単身ALS患者の診断後の在宅生活の実態 西田 美紀(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
2023.02 『遡航』006号 pp.9-30
単身ALS患者、診断後の在宅生活、生活実態、支援課題
要旨

本稿では、単身ALS患者の生活実態を明らかにした。研究方法:60代男性の単身者1名の生活場面を参与観察し、2008年3月22日~2008年6月10日に記録した資料から、診断後の在宅生活の経過についてまとめた。結果:診断後に対象者は、病院の医師から「家族がいないと人工呼吸器の装着は難しい」と伝えられ、事前指示書に(人工呼吸器の装着は)「しない」とサインをしていた。退院後は、介護療養型医療施設に入所の申し込みをしたが空きはなく、在宅で病状が進んだ。利用していた介護保険サービスは、経済的負担が増えることが懸念されて十分な給付を受けていなかったが、生活苦の背景には、生活保護受給に伴う引越しで生じた諸費用、療養や失業に伴う複数制度の煩雑な手続きと収支管理、身体機能の低下に伴う外出支援の欠如があった。診断後から関わった専門職は障害福祉サービスの活用を知らず、デイケアの医師から相談を受けた筆者が、単身ALS患者の在宅支援に関わった研究者を紹介したことで、支援の可能性が見えた。しかし、他職種の職域に踏み込まないよう医師が配慮したため、インフォーマル支援の介入までに時間がかかり、本研究対象者にとって必要な情報や支援のタイミングが遅れるかたちで、在宅生活の再構築に向けた支援が始まった。

