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人命の特別を言わず*言う・01

立岩 真也 2021〜2022
0102


■■事情の説明
 2008年に『良い死』☆01を、2009年に『唯の生』☆02を、筑摩書房から刊行してもらった。そしてその後者、『唯の生』(の新本)はしばらく前から入手できなくなっている。いずれも読んで楽しめるといった本ではないが、今でも、あるいはこれからも、あってよい本だと思い、編集者に相談させてもらっている。まだ決まっていないが、2冊を合わせた文庫にしてもらえたらと思っている。
 ただ、そのまま1冊にすると文庫1冊に収めるには多すぎる量になるということもある。そして以前から、『唯の生』の第1章「人命の特別を言わず/言う」に書いたことは、その部分だけを取り出し、読んでもらいたいと思っていた。そこでこの度、この部分をもとに本を作ることを提案し、刊行してもらう運びになった。
 当初はもとの「人命の特別を言わず/言う」をほぼそのまま使う小さな本のつもりだったが、だんだんとそうもいかないように思えてきた。そしてすぐにできるような気がしていたがそうもいかないことになってきた。しかし、結局、時間がかかったのはよいことだったように思う。
 この連載はその本のために行なう。いったん終わりまで原稿を書いてはある。それを点検し、なおしたり書き足したりしていく。短期間で終わるはずだ。

文献表(別頁)
補註(活字本に使わない部分含む&リンク→別頁)


☆01 その序より。全文はHPでご覧になれる。
 「死/生について論じるといったことは、できもしないし、気がすすまない。にもかかわらず、『ALS――不動の身体と息する機械』([2004])という、重いといえば重い話も出てくる本を書いてもしまったから、もうしばらくはやめておこう、遠ざかっていようと思っていた。
 けれども、「尊厳死」してもよいという法律を作ろうという動きが出てきたことを聞きつけた人から、それはとても困ったことだ、これでますます死ななくてよい人が死んでしまうと、だから何かせよと言われた。すぐに法律ができるということになるとは思わなかった。ただその心配な気持ちにはもっともなところがある。
 言うべきことは、ことが起こる前にきちんと考えておいて、言っておくべきなのだが、そう思って見渡してみると、すぐに使える言葉がない。つまり私たちは、ものを書く者たちはだめなのだ。すぐに取り出せる道具を揃えられていない。だから泥縄になってしまうのだが、それでもその場で考えて言うしかないということになる。
 そんなことがあって、そして原稿の依頼があったり、本の企画があったりして、結局、二年、三年と文章を書き続けることになった。とくに本にする段階で、幾度も構成が変わり、文章もかなりなおしたり書き足すことになった。結果、ずいぶんな時間がかかった。そして一冊で終わらず、二冊になり、そして三冊になってしまった。」
 一冊めが『良い死』、二冊めが『唯の生』。三冊めは本をたくさん紹介する本にしようと思ったが、きりがないことであり、結果いつまでも量が増えていき、またネット上の情報にリンクさせたいと思った。そこで、まず二〇一二年に、有馬斉との共著で『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』を刊行した。この年、生命倫理学会の大会があり、私がその大会長ということであったのだが(その時の大会長講演が「飽和と不足の共存について」)、「会員のみなさんはこれこれを知ってますか、知らなければ知ってほしいです」というつもりもあった。本を紹介した本はその五年後、二〇一七年に、電子書籍(といってもただのHTMLファイル)で『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』を作った。 ☆02 その序より。全文はHPでご覧になれる。
 「『良い死』に続く本書は7章で構成される。第1章、そして第5章から第7章では、幾人かの論を受けながら私が考えることを述べた。第2章から第4章は、ここしばらくの間に起こったことを記した。各々の章のはじめに、その簡単な解説のようなものを置いた。どこから読んでいただいてもよい。
 気にかかってきたことがあった。
 いついかなる場合でもできることはすべてすべきだと私は考えていない。そして生死に関わる自らの決定が原理原則として認められないとも考えていない。そのことは各章に記されている。その上で、言えること言うべきことを述べている。ただ実際、どんな場合に「処置」をやめることがあるとするのか。
 具体的には心肺停止後の心肺蘇生、心臓マッサージについて。それをどこまでも行なうことはないのではないか。それが本人にどれだけの苦痛となっているのかはわからないとしても、それでもよいことではないのではないか。そう思えることにはもっともなところがあり、そしてそのような思いが、その場に居合わせる人たちに、今と違うきまりが必要なのではないかと思わせているとすれば、そのことについて何かを言う必要があるかもしれない。そして実際、そのことに関わる「説明」の作成に関わってしまうことにもなってしまった。どんなことでも行なわなければならないわけではないこと、そしてそれは今のきまりのもとでも許容されることを、すべきことをきちんと行なうこととともに、示すことが、かえって、法律にせよガイドラインにせよ新しいきまりが必要ではないかと思えてしまう人たちに対してもよいのではないかと思えた。そのことに関わる記述は第4章4節にある。」

