【論文(査読無し)】 単身ALS患者の入院から在宅移行の実態 ───介助体制再構築の支援課題 西田 美紀(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
2023.04 『遡航』007号 pp.12-34
単身ALS患者、在宅移行、介助体制、支援課題
要旨

本稿では、単身ALS患者の入院から在宅移行の実態を通して、介助体制再構築の支援課題を明らかにした。研究方法:単身の60代男性1名の入院生活から在宅移行支援を参与観察し、2008年6月12日~2008年7月13日の記録より支援経過をまとめた。結果:入院から1ヶ月を経過して提出されたケアプランは入院前のものとほとんど変わらず、介護保険しか使われていなかった。支援者は障害福祉サービスの情報提供、重度訪問介護の受給とケアプラン作成のための関係機関への連絡補助を行ったが、障害の認定調査から区分判定までに2ヶ月かかり、その間に単身ALS患者の病状は進行していた。また、気管切開をしていないことから障害福祉サービスは必要ないと判断され、夜間に重度訪問介護を組み込んだケアプランは、引き受ける事業所そのものがないことから不可能とされていた。病院から退院を迫られる中、支援者が重度訪問介護を提供する介護事業所とヘルパーを探すことで、障害福祉サービスを併用するケアプランの実現性が高まり、医師の意見書によって認められたが、介助体制の再構築には3ヶ月ほどの時間がかかった。

はじめに

運動神経が障害される筋萎縮性側索硬化症(amyotrophic lateral sclerosis:以下ALSと記す)は、全身の筋肉が徐々にやせて力が入らなくなるため、病状の進行に伴い24時間の介助が必要となる。単身者の在宅生活は特に介助体制の構築が必要不可欠であるが、全国で単身の在宅ALS患者が少ないことからも、介助体制に関する先行研究は極めて少ない。ALS患者の介助体制の構築には、介護保険法と障害者総合支援法のサービスを利用できるが、介護者不足(小川他[2016:77])や夜間は別居家族が介助していたが対応できなくなり自費での介護が導入されていた報告(奥村・羽鳥[2010:56])からも、24時間の介助体制が容易ではないことが推察される。  看護師であった筆者は、単身ALS患者の在宅支援に5年7ヶ月携わった。支援のきっかけは、2008年3月上旬に勤務先のデイケアの医師(以下A医師と記す)より、以下の相談を受けたことだった。  単身ALS患者は自宅での生活を希望しており、生きていたいという思いも抱いていた。しかし、離れて暮らす娘も病気を抱えており、介護する家族がいなかったため、病院で確認された事前指示書★01 に人工呼吸器は装着しないとサインをしていた。筆者は進学予定の大学院のウェブサイトや研究会を通して、市内に単身のALS患者が暮らしており、大学院の研究者が関わっていたことを知っていた★02。その情報をA医師に伝えると、大学院とつなげて欲しいと依頼を受け、勤務先のデイケアで一人暮らしのALS患者に話しかけたのが、以下の報告の主役となるSとの最初の出会いであり、本研究のはじまりだった。  Sの病状の進行は早く、デイケアに通い始めた頃はなんとか自力で歩いていたが、筆者との出会いから間もなく自宅で転倒を繰り返すようになり、身の回りのことが自力でできなくなった。研究者の川口有美子★03 をA医師に紹介したことで単身ALS患者への支援の可能性が見え、医療管理も含めた在宅生活の再構築の必要性が確認されたが、介助体制の構築には時間を要し、在宅生活が困難な状況となり入院することになった。その詳細については、診断後の在宅生活の実態(西田[2023])に記した。  入院後から市内の単身ALS患者Kの支援者や大学院の研究者がSと交流できるようになり、専門職とともにSの在宅移行支援を行った。本稿ではその支援について報告するものである。筆者の調査は10年前に行われたものであり、その間に24時間の介助体制を可能にする障害福祉サービスの重度訪問介護★04を提供する介護事業所は筆者の居住区でも増えた。しかし、重度訪問介護サービスの利用にあたっては、近年においても患者によって支給時間に大きな格差がある(京都新聞[2019])。  よって、複数の制度を組み合わせたALSの介助体制構築の過程と支援課題を明らかにすることは、単身ALS患者の在宅生活はもちろんのこと、ALS患者家族の介護負担の軽減にも寄与でき意義があると考える。そこで、本稿では、単身ALS患者の入院から在宅移行の実態を記述し、介助体制構築の支援課題を明らかにする。