はじめに

筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis : 以下ALSと記す)は、運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害を受ける。脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなることにより、力が弱くなり、筋肉がやせていく。多くの場合、手指の使いにくさや肘から先の筋肉がやせ、力が弱くなることで始まる。話しにくい、食べ物が飲み込みにくいという症状や、足の筋肉がやせて力が弱くなる症状で始まることもある。どこから症状が始まった場合でも、やがては呼吸の筋肉を含めて全身の筋肉がやせて力が入らなくなり、身体を動かすことが難しくなる。  喉の筋肉に力が入らなくなると発音しにくくなり(構音障害)、水や食べ物の飲み込みも難しくなり( 嚥下障害 )、唾液(よだれ)や痰(たん)が増え、呼吸筋が弱まると呼吸が十分にできなくなる[難病情報センター:2023a]。  発症年齢は60代後半から70歳前後が多いが、若い人は10代、高齢では90代で発症することもある。有病率は、人口10万人当たり5人前後という統計が多く(長嶋[2019:278])、全国の特定疾患医療受給者証所持者数★01 は10,514人(2020年)[難病情報センター:2023a]となっている。病気の原因はまだ十分解明されておらず、ALS患者全体の5%程度に家族歴が認められるが、多くの場合(約95%)は遺伝しない[難病情報センター:2023a]。治療はリルゾールの内服とエダラボンの点滴が承認されているが、効果は限定的である(長嶋[2019:278])。  歩けなくなると車いすを使い、口から食べられなくなると胃ろう★02 を造設し、発話でのコミュニケーションが難しくなると意思伝達装置や透明文字盤★03などを使い、呼吸がしづらくなると人工呼吸器による呼吸の補助が必要になるなど、病状の進行に伴い身体介助や医療的ケアが必要になり、介助が増大していく。  全国の在宅ALS患者数について明らかな情報はないが、平成12年度(2000年度)の地域保健総合推進事業で、384保健所の協力のもと行った郵送調査では、ALS患者2,907名に対して入院療養中が26%で在宅療養中が70%だった[厚生労働省:2003]。その後、川村[2006]が326保健所の協力のもと行った在宅療養者のアンケート調査では、回答者833人中、家族同居者は819名(人工呼吸器の使用734名、人工呼吸器の使用なし85名)で98%、独居者は14人(人工呼吸器の使用あり11名、使用なし3名)で1.6%である。  そのため、ALSの在宅生活に関する先行研究は、家族の介護負担や、家族と同居するALS患者を対象とした、リハビリテーションや医療機器、身体的・精神的ケア、意思伝達装置などコミュニケーションにについて、支援に関わるそれぞれの立場から取り上げているものが多い。  単身ALS患者の在宅生活に関する研究や資料は少ないが、訪問リハビリテーションによる住環境の整備や転倒予防・動作指導の報告(若泉ら[2010:130-13], 高木ら[2015])、訪問看護師による持続吸引器の活用と1日複数回の訪問看護・介護保険・障害福祉制度を組み合わせた在宅生活の報告(奥村・羽鳥[2010], 進藤ら[2010])、相談員のグループディスカッションから、在宅療養継続を脅かす危機場面を抽出した報告(小川ら[2016])、在宅療養の支援体制を確立するための問題点の報告(廣島ら[2007])などがある。  小川ら[2016]は、在宅療養継続を脅かす危機として、病状進行の速さに体制整備が追いつかないこと、在宅ケアチーム形成と安定までの苦労、介護者不足による24時間介護体制の維持が難しいことなどを抽出しているが、詳しくは書かれていない。また、複数の制度を利用して在宅生活を構築していたケースでは、単身者が1人になっている時間があった[進藤ら:2010]。奥村・羽鳥[2010]の報告では、夜間だけ別居家族が介助していた体制だったが、対応困難となり自費による夜間介護が導入されていた。廣島ら[2007]も、支援費制度のサービスが保障されず介護費用に自己負担が生じており、ヘルパーによるたん吸引を認めていない介護事業所があることを報告している。  ヘルパーによるたん吸引については、平成24年(2012年)に「喀痰吸引等制度」が施行され、介護福祉士および一定の研修を受けた介護職員は、一定の条件のもとにたん吸引等の行為を実施できるようになった。しかし、24時間の介助体制を可能にする障害福祉制度の重度訪問介護★04 の利用にあたっては、近年においても患者によって支給時間に大きな格差があり[京都新聞:2019]、家族以外の介助者による24時間支援体制の構築には、制度的な課題や介助者のケア課題があると推察される。ALS患者が自治体の制度を実際に使い、介助のすべてを家族以外から得て在宅生活を始めたのは1993年で[立岩:2004]、単身者の暮らしをインタビューしまとめた著書[山崎:2006]もあるが、上述してきた先行研究や資料も含めて、発症から病状が進行していく過程で、生活に必要な制度をどのように組み立て、家族以外の介助体制をどのように構築し生活を維持してきたのか、詳しく書かれたものはない。また、独居でも生活スタイルは様々であり、上記の報告にある単身者らは、家族が近くにいて交流し、生活の一部に関わっていた様子もある。  一方、著者が調査した単身ALS患者Sは、事情により家族とは離れた場所で暮らしており、家族も病気を患っていたため、日常で交流する機会がなかった。次章「Ⅰ. 支援するまでの経緯」に記す通り、Sの在宅生活の再構築に向けて、調査しながら支援を始めた。だが、病状の進行と複数の制度の狭間でSも支援者も翻弄され、24時間の介助体制がやっと整っても、病状が進むたびに必要なコミュニケーション手法や医療的ケア、身体介助が変わることで新たな体制が求められ、Sの思いと複数の支援者の思いが時にぶつかり合い、崩れかけては何度も立て直すうちに、がんを併発して治療を受け在宅で最期を迎えた。  その調査期間は、2008年3月~2013年10月(本稿では2008年3月22日~2008年6月10日)と長期に及び、筆者は在宅生活の調整役として、Sや様々な立場の支援者との間に立ち、在宅生活を見聞きしてきた。そのため、これまでの先行研究や報告には触れられていない、複数の制度下の支援者やインフォーマル支援者らの相互関係や支援課題についても、本研究では報告する。  筆者の調査は10年前に行われたものであり、その間に例えば、筆者の居住区では24時間の介助体制を可能にする重度訪問介護サービスを提供する介護事業所も増え、単身ALS患者を支援してきた地域の医療・福祉職から、重度訪問介護を利用するALS患者の話もよく聞くようになった。同時に、本稿や続稿で記す支援課題が、10年経った今でも変わっていない現状にも遭遇する。正確にいうなら、10年前に単身ALS患者の支援を経験した者とその経験がない者とで、同じ地域にあっても支援に格差が生じることを実感するようになった。それは例えば、本稿で報告していることとも関係しているが、全国的に少ない単身ALS患者の在宅生活の調査内容を改めて整理して示すことは、単身者が増えている社会構造からも意義があり、支援が不足している当事者と支援する側にとっても意義があると考えた。そこで、本稿では、単身ALS患者の診断後の在宅生活の経過から、在宅生活再構築の支援に至るまで、どのような困難が生じていたのか明らかにする。

