【論文(査読無し)】 資料 1960年代、どのように国会で「自閉症」に関する議論がなされたのか・1 ───1967年5月25日国会「自閉症」初出議事録より 植木 是(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
2023.02 『遡航』006号 pp.131-159
1960年代、「自閉症」を巡る国会議論、三重県あすなろ学園、三重県由縁の政治家・田川一族、地方と中央をつなぐ役割
要旨

本稿の目的は1960年代にどのように国会で「自閉症」に関する議論がなされたのかその発端を明らかにすることである。ウェブサイト「国会議事録検索システム」から得られた「保存発掘資料一覧」の一部を参照する。日本で初めて国会で「自閉症」ということばが登場したのは「1967年5月25日55回衆議院会議録文教委員会36号」である。〈重症児施設の分類処遇〉をめぐる質疑応答のなかであった。発言者の属性をみていくと、当時自閉症に対応し得る日本唯一の専門施設とされた、あすなろ学園のある三重県へ出向していた中央官僚や地方行政官幹部と、中央官庁・国政(厚生省官僚、国会・与党自民党衆議院議員)を媒介する役割を担った田川一族の存在が浮き彫りになってくる。つぎに国会に「自閉症」が登場するのは13日後「1967年6月7日55回衆議院会議録社会労働委員会17号」のことである。6月7日の国会では、野党社会党議員(三重県と国政では労組の連続性があった)が厚生大臣及び厚生官僚に対して、三重県あすなろ学園と日本の自閉症問題とその対処をめぐる質疑応答を、親の会設立の紹介なども交えて具体的に展開する。いずれにせよ、1967年5月25日のそれは国政の場で初めて具体的に自閉症問題を論じるきっかけをつくった発言として大きな意義があったといえる。

1. はじめに

本稿では、ウェブサイト「国会議事録検索システム」を用いて、1960年代の国会議事録を「自閉症」の後で検索し、その結果を「保存発掘資料一覧」(全41件)とした上で、その一部(No1~No20)について報告する(*なお、本稿で報告する各資料の全文は、別途「arsvi.com」ホームページ内の「あすなろ学園」頁http://www.arsvi.com/o/asunaro.htm に収録する)。

1.1. 「国会議事録検索システム」で1960年代「自閉症」を検索する

・「自閉症」検索結果【全476件】(2022年12月24日現在) ウェブサイト「国会議事録検索システム」を用いて「自閉症」を検索すると、該当会議録は全476件であった(2022年12月24日現在)。 ・「自閉症」の初出【1967年5月25日】 「古い順」で一番最初にくる議事録、つまり国会議事録における「自閉症」の初出は〈No1「1967(昭和42)年5月25日 55回 衆議院 会議録 社会労働委員会 12号」〉である。 ・1960年代、「自閉症」で検索された議事録の特徴——「件数」、最も「古い順/新しい順」でみる 本稿で焦点をあてる自閉症支援の黎明期、1960年代の「自閉症」の検索結果の特徴は、つぎのとおりである。 A.1960年代の議事録は全41件である。 B.「古い順」で最初にくる議事録、つまり1960年代最初の議事録は上記で見たNo1(国会における「自閉症」初出記録)である C.「新しい順」で最初にくる議事録、つまり1960年代最後尾の議事録はNo41「1969年8月5日 61回 衆議院 会議録 文教委員会 36号」である

2. No.1(1967年5月25日)~No.20(1968年5月17日)まで

国会議事録検索システムを用いた1960年代「自閉症」の検索結果全41件を年月日順に並べて整理した。本稿ではその前半部分、No.1(1967年5月25日)~No.20(1968年5月17日)までの表を以下に示す(*後半部分、No.21(1968年8月8日)~No.41(1969年8月5日)については、別途報告する)。

表1_植木
表1

それでは、つぎに表に示した議事録の詳細をみていく。 質疑応答記録のあるものは11件、【No.1、2、10、12、14、15、16、17、18、19、20】である。紙面の都合上、今回は、〈国会における「自閉症」の初出記録〉にあたる【No.1】について取り上げる。

