1. はじめに
本稿は、『遡航』006号に掲載の拙稿(植木[2023])の続報――その2、である。引き続き、ウェブサイト「国会議事録検索システム」により、1960年代「自閉症」を検索した結果から得られた「保存発掘資料一覧」(全41件)について、その一部(No.1~No.20)を報告する(*なお、本稿で報告する各資料の全文は、別途「arsvi.com」ホームページ内の「あすなろ学園」頁http://www.arsvi.com/o/asunaro.htmに収録する)。 なお本稿は続報であり、前述の資料一覧の表(植木[2023:148-157])および資料の全体的な位置づけと前編からの連続性については、拙稿(植木[2023:147-177])(*とりわけ1章、2章、註の★03~★05)に詳述のため、略す/参照されたい。 また、議員他がどういう人であるのか、詳しくは上にある植木[2023:165-168](その1)に記した。本稿の3.1および註でその補足を記す。
2. 1967年6月7日国会における〈「自閉症」2回目の質疑記録〉、および〈当時日本唯一とされた自閉症施設「あすなろ学園」初出記録〉
それでは、つぎに前編の2章で表に示した議事録(植木[2023:148-157])の詳細をみていく。本稿は、国会における〈「自閉症」2回目の質疑記録〉および〈当時日本唯一とされた自閉症施設「あすなろ学園」初出記録〉にあたる【No.2】について取り上げる。
2.1. No.2「1967(昭和42)年6月7日 第55回国会 衆議院 社会労働委員会 第17号」
以下、「自閉症」に関する議論が開始される発言番号「028」〈島本虎三〉から、この議論の終わりにあたる発言番号「055」〈島本虎三〉までを全文掲載する。 なお、筆者により「自閉症」(「幼児自閉症」「自閉症児」「自閉様症状」を含む)というワード、そして当時日本唯一とされた自閉症施設「三重県立あすなろ学園」について述べている部分に下線を付した。 「自閉症」(「幼児自閉症」「自閉症児」「自閉様症状」を含む)ということばが記録されているのは39回である。
2.2. No.2の「自閉症」質疑応答に該当する会議録全文
028 島本虎三 ○島本委員 戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正する法律案、この審議に入っておりますが、私もこの内容にわたって十分聞いてまいりたいと思います。 その前に、前から申し入れて、もう準備されてあると思いますけれども、厚生大臣に最近起こっておる事象について伺いたいと思います。 それは、東京をはじめとして、名古屋、大阪、その方面に発生し、現在北海道、札幌にまで蔓延しておる幼児自閉症、こういうようなものがあるようでございます。これは、ある日突然に子供がしゃべらなくなってしまって、名を呼ばれても返答もしなくなり、ほとんどのことに無関心を示すようになる、こういう病気だそうであります。そうして自分のからにこもって人間関係をまず断絶してしまうというようなふしぎな子供になってしまうわけです。これは自閉症児と呼ばれておるそうでありますけれども、いままでは精神薄弱と一緒に考えられておったけれども、最近そうではないということになって、これに対し新しい傾向が出されておるようでございます。厚生省のほうでも、中央児童福祉審議会の心身障害児部会のほうを通じまして、十分これを検討しその成果をおさめておると聞いたのは二年前であります。現在までその結果的な発表もされないうちに、もうすでに北海道にまで自閉症児のこういうような症状が蔓延しておるという事態に対しては、厚生省のほうとして十分その対策を考えなければならない状態ではないかと思うが、厚生省は、こういうような事態に対してどういうふうにしておったか、こういうような事態はどういうことなのか、ひとつ御発表願いたいと思うのです。 029 坊秀男 ○坊国務大臣 近ごろ、お話しのごとく、小児に自閉症と称する一種の病気が起こっておるということは、私も承知いたしております。そこで、これは精神薄弱ということでなしに、一種の神経病ということに考えられておりますが、社会がだんだん複雑になってきて、われわれの生活も非常に多岐になっており、父兄も非常に複雑な生活をしなければならないというようなことになってきて、こういったような症状を子供が呈することになったものだと思いますが、その自閉症を呈する児童につきましては、現在学問的な定説が確立しておるというところまでまだいっておりませんが、小児精神病院、児童相談所等でその治療が試みられておりますが、これと並行して、その対策を厚生省といたしましては鋭意検討をいたしておる段階でございます。 030 島本虎三 ○島本委員 そういうような症状を呈する子供が順次ふえてきておるということは、大体新聞その他でわかり、いまの大臣の答弁によって了解できるわけであります。しかし、それに対しても、どれほどの人員がいまいるのか、それに対する一つの特効薬と申しますか、完全な施策があるのか、こういうようなことも問題になろうかと思いますが、その自閉症児の数は幾らぐらいになっておりますか。 031 渥美節夫 ○渥美政府委員 先生御指摘のような自閉症に関するいろいろな問題が世界各国において取り上げられたというのは、学問の領域におきましてはきわめて新しいことであるといわれております。したがいまして、一九四七年にアメリカなりオーストリアあたりでこういった自閉症に関する報告が出されております。そういうふうな意味で、病気といたしましては非常に新しい範疇に属するわけであります。わが国におきまして、自閉症についての学会に対する報告が行なわれましたのは一九五二年でございますから、十三、四年くらい前で、これも非常に新しいわけでございます。そういうふうな意味で、この自閉症に関する原因の追及でありますとか、あるいは療法の確立とかいう点は、なおまだ未開拓の分野に属しております。したがいまして、先生御質問のように、自閉症の子供が何人おるかという点につきましては、まだ実態調査等もできておりません。ある都会におきまして一部調べてみたという報告がありますが、これにつきましても、ほんとうにそれが自閉症であったのか、あるいは自閉様症状の子供であったのかはっきりしておりませんので、数の把握については目下のところ行なわれておりませんし、また、先ほど申し上げましたように、この自閉症に関して取り組んでいらっしゃる医者なり研究者なり、あるいは心理学者等も非常に限られておりますので、なかなか実態の把握が困難であるという状態でございます。 さて、第二の御質問の自閉症に対する療法はどうかということでございますが、一般の精神障害者に行なわれております薬物療法でございますとか、あるいは刺激療法といった療法につきましては、自閉症の子供たちに対してはほとんどきかないということが、いま一生懸命研究をされている学者からは報告されておるわけでございます。したがいまして、こういった子供に対する療法は、主として心理療法、たとえば集団療法でありますとか、あるいは遊戯療法でありますとか、こういった心理療法、特に重症の子供に対しましては、一対一の心理療法を行なっているというようなことでございます。したがって、まだ療法につきましても確立されたものはない、そういった程度のやり方が主としていま行なわれているということでございまして、私どもといたしましても、先生お触れになられましたように、中央児童福祉審議会のこういった心身障害児の関係の部会におきまして、この自閉症の子供たちあるいは自閉様症状を呈する子供たちに対する対策の検討をお願いをしておりますが、まだ結論は得られないという、いわばいままさに開拓中の分野である。したがって、それに応じまして施策も検討していかなくちゃいけない、かように考えております。 