1. はじめに
本稿では、ウェブサイト「国会議事録検索システム」を用いて、1960年代の国会議事録を「自閉症」の後で検索し、その結果を「保存発掘資料一覧」(全41件)とした上で、その一部(No1~No20)について報告する(*なお、本稿で報告する各資料の全文は、別途「arsvi.com」ホームページ内の「あすなろ学園」頁http://www.arsvi.com/o/asunaro.htm に収録する)。
1.1. 「国会議事録検索システム」で1960年代「自閉症」を検索する
・「自閉症」検索結果【全476件】(2022年12月24日現在) ウェブサイト「国会議事録検索システム」を用いて「自閉症」を検索すると、該当会議録は全476件であった(2022年12月24日現在)。 ・「自閉症」の初出【1967年5月25日】 「古い順」で一番最初にくる議事録、つまり国会議事録における「自閉症」の初出は〈No1「1967(昭和42)年5月25日 55回 衆議院 会議録 社会労働委員会 12号」〉である。 ・1960年代、「自閉症」で検索された議事録の特徴——「件数」、最も「古い順/新しい順」でみる 本稿で焦点をあてる自閉症支援の黎明期、1960年代の「自閉症」の検索結果の特徴は、つぎのとおりである。 A.1960年代の議事録は全41件である。 B.「古い順」で最初にくる議事録、つまり1960年代最初の議事録は上記で見たNo1(国会における「自閉症」初出記録)である C.「新しい順」で最初にくる議事録、つまり1960年代最後尾の議事録はNo41「1969年8月5日 61回 衆議院 会議録 文教委員会 36号」である
2. No.1(1967年5月25日)~No.20(1968年5月17日)まで
国会議事録検索システムを用いた1960年代「自閉症」の検索結果全41件を年月日順に並べて整理した。本稿ではその前半部分、No.1(1967年5月25日)~No.20(1968年5月17日)までの表を以下に示す(*後半部分、No.21(1968年8月8日)~No.41(1969年8月5日)については、別途報告する)。
それでは、つぎに表に示した議事録の詳細をみていく。 質疑応答記録のあるものは11件、【No.1、2、10、12、14、15、16、17、18、19、20】である。紙面の都合上、今回は、〈国会における「自閉症」の初出記録〉にあたる【No.1】について取り上げる。
2.1. No.1「1967(昭和42)年5月25日第55回国会 衆議院 会議録 社会労働委員会 第12号」
国会に初めて自閉症ということばが登場したのは、常陸宮夫妻臨席のもと東京都社会福祉協議会で行なわれた1967年2月26日「自閉症児親の会」設立大会の3ヶ月後にあたる★01、「1967年5月25日」のことである。 自閉症の該当箇所は2件、発言番号「022」〈竹内黎一〉、「023」〈渥美節夫〉である。 該当箇所、つまり「自閉症」というキーワードがヒットする箇所のみではその文脈が不明瞭である。このため、この問題(「自閉症」問題)に関する質疑応答が開始される「005」から、「自閉症」ということばが出現する「023」までの討議の展開過程を、以下2.2で全文引用して示す。 なお、筆者によって「自閉症(幼児自閉症、自閉様症状)」の箇所に下線部を付した。 また、「自閉症(幼児自閉症、自閉様症状)」ということばが記録されているのは7回である。
2.2. No.1の「自閉症」質疑応答に該当する議事録全文
005 箕輪登 ○箕輪委員 まず最初に、重症心身障害児についてお伺いいたしたいと思います。 重度の肢体不自由と重度の精神発達の遅滞があるいわゆる重症心身障害児の発生原因は、主として脳性麻痺といわれておるわけでありますが、脳性麻痺につきましては、妊娠中あるいは分べんに際しての管理障害がその原因の一つと考えられております。妊産婦対策を進めることによってある程度重症心身障害児の発生を防止することができると考えられておるわけでありますが、これに対しましていかなる施策を今日まで厚生省が行なってきたか、お伺い申し上げたいと思います。また、厚生省の行なった実態調査によりますと、全国で一万七千三百人と推定される重症心身障害児、並びに成人を含めますと一万九千三百名にも及んでおると聞いておるのでありますが、これらの重症心身障害児あるいは心身障害者に対して、いかなる対策が今日まで行なわれてまいったか、お伺いいたしたいと思います。 006 田川誠一 ○田川政府委員 重症心身障育児及び重症心身障害者、こういう方々に対する施策をもっとやらなければならないということが最近非常に強くなっておりますが、厚生省といたしましては、こういうような方々に対して、三十八年から重症心身障害の児童を収容して療育する療育費の予算補助を実施するようにしてまいりました。また、ことしの三月末現在、重症心身障害児を収容する施設といたしましては、公法人立の施設が十二カ所千百十一ベットそれから国立の施設が十一カ所、五百二十床、こういう施設をつくっております。それからもう一つは、そういうような施設に入らない在宅の重症者に対する施策でございますが昨年度より、指導員にそういうような家庭を訪問させまして、療育の相談、指導をさせておるわけであります。そのほか特別児童手当の支給も実施をされております。 それから、先ほど箕輪委員からの御指摘のように、そういうような重症児の生まれる原因が妊産婦に関係があるということもございますので、そういうような妊産婦の指導に対しても、できるだけこれをやらなければならないということをしておりますが、この妊産婦の指導については、こまかくは局長から説明をさせます。 007 渥美節夫 ○渥美政府委員 次官から御説明申し上げましたように、こういう重症心身障害児の発生原因となりますものが、あるいは遺伝的な問題もございますけれども、そのほか環境的な原因によって起こり得るということが、いろいろな研究から最近指摘されておるわけでございます。そういう意味におきまして、たまたま昭和四十年一月一日から実施されました母子保健法という法律も、実施の段階に移りましたために、保健所なりあるいは母子健康センターというふうな施設を拠点といたしまして、妊産婦なりあるいは乳幼児に対しまする保健指導というふうなものを強化してまいっておるのでございます。これには、保健所におきまして集団的に行なう場合もございますし、また、自宅に参りましての訪問指導というような方法も講じてやっておるわけでございます。 008 箕輪登 ○箕輪委員 ただいま御答弁にありましたような施策が現在まで行なわれてまいったのでございましょうがそれにもかかわりませず、これまで法制化されなかったことは——法制化されないというだけじゃなしに、どちらかというと、見のがされがちであったということが考えられると思うのであります。法制化の時期といたしましても、むしろおそきに失したといううらみがあります。そこで、今回法制化するに至りました理由を、ひとつお伺いいたしたいと考えます。 009 田川誠一 ○田川政府委員 法制化するのがだいぶおそかったのじゃないかという御指摘でございますが、そういう面も確かにあると思います。ただ、今回法制化することになりましたのは、先ほど申し上げましたように、三十八年末からだんだんと内容も充実してまいったわけでありまして、国立の療養所に設置できました十一カ所のほかにも、だんだん収審施設もふえてまいりました。そういう施設もだんだんとふえてきたということと、それから国立療養所に設置いたします重症心身障害児の収容施設も、年次計画をもちましてこれからふやそうということでありますし、今年度、四十二年度の予算にも、そうした施設をさらにふやそうという計画をしておるわけであります。そういうように、大体整備体制というものが確立されようというような時期に来ておるわけであります。