2.1. No.1「1967(昭和42)年5月25日第55回国会 衆議院 会議録 社会労働委員会 第12号」

国会に初めて自閉症ということばが登場したのは、常陸宮夫妻臨席のもと東京都社会福祉協議会で行なわれた1967年2月26日「自閉症児親の会」設立大会の3ヶ月後にあたる★01、「1967年5月25日」のことである。 自閉症の該当箇所は2件、発言番号「022」〈竹内黎一〉、「023」〈渥美節夫〉である。 該当箇所、つまり「自閉症」というキーワードがヒットする箇所のみではその文脈が不明瞭である。このため、この問題(「自閉症」問題)に関する質疑応答が開始される「005」から、「自閉症」ということばが出現する「023」までの討議の展開過程を、以下2.2で全文引用して示す。 なお、筆者によって「自閉症(幼児自閉症、自閉様症状)」の箇所に下線部を付した。 また、「自閉症(幼児自閉症、自閉様症状)」ということばが記録されているのは7回である。

2.2. No.1の「自閉症」質疑応答に該当する議事録全文

005 箕輪登 ○箕輪委員 まず最初に、重症心身障害児についてお伺いいたしたいと思います。 重度の肢体不自由と重度の精神発達の遅滞があるいわゆる重症心身障害児の発生原因は、主として脳性麻痺といわれておるわけでありますが、脳性麻痺につきましては、妊娠中あるいは分べんに際しての管理障害がその原因の一つと考えられております。妊産婦対策を進めることによってある程度重症心身障害児の発生を防止することができると考えられておるわけでありますが、これに対しましていかなる施策を今日まで厚生省が行なってきたか、お伺い申し上げたいと思います。また、厚生省の行なった実態調査によりますと、全国で一万七千三百人と推定される重症心身障害児、並びに成人を含めますと一万九千三百名にも及んでおると聞いておるのでありますが、これらの重症心身障害児あるいは心身障害者に対して、いかなる対策が今日まで行なわれてまいったか、お伺いいたしたいと思います。 006 田川誠一 ○田川政府委員 重症心身障育児及び重症心身障害者、こういう方々に対する施策をもっとやらなければならないということが最近非常に強くなっておりますが、厚生省といたしましては、こういうような方々に対して、三十八年から重症心身障害の児童を収容して療育する療育費の予算補助を実施するようにしてまいりました。また、ことしの三月末現在、重症心身障害児を収容する施設といたしましては、公法人立の施設が十二カ所千百十一ベットそれから国立の施設が十一カ所、五百二十床、こういう施設をつくっております。それからもう一つは、そういうような施設に入らない在宅の重症者に対する施策でございますが昨年度より、指導員にそういうような家庭を訪問させまして、療育の相談、指導をさせておるわけであります。そのほか特別児童手当の支給も実施をされております。 それから、先ほど箕輪委員からの御指摘のように、そういうような重症児の生まれる原因が妊産婦に関係があるということもございますので、そういうような妊産婦の指導に対しても、できるだけこれをやらなければならないということをしておりますが、この妊産婦の指導については、こまかくは局長から説明をさせます。 007 渥美節夫 ○渥美政府委員 次官から御説明申し上げましたように、こういう重症心身障害児の発生原因となりますものが、あるいは遺伝的な問題もございますけれども、そのほか環境的な原因によって起こり得るということが、いろいろな研究から最近指摘されておるわけでございます。そういう意味におきまして、たまたま昭和四十年一月一日から実施されました母子保健法という法律も、実施の段階に移りましたために、保健所なりあるいは母子健康センターというふうな施設を拠点といたしまして、妊産婦なりあるいは乳幼児に対しまする保健指導というふうなものを強化してまいっておるのでございます。これには、保健所におきまして集団的に行なう場合もございますし、また、自宅に参りましての訪問指導というような方法も講じてやっておるわけでございます。 008 箕輪登 ○箕輪委員 ただいま御答弁にありましたような施策が現在まで行なわれてまいったのでございましょうがそれにもかかわりませず、これまで法制化されなかったことは——法制化されないというだけじゃなしに、どちらかというと、見のがされがちであったということが考えられると思うのであります。法制化の時期といたしましても、むしろおそきに失したといううらみがあります。そこで、今回法制化するに至りました理由を、ひとつお伺いいたしたいと考えます。 009 田川誠一 ○田川政府委員 法制化するのがだいぶおそかったのじゃないかという御指摘でございますが、そういう面も確かにあると思います。