032 島本虎三 ○島本委員 これは、現在の複雑な社会構成からしてみると、それがすべて子供にしわ寄せをされた上での現象でございますから、すでに十数年前、二十年前からこれが発生し、この対策には、もうすでに二年前から厚生省としても目をつけておったはずなんであります。しかしながら、いまにしてそういうような状態だとすれば、心細いきわみだと思う。しかし、十八歳未満の精薄児約九十万名の一〇%くらい、約九万名くらいおるというような調査もあるかと思えば、三千名ともまた三万名くらいともいわれておるわけであります。どうしてこれがつかめないのか。こういうようなことは厚生省だけの問題ではない。これは同時に文部省の問題にもなってくるのじゃないのか。もちろん学校にも行けなくなる。学校の義務教育なんかの面に対してはどうなっているのか。こういうふうな面に対しては重大な問題にもなると思うのですが、これは厚生省は文部省その他とも連携をとりながら対策を講じておりますかどうか、この点はひとつはっきりお聞かせを願いたいと思うのです。 033 渥美節夫 ○渥美政府委員 先ほど申し上げましたように、自閉症及び自閉様の症状を呈する子供たちに対しましては、まことに残念でございますが、現在のところ、ある幾つかの精神病院でございますとか、あるいは民間の精神病院でございますとか、あるいは大学の付属病院でございますとか、あるいは特殊な心理学者、精神神経科の医学者、こういった方々が目下きわめて努力的に研究、検討をされておるというふうな状況でございます。もちろんこういった子供たちが相当おるということも事実でございまして、現在のところ、たとえば私どもの所管におきましては、児童相談所の窓口をたたきに来られるわけでございますので、児童相談所におきまして、いろいろと面接しあるいは的確な治療等も行なっているわけでございます。しかしながら、体系的にこういった子供たちに対する対策をどうするかということについては、先ほど申し上げましたように、まだ検討中であるということでございます。もちろんこういった子供たちは、二、三歳あるいはおそくて五、六歳になりますとこういった症状を呈するわけでございまして、非常に重い子供については学校教育が困難でございます。したがいまして、大体学齢期におきましては、地方におきまして、児童相談所なりが地方の教育委員会等と十分連絡いたしまして適切な指導をするということは、私どもといたしましても言ってやっているわけでございます。 034 島本虎三 ○島本委員 文部省のほうでは、こういうような特殊児童に対して、就学の問題とか教育上のいろいろな困難性の問題等があろうかと思うのですが、いままではどういうような対策を講じておりましたか。 035 寒川英希 ○寒川説明員 自閉症児に対する教育の面におきます取り扱いあるいは教育の方法等につきましては、未解明の問題がなおたくさんございまして困難でございますから、そこで、一般にどうするかというようなことについては、まだ扱いは統一してございません。三重県の津市にございます重度の情緒障害児を収容しておりますあすなろ学園というのがございますが、そこを文部省指定の実験学校にいたしまして、この子供たちの教育の効果的な方法がないか、あるいは内容をどうするかというふうなことについて、研究を開始したわけでございます。それとともに、学齢児童、生徒の中にこういった子供たちが何人いるかといった実態をつかみたいということで、情緒障害児の問題とともに、この自閉症児も含めた実態調査を本年度いたすべく予算措置をし、その調査に取りかかっております。そういった実態を明らかにいたしまして、なお、何としてもその教育の基本となりますのは学問の力による研究の成果であろうと思いますから、そういった研究の施設についても調査を進めまして、今後できる限りの努力をし、教育の道が開かれますようにいたしてまいりたいと考えております。 036 島本虎三 ○島本委員 三重県のその重度の障害児を収容している施設、それは国立ですか。どこの建物ですか。 037 寒川英希 ○寒川説明員 県立であります。 038 島本虎三 ○島本委員 国立ではどういう建物があるのですか。国立ではこういうような研究機関や施設はないのですか。 039 寒川英希 ○寒川説明員 東大、あるいはお茶の水女子大、あるいは慶応大学等その他の大学において、学者が個々の立場において研究に取り組んでいる状況でございます。 040 島本虎三 ○島本委員 言っていることにもっと自信を持って言ってもらいたい。どうもそれではだめです。 大臣、ちょっとあなたに一つ聞きたいのです。それは昭和四十二年二月二十六日午後一時、東京都文京区小日向町の社会福祉会館に、自閉症親の会、これで約三百名ほどの都内の関係ある母親が集まって、そしてそこで、学齢期に達してもいわば学校から締め出される子の悩み、それから片時も目を離せないという親の悩み、専門の学校や病院もないという、こういうような実態を涙ながらに訴えていたその場所に、ちょうど常陸宮御夫妻も来ておったそうですが、その前で文部大臣と厚生大臣がこれに対してはっきり祝辞を申し上げているのです。それは専門の学校、専門の病院をつくるようにつとめる、こういうように、代理ではございますが、大臣、あなたそこで祝辞を言っているのです。厚生省はこの問題に真剣に取っ組むと言明してから二年もたっているのに何にもやらないで、いま聞いたら県立のところで収容するような施設しかやってない。私はこんなことはあまり言いたくありませんけれども、これはどうですか。そこへ来て、これは常陸宮御夫妻もいるその前で、皆さんはっきり言っているではありませんか。文部大臣、厚生大臣、いかに代理だとは言いながら、あなたの責任で言っているのです。それを何もしないで、施設もない。これだったらだめじゃありませんか。どうなんですか。けしからぬじゃありませんか。 041 渥美節夫 ○渥美政府委員 私、先ほど来、その自閉症の問題に対しましては、未開拓な分野があって、いま、きわめて数少ない医者なり、あるいは研究者なり、あるいは心理学者等が、一生懸命努力しているというふうなことを申し上げたのでございますが、現実問題といたしまして、こういった子供たちが相当おることも事実でございます。したがいまして、たとえば児童相談所の窓口におきまして、いろいろと週二回ぐらいの指導を継続的にする。あるいはまた、この自閉症とは異質といいますか、違う立場にありますが、情緒障害児短期治療施設という施設も、児童福祉法における制度として全国に五カ所ばかりありますが、こういった情緒障害児短期治療施設におきましても、数名の自閉症の子供たちに対しての収容、指導を行なっておりますとか、あるいはまた国立の精神療養所等におきましても、また県立の精神病院等におきましても、また民間のそういった児童の相談機関というのがございますが、そういったところにおきましても、事実問題といたしましては、こういった子供たちに対します通院あるいは入所の指導は行なっておるわけでございます。したがって、私が申し上げたのは、こういった自閉症の子供に対しまして、法律制度といたしまして、あるいは行政施策といたしまして、全国統一的にどういうふうに対策を講じていくかという、そういった対策全般につきましては目下検討中である、こういうふうに申し上げたのでございます。 この二月でございましたか、自閉症を持つ親の会の方々からいろいろと御要望がございまして、私どもにおきましても、自閉症の子供たちに対する制度的な対策をどうすればいいかということにつきましては、そういう意味で目下検討しておりまして、なるべく早くその学者方の研究成果もお聞きいたしまして、対策を講じなければならないという気持ちであることには全く変わりがないのでございまして、早く学者方の意見を取りまとめまして積極的な前向きの対策を講じたい、かように思っておるわけでございます。 