■■■ 第1章 人命の特別を言わず/言う

■■1 脱人間中心主義と称する主張

■1 殺生について
 人間は人間だけを特別に扱っている。実際には、夥しい数の人を殺してきて、殺している★01けれども、それでも、そのようにすべきであるということにはなっている。それを(ヒトの)「生命神聖性説」であるとし、それは「種差別主義(speciesism)」であるとして批判する。そして、ある人間を遺棄して(殺して)、ある動物を救うことを主張する。
 「正しい原則」を主張しつつ、動物の殺生については、多数派はそんな理屈を知っても知らずとも肉を食い続けるから、自らは菜食主義者などになって少数派にとどまる。ただ、前者、つまりある人たちを生きてよい範囲から外す行ない(だけ)は実現されることになるといったことも起こりうるし、実際に起こっている。つまり、それは人間について死ぬこと、死なせることに対する積極論として作動する。しかし、「論理」としはこちらの方が一貫していると自ら言うし、そうかもしれないと思う人たちがいる。
 ここで既に躓いているようにも思う。このような主題を相手にするべきなのだろうかと思う。この種の議論に入り込むこと自体がなにか罠にはまっているような感じがする。時間を費やすことにもなる。そして、検討してものを書くということ自体がその説を宣伝してしまうようなところがある。それでも、素通りはしないことにする。すでにかなり知られており、そして、例えば動物が大切だという人たち――はたいていは人間のほうのことは気にならないようだ――がその話を援用しているからでもある。
 そしてその人たちは、新生児を殺すことなど非自発的なものの一部も含め、死ぬ/死なせる行ないに賛成なのだが、なぜどのように賛成しているのか。この世にある賛成のパターンがそうあるわけではないから、私自身にはそう思い入れのないその人たちの言うことをすこし見ても、無駄にはならない。
 それを言う人たちは「伝統的な生命尊重論」を批判し覆す側にいると思っているから――そんなことはない、(近代社会における)正統派だと私は思うのだが――以下、批判者と記すことがある。その論の筋をごく簡単に紹介し、私の考えを言う。
 代表的な論者にピーター・シンガーヘルガ・クーゼがいる。二人は学問上の盟友ということになる★02。細かに読むと違いもあるのだろうが、ここではひとまとめに考えてもさしつかえない。クーゼは生命倫理学者ということになろうが★03、シンガーはさらに広い範囲を論じている。多くの著作があり、その多くは邦訳されている。シンガーは、まず「動物の権利」論者として、知っている人に知られるようになった★04。合衆国における、いかにもその国的な左派ということになろうか、例えばジョージ・ブッシュの政策を強く批判する著書がある。人工妊娠中絶はじめなんでも反対という保守派と立場を異にするという意味では当然と思われるかもしれないが、彼は、世界に存在する大きな格差の是正を「ラディカル」に訴える人でもある★05
 また、彼は(脊椎動物を食べないという種類の)菜食主義者であるらしい。他方私は肉を食べ続けるだろうが、それはほめてもらえないのだろうが、彼の行ないはよいことではあるとしよう。そして次に、彼が人の生き死にについて語ることを見てみる。すると、その部分は、すくなくとも私にはなかなかに受け入れがたい。とするとこれはいったいどうしたことか。それともシンガーのどこかが矛盾しているのか。しかし彼の述べることは、どこまでもいつも同じ明るさに包まれている。となると私がどこかで間違っているのか。じつはそう思ったことはない。反対に、この人の言うことに違うところがあると思う。