そういう意味から、さらに施設の整備を促進するということと、それからもう一つは、入所児童の処遇をさらに向上させよう、こういうような目標のもとに、今回重症心身障害児の対策を法制化するようになったわけでございます。 010 箕輪登 ○箕輪委員 先ほども申し上げましたように、全国で一万九千三百名もおると推定されております重症心身障害児あるいは重症心身障害者、しかも収容を必要とされておるものが二万六千五百名もおるといわれておる現状から見て、現在わずかに千六百床程度しか施設は整備されていない、こういう現状を見ますときに、一刻も早くすべての重症心身障害児あるいは心身障害者、これらがすべて収容できるように施設の整備をはかる必要があろうかと考えるわけでありますが、この重症心身障害児あるいは心身障害者施設の整備計画がどのようになっているか、お尋ね申し上げたいと思います。 011 田川誠一 ○田川政府委員 重症心身障害児の数に比して収容施設が足りないという御指摘は、まさにそのとおりでござまして、政府といたしましても、できるだけ施設を早くつくりたい、整備をしたいという気持ちでございます。年次計画を立てまして、重症心身障害児の施設を昭和四十五年までの計画として約八千床整備をしたいということでございます。これで大体収容を必要とする人の半数ぐらいまで何とかいけるのではないかということでございます。 それから、先ほどちょっと触れましたけれども、四十二年度におきましては、国立の収容施設として六百床、これはその中で国立療養所に設置をするものが五百六十床、あとの四十床は整肢療護園、これは日本肢体不自由児協会に委託をしてやっておる国有の施設でございますが、そこに四十床、計六百床をつくる計画でございます。さらに公法人立の施設に五百床、こういう計画を持っております。 もちろん、いま箕輪委員御指摘のように、これで十分というわけでは決してございませんで、先ほど申し上げましたように、これだけでもまだまだ半数程度であるということでございます。しかし、何ぶん施設だけつくって重症心身児の対策を期するわけにはまいりませんで、そういうような子供たちを介護する人々の養成もはからなければならないのでございまして、不十分ではございますけれども、できるだけひとつ施設を充実したい、一歩一歩充実していこう、こういうつもりでやっております。 012 箕輪登 ○箕輪委員 ただいまの御答弁によりますと、昭和四十、五年までに収容を要する児童の約半数を収容するべく施設を整備するというお話でございますが、私は、在宅の重症心身障害者の療育、これは非常に大事だと考えるのであります。家族の者にとりましては、非常にこの療育は困難をきわめておると思いますし、当然医学的管理のもとに療育が行なわれる施設への収容が望ましいと考えるわけであります。施設の整備については、建物の整備のほかに、療育に従事する職員、特に専門職種の職員の養成、確保が非常に困難な情勢にあるわけでありますが、これに対する対策はどのようになっておりますか、お尋ね申し上げたいと思います。 013 田川誠一 ○田川政府委員 先ほどもちょっと触れましたように、こういうような重症心身障害児を介護する人たちの養成というものはなかなかたいへんでございまして、特殊な仕事でございますし、またやっかいな仕事でございます。看護婦のほかに、保母さん、児童指導員というようなものを置かなければなりません。現在、大体収容児童二人につき一人の割合で療育を行なっておるようなわけでございます。これらの介護職員の勤務というものは、なかなか複雑で困難な仕事でございます。でありますから、こういう人たちの待遇も考えていかなければならない。これが、介護職員を養成していく上にも、また確保していく上におきましても、必要なことではないかと思います。今度の四二十年度の予算におきましても、こういう専門職員の養成を確保しなければならぬという配慮で、給与の改善もはかっておるつもりでございます。 014 箕輪登 ○箕輪委員 御答弁で大体わかりますが、重症心身障害児あるいは障害者に対して、これからも施設の整備などが適切にはかられてまいるだろうと考えたわけでありますが、重症心身障害者のいわゆる周辺疾患とも考えられる、単独の重度の肢体不自由や単独の重度の精神薄弱を持っている児童に対する施策も、決してゆるがせにはできないものであると考えるわけであります。これらの重度の障害が単独である者に対する施策はどうなっておりますでしょうか。 015 渥美節夫 ○渥美政府委員 一般的に私どもの施策といたしまして、早い時期におきましては、精神薄弱児施設あるいは肢体不自由児施設の設置という施策を推進してまいったのでございますが御承知のように、精神薄弱児施設に収容される精神薄弱児につきましても、その程度は非常に千差万別でありまして、重度の者もありますし、軽度の者もある。また、肢体不自由児施設における収容につきましても、日常絶えず介護を必要とするような重篤の肢体不自由児もございますれば、ある程度回復しまして社会復帰もできるというふうな症状の肢体不自由児もあるわけでございます。したがいまして、私どもの施策といたしましては、そういった子供たちの症状に応じての分数収容といいますか、分類介護といいますか、こういう方向に最近進んでまいったのでございまして、昭和三十九年以降、一般の精神薄弱児施設におきましても、その一部に特に重い方の重度棟というものをつくり始めたのでございます。たとえば、知能指数が三五以下の方々であるとか、あるいは知能指数が五○以下でありましても、盲と重複するとか、あるいはろうあと重複する、こういった方々のために、精神薄弱児施設の中に重度棟を設けまして、実はその収容の定員は約千五百名に達しております。それからまた、肢体不自由児の分野におきましても、こういった日常絶えず介護を要するような肢体不自由の子供のためには、やはり重度棟という設備を持ちまして、現在のところ約九百三十名程度の病床を確保しておるわけでございます。そういうふうな意味におきまして、特に重度の肢体不自由あるいは重度の精神薄弱、あるいは精神薄弱と盲とかろうとかが重複している、こういった方々に対しまする施策をさらに推進して、こういった病床数あるいは収容定員数を今後ともふやしていく。これは重症心身障害児施設の増設と並行いたしまして、これらに関する施策もさらに大幅に充実していかなくてはいけない、かように考えております。なお、先生御承知のように、国立の精神薄弱児施設というものが埼玉県にございますが、これらは、いま申し上げましたような重度の精神薄弱の方ばかりを百二十五名収容しているということでございます。 なお、在宅のこういった方々に対しましては、特別児童扶養手当が月額千四百円いま支給されているということは、御承知のとおりだと思うわけでございます。したがいまして、今後ともこういった各方面の施策につきましてはさらに重点を置いてまいりたい、かように思っておるわけでございます。 016 竹内黎一 ○竹内委員 ただいまの答弁に関連してお尋ねいたしたいと思いますが、重症心身障害児とは何ぞやという定義をひとつ明らかにしていただきたいと思います。 017 渥美節夫 ○渥美政府委員 つまり、いま申し上げましたように、精薄が重度であるという場合には重度の精神薄弱児、かようにわれわれ取り扱っているわけであります。また、肢体不自由の程度が非常に重度である、こういった場合には重度の肢体不自由児、こういうふうに考えます。したがいまして、御質問のございました重症心身障害児施設に入る重症心身障害児と考えられます者は、この両者にも属さない者、つまり重度の精神薄弱と重度の肢体不自由、これが重複をしている、かような症状の方をわれわれは考えておるわけでございます。 