042 島本虎三 ○島本委員 いませっかくそういうふうにおっしゃっていただいたのですが、きのうもよく厚生省のあなたの部下にこの対策を聞いてみたのです。ところが、これはもう児童福祉法四十三条の四によって情緒障害児短期治療施設としてあるので、いま言っている自閉症の問題としてこれを使用しておりませんという答えであった。あなたの答弁は、これを使用しているという答弁ですね。これはおかしいじゃありませんか。全国に五カ所、長野、大阪、京都、岡山、静岡、こういうようなところであるということもあなたの部下から聞いて知っているのです。私のほうでは、いまこの自閉症児もこの中に入れてやってもらいたいということをあなたに言おうと思ったら、あなた先に言ってしまったから、それでいいのです。これはやってもらいたい。ところが、きのう現在、あなたの部下は入れていませんと言っているんです。考えていませんと言っているんです。けしからぬですよ、これは。あなただめですよ、その場当たりでいいことばかり言っても。 043 渥美節夫 ○渥美政府委員 先ほど私の答弁の中で申し上げましたように、自閉症と情緒障害児との質的な差があることは、学問的にも言われておるわけでございます。自閉症自体は精神障害の一つの型といわれております。しかしながら、情緒障害児につきましては、むしろそういった精神病のような疾病ではございませんで、家庭での養育関係でありますとかあるいは親子関係のあり方から、感情にむらが多くて社会の適応性に欠けるという子供たちを、私どもは情緒障害児と呼びまして、情緒障害児短期治療施設の中に収容してやっているわけでございます。しかし、この自閉症の子供たちの中に、やはりどうしても早く治療しなければならないというような問題もございまして、この情緒障害児短期治療施設の中に自閉症の子供も数名入れておるわけでございますが、その数は情緒障害児収容施設の定数二百五十名の中でほんの数名であるというようなことになっております。それは先ほど御説明申し上げましたように、情緒障害児に対しまする指導内容と自閉症に対する治療内容とが相当変わっておりまして、むしろ自閉症の子供に対しましては、特に重症な方に対しては一対一の看護をしなくてはならない。これに対しまして情緒障害児の場合は、カウンセラー、セラピストが十人に一人という程度でこの治療、指導に当たっているわけでございまして、したがって指導内容が違いますので、情緒障害児短期治療施設におきまして自閉症の子供をなおすというようなことにはまだ相当困難がございまして、むしろ自閉症の子供に対しましては、独特の施設なり独特の病院等を用意するというほうが、子供のためにはしあわせであろう、こういうのが学者方のいままでの考え方の一端であろう、かように考えております。 044 島本虎三 ○島本委員 したがって私のほうでは、いまあなたおっしゃったような、パーセンテージは低いけれども、精薄児として来た者の中にそれほどおったということで、こういうような人たちは、さがしたならば全国でこれまたどれほどいるかまだわからない、数もつかめないという段階で、ほんの何人かいたこれだけの対策も不十分である。これで宮さまのいる前で、文部大臣はじめ厚生大臣は、ちゃんと施設(ママ。「施策」の誤植と思われる)★01をやって万全を期する、努力いたしますと言っているが、二年この方何もやらないでいた、こういうような実態が明らかになったわけです。これではやはりいけません。文部省のほうも、いま学童で義務教育を受けに行くこともできない子供をそのままに放置しておくなんてことは不見識ですよ。もっともっと研究して、こういう人がないようにしなければならないはずなんです。私どものほうでは、こういうような点からして大臣に特に期待しておきます。あなた、祝辞の中で言ったそのことを明確に実現してもらいたい。それから文部省のほうには、これもそのとき学校のほうではちゃんと施設(ママ。「施策」の誤植と思われる)★01を講じますと言っていますから、このとおりに完全に講ずるようにしてもらいたい、こう思うのです。これではやはりいけませんから、大臣、この点ははっきりしてもらいたいのですが、どうですか。 045 坊秀男 ○坊国務大臣 新しく出てまいりましたこういうふしあわせな病気に対しましては、おっしゃられるとおりでございまして、これに対する対策というものは早急に考えてまいらなければならない、研究、検討を鋭意急いでまいりたいと思います。 046 島本虎三 ○島本委員 それでは、これはすぐやるということに了解して次に進めていきたいと思いますが、よろしゅうございますか。 047 坊秀男 ○坊国務大臣 予算の関係等もございまするので、予算、財政等とも勘案いたしまして、できるだけのことをしたいと思います。 048 島本虎三 ○島本委員 とりあえずやるのは、児童福祉法四十三条の四によるこの施設等にも、拡大してまずやる。いますぐでもできますから、これはすぐやらせるように配慮する。それともう一つは、児の就学については文部省と十分検討して万全を期する。教育施設はもちろん完備しなければならないことは申すまでもありません。完全受療体制の確立、これあたりはやはり皆さんもはっきり考えておかなければならないけれども、行政的な配慮、学問的な研究も十分する。この四つの問題を含めて今後万全を期さなければならないはずのものです。研究中であるとするならば、いつの日にかこれができるかわかりませんので、いまもう現実の問題としてこれは発生しているのですから、北はもう北海道まで蔓延しているのですから、こういうような問題は手をこまねいて漫然としているわけにいかない問題です。ですから、いま言った四つの問題について、これは予算を早く獲得して早急に実施すべきである、こういうように思うのですが、厚生大臣はじめ文部省のこれに対する意見をはっきり言っておいてもらいたい。これでいいというならばやめますけれども、だめならもう少しやります。 049 寒川英希 ○寒川説明員 自閉症の子供は、現在、小学校あるいは中学校に就学可能の者は就学しておるわけでございます。現に担当教師が、いろいろ困難ではありますが、そういった中において何とか教育の効果をあげたいということで、努力しておりますのが現状でございます。問題は、この子供たちに対する効果的な方法を研究し、できる限り手厚い教育の措置を講じたい、そういう方向に進めたいということについては、なおいろいろ努力を重ねなければいけないというふうに考えておる次第でございます。 050 坊秀男 ○坊国務大臣 先ほどお答え申し上げましたが……(島本委員「常陸宮の前であなたはっきり言ったのだよ」と呼ぶ)私も申し上げましたが、この問題につきましては、重大なる問題と私も考えますので、いずれにいたしましても、財政、予算等の伴う問題でございますので、そういった問題と勘案して前向きに私は考えたい、かように思っております。 051 島本虎三 ○島本委員 それでは、前向きにやるということは、いま言った四条件を検討して早く予算措置を講ずることであるというふうに読みかえておきたいと思いますが、これでいいですね。その時期は来年度である……。 052 坊秀男 ○坊国務大臣 予算の問題でございますので、予算編成という一つの問題がございますから、私は努力はいたします。予算編成に努力をいたします。こういうことでございます。 053 島本虎三 ○島本委員 文部大臣にもこういうことを言って――言ってといっては失礼ですが、閣議あたりでも、こういうように問題がきわめて重大な問題であるから、今後も善処するようにと、あなたからこの点ははっきり確約しておいていただきたいと思いますが、来ているのはその方面の課長でございますから、閣僚としてあなたこの点は十分万全を期してもらいたいと思いますが、よろしゅうございますか。 054 坊秀男 ○坊国務大臣 予算の問題は、予算編成方針というものをつくりますから、その編成方針作成に際しまして私は発言をいたします。 055 島本虎三 ○島本委員 それでは、この問題は、次の機会にその成果を見るまでは私は手をゆるめませんから、早く成果を見せるようにしてやってもらいたいと思います。 自閉症の問題はこの程度にして、今度は次に移らしていただきたいと思います。 戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正する法律案の内容でございますけれども、このいろいろな援護の拡充の中に、項症、款症、目症といろいろあるのですが、これは会計用語の款項目と似ているのですが、これを款症、項症、目症、こういうようにしたのはどこにめどがあるのですか。 […]