Ⅰ. 研究方法

Ⅰ-1. 対象者

Sは電機メーカーに長年勤務していたが、診断されたときはタクシーの運転手をしていた。病気の症状が現れたのは2006年の夏頃からである。左手の握力が低下し感覚も鈍くなり、近くの病院を受診したが、原因が分からず経過観察となった。その後、症状が徐々に悪化し、自転車で転倒するなど日常生活に支障を来すようになったため、2007年5月に他の病院を受診した。その病院でH病院を紹介され、同年の6月に検査入院をし、ALSと診断された。7月の退院時に退職し、要介護度2の認定を受けて、訪問介護と訪問看護を利用しながら自宅で生活をしていた。同年12月に胃ろうを造設★05するために再入院し、2008年1月に退院となった。ALSを発症する前から Sは一人暮らしをしており、家族の支援が得られず入所する施設もないまま症状が進んでいたため、2 月中旬より筆者が勤務していた診療所のデイケアに通所するようになった。その後、支援によって在宅生活を続けたSは、2012年に胃がんを発症し、手術を受けたが他臓器に転移し、2013年10月9日に自宅で最期を迎えた。

Ⅰ-2. 研究方法と研究期間

Sの研究期間は2008年3月~2013年10月までだったが、本稿では、2008年6月12日~同年7月13日までの参与観察について報告する。  入院生活と支援過程を把握するために、入院中の面会や支援を通して見聞きしたことをメモに記録した。メモ以外の記録物としては、インターネットでのメールでのやり取り、カンファレンス記録、サービス計画書を用いている。カンファレンス記録とSのサービス計画書については、Sと診療所の医師に許可を得て使用した。  用語の定義について以下に記す。  ①本稿では、身体障害に対する日常生活サポートの同義語として、文脈に応じて「介助」「介護」「ケア」を用いている。②入院生活のリサーチをしながらSの在宅移行の支援に携わった筆者・堀田・長谷川・山本の全員が関わっている場面では、総称して「支援者」と記している。③障害者福祉制度は、2003年の「支援費制度」の導入から、サービス課題の解消のために2005年に「障害者自立支援法」が公布され、その後2013年に「障害者総合支援法」として改正されて現在に至っている。そのため、調査期間の記録の中では「障害者自立支援法」と記されている。記録からの引用以外の部分では本稿執筆時点での現行法である「障害者総合支援法」と記した箇所がある。

Ⅰ-3. 倫理的配慮

研究に関する説明書に沿って、研究目的・方法・倫理的配慮についての説明を行い、自署が困難であったため代筆者による署名によって同意を得た。本稿で使用している記録物の開示については生前にSから承諾を得ており、報告したものは生前に全文を確認してもらっている。筆者はSにとってデイケアの看護師であり支援者という立場でもあったため、研究の依願や継続を拒否しにくい可能性があった。その点については確認しながら十分に配慮したつもりであるが、S自身が「同じ境遇のALS患者のために、自分の在宅生活の大変だったことも含めて残して欲しい、それがあとに続く人のためになるから」と希望しており、その役割を筆者が託されていたことも記しておきたい。  本研究の記述は、独居ALS患者の在宅生活の構築過程で、筆者が支援者として関与した中で目に映った限りの知見に基づいており、そうした意味では、必ずしも中立的な観点からのものではないという限界がある。同時に、以下の章で詳細に記述し分析していくように、独居ALS患者の在宅生活を安全かつ快適に営むために必要な体制を構築して続けていくには、既存の制度に多くの壁が存在したこともまた事実である。そこでは、既存の制度に介入せざるをえないこともあったが、本稿では介入された立場からの多角的な分析までには及んでいない。しかし、様々な場面で聞いた発言や対応は各々の職務としてなされているものとしてその背景に着目して記述し、施設名や個人名を伏せるなど、できる限りの配慮を行った。また、Sから聞いた言葉については、Sからはそのように聞こえ、受け止められていたという「事実」として、本稿ではそのまま記載している。

