人命の特別を言わず*言う・02

立岩 真也 2021〜2022
010203


 第2回になる。この連載の趣旨説明は第1回冒頭をご覧ください。そして以下で「それ」とか「この人たち」が何を指しているのかについても第1回を読んでください。

文献表(別頁)
補註(活字本に使わない部分含む&リンク→別頁)


* * *


■■2 批判

■1 それは脱人間中心主義的・脱種差別的な倫理ではない
 この人たちは(1)脱種差別主義的な、脱人間中心主義的な倫理を言いたいのだろうか。実際自らがそのようなことを言う。また人間中心主義はよくないと思う人たちがいて、その人たちにとっては、この説は魅力的ということか。しかしこれには反論できる。むしろそれは、第一に規範を設定する主体について、第二に規範の遵守が求められる対象について、第三にその規範の内容において、まったく人間中心主義的である。
 第一に、生物を等しく扱うべきである、すくなくとも自らの種以外の種についても生命が尊重されるべきだという考えは、人間が考え出したことであり、人間が言っていることである。他の動物たちがそんなことを言っているという話を知らない。
 第二に、ここでは規範が提示されているのだが、この規範の遵守を他の動物に求めるにしても求めないにしても、人間は特別のものとされている。一つ、人と人以外とを差別しない以上はすべての生物が対象になるとするのも、一つ、人の(一部の)基準を他の生物に押し付けてはならないというのも、人間が決めることであり、次に、人が他の生物に押し付けることであるか、あるいは他の生物は除外して人だけを特別に扱うことか、そのどちらかである。
 まず前者、規範・規則を他の動物・生物に押し付ける場合。例えば虎が動物を食べているとしよう。知性のない動物についてはかまわないとしても、高等な動物については殺してはならないということで、その条件を満たしている猿は殺されるべきではないとなるだろう。とすれば、ある種の猿を食べる虎がいたら、それを取り締まったりすることになる。他の動物はそんなことをしそうにない。これは人がその専断で行なうことであり、他に押し付けることである。
 次に後者。これはあくまで人間たち内部の倫理・道徳であるとしよう。するとこれは、動物だけを除外し、自分たちがその正しい規範を遵守するという意味で、やはり人間を特権化している。苦しむものをとって食べる存在を許容しながら、自らに対してはそれを禁ずる。人は、他の動物と同様、動物を殺すこともできるのだが、あえてそれをしないことによって、他よりも偉いのだというのである。
 むろん、規範の遵守を動物全般に求めることは現実にはできないだろう。しかし、それ以前に、動物にはこのきまりを守らせようとか、いや除外しようとか、考えられていないはずである。
 そして実際には、実質的には、人間の倫理とされる。そのことにおいてこの倫理は人間中心的なものである。それは、ある種の宗教的な発想では、まず人は特別であると自らを規定しつつ、しかし食べること殺すことにおいて他と変わらないとし、そこからさらに殺生を自らに禁じることによってその優位を確保しようとするその道筋が自覚されているのに比して、特権的であることの自覚を欠いている点で、さらにあらかじめ特権的であるとも言える。
 そして第三に、これは誰もが感じることだが、そこで大切だとされるものは人間に最も多く強く見出されるとされる性質であり、人を他の生物から分けるとされているものである。その性質αが特別によいものであるその理由が言えるのなら、それが特別によいものであるゆえに、その特別によいものをもっている人間はよいということになるのだが、その理由は不明である。とすると、最初から人間が優越しているという認識から話がなされているということではないか。
 まずこのように、普通なら、誰だって、このように思えるはずなのに、と思えることを述べた。そんなことを思わないほど、人間中心的な人たちがいるのだろうかと思う。しかし、そのことを言われれば、気づく、応答することにはなる。また自らが考えを進めていっても、そのことを考えることになる人もいる。ここまで本章でとりあげた人たちにおいてどうだったか、私はよく知らないし、そんな関心もない。ただ、「動物倫理」を言う人たちは、この問いをつきつけられたり、自ら抱いたりして、ものを言うことになる。そのさまを第2章で見る(◇頁)。