018 竹内黎一 ○竹内委員 精薄のほうは、たとえばIQ三五以下とか、あるいは盲ろうあの場合は、五〇でも云々ということはわかるのですが、そうすると、肢体不自由の重度の程度でございますね。これはいわゆる一級、二級、三級というふうなのがあるわけですが、どこまでを一応お考えになっておるわけですか。 019 渥美節夫 ○渥美政府委員 いまお話ございましたのは、身体障害者福祉法によりまする施行規則によりまして、一級、二級、三級というお示しがあったと思うのでございますが、私どもといたしましては、重度の肢体不自由児の程度は、いま申し上げましたように、おおむね一級及び二級に該当する、かように考えております。しかしながら、これは総合的にも精神薄弱との関係がございますので、一級、二級のみに限る、こういうふうに限定的には考えておらないわけでございます。 020 竹内黎一 ○竹内委員 一級、二級に限定はしないというお話でございますけれども、一級、二級というのは、ずばりと言えば大体寝たっきりの子供、こういうぐあいに私どもは了解いたすわけでございます。もちろんそういう子供さんに対しての援護の必要なことはわかるのでございますが、親の立場から見ますと、寝たっきりの子供よりも多少動ける子供、これを持ったほうがよけいに心配だと思います。また、子供が多少動けるばかりに、親がいわば一日じゅう縛りつけられてしまう、こういうことで、子供さんを持っている苦労としては、むしろこのほうが強いのじゃなかろうか、こういうぐあいにも考えるわけです。現に、今回のこういうような重症心身障害児施設というものを新たに児童福祉施設の中に指定をしていくということは、各方面から歓迎されておりますが、それと同時に、私どものところの子供は一体今度入ることができるのだろうかどうかという、こういう疑問がたくさんに出ておるわけでございます。一つの例を申し上げますと、これはある雑誌で紹介しておるわけでございますけれども、老夫婦が重症児の娘をかかえているケースでございますが、非常にきたない話ではありますけれども、大小便もたれ流しをするような娘さんであるが、からだははるかに老夫婦よりも大きく世話がたいへんだ、しかし、近いうちに施設ができて収容してもらえそうだという希望があったために、今日までがんばってきたけれども、今回何かそういうような定義がはっきりしたことによって、どうもはずれそうだ、うちの娘は入れそうでない、こういう話を聞いて目の前がまっ暗になったというこういう投書を紹介している雑誌もあるわけでございます。私は確かに親御さんの気持ちはよくわかるわけでございまして、多少動ける子供というものを、やはりこれは行政指導といいますか、あるいは行政解釈によってもこういう施設に収容してやるのが好ましい傾向ではないか。こういう意味におきまして、一級、二級ということをあまり厳格に考えられますと、多くの方に失望を与えるような気がしますので、その辺の運用についてもう一度伺いたいのです。 021 渥美節夫 ○渥美政府委員 先ほど御説明申し上げましたように、この重症心身障害児施設に入れるべき方々は、そういった重度の精薄と重度の肢体不自由が重複している、こう申し上げたわけでございますが、片方で、たとえば精神薄弱の度合いが重度の場合には、これは精神薄弱児施設の重度、こういうふうに一応は分類して私どもは進めたいと考えております。しかしながら、たとえば精神薄弱児施設の重度棟におきましても、この施策が発足いたしましたのが昭和三十九年でございます。まだその収容の施設も非常に少なく、またその定員も非常に少ないという現状でございます。そういった現状でございますので、私どもといたしましては、そういった施設の状況等にもかんがみまして、この法律を施行する実際の段階におきましては、運用につきましてはある程度幅を持ちまして運営していきまして、こういった子供たちの福祉が保たれるように考えていきたい。特に、現在すでに入所をされておる、多少いま申し上げましたようなワクからはずれるような方もいらっしゃるかと思いますが、そういった方々がこの施設から追い出されるというようなことはないように運用上十分気をつけてまいりたい、かように思うわけでございます。 022 竹内黎一 ○竹内委員 じゃ、もう一点だけ伺って、関連ですからやめたいと思います。 さっき分類して介護するんだという局長のお話がございましたのでお尋ねをいたしたいのですが、最近ジャーナリズムでもときどき取り上げているいわゆる自閉症の子供たちです。この子供たちは現在それではどういうような取り扱いになるわけですか。 023 渥美節夫 ○渥美政府委員 いわゆる自閉症あるいは自閉様症状の子供の問題は、実は、諸外国におきましても、またわが国におきましても、比較的最近取り上げられた問題でございます。一般的に申し上げますと、自閉症あるいは自閉様症状につきましては精神神経科の領域であろう、かようにいわれておるわけでございます。ただ、その療法自体におきましては、薬物療法等もあまり効果もないような報告がありまして、結局、心理療法を中心としてそれらの子供たちに対する治療が進められているという現状のようでございます。しかしながら、先ほど申しましたように、自閉症自体が精神神経科領域の疾患であるというふうなために、これは当然精神科つまり精神病院等におきまして治療をするというのが一般的なたてまえと思うのでございますが、いま申し上げましたように、心理療法等によります子供の福祉を考えての療法というようなものが効果的であるということでございますので、その取り扱いにつきましては、精神病院で行なうか、あるいはこういった収容施設で行なうか、こういうふうなところは現在議論が分かれているところであろうかと思うのでございます。したがいまして、自閉症あるいは自閉様症状の子供に対する措置につきましては、どうしたらいいかという点につきまして、いま学者の方々、お医者さんあるいは心理学者の方々の意見も十分聞いておるところでございますが、いずにいたしましても、小児における特殊な疾病であるという見地から、これらの施策の確立というものをはかってまいらなくてはならない段階がきておる、かように思っておるのであります。そういった意味において、目下検討をして早く手を打ちたいというのが私どもの考え方でございます[…] (国会議事録検索システム[2022b])
3. 国会における自閉症の出現背景-1
上記のことから、いわゆる〈重症心身障害児施設の分類処遇の問題〉の討議から「自閉症」ということばが初めて国会内で登場してきたことがわかる。そして、行き場のない自閉症児は1967年当時、国の認識としては「精神神経科の領域であろう」ということだったことがわかる。 重症児施設★02以外の行き場として、①精神病院で治療の対象とするのか、②それとも1964年に施策化されてきた精神薄弱児施設に付置された重度棟で受け入れるのか、③あるいは埼玉にある国立の施設(*1958年設立の国立重度精神薄弱児施設秩父学園のこと)で処遇すべきなのか、と意見が分かれていながら、「小児における特殊な疾病であるという見地から、これらの施策の確立というものをはかってまいらなくてはならない段階がきて」いるという答弁を引き出している。
3.1. 発言者のプロフィール
