1. 国立療養所の設立
1-1. 国立施設としての国立療養所
国立療養所は厚生省設置法(現在は廃止)のなかで「特殊の療養を要する者に対して医療を行い、あわせて医療の向上に寄与する機関」と定められている国立施設のひとつである。病床を持つ施設であり、国立病院に含まれている。1947年に来日したワンデルを団長とするアメリカ社会保障制度調査団では、国立病院について次の通り述べている。
国立病院はその受けた医療に対して支払い能力ある患者からは料金を徴収し、相当数の保険患者をも治療するが、経常費の80%は、一般歳入から補助せられるからである。これらの病院は、主として低収入の人々に医療を与えることに従事しているのであるが、その現患者の約50%は戦時中に受けた慢性的疾病のための医療手術を受けている旧軍人から成っている。(社会保障研究所1968:56)
国立病院は一般病院と異なり公費が投入されているため、応能負担による低廉な診療費徴収を行う病院であるとされていた。また、戦中は軍事病院であっため、戦後の1940年代後半でも半分は旧軍人であり、恩給的性格を併せ持つ病院であった。国立療養所は、以上のような性格を併せ持つ、政府方針に基づいて運営される国立の施設であったといえる。
1-2. 設立時の施設数
表1は、1945年から1949年の国立療養所における各療養所数の推移である。1945年および1946年は計40施設と変化はなかったが、1947年には141施設に急増した。これは、日本医療団のもつ施設が1947年に厚生省へ移管されたことによるものであり、詳細は後述する。
1-3. 陸海軍病院および軍事保護院の返還
1945年から1948年までの連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters、以下GHQ)の占領政策方針は「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」(1945年9月22日、アメリカ政府発表)の第一部究極の目的において示された、「日本国が再び米国の脅威となり又は世界の平和及安全の脅威とならざることを確実にすること」、「他国家の権利を尊重し国際聨合憲章の理想と原則に示されたる米国の目的を支持すべき平和的且責任ある政府を究極に於て樹立すること、米国は斯る政府が出来得る限り民主主義的自治の原則に合致することを希望するも自由に表示せられたる国民の意思し支持せられざる如何なる政治形態をも日本国に強要することは聨合国の責任に非ず」といったことから、一般的に非軍事化・民主化であったと考えられている。実際に、GHQは非軍事化として、軍や政府の指導者に対する裁判および公職追放、民主化として治安維持法の廃止や満20歳以上の男女に対する選挙権の付与などを行った。 このような占領政策が行われるなか、旧陸海軍病院や傷痍軍人医療施設である軍事保護院はGHQの監督下に置かれていたが、1945年9月22日のGHQ覚書「公衆衛生対策に関する件(SCAPIN 48)」により、まずは一般病院等の再開が指示された。その後、民主化・非軍事化が進められる流れで、旧陸海軍病院および軍事保護院の処理についても検討されることになった。『国立病院十年の歩み』によると、「政府は当時の混乱した社会情勢及び予想される海外よりの大量の復員者、引揚者の医療対策等を考慮し、占領軍に対し陸海軍病院等の返還を求め」た。その結果、軍事保護院は11月13日に「軍事保護院」覚書により、陸海軍病院は11月19日に「日本帝国陸海軍病院」覚書によりGHQから日本政府に返還された(厚生省医務局1955:5-6)。このように一般病院の再開だけでなく、国立の軍医療施設も早期に返還された背景については、終戦直後の劣悪な公衆衛生環境や医療が必要となる多くの日本人の存在だけでなく、GHQの占領方針であった非軍事化・民主化も返還を後押ししたと考えられる。旧日本軍の医療施設を早期に軍から切り離し、戦中は軍関係者のみであった患者を、軍関係者以外も利用できる一般病院への変更が目指されたと言える。
1-4. 厚生省への移管
1945年11月に、日本政府へ返還された軍事保護院および陸海軍病院は12月に厚生省へ移管され(内務省から厚生省へ移管)、政府は厚生省に外局として医療局を新設した。そして、医療局が管掌する医療施設として、陸海軍病院は国立病院へ、主に結核の傷痍軍人を収容していた軍事保護院は国立療養所へと編制された。これにより国立療養所は、結核療養所が36箇所、ハンセン療養所が10箇所(沖縄を除いて全国に9箇所あった療養所と軍事保護院から移管された1箇所)、精神・頭部療養所が計3箇所(頭部療養所は1950年に精神療養所と統合し、精神頭部療養所に再編成。その後、1957年に精神療養所に名称変更)、せき髄療養所が1箇所、温泉療養所が10箇所(温泉療養所は1950年から国立病院に転換)、保育所2箇所(その後、病院の分院へと転換および他施設に転用)として発足した。 1945年12月17日から開催された国立病院長及び国立療養所長事務打ち合わせ会議において、塩田医療局長官は業務運営に関しての留意点として、次の通り5点を挙げている。