Ⅱ. 入院から在宅移行の実態

入院後のケアプラン

入院前のSのケアプランは、週4回のデイケア、デイケア前の訪問介護が30分、それ以外の曜日は1日1.5時間の訪問介護と、訪問看護が週2回入っていた。入院前のケアプランを表1に示す。  入院して1ヶ月が経過した5月30日、ケアマネジャーが作成した退院後のケアプランがデイケアに送られてきた(表2)。しかし、入院前のケアプランと比較するとデイケアから帰宅した後に訪問介護が1時間増えただけだった。A医師はケアマネジャーにケアプランの立て直しを求め、B病院でカンファレンスが開かれることになった。6月12日、カンファレンスに参加したA医師から修正後のケアプランが提示されたが、就寝前の介護が追加されていただけだった。日曜日の昼間は入院前のケアプランと変わらず、1.5時間しか訪問介護が入っていなかった。  入院直後にデイケアで行ったカンファレンスでは、介護保険のサービスを最大限活用し、足りなければ障害福祉サービスを活用するという方針だった。障害程度区分の認定調査が入院直後にされたことからも、筆者は障害福祉サービスを併用したケアプランになっていると思いA医師にその旨を確認したが、「日曜日は介護事業所が対応できなかったようで、デイケアに来ることを提案した。それ以外はケアマネジャーの仕事なので医師の立場からは言えない」とA医師は言葉を濁した。ケアマネジャーとコンタクトをとりたいと筆者は希望したが、「他の職種がケアマネの仕事内容に意見を言うのはよくない。生活面での意見が言えるのは本人か家族。とりあえず一旦退院し、退院後の状況を見てはどうか」という意見だった。  一方で、同市で暮らす単身ALS患者Kの支援者や研究者からは、「入院前と変わらないケアプランで退院すると危険なのでもう少し入院していた方がよいのではないか」という意見があった。S本人に、提示されたケアプランで生活をしていけるのか確認すると、「難しいかもしれない」と言う。カンファレンスで何故自分の意見を言わなかったのか尋ねると、Sには以下の理由があった。①入院生活のストレスから解放されたい、②入院が長引くと特別障害者手当★06 が切れてしまう、③生活費の支払いが滞ってしまう。そのため、①については、安全な状態で退院できるよう支援者らが支援をすること、②については、特別障害手当の正確な給付期間を伝えた。③については、支払い用紙とお金を預かりATMで振り込みを代行した。また、一人では暮らせない時間帯は自分から申し出るように、Sに伝えた。

表1_西田
表1
表2_西田
表2

支援者との顔合わせ

6月22日、病院の会議室を借りて、長谷川・山本・堀田と介助のバイト学生3名★07、Kの支援者とSが顔合わせをした。Sは現在の身体症状について、「左手は全く動かないが右手も上がりにくく、ご飯を自分で食べるのが難しくなってきている。一人では歩行できなくなり車いすが必要である。背中が痙攣する。入院してから症状の進行が早い」と話しており、皆の前で字を書いて見せたが、かろうじて読み取れるぐらいの筆圧だった。Sの入院中のストレスは増大しているようで、「看護師が少なくて忙しい。トイレが終わってコールを押しても10分~15分はいつも待たされる。身体の調子が日によって違う。足で車いすを操作するのがしんどくなっている。食べ終わってないのに時間が来たら食事を下げられる。早く退院がしたい」と言っていた。  この場ではケアプランについては話されなかったが、ケアマネジャーより新しいケアプランが提出されていた。しかし、デイケア送迎と夕食時、そして就寝前に合計3時間の訪問介護しか入っていなかった。また、デイケアがない日は多い日で訪問介護が5.5時間と訪問看護の1時間で、最も少ない日は2.5時間の訪問介護のみで22時以降は空白のケアプランだった(表3)。障害程度区分調査の結果が未だに分からない状況であったため、支援者はSと今後の予定について話し合い、以下のことを決めた。①福祉事務所で障害福祉サービスの状況を確認する、②外出支援をして支払いや書類の手続きを行う、③病棟ではパソコンの利用ができないため、外出時に意思伝達装置の練習をしながら退院に必要な情報をSと入手していく。②については、娘さんの居住地が離れていたことや体調不良のため頻繁に病院に来られず、S宛ての郵便物の受け取りや支払を代行できる人がいなかったからである。③については、Sの呂律が回りにくくなっており、病院で意思伝達装置の練習がされていないことから、スイッチ研★08の活動をしていた堀田・長谷川・山本が、コミュニケーションツールや情報収集のサポートを行うことにした。