さて、つぎに発言順に①~④、4名の発言者のプロフィールを以下、列記する。 ①「箕輪 登」(みのわ のぼる、1924年3月5日生~2006年5月14日没)は、北海道小樽市生まれの自由民主党所属の衆議院議員(通算8期)で、北海道帝国大学(現:北海道大学)医学専門部卒の医師である。1962年より佐藤栄作の秘書兼医師をつとめ、またのちに郵政大臣、防衛政務次官などを歴任し1990年に政界を引退する(ウェブマガジン・カムイミンタラ[2023])。自民党タカ派議員として知られていたが、2004年1月28日「自衛隊イラク派兵は違憲」の訴訟を起こす。それと同時期に出版された著書に『憲法9条と専守防衛』(2004年、内田雅敏との共著、梨の木舎)、そして『我、自衛隊を愛す 故に、憲法9条を守る―防衛省元幹部3人の志』(2007年、小池清彦・竹岡勝美との共著、かもがわ出版)がある。上にみた著書のうち後者は、当時かもがわ出版編集長(現、同主幹)であった松竹伸幸(まつたけ のぶゆき、1955年~、元日本共産党中央委員会、日本ジャーナリスト会議出版部会世話人。2023年2月6日、『シン・日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』(2023年、文春新書)で注目を集めた一連の言動で、民主集中制・分派活動の禁止の組織原則に違反するとして日本共産党を除名される)が、日本共産党中央委員会勤務員であった際に志位和夫委員長と自衛隊活用論を巡って論争・対立し、2005年自己批判文を発表した後に2006年同党勤務員を退職し、同年かもがわ出版に移り「自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会」で事務局長をしながら、平和外交と自衛隊のあり方について示していこうという趣旨のなかで産み出された企画で、それは超党派の9条の会や護憲派の結集を模索したものでもあった(松竹[2023:94-98])。 ②「田川 誠一」(たがわ せいいち、1918年6月4日生~2009年8月7日没)は、神奈川県横須賀市出身の衆議院議員(通算11期)で、当時は自由民主党所属の「ハト派」として知られた。のちに新自由クラブ代表(第2代)、進歩党代表をつとめ社会民主連合(社民連)と統一会派「新自由クラブ・民主連合」(1981年9月~1983年8月)を結成した、いわゆるリベラル派、進歩主義派の代表的な政治家である★03。 父は、横須賀酒類商業組合理事長、田浦土地建物取締役のほか神奈川県議会議員(通算2期)をつとめた田川誠治(たがわ せいじ、1892年8月5日生~没年不明。慶応大学卒。実業家、政治家、自由主義者)で、誠一は長男にあたる(政策研究大学院大学[2001a: 3-8])。 母方の従弟には自民党で同じくハト派でいわゆる従軍慰安婦問題について述べた「河野談話」で知られる政治家、河野洋平(こうの ようへい、1937年1月15日生~、内閣官房長官(第55代)、自由民主党総裁(第16代)、新自由クラブ代表(第1・3代)など歴任)がいる(政策研究大学院大学[2001a: 13-14])★04。 祖父は、戦前、神奈川県多額納税者で憲政会所属の衆議院議員(通算1期)をつとめた田川平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4月22日生~1951年2月17日没)である。田川平三郎は、三重県飯南郡花岡村(現松阪市)出身で高橋萬蔵の六男であったが神奈川県の大地主であった田川幸蔵の養子となる。1901年、養弟國太郎の後を承け家督を相続し、米並びに酒商を営み、後に神奈川県議、鎌倉銀行取締役、田浦土地建物取締役をつとめた。田川平三郎が神奈川県多額納税者であったということからもわかるように田川家は神奈川県の名士、大地主の家系である(人事興信所[1931: 904] 衆議院事務局[1936: 164] 人事興信所[1937: 55] 衆議院・参議院[1962: 162] 政策研究大学院大学[2001a: 3-8])。 また日本初の自閉症児施設あすなろ学園(1964年1月15日設立、三重県)が本院の高茶屋病院から分離独立の際の三重県知事は「田川 亮三」(たがわ りょうぞう、1919年3月8日生~1995年9月18日没)で、田川誠一の従弟である。田川亮三は、従兄の田川誠一と同じく神奈川県横須賀市出身で、京都大学卒後、農林省官僚、三重県秘書課長、同企業庁長、同副知事をつとめる。三重県知事時代(1972年~1995年)は、当初は民社党・日本社会党支援の野党系無所属、のちに非共産のオール与党支援の無所属からの出馬であった★05。 ちなみに、あすなろ学園初代園長十亀史郎(そがめ しろう。児童精神科医。1932年3月7日生~1985年9月13日没。京大卒。愛媛県西条市生まれ)の「追悼集」(十亀史郎追悼集編集委員会[1986])の表紙に毛筆で書された題字「生きること 愛すること」(十亀史郎追悼集編集委員会編[1986]表紙)は田川亮三によるものである(十亀史郎追悼集編集委員会編[1986]中表紙裏)★06。 ③「渥美 節夫」(あつみ さだお、1922年生~2009年没)は、当時、厚生省児童家庭局長の官僚で、のちに全国里親会会長、日本社会福祉弘済会理事長、日本心身障害児協会理事長をつとめた(日々のきづき[2023])。著書に『児童養護』(2008年、網野武博・ 柏女霊峰・新保幸男編、日本図書センター)、『児童福祉事業概論』(1966年、全国社会福祉協議会)がある。 ④「竹内 黎一」(たけうち れいいち、1926年8月18日生~2015年9月5日没)は、青森県黒石市生まれで東京大学経済学部卒業後に毎日新聞社記者となり、当時は自由民主党所属の衆議院議員(通算10期)。のちに科学技術庁長官、原子力委員会委員長、衆議院外務委員長・環境委員長等を歴任した。父は青森県知事や衆議院議員を務めた竹内俊吉である★07。
3.2. 小括;自閉症ということばが出現してきた文脈、その特徴
上にみてきたように〈重症児施設における分類処遇の問題点〉を討議するなかで「自閉症」ということばがでてきたが、その表れ方の特徴をつぎに列記する。
A. 討議の発言順;【自由民主党議員による質疑から開始】
①自由民主党社会労働委員会委員の箕輪【5】(【】内数字は発言回数、以下同)、②同党の政府委員の田川【4】、③厚生省児童家庭局長の渥美【6】、④自由民主党社会労働委員会委員の竹内【4】、の順に質疑応答が展開されていく。
B. 発言者の属性1;【厚生官僚と自由民主党議員】
この発言者らのなかでは、③の厚生官僚・渥美以外は、すべて自由民主党所属の衆議院議員であった。
C. 発言者の属性2;【自民党議員の医師、自民党議員の元毎日新聞記者】
討議開始①の箕輪は自民党議員の医師、④の竹内は自民党議員の元毎日新聞記者であった。
D. 発言者とあすなろ学園(三重県、日本初の自閉症(児)施設(1964年設立、県立))との関係性;【従兄弟関係にある中央の政治家(衆議院議員)と地方の首長(後の三重県知事)】
②の「田川 誠一」と、のち1986年に、あすなろ学園が親の会の念願がかなって、三重県立高茶屋病院から「小児心療センターあすなろ学園」として、分離独立した際の三重県知事であった「田川 亮三」は従弟にあたる。 田川亮三は、あすなろ学園の整備問題や自閉症問題に関して、数多くの陳情、請願を親の会から★08受けてきた(*別途、1970年代のこの種の陳情書、請願書の類は、詳しくみていく)。また田川亮三は1967年当時、先にみたように官僚として中央官庁(農林官僚)から地方自治体(三重県幹部(三重県秘書課長、同企業庁長、同副知事))へ出向していたため、あすなろ学園親の会組織や職員組織から各種の陳情・請願など、医療・教育・福祉などの権利保障を求める運動を県当局として対応する立場にあった。このため当然、三重県に集まってくる自閉症児とその親組織を通して、自閉症問題にはある程度精通していたと思われる。 つまり、1960年代後半当時、いわゆる「混乱の極」(小澤 [1984→2007:54])にあった「自閉症問題」、そして国内唯一の自閉症児施設であった「あすなろ学園」が抱える自閉症現場の問題に、最も詳しい行政官のうちの一人が田川亮三であったと思われる★09。 また先にみたように、田川誠一と田川亮三は従兄弟関係の田川一族で、祖父の政治家・田川平三郎は三重県出身だった。このことからも、当時の中央政治・官庁と地方政治・自治体に影響力をもつ田川一族のつながりが、三重県と国をつなぐ役割を果たしていた可能性は十分に考えられる。つまり、当時日本唯一とされた、行き場のない自閉症児に対処し得る医療・教育・福祉機能を備え持つ専門施設あすなろ学園が、一地方の公立病院・院内施設でありながら全国的規模の問題を抱えざるを得なかった実態——不就学の状態で在宅で孤立無援にあった自閉症児とその家族たちが、何とか「必死に求める救いの道」(押尾[1969:275-276])を探し当てて、全国から集まってきた実態——を国会で取り上げるということに何らかの影響を与えていた可能性は、十分に考えられる。 こういった背景から田川亮三は、国・厚生省への事前の種々の「申し入れ」★10のほか、田川誠一とその周辺の自民党議員たちに、「自閉症問題」に関して国会で発言するよう積極的に協力依頼をしていた可能性が十分に考えられる。
