物なのだ。その両極端の間をウロウロ、ああでもない、こうでもないと思案していたのが、関西青い芝のKさんとボクだった。  相当な時間と議論を消化して、一九七六年八月に、大阪で結成集会を開くことが決まった。しかし、コトはそうカンタンではない。障害者運動に介在していた新左翼諸党派のこと、代表のこと、行動綱領のこと、結成を前提にした全国合宿のこと、名称のこと、「タテマエの関東・とりあえずの関西」の運動文化のすり合わせ、ETC。アア頭が痛い。「関東のコトは、まかせろ」だってネェ。」(河野[2007:170-172]) 「こんな風に地域でかっこ悪く生きながら、この年の暮れに、全国障害者解放運動連絡会議結成に向けた準備会を発足させました。私は、日本脳性マヒ者協会・青い芝の会関西連合会(鎌谷会長)、関西「障害者」解放委員会(楠代表)とともに、八木下浩一個人として、呼びかけ人に名を連ねました。 […]  一九七六年八月、全国障害者解放運動連絡会議(全国代表幹事・横塚晃一、事務局長・楠敏雄)が結成されました。」(八木下[2010:164-165])

◆26 小学校卒業、中学校には進学せず(1976年[34~35歳])

 「卒業してみて、この六年間を振り返ってみると、やはり学校というところは恐いし、先生は権力を持っているということを、私は芝小学校に六年間通う中でつくづく感じました。私の場合は、五年の三学期から登校拒否反応で一年間学校に行ったり、行かなかったりしていました。今、振り返えってみると学校というところは、ひとりの子どもをだめにすることを平気でやっています。そういうことを感じながらとにもかくにも六年間芝小学校に通ったことは良かったと思います。私はあと何年生きるかわからないけれども、一生涯にわたってその六年間が充実したことは意義があります。 […]  私は、普通学校に入りましたが義務教育を途中でやめました。正式にいうと、義務教育というのは小学校一年から中学校三年生までです。私の場合は、全国で初めて大人として、義務教育の就学権をかちとりました。しかし小学校六年でやめなければならなくなりました。義務教育を途中でやめなければならなかったことは、非常に残念だと思っています。私は、なんで学校へ行こうとしたか。それはただの思いつきや、遊びでいったのではなく、私の過去二十八年間の障害者として生きてきた生活を今の社会にぶつけたかったのです。私は、障害者であって、なぜ、子どもの時歩けないからといって、普通学級にやらせてもらえなかったかを、二十八年間のこの怒りを学校の中に、今の公教育にぶっつけたくて、学校に行くことを決心しました。その結果、今まで述べたように、私は小学校に通学できるようになりました。  学校へ行くなかで、二つの問題を感じました。ひとつは、学校というところは、子どもをだめにするところだと、そういうところに私がなんで入ったのかを考えながら、六年間通って来ました。つまり、一たす一がすぐ二にならなければいけない教育、この子どもは勉強ができる、できないとすぐに決めつける教育自体を学校へ行く中で、私は疑問に感じてきました。  ある子どもは、一たす一が十一でもいいではないか、またある子どもは一たす一が百十でもよいではないか、一たす一がぜんぜん読めなくってもわからなくっても生徒なのだ。学校があって、その中で先生と子どもたちがいるのに、先生は、一たす一が二にならなかったら、ひっぱたいたり、蹴っ飛ばしたり、髪の毛を引っぱっても勉強をわからせようとする教育に、私は学校へ行くなかで、疑問を感じてきました。  先生は一たす一がわかるまで蹴っ飛ばしたり、髪の毛をひっぱったりし、また一たす一がわからなければ、特殊学級や養護学校に行きなさい、私のクラスにはそういうおかしな子どもはおいておくわけにはいかないと教室の中で平気で口に出します。私は先生というのはなんなのか、生徒というのはなんなのかと、ふっと考えました。