ただ、今回法制化することになりましたのは、先ほど申し上げましたように、三十八年末からだんだんと内容も充実してまいったわけでありまして、国立の療養所に設置できました十一カ所のほかにも、だんだん収審施設もふえてまいりました。そういう施設もだんだんとふえてきたということと、それから国立療養所に設置いたします重症心身障害児の収容施設も、年次計画をもちましてこれからふやそうということでありますし、今年度、四十二年度の予算にも、そうした施設をさらにふやそうという計画をしておるわけであります。そういうように、大体整備体制というものが確立されようというような時期に来ておるわけであります。そういう意味から、さらに施設の整備を促進するということと、それからもう一つは、入所児童の処遇をさらに向上させよう、こういうような目標のもとに、今回重症心身障害児の対策を法制化するようになったわけでございます。 010 箕輪登 ○箕輪委員 先ほども申し上げましたように、全国で一万九千三百名もおると推定されております重症心身障害児あるいは重症心身障害者、しかも収容を必要とされておるものが二万六千五百名もおるといわれておる現状から見て、現在わずかに千六百床程度しか施設は整備されていない、こういう現状を見ますときに、一刻も早くすべての重症心身障害児あるいは心身障害者、これらがすべて収容できるように施設の整備をはかる必要があろうかと考えるわけでありますが、この重症心身障害児あるいは心身障害者施設の整備計画がどのようになっているか、お尋ね申し上げたいと思います。 011 田川誠一 ○田川政府委員 重症心身障害児の数に比して収容施設が足りないという御指摘は、まさにそのとおりでござまして、政府といたしましても、できるだけ施設を早くつくりたい、整備をしたいという気持ちでございます。年次計画を立てまして、重症心身障害児の施設を昭和四十五年までの計画として約八千床整備をしたいということでございます。これで大体収容を必要とする人の半数ぐらいまで何とかいけるのではないかということでございます。 それから、先ほどちょっと触れましたけれども、四十二年度におきましては、国立の収容施設として六百床、これはその中で国立療養所に設置をするものが五百六十床、あとの四十床は整肢療護園、これは日本肢体不自由児協会に委託をしてやっておる国有の施設でございますが、そこに四十床、計六百床をつくる計画でございます。さらに公法人立の施設に五百床、こういう計画を持っております。 もちろん、いま箕輪委員御指摘のように、これで十分というわけでは決してございませんで、先ほど申し上げましたように、これだけでもまだまだ半数程度であるということでございます。しかし、何ぶん施設だけつくって重症心身児の対策を期するわけにはまいりませんで、そういうような子供たちを介護する人々の養成もはからなければならないのでございまして、不十分ではございますけれども、できるだけひとつ施設を充実したい、一歩一歩充実していこう、こういうつもりでやっております。 012 箕輪登 ○箕輪委員 ただいまの御答弁によりますと、昭和四十、五年までに収容を要する児童の約半数を収容するべく施設を整備するというお話でございますが、私は、在宅の重症心身障害者の療育、これは非常に大事だと考えるのであります。家族の者にとりましては、非常にこの療育は困難をきわめておると思いますし、当然医学的管理のもとに療育が行なわれる施設への収容が望ましいと考えるわけであります。施設の整備については、建物の整備のほかに、療育に従事する職員、特に専門職種の職員の養成、確保が非常に困難な情勢にあるわけでありますが、これに対する対策はどのようになっておりますか、お尋ね申し上げたいと思います。 013 田川誠一 ○田川政府委員 先ほどもちょっと触れましたように、こういうような重症心身障害児を介護する人たちの養成というものはなかなかたいへんでございまして、特殊な仕事でございますし、またやっかいな仕事でございます。看護婦のほかに、保母さん、児童指導員というようなものを置かなければなりません。現在、大体収容児童二人につき一人の割合で療育を行なっておるようなわけでございます。これらの介護職員の勤務というものは、なかなか複雑で困難な仕事でございます。でありますから、こういう人たちの待遇も考えていかなければならない。これが、介護職員を養成していく上にも、また確保していく上におきましても、必要なことではないかと思います。今度の四二十年度の予算におきましても、こういう専門職員の養成を確保しなければならぬという配慮で、給与の改善もはかっておるつもりでございます。 014 箕輪登 ○箕輪委員 御答弁で大体わかりますが、重症心身障害児あるいは障害者に対して、これからも施設の整備などが適切にはかられてまいるだろうと考えたわけでありますが、重症心身障害者のいわゆる周辺疾患とも考えられる、単独の重度の肢体不自由や単独の重度の精神薄弱を持っている児童に対する施策も、決してゆるがせにはできないものであると考えるわけであります。