3. 国会における自閉症の出現背景―2
上記から、島本が「自閉症」の具体的な処遇問題に焦点を当てた議論を初めて国会内で展開したことがわかる。ここで引き出された答弁内容によれば、当時、国は、「小児に自閉症と称する一種の病気が起こって」いると認識していた。そして、「これは精神薄弱ということでなしに、一種の神経病ということに考えられておりますが、社会がだんだん複雑になってきて、われわれの生活も非常に多岐になっており、父兄も非常に複雑な生活をしなければならないというようなことになってきて、こういったような症状を子供が呈することになったものだと思」うと述べている。「その自閉症を呈する児童につ」いては、「現在学問的な定説が確立しておるというところまでまだいって」いないが、「小児精神病院、児童相談所等でその治療が試みられて」おり、「これと並行して、その対策を厚生省といたしましては鋭意検討をいたしておる段階」にあった、ということがわかる。 またこのなかでは具体的に自閉症に対処し得る施設として三重県津市の県立高茶屋病院の「あすなろ学園」の事例をあげているが、一地方自治体が対処し得る問題ではなく、全国的な広がりをもつ社会問題として取り上げる必要性を強調しており、国の対処を求める議論を展開していく契機となったと考えてもよい。
3.1. 発言者のプロフィール
さて、つぎに発言順に①~④、4名の発言者のプロフィールを以下、列記する。
①「島本 虎三」(しまもと とらぞう、1914年6月20日生~1989年11月10日没)は、北海道高島郡高島町(現小樽市)生まれの日本社会党所属の衆議院議員(通算5期)である。札幌逓信講習所を卒業し札幌郵便局電信課、小樽郵便局電信課に勤務、終戦後1946年、結成されたばかりの小樽郵便局労働組合執行委員となり、翌1947年12月小樽全官公庁労働組合協議会の初代議長(1958年8月まで連続11期)となる。1979年9月7日、衆議院解散に伴い衆議院議員を引退。同年9月14日北海道余市郡仁木町長・岡武夫が死去したことに伴い、同年11月の同町長選挙に出馬し初当選、地方首長へ転身する。以来1987年まで仁木町長を務める(島本[1988:200-217])。国会では一貫して公害問題を追及し、「公害の島虎」で鳴らし、公害、労働問題では第一人者と目され歴代の環境庁長官や政務次官他が島本からレクチャーを受けたともいわれる(高木[2022a:72-74])★02 ★03。60年安保直後に国会に出てから仁木町長時代にいたるまで、政策面のブレーンには労働問題・労使関係論が専門の高木郁郎★04 がいた(島本[1988:8])★05 ★06。 ②「坊 秀男」(ぼう ひでお、1904年6月25日生~1990年8月8日没)は、和歌山県伊都郡出身の自由民主党所属の衆議院議員(通算11期)である。東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、都新聞、東京日日新聞記者を経て大政翼賛会財務部副部長を務めた。戦前大蔵省詰めの新聞記者であったことから財政関係の著述も多く、特に戦後自らが社長を務めた財経詳報社が発行する『財経詳報』に多くの論考を寄せている。その内容は自民党税制調査会に長らく関与していたこともあり、税制に関するものが大半である(若月[2015:87] 国立国会図書館憲政資料室[2015])。戦後1952年公職追放を解かれてから政界復帰する。財政政策に詳しく衆議院大蔵委員会理事、大蔵政務次官(第1次岸改造内閣)、自由民主党税制調査会長、厚生大臣(第44代)、大蔵大臣(第81代)などを歴任した(憲政資料室[2023])。空手道8段で日本空手道連盟和道会会長も務めた(和道会千葉県本部[2023])。 ③「渥美 節夫」(あつみ ひでお、1922年生~2009年没)は、厚生省官僚、厚生省児童家庭局長で、のちに全国里親会会長を務めた(日々の気づき[2023])。主な著書に『児童福祉事業概論』(厚生省児童家庭局編、全国社会福祉協議会、1966年)、『わが国の児童福祉』(日本児童福祉協会、1967年)、他がある。 ④「寒川 英希」(かんがわ ひでき)は、元文部省官僚で、文部省初等中等局特殊教育課長、のちに特定非営利活動法人日本障害者高等教育支援センター理事長(内閣府NPOホームページ[2023])、帝京平成大学顧問★07などを務める★08。主な論説として「国立特殊教育総合研究所の設置について」(文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課編、教育委員会月報22(4)、1969年)、「特殊教育の拡充整備について」(文部科学省初等中等教育局初等中等教育企画課編、教育委員会月報24(1)、1972年)、がある。
3.2. 小括;自閉症ということばが出現してきた文脈、その特徴
上にみてきたように「具体的な自閉症処遇の問題点」を討議するなかで、「自閉症」ということばは前回に比すると多数――No.1は7回であったが、No.2では39回、つまり約5倍強――出てきたが、その特徴をつぎに列記する。 A. ①島本虎三【14】(【】内は発言回数、以下同)、②坊秀男【6】、③渥美節夫【4】、④寒川英希【4】、の順に質疑応答が展開されていく。 B. この議論を質問者として次々と展開していったのは、討議を開始した①の島本で、日本社会党所属の衆議院議員である。公害や労働問題など、社会問題への取り組みに熱心な元労働組合運動の活動家でもあった。 「戦傷病者戦没者遺族等援護法等の一部を改正する法律案」の審議中、「その前に、前から申し入れて、もう準備されて」いると思うが、「厚生大臣に最近起こっておる事象について伺いたい」として、「東京をはじめとして、名古屋、大阪、その方面に発生し、現在北海道、札幌にまで蔓延して」きている「幼児自閉症」の実態を示し、その対処のあり方を巡る質疑応答を開始した。そのなかで「自閉症」ということばが出現してきている。 C. ②の坊は、厚生大臣として①の島本への質問に答える立場であった。その内容は自閉症処遇の問題を具体的に進めていく上で必要な、体制、予算についてであった。常陸宮が臨席した自閉症児の親の会設立大会で、坊が自閉症児の教育・生活保障の問題についての早急に対処を進めたいといった趣旨の発言をしたことを島本が持ち出し、追及されて答えに窮する場面となる。坊は「予算の問題は、予算編成方針というものをつくりますから、その編成方針作成に際しまして私は発言をいたします」というふうな回答で締めている。 D. ③の渥美は厚生省官僚として、国際的な自閉症に関する動向を踏まえた上で国内での自閉症の研究・調査の動向について説明している。そのなかで、〈既存の全国5カ所の情緒障害児短期治療施設でおこなわれている自閉症処遇は異質なものである〉と認めざるを得ない答弁を島本から引き出され、自閉症児の親の会が国に対して求めること――自閉症への具体的な対応が可能な支援の場とその仕組みづくり(医療、福祉、教育にまたがる生活保障の問題)――への対応を迫られている。 E. 当時自閉症児の多くが就学猶予・就学免除によって不就学の状態であり、かつ地域内で自閉症児とその家庭が孤立した状況にあった。そのなかで④の寒川は「三重県の津市にございます重度の情緒障害児を収容しておりますあすなろ学園というのがございますが、そこを文部省指定の実験学校にいたしまして、この子供たちの教育の効果的な方法がないか、あるいは内容をどうするかというふうなことについて、研究を開始したわけでございます」と、国内唯一の自閉症問題に対処し得る専門施設、あすなろ学園の取り組み「情緒障害児学級(実験)」の紹介をしつつ、今後の全国的な実態調査の開始予定について説明している。島本は、これに関して、国立の施設や研究所はなぜこういったことに取り組んでいないのか、といった趣旨の質問を重ねている。こうした議論が一つの契機となって、のちに、寒川が官僚実務担当者として設立に携わった「国立特殊教育研究所」(1971年設立、現・国立特殊教育総合研究所)へとつながっていく。