表3_西田
表3

専門職と支援者の行き違い

前項①については、堀田が代理で福祉事務所に電話を入れ、Sとともに介護給付申請に出向きたいという希望を伝えたが、「ケアマネジャーを通さなければ申請できない」と取り合ってもらえなかった。そこで、Sがケアマネジャーに連絡して福祉事務所に行く予定日に同席を求め、同席が難しい場合は了解を得て支援者と行きたい旨を伝えた。堀田はケアマネジャーが同席できない場合、可能な日程に変更する予定でいたが、ケアマネジャーはすでに支援者と行く日程を決めていると認識していたようだ。この行き違いの影響からか、ケアマネジャーよりSと堀田が予定している日には福祉事務所に行かないと連絡があり、デイケアの相談員に、「(サービス計画書の)空白部分の介護は追加するので7月1日の退院で考えている。再調査になると申請に時間がかかるため、このまま退院してもらおうと思っている」と連絡が入った。デイケアの相談員が本人の意向を確認すると、「本人には明日許可を得る」と答えたようだ。

ケアプランの主体性

障害認定区分調査が結果待ちの状態にあってはケアプランの作成が困難な状況であることは推察されたが、そのまま退院すると危険を伴う。堀田が「ケアプランは本人が作成することも可能である」ことを助言すると、Sは空白の夜間帯に障害福祉サービスを入れ、ケアマネジャーの介護保険のケアプランと合体させ申請しようとした。これまでSは制度に関する知識がなく、ケアマネジャーにお世話になっているという思いもあり、持ってくる書類に印鑑だけ押している状態だった。しかし、こうした支援者とのやり取りの中で、自分の生活に対する考えを表明するようになり、ケアマネジャーに以下の内容を伝えていた。

 自分の今後の生活のことなので、自分でプランニングしたい。入院時から確実に進行しているので今のケアプランでは無理。障害者自立支援法を併用したプランでない限り退院できない。夜間の介護保障は自分が福祉事務所に交渉する。(長谷川[2009:194-195])

Sは福祉事務所にも電話をしていた。夜間の時間帯を障害福祉サービスで埋め、介助体制を整えてから退院したいことを訴えると、ケアプランについて話し合いの場が設けられることになった。ケアマネジャーやケースワーカーとのこうしたやりとりは、Sが携帯電話を持ち操作することができなかったため、長谷川と山本が代わりに携帯を持ち、Sの耳にあてながら行っていた。堀田はその間にSの介助を担う学生ヘルパーの登録先やヘルパーが足りない場合に派遣してもらえる介護事業所を市内で探した。単身ALS患者Kの在宅生活の支援経験により、ヘルパー集めや事業所探しに時間がかかることを知っていたからである。筆者も川口を介して紹介された単身ALS患者Kの支援者に状況を相談した。すると、単身ALS患者Kのヘルパー派遣を担っているA介護事業所の代表者より連絡があった。Sの事情を説明すると、Sの在宅移行支援と退院後のヘルパー派遣をしてくれる流れとなった。

介護保険と障害福祉サービスの適用関係

2008年6月30日、病棟のカンファレンスルームで、ケアプランについての話し合いが行われた。参加者は、ケースワーカー、ケアマネジャー、保健師、堀田、長谷川、山本だった。堀田、長谷川、山本は、障害者自立支援法の障害程度区分が「6」と認定されたことから、障害福祉サービスの重度訪問介護を併用したケアプランが進められると思っていたが、ケースワーカーは「介護保険のケアマネジャーがケアプランを作らないと受付けられない」と主張した。また、介護保険優先という認識にあるケースワーカーとケアマネジャーに対して堀田が、介護保険と障害者自立支援法の優先関係は本人の状態に合わせた適応が可能であるという厚生労働省の通知★09を提示したが理解が得られず、以下のやり取りが行われていた。

障害者自立支援法の利用にあたって、ケースワーカーは「医療的ニーズに応じて障害者自立支援法の利用が可能である。現在は気管切開もしておらず痰の吸引も行なっていないために必要ない」と判断した。この発言に対してSが「夜間は特に身体も固まって動かないし、痰を吐き出すこともできない。ナースコールさえ押すことができないときがある」と訴えた。すると、「そんなときはどうしてるの?」とケースワーカーが質問し、Sは「ずっと我慢している。息もしづらい。なんとか頑張って痰を飲み込むしかない」と答えた。これを聞いたケースワーカーは「それなら大丈夫ですね。」と言い、ケアマネジャーもそれに相槌を打った。(長谷川「2009:198」)