これらの重度の障害が単独である者に対する施策はどうなっておりますでしょうか。 015 渥美節夫 ○渥美政府委員 一般的に私どもの施策といたしまして、早い時期におきましては、精神薄弱児施設あるいは肢体不自由児施設の設置という施策を推進してまいったのでございますが御承知のように、精神薄弱児施設に収容される精神薄弱児につきましても、その程度は非常に千差万別でありまして、重度の者もありますし、軽度の者もある。また、肢体不自由児施設における収容につきましても、日常絶えず介護を必要とするような重篤の肢体不自由児もございますれば、ある程度回復しまして社会復帰もできるというふうな症状の肢体不自由児もあるわけでございます。したがいまして、私どもの施策といたしましては、そういった子供たちの症状に応じての分数収容といいますか、分類介護といいますか、こういう方向に最近進んでまいったのでございまして、昭和三十九年以降、一般の精神薄弱児施設におきましても、その一部に特に重い方の重度棟というものをつくり始めたのでございます。たとえば、知能指数が三五以下の方々であるとか、あるいは知能指数が五○以下でありましても、盲と重複するとか、あるいはろうあと重複する、こういった方々のために、精神薄弱児施設の中に重度棟を設けまして、実はその収容の定員は約千五百名に達しております。それからまた、肢体不自由児の分野におきましても、こういった日常絶えず介護を要するような肢体不自由の子供のためには、やはり重度棟という設備を持ちまして、現在のところ約九百三十名程度の病床を確保しておるわけでございます。そういうふうな意味におきまして、特に重度の肢体不自由あるいは重度の精神薄弱、あるいは精神薄弱と盲とかろうとかが重複している、こういった方々に対しまする施策をさらに推進して、こういった病床数あるいは収容定員数を今後ともふやしていく。これは重症心身障害児施設の増設と並行いたしまして、これらに関する施策もさらに大幅に充実していかなくてはいけない、かように考えております。なお、先生御承知のように、国立の精神薄弱児施設というものが埼玉県にございますが、これらは、いま申し上げましたような重度の精神薄弱の方ばかりを百二十五名収容しているということでございます。 なお、在宅のこういった方々に対しましては、特別児童扶養手当が月額千四百円いま支給されているということは、御承知のとおりだと思うわけでございます。したがいまして、今後ともこういった各方面の施策につきましてはさらに重点を置いてまいりたい、かように思っておるわけでございます。 016 竹内黎一 ○竹内委員 ただいまの答弁に関連してお尋ねいたしたいと思いますが、重症心身障害児とは何ぞやという定義をひとつ明らかにしていただきたいと思います。 017 渥美節夫 ○渥美政府委員 つまり、いま申し上げましたように、精薄が重度であるという場合には重度の精神薄弱児、かようにわれわれ取り扱っているわけであります。また、肢体不自由の程度が非常に重度である、こういった場合には重度の肢体不自由児、こういうふうに考えます。したがいまして、御質問のございました重症心身障害児施設に入る重症心身障害児と考えられます者は、この両者にも属さない者、つまり重度の精神薄弱と重度の肢体不自由、これが重複をしている、かような症状の方をわれわれは考えておるわけでございます。 018 竹内黎一 ○竹内委員 精薄のほうは、たとえばIQ三五以下とか、あるいは盲ろうあの場合は、五〇でも云々ということはわかるのですが、そうすると、肢体不自由の重度の程度でございますね。これはいわゆる一級、二級、三級というふうなのがあるわけですが、どこまでを一応お考えになっておるわけですか。 019 渥美節夫 ○渥美政府委員 いまお話ございましたのは、身体障害者福祉法によりまする施行規則によりまして、一級、二級、三級というお示しがあったと思うのでございますが、私どもといたしましては、重度の肢体不自由児の程度は、いま申し上げましたように、おおむね一級及び二級に該当する、かように考えております。しかしながら、これは総合的にも精神薄弱との関係がございますので、一級、二級のみに限る、こういうふうに限定的には考えておらないわけでございます。 020 竹内黎一 ○竹内委員 一級、二級に限定はしないというお話でございますけれども、一級、二級というのは、ずばりと言えば大体寝たっきりの子供、こういうぐあいに私どもは了解いたすわけでございます。もちろんそういう子供さんに対しての援護の必要なことはわかるのでございますが、親の立場から見ますと、寝たっきりの子供よりも多少動ける子供、これを持ったほうがよけいに心配だと思います。また、子供が多少動けるばかりに、親がいわば一日じゅう縛りつけられてしまう、こういうことで、子供さんを持っている苦労としては、むしろこのほうが強いのじゃなかろうか、こういうぐあいにも考えるわけです。