Ⅰ. 支援するまでの経緯

2006年4月~2008年3月まで、筆者は重度認知症・難病デイケアと外来診療が併設されている診療所で看護師として働きながら、立命館大学・大学院応用人間科学研究科に通っていた。修士論文では、国立病院に入院中の筋ジストロフィー患者3名(53歳~69歳の男性)を対象に、SEIQoL-DW(個人の生活の質評価表)を用いてQOL調査を行った。3名とも自力での移動が困難な状態であったがQOL値は高く、自分にとって重要な領域が満たされているかどうかがQOLに影響していることが、調査から明らかになった。季節ごとにある院内行事の語りからも充実した入院生活がうかがわれたが、筆者は3名ともが発した「永久入院」という言葉が心に残った。若い頃に楽しんだ友人との旅行や自宅での思い出を懐かしそうに話しながら、時折、遠くに視点を置いて寂しそうな表情を見せる。入院してもなお家族の介護負担に負い目を感じており、「家族のために永久入院できる場所が見つかった自分は幸せだ」と語っていた。この人たちは入院するまでどんな暮らしをしていたのだろうか、もう家族と一緒に暮らすことができないのだろうか。全身の筋力が衰える難病患者の在宅生活に問題意識を持つようになったのは、この調査がきっかけだった。  修士論文をまとめて「SEIQoL-DWから捉えた個人のQOL――筋ジストロフィーの病いを伴う人の語りから」(西田[2007])提出し、借りていた本を返却するために大学の図書館に行くと、本棚に並んでいた分厚い本が目に留まった。タイトルは『ALS――不動の身体と息する機械』(立岩[2004])。その本には、調査対象者と同じように原因不明で有効な治療法がなく、全身の筋力が衰え、人工呼吸器の補助が必要となるALS患者の生存に影響する諸問題が書かれていた。筆者が勤めていたデイケアにも数は少ないがALS患者が通っていたことがある。人工呼吸器装着前の患者2名は自宅でたんを詰め亡くなったと聞いた。人工呼吸器を装着した患者は1名いたが腎不全で亡くなった。当時、デイケアに長期間通うALS患者はおらず、看護師は主にたんの吸引など医療的ケアに関わるばかりで、患者個人の生活には深く関わったことがなかったため、衝撃を受けた。同時に、修士論文の調査対象者も思い出され、患者の意思決定や語りの背景にある「語られないこと」を研究したいと思い、立命館大学先端総合学術研究科への進学を目指した。  勤務先のデイケアの医師(以下A医師と記す)から、一人暮らしのALS患者のことについて聞かされたのは、その進学が決まったあとの2008年3月上旬のことだった。A医師の話によると、「最近デイケアに通うようになった独居のALS患者の状況が厳しい。家で暮らしたい、生きていたいという思いがあるのだが、離婚しており家族の中で交流があるのは娘だけ。その娘も病気で介護ができないので、(病院で確認された)事前指示書★05 には人工呼吸器を装着しないとサインをしている」ということだった。療養型の施設に入所の申し込みをしていたが、その時点で空きはなく、A医師は本人の思いを知っているだけに、今後の対応に戸惑っていた。筆者は進学予定の大学院の情報をウェブサイトで事前に調べた折に、その患者と同じ市に独居ALS患者が暮らしており大学院の研究者らが関わっていることを知っていた。その情報をA医師に伝えると★06、大学院とつなげて欲しいと依頼を受けた。勤務先のデイケアで一人暮らしのALS患者に話しかけたのが、以下の報告の主役となるSとの最初の出会いであり、本研究のはじまりだった。

Ⅱ. 研究方法

Ⅱ-1. 対象者

Sは電機メーカーに長年勤務していたが、診断されたときはタクシーの運転手をしていた。病気の症状が現れたのは2006年の夏頃からである。左手の握力が低下し感覚も鈍くなり、近くの病院を受診したが、原因が分からず経過観察となった。その後、症状が徐々に悪化し、自転車で転倒するなど日常生活に支障を来すようになったため、2007年5月に他の病院を受診した。その病院でH病院を紹介され、同年の6月に検査入院をし、ALSと診断された。  7月の退院時に退職し、要介護度2の認定を受けて、訪問介護と訪問看護を利用しながら自宅で生活をしていた。同年12月に胃ろうを造設するために再入院し、2008年1月に退院となった。ALSを発症する前からSは一人暮らしをしており、家族の支援が得られず入所する施設もないまま症状が進んでいたため、2月中旬より著者が勤務していた診療所のデイケアに通所するようになった。

Ⅱ-2. 研究方法と研究期間

生活実態を把握するために、Sが過ごした場所(後述)に滞在し、2008年3月~2013年10月まで参与観察を行い、見たり聞いたりしたことをメモに記録した。本研究ではメモ以外の記録物として、介助ノート(申し送りノート)、介助マニュアル、カンファレンス記録、サービス計画書をSの承諾を得て用いた。また、Sに関する情報提供の資料は、Sと筆者が勤務していた診療所に許可を得て用いた。本稿では2008年3月22日~2008年6月10日の資料を用いている。  「Sが過ごした場所」とは、自宅、デイケア、病院、外出先である。デイケアでは筆者は看護師という立場でSと関わっており、それ以外の場所では在宅生活の構築/継続のための支援者として関わりながら記録をした。生活実態のまとめ方については、記録物を時系列に振り分けSの年表を作成し、その在宅生活に関わる複数の者たち相互の間でどのような困難が生じていたのかをまとめた。なお、本稿における「介助/介護/ケア」という用語に関しては、身体障害に対する日常生活サポートの同義語として、文脈に応じて「介助」「介護」「ケア」を用いる。