この時、ケアマネジャーから提示された退院後のケアプラン(表4)は介護保険のみで組まれていたが限度額は大幅に超過しており、経済的な不安を抱えるSにとっては承諾できない内容だった。また、Sが希望していた夜間介護については、堀田が事前に障害当事者が代表を務める日本自立生活支援センターから得ていた情報にもとづき、以下のやり取りをしていた。 「緊急時にナースコールを押せない状態は見守りが必要な状態だと認識されているのではないか」と(堀田が)言ったところ、ケースワーカーは「その程度の状態では必要ない」と答え、ケアマネジャーは「転倒は健常者でもするのだから」と言った。夜間介護については、ケースワーカーとケアマネジャーから「事業所・ヘルパーの調整が困難である」と伝えられた。障害者自立支援法で夜間介護をケアプランに組み込むことは、引き受ける事業所そのものがないために不可能だと判断されていた。そこで支援者が、すでにヘルパー候補者は集まっており、資格の獲得も予定されていること、そしてヘルパー候補者の登録先である介護事業所が夜間介護を引き受けてくれることを伝えた。すると、ケースワーカーの態度が一変し、「医師の意見書」があれば夜間を障害者自立支援法で賄うことも不可能ではないという回答が得られた。「審査を通すには私も説明できるものが必要なんだ」とケースワーカーは話していたが、空いている10時間の全部を埋められるかどうかについては確約を得ることはできなかった。いずれにしても、「医師の意見書」が全てということであった。(長谷川[2009:199])

表4_西田
表4

ケアプラン作成の困難

入院直後の障害程度区分認定調査時に医師の意見書は提出されていたが、介助を受ける時間をより多く認めさせるには別途審査が必要であり、医師の意見書が再び必要となった。  入院してから2ヶ月ほどでSの病状は明らかに進行していた。呂律が回りにくく聞き取りにくさは増しており、肩まで上がっていた右手は胸までしか上がっておらず、前かがみで食事を口に運んでいた。左手が使えないため皿が支えられず、食事動作や飲み込みにも時間がかるので疲れると言っていた。介助がないと立位や歩行はできなくなっており、足に力が入りにくい上に筋力に左右差があるので、足での車いす操作が疲れると言っていた。しかし、こうした状態変化はケアプランに反映されていなかった。  介護保険と障害福祉サービスを併用したケアプランはケアマネジャーが作成するという関係機関の認識のもと、Sのニーズが反映されない状況に対して、堀田が障害者地域生活支援センターの相談支援員と連携してケアプランを作成することをケアマネジャーに提案したが、具体的な回答は得られなかったようだ。しかし、この2日後に、ケアマネジャーはSに介護保険の超過分と夜間帯は障害福祉サービスを活用するプランで見直してみるという意向を伝えてきた。

病院看護師との認識のズレ

ケアプランの話し合いがされたあとから、支援者に対する看護師の態度が一変した。  入院中に支援者は、ケアマネジャーや福祉事務所への携帯電話の連絡補助や、各種必要な書類の手続きや支払いの代行などを行っており、Sが自力での食事や車いす操作に疲れているときは見るに見かねて介助をしていたこともあった。Sは病棟師長に自分に必要な支援を家族の代わりにしてもらっている人たちであると説明しており、食事介助の場面を見ても看護師がこれまで問題視することはなく、「ご苦労さま」と労いの声がかかっていたと長谷川や山本たちからは聞いていた。  しかし、話し合いのあと、堀田がSの食事介助をしていたら看護師から「何をしているのですか」と問い詰められたようだ。その日(2008年7月2日)は、Sが食事を口まで運べない状態で、折れたフォークの歯が皿に入った状態だったため、危ないと思い堀田は食事介助をしていたが、看護師から以下の注意を受けていた。

「Sさんの日常生活動作を評価記録するため本人がどこまで自力でできるのか見極める必要があり、ボランティアだとしても介入されるのは評価の妨げになる」とのことだった。[…]夕食後、病棟の看護師長と支援者との間で話し合いの場が設けられた。このときSは、入院中の症状が進行し腕も上がらなくなったため、介助がなければ食事を満足に食べることはできないと訴えた。師長は「看護師が認識している状態とSの主張する介助の必要な状態との間にギャップがあり、看護師が『できるはすなのに』と思っているためではないか」と説明した。そこで師長は、「明日の朝に会議を開き、その場で病棟看護師にそのギャップを埋めるように指示する」とのことだった。(山本[2009:203])