■2 非人間中心主義的人間中心主義
 しかしその人たちは、あくまで、非人間中心主義なのだと言うだろう。理性的存在中心主義としての人間中心主義をとっていることが主要な論点であると私は考えるから、その人たちが(じつは)ヒト中心主義的であるかどうかはとくに重要ではない。ただ、その人たちの言うことは、今述べたこととどのような関係にあるのか。
 その人たちは、前項の三番目にあげたこと、つまりヒトとしての人間がたくさんもっているものだから理性・知性…が大切だ、という理由からではなく、それは大切なのだと言うだろう。だから、自分たちの立場はヒト中心主義・種差別主義ではないと言う。そのように言われても、本気でそう言っているのかと私たちは疑いうるし、その疑いを証す文言も見つかりそうだが、そのことを指摘しても、それは間違った解釈であるとか、誤解を招くような言い方をしただけだと返されるだろう。そこでは争わないとしよう。ただ本人たちがどのように言うか考えているかとは別に、その主張が人間中心主義的であるとは言える。
 例えば、私たちは肌の色であるとか、等々で差別しない、差別するつもりはなく、ただ、(例えば英語といった)言葉をよく理解し使うことができるか、だけを問題にしており、そしてそのことによって区別することには問題ない、と言う。しかしその差異に関わる属性はある。差異をもたらすものの多くは「社会的なもの」であるだろう。そんな時に私たちはどうしてきたか。一つには、(不当に与えられた)差を少なくするようにいろいろと社会的な策を講じたり、講じるべきであると主張したりした。ただすぐにはその解消は難しいことも認める。するとその解消が実現するまでの間、暫定的に、「下駄を履かす」ことを認めることにする。それが「アファーマティブ・アクション」などと言われる★08。それにはもっともな部分がある。そのうち、類人猿にも言葉をしゃべることのできるものが出てくるだろうが、それはまだ無理なことではあるが、それはわれわれの社会のいたらぬせいであるから、可能性のあるものについては、まずはわれわれの議会の議員に加えようとか、そんなことを行なうのである。それがどれだけ実効的な方策かという問題があり、人間の社会内に限ってのことではあったが、そのことが様々に論じられることがあった。そこにはここでは立ち入る必要はない。ただ明らかなことは、何をしようと、絶対的・相対的に「できない」生物・動物はいるということだ。
 人間・ヒトに限ったとしても、みなができるようになるわけではない。遺伝子的な差異に関わり、あるいは理由はよくわからないが、そこで求められることが「できない」人たちはいる。一六番あるいは一八番の染色体が三本ある(トリソミー)といったことで区別・差別はしないとされる。しかし、その人たちの全部あるいは大部分は除けられる。そういうことを称して、それはダウン症者(に対する)差別であるとか、言う。言葉はそのように使われている。だから前項に述べたことを言う人たちは、やはり、(できる)人間・ヒト中心主義なのだとは言える。
 すると、その言葉を受け入れるかどうかとは別に、その人たちは、大切とするものが大切なのだと言うことになる。

■3 それが大切だと言うがその理由は不明である
 つまり、その人たちは――「種」ではなく――(3)知性その他を特別のものとしたい、αという特性を大切なものであると考えたいのらしい。そしてそれを人の多くが有するから、また比較的にその特性を多く有するから、それは相対的に人・ヒトの優位を示すことにはなる。と同時に、αという特性を有する動物が救われることになる。人の全体を救おうというのではない一方で、人でない生物のある部分を救う。特性αを有さないある人は除外され、類人猿はよいことになる。人を特別のものにしようという目的は不完全にしか達成されないのだが、そもそもそれが目的でないのなら、それはそれでよいということになる。多くの生物に見出される特性を取り出すならかなり多くのものを殺してならないことになるが、αが条件でなのであればそう多くが救われることはないからさほど困ったことにはならない。救うのはある種の猿(の中で知能の劣っていない猿)ぐらいでよいということになる。殺すことから逃れられる動物は一部だから、それら以外を食していれば人類の生存は可能である。
 こうして、人によっては食べたいものをある程度がまんするなら、大多数の人間は生きていられる。それでよいという人がいることはわかったとして、しかし、なぜそれがよいのか、特性αがよいのか。同じことをまた繰り返すことになるのだが、それがわからない。
 とくに死に関わり、感覚、さらに知性を重んずる思想に理解できるところはある。私にはけっしてよいことだと思えないが、人は死を観念してしまい、そのために死を恐怖する。私は、その死の恐怖を感じることができてしまう存在にとって、それを感じながら与えられる死は、よほどのことがあったとしても、避けられるべきだと考える。だから死を遠ざけるその優先順位として、死をわかってしまった存在が優先されてもよいとは思う。このことを第3章で述べる(◇頁)。
 しかしわかるのはそこまでだ。それ以上・以外のことはわからない。なぜαが格別のものであり、それを選別の基準にすることが正しいのか。
 その熱情はどこから来るのか。そのように問いを変えてもやはりよくわからない。自然科学が人と他の動物との境界を脅かしたから、かえってその境界にこだわるようになった、などといった説明はある。しかしそれが説明であるのか、疑問だ。ここでは境界の必要は前提とされているからである。被造物の中の階列を混乱させるという説明もある。人が支配すること、支配を継続することができなくなることを恐れているのか。しかし、誰に向かってその優越性を言いたいのか。他の生物はそんな説明を聞いていないのだから、自らに対してということになるだろう。なぜ自らに対してそのことを言い、そして自らが納得しなければならないのか。それもわからない。
 大切にされるものは統御である。しかし統御は、まず統御の結果を得るための手段である。生の統御とは生のための統御であるから、その力能が失われたときには生の価値がないというのは、言葉の単純な意味で、倒錯している。そして実際には、その力は他からも得られることがあるから、自分になければならないというものでもない★09
 すると、こうした能力・性質は手段としての有用性によってだけ評価され肯定されるのではないのだと言い返されるだろう。そうかもしれない。しかし、だとしても、その欠如が生存までを否定する理由は見出せない。「アイデンティティ」が持ち出されるかもしれず、個人の個別性が言われるかもしれないが、他と違った自分であること、自分であることの意識が特権化される理由を見つけられないし、次に、そうした意識があろうがなかろうが、その人が独自の、その人でしかありえないその人であるという事実は当然に現実の世界に存在している。だからむしろそのように思ってしまうことの方が不思議だ。
 こうした問いに正面から答えず、ともかくそれは自分の信念なのだという応じ方はある。つまり思想信条の問題だと、自己決定の対象だと言われる。それにどう答えるかはこれまで幾度も書いてきたから、繰り返さない。ここでは二つだけ確認する。一つ、例えば新生児の中に殺してよい人がいるとされる時、それはその子の意見を聞いてそれに従っているわけではないということだ。そしてここで見てきた人たち自身が、それが各自によって決定されたものであるから大切であるとは言っていないのだ。もう一つ、自分が自分のようでなくなるから、生きることを止めようというのだが、その自分のようでない人(例えば重い認知症になった「私」)に関わって決めることは、自分のことを決めることだとそう簡単には言えないはずだ★10