先生は、黒板の前に立って、チョークで黒板をたたいて一所懸命四十五分汗を流しながら、子どもたちを抑圧しています。  つまり四十人の子どもは、いかに能率的に有名な中学・高校・大学にあがるかを、だれかに問われています。だれに問われているのかといったら、親・資本家・文部省・教育界の偉い人に問われています。私の卒業した川口市立芝小学校から、芝中学校へ行き、浦和高等学校へ行って東京大学へ行くことは、その先生の自慢話とか芝小の名誉になります。そのために先生が脂汗を流しながら、一所懸命、チョークで黒板をたたいて、子どもたちの切り捨てをやっています。  一方、子どもたちは、小学校一年の時はものすごく純粋で可愛くって、嘘をつかない子どもなのに、五年生や、六年生になると、嘘をつくやら、カンニングするやら、人を蹴飛してまで、うえに上ろうとする気持がでてきます。私は六年間先生や子どもたちとつき合うなかで、こういうふうに感じてきたのでした。  私はたえず悩んで学校に通っていました。前に述べたようにそのうちに私は、どうしても今の学校についていかれなくなって、登校拒否反応を起して学校をしばらく休みました。学校というところは、ものすごくいやなところで、おどかしたり、嘘をついたり、たぶらかしたり、それを平気でやっている先生に対し良心のかしゃくで、私は登校拒否反応を起こしました。生徒は、その先生のやりくちに諦め、慣れたり、これがあたり前なんだというようになります。そういうことで私は、学校を途中でやめる結果になりました。とにかく先生の権力主義と横暴さとに腹がたってやめる結果になりました。  学校をやめる二つめの理由は次のようなものです。私は、生まれた時から障害者であって、死ぬ時も障害者だと思います。学校の中で私自らをぶつけていくなかで、障害者のいきざまをだそうと思ってきたけれど、何年か学校に通うなかで、私自身がどっかにいってしまって、私がなぜ大人になって小学校に行かなければいけないのかが、みえなくなったのです。  私は十年前、強い決意のもとで学校へ行ったことは今も忘れはしません。しかしながら、学校というところは、私の思想性まで変えてしまう。今の学校は、同じような子どもたちだけを創るところだということを、実感として味わいました。私が先生とドンパチやっても、いつのまにか先生のぺースとか、学校のぺースに合わされてしまいました。私は、普通の子どもたちと違うということを認識しながら普通学級に入っていったわけです。  しかしながら、いつのまにか、普通の子どもたちと競争をするようになってしまいました。私がそのことに気がついたのは、登校拒否反応が起こってからです。なぜ私は、普通学級に行ったのか、また障害者とか障害児が学校にいくことは、どういうことなのだろうか。私は、どんなに寝たきりの障害児でも、普通学級へ入るのがあたりまえとの考えは十年前も今も変わりません。  しかしながら、私自身が、健全者の中で、埋没していくことに自分自身が情けなくって学校へはどうしても行かれなくなりました。  私が六年を卒業する時、このまま中学に行こうか、行くまいか、一部の人に相談をしたけれども、どうしても本当のことは言えませんでした。十年前私は、あれだけさわいで普通学級に行き、そして途中でやめる結果になったことを本当の友達にも言えなかったのです。弁解すると、そういうことなのです。  私が学校をやめた三番目の理由としては、中学へ行くより、障害者運動とか、障害者の学籍権を、お母さんたちと一緒に勝ち取りたかったからです。つまり弁解めきますが、私が普通小学校の中でできなかったことを障害児が普通学級にいく中で、やれるのではないかと思って、中学校へいくことを断念しました。  七九年から、養護学校が義務化され、障害児が普通学級にいくのが難かしくなりつつありますが、私は学校をやめても、普通学級に怒りを感じています。