E. 「自閉症」を国会で初めて発言した人;
「自閉症」について初めて国会で発言したのは、④の自民党議員・元毎日新聞記者の竹内であった。 その文脈としては、厚生官僚・渥美に対する「重度の障害児者の問題」、とりわけ上記でみてきたように「重症児施設の分類処遇」の質問のなかから「自閉症」の問題へと焦点化していく際のことであった。
4. おわりに
本稿でみたNo.1「1967(昭和42)年5月25日第55回国会 衆議院 会議録 社会労働委員会 第12号」にある〈重症児施設の分類処遇〉をめぐる質疑応答のなかで出てきた「自閉症」ということばは、国政の場で初めて具体的に自閉症問題を論じるきっかけをつくった発言として大きな意義があるといえる。またこれを根拠に、自閉症問題を具体的に明らかにしていくながれをつくったとも考えられる。1960年代を対象とした「国会議事録検索システム」の「自閉症」の検索結果をまとめた「保存発掘資料一覧」から、変遷を読み解いていくため、次回はNo.2「1967(昭和42)年6月7日 第55回国会 衆議院 社会労働委員会 第17号」について、詳しくみていく★11。
■註
- ★01
日本の自閉症問題の大著『自閉症とは何か』を記した精神科医の小澤勲[1984=2007]は、この時期に関して、日本の自閉症論とその現場は「混乱の極」にあったと述べる。以下、植木[2022a]から、引用要約する。
「小澤は、「ようやく 1960 年代後半になって医療、教育、 さらには福祉からも排除された動く重障(ママ)児という名称のなかに埋もれて初めて自閉症は社会問題化した」(小澤 [1984]2007:424)、「1960 年代末には自閉症論の混乱はその極に達していた」(小澤 [1984]2007:54)と述べるが、自閉症児の親の会の成立過程やあすなろ学園の親の会、それらと自閉症施設との関連については言及していない」[2022a: 117-118]。
詳細は、植木[2022a]を参照されたい。
- ★02
動く重症児として自閉症児を収容していたことで知られるが、東日本初の重症児施設は島田療育園(1961年設立、東京都)、西日本初のそれはびわこ学園(1963年設立、滋賀県))である。
- ★03
田川誠一ら自民党ハト派がつくった新自由クラブと江田五月ら社会党市民派がつくった社民連による、保守の刷新と革新の革新との間で護憲・軍縮・平和の融合を目指した統一会派が「新自由クラブ・民主連合」であった。これに関して、社民連十年史刊行会[1989]には以下のようにある。
「新自由クラブ・民主連合」[…]ダブル選挙で圧勝した自民党は、新総裁に鈴木善幸という意外な人物を選んだ。[…]ところが、与野党伯仲時代には幾分声を抑えていたタカ派が、自民党が圧勝したとたんに活発に動き出した。「ヤジロベー」は、力の強い声高な勢力の方向へ傾斜する体質を持つ。自民党の右傾化が目立ちはじめた。[…]一方、新自由クラブも、鈴木政権に対してははっきりと対決姿勢をとった。一九八一年二月の新自由クラブ全国代議員大会で、田川誠一代表は、「自民党の中の軍事大国化の“うねり”に対しては、同じ保守勢力、同じ自由主義勢力である新自由クラブこそが“防波堤”となるべき使命を担わねばならない」と発言している。宇都宮徳馬選挙を社民連と共同で戦って以来、新自クの“軍縮・平和”路線は、より鮮明になってきていた。 一九八一年五月、鈴木首相は訪米し、レーガン大統領と日米首脳会談を行った。 帰国後、日米共同声明の中の「同盟関係」という表現について野党やマスコミに突っ込まれた鈴木首相は、本会議で「同盟関係には軍事的な意味はない」と答弁。ところが伊東正義外相は、「日米安保条約が基調にある以上、軍事的な意味は当然ある」と答弁したから、野党は「閣内不一致」と騒ぎ出した。[…]一九八一年の夏から秋の臨時国会に向けて、院内統一会派結成の動きが活発になった。公明・民社・新自ク・社民連で統一会派をという話は、民社党から社民連に早い時期に持ち込まれ、社民連は賛成していた。 ところが、当の民社党の中は一様ではなく、春日常任顧問は最終的には「中道四党で新党結成」、その前段階としての「四党統一会派」構想であり、佐々木委員長も同じ。一方、塚本書記長・大内政審会長は、「民社の支援組織・同盟と公明の支援組織・創価学会とは肌合いが違いすぎる」と慎重で、党ぐるみの動きにはならなかった。 そういう時に、コマネズミのように動き出したのが新自クの山口敏夫幹事長である。山口幹事長は、「何が何でも四党にこだわっていては時機を逸してしまう。この際、三党で統一会派を組んで、公明党はアレルギーが消えるまでブリッジで、というのはどうだろう」と説いた。[…]結局、新自由クラブと社民連の二党だけで統一会派へ向けて動き出すことになる。新自由クラブとの統一会派へ向けての話合いは、九月に入って本格化した。両党の政策等の調整は、新自ク側は山口幹事長・柿沢弘治政策委員長・田島衛国対委員長、社民連側は楢崎書記長・江田副代表・阿部選対委員長が窓口となった。 まず話し合われたのが新会派の名称であったが、「新自由・民主連合」(略称、新自連)と決まった。 政策のすり合わせは、江田と柿沢の間で行われたが、「安保・防衛」など基本政策で容易にまとまらなかった。この段階で柿沢は江田に対してポロリと本音をもらしている。 「新自由クラブの立党の精神は保守を革新することにあった。社民連もまた、革新を革新するのが目的ではなかったのか。今回の統一会派については、私自身は納得できぬものがあるが、政策をまとめる作業は私の任務だから最後まで責任を果たす」 九月二十一日、「新自由・民主連合」が発足しようとする直前、新自クの山口幹事長がとび込んで来て、「依田実議員が、名称を新自由クラブ・民主連合とせよ、と言い張って挺子でも動かない」と言う。 社民連側としては心外であったが、記者会見の時間も迫っている。楢崎書記長が皆をなだめて、この長々しい名称を呑んだ。 結成式は、赤坂のホテル・ニュージャパンで行われた。新会派の役員は、代表・山口新自ク幹事長、国対委員長・田島新自ク国対委員長、国対副委員長・甘利新自ク総務委員長および阿部社民連組織委員長。 新自ク十一名、社民連三名、計十四名による衆院内統一会派は誕生したが、この十四名は数時間後に十三名になる […] (社民連十年史刊行会[1989])
新自由クラブ代表であった田川誠一は〈社民連との統一会派解消〉(政策研究大学院大学[2001b: 123-132])の箇所で、たとえば以下のように回顧する。 統一会派内での思想的な隔たりとして、次のようである。「[…]社会党を脱党した社民連と、自民党を脱党した新自由クラブとでは、根本的には水と油の違いというのがありましたね」(政策研究大学院大学[2001b: 123] 、下線部筆者) その一方で田川誠一は自分自身についてはどうだったかというと、次のようである。「私は、もう全く社民連と党が一緒でも、全然違和感のないぐらいに自然だったですけどね」(政策研究大学院大学[2001b: 123]、下線部筆者)