■4 繰り返した上で次に進む
 間違えやすいことだが、人間の特別扱い(建前としては、殺してならないこと)を言うために、人間の特別性を持ち出す必要は必ずしもない。たしかに人間が「意識」「知性」を有する存在であるという差異の認識、自己了解は、いくらかの社会・人々にはある。仮にそれが本当だとするなら、それは人間の「特異性」を示すものではあるが、それ自体は、その「優位性」、そしてその人間、正確にはそうした属性を有する人間、さらに正確にはそうした属性を有する存在を尊重すべきこと、殺してならないことを示すものではない。これは、人が属する思想圏がどういうものであるのかと独立に、まったく論理的に言えることである。
 つまり、その人たちはある特異なものを予め優位であるとしているのだが、その根拠は示されていないのだ。また現実にも人間たちがそのことを言おうとする欲望を有していると限らない。実際、多くの人にはそんなものはないと思う。しかしある思想の流れはそのことを言おうとした。つまり、人間の(他の生物に比しての優位性としての、また人間内の優劣も示すものとしての)「特別性」を言おうとし、そのことを言うに際して、意識・理性・知性を言った。そしてそれは、私たちが世界を了解し取得し、そしてそれを(知性・理性によって)改変することをよしとすることにおいて、本書が検討・批判の対象としてきたものに近いもの、あるいはそのものである。
 だから「非人間中心主義」もまたそうした発想のもとにある、その正統な流れを汲む主張であると考えることができる。あるいは、そこに自省の契機があまりに少ないことをもって、あるものを懐疑しながら進む哲学・倫理学の「本流」から既に逸脱していると言うこともできる。ちみなに、第4章では、ここでみたやんちゃで単純な話とそれとだいぶ味わいの異なる議論がいっしょにされて動物愛護を支持する論として援用されるさまを見ることになる。
 指定された性質を有しない人間は排除され、代わりにある種の人間外の生物は生存を認められる範疇に入れてもらえることにもなる。その主張は一貫はしている。そしてそれは、(人間が)生物のある部分を殺す対象としないことにおいて「非人間中心主義」と言えるとしよう。しかしそれは、人間が格別に(たくさん)有していると思われるものを自らから取り出し、それを基準にして人間が選別し、その特権性・その性格を有する存在の保全を自ら主張するものだ。
 そして、その規則の遵守を求める主体は、そして実際に遵守することを求められる対象は人間に限られる。大量の生物を食する鯨はそのことを責められることはない。殺すことの禁止から免除されている。鯨が食べる極端に大量のオキアミは下等な生物であるから、それを食べるのはよいのだとでも言うのもしれないが、仮にそれを認めても、もっと大きな利口そうな動物を食べる鯨もいる。チンパンジーも、より平和的な種であるとされるゴリラも、殺し合うことがあるという(山極寿一[2007])。非人間中心主義者たちは、その動物たちに、殺さないという道徳の履行を求めることをしない。もちろん実際にそんなことは不可能なのではあるが。その規則に従うことを他の生物には免除する。免除するべきであるとか、免除していること自体に気づいていないかもしれない。
 これらの点で、その主張はまったく人間中心的なものである。人間の特権主義を否定するという立場そのものがとても人間的なものである。
 そんなことを言われても困ると言われるか、困惑以前の反応しか得られないかもしれない。それ以前に反応が得られないのかもしれない。それはその倫理学がそのようなものとして、つまり人間のものとしてあるからである。
 たしかにそれ以外は不可能ではある。しかしこのことにどの程度自覚的であるかによって、私たちが言えることに違いは出てくる。そこで本書もまた書くことにした。そして私はどのように考えるのかが次に書こうとすることだ。
 以上がここまでに述べたことだ。ただその前に、二通りの続きの話を検討しておく。
 一つは、理由が言われていないと述べたことについて。「そんなことはない、立派な理由はある」と言いたい人たちがいるだろう。「生命倫理学」の論者にそんな人たちが、そしてシンガーらもそのなかにまだ、いる。
 もう一つは、人間にだけとはまでは言わないが、「知性だとか理性だとか、「高級」なものに殺さない範囲を限るのは間違っている、快苦を感じるその範囲に広げるべきだ、そうすると話は違ってくる」と言う人たちがいる★11。動物を擁護する人たち、「動物倫理学」と称される領域にいる人たちの中にそんなことを言う人たちがいる。次節でこれらを検討する。