こうした病棟看護師の態度の変化は、ケアマネジャーが看護師に身体評価を依頼したのか、あるいは意見書を求められた医師が看護師に評価の指示をしたことが考えられたが、いずれにしてもこのときから食事介助は看護師が行うことになった。しかし、看護師間での情報共有がされていなかったのか、翌日、夕食介助を看護師がすることはなく、自力で食事をしている場面を見ている様子もなく、Sは半分だけ食べて食事を終えてしまったようだ。また、後日、Sに確認すると、朝食も昼食も看護師による食事介助はなかったと聞いた。こうした状況の中で、Sは同室者から以下の注意を受けていた。

「看護師とうまくやってくれ。私たちにも迷惑がかかる。僕らもまたなんかあったらこの病院に入ることになる。あなたもどんどん身体が動かなくなるんだろう。ここにいる間はここのやり方に従ってうまくやった方がいい。郷に入れば郷に従えというだろう。[…]私たちはここにいてお世話になっている以上、ここのルールに従わなあかん。[…]我慢しなあかん。みんないろいろ思っているけど、我慢しているんやから」。(山本[2009:203])

同室者からの苦情によりSは病棟内で孤立感を高め、生活援助が満たされない状況で入院のストレスが一段と高まっている様子だった。また、看護師から向けられる言葉や態度に長谷川と山本もSへの関わり方に困惑していた。  筆者も病棟の看護師から以下の注意を受けた。①Sさんが支援者に身の回りの世話をしてもらっていることに対して病棟の患者が羨ましく思っており、自分たちにはそういった支援者がいないことへの苦情がある。②Sさんは都合のいいときだけできないことを主張する。支援者がいないときは、自分で食べて車いすも自分の足で進めている。できることを自分でするのはリハビリでもある。③家族でもない支援者が食事介助をして食べ物を喉に詰めたり、車いす操作中に事故でも起きたら誰が責任をとるのか。入院している以上、そういった責任は病院が問われるので控えて欲しい。  この発言に対して筆者は以下のことを伝えた。①入院当初の支援者の関わりは退院後の生活を整えるための関係機関との連絡補助、単身で外出ができないため支払いや郵便物の受け渡しなどに限られていた。しかし、Sの症状が進行し体調のムラもあって自力でできないことが増えている中で看護師の援助がなく、食事介助は見るに見かねて行ったようだ。責任問題になるのならそうした介助はしないように伝える。②他の患者とのケアバランスについては分かるが、他患者からのそういった苦情は病院側に向けられているニーズのようにも思える。③Sは足だけでなんとか車いすを操作しているが日によってムラがある。担当している(病院の)リハビリの先生からは、Sにとってその方法は疲労感が強くなるだけと聞いているため、身体機能の評価や補助具の適正に関してはリハビリの先生とも情報を共有して欲しい。

退院の要請

こうしたやり取りがあった翌日の7月4日、ケアマネジャーから堀田に以下の連絡が入った。①B病院から7月15日を目途に退院するように求められた。Sさんも退院を希望しているようなので、至急カンファレンスを開いて在宅体制を整えたい。病院内ですることは難しいようなのでカンファレンスは(ケアマネジャーが所属する)事務所で行う。②福祉事務所は、医師の意見書があれば審査会にかけなくてもすぐ重度訪問介護の時間数を支給できると言っている。③退院後は生活保護に切り替える。ケアマネジャーはSに説明するため病室に向かっており、A介護事業所の代表者も病室に向かった。堀田・長谷川・山本も加わり、Sとともに以下の内容を確認していた。

①退院日については、病院の説明によるとSのベッドに入院予定が入ったという理由だった。②については、病院の主治医による意見書が提出され、ケアマネジャーが福祉事務所に提出していた。支給される(重度訪問介護の)時間数が不明だったので、ケアプランは6月30日のままだった。また、このとき、Sの介助を担う学生が資格取得のために受講する重度訪問介護従業者養成講座の予定が7月20日、21日であるため、Sの退院には間に合わないことが確認された。そのため、学生の資格取得日までは、看護師の資格を持つ西田と重度訪問介護従事者の資格を持つ堀田、へルパー2級の資格を持つ学生1名で介助にあたり、足りないところはA事業所からヘルパーを派遣してもらい乗り切っていくことになった。(山本[2009:207])