- ★04
河野・田川一族の係累について記されているものに佐藤([2001: 197-202])がある。また佐藤[2001: 334-335]の「伊藤家を中心とする閨閥図」には河野・田川一族が含まれている。
- ★05
いわゆる革新系の支援、とりわけ社会党からの推薦を得て知事となったが、実際には革新系の労組のほか、農協、漁協組合などいわゆる保守基盤からの支援も受けていた。その後(間)、社会党との間では種々の軋轢や調整がたびたび必要となったようだが、とりわけ中部電力の芦浜原発誘致問題では社会党及びその支持母体の革新系勢力である労組のみならず、漁協組合の猛反対運動も沸き起こりなどとの間では種々の軋轢が生じたともいわれる。 朝日新聞1972年12月27日 記事「革新首長会には入らぬ 田川三重県知事語る」には、以下のようにある。
三重県の田川亮三新知事は二十六日県庁へ初登庁、同日午前の記者会見で、「革新首長会に加入する意思はない」と言明した。同知事は、先の知事選挙で革新首長会への加入を条件に社会党の推薦を取付けており、社会党はこの日の知事発言で態度を硬化させている。 福島重之社会党三重県本部長は「知事から正式に話を聞いていないが、選挙の際、取りかわした協定が生きているとすれば、入会が当然だ。もし、加入しないのなら、党本部とも連絡をとって正式な態度を決めねばならない」と話している。 田川新知事は、社会党、労組、農、(ママ)漁協組など保革両勢力の支援を受け、「保革連合・県民党」を表看板にして当選した。(*下線部、筆者)
また、四日市ぜんそくなどの公害問題にも取組んだことでも知られ、朝日新聞1985年1月18日記事「三重県(21)緑したたる郷土に(新人国記’85:903)」には、「[…]三重高農のOB。京大農林経済学科を経て農林省へ入った緑の専門家」とある。
- ★06
表紙裏に挿入された「口絵」とその下にある「生きること 愛すること」のドイツ語訳「Leben und Lieben」(十亀史郎記念事業委員会[1986]表紙裏)の書字は名古屋大学医学部教授・児童精神科医の石井高明によるものである。石井は、愛知県・名古屋市の自閉症児の親の会の組織化と、自閉症支援の拠点となる自閉症施設をつくるための運動を支援してきた名古屋大学医学部のソーシャルワーカー・金子寿子や、1952年日本初の自閉症症例報告者・鷲見たえ子の後見人をつとめた堀要(前述2人ともに児童精神科医、同じく名古屋大学医学部)らとともに活動してきた(社会福祉法人あさみどりの会[2018:1-5])。
- ★07
参考資料として、朝日新聞記事2015年9月7日「竹内黎一さん死去」、朝日新聞記事(青森版)2015年9月7日「見識・薫陶、党派超え 県内政界から惜しむ声次々 竹内黎一さん死去/青森県」など。
- ★08
田川亮三は知事時代(1972年~1995年)はもちろんのこと、知事選出以前の県幹部の時代からその種の請願や陳情を対応する立場にあった。
- ★09
1952年、日本で初めて自閉症症例(*名古屋大学、鷲見たえ子による)が報告されたが、その多くが就学猶予・就学免除の状況にあった。既存の制度施策(精神障害あるいは精神薄弱)に入れてもらえない、という制度の狭間に置かれて孤立無援の状況にあるなか、自閉症児とその家族は、救いの道を求めて右往左往し続けてきた。また1960年代当時は、自閉症ということば自体が、医療や教育、福祉など専門機関を含めて世間一般には殆ど知られていなかった。こうしたなか、1964年8月11日結成の「あすなろ学園保護者と職員の会」と、その構成員・組織者でもあった全国各地から集まってきた親たち、そのなかでもとりわけ日本の首都、東京の親たちが中心的な役割を果たし、自閉症児の全国親の会の組織化がなされた。その象徴的な出来事は、いずれも常陸宮夫妻が出席して開催された、1967年2月26日東京都社会福祉協議会による「自閉症児親の会」設立大会、そして翌1968年5月19日東京・青山学院大学における「自閉症児親の会」第1回全国大会である。a. 1964 年専門施設の開設があり、b. そこを拠点として親たちの活動が拡がり、c. 地元・各地で親の会が結成され、その会の活動が拡がり、 d. 1967~1968 年親の会全国組織の大会開催が新聞報道などに取り上げられ、e. これらを経て1960 年代末頃より、「自閉症」ということば/概念が世に広がっていった、とも考えられる(*詳細は、植木[2022a] [2022c]を参照)。
- ★10
これに限らず当時から(現在も)、殆どのばあい、国会議員は国会で何らかの議題を取り上げる前には、質疑応答がある程度スムーズに進行するように、担当する関係官庁もしくは国務大臣に、何らかのかたちで、いわゆる「事前申し入れ」をしてきたと思われる。例えば、No2「1967(昭和42)年6月7日 第55回国会 衆議院 社会労働委員会 第17号」では、つぎの①~②のようにある。 ①日本社会党議員・島本虎三が厚生大臣・坊秀男に対して、「事前申し入れ」をしていたということがわかる発言は、以下のとおりである。 「その前に、前から申し入れて、もう準備されてあると思いますけれども、厚生大臣に最近起こっておる事象について伺いたいと思います」(国会議事録検索システム[2022c]) ②島本が厚生大臣・坊に対して、「厚生省の部下」(厚生官僚)に、自閉症対策の実情について、「事前に意見聴取」してきたということがわかる発言は、以下のとおりである。 「 […]きのうもよく厚生省のあなたの部下にこの対策を聞いてみたのです。ところが、これはもう児童福祉法四十三条の四によって情緒障害児短期治療施設としてあるので、いま言っている自閉症の問題としてこれを使用しておりませんという答えであった。あなたの答弁は、これを使用しているという答弁ですね。これはおかしいじゃありませんか。全国に五カ所、長野、大阪、京都、岡山、静岡、こういうようなところであるということもあなたの部下から聞いて知っているのです。私のほうでは、いまこの自閉症児もこの中に入れてやってもらいたいということをあなたに言おうと思ったら、あなた先に言ってしまったから、それでいいのです。これはやってもらいたい。ところが、きのう現在、あなたの部下は入れていませんと言っているんです。考えていませんと言っているんです。けしからぬですよ、これは。あなただめですよ、その場当たりでいいことばかり言っても」(国会議事録検索システム[2022c]) この質疑応答(*No2に相当)についての詳細は、別途報告する。
- ★11
次回で詳しくみる、No2「1967(昭和42)年6月7日 第55回国会 衆議院 社会労働委員会 第17号」では、★10でみたように日本社会党議員島本によって具体的な対応をめぐる厳しい質疑と厚生官僚による応答が展開されており、三重県津市の県立施設=あすなろ学園が、唯一国内で自閉症に対応している施設として紹介されている。1967年5月25日国会のNo1では「自閉症」が初出しており、わずか13日後の同年6月7日国会のNo2で国内唯一の自閉症に対応する施設として三重県あすなろ学園が出てきた。このことから、あすなろ学園関係者(職員と保護者、支援者たち(*その代表的なものとして、「あすなろ学園「保護者と職員の会」」がある))は、当時の国会で政権与党であった自民党議員にはたらきかけると同時に、野党側では労働組合運動とのつながりが深い社会党議員にもはたらきかけていた、という可能性が十分に考えられる。じっさいに、病院内への学級設置と教員派遣の陳情は、あすなろ学園設立前の 1962 年末頃からなされており(植木 [2022b:51-52,59-60])、その後1964年に日本初の自閉症施設補助金が厚生省より「あすなろ学園」に認められている(植木 [2022d:78,82-84])。その際、あすなろ学園職員(高茶屋病院院長の井上正吾とあすなろ学園園長の十亀史郎ら)と親の会は、国・県・市などの関係各所へ医療・教育・福祉の保障をめぐって各種の陳情・運動を行なっていたが、厚生省の担当課のほか、三重県選出の内閣官房長官木村俊夫(自民党)、三重県議朝井憲一(当時、県政クラブ)などにも事前に通じていたことが明らかにされている(植木 [2022b:78,82-84])★12。その他の詳細な情報は、植木[2022b] [2022d]を参照されたい。また、労働組合運動とつながりがある野党系議員★13との関係性については、三重県職員労働組合が、1970~80年代以降、あすなろ学園整備問題について精力的に運動していった記録がある(*詳しくは別途、報告する)★14。詳しくは次回以降、これらを整理してまとめていく予定である。