Ⅱ-3. 倫理的配慮

研究に関する説明書に沿って、研究目的・方法・倫理的配慮についての説明を行い、自署が困難であったため代筆者による署名によって同意を得た。本稿で使用している介護ノートや在宅生活に関する記録物の開示については、生前にSから承諾を得ており、これまで報告した論文は全文を確認してもらっている。筆者はSにとってデイケアの看護師であり支援者という立場でもあったため、研究の依願や継続を拒否しにくい可能性はあった。その点については確認しながら十分に配慮したつもりであり、S自身が「同じ境遇のALS患者のために、自分の在宅生活の大変だったことも含めて残して欲しい、それがあとに続く人のためになるから」と希望していたことを記しておきたい。筆者がその役割を託されていた記録も残っている。  本研究の記述と分析は、独居ALS患者の在宅生活の構築と生活を継続するための過程で、筆者が看護師をしながら支援者として関与した中で目に映った限りの知見に基づいており、そうした意味では、必ずしも中立的な観点からのものではないという限界がある。  同時に、以下の章で詳細に記述し分析していくように、独居ALS患者の在宅生活を安全かつ快適に営むために必要な体制を構築して続けていくには、既存の制度に多くの壁が存在したこともまた事実である。そこでは、既存の制度に介入せざるをえないこともあったが、本稿では介入された立場からの多角的な分析までには及んでいない。しかし、様々な場面で聞いた発言や対応は各々の職務としてなされているものとしてその背景に着目して記述し、施設名や個人名を伏せるなど、できる限りの配慮を行った。Sから聞いた言葉については、Sからはそのように聞こえ、受け止められていたという「事実」として、本稿ではそのまま記載している。

Ⅲ. 診断後の在宅生活の実態

Ⅲ-1. 発症後の経過

発症後の経過を表に示す。

表1_西田
表2

Ⅲ-2. 生活実態

3月・出会い

2008年3月22日、デイケアの正面玄関から入ってくる利用者を受け入れていると、高齢者の中に混じって比較的若い年代の人が送迎車から降りてきた。左足を引きずりながらうつむき加減で一歩ずつ歩いている姿を見てSだとすぐ分かった。傍に駆け寄り声をかけると、しかめ面から涙がこぼれた。テーブル席まで付き添い話を聞くと、「痛みと痙攣で夜が眠れない、身体が日に日に動かなくなっていく、食事が喉を通らない」と言い、診断されてからの経緯についても話し始めた。「身体の異変に気づいてから診断までに1年かかった。診断後は病気のことを調べたり、書類の手続きなどで何度も役所を往復したが、思うように身体が動かず、投げやりな気持ちになってしまう。(診断された病院の)先生に『家族がいないと人工呼吸器の装着は難しい』と言われ、(人工呼吸器装着の意思表示の)用紙には『しない』とサインした」と話した。

「一人暮らしやし、家族には頼れないから、迷惑をかけたくないから、あー書くしかなった。仕方ないんや」と言われたあと、病院の献体に申し込みをしていることを誇らしげに教えてくれた。「この身体ではそれぐらいしか役に立てんやろ」と苦笑いするSに返す言葉がなかった。沈黙が続いたあと、筆者が「介護する人がいたらどうですか?生きられる環境があれば?」と尋ねると、「そりゃー生きたい、誰でも生きたいやろ」とSは言った(西田[2009:168])

このとき、筆者はALS患者の生存が家族介護に委ねられている現実を目の当たりにした。ただ、同じ市には独居で暮らすALS患者がいたのでSにそう伝えると、驚いたような表情で筆者の顔を覗き込んできた。この時点では、どのような方法で一人暮らしを続けているのか知らなかったため、「家で暮らしていけるか一緒に考えてみましょうよ」と声をかけると、Sはうなずいた。  カルテから2008年3月1日作成の週間サービス計画書を確認すると、要介護度3の状態で、訪問介護は週6日、1日30分~1.5時間入っており、訪問看護は週3回、デイケアは週2回で、病院受診は月に1回、往診は月に1回だった。2008年1月23日にケアマネジャーから届いていた情報提供書には、「左手指は拘縮しており力が入らず、右手も筋力低下があるので細かな動作ができない。上着の着脱やズボンの上げ下ろしが難しく、下肢の筋力低下からふらつきが著明」であること。また、「本人は生きていたいが周りの状況(家族に頼れない)をみると不可能であるからと思われており、弱気になり精神的にも不安が大きい」と記されていた。  Sから聞いた話をA医師に報告すると、A医師はケアマネジャーにカンファレンスの提案をし、介護時間を増やすように指示をした。その後、カンファレンス日程が決まり、車いすも導入されたが、訪問介護は水曜日が1.5時間増えただけで他は変わらず、金曜日は訪問介護が入っていなかった。