第1は「新事態に即応する頭の切り替えについて」として、軍事病院・施設だった国立病院・療養所の一般国民への開放を実現すること、第2に病院・療養所の内容を充実させ「他の範とするに足る病院を作ること、第3に秩序の確立として、「博愛に基づく秩序規律の確立保持を是非とも成し遂げて戴きたい」ということ、第4に地方実情の把握、第5に医療局出張所などとの緊密な連携である。このような長官の発言には、「職員及び患者の殆どすべてが旧軍人軍属であつたため、軍病院の気風がそのまま存続するおそれがあり、かくて国民がこれになじまず、国立病院として一般に開放せられた意義を失うことを憂えた」という背景があった。(厚生省医務局1955:58-60)。それゆえ、特に数ヶ月前まで軍属であった設立当時の国立療養所は、一般市民には馴染まない強固な上司と部下のような上下関係や、命令口調の態度、厳しい団体行動の規則などが残っていたと考えられる。このような状態では、一般市民が入院しても心と体の安静を保つことは難しく、一般市民を受け入れるという国立病院・療養所の意義を果たすことができない。そのため、長官は業務運営の留意点として、博愛に基づく秩序規律の確率などを訓示したと考えられる。
2. 日本医療団の施設が国立療養所へ
2-1. 日本医療団とは
日本医療団は、戦時中の健民健兵政策を背景として、1942年に公布された国民医療法によって規定された組織である。野村(1977)によると、1940年に医薬制度改善方策が答申された後、次のような流れのなか、1942年に国民医療法が公布された。
他面臨戦態勢と不可分の関係にある、人口増強、国民体力向上の要請は漸く本格的となって、基本国策として強調されるに至り、ついに積極的に健民健兵の基調となる医療の適正と、国民体力の向上を図るべき画期的立法が断行されるに至ったのである。(野村1977:7)
国民医療法の第5章に日本医療団の創設が規定され、川上(1965)は次のように、日本医療団について述べている。
医療団は政府出資を根幹とする特別法人で、その事業は病院、診療所および産院の経営、医療関係者の指導錬成ならびにこれらの業務に付帯することを主とした。政府は医療団に5年間で一億円の出資をなし、地方公共団体はこれに病院等の現物出資ができるようにした。(川上1965:456)
政府の関わりが強い特別法人の医療組織であることから、国会では医系議員から、日本の自由開業医制度を覆そうとする国営医療組織だと強く批判された。そのため、小泉厚生大臣は日本医療団について、自由開業医制度を覆すものではなく、医師会とともに医療に関わる組織であるとして以下の通りに述べている。
日本医療団は、第一にその目的は、結核の撲滅と無医地域の解消を目標とし、あわせて医療内容の向上を図るものである。第二に業務として、日本医療団はその目的達成のため結核療養所10万床を目標に8万床を増設し、無医地域の解消を目指して必要な診療所及び地方総合病院を新設するほか、必要に応じては既存の医療機関をも移管してこれらの経営にあたり、それによって中央、地方を通じた必要最小限の医療組織体制を整備する。特殊な医療機関を統合する考えはない。―略―第五に開業医との関係については、日本医療団は開業医に協力し、その発達に寄与する方針である。―略―医療の官僚化を招かないよう十分注意していく方針である。(久下1977:31-32)
すなわち、日本医療団とは開業医と協力しながら、蔓延する結核の撲滅と無医村地域の解消を目指す必要最小限の組織であることが強調された。また、小泉厚生大臣は、「地方に診療所を設ける場合には地域の医師会と協調し、できるだけ地方の実情に沿うよう医師会の希望を入れること」という委員長からの要望に対し、要望通りの措置を行う考えであると答弁している(久下1977:31-32)。このような国会における医系議員からの厳しい批判や質疑応答の後、1942年2月に国民医療法案が貴族院を通過・成立した。国民医療法第29条では、日本医療団は、「国民体力の向上に関する国策に即応し医療の普及を図るを以て目的とす」とされた。このことに懸念を感じた日本医師会はすぐに以下のような声明を出している。
然しながら将来に於ける医療団の病院診療所設立計画が、既存開業医との関係に於ける措置の当否如何によっては、両者の摩擦は必然的であり、これに対し、小泉厚生大臣が医師会と連絡協調する旨を再度に亘って言明されたことは、医療団の将来と開業医並びに医師会との関係を明朗化したものと言わねばならぬ。我々をして端的に言はしむるならば、医療団は現下保健国策の重要問題たる結核の療養予防施設を以て専らとするのが妥当ではなかろうかと思う。―略―農村開業を極力奨励すると共に尚ほ僻地にして開業不可能なる地域に医療団の診療所又は出張診療所を設置することを適当と認むるものである。(久下1977:35)
このように医師会は、開業医と医療団の将来的摩擦を不安視したが、結核療養施設を運営する組織としての日本医療団、開業医がいない僻地における診療所などの開設については理解を示した。 小泉厚生大臣によって、日本医療団の目的は結核対策の病院・診療所の設置と無医村の解消であり、医師会と協力しながら必要最小限の医療組織を整備することが強調された。日本医師会からは日本医療団には、専ら結核療養施設と開業医がいない更なる僻地における診療所又は出張診療所の設置が促された。このような状況について菅谷は、「日本医師会にかなりの気兼ねをしている様子が、手にとるようである」と述べている(菅谷1981:129)。日本医療団は、全国的な結核対策の医療組織の設立を目的としているため、医師会本部だけでなく地方医師会との円滑な関係が必要不可欠であった。そのため、今後の日本医療団の結核療養所や診療所などを地方のどこに設置するのか、どのように運営するのか等において、政府は医師会が声明で表明したような方向性に配慮し、極力、摩擦を減らす努力が必要となったといえるだろう。