 そして、この人(たち)の言うことを考えることは、この世に文句を言うとして、社会の変革を主張するとして、どのような方向・言い方がよいのかという問題を考えることでもある。その際、本書で検討する主題をどう考えるかは意外に大切なはずであり、ここでの態度の分岐はかなり大きな意味をもつはずだ。
 いっこうに実現はしないのだが、貧困が解消されるべきことについて、今どき(というより昔から)正面からその考えは間違っていると言う人はいない。違いはその実現の道筋についてであり、もしその社会の成員が「まとも」な人間たちであるのなら、「自由」な社会においてはやがて貧困の問題他は解消されていくと言うか、そのようには言わず、もっと積極的な対応が必要だと主張するかという違いであり、しかもほとんどの場合には「ある程度」の対応は必要だと言われるのだから、違いは程度問題となる。その意味では、現在の米国の政策についていくらでも批判が言え、そしてそれらが当たっているとしても、基本的な対立・争点はそこにないかもしれない。
 いや、もっと正確に言えば、程度問題はばかにできず、程度問題こそ本質的な問題なのであり、それをどのように言うかが重要なのだ。そしてこの時、大切なことは、どうしたって見栄えのしない場面、死にかけている人、健康な類人猿よりしっかりしていない人間たちをめぐって存在するのかもしれない。そしてそのことが、総論として反論されない「援助」のあり方などにも関わると思う。
 私は、この人たちの主張がそんなにそれが「ラディカル」であるとは思わない。べつにこの人たちに言われないとならない話ではないとも思う。もっと言ってもよいと考えるし、私自身はそうした主張をしてきたと思う。ただし、分配の主張がどれだけ「ラディカル」」であるかとと、それがどれだけ実現するかとは別のことだ。だから、「もっと言う」からといって、そしてそれが正しいとしても――私は正しいと思っている――より強い主張をするからといっていばれるようなことではないとは思う。ただそのことをわかったうえで、実質的には、「きちんとした人間」から始め、そこから認められる範囲を拡大していこうという理路は――そのほうが人々の理解を得、実現する可能性が高まるとしても、基本的には――とるべきでないと考えている★06
 加えてもう一つ、死ぬ殺すというこの話は、動物と人間との境界という話に滑っていく。つまり、ある人たちと同じぐらいの知的能力のある動物を生かすべきだ、他方、同等より低い人間については殺してもよいという話につながる。言われると辻褄が合っているようにも思われるのだが、同時に、こんな話でよいのだろうかとも思える。どうもこの辺が大切であるようだ。そこで考える。
 以前すこしその人たちのものを読んで、だいたい言いたいことはわかったと思ったし、すくなくとも私は読んで楽しめはしなかった。だから以後読まなかった。しかし、いつのまにかその人たちのような筋になってしまう話をどう考えるかという問題がある。それを考えるための材料として読まねばならないことになる。文学者や哲学者はどうかしらないけれども、社会(科)学者はそのように、つまりいやいやながら、本を読まなければならない。そんなことが多い。