4月・つなげる

A医師から大学院とつなげて欲しいと依頼されていたことを思い出し、筆者は立命館大学先端総合学術研究科の歓迎会(2008年4月5日)で名刺交換をした川口有美子の情報を伝えた。川口はALSの母の介護を機に介護事業所を立ち上げ、日本ALS協会★07 の理事をしていた。大学院ではALSの倫理的・制度的課題の研究をしており、市内の独居ALS患者の在宅生活にも関わっていた。A医師は4月16日に行われることになったカンファレンスの場で主治医の交代を病院の医師に要請しようと考えており、その前に「独居のALS患者にどのような支援が必要なのか知りたい」と川口とのコンタクトを希望した。その旨を川口に伝えると、「転倒しやすい時期で危険であるため早急に在宅体制を立て直した方がよい。東京や市内の独居ALS患者の情報やネットワークも紹介できるため、S本人が自分に会いたいか確認して欲しい」と言われた。  Sに確認するとすぐ承諾したが、A医師はケアマネジャーの職域を侵さないよう配慮しており、筆者にカンファレンスまで専門職以外が支援に介入するのは控えるように言った。しかし、その後も訪問介護の時間は増えず、Sは自宅で転倒を繰り返し、後頭部の打撲や顔面の裂傷で、救急車で搬送されることもあった。自宅で居る時間を少しでも短くできるようにデイケアの回数を増やす方向で検討されたが、Sは食事を口にしなくなり、身体の痛みや痙攣、動かなくなる身体への不安に涙することが多くなった。  A医師は緊急入院できる病院と長期入院できる療養型の病院を確保し、Sに主治医交代の承諾を得て、人工呼吸器の装着と療養場所の選択を求めた。しかし、Sはうなずくだけでその場では答えられず、A医師より「カンファレンスの日まで自分の考えを言えるように準備しておいて欲しい」と言われていた。筆者は転倒を繰り返している自宅の様子が気になり、SとA医師に承諾を得て、2008年4月12日に自宅を訪問したが、そこで見たSの在宅生活に衝撃を受けた。

暮らしぶり

部屋には医療や福祉の書類や請求書、領収書が散乱していた。請求書を眺めながらSは「なにがなんやら、よー分からんのや」と混乱している様子だった。数枚のメモ書きを手にとると、発症からの経過や公的手続き、入金などが詳しく書かれていたが、月日とともに筆跡は崩れており、2008年2月以降は空白になっていた。そのメモ書きを眺めながら、Sは自身の経済的事情について話した。

「診断後は生活保護で暮らしてたんやが、傷病手当が入るようになったから生活保護を打ち切られて。月に16万ほど生活費はあったが、傷病手当は月ごとに申請しないともらえない、字がうまく書けないし。年金は2ヶ月に一度の入金。傷病手当と年金の入金、金額も月によってまちまち。特定疾患の医療費助成は認定のあとやから、それまでの医療費や検査入院の費用は自分持ち。生活保護の引っ越しで必要になったテレビの買い替えやアンテナ、クーラーの取り付け工事、荷物の処分も多くて、金がかかった。支払いをお願いしてもヘルパーの仕事じゃないようで困った顔をされるから、無理を聞いてくれそうな人が来たときにお願いしている」(西田[2009:172])