2-2. 日本医療団の設立と解散、国立療養所への編入
1942年4月に国民医療法に基づき日本医療団令が施行され、6月には総裁を稲田龍吉(当時、東京帝国大学名誉教授。後の日本医師会会長)として日本医療団が設立された。日本医療団は、結核病床の十万床計画を策定し、結核療養所の新たな建設だけでなく、全国で既存の施設を譲り受けたり借り受けたりすることで結核病床の拡充を目指した。また、無医村における診療所の開設のために、無医村対策委員会(日本医療団員および日本医師会の役員により構成)を発足させ、事業計画などを検討した。しかしながら、戦局悪化により資金だけでなく、医療物資や食糧、医療人員も足りず医療団の事業は停滞を見せる。終戦後の1946年3月末現在の日本医療団の医療施設は、運営中の施設が488箇所、39,086床であり、当初の10万床の目標には全く達していなかった(久下1977:76)。 戦後、日本医療団は、インフレによる更なる財政難や、民主化による労働組合活動の結成と活発化により、事業継続が困難になった。そのため、主務官庁である厚生省では対策が省議され、解散が決定された。『日本医療団史』(久下1977)によると、その経過は次の通りであった。
主務官庁である厚生省では、日本医療団財政の確立のために大蔵省その他関係方面と折衝を続け、その対策を練ってきていたが、21年末、省議の結果、日本医療団を解散し、その所管の結核療養所を国営に移管することとし、他の一般病院についても大体その線に沿う方針が内定され、予算の大蔵省原案においても結核療養所国営移管についての措置が認められるところとなった。(久下1977:88)
省議で決定後、1947年1月17日に日本医療団は役員などを招集し会議を開き、東龍太郎厚生省医務局長は省議の経過と結果を説明したが、参加者から同意は得られず、激しい対立がおきた。会議の際、日本医療団の解散と国営移管への動機を問われた東医務局長は、「時至れりという表現がまさに唯一の答えである。『私は天の声を聞いた』」と回答した(久下1977:89)。会議後、日本医療団は厚生省から示された解散案に反対し、同年1月20日に内閣総理大臣等に次のような反対決議を提出した。
厚生当局は今回日本医療団の結核療養施設及一般医療施設を国営に移管するのを決定をしたがこの措置たるや確たる国民医療体系を樹立することなく決定せられたものであって、各関係者に対し事前に何らの協議もなく一方的に決定されたものであり、その非民主的天下り的措置は吾々の断じて承服し難いところである。よって、吾々は左の決議をなしその即行を要求するものである。一 日本医療団全施設国営移管は白紙に還元すること。二 国民医療制度確立のため新たに広く衆智を集め国民医療制度審議会を設け本団移管の問題も同審議会に於いて決定すること(久下1977:89-90)
決議を受け取った厚生大臣は、国営移管は既定路線であり変更はないこと等を回答した後、1月24日に日本医療団の解散について閣議を請願した。同日、結核療養施設として適切なものは全て国立に移管することを含め、日本医療団の解散が閣議決定された。この一連の経過について、東医務局長は次のように述べている。
戦時態勢の下に設立された諸々の公団・営団等の組織が、連合軍司令官SCAPの命令で解散させられていくのに鑑みて、我が日本医療団も早晩同じ運命を辿る情勢にあるものと判断し、それならば一層のこと先手を打って自主解散する方が、団の職員の将来を擁護する上からも得策ではないかと考え、厚生省の指導部局であった総司令部GHQ公衆衛生福祉局PHWの意中を探るために、医務局担当のジョンソン大佐に接触して慎重に打診したところが『即刻自主解散に踏み切るを可とす』との感触をつかんだので、その旨を大臣に進言した。その結果、22年1月24日の閣議決定によって解散の方針が決定し、多数の施設のうちとりあえず、結核療養所は4月1日をもって国(厚生省医務局所管)に移管することとなった。そこで、日本医師会館の講堂に医療団関係者を集め、このことを報告して了承を求めた。その時『何故に解散せねばならないのか?』という質問に対して、私は、『それは天の声である』と答えたことを記憶している。いうまでもなく、GHQの意向とあればそれは至上命令に等しいということを言外に匂わせたつもりであった。(久下1977:158)