つまり私ができなかった事を、若い障害児がやれるように、私も何人かの障害児を普通学級に入れていく覚悟があります。養護学級が義務化された今だからこそ、私自身もできればもう一回、芝中学校へ行くことも考えてはいます。」(八木下[1980a:73-77])  「八木下:[…]私の立場を若干説明します。私は今から一一年前、よいか悪いかわからないけれど、たまたま普通学級で六年間勉強をした。そして、中学にはいかなかった。なぜいかなかったかというと、北村さんには悪いのですが、いまの学校には学ぶべきものがないと思う。学ぶべきものがないばかりではなく、人間をだめにしてしまいます。私は六年間を通じてそれが痛いほどよくわかりました。きのうは頭が痛かった、きょうは尻が痛いというようなことが毎日ある。それだけおっかないところなんだということを実感として感じました。  それからもう一つ、悪口をいうわけじゃないけれど、もっと面倒を見てもらえたらよかったと思う。障害児、健常児を分けて機械的にやっているということが非常に頭にきた。学校では毎日、「一たす一」をいかにわからせるかということを徹底的にやっているが、そこが解決されない限り、金井康治君はどこへ行っても、どこへ入れても、「お客様」になるんじゃないかと思っている。  地域的に見ると、埼玉県の川口は非常に保守的で、障害児を普通学級に入れてくれない。また組合の組織率も非常に低い。しかし現象としては、組合に入っている先生の方が冷たく、入っていない先生の方がていねいに教えてくれ、障害者にとってはよいということがあります。 […] 司会:これで一通り皆さんに意見を述べてもらったわけですが、八木下さんの意見には矛盾しているところがあると思います。あなたは学校に行くとだめになるから中学へ行かなかったといいますが、それだったら教師の方はきてほしくないんだから、せいせいしますよ。 松村:東京で全同教大会(全国同和教育研究大会)が開かれたとき、私は障害児教育分科会で司会をやったのですが、そこで八木下さんが確かこういったと思います。 「ぼくは小学校で早く計算ができ、どれだけたくさん字を覚えるかということで追い回されその闘いに負けたんだ。だから中学校へ行かない。ところがこんど入ってくる○○君は、私がいつも『負けたんだ負けたんだ』というと『ぼくはやるよ』というようなかたちで後へ続いてくれているんだ」という報告をした。そのとき、私はやはり学校総体をどう変えるかという問題、つまり字をどれだけ覚えるか、計算をどれだけ早くするかということを価値の尺度にしている学校を変える闘いをやらん限りは、八木下さんの提起している問題には答えることができないんだという総括をしたと思うんだ。八木下さんはそういうことをいっているのだと思います。 八木下:私は基本的には負けたんだと思う。だから金井康治君とか他の障害者にがんばってもらいたい。そういうこととして聞いてもらいたいのです。 司会:それでも、私は「あんたにがんばれないことが、だれにがんばれるのか」といいたい(笑)。」(小山内・加藤・金井他[1981:247-249])★03  「半田:先ほども話があったように、八木下さんは中学進学を断念したわけです。そのときの理由はどんなことでしたっけ? 八木下:中学は半田君も知っているとおり、芝中は山の上にある。だから、行かれなかった。行こうとしても。 半田:それはあくまでも物理的なことですか? 八木下:それもあった。なんていっていいのかわからないが、行かないでくれと説得に来たことは事実です。「中学は受けないで」と言うことで、頭から決めつけて来た。そういうことだから、僕は、1976年に卒業して、もうこんなところに行くのしょうがねえやって、あきらめて、それからいろんな所に歩いて回っていた。例えば東大の駒場に行ったりここ(本郷)に来たり。そういうことも含めて。あきらめて当然だと思ったわけではないけれども。子ども同士の関係とか、あきらめないといけない関係もありました。