診断の1ヶ月前までSは仕事をしていたが、発症からの医療費や入院費は自己負担で、傷病手当の申請から入金までには時間がかかり(2007年5月31日~6月20日分が、7月18日・25日にそれぞれ約6万円入金:Sの記録より)、15万円ほどの借金があったようだ。療養に必要な費用が支払えず、Sは検査入院中に生活保護を申請し、退院後は生活保護費で暮らしていた。しかし、8月から傷病手当が安定して入るようになると(月12万円~15万円)と生活保護の給付は減額され(10月分が1,528円、11月は0円、12月も0円)、解除となった。生活保護の受給で6月・7月の生活はなんとかしのげたようだが、生活保護受給に伴い引越しが必要となり、壊れたテレビの買い替え、テレビのアンテナやクーラーの取り付け工事費、不用品の処分で、借金は膨らんだ。支払いに焦りを感じていたが、領収書の開封どころか領収書を1枚裏返すだけのことも思うようにできていなかった。  1人での外出は難しそうだが、介護保険のヘルパーは支払いの代行や外出支援ができないため、無理を聞いてもらえそうなヘルパーが来たときに支払いを依頼していた。「自分にお金がないから迷惑をかけた」と、引越しの手伝いや自宅のガスストーブをくれたケアマネジャーや訪問看護師を気遣い、Sは散らばった未開封の封筒を眺めていた。Sに確認して封筒を開け、月ごとの支払いを整理していると、日本ALS協会からの封筒もあった。娘さんから患者会があることを聞き、入会の連絡をしたようだが、届いた郵便物は封がされたままだった。  室内では壁に身体を押し付け、ふらつきながら移動していた。ベッドと台所までの中間地点に置いたいすでいったん休憩し、頭と肩でドアを開けながら台所に向かった。冷蔵庫には作り置きされた食事が入っていたが、左手では皿を掴めず、肩まで上がらない右手で食事を取り出そうとして、ふらついている。冷蔵庫の横には総合栄養缶が山積みにされていた。その中の1缶を股間に挟み、口にくわえたアイスピックで缶の蓋を開け、飲み干した。ベッドサイドに置かれたポータブルトイレは、排泄物の処理が自分でできず臭いが気になるからと使用していなかった。自動採尿器は使っていたが、日によっては尿器の操作に力が入らず、失禁してしまうこともあるようだ。そんな日は、朝まで濡れたシーツの上でヘルパーが来るのを待っていた。

意思表明

4月16日、診断された病院でSも交えてカンファレンスが開かれた。参加者は病院の主治医、地域医療連携室の担当者、往診先の看護師、訪問看護師、ケアマネジャー、A医師と筆者、筆者の勤務先の相談員だった。ケアマネジャーより、退院後から現在に至るまでの経過が報告されると、次にA医師が、本人の在宅生活継続の希望により濃厚な在宅介護体制や医療管理が必要となるため、自分(A医師)が主治医をさせてもらいたいと病院の主治医に打診し、病院の主治医はそれをすぐに承諾した。その後、Sは自分の意思を泣きながら周囲に伝えた。

「今、背中の痛みと痙攣もきている。機能が低下する時は、左手も右手も足もまず痛みがきて痙攣がきて少しずつ動かなくなり、それがおさまるとストンと動かなくなる。今は呂律が回らない程度だが、この状況だと夏過ぎた頃、秋頃には呼吸の障害が強く出てくるように思う。人工呼吸器のことは、その時は何も知らなかったので、(事前指示書に)あー書くしかった。人工呼吸器をつけて一人暮らしをしている人もいると聞いたので、僕も頑張ってみたい。これからは同じ病気の人とも交流して他の人のために頑張りたい」(西田[2009:174])

A医師が訪問介護時間の増加を提案すると、ケアマネジャーより「できるだけ介護時間を増やすようにしてみますが、増やすと自己負担が増えるので。Sさんは一定の収入はあるんですが借金の返済もあるので金銭的に厳しいんです。一度は生活保護に切り替えましたが、傷病手当や年金が入るようになって打ち切られました。福祉事務所に相談しましたが生活保護の再申請は難しいようです。」と経済的課題が共有された。訪問看護師はSの栄養面と経済的困窮に配慮して、1日に処方できる数のエンシュア★08 を往診医に依頼していたようだ。  カンファレンスの終了後、A医師は「主治医になったから、これからは川口に相談しながらSの在宅生活を整えていきたい」と力強く言った。筆者はその後、Sと保健所に電話をした。難病患者の地域支援は保健師が中心となり支援していくと川口から聞いていたが、カンファレンスの場にはおらず、Sからも特定医療費の申請のあと2、3回ほど自宅に来ただけと聞いていたからである。電話でSの現状を伝え訪問を依頼すると、保健師は進行の速さに驚いており、「自分は5月に部署移動があるため、外出の問題などに対応できる窓口を探しておく」という返事をもらった。

入院

カンファレンスのあと、ケアプランの変更を待ったが介護体制が変わった様子はなかった。A医師とともにデイケアに勤務していた医師からは、「Sの転倒や栄養状態がよくないことからも、このまま自宅での生活をするのは危険である。在宅環境がすぐに整わないのであれば、その間、入院してはどうか」と提案があった。しかし、「在宅体制の目処がつかない状況での入院は依頼しにくい」とA医師は躊躇しており、再度ケアマネジャーに連絡していた。  その2日後、Sは自宅で再び転倒し、頭部打撲と左肋骨を強打した。「転倒しやすいからできるだけ動かないように」という医師の助言に対し、「身体の動きが日によって違うし、自分で動かなければ生活できない」とSは言っていた。診察の結果、左肋骨骨折の疑いがあり、打撲の精査・治療および在宅体制の再構築目的で、A医師はB病院に入院を依頼し、4月30日にSは緊急入院となった。