上記の発言を勘案すると、1月17日の医療団会議における東医務局長の解散の動機は「天の声」であるとの回答は、思いつきの回答のようにも聞こえるが、実際にはそうではなかったことが分かる。事前にジョンソン大佐に打診し、解散の了解を得ており、そのことは省議でも共有していたと思われる。よって、日本医療団の自主解散は、厚生省としては既定路線であったのだろう。 閣議決定後、厚生大臣は医療制度審議会(会長は河合厚生大臣、中山日本医師会長など含む50名の委員により構成)に対し、日本医療団の結核療養施設以外の一般医療施設の処理方針について諮問した。審議会の臨時委員であった長井(南横浜病院名誉院長、日本医療団職員組合総連合会長)によると、なかなか意見は一致しなかった。決定はGHQに委ねられ、各4案(厚生省案は地方移譲、南崎案は第二医療団の結成、後藤案は農業組合へ移譲、長井案は国立移管)についてジョンソン大佐から意見徴収が行われた結果、長井の国立移管が採択されたということである(国立療養所史研究会1976:162)。 長井の述懐では、自身の国立移管案のみが採択されたかのように記述されているが、正確には厚生省案と長井案の2つが採択されている。日本医事新報によると、GHQからは「府県で経営能力のあるものは府県営とし、他はすべて国営にする」と意向が示され、それに基づき審議した結果、国営と府県営の二本立てとすることが決定した(日本医事新報1947:13)。そして、その後の1947年6月26日の医療制度審議会答申「日本医療団一般医療施設処理要綱」においても、府県に移管ができない施設については、国営とするとされている(久下1977:97)。 以上のように、日本医療団職員による国立移管に対する反対運動などもあったが、最終的には日本医療団の結核療養施設は国立へ、一般医療施設は府県および国立へ移管されることになった。日本医療団がもつ結核療養所81箇所および奨健寮(結核軽症者を対象)12箇所の計93箇所が、1947年4月1日に国立結核療養所に移管された。その結果、表1に示したように1946年には36箇所であった結核療養所数が1947年には141箇所に増加した。
3. 病床について
3-1. 国立療養所の病床数
『昭和54年度国立療養所年報』(厚生省医務局国立療養所課1982)に記載されている、1945年から1949年の国立療養所の病床数を示したものが表2である。
ここでは病床数とは、「医療法に基づき、厚生大臣の承認をうけた病床数である。本文中に記載の病床数で特にただし書きのないのは、年末(12月末)の病床数」であると記載されている(厚生省医務局国立療養所課1982:7)。しかし、本年報には、1948年に成立した医療法施行以前の1946年および1947年の病床数も記載されている。当該2ヵ年の病床数については、厚生大臣の承認を受けた病床数という意味だと推測されるが正確なことは不明である。また、本論文において病床数を示す際に、『国立療養所史(結核編)』(国立療養所研究会1976)を用いる場合があるが、本誌に掲載されている病床数の算出方法には数種類あり、次のような注意書きが付されている。
ここで注意を要することは、病床数をみる場合、予算配賦の基礎となる病床数もあれば、職員定数算出の基礎となる病床数もあり、さらに病室の面積割で計算した病床数もあれば、前述した33,001床のように、現実に稼働し得る病床数もあるということである。それは、個々の資料をつき合わせた場合、不突合があり得るということを意味するが、大勢には余り影響がないので、以下の記述においても、一々その性格についてはふれないこととしたい。(国立療養所研究会1976:45)
よって、本論文で病床数を示す場合には、その典拠によっては、同年度であっても多少の差異が見られる場合がある。
3-2. 病床数の集計について
国立療養所は1945年に発足しており、施設数は表1に示した通りであるが、同年の病床数については不明となっている。精神・脊髄療養所については、1948年まで病床数は不明となっている。その理由としては、終戦直後は日本全体がまだ混乱期にあり、国立療養所も設立されたばかりのため必要最低限の日常業務で手一杯になり、病床数の集計まで行えなかったこと、統計に関する業務は重要性が低く置かれており後回しにされがちだったことが考えられる。GHQの公衆衛生福祉局長であったクロフォード・F・サムス(Crawford F. Sams)は後年、回想記において終戦後の統計業務について、次のように述べている。
しかしこの統計年鑑が出版されるのは事実が発生した時点よりも数年も遅れることがあった。したがって日本では私が述べたような統計資料の有効な利用方法、すなわち統計資料を医療問題の吟味、疾病の予防・治療対策などのプログラム作成のための道具として利用することはできなかった。―略―このような報告システムをつくり上げることは途方もなく大仕事であった。―略―また、厚生省内にも衛生福祉統計課を設置する必要があった。このような努力の結果、日本において世界でもっとも完全かつ有効に機能する全国規模の衛生福祉統計報告システムが誕生したのである。―略―厚生省衛生福祉統計課は保健・衛生・福祉などに関する多くの統計調査を行なった。たとえば病院制度の拡充計画のための医療施設の利用、医者や看護婦や病院の配置に関する調査、またわれわれがつくられた生活保護法や児童福祉法を実巣する際に利用するための福祉統計の業務などがこれである。(Sams 1986:207-212)