4. おわりに
本稿でみたNo.2「1967(昭和42)年6月7日 第55回国会 衆議院 社会労働委員会 第17号」では、島本が「前から申し入れて」と述べていることから、国会答弁に先立って、国に自閉症への対処を急ぐよう働きかけていたという推測もできる。島本の地元・北海道と三重県には、親の会、施設要職、政治家などのつながりがあり、島本があすなろ学園の職員や入所児童の親たちからの陳情を受けた可能性があるからだ★09。そして島本が現場の問題――全国から自閉症児とその家族が集まって来たあすなろ学園の親の会と職員、支援者たちが抱える問題――を国会で取り上げたことをきっかけとしてその後、国政の場でもいわゆる自閉症問題は、地方の一公立病院が抱える患者の院内処遇問題ではなく全国規模の社会問題として捉えられはじめ、自閉症とその周辺の障害への支援がなされようとしていく。つまりこの質疑応答は、その後、既存の枠組で自閉症への支援を展開した行政対応や、自閉症を支援対象に含めた1969年〈情緒障害児学級の制度化〉★10、1970年〈厚生省通知文書による3公立病院の自閉症児施設指定化〉★11、1971年〈国立特殊教育研究所の設立〉★12といったより具体的な制度化と施策実現へのきっかけをつくったものとして大きな意義があるといえる。
■註
- ★01
立岩は「国会議事録誤字有」(立岩[2014a] [2014b])として、つぎのように指摘する。 両院・委員会の議事録まで全文ウェブで見れること御存知の方多いと思います。 […]誤字かなりあります。スキャナでとったためのようです。 そのため場合によっては拾いたいものが拾えないことになります(立岩[2014a])。 議事録は[…]「十全会」が「十分会」になっているのがかなりあります(立岩[2014b])。
- ★02
公害問題に取組む島本に関する報道には、たとえば、朝日新聞記事1974年09月11日「アルキルナフタリン(PCBの代替品) 有害性で政府を追及 衆院委」がある。 また、高木[2022]には次のようにある。
僕の担当した委員会、部会に所属する国会議員にはそうそうたるメンバーがそろっていた。まず八木一男、大原亨、滝井義高といったベテラン議員で、被差別部落解放問題、社会保障問題、医療問題といったかたちで強力な専門分野をお持ちだった。もう一方は安保闘争直後の総選挙で当選してきた田辺誠、山口鶴男、島本虎三といった議員で、いずれも労働組合の出身だったが、産別中央の幹部ではなく、地方組織のリーダーだったことに共通の特徴があった。[…] 議員立法への要求は、議員から出されるだけではなかった。産別からさまざまな要請が出されてきた。一例をあげると、全鉱(全日本金属鉱山労働組合連合会)から要請があった塵肺法の立法化である。[…] こうした立法活動には衆参の調査室も協力してくれた。当時は国会の調査室は、野党の国会活動に協力することが、その本文であるという雰囲気さえあった(高木[2022:72-73]、下線部筆者)。
上掲資料に、島本が官僚のみならず国会の調査室にもレクチャーをしていたということが垣間見える。 また、労働組合と島本が関係する社会問題への取り組みに、労組「総評」などが中心となって組織化された「公害対策全国連絡会議」がある。これには社会党が加盟していたこともあり島本が中心メンバーの1人として参加している。たとえば、朝日新聞1978年1月18日記事「チッソ回答 “また肩すかし” 『補償、中公審調停だけ』」には、次のようにある。
総評などの公害対策全国連絡会議の立花銀三代表、長峰義博同事務局長谷木寛作総評公害対策部長、同連絡会議に加盟している社会党の島本虎三、公明党の瀬野栄次郎両参議院議員、共産党の三好徳之助同党書記局員ら代表たちは十七日午後、東京・丸の内のチッソ本社で久我正一取締役らと会い、水俣病新認定患者の自主交渉問題に対する同社の解決への方針などを聞いた。[…]代表者たちは十一日にも「患者の要求に応じ、話合いを始めよ」と申入れしている[…](*下線部、筆者)
朝日新聞記事1999年04月14日(道内版)「バイアグラ 住民の目線に立って変革を(自治の現場から)/北海道」には、分権時代に向けた取り組みを進める後志支庁ニセコ町の町長・逢坂誠二(*当時。薬剤師、政治家。無所属→民主党→民進党、現・立憲民主党衆議院議員)に関する記事のなかに、逢坂と同じように住民の視点と変革の志を大切にする首長・政治家であったと故人・島本が紹介され、その人となりがわかる記述がある。以下のとおりである。
[…]立場にこだわらず、住民の視線を持つ。そんな姿勢を貫いたことで知られるのが「シマトラさん」こと故・島本虎三氏だ。小樽市議、道議、そして社会党代議士を五期務めてから仁木町長になり、周囲を驚かせた。 代議士に初当選した時、島本氏は「政治とは、日の目を見ない人々の徹底した味方になること」と自らに言い聞かせ、後に「公害のシマトラ」と呼ばれるほどになった。公害だけではなく、医療や老人問題などでも活躍した。 それだけ聞くと、頑固で硬派な印象だが、町長となって地元の若者たちに接した島本氏は、「好きな女がいたら、奥さんだって強奪してこい。後の始末は町長がするから」と笑ってハッパをかける気さくさを持ち合わせていたという。「町長さあん」と小学生が飛びついてくる、そんな日だまりのような人柄だった。 その島本氏が町おこしに奔走したのは、実は、地方の生活を肌で感じられなくなっていたという政治家として反省からだった。二十年近い赤じゅうたん暮らしで「永田町のあかが身についていた」と、町長となって初めて気づいたのだ。 町長になった年の冬、除雪が行き届かない歩道で果樹農家の主婦が転んで大けがをした。農家にとって大事な働き手のけがが、一家の営農計画を白紙に戻す現実を目の当たりにした。国政の立場でみれば、道路が除雪されているかどうかは輸送が可能かどうかだけの問題だった。しかし、町民には命や生活がかかっている。この出来事以後、国道の歩道の除雪を、自らがスコップを持って始めた。そんな視線の低さがシマトラ町政の底流にあった。 代議士という肩書にこだわらず、国政との落差に驚きを感じた島本氏と、町職員時代に行政の縦割りとあいまいさに驚きを覚えた逢坂町長。両者に共通するのは、驚きという素朴な感情をエネルギーに、様々な変革を試みている点だろう[…](*下線部、筆者)
北海道新聞社東京編集局長の石川[2016]が島本を回顧した記事には、つぎのようにある。