■2 α:意識・理性…
 この人たちは自らの主張の正しさを言おうとする。ここまでのところでは、実際には人々も死を認めているし行なっていると(それをすなおに延長すれば認めないとされることも認めるべきだと)言われたのだが、たんに皆が認めている(認めるはず)だからというより、自説の根拠を積極的に言った方がよいだろう。その人たちは、言われることが一貫していないこと、矛盾があることを指摘し、そのことを批判しているのだから、より整合的な理由・基準を提出すべきであるということにもなる。これは(1)SLP(SLP=the sanctity-of-life principle=生命の神聖性原理)の主張が成立しないことを、たんにあなたもその主張を実際にはしていないではないかと言うだけでなく、論理として示すということでもある。こうして、ただ相手の主張を使い、逆手にとって、自らの論の正当性を言うだけでなく、もう一つ、自らの主張をより積極的に示すことが要請される。すこし長く引用する。

 ▽人の生命は神聖である、あるいは(無限に)価値があるが故に、それを奪うことは悪であるという答えは、一見もっともらしいが、同語反復に近いので納得のいくものではないだろう。その答えは、単に、生命を奪うことによって失われるものに価値があると断言しているのに過ぎない。人の生命を奪うことがなぜ悪であるかに関するいっそうもっともな答えは、こうであろう。すなわち、人の生命は非常に特別な種類の生命であるが故に、それを奪うことは悪である。このように、生命を奪うことが悪であるのは、《人》の生命には絶対的な価値があるということが事実だとして、その事実のせいである。
 しかしまた、この答えは、人の生命に特別な意義を与えるのは何かと問うことができるが故に、納得のいくものではない。ここで、人の生命が神聖なのは、それが羽根のない二足動物の形態をとるからだとか、あるいは、それが《ホモ・サピエンス》に属すると認定できるからだとか答えても、十分ではないだろう。言い換えれば、人の生命を奪うことが悪いということが、「種差別主義(speciesism)」[…]――つまり、人の生命を、それが人のものであるという理由だけに基づいて、その他の有意味な点で違いがない人以外の生命とは異なった扱いをすることを、道徳的に正当化しうるとする見解――に基づくものであってはならない。
 あるいは、その答えは、人は理性的に目的を持つ道徳的存在者であり、希望、野心、選好、人生の目的、理想等を持つが故に、人の生命は神聖性を持つということになるかもしれない。[…]人の生命は、人の生命《であるが故に》、神聖性を持つと言っているわけではなく、むしろ、理性的であること、選好を満足させること、理想を抱くことなどが神聖性を持つといっているということである。(Kuhse[1987=2006:19-20])△

 これは本の最初の部分だが、第5章でより詳しくこのことが言われる。

 ▽他の生物の生命に対してではなく、あるいは、他の生物の生命に対してと同じ程度にではなく、人の生命に対して価値を付与しているのは何《である》のか。二つの答えが考えられる。第一の答えは、人の生命が神聖であるのは、単にそれが《人》の生命であるから、つまりそれが《ホモ・サピエンス》種の成員の生命だからというものである。第二の答えは、人の生命に特別な価値があるのは、人が具体的な希望、野心、人生の目的、理想などを持ち自己意識を備え、理性的で自律的で、目的を持った道徳的存在者であるからだというものである。大まかに言えば、ヒトがジョゼフ・フレッチャーの言う意味で「人間的」だからというものである。(Kuhse[1987=2006:275-276])★07

 つまりこの人たちは、人間を特別扱いしているのはなぜかという問いに、人は知的な能力において秀でているからだと答える。同時に、ならば知的にすぐれた動物をも尊重するべきだということになる。動物と人間とを取り出して人間を特別視するのはなぜかと問うた上で、その基準αを取り出し、今度はそれを動物に当てはめ、それによって動物のある部分を救う。このように言われると、一方は人を特別扱いしていることを是認し、他方で動物が殺されることにもなにか良心の呵責のようなものを感じていてもっと優しくしなければならないと思っている人たちは、なるほど、と思うところがあるのかもしれない。
 だが、すこし考えてみると、いったいこれが何を言っているのか、よくわからない。
 三つを考えることができる。(1)脱人間中心主義的な倫理を言いたい。(2)人が人を特権化している理由を説明したい。(3)αという特性を特別に大切なものであると言いたい。
 しかし、(1)については、それがとても人間中心主義的な主張であることを述べる。(2)については、その人たちは人を特権化していない――これはその人たちの本望でもあるのだか、同時に、それでもなお人間中心主義的であると言える。そして、その主張の内実は、つまりは(3)αという特性を特別に大切なものであると考えたいというものであり、それだけが残る。しかしその正当性は不明である。このことを次節で説明する。