現に、今回のこういうような重症心身障害児施設というものを新たに児童福祉施設の中に指定をしていくということは、各方面から歓迎されておりますが、それと同時に、私どものところの子供は一体今度入ることができるのだろうかどうかという、こういう疑問がたくさんに出ておるわけでございます。一つの例を申し上げますと、これはある雑誌で紹介しておるわけでございますけれども、老夫婦が重症児の娘をかかえているケースでございますが、非常にきたない話ではありますけれども、大小便もたれ流しをするような娘さんであるが、からだははるかに老夫婦よりも大きく世話がたいへんだ、しかし、近いうちに施設ができて収容してもらえそうだという希望があったために、今日までがんばってきたけれども、今回何かそういうような定義がはっきりしたことによって、どうもはずれそうだ、うちの娘は入れそうでない、こういう話を聞いて目の前がまっ暗になったというこういう投書を紹介している雑誌もあるわけでございます。私は確かに親御さんの気持ちはよくわかるわけでございまして、多少動ける子供というものを、やはりこれは行政指導といいますか、あるいは行政解釈によってもこういう施設に収容してやるのが好ましい傾向ではないか。こういう意味におきまして、一級、二級ということをあまり厳格に考えられますと、多くの方に失望を与えるような気がしますので、その辺の運用についてもう一度伺いたいのです。 021 渥美節夫 ○渥美政府委員 先ほど御説明申し上げましたように、この重症心身障害児施設に入れるべき方々は、そういった重度の精薄と重度の肢体不自由が重複している、こう申し上げたわけでございますが、片方で、たとえば精神薄弱の度合いが重度の場合には、これは精神薄弱児施設の重度、こういうふうに一応は分類して私どもは進めたいと考えております。しかしながら、たとえば精神薄弱児施設の重度棟におきましても、この施策が発足いたしましたのが昭和三十九年でございます。まだその収容の施設も非常に少なく、またその定員も非常に少ないという現状でございます。そういった現状でございますので、私どもといたしましては、そういった施設の状況等にもかんがみまして、この法律を施行する実際の段階におきましては、運用につきましてはある程度幅を持ちまして運営していきまして、こういった子供たちの福祉が保たれるように考えていきたい。特に、現在すでに入所をされておる、多少いま申し上げましたようなワクからはずれるような方もいらっしゃるかと思いますが、そういった方々がこの施設から追い出されるというようなことはないように運用上十分気をつけてまいりたい、かように思うわけでございます。 022 竹内黎一 ○竹内委員 じゃ、もう一点だけ伺って、関連ですからやめたいと思います。 さっき分類して介護するんだという局長のお話がございましたのでお尋ねをいたしたいのですが、最近ジャーナリズムでもときどき取り上げているいわゆる自閉症の子供たちです。この子供たちは現在それではどういうような取り扱いになるわけですか。 023 渥美節夫 ○渥美政府委員 いわゆる自閉症あるいは自閉様症状の子供の問題は、実は、諸外国におきましても、またわが国におきましても、比較的最近取り上げられた問題でございます。一般的に申し上げますと、自閉症あるいは自閉様症状につきましては精神神経科の領域であろう、かようにいわれておるわけでございます。ただ、その療法自体におきましては、薬物療法等もあまり効果もないような報告がありまして、結局、心理療法を中心としてそれらの子供たちに対する治療が進められているという現状のようでございます。しかしながら、先ほど申しましたように、自閉症自体が精神神経科領域の疾患であるというふうなために、これは当然精神科つまり精神病院等におきまして治療をするというのが一般的なたてまえと思うのでございますが、いま申し上げましたように、心理療法等によります子供の福祉を考えての療法というようなものが効果的であるということでございますので、その取り扱いにつきましては、精神病院で行なうか、あるいはこういった収容施設で行なうか、こういうふうなところは現在議論が分かれているところであろうかと思うのでございます。したがいまして、自閉症あるいは自閉様症状の子供に対する措置につきましては、どうしたらいいかという点につきまして、いま学者の方々、お医者さんあるいは心理学者の方々の意見も十分聞いておるところでございますが、いずにいたしましても、小児における特殊な疾病であるという見地から、これらの施策の確立というものをはかってまいらなくてはならない段階がきておる、かように思っておるのであります。そういった意味において、目下検討をして早く手を打ちたいというのが私どもの考え方でございます[…] (国会議事録検索システム[2022b])