- ★12
以下、植木[2022b:82-84]からの引用要約である。 「あすなろ学園(1995)には次のようにある。「高茶屋病院において児童精神科の試みを始めてから1年が経過し、児童専用の病棟を開設する準備が急速度で進められた。1963年4月には保母7名と看護婦1名が児童病棟設立のために採用されるとともに、同7月には入院病建設が着工し、12月に十亀が児童病棟管理医に任命された。病棟認可にあたっては井上と十亀が厚生省へ陳情に出向き、我が国初の「自閉症児施設補助金」が認められることになった」(あすなろ学園[1995:2]、下線部筆者)。 また、あすなろ学園(2005)には次のようにある。「[…]翌 1963 年の年度初めに児童精神科棟を建設することが決定し、保育士 7 名、看護師 1 名が児童病棟要員として事前採用された。[…]彼を三重県に引きとめるべく、井上院長は児童専門病棟の新築を決断したようだ。井上と十亀は厚生省担当課に陳情して自閉症児入院治療施設補助金を認めさせた。我が国では初めてのことである」(あすなろ学園[2005:1]、下線部筆者)。 井上(1986)が『生きること 愛すること——十亀史郎追悼集』(1986年 十亀史郎追悼集編集委員会編 非売品)に寄せた文には、次のような記述がある。「チャンスをのがさない// 二十年先をみとおす識見をもっておられた。児童精神医療が、今日の如く盛んになる事を知っていられた。/ そしてまた、チャンスを確実に物にするセンスもあり情報に明るかった。自閉症児施設として認められた、最初の施設であったように思う。朝井県議とともに東京の木村俊夫先生(当時は官房長官だったように思うが) に会いにゆき、即決で自閉症児の補助金を貰えるようにしてもらった事もある。/ その後はあまり自身が表面に出ず、親の会等を表に立てていられたようにみうけるが、親の会を組織だてる組織力も大したもので、もちろん彼を助けた職員の協力も大きかった」(井上[1986:43]、下線部筆者)。 ここには「自閉症児の補助金」とある。さて、井上と十亀が東京の木村俊夫に陳情の際に連れ添った「朝井県議」とは、朝井憲一三重県議会議員のことである。「三重県議会」ホームページでは、昭和42年(1967年)から現在までの「会派の流れ」がわかる。それによると朝井は、1967年「県政クラブ」→1968年6月「無所属クラブ」→同年9月「民主クラブ」→1971年「純無所属」(会派1名)と所属を変遷した(三重県議会 [2016~2022])。朝井に関してはあまり情報がないが、三重県庁近くの津市偕楽公園のSL機関車の掲示板につぎのようにある。「蒸気機関車(SL)機関車の歩み……D51型499号について/ この機関車は昭和十六年二月一日に兵庫県で誕生し、三重県内の関西線、紀勢線、参宮線を雨の日も32年以上走り続け、昭和四十八年九月十七日、役目を終えました。その間に走った距離はなんと205万キロメートル(地球を51周)にもなりました。/ 多くの人々に親しまれたこの機関車は、昭和四十八年十月九日に大型トレーラーでこの公園に運ばれました。//この機関車は、朝井憲一氏から経費の寄贈を受け国鉄より貸与されたものです」(津偕楽公園[2021]、下線部筆者)。 井上、十亀、朝井の陳情を受けて「自閉症児の補助金」を即決した木村俊夫(1909年(明治42年)1月15生~1983年(昭和58年)12月1日没)とは、当時官房長官で、三重県東員町生まれ、のちに東員町名誉町民となった三重県選出の衆議院議員である。内閣官房長官のほか、経済企画庁長官、外務大臣等をつとめた。祖父・木村誓太郎、父・木村秀興はいずれも衆議院議員であった。第三高等学校 (旧制)を経て、1938年(昭和13年)に東京帝国大学法学部法律学科と政治学科を卒業して、逓信省に入省し、その後運輸省に転任する。戦後は佐藤栄作の支援を受けて、運輸省海運総局総務課長から政界に転身し、1949年(昭和24年)第24回衆議院議員総選挙で旧三重1区から保守系無所属で当選する。当初は吉田茂が率いた自由党に所属し、後に自民党に保守合同し所属する。当選12回。晩年は「最後の佐藤派」として無派閥であった。1977年(昭和52年)に自民党アジア・アフリカ問題研究会(AA研)の代表世話人に就任し、党内ハト派の代表的存在であった。1983年(昭和58年)、勲一等旭日大綬章を受章する(廣[1985:190])。 以上のように、井上、十亀は厚生省への陳情と並行して、地元の県会議員、国会議員・内閣官房長官といった、厚生省に対して大きな政治的影響力をもった人物にも陳情を行ない、事前に通じていたことがわかる。 井上(1986)の「自閉症児の補助金」について、これ以上の詳細は不明である。これに関する詳細およびその周辺(金額、通知文書、内容、エピソード等々)についての情報を求む。
- ★13
1972年当時の田川県政において非共産系で労働組合とつながりがある野党というと、社会党および民社党になるが、三重県職労は2022年現在に至るまで「自治労」(*全日本自治団体労働組合、1954年結成)傘下の組織のため、当時は社会党(*現在は、立憲民主党および社会民主党)の影響力が他と比べて強かったと考えられる。ちなみに当時は1987年「連合」結成前のため、いわゆる自治労の分裂問題(*連合結成にともなって他の領域でも起こった労働組合の分裂問題。主として、①非共産系(連合)、②共産系(全労連)、そして前者2つのいずれでもない/どちらにもいけない③独立系(全労協、他)、に分かれる)以前である(*このため当時の自治労関係の組織は、1989年に結成される「自治労連」とのつながりが深い日本共産党の影響力が一定あったと考えられる。けれども、分裂問題を経た現在の「自治労」につながる系譜を鑑みても、三重県職労は当時、社会党の影響力が強かったと思われる)。 また、当時の高茶屋病院関係者(県職員(医師、ソーシャルワーカー等の専門家含む))は、学生運動に何らかのかたちでかかわっていたものが多数いたといわれる(党派性はともかく、当時は何ら珍しいことでもなかった)。たとえば当時あすなろ学園園長であった精神科医・十亀史郎は、先にみた『十亀史郎追悼集』(非売品)で、刑法学者・弁護士で京都大学塩地寮の後輩にあたる庭山英雄(日本民主法律家協会理事長、中京大学教授、香川大学教授)から、つぎのように評されている。「京大塩地寮の長老的存在で[…]彼の友人にはニューレフト系の人が多かったように思う」(庭山[1986:15])。 以上のことからも、これらの動き(あすなろ学園職員と親たちが自閉症問題の改善に向けて関係各所へはたらきかけたこと)と、労働組合運動などの当事者・活動家たちの声が集まりやすかった社会党との間には、一定の親和性・協働性があったことがわかる。
- ★14