以上から、戦前の日本では統計業務に対する重要性が低かったことや、終戦後にGHQが厚生省に統計業務の基本的システム作りを指導することで、医療福祉に関する各種のデータ収集もできるようになったことがわかる。したがって、厚生省が管理する国立療養所の病床数についても、終戦直後はあまり必要なデータだと思われていなかったため後回しとなり、一部が収集できなかったのではないかと思われる。しかし、GHQの指導において各種統計の必要性が認識されるとともに、以前より簡便で正確に収集できる基本的システムが構築されていった。さらに、年を経るごとに終戦後の混乱も収まり、ようやく1940年台代後半から国立療養所においても病床を集計する業務に時間を割く余裕ができたのではないだろうか。国立療養所の病床集計について、『国立療養所史(結核編)』(国立療養所史研究会1976)では、次のように述べられている。
国立療養所年報が、漸く、昭和24年度から発行されたのをみれば分るとおり、戦後の混乱は23年頃までつづいたと考えられる。同年7月、尾村偉久が国立療養所課長に就任した。漸く、その頃になって、療養所紛争もやや落着き、徐々に国立療養所の運営の構想が取り上げられ始めた。その際まず考えられたのは、国立療養所の稼働し得る病床数は、現在何床であるのかということであった。そして、漸く、稼働し得る病床数として33,001床、小整備をすれば、稼働し得る病床8,744床、大整備をすれば稼働し得る病床11,347床という数字が得られた。(国立療養所史研究会1976:44)
上記においても、終戦直後は混乱が続いており、療養所内での紛争もあったため、国立療養所の運営構想と実際に使用できる病床数の集計は1949年頃から取り上げられ始めたのではないかと指摘されている。
3-3. 病床数の増加
表1において国立療養所数を示したが、9割が結核療養所であり、1947年に日本医療団の施設が国立療養所に入ることで、国立結核療養所数が36施設から141施設へと約4倍に急増した。そのため、表2において示したように、施設数ほどの増加率ではないが、病床数も1.2倍増となった。また、日本医療団の施設だけでなく、1947年から1949年の間に14箇所の国立病院が国立結核療養所へ転換された。このように結核療養所の病床数は毎年継続的に増加した。その背景には、GHQの指示による日本政府の結核対策の推進がある。 終戦直後の1945年9月にはGHQ覚書「公衆衛生対策に関する件」において、伝染病患者の検診・隔離・入院の処置をとることと、結核療養所の再開と継続が指示された。これに対応するため、厚生省は1947年3月14日付で結核予防対策の拡充計画を提出した。これを受けてGHQは、「結核対策強化に関する覚書」を出し、結核病床の増床を指示した。常石は、「GHQ/SCAPのねらいは患者の発見と隔離、そして入院=治療であり、そのための『結核対策』強化なのだが、厚生省の回答では『結核予防』しか眼中になかったようだ」と、GHQと厚生省のすれ違いを指摘している(常石2011:111)。その後、厚生省は予防だけでなく、入院と治療にも取り組み始めた。1948年には実際に稼働できる国立結核療養所の病床を集計し、その結果を国立結核療養所整備計画として次のようにサムスに提出した。
資料は『国立結核療養所整備計画』としてサムス大佐に提出され、折り返し、サムス大佐から連合国軍最高司令官の名で『覚書』が発せられた。それは具体的に国立療養所を増床せよということを記したものでは無かったけれども、直接、国立療養所課に手交されたものであるだけに大蔵省との予算折衷に使われ、整備予算の獲得に大いに役立った。当時はGHQの覚書は『お墨付き』という名で呼ばれていた。(国立療養所史研究会1976:44)
『国立療養所年報』によると、1949年の全国の結核病床に占める国立結核療養所の割合は54.3%であった。つまり、結核病床は国立結核療養所が最も多く有していたため、日本医療団からの施設を引き継いで、既に全国に設置されている国立結核療養所の病床を増床させることが、最も対応しやすく、効率的な結核病床の増床方法であったと考えられる。
4. 入所者について
1945年に傷痍軍人を対象としていた軍事保護院36施設は、GHQの指示により厚生省へ移管されることで、新たに国立結核療養所として創設された。GHQの覚書では「日本政府は、軍事保護院のあらゆる病院、療養所、患者収容所その他病院施設の監督権を厚生省の一般市民の医療に責任を負う機関に移管すること、およびこれらの諸施設において行う入院医療は、退役軍人およびその家族に限定しないこと」(厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976:124)と、一般市民を対象とした施設への変更を指示した。しかし、以前は傷痍軍人の施設であったため、実態としては、創設時の患者は元軍人であった。 GHQによる一般市民も対象とした施設への変更の指示に基づいて、1945年12月に制定された国立療養所入所規定、1946年1月に制定された国立療養所入所規定取扱要領は、次の通り余裕がある場合には一般市民も入所できることを示した。
国立療養所入所規定(一部抜粋) 1.国立療養所に入所させることのできる者は、「国に於いて医療を為すを要する者にして」次にかかげる療養を必要とする者とする。 (1)結核性疾患(胸膜炎を含む)の療養 (2)精神障害の療養 (3)中枢神経障害の療養 (4)らいの療養 (5)温泉療養