3. 国会における自閉症の出現背景-1

上記のことから、いわゆる〈重症心身障害児施設の分類処遇の問題〉の討議から「自閉症」ということばが初めて国会内で登場してきたことがわかる。そして、行き場のない自閉症児は1967年当時、国の認識としては「精神神経科の領域であろう」ということだったことがわかる。 重症児施設★02以外の行き場として、①精神病院で治療の対象とするのか、②それとも1964年に施策化されてきた精神薄弱児施設に付置された重度棟で受け入れるのか、③あるいは埼玉にある国立の施設(*1958年設立の国立重度精神薄弱児施設秩父学園のこと)で処遇すべきなのか、と意見が分かれていながら、「小児における特殊な疾病であるという見地から、これらの施策の確立というものをはかってまいらなくてはならない段階がきて」いるという答弁を引き出している。

3.1. 発言者のプロフィール

さて、つぎに発言順に①~④、4名の発言者のプロフィールを以下、列記する。 ①「箕輪 登」(みのわ のぼる、1924年3月5日生~2006年5月14日没)は、北海道小樽市生まれの自由民主党所属の衆議院議員(通算8期)で、北海道帝国大学(現:北海道大学)医学専門部卒の医師である。1962年より佐藤栄作の秘書兼医師をつとめ、またのちに郵政大臣、防衛政務次官などを歴任し1990年に政界を引退する(ウェブマガジン・カムイミンタラ[2023])。自民党タカ派議員として知られていたが、2004年1月28日「自衛隊イラク派兵は違憲」の訴訟を起こす。それと同時期に出版された著書に『憲法9条と専守防衛』(2004年、内田雅敏との共著、梨の木舎)、そして『我、自衛隊を愛す 故に、憲法9条を守る―防衛省元幹部3人の志』(2007年、小池清彦・竹岡勝美との共著、かもがわ出版)がある。上にみた著書のうち後者は、当時かもがわ出版編集長(現、同主幹)であった松竹伸幸(まつたけ のぶゆき、1955年~、元日本共産党中央委員会、日本ジャーナリスト会議出版部会世話人。2023年2月6日、『シン・日本共産党宣言 ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由』(2023年、文春新書)で注目を集めた一連の言動で、民主集中制・分派活動の禁止の組織原則に違反するとして日本共産党を除名される)が、日本共産党中央委員会勤務員であった際に志位和夫委員長と自衛隊活用論を巡って論争・対立し、2005年自己批判文を発表した後に2006年同党勤務員を退職し、同年かもがわ出版に移り「自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会」で事務局長をしながら、平和外交と自衛隊のあり方について示していこうという趣旨のなかで産み出された企画で、それは超党派の9条の会や護憲派の結集を模索したものでもあった(松竹[2023:94-98])。 ②「田川 誠一」(たがわ せいいち、1918年6月4日生~2009年8月7日没)は、神奈川県横須賀市出身の衆議院議員(通算11期)で、当時は自由民主党所属の「ハト派」として知られた。のちに新自由クラブ代表(第2代)、進歩党代表をつとめ社会民主連合(社民連)と統一会派「新自由クラブ・民主連合」(1981年9月~1983年8月)を結成した、いわゆるリベラル派、進歩主義派の代表的な政治家である★03。 父は、横須賀酒類商業組合理事長、田浦土地建物取締役のほか神奈川県議会議員(通算2期)をつとめた田川誠治(たがわ せいじ、1892年8月5日生~没年不明。慶応大学卒。実業家、政治家、自由主義者)で、誠一は長男にあたる(政策研究大学院大学[2001a: 3-8])。 