小池百合子東京都知事をはじめ国会議員から知事への転身は珍しくない。区長や政令市長に転じた人もいる。だが、小さなまちの首長へとなると、国会議員の妙なプライドからか、ほとんど例はない。 小樽市に近い果樹の産地、後志管内仁木町(現在の人口約3400人)で、保守系町民に担がれて1979年から2期8年間、町長を務めた島本虎三さん、通称「島虎さん」は、直前まで5期16年間、社会党の衆院議員という異端の人だった。 私は駆け出し記者としてニッカウヰスキー工場の所在地で知られる余市町の支局に赴任した83年から3年間、仁木町に通い詰めた。 国会での島虎さんは一貫して公害問題を追及し、「公害の島虎」で鳴らした、と聞いていた(石川[2016])。
- ★03
この質疑を受ける立場であった厚生大臣の坊が、島本からレクチャーをどのように受けたのかは定かではないが、これから4ヵ月後の1967年10月7日、当時大きな公害問題であった四日市ぜんそくの患者が入院する三重県四日市市の病院現場を訪れている。共同通信報道1967年10月7日「坊厚相、四日市を視察」に、「坊厚相、四日市を視察/(写真)公害患者の藤田一雄さん(左)を見舞う坊秀男厚相=1967(昭和42)年10月7日、三重県四日市市の塩浜病院」とある。
- ★04
高木郁郎(たかぎ いくろう、1936年3月10日生~2022年9月23日没)は、労使関係論が専門の元日本社会党系の労働学者。東京大学経済学部卒業。日本女子大学名誉教授。1960年社会主義青年同盟結成の中心的メンバーで、東大卒後社会党書記局職員(1961年~1969年)を務め、総評・社会党、のちに連合・民主党、立憲民主党など、革新・リベラル派のブレーンとして、いいかえれば「戦後革新」「総評・社会党ブロック」の中軸の裏方として、あるいは前述の2つの組織のかなり直接的な関係者として活動してきた(高木[2022:3,13,230-233])。遺作となった高木[2022]の帯には「[…]日本現代史の形成に大きな役割を果たした『総評・社会党ブロック』のシナリオを書いた著者による自伝的『戦後革新』史」とある。
- ★05
最も詳しい情報として「島本虎三 年譜」(島本[1988:199-217])がある。「内外の主なできごと」には、労働、政治、経済問題などが記されている。たとえば、1914年6月に島本は生まれているが、その年のできごととして「7・28 第一次世界大戦始まる」とある。また1928年3月に島本は高島尋常小学校高等科を卒業しているが、その前年1927年のできごととして「7・15 コミンテルン、二七年テーゼ決定」(島本[1988:200])というように記されている。さらに、1964年3月に島本は「著書『公害』を出版」しているが、同年のできごととして「6月 文化大革命開始」(島本[1988:207])とある。
- ★06
島本[1988]には、植木[2023]の3.1で詳述した同じ北海道選出の衆議院議員で自民党所属の医師・箕輪登との共闘関係について、貴重な証言が残されている。本人は参加していない座談会でのことである。それは島本の人となりを知る関係者12人による「座談会 仁木町と島本さん」で、1番目の小見出し「国会時代」(島本[1988:187-188])からつぎの小見出し「三選辞退へ」(島本[1988:188-191])にかけての箇所にあたる。村井雄次郎の発言(1回目)を経て庄司三治郎による発言(1回目)の部分である。1979年、島本が仁木町長選挙出馬を打診された際に保守系・自民党の箕輪の支持母体と革新系・社会党の島本と横路のそれらとの間で取り結ばれた共闘関係の動きがわかる。以下のとおりである。
村井――[…]先生が衆議院を辞められると聞いて昌司さんや亡くなられた白石さんらと話し合って町長として迎える中に私もお供し、小樽の自宅にまでお伺いして小樽の高島町の地元の人には申し訳なかったんですが、泣いて別れるといった光景の中で仁木にお迎えしたわけです。 庄司――先生に来てもらうということで島本後援会と横路後援会それに箕輪(登=代議士(ママ))さんを支持する三組織が珍しくまとまり、それが一体になれば勝てると、「君、横路派であってもぜひ島本さんを迎え入れるのに努力してくれ」ということで、私たち小樽の自宅までバス三台を連ねてお迎えに行きました(島本[1988:188-189]、下線部筆者)。
上にある「横路」とは、社会主義青年同盟出身の社会党系の衆議院議員(社会党→民主党→民進党→立憲民主党)で北海道知事(1983年~1995年)を務めた弁護士・横路孝弘(よこみち たかひろ、1941年1月3日生~2023年2月2日没)のことである。
- ★07
「しんぶん赤旗」2002年7月21日の記事「『帝京』に14人天下り 旧文部省から8人 大学新設準備のポストに」には、次のようにある。
- ★08
1969年に文部省初等中等局長・宮地茂へ報告された特殊教育総合研究調査協力者会議(代表者 辻村康男)による「特殊教育の基本的な施策のあり方について(報告)」(いわゆる「辻村報告」)が、「可能な限り普通児とともに教育を受ける機会を多くし、普通児の教育からことさらに遊離しないようにする必要がある」(特殊教育総合研究調査協力者会議[1969])としていたこともあり、寒川は障害児の統合教育について「報告の趣旨を要約すれば、障害児の教育を分離から統合へということを目ざしたもの」と認識していた(久米[2016:109])。つまり本稿や植木[2022b]と照らし合わせると、1960年代の文部省担当課長であった寒川は、自閉症児などのための情緒障害児学級や特殊教育総合研究所の設立に動きながら、地域の学校に通える子たちはみんなで一緒に学ぶという統合教育の必要性についても、(困りごとを抱える当事者、家族、支援者からはどの程度わかってもらえた/もらえていない、と思われているのかはさておいて)一定程度、現場の声を把握し、また動こうとしようとしていた/動こうとせざるを得なかった状況にあったようである。 また、日本育療学会会長・加藤安雄[2002]は、病弱教育の問題とその取り組みを回顧するなかで、寒川について述べている。それによると、寒川は他の官僚・行政官と比べると、病児・障害児とその家族、支援者のよき理解者であったようだ。そしてただたんに陳情者の話を聞くだけではなく、実際にこの陳情者たちの願いを実現するためにどのようにすれば国、官庁、行政を動かせるのか、具体的に関係各所や関係する人脈へ陳情者とともにはたらきかける、きっかけをつくる、といった行動を起こした。加藤[2002]には次のようにある。
病弱教育の対象者で当時、医療費が支給されていた病種は、指定医療機関に入院している結核児に対する療育の給付」及び指定医療機関に入院している肢体不自由児に対する「育成医療費」だけでした。 その他の腎臓疾患、小児喘息等の医療費はすべて保護者負担であり、額は概ね月給に相当する金額であり、入院しながらの教育など思いもよらないことでした。この事を重視しておられたのは、文部省特殊教育課長寒川英希氏で、その実現方法について私との間で度々話し合われました。44年に入り課長の指示によって厚生省国立療養所課に出向いて、課長に趣旨を述べましたところ大変喜んでくださいましたが、この問題は法律事項であり、行政指導ではどうにもならないのでと、医務局長にご案内いただきました。局長は、趣旨はよく分かったが法律改正事項なので時間をいただきたいとのことでした。 教育の問題は、憲法第26条に規定されている学習権保障の規定であり、一刻も猶予できないことなので、早急に実現をお願いしましたが、それはできないとのことで水掛け論になり、話し合いは暗礁に乗り上げました。私は、「この問題は早い時期に、出た所(「国会」を考えていました。)で決着をつけましょう。」と、いわば捨てぜりふを残して別れました。 寒川課長は、前任地(青森県教育次長〉の県選出参議院議員古寺宏氏(公明党・医師)を私に紹介され、腎炎・ネフローゼ等の医療費問題で度々お会いするようになりました。やがてこの問題は、党の問題となり、渡部一郎氏ともお会いすることになりました。渡部氏は全国腎ネフ大会等で厚生省の局長等と話し合われましたが、医療費問題は法律事項なので一歩も進みませんでした。46年には、渡部氏から文部省で把握している腎・ネフ児の人数、教育内容等について資料要求がありました。その際、提供できなかった資料として、各家庭における個別の医療費、児童等の生活などの様子がありました(加藤[2002:49-50]、下線部筆者)。