国立療養所入所規定取扱要領(一部抜粋) 1.国立療養所入所規定第1条中「国に於いて医療を為すを要する者」とは、左記各項の1に該当する者を言う (イ)特別の公務または服務に関連して傷痍を受けまたは疾病に罹った者 (ロ)戦災者 (ハ)引揚者 (ニ)公務により傷病をえた徴用者 (ホ)その他、国において療養を必要とする者 (へ)前各号以外の者。但し前各号い掲げる者を入所せしめ尚余裕ある場合に限る (厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976:143-146)
このように一般市民は余裕があれば入所できるという限定的なものでであったため、実際の入所者は元軍関係者ばかりであった。しかし終戦後しばらくして、引き揚げ者も全国の国立療養所に入所を始めた。『国立療養所史』(厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976:154-156)によると、1945年12月1日から1950年度末までに国立療養所へ収容された一般邦人引揚者は22,343名であった。その入所者は、次のように説明されている。
これらの一般邦人引揚患者は、千島、樺太、朝鮮、台湾、南洋諸島等のわが領土であった地域又は満洲、中国等の邦人の多数在留していた近接国より還送されたもので、復員患者とは全く趣を異にし、過半数は婦女子、老齢者及び乳幼児で、その症状は引揚地域の状況により差異はあるが、結核性疾患、栄養失調症、脚気等が多く―略―引揚婦女子の中、現地において住民等の暴行脅迫により不法妊娠また性病に罹患せしめられている者が多く(厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976:154)
上記のように、一般引揚者は過半数が婦女子であったため、国立療養所のなかでも別途収容計画を立て対応した。このような引揚者以外に関係者の家族も、患者本人の世話のために付き添いとして一緒に療養所内で生活をしており、1946年7月20日現在の調査によると計1,840名の家族が国立療養所内にいた(厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976:155-156)。 1945年に制定された入所規定は、1947年に日本医療団の施設が国立療養所として運営されるようになったことにより、改定された。1945年の規定では、退役軍人や引揚者が優先されており、余裕があるときには一般市民も受け入れると規定されていた。これに対して1947年の改定版では、「国に於いて医療を為すを要する者」として定められていた「特別の公務または服務に関連して傷痍を受けまたは疾病に罹った者」などが削除された。これにより国立療養所に入所できる者は、「1.結核性疾患 2.精神障害 3.中枢神経障害 4.らい 5.温泉療養を必要とする者」となり、退役軍人などの優先入所事項は削除され、一般市民も入所が可能となった。
5. 入所費について
5-1. 元傷痍軍人の入所費の有料化
前述したように、国立療養所は軍事保護院をもとに創設されたが、軍事保護院は傷痍軍人を対象としていたため入所費は無料であった。しかし、1945年の国立療養所入所規定により、国立療養所の入所は、軍関係者が優先されるも、余裕があれば一般市民でも可能となったため、軍関係者だけではなくなったことから、原則として有料となった。国立療養所入所規定(1945年制定)では「入所に要する費用は有料とす。但し、特別の事由ありと認むるときは、これを減免することを得」として、「診療に必要な費用は有料とするが、国において療養を必要とすると認められる者または生活困窮者については、療養所長においてその負担を減免することができる」とされた(厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976:144-145)。そして、療養所の入所料の額については、国立療養所入所規定取扱要領(1946年)において、「昭和18年2月厚生省告示第66号(昭和20年11月厚生省告示第125号改正)『健康保険の療養に要する費用並に国民健康保険組合又は国民健康保険組合の事業を行う法人に請求すべき費用の額の算定方法』による」とされた(厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976:146)。つまり、健康保険に定められた額と同額の費用が請求されることになった。 1945年に定められた国立療養所入所規定は、前項で述べた通り、1947年に日本医療団の施設が国立療養所に編入されることにより改定されることとなった。軍関係者の優先入所事項が削除され、一般市民が入所可能となった。これに合わせて、次の通り、国立療養所入所費等取扱細則において、入所費の変更が示された。
国立療養所入所費等取扱細則の一部抜粋 (昭和22年7月 各国立療養所長宛 厚生省医務局長通知) 第1条 国立療養所入所規定第4条の入所中の療養に要する費用は、昭和18年2月厚生省告示第66号「健康保険の療養に要する費用並に国民健康保険組合又は国民健康保険組合の事業を行う法人に請求すべき費用の額の算定方法」により算定した額の百分の八十とする 第2条 所長は入所者の生計事情を考慮して、左の各号の額に入所費を減額することができる。 1.保険診療費の百分の四十 2.保険診療費の百分の二十 第3条 所長は入所者の中でその生計事情が生活保護法の保護対象たるべき状態にある者で、他の如何なる方法によるも療養費支出の途なきものについては、入所費を免除することができる。 第4条 所長は健康保険組合、国民健康保険組合及び各種共済組合等の団体との契約による入所者にして、生活上自己負担額の支払いに困難なるものについては、その負担額を第2条の額に減じ又は第3条により免除することができる。 (厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976:189)