母方の従弟には自民党で同じくハト派でいわゆる従軍慰安婦問題について述べた「河野談話」で知られる政治家、河野洋平(こうの ようへい、1937年1月15日生~、内閣官房長官(第55代)、自由民主党総裁(第16代)、新自由クラブ代表(第1・3代)など歴任)がいる(政策研究大学院大学[2001a: 13-14])★04。 祖父は、戦前、神奈川県多額納税者で憲政会所属の衆議院議員(通算1期)をつとめた田川平三郎(たがわ へいさぶろう、旧姓・高橋、1868年4月22日生~1951年2月17日没)である。田川平三郎は、三重県飯南郡花岡村(現松阪市)出身で高橋萬蔵の六男であったが神奈川県の大地主であった田川幸蔵の養子となる。1901年、養弟國太郎の後を承け家督を相続し、米並びに酒商を営み、後に神奈川県議、鎌倉銀行取締役、田浦土地建物取締役をつとめた。田川平三郎が神奈川県多額納税者であったということからもわかるように田川家は神奈川県の名士、大地主の家系である(人事興信所[1931: 904] 衆議院事務局[1936: 164] 人事興信所[1937: 55] 衆議院・参議院[1962: 162] 政策研究大学院大学[2001a: 3-8])。 また日本初の自閉症児施設あすなろ学園(1964年1月15日設立、三重県)が本院の高茶屋病院から分離独立の際の三重県知事は「田川 亮三」(たがわ りょうぞう、1919年3月8日生~1995年9月18日没)で、田川誠一の従弟である。田川亮三は、従兄の田川誠一と同じく神奈川県横須賀市出身で、京都大学卒後、農林省官僚、三重県秘書課長、同企業庁長、同副知事をつとめる。三重県知事時代(1972年~1995年)は、当初は民社党・日本社会党支援の野党系無所属、のちに非共産のオール与党支援の無所属からの出馬であった★05。 ちなみに、あすなろ学園初代園長十亀史郎(そがめ しろう。児童精神科医。1932年3月7日生~1985年9月13日没。京大卒。愛媛県西条市生まれ)の「追悼集」(十亀史郎追悼集編集委員会[1986])の表紙に毛筆で書された題字「生きること 愛すること」(十亀史郎追悼集編集委員会編[1986]表紙)は田川亮三によるものである(十亀史郎追悼集編集委員会編[1986]中表紙裏)★06。 ③「渥美 節夫」(あつみ さだお、1922年生~2009年没)は、当時、厚生省児童家庭局長の官僚で、のちに全国里親会会長、日本社会福祉弘済会理事長、日本心身障害児協会理事長をつとめた(日々のきづき[2023])。著書に『児童養護』(2008年、網野武博・ 柏女霊峰・新保幸男編、日本図書センター)、『児童福祉事業概論』(1966年、全国社会福祉協議会)がある。 ④「竹内 黎一」(たけうち れいいち、1926年8月18日生~2015年9月5日没)は、青森県黒石市生まれで東京大学経済学部卒業後に毎日新聞社記者となり、当時は自由民主党所属の衆議院議員(通算10期)。のちに科学技術庁長官、原子力委員会委員長、衆議院外務委員長・環境委員長等を歴任した。父は青森県知事や衆議院議員を務めた竹内俊吉である★07。

3.2. 小括;自閉症ということばが出現してきた文脈、その特徴

上にみてきたように〈重症児施設における分類処遇の問題点〉を討議するなかで「自閉症」ということばがでてきたが、その表れ方の特徴をつぎに列記する。

A. 討議の発言順;【自由民主党議員による質疑から開始】

①自由民主党社会労働委員会委員の箕輪【5】(【】内数字は発言回数、以下同)、②同党の政府委員の田川【4】、③厚生省児童家庭局長の渥美【6】、④自由民主党社会労働委員会委員の竹内【4】、の順に質疑応答が展開されていく。