■註
★01 『私的所有論』([1997→2013]、以下、『私』と略)の第2版に「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」を置いた。その第2節が「人に纏わる境界」、その2が「殺生について」。その註10より。
 「そしてまた、人は人を殺すこともある。それは実際いくらもあってきた。(それは、特殊な場合を除けば、食べるためにではない。あるいは食べるに際して特別の意味が込められてきた。)「近代」あるいは「近代批判」が、殺さない範囲を、また一人前の人間の範囲を拡大してきたという面はあるだろうが、それは実際に殺さなかったことを意味しない。そして人間ではないから殺さなかったわけではない。人間であることをわかってはいたが、むしろわかっていたから、たくさん殺してきた。そして本書に述べることからも、どんな人も殺してならないといったことを言えるわけではない。」([2013:806])
 本書では本文のもとになった過去の私の文章の一部をかなり頻回にそしてかなり長く、そのまま註で引用することがある。一つには、別の文章を用意する必要がないと思うことがあるからだ。一つには、以前書いた文章との差異、いくらかの進展について知っていただきたいと思うからだ。
★02 シンガーの『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』冒頭の「謝辞」には以下のようにある。
 「過去一四年間、ヘルガ・クースと私は本書で取り上げられた広範な分野についてともに研究してきた。私たちは互いに相手から学んできたので、私たちの考えはいつしか混ざりあい、もともと私自身の考えであったものと彼女自身の考えとを区別するのが今では困難なほどである。本書と彼女の『医学における「生命の神聖性」の教え――一つの批判』とを併読すれば、私がどれほど彼女に負っているかが誰にでもわかるだろう。」「ヘルガとの知的な親交、そして彼女の励ましがなければ、おそらく私はこの分野の研究をとうの昔にやめていただろうし、本書が書かれることもなかっただろう。」(Singer[1994=1998:12])
★03 日本語に訳された本が三冊ある。一冊は編書で『尊厳死を選んだ人びと』(Kuhse ed.[1994=1996])。次に訳されたのが『ケアリング――看護婦・女性・倫理』(Kuhse[1997=2000])。訳書として三冊目になる『生命の神聖性説批判』(Kuhse[1987=2006])の発行は二〇〇六年。ただこの本はもとは一九八七年に刊行された本である。なぜこの本の訳が二十年経って、と思わないでもないが、楽に読めるのはありがたいことではある。そして、この人(たち)の言っていることは、数十年、基本的には変わらないから、この本でもおおむね間に合う。それは主張が一貫しているということでもあり――私にはその一貫した熱情がどこから供給されているのか正直わかりかねるところがあるのだが――それもよいことなのかもしれない。
 その本の奥付・カバーから拾うと、「ピーター・シンガーと共に国際生命倫理学雑誌『バイオエシックス』の編集に長く携わった。モナシュ大学(オーストラリア)ヒューマンバイオエシックスセンター前所長。」「彼女の哲学者としての業績は、本訳書に集約されると考えられる。」
 シンガーとの共著論文に例えば「重度の障害をもった新生児はみな生きるべきなのか?」(Kuhse & Singer[2002])。シンガーとの共編書に『人命の脱神聖化』(Kuhse & Singer eds.[1998])。
★04 一九四六年オーストラリア生まれ。メルボルンのモナシュ大学にずっといたが、プリンストン大学に移る。最初に邦訳が出たのは共著の本で『アニマル・ファクトリー――飼育工場の動物たちの今』(Singer & Mason[1980=1982])、その後も編書で『動物の権利』(Singer & Regan eds.[1985=1986]、第2版がSinger & Regan eds.[1989])、『動物の解放』(Singer[1975=1988])等が出ている。二〇〇〇年代に入っての翻訳ではパオラ・カヴァリエリ、ピーター・シンガー編『大型類人猿の権利宣言』(Cavalieri & Singer eds.[1993=2001])がある。第4章(◇頁)でこの本に言及するジャック・デリダへのインタビューの聞き手の発言を引用する。
 また本書の主題に関わる訳書としては、『人命の脱神聖化』(Kuhse & Singer eds.[2002=2007])がある。クーゼとシンガー編で二〇〇二年に出た、古いものでは一九七〇年代発表のものも含む二四篇の論文を収録したシンガーの論文集があって、そこから論文一一篇とクーゼの序文を選んで訳したという本である。言われていることは、その他の著作と同じである。『週刊読書人』掲載の堀田義太郎の書評(堀田[2007])がある。※全文を『補註』([2022])――本に入り切らない部分があり、リンク先に情報があることがあるから、『介助の仕事』と同時に作って提供している『介助の仕事 補註・文献』と同様、ネット上で『補註』を提供する――に収録した。