- ★09
植木[2023]でみた箕輪と島本は、箕輪が与党・自民党、島本が野党・社会党というように所属政党は分かれていたが、同じ北海道出身・選出議員であるというところに共通性がある。1960年代当時の三重県と北海道のつながりでいえば、自閉症児とその家族は、遠路はるばる北海道から三重県までいわゆる「自閉症のメッカ(あすなろ学園)」「あすなろ詣で」(宮本隆[2017:3])をした自閉症児親の会の第一世代がいた。つまり一時的/短期的にであれ、あるいは継続的/中長期的にであれ、北海道の自閉症児とその家族はあすなろ学園で治療・療育・支援を受けていた(植木[2021][2022a:123])。 また、三重県あすなろ学園と園長・十亀史郎は北海道の親の会の組織化にも関わっていた。 宮本咲子[1988]の「北海道における自閉症児親の会の歩み」には、1980年児童福祉法改正による自閉症児施設の法制化に向けた運動の過程が垣間見える描写があるが、そこには1978年頃の北海道からみた三重県あすなろ学園と園長・十亀、そして全国的な位置づけがわかる記述がある。以下のようである。
[…]昭和53年2月には「年長自閉症児特別療育施設に関する話し合い」を道父母の会で催し、全国協理事三宅温子氏、あすなろ学園十亀史郎園長、静養院児童部山崎晃資先生、道父母の会田中勝廣会長、同河口正雄副会長で討議がなされたり、3月の東京における「年長児問題研究会専門委員会」に山崎氏と川口氏が出席して施設の形態について討議すること、又7月には、道内各地方支部役員、療育関係者、稲垣是成氏、十亀史郎氏による「自閉症年長児問題懇談会」等で盛んに具体的な解決法を探し求めた。/このあと、道民生部長、札幌市厚生局長、市立札幌病院長、静養院長等、あらゆる関係機関に請願第145号に基くゆさぶりをかけるのだが、執行権をもつ行政の財源面の困難さからなかなか着手されなかった。そこで、会の役員は昭和54年7月に斎藤実衆議院議員の協力を得て厚生省まで赴き、国の施策による対策を陳情したところ、児童福祉法改正の見通しがついていることを知らされる。/そして、昭和55年3月31日、遂に児童福祉法改正により「自閉症児の療育について」の法制化が成った。それまで福祉行政の谷間に埋没しているといわれた自閉症児に初めて光があてられたのである。この日のことを田中会長は「記念すべき日」と記している。またこの法制化となった背景には全国協の働きがあることは見落とせない事実である。/このことにより道父母の会および札幌会は急遽運動の転換を計り、法の改正による「第1種自閉症児施設(医療型)」を静養院に、「第2種自閉症児施設(福祉型)」をおしまコロニーに開設するよう陳情を行った。かねてから自閉症児療育実践に着手していたおしまコロニーは、昭和58年8月に「第二おしま学園」を改めて第2種自閉症児施設として開設し、昭和57年4月には第1種自閉症児施設「札幌市のぞみ学園」が静養院に開設となった。希学園は親の会が市に対して長期間にわたる強力な請願運動を展開したことにより実を結んだ施設で、全国的にも新設の医療型施設の第1号であった。しかし、この時必死に運動をし続けた親のうち数人の子どもたちはすでに措置年令(18才)を過ぎていた。すなわり、のぞみ学園には入れなかったのである(宮本咲[1988:26-27]、下線部筆者)。
上にみた情報の補足・解説を少ししておく。「年長児問題研究会専門委員会」において、自閉症施設の現場代表として十亀史郎が専門委員となり発足当初から参加していた。「斎藤実」(さいとう みのる、1923年9月25日生~2014年11月4日没)とは、北海道選出の公明党の衆議院議員(通算6期)のことである(国会議員白書[2023])。道父母の会会長の「田中勝廣(広)」は、「十亀史郎追悼集」の発刊協力者である(十亀記念事業委員会[1986:396])。 さて話を戻して社会党・島本と自民党・箕輪の関係性であるが、★06でもみたように、この後1979年の仁木町長選挙では、島本の出馬にあたって保守系・自民党の箕輪と革新系・社会党の島本の両者の支持母体が共同で支援し、保革共闘の関係にあった。それからさかのぼること12年前、国会に自閉症が初めて登場した局面においても、「1967年5月25日第1回目の自閉症討議」が箕輪によるもの、その13日後の「同年6月7日第2回目」が島本によるものといったつながりがあった。本稿であらためて、国会における自閉症の登場に影響を与えた可能性のあるつながりをまとめると、つぎのa~cのようになる。 a.北海道の地域、住民の声をもとに保革共闘で選挙に取り組めたことを鑑みると、北海道と三重県の自閉症児の親の会のつながりにより、保守系・自民党の箕輪、革新系・社会党の島本に何らかのつながりをもたらし、地元の問題を国政に届けるように働きかけていた可能性は十分に考えられる。b.植木[2023]でも論じたように、三重県職員労働組合および三重県職員労働組合病院対策協議会に加盟していた三重県立高茶屋病院職員やその附属施設であったあすなろ学園の職員は、労組のつながりで労組出身の社会党衆議院議員・島本ともつながっていた可能性が十分に考えられる。c.三重県と中央・国政をつなぐ役割として三重県にゆかりのある田川一族(とりわけ中央官庁から三重県に出向し県庁幹部職を経て県知事となった田川亮三:自民党リベラル派衆議院議員・田川誠一の従兄弟)の存在があったことが可能性として十分に考えらえる。
- ★10
以下、植木[2022b]から引用する。
日本で初めての情緒障害児学級は、1969年10月に開設した東京都杉並区立堀之内小学校内の堀之内学級(情緒障害特殊学級)であるといわれる。しかしその前段階として、このあすなろ学園の院内教育保障の取り組みと、この種の陳情活動、教育権保障運動があったことは、現在、教育関係者の間においてもほとんど知られていない。 あすなろ学園保護者と職員の会の機関紙「あすなろ学園保護者と職員の会々報 No.7」をみると、1967年3月15日発行の段階では、1967年4月に制度化が実現した日本初の「情緒障害児学級(実験)」の前段階としてすでに試行的に〈院内への教員派遣〉が実現しているようである(あすなろ学園保護者と職員の会[1967])。 また、病院内に学級設置と教員派遣の陳情は、あすなろ学園設立前1962年末頃からなされていた。参考までに高橋 [2020]を引用する。 情緒障害児学級の認可 義務教育期間の児童・生徒に入院治療を提供するためには学校教育の保障が必要である。また、どんな障害があっても学校教育が必要かつ有効であるという基本理念をあすなろ学園は発足当初から掲げ、病棟内学級を巡って1962年末から県教育委員会および津市に陳情が続けられた。結局、学園発足時には院内に教室を作ることは間に合わず、翌年4月より地元の津市立高茶屋小学校、同南郊中学校へあすなろから通学することになった。 発足から3年を経過した1967年、高茶屋病院内に待望の分教室が津市教育委員会より認可され(小・中各1教室)、文部省の「情緒障害児指定校」として設置されるとともに、1969年4月には我が国初の「情緒障害児学級」の一つとして発足した(高橋[2022])。 他、詳細は植木 [2022a]を参照のこと。 また、文部省担当者が〈自閉症を特殊(障害児)教育に含めた情緒障害児学級を「あすなろ学園」に実験学級に指定して、自閉症児の教育内容などの研究をお願いしている〉というふうなことを述べている記事(*1968月2月15日読売新聞)については、前述のホームページarsviの頁「あすなろ学園」http://www.arsvi.com/o/asunaro.htm に収録しているため参照されたい。該当箇所は次のようである。 「まだまだ少ない専門医//文部省初等中等教育局寒川英希特殊教育課長 自閉症児の教育は、これからの特殊教育の新しい課題です。親御さんの気持ちを思うと現状は残念ながら申しわけないとしかいいようがない。統一的な指導はできかねている段階で、いまのところ就学させるかどうかは、学校あるいは教育委員会で個別に処置、個々のケースごとに解決をゆだねざるを得ない状況です。文部省としては三重県津市の県立高茶屋病院内にある小中各一学級の〝あすなろ学園″を実験学級に指定し、自閉症児の教育内容、方法あるいは教育効果の研究をお願いしているところ。これが具体的に手をつけたものとしては全国で一か所、はじめての試みです。また実態調査も今年度はじめて行なったばかりでいま集計中です。特殊教育の総合研究機関といったものを作る構想を立てているところです」(*下線部、筆者)