5月・障害福祉制度

入院後にデイケアでカンファレンスが開かれた。参加者は、A医師、筆者、デイケアの相談員、保健師、居住区のケースワーカーだった。ケースワーカーは保健師が声をかけ連れて来ており、他のメンバーはこの日初めてケースワーカーと会った。A医師がSの現状について参加者に説明すると、ケースワーカーは「至急介護保険を最大限に上げてください。足りない部分を支援費★09 で補っていきますので」と言った。ケアマネジャーは「お金のことが問題。Sさんはお金が入ると無理な返済をするので」と言い、筆者は「介護保険を最大限使わなくても必要に応じて障害サービスが使えると研究者から聞いた」と伝えた。しかし、ケースワーカーは、「そのような制度関係は聞いたことがない、お金の問題は社会福祉協議会に依頼して金銭管理をしてもらうことも可能だが、1時間1,000円~1,500円の費用がかかってしまうから」と言い、その場では経済的課題の解決策が見つからなかったため、1ヶ月の入院期間を想定し、介護保険の要介護度区分を変更することになった。Sが負っている過重な出費は前回のカンファレンスでも周知されていたため、筆者はSの自宅に届く書類や月ごとの収支を整理し、家電販売の個人商店に分割払いの見直しや、有料の衛星放送契約を2社から1社に減らすことをアドバイスすると、翌月からの負担額は減った。  一方、川口からは、独居ALS患者は全国的にも少なく、在宅生活の再構築には時間を要するため、既存の制度が利用できるまで研究費を活用することも可能だと言われた。具体的には、「介護保険の区分変更や障害福祉サービスの重度訪問介護の申請から介護時間の給付、ヘルパー派遣までには数ヶ月かかることもある★10。そのため、体制が整うまでの間は学生が研究費★11 を使ってSの身体介助をしながら必要な支援をリサーチし、重度訪問介護が給付されたら制度を使い、その学生が継続して介助を担う。重度訪問介護は3日間で資格が取得できるため、大学生でもバイトしやすい」という内容だった。実際に、東京には学生ヘルパーも含めた24時間の介助体制を構築し、一人暮らしをしている人工呼吸器装着ALS患者がいるようであった。

決意

この提案をSは直ちに承諾したが、A医師は「特別扱いや過剰な支援は駄目。そこまでしてくれたから生きるとなったとき誰が責任をもって彼を支えていくのか。Sは人工呼吸器を着けることにまだ揺らぎがある。本人が強い意志を持たないと無理だ」と筆者に言った。筆者は「今は在宅生活の体制について検討をしている。生活の見通しがない過酷な生活環境の中で人工呼吸器の選択を迫るのはフェアな選択ではない」とA医師に伝えた。  その翌日、A医師は研究事業での支援に承諾したが、条件として「Sから人工呼吸器を着け生きていく、研究に協力し支援を受けるという言葉を聞いてから」ということだった。そのため、筆者はA医師と一緒にSが入院している病院に行き、Sに人工呼吸器装着と研究の承諾についての意思を再度確認すると、以下の返答があった。

「(診断された)病院では生活していける情報がなかったので、(事前指示書で確認され人工呼吸器は着けないと)そう言うしかなかった。でも、もし生きていけるならやっぱり生きたい。人工呼吸器をつけて頑張ってみたい。これからは、同じ病気の患者さんともっと交流したい。同じ状況の患者さんに役立つことがしたい」(西田[2009:179])

病院のカンファレンスでもSは伝えていたが、人工呼吸器を装着し生きていくことを決めた背景には、同じ病気の人と交流し、同じ状況の患者に役立つことがしたいという思いがあったからだった。研究に協力しようと思ったのも同じ気持ちからだった。筆者はSから、診断された病院の待合室で出会った女性の独居ALS患者のことを以下のように聞いていた。「独り身の自分たちには死ぬ選択しかないんだねと言い合った。その患者が今どこで何をしているのか気になる。患者は分からないから専門の勉強をしてきた人に相談する。その人に相談して難しいと言われるともう無理だと思ってしまう。独り者でも生きる可能性があるのなら、同じ状況の患者も救いたい」。筆者は再度、Sに研究と支援の説明をし、同意を得た。