このように入所中の診療費は、一般的な保険診療費から一律2割減になるだけでなく、生計事情などを考慮して所長が減じることができるようになった。このように国立療養所の入所者の診療費を減じた理由は、『国立療養所史』(厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976)によると、次の通りであった。
(1)昭和22年当時、全国における結核病床約53,400床に対し、国立結核療養所がその約6割にあたる34,400床(予算上の病床数)を占めていた状況と、結核対策推進の観点から低廉で適正な医療を普及し、国民福祉の増進を図ろうとした。 (2)社会保険における財政面への配慮として、割引実施による効果を期待した。 (3)国立療養所の中には、戦時中の傷痍軍人療養所が多く、終戦前の無料から有料に移る際の経過措置として負担軽減の親心があった。 (4)国立の医療機関は、民間のものと異なり租税負担の必要がなかったので、ほぼそれに相当する額を割引できるとした。 (厚生省医務局国立療養所課内国立療養所史研究会1976:188-189)
このなかで争点となったのは、(3)元傷痍軍人の入所費が無料から有料になる点であった。既に1945年の国立療養所入所規定において、原則として入所費は有料と示されていたが、国が療養の必要を認める者および生活困窮者の入所費は、療養所長によって減免することができた。国が療養の必要を認める者とは、前項で示したように、主に元傷痍軍人である。元傷痍軍人は、療養所長により、実態としては殆どの者が無料とされていた。 1947年の国立療養所入所費等取扱細則においては、元傷痍軍人も一般市民も区別なく、生活困窮などの場合には療養所長により費用を減じることができるとされた。しかし、今まで優先的に無料であったほぼ全ての元傷痍軍人の費用の優先的な取り扱いがなくなるため、困窮している元傷痍軍人以外は、全員、他の入所者と同じく費用が発生することになった。そのことについて、国会では何度も批判があった。例えば次のような発言があった。
徳田球一議員発言(日本共産党) しかしながら一方においては、現在結核患者が非常にたくさんおつて、その結核患者の中に、實際今無料で國立療養所にはいつている者がある。今度これが有料になる。現在無料の場合におきましても一日の食費は七圓であつて、そのために實際上結核療養には非常に食糧が足りない。しかたがないから皆私費で買つているようなわけである。しかるにこれに對して有料になると一體どうなるか。これは患者同盟から出してきている資料でありますが、調べた對象が肺結核だけで一萬人である。ところで有料になつた場合に、これがどれくらい留まることができるかというと、わずかに一〇%――一割しか留まることができない。その以外の者は皆退所しなければならないというのである。―略―一切の病氣は全部無料にすべきである。現に、このためには社會保險を擴充すればこれはできるのである。これくらいの金は、むしろこれは大やみ業者や隠匿物資からとりさえすればあるのである。何もむずかしいことじやない。ソヴイエトは現にこれは全部無料でやつておる。やれるのである。(第1回国会 衆議院 厚生委員会 第6号 1947年7月31日)
千田正議員発言(無所属) 大体國立療養所及び國立病院におる者は、今度の誤つたる戰爭の尊い犠牲者であると同時に、最も不幸な人たちが大半以上、殆ど一〇〇%まで占めておるということを、我々は常に念頭におかねばならないと思うのであります。この意味において有料、無料ということが非常に精神的に患者に響いて來たということは誠に残念だと思います。(第1回国会 参議院 厚生委員会 第4号 1947年8月5日)
徳田議員は、有料化により費用が払えなくなるため対象者のうち9割は退所しなければいけなくなると述べた。千田議員は、有料化によって元傷痍軍人や関係者が受ける精神的衝撃を述べた。このような議員発言などを受けて、東政府委員は国会において以下のように回答している。
東龍太郎政府委員 從來國立療養所と申しましたものは、終戰後特別の公務または服務に關連して疾病にかかつたもの、言いかえますと傷痍軍人、そのほかに戰災者、引揚者あるいは徴用勞務者等、これらの患者を總括いたしまして、國において醫療をなすを要するもの、そういう一つのわくをつくりました。療養所に收容の餘裕のあるものに限りまして、その他の一般の患者も入所を許しておつたのであります。從つてその當時から入所につきましては有料を建前としておりましたが、さきに申しました國において醫療を要する者については、これを免除するということでやつてきておつたのであります。―略―そうして國立療養所は從來のように國において醫療をなすことを要する者を優先的に取扱つて、一般的の者は副次的に入所を認めていたというこの方式を改めまして、廣く一般結核患者のために平等に入所を認めるという行き方に相なつたのであります。從つて入所費につきましても、以前の規定と同じく建前は有料でありますが、現在の國家財政の許す限り低廉な、なるべく安い經費として入所者の負擔をできるだけ輕くして、そうして適正な診療を行うという方針でございます。(第1回国会 衆議院 厚生委員会 第7号 1947年8月4日)