- ★11
以下、植木[2022b]の2.4にある【1968年9月17日「自閉症治療病院設置にかんする陳情書」】(あすなろ学園関係施設保存資料)の註釈からの引用参照である。略して記す(*詳細は植木[2022b]を参照されたい)。
こういった運動がもととなって、1970年厚生省通知文書による「自閉症児療育事業実施要項」でいわゆる〈3公立病院の自閉症児施設「指定化」〉(*東京都立梅ヶ丘病院、三重県立高茶屋病院あすなろ学園、大阪府立中宮病院松心園)がなされた。その後、1980年児童福祉法改正によって自閉症児施設は、精神薄弱児施設種別の1つとして正式に(いわゆる〈通知・通達文書〉といったかたちではなく)〈法律上明記〉されたかたちで「自閉症児施設(医療型(第1種)、福祉型(第2種))」として「制度化」される(植木[2022b:60])。
- ★12
★10を参照。またそれは植木[2022b]の2.3にある【1968年9月17日「あすなろ学園 高茶屋小学校 南郊中学校 分教室建築についての陳情書」】(あすなろ学園関係施設保存資料)からの引用参照であるが、略して記しているため、詳細は植木[2022b]を確認されたい。
[…]畑野議員の調査によると帝京グループへの天下りは計十四人。このうち最も多かったのが旧文部省からの天下りで八人にのぼっています。(表参照)[…]旧文部省などから帝京グループへの主な天下り事例[…](氏名)寒川英希/(帝京関係の役職)元帝京平成大学顧問/(前歴)文部省初等中等教育局特殊教育課長
■文献
- あすなろ学園保護者と職員の会 1967 「あすなろ学園保護者と職員の会々報 No.7」(1967年3月15日発行)
- 石川 徹 2016 「取材ノート/小さなまちの大きな町長 地域おこしの先駆け 島本虎三さん」(2016年11月),日本記者クラブ(2023年2月28日取得, https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/34407)
- 岩本 義明 2023 「児童福祉が隠れ蓑となる人命を犠牲にした松利権網と朝鮮半島の闇に通じる全国里親会」(2022年08月30日更新,2023年2月28日取得, http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/archives/16449781.html),(ブログ「日々の気づき」,2023年4月24日取得,http://hibinokizuki0126.livedoor.blog/)
- 加藤 安雄 2002 「故井戸川眞則先生のご功績に感謝して」,『育療』(26):49-51
- 憲政資料室 2023 「坊秀男関係文書」(2022年5月6日更新,2023年2月28日取得, https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/jp/bouhideo.html)
- 国会議員白書 2023 「斎藤実」,(2023年2月4日更新,2023年2月28日取得, https://kokkai.sugawarataku.net/giin/r01256.html)
- 国立国会図書館憲政資料室 2015 「坊秀男関係文書目録」
- 久米 祐子 2016 「1970年代初期の関東の障害児統合教育の始まり」,『教育基礎学研究』:109-117
- 宮本 咲子 1988 「北海道における自閉症児親の会の歩み」,『情緒障害教育研究紀要』(7):23-28
- 宮本 隆彦 2017 「翔の会苦心談「陽だまりを求めて」軸足」(翔の会2017年3月例会資料)
- 内閣府NPOホームページ 2023 「NPO法人ポータルサイト/日本障害者高等教育支援センター」(2023年4月11日更新,2023年4月25日取得,https://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/013000931)
- 島本 虎三 1988 『島虎の町おこし奮戦記』第一書林
- 十亀記念事業委員会編 1986 『生きること 愛すること 十亀史郎追悼集』
- 高木 郁郎 2022 『戦後革新の墓碑銘』旬報社
- 高橋 悟 2020 「メモ(便り 資料)/あすなろ学園分離独立までの歴史」(2020年10月9日(私信))
- 立岩 真也 2014a 「[mlst-ars-vive:015082] 国会議事録誤字有/単なる集積/十全会 (2014/07/09 23:16)」(2023年4月1日取得, http://www.arsvi.com/ml/2014p07.htm#015082)
- ―――― 2014b 「[mlst-ars-vive:015105] 国会議事録誤字有続/十全会 (2014/07/17 15:38)」(2023年4月1日取得,http://www.arsvi.com/ml/2014p07.htm#015105)
- 特殊教育総合研究調査協力者会議 1969 「特殊教育の基本的な施策のあり方について(報告)」(昭和44年3月28日)(2023年2月28日取得, https://www.nise.go.jp/blog/2000/05/b2_s440328_01.html)(「国立特別支援教育総合研究所webサイト」,2023年2月28日取得,http://www.nise.go.jp/)
- 植木 是 2021 「自閉症児の親の会(日本自閉症協会)の前史的活動に関する一考察 ―1964年設立の三重県あすなろ学園とその親の会関係資料から」障害学会第18回大会
- ―――― 2022a 「1960年代の黎明期自閉症児の親の会と全国組織化の過程――三重県あすなろ学園とその親の会、および「自閉症児親の会」の関係資料から」,『立命館生存学研究』(6):117-127
- ―――― 2022b 「1960年代、自閉症とその周辺への支援を求めた「陳情書、請願書、要望書、理由書」――あすなろ学園「保護者と職員の会」保存資料から」,『遡航』005: 40-62
- ―――― 2023 「資料 1960年代、どのように国会で「自閉症」に関する議論がなされたのか・1――1967年5月25日国会「自閉症」初出議事録より」,『遡航』006:147-178
- 和道会千葉県本部 2023 「全日本空手道連盟 和道会の歴史」(2023年2月28日取得, https://wadokai-chiba.com/entry9.html)
- 若月 剛史 2015 「坊英男」,日本歴史学会編 2015 『近現代の人物史料情報』吉川弘文館