例えば、施設職員、県職員労組と、自閉症施設あすなろ学園の本院高茶屋病院からの分離独立・学園整備運動との関係性について、高橋[2020]はつぎのように述べている。「[…]あるきっかけがあり、中央倉庫に眠るかつてあった保護者の活動に関する資料を見つけることになった。/ あすなろ学園設立時、昭和39年には「職員と保護者の会」があった。また昭和45年からはそれが「親の会」へと変わっていった。その資料の中には驚くような保護者たちの思いと熱気のこもった、要望書や陳情書などたくさんの資料が見られた。[…]昭和49年、三重県に自閉症協会の前身である、自閉症児を持つ親の会が設立されると、連名の運動が展開され、それは学校整備の要求から、学園設備の要求、人員要求など県職員組合と一緒になって要求、署名活動を行った本当に「闘い」の歴史が展開されていた。/ 実はもう一本の軸として職員の動きもある。高茶屋病院の一組織として組合活動、特に病対協を中心に、県立病院闘争の中であすなろの問題も展開されていった記録も残っていた。[…]医師や看護師、保育士そして保護者が一緒になって作りあげたことは忘れてはいけない(*下線部、筆者)」(高橋[2020:1])。 上記に出てくる「病対協」とは、三重県職員労働組合病院対策協議会のことである(*これに関しても、別途、報告する)。
■文献
- あすなろ学園 1995 『あすなろの10年』,三重県立小児心療センターあすなろ学園
- ———— 2005 『あすなろの20年』,三重県立小児心療センターあすなろ学園 日々の気づき 2023 「旧陸軍北部軍司令部の洞窟がある札幌市の神社山のワークと地元暴力団会長の息子の逮捕ニュース」,(2023年2月21日取得, http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/15984957.html)
- 井上 正吾 1986 「児童精神医療への出発」,十亀史郎追悼集編集委員会編『生きること 愛すること 十亀史郎追悼集』:41-44,十亀記念事業委員会
- 国会会議録検索システム 2022a 「1967(昭和42)年5月25日 55回 衆議院 会議録 社会労働委員会 12号 」(2022年12月12日取得, https://kokkai.ndl.go.jp/#/)
- 国会会議録検索システム 2022b 「第55回国会 衆議院 社会労働委員会 第12号 昭和42年5月25日」(2022年12月12日取得, https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=105504410X01219670525¤t=1)
- 国会会議録検索システム 2022c 「第55回国会 衆議院 社会労働委員会 第17号 昭和42年6月7日」(2022年12月12日取得, https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=105504410X01719670607¤t=2)
- 廣 新二 1985 『日本政治史に残る三重県選出国会議員』,扶桑文庫
- 松竹 信幸 2023 『シン・日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』,文春新書
- 庭山 英雄 1986 「長老的存在の十亀さん」,十亀記念事業委員会編『生きること 愛すること 十亀史郎追悼集』:頁数,十亀記念事業委員会
- 押尾 玲子 1970 『あすなろの祈り』,講談社
- 小澤 勲 1984 『自閉症とは何か』,洋泉社.→2007 改装版.
- 佐藤 朝泰 2001 『豪閥 地方豪族のネットワーク』,立風書房
- 社会福祉法人あさみどりの会 2018 『療育援助』520 (*1967年結成の愛知県自閉症児者親の会・愛知県自閉症協会「つぼみの会」関係機関紙)
- 社民連十年史刊行会 1989 「新自由クラブ・民主連合」((1989年3月11日発行,2023年2月27日取得, https://www.eda-jp.com/books/usdp/3-8.html ),『社民連十年史 ――草の根のロマン――』(1989年3月11日発行,2023年2月27日取得, https://www.eda-jp.com/books/usdp/index.html )
- 衆議院事務局編 1936 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』衆議院事務局,(2023年2月22日取得,https://dl.ndl.go.jp/pid/1338018/1/145(国立国会図書館デジタルコレクション))
- 衆議院・参議院編 1962 『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局,(2023年2月22日取得,https://dl.ndl.go.jp/pid/3000139/1/162(国立国会図書館デジタルコレクション))
- 人事興信所編 1931 『人事興信録 9版』人事興信所,(2023年2月22日取得, https://dl.ndl.go.jp/pid/2127126/1/904(国立国会図書館デジタルコレクション))
- 人事興信所編 1937 『人事興信録 第11版(昭和12年) 下』人事興信所, (2023年2月22日取得,https://dl.ndl.go.jp/pid/1072938/1/55(国立国会図書館デジタルコレクション))
- 政策研究大学院大学編 2001a 『田川誠一オーラルヒストリー 上巻』(C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト報告書)
- ――――編 2001b 『田川誠一オーラルヒストリー 下巻』(C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト報告書)
- 高橋 悟 2020 「メモ/資料 あすなろ学園分離独立までの歴史(2020年8月21日)」(私信)
- 十亀記念事業委員会編 1986 『生きること 愛すること 十亀史郎追悼集』,十亀記念事業委員会
- 津偕楽公園公式ホームページ 2021 「SL機関車」,(2021年12月22日取得, http://www.xhotzone.net/vh/24a/vh18112002.php,2022年9月20日閉鎖確認(*代替参考情報として「椿ティドットコム(2022)」)
- 椿ティドットコム 2022 「【津駅徒歩 5 分】D51 499 号機【偕楽公園】」,(2022年9月20 日取得,https://tsubakit.com/2021/06/05/d51-499/)
- ウェブマガジン・カムイミンタラ,2023,「ウェブマガジン・カムイミンタラ第9号 資料」,(2023年2月21日取得, http://kamuimintara.net/sub/129_01.pdf)
- 植木 是 2022a 「1960年代の黎明期自閉症児の親の会と全国組織化の過程――三重県あすなろ学園とその親の会、および「自閉症児親の会」の関係資料から」,『立命館生存学研究』6:117-127
- ———— 2022b 「1960 年代、自閉症施設の出現とその背景——三重県における児童精神医療とその前史から」,『遡航』3: 71-86
- ———— 2022c 「1964 年、「あすなろ学園」の開設はどのように報じられたのか――「保護者と職員の会」の保存資料から」,『遡航』4: 100-118
- ———— 2022d 「1960 年代、自閉症とその周辺への支援を求めた「陳情書、請願書、要望書、理由書」——あすなろ学園「保護者と職員の会」保存資料から」,『遡航』5 :40-62