B. 発言者の属性1;【厚生官僚と自由民主党議員】

この発言者らのなかでは、③の厚生官僚・渥美以外は、すべて自由民主党所属の衆議院議員であった。

C. 発言者の属性2;【自民党議員の医師、自民党議員の元毎日新聞記者】

討議開始①の箕輪は自民党議員の医師、④の竹内は自民党議員の元毎日新聞記者であった。

D. 発言者とあすなろ学園(三重県、日本初の自閉症(児)施設(1964年設立、県立))との関係性;【従兄弟関係にある中央の政治家(衆議院議員)と地方の首長(後の三重県知事)】

②の「田川 誠一」と、のち1986年に、あすなろ学園が親の会の念願がかなって、三重県立高茶屋病院から「小児心療センターあすなろ学園」として、分離独立した際の三重県知事であった「田川 亮三」は従弟にあたる。 田川亮三は、あすなろ学園の整備問題や自閉症問題に関して、数多くの陳情、請願を親の会から★08受けてきた(*別途、1970年代のこの種の陳情書、請願書の類は、詳しくみていく)。また田川亮三は1967年当時、先にみたように官僚として中央官庁(農林官僚)から地方自治体(三重県幹部(三重県秘書課長、同企業庁長、同副知事))へ出向していたため、あすなろ学園親の会組織や職員組織から各種の陳情・請願など、医療・教育・福祉などの権利保障を求める運動を県当局として対応する立場にあった。このため当然、三重県に集まってくる自閉症児とその親組織を通して、自閉症問題にはある程度精通していたと思われる。 つまり、1960年代後半当時、いわゆる「混乱の極」(小澤 [1984→2007:54])にあった「自閉症問題」、そして国内唯一の自閉症児施設であった「あすなろ学園」が抱える自閉症現場の問題に、最も詳しい行政官のうちの一人が田川亮三であったと思われる★09。 また先にみたように、田川誠一と田川亮三は従兄弟関係の田川一族で、祖父の政治家・田川平三郎は三重県出身だった。このことからも、当時の中央政治・官庁と地方政治・自治体に影響力をもつ田川一族のつながりが、三重県と国をつなぐ役割を果たしていた可能性は十分に考えられる。つまり、当時日本唯一とされた、行き場のない自閉症児に対処し得る医療・教育・福祉機能を備え持つ専門施設あすなろ学園が、一地方の公立病院・院内施設でありながら全国的規模の問題を抱えざるを得なかった実態——不就学の状態で在宅で孤立無援にあった自閉症児とその家族たちが、何とか「必死に求める救いの道」(押尾[1969:275-276])を探し当てて、全国から集まってきた実態——を国会で取り上げるということに何らかの影響を与えていた可能性は、十分に考えられる。 こういった背景から田川亮三は、国・厚生省への事前の種々の「申し入れ」★10のほか、田川誠一とその周辺の自民党議員たちに、「自閉症問題」に関して国会で発言するよう積極的に協力依頼をしていた可能性が十分に考えられる。

E. 「自閉症」を国会で初めて発言した人;

「自閉症」について初めて国会で発言したのは、④の自民党議員・元毎日新聞記者の竹内であった。 その文脈としては、厚生官僚・渥美に対する「重度の障害児者の問題」、とりわけ上記でみてきたように「重症児施設の分類処遇」の質問のなかから「自閉症」の問題へと焦点化していく際のことであった。

4. おわりに

本稿でみたNo.1「1967(昭和42)年5月25日第55回国会 衆議院 会議録 社会労働委員会 第12号」にある〈重症児施設の分類処遇〉をめぐる質疑応答のなかで出てきた「自閉症」ということばは、国政の場で初めて具体的に自閉症問題を論じるきっかけをつくった発言として大きな意義があるといえる。またこれを根拠に、自閉症問題を具体的に明らかにしていくながれをつくったとも考えられる。1960年代を対象とした「国会議事録検索システム」の「自閉症」の検索結果をまとめた「保存発掘資料一覧」から、変遷を読み解いていくため、次回はNo.2「1967(昭和42)年6月7日 第55回国会 衆議院 社会労働委員会 第17号」について、詳しくみていく★11。