 また、③については、その場では検討されなかったが、年金給付があるので生活保護への切り替えはできなかったとのちに聞いた。

退院前カンファレンス

2008年7月8日、ケアマネジャーが所属する事務所で退院前カンファレンスが行われた。参加者は、S、ケアマネジャー、デイケアの相談員と看護師、福祉事務所のケースワーカー、保健師、訪問看護師、介護保険対応のヘルパー派遣事業所(2ヶ所)から各1名、福祉器具業者、介護タクシー業者、学生ヘルパー登録先で夜間を障害者自立支援法で対応するA事業所から2名、支援者(西田・山本・長谷川)の合計16名で、病院スタッフの参加はなかった。  まず、ケアマネジャーより「病院からSさんがいる病室が7月14日から女性部屋となるため、7月10日か11日に早急に退院して欲しいと迫られている」ことが伝えられた。支援者らは退院日を14日と認識していたため、退院準備が明日の1日しかないことに驚き、退院希望をしていると聞いていたSからは「(退院のことは)看護師が急に言ってきた。準備がちゃんとできるようならいつでも退院していいと言ったが、バタバタしている状況の中で僕の予想と違う形で動き出した」という意見があった。  在宅サービスを提供する関係機関も14日の退院で人員を調整していたため対応が難しいという意見が多く、ケアマネジャーが退院日を延長してもらえるように病院に交渉することになった。また、障害者自立支援法の利用については支給時間が未だに示されない状況だったが、ケースワーカーは「時間数の決定がおりるまでの2ヶ月くらいは暫定的に決めて、在宅生活を始めてもらう。その際に介護保険を使うことは大前提で、それでも足りない場合は障害者の制度で上積みする。夜間の見守りについては、気管切開しているとか、人工呼吸器を装着しているとか、発作が頻繁に起こるなどが前提となっている。それが見られない場合は、夜間の状態が記載された医師の意見書が必要になる」と言った。このカンファレンスで提示されたケアプラン(表5)では、夕方から夜間の時間帯に空白があったが、重度訪問介護の時間枠を引き受けてくれるA事業所が「学生が資格を取るまでの2、3ヶ月はうちの事業所ヘルパーが昼でも夜でも入ることができる。公的に支給されない時間帯はボランティアで入るので、障害者自立支援法の重度訪問介護枠を50%加算がつく夜の23時から朝の9時まではやらせてほしい。できれば介護保険も入れてほしい」と言った。  これに対して、ケースワーカーは「同じ事業所が障害者自立支援法の重度訪問介護と介護保険の訪問介護を受け持つことは懸案事項になる」と答えたが、A事業所は「1つの同じ事業所が介護保険と重度訪問介護を同じ事業所が担うのは認められているはずである」と主張した。こうした話し合いの中で、ケアマネジャーがケアプランを再度修正する方向となった。また、緊急時に備えて訪問看護師が職場で余った吸引器をSに貸し出すことになり、退院前に住環境の整備を参加できるメンバーで行うことで合意した。

表5_西田
表5

学生ヘルパーの調整

カンファレンスに参加した支援者たちはその後、ヘルパー候補者の学生たち、立岩真也教授、川口と、①学生のシフト、②退院後の介助内容、③A事業所、支援者、学生アルバイト同士の連絡網、④学生の時給について話し合った。①については、西田・山本・長谷川で学生のシフトを作ることになった。まず、山本、長谷川が学生の勤務可能な日程を取りまとめ、筆者とA事業所の代表者がSの勤務時間の具体的な調整を行うことになった。②については、主として夜間の見守りとトイレ介助を挙げたが、夜間帯にどのような介助が必要になるかは実際に退院してみないと分からず、学生介助者の負担を減らすためにも一定の研修期間を設けることにした。その研修については、筆者を中心とした支援者やA事業所のヘルパーが引き受けることになった。また、資格を取得するまでの間も介助に慣れるために、学生ヘルパーは在宅生活の見学や経験ヘルパーの補助という形でSの在宅生活に関与することになった。③については、メーリングリストを作り、A事業所の代表者、筆者を含む支援者、学生たちとの間で、勤務や介助についての情報を共有することにした。④については、ヘルパーの登録先となるA事業所の代表者の意見を踏まえ、金額を検討していく方向となった。