家族の思い

娘にも会い、これまでの経緯と今後の説明をしたところ、Sからはすでに聞いている様子だった。「父が『おまえには迷惑をかけないから、人工呼吸器を着けて生きていこうと思う』と言っていました。以前より明るくなって前向きでしたが、これから先のことをどこまで考えているのか、他人に迷惑をかけないだろうかと戸惑いもあります。でも、父が頑張るなら最終的には父の人生なので思うようにさせてあげたいです。病院で人工呼吸器や介護のことを確認され、自分の病気のこともあるので、考えに考えた末、『無理です』と言ってしまって。自分が父を見殺しにするんだと何度も自分を責め辛かったです。それから体調を崩して入院していたので、やっとお見舞いに来ることができました。自宅から父の家までが遠いので、どうか父のことをよろしくお願いします」と、筆者に向かって深く頭を下げ、病室を出た。

6月・インフォーマル支援者

その日を境に、大学院の研究者や支援者がSと関われるようになり、在宅生活の立て直しに向けて動き始めた。まず、A医師も筆者も単身ALS患者の在宅生活に必要な制度や支援について知らなかったため、川口の招きに応じて東京在住の単身ALS患者H宅を訪れ、在宅生活の様子を見た。そこではH専任の学生ヘルパーが2人体制で介助をしていた。東京では重度訪問介護従事者研修★12 にも参加し、京都の単身ALS患者Kの支援者とも話ができた。同じ患者と交流したいというSの思いを伝えると、その後、単身ALS患者Kと支援者らがSの入院先に面会に来た。  Kは気管切開をしており発声ができないため、ヘルパーが透明文字盤を使って文字を読み取った。「にゅういんせいかつはどうですか」とKが尋ねると、Sは看護師のケアについて不満を漏らし、福祉サービスについて「障害手帳3級ではバスの無料券が出たが、いろんな手続きが一度で終わらないので、不自由な身体で何度も役所に足を運ばなければならなかった。1級になるとタクシーの無料チケットをもらえたが、そのときはもう一人では外出できなくなっていた」と話していた。  数日後、川口も病院に面会に来て、Sに研究について説明をし、転倒に気を付けること、コミュニケーション手段を獲得していくこと、外出ができるように自分でバスの時刻などを調べておくことなどを伝えていた。大学院では、川口と立岩真也から、単身ALS患者Kの研究と支援に携わった研究者の堀田義太郎、長谷川唯、山本晋輔を紹介され、介助のアルバイト学生4名(学部生3名、大学院生1名)も、立命館大学の教員の紹介で見つかった。研究者の堀田・長谷川・山本、そして筆者は、Sの在宅生活をリサーチしながら支援をしていくことで合意した。

Ⅳ.まとめ

診断後にSは、病院の医師から「家族がいないと人工呼吸器の装着は難しい」と伝えられ、事前指示書に(人工呼吸器の装着は)「しない」とサインをしていた。退院後は、介護療養型医療施設に入所の申し込みをしたが空きはなく、在宅で病状が進んだ。利用していた介護保険サービスは、ケアマネジャーがSに経済的負担がかかることを慮って必要なサービスを受けられていなかったが、Sの生活苦の背景には、生活保護受給に伴う引越しで生じた諸費用、療養や失業に伴う複数制度の煩雑な手続きや収支管理、身体機能の低下に伴う外出支援の欠如があった。  また、全身の筋力が低下していくALSの在宅生活においては、障害福祉制度の利用も可能だが、Sは発症から障害福祉サービスの情報提供をされておらず、診断から関わっていた専門職も利用可能なサービスを知らなかった。デイケアの医師から相談を受けた筆者が、単身ALS患者の在宅支援に関わった川口を紹介したことで支援の可能性が見えたが、他職種の職域への配慮からインフォーマル支援の介入には時間がかかり、その間にSは緊急入院となった。  入院後にケースワーカーが介入したが、経済的課題は解決されないまま、介護保険を最大限活用し、足りない場合は障害福祉制度を利用していく流れとなる。一方で、障害福祉サービスの申請から給付時間の決定、ヘルパー派遣までに時間がかかることを経験的に予測していた川口から、研究費を活用し既存の制度につなげていくプランが提案され、医師の承諾を得るかたちで、インフォーマル支援者がSと交流できるようになった。  このように、単身ALS患者の診断からの在宅移行、その後の在宅生活でも医師が主導権を握っており、限られた専門職の情報や職域への配慮からインフォーマルな支援が入りづらく、Sにとって必要な情報や支援のタイミングが遅れた。在宅生活の再構築に向けた支援が始まったのはSの緊急入院中のことだった。