東政府委員は、国会で繰り返し上記のような回答をしている。つまり、今までは元傷痍軍人など国において医療を要する者については優先的に入所を認め、入所費を免除していた。これからは一般市民も平等に入所を認めることになったため、入所費も平等に取り扱うが、なるべく負担は低くしていく方針だ、ということである。このような質疑応答が国会で繰り返され、元傷痍軍人も一般患者と同様の入所費を徴収されることになったのである。
5-2. 入所費負担の状況
1945年から1947年の間は元傷痍軍人などの軍関係者が入所しており、実質的には入所費は無料であったが、1947年からは元傷痍軍人なども含めて、全ての入所者から費用徴収が行われることになった。このような有料化は、新しい国立療養所入所規定などにより1947年8月1日から開始された。有料化に踏み切った厚生省は、入所者の負担変化についてどのように予測していたのだろうか。この点について、国会で東政府委員は次のように述べている。
東龍太郎政府委員 まず最初に豫算の面に對してお答えいたします。國立病院の歳入豫定計算の内譯を申しましたならばお答えになると思うのでありますが、健康保險及び生活保護法の適用を受ける患者を半數の五〇%、一般の人すなわち規定の入院料を拂うと思われるもの二〇%、減額の人が一〇%、全額免除、すなわち無料の人が二〇%、合計一〇〇%。入院患者の構成をかような程度にした豫定計算をいたしております。それから國立療養所の方におきまするただいまのような構成比率でありますが、この方は無料が五〇%、減額が二〇%、後の三〇%が有料者、有料者のうちには全額負擔??全額負擔と申しますと言葉が惡うございますが、みずから拂う人もあろうし、あるいは今の生活保護法もしくは保險の方から來るものもあろうし、いずれにしても減額ならざる有料患者が三〇%。療養所の方が無料の比率は多くなつております。(第1回国会 衆議院 厚生委員会 第7号 1947年8月4日)
このような予測を厚生省は立てていたが、実際はどのような状況であったのかについて整理したものが表3および表4である。前者は国立結核療養所整備計画に掲載された数値、後者は国立療養所年報に掲載された数値で、出典や項目が異なるため単純に比較はできないが、ともに厚生省が算出した数値のため、詳細な比較は難しくても、傾向については知ることができると考える。また、表4の結核療養所の診療費については、留意点として、結核療養所には外来を設けている施設もあるため、入所費だけでなく外来費も含まれている可能性がある。 1948年、1949年ともに入所費が免除される者の割合は、厚生省が予測していた50%を大幅に下回っていた。ただし、その分、生活保護者の割合が予測より高くなっている。また、1948年と1949年を比較すると、生活保護の割合は減り、健康保険等の割合が増加している。健康保険者が増加した背景には、戦後のインフレによる健康保険組合の崩壊を防ぐため、1948年に政府が社会保険診療報酬支払い基金を創設し、支払い事務の簡素化と迅速化を図ったことが考えられる。さらに、同年、厚生年金保険法を改正し、保険料率を約1/3に引き下げるなどして、職域保険組合の設立や維持を支援したこともその一因であろう。 このように1940年代後半は、元傷痍軍人等だけでなく一般市民にも国立療養所が開放され、入所費の有料化などの変更が行われた。これは元軍関係者にとって、費用負担が大きく変わる局面であった。坂井によると、脊髄損傷者が入所する箱根療養所では、「入所料有料化に対し、箱根療養所の職員は、小田原市に対して脊髄戦傷者と全付添家族に生活保護法による生活扶助を適用するよう、申請した」、これにより生活扶助が適用されたことを述べている(坂井2019:66)。
5. 総括
以上から、国立療養所はGHQの戦後政策である非軍事化・民主化のもとで創設された施設であり、当時、最も多い死因であった結核の予防と患者の療養を目指した国立施設であったことを示した。元・軍事療養施設である軍事保護院だけでなく、特別法人である日本医療団の施設も吸収することで、日本でも有数の結核療養所となった。軍事保護院をもとに創設された施設であったことから、患者の多くは元軍人であったが、GHQの方針により、一般国民に開いた療養施設へと変化したことから、元軍人の患者の療養費が有料化されるという大きな問題が発生した。この問題は国会でも取り上げられたが、GHQの方針である非軍事化は崩されることなく、元軍人も一般国民として、その他の患者と同様の取り扱いを受けたことが分かった。以上の経過から、国立療養所の創設や運営に関して、GHQから具体的な指示が出されたわけではなかったが、各種の覚書や厚生省官僚による折衝を通して、GHQの方針は堅持されたことが示された。なお、本論文は、『国立結核療養所』(酒井:2023)に収録予定である。
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