ケアプランの調整

翌日、筆者はケアマネジャーと病院に行き、退院の延期を交渉した。その結果、退院は7月13日となった。同時に、7月10日にケアマネジャーから新しいケアプランが2種類提示された。主な共通点は次のとおりであった。①週4日はデイケアに通所し、送迎のための前後30分と、夕食時の1時間を介護保険の訪問介護で対応する、②デイケアがない日は夕食時の1時間に加えて、昼間に3.5~5.5時間の訪問介護が組み込まれている、③週2日は昼間に訪問看護が入る、④毎日の深夜帯は障害者自立支援法の重度訪問介護が入っていることの4点である。  このケアプランを基本形として、プランAでは21時から22時までの1時間を介護保険の訪問介護で対応しており(表6)、プランBではその時間を障害者自立支援法の重度訪問介護で対応していた(表7)。月当たりに換算すると、プランAでは障害者自立支援法の重度訪問介護分が300時間で、プランBでは330時間となっていた。 7月11日にケースワーカーより、10日付けで重度訪問介護の時間給付は、毎月310時間(夜間介護1日10時間)+移動介護32時間+緊急対応10時間=合計352時間が認められたと伝えられた。しかし、AとBのケアプランに関しては以下の返答だった。

「障害福祉サービスのことしか自分は分からないから、ケアマネジャーが各事務所と協議して決めることになるだろう。重度訪問介護は22時から朝まで続いても問題ない」。(山本[2009:214])

しかし、この日はケアマネジャーが休暇で連絡がとれず、結局ケアプランがどうなるのか分からないまま、支援者は退院後の住環境を整えていくことになった。

表6_西田
表6
表7_西田
表7

退院までの準備

退院日の前日に支援者とA事業所のヘルパーは、Sと一緒に以下の住環境の整備を行った。早急に解決すべきポイントは、①室内における車いすの動線確保、②ヘルパー滞在のスペース確保だった。①については、退院後は車いす生活になるため、床に這ったコード類をテープで固定するなどして、スムーズに家の中を行き来できるようにした。②については、夜間の長時間の見守り介護に伴いヘルパーの待機場所が必要だったからである。Sの寝室の横には四畳半の部屋があったので、そのふすまを外して夜間ヘルパーの待機場所として使うことになった。その部屋には、引っ越しの際に運び込まれた段ボール箱が積み上げられたままだったので★10、一部を洗面所の隣に移動させた。  7月13日の退院日、長谷川と山本がSの荷物をまとめて退院の手続きをし、病院の受付にA事業所のヘルパーが待機し、筆者はSの自宅で支援者と合流した。この時点では、ケアプランは未決定のままだったので、退院後の11時から訪問介護に入る事業所とケアマネジャーもSの家に集まり、ケアプランを見直すことになった。最終的にケアプランが決定したのは、翌日の7月14日だった。Sの在宅生活の再構築の必要性は4月16日のカンファレンスで確認されたが、障害福祉サービスを併用したケアプランが作成されるまでには3ヶ月ほどの期間を要した。

まとめ

Sの介助体制の再構築は、介護保険を最大限活用し、足りない部分は障害福祉サービスを活用していく方針だったが、入院から1ヶ月を経過し提出された退院後のケアプランは入院前のものとほとんど変わっていなかった。介護保険と障害福祉サービスを併用したケアプランはケアマネジャーが作成するという関係機関の認識のもと、その後に修正されたケアプランもSのニーズは反映されず、介護保険しか使われていなかった。  支援者は障害福祉サービスの情報提供、重度訪問介護の受給とケアプラン作成のための関係機関への連絡補助を行ったが、障害の認定調査から区分「6」の判定までには2ヶ月かかり、その間に単身ALS患者の病状は進行していた。また、気管切開をしていないことから障害福祉サービスは必要ないと判断され、夜間に重度訪問介護を組み込んだケアプランは、引き受ける事業所そのものがないために不可能とされていた。病院から退院を迫られる中、支援者が重度訪問介護を提供する介護事業所とヘルパーを探すことで、障害福祉サービスを併用するケアプランの実現性が高まり、医師の意見書によって認められたが、在宅生活の再構築の必要性が関係者の間で確認されてから3ヶ月ほどの時間がかかった。