それで、子問研(子供問題研究会)とか、いろんな所にも行ったわけ。 半田:八木下さんは、いま、山の上にあるという物理的な理由をおっしゃいました。ただ、中学校進学を断念したのには三つの理由があって、確か、一つには教員が子ども達と八木下さんとの関係を邪魔する方向に動いたと言うことと、二つ目は、自分も隣の子どもと競争関係になって、それが自分にとって窮屈で合わないということになったこと。三つ目に、いろんなところに行って、自分の運動よりも他の人の就学闘争や障害者運動に関わりたくなったということだと、以前おっしゃっていました。」(東京大学大学院教育学研究科小国ゼミ[2017a:7])

◆28 全障連代表幹事になる(1978年[36~37歳])

 「八木下:[…]そういうことで、義務化が迫ってきた。養護学校義務化が何年だっけ?半田君。 半田(鴻巣市・NPO法人あん):一九七九年です。 八木下:一九七九年だから、あれは覚えてないけども、僕は四年間くらいやっていたので代表幹事を運動の。そんなことでのめりこんでしまったの。そういう理由で学校も行かなくなっちゃったの。 半田:そういうことで八木下さんの気持ちとしては、学校に行くよりは当時の課題として、自分としては全国的な運動に決定してそっちに行ったということですね。」(埼玉障害者自立生活協会通信編集部[2015:8])

◆29 金井康治の普通学級就学運動(金井闘争)に加わる(1979年[37~38歳])

「(引用者注:1979年)九月一日、二学期が始まる。この日からTBSラジオが取材にくる。律子、康治、邦次、花畑団地の父兄、花畑東小の児童ら当事者に加え、全障連代表幹事八木下浩一、八王子養護学校教諭小島靖子、草加市坂口鶴子、町田市立金井小学校校長要倉大三、原口ともみ(都立小四年、ダウン症)の父らのインタビューをつないだ。番組は、土曜ワイドショー「ぼくも普通学校にいきたいな」として九月二二日午後一時から三時まで放送される。」(金井闘争記録編集委員会[1987:187]) 「私たちは金井康治君の学籍を花畑東小で獲得するため、全国行動で(引用者注:1980年)三月七日から一週間、足立区役所前に座り込みをしました。その中で、区は鉄格子と金網をはりめぐらし、十日間まるで〝業務停止〟のような状態になりました。また、鉄格子の中には職員六百人を配置して交替でピケを張り、制・私服警官と機動隊をバックに住民を一人も入れませんでした。 私は、支援者の一人として、なぜ区がここまでしなくてはならないのか、また足立区職労もなぜピケに加わったのか、驚きと疑問でいっぱいです。また不思議なことは、区民の側としても誰も職員にくってかかる人はいないことでした。なぜ区民はこのようなおかしな事態に食ってかかろうとしないのか、大変不思議でなりませんでした。つまり、足立区教委の「康治君が花畑東小に入るとえらいことになる」というデマと、支援者に対する〝過激派キャンペーン〟が浸透しており、十日間の〝業務停止〟もやむを得ないと受けとった結果ではないかと思います。」(八木下[1980b:103]) 「81年3月8日、金井康治君の花畑東小学校への転学を求めるデモで、先頭で金井康治君の車イスのバギーを押す全障連代表幹事の八木下浩一さん。」(部落解放編集部[1981:9]、写真のキャプション) 「(引用者注:1982年)十二月二二日の区教委交渉には鈴木教育長も出席した。金井側は両親、二日市、八木下、千田、藤沢、矢内、八柳、村田の九名。鈴木忠二がオフレコを条件に前日のトップ会談の報告をする。古庄区長、助役(前教育長の梅山)、鈴木進現区議会議長、教育委員三名、教育長、部長、課長、指導室長、庶務課長、議会の運営局長、同事務長が出席した。」(金井闘争記録編集委員会[1987:443]) 「佐藤:[…]それで、学生としてどう関わっていくのかっていうの、やっていこうっていうなかで、やっぱり差別の問題が大きいんだっていう話になってって。