 またシンガーの論の解説書として山内・浅井編[2008]、その中で本書に関係する章として浅井篤[2008]、村上弥生[2008]。
★05 『グローバリゼーションの倫理学』(Singer[2002=2005])、『「正義」の倫理――ジョージ・W・ブッシュの善と悪』(Singer[2004=2004])といった本がある。
 分量も多くわりあい理論的な本とも言えよう『実践の倫理』でも、やはり動物を殺すことの是非が扱われ、貧富の差の問題が論じられ、そして人の生死の主題が平明に論じられる。初版が一九七九年で訳が九一年に(Singer[1979=1991])、第二版が九三年で訳が九九年に出ている(Singer[1993=1999])。そして、さらにわかりやすい本、「一般市民」向けと言ったらよいのか、『生と死の倫理』(Singer[1994=1998])がある。その主張は一貫している。これだけ長い間同じことを言い続けるその熱情は不思議でもあり、一貫していることが立派なことであるとすれば、立派だということにもなるだろう。
 訳書の帯には「オーストラリア出版協会賞受賞」とある。日本だとどんな本に対応すると言ったらよいだろうか。あまり手抜きはせず、ただ本の性格ゆえもあってか論理に荒いところはあり、しかし(あるいはゆえに)わかりやすく、読者を説得しようという姿勢で書かれている。著者の論理を、論理に内在して検討するには別の本がよいのだろうが、このような本も、どのような言い方でこの人は言いたいことを伝えようとするのか、それがわかってよいところはある。
★06 やはり『私』がその基礎的な仕事としてある。その後、『自由の平等』(立岩[2004])、『所有と国家のゆくえ』(稲葉・立岩[2006])。『税を直す』(立岩・村上・橋口[2009])、『ベーシックインカム』(立岩・齊藤[2010])、『差異と平等――障害とケア/有償と無償』(立岩・堀田[2012])。
★07 関連する論文に「倫理学と安楽死」(Fletcher[1973=1988])。
 「明らかに消極的な安楽死が現代医学では既成事実となっている。毎日国内各地の多数の病院で、真に人間的な生命を延長している状態から、人間以下のものが死んでいくのを延長しているにすぎない状態にまで立ち至ったという判定が臨床的に下されており、そのような判定が下された時には、人工呼吸器をはずし、生命を永続させるための点滴を中止し、予定されていた手術を取り消し、薬の注文も取り消すということになる。」(Fletcher[1973=1988:135])
 本文にあげた人たちと同じく、もうなされていることを言う。そしてそれを是認すればより積極的な処置も是認され、さらに積極的な致死のための処置の方がむしろよいことがあることを述べる。そして、これらの行ないがみな正当化される。そして基本にあるのは同じ価値だ。
 「重要なのは《人格的な》機能であって、生物学的な機能ではない。人間性は第一次的には理性的なものとして理解されるのであって、生物学的なものとして理解されるのではない。この「人間についての教義」は、人間homoや理性ratioを生命vitaに優先させる。この教義は、人間であることを生きていることよりも、もっと「価値がある」と考えるのである。」(Fletcher[1973=1988:138])
 「《人間であること》の限界を越えて生かされ続けることは望まない、したがって、適切と思われる安楽死の方法のどれかを使って、生物学的な過程を終わらせることを認める、こうしたことを説明したカードを、公正証書にして、法的に有効なものに作成して、人々が持ち歩けるような日がやってくるだろう。」(Fletcher[1973=1988:148])
 ジョゼフ・フレッチャー(一九〇五〜一九九一)は聖公会の牧師で、キリスト教者・プロテスタントとして生命倫理学の登場時期に影響を与えた。また後に無神論者であるとされた人でもあるという。その思想について大谷いづみ[2010]、ネットから読める科研費研究の報告として大谷[2013]
 『私』第2章では、「人間は製作者であり、企画者であり、選択者であるから、より合理的、より意図的な行為を行うほど、より人間的である。」(Fletcher[1971:181])以下を引用、言及している文献を紹介し、検討した([1997→2013:82-83,116])。
 第4章で、「人間たるということは、我々がすべてのことをコントロールの手中に置かなければならないということを意味する。このことが、倫理用語のアルファでありオメガである。」(Fletcher[1971:781])を引用、この箇所を訳し紹介している文献をあげた検討した([1997→2013:185])
 第5章で、「「もし望むなら他の検査で詳しく調べてもよいが、ホモ・サピエンスの成員で、標準的なスタンフォード・ビネー検査でIQが四〇以下の者は人格(person)かどうか疑わしい。IQが20以下なら、人格ではない」(Fletcher[1972:1])以下ともう一つの論文から引用し、この文献に言及している文献を列挙した(立岩[1997→2013:356-357])。


UP:2021 REV:20211216, 20
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