そのころもう私、八木下〔浩一〕さんともすごく親しかったので、八木下さんも学生好きだったんですよ、すごく。八木下浩一が、だいたい。彼は学生が好きだったのでけっこう呼ぶとすぐに来て、「東大なんていうは、」とかすぐアジってて。[…] 立岩:「八木下さんを佐藤さんが」っていうのは、金井闘争つながりで八木下さんを知って、八木下さんが応援っていうか、その立場で行ったんで知ったっていう感じか。 佐藤;そうそう。それで彼は蕨だったから、私王子っていうとこだったんで、けっこう何かあると「送ってけ」ってとか言われたりして、秀年と二人で酔っぱらった八木下さんを送ってって。ゴンッなんて落っことしちゃったりして。頭ゴンッなんてなって。なんて覚えてるから、けっこうよく八木下さんも私たちのところに来ては一緒に飲んだりとか。「学生が何とかだから」とかって言いたがって。 江頭:「CP(シーピ―)は50までしか生きられない」って。 佐藤:そう。だから「もうおれはいつ死んでもしようがないんだ」って言いながら、ちゅーちゅーちゅーちゅーストローでお酒飲みながらよく来てたよねえ。 立岩:場所的にはどこにいたの? 佐藤:西新井とかに来てたのかね。「迎えに来い」って言われて迎えに行った記憶もあるけど、まだあのころはけっこう、 江頭:歩いて電車とか、 佐藤:歩いてよく来てました。 江頭:杖でね。 佐藤:杖とかつかないで、こうやってなんかずるずるずるずる歩けるの。そう、よたよた歩いてて。それはお母さんが、「浩一、浩一」って歩かせるっていって。すんごいスパルタで歩かせたらしいんですよ。歩行器がどぶに挟まって頭傷だらけになってって言ってたぐらいだから。そうそう、すごいがんばって歩かせて。 立岩:八木下さん、そうか。一時期っていうか、ある時期まではそうやって自力というか。 佐藤:よく来てた、北千住とか。 立岩:足立区に姿をあらわすっていうか? 佐藤:そうそう。 立岩:そうすると学生のみなさんも一緒になって、 佐藤:どっかで飲んだりとか。 立岩:足立のどっかで飲んだりとか。 佐藤:西新井に信じられないぐらい安い飲み屋があったり。 江頭:私はだから、八木下さんは、「じゃあ、めしでも食おうか」って喫茶店に入ってあの食べ方に圧倒されたっていうか。ぎくしゃくした動き。あーって感じなんだねえ。 佐藤:で、ちゅーちゅーちゅーちゅー、内ポケットからストローを出してとにかくお酒を飲むみたいな。 立岩:それは八木下さんに誘われたってこと? 江頭:私は私でまだべつで。 佐藤:「で、学生を」っていう話になってった時に、「じゃあもう学生を誘おうよ」って、誘っていこうって話になった時に「金井闘争の意義は何だ」とかね、「やっぱりそれは差別がいけない」っていう話だっていうのと、あと私はそもそもずっと子殺しの話に興味がずっとあって。」(佐藤・江頭[i2022])

◆27 本を書き始める(1977年[35~36歳])/◆30 『街に生きる』刊行(1980年[38~39歳])/◆31 『障害者殺しの現在』刊行(1981年[39~40歳])

「本(街に生きる)には教師の悪さが抜けている。遠慮があったんだ。二年半かかったんだが…」(婦人民主新聞[1980:1])  「難産の末、やっと生まれた僕の本。とても嬉しい。  本を出そうと思ったのは、三~四年前のことだが、僕が直接原稿用紙に書くのではない。僕がテープに吹き込んだものを、ボランティアの人が文字になおす。無論、話し言葉がそのまま文章にはならないので、出版社の編集担当の人が、僕の感性を損なうことのないように留意して、きちんと筋の通った文章に整えるわけである。僕はあんまり機動性に富んではいないので資料の取得、整理などはほとんど編集担当の人のお世話になった。ずい分と煩雑な仕事だったので、大変だったと思う。ありがとう。」(八木下[1981:230])