■註
★08 『私』の第7章「代わりの道と行き止まり」の第1節が「別の因果」。その1が「社会性の主張」。ここでアファーマティブ・アクションに言及した。2は「真性の能力主義にどう対するのか」。
★09 このことを幾度か、一番わかりやすいと思うのは『人間の条件』で、述べた。
 「ある人ができないことは、その代わりに別の人たちがしなければならないのなら、そのある人にとってはよいことであり、別の人たちにとってはよくないことである。こうなる。これは、できることはまずその本人にとってよいことであるという「常識」と違う。しかし、ここまで述べたことになにか間違ったところがあるだろうか。ないはずだ。とするとむしろ、なぜ自分ができた方がよいのか。そちらの方が不思議なことのように思える。そしてこの問いに対する答は一つではない。」(立岩[2010→2018:◇])
★10 自律的な人間を大切にすることと、自律的な人間が決めたことだからその決定を大切にすること、両者は同じではない。安楽死や尊厳死と呼ばれるものについては、通常、決めたこと「だから」という契機がある。しかし本章で見てきた場面にはその契機はない。自分で決めない/決められない状態の存在のよしあしを言い、その生殺を決めるのは、当然その本人ではありえない。次節でこのことをより詳しく説明する。また、安楽死・尊厳死と自己決定については『良い死』(立岩[2009→2022]の第1章「私の死」。
★11 「もしシンガーが、感覚力にもとづいた平等な配慮の原則という、もっと単純な論旨で議論を終えていたならば、『動物の解放』は並外れて反健常者主義的な本になっていただろう。彼は、認知能力を特定の存在の価値を測る尺度として用いることの危険性に警鐘を鳴らす議論を展開することもできたのだ。だが、シンガーはそうしなかった。感覚力に焦点を合わせたにもかかわらず、彼は最終的には、人格の裁定者としての理性に再び王座を譲り渡す。完全な人格をもった生は、そうでない生よりも価値があると主張することによってだ――完全な人格を有する生の場合は、死ぬと頓挫してしまう利害関係および欲望があるが、人格を欠いた生の場合には、そんな欲望や利害関係そのものをもつことができないからだ。シンガーは種という壁に果敢に挑んでいるにもかかわらず――ここで人間と非人間を分かつ線は彼にとって道徳的に重要ではない――このような主張は、特定の力量をもつことのない動物たちに対して、明らかに好ましくない帰結をもたらす。これはまた、知的障害者にも間違いなく悪影響を及ぼす。こういった枠組みのなかでは、このような人びとは不可避的に、より価値の小さい存在として判断され、カテゴリー化されてしまうからだ。」(Taylor[2017=2020:215-216])


文献表(別頁)
補註(活字本に使わない部分含む&リンク→別頁)


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■■目次(仮)

第1章 人命の特別を言わず/言う
1 脱人間中心主義的と称する主張
 1 殺生について
 2 α:意識・理性…     ☆前回ここまで
2 批判
 1 それは脱人間中心主義的・脱種差別的な倫理ではない
 2 非人間中心主義的人間中心主義
 3 それが大切だと言うがその理由は不明である
 4 繰り返した上で次に進む  ☆今回ここまで
3 なぜまだについて
 1 驚いたこと
 2 生命倫理学が開いて、閉じたこと
 3 動物倫理学が開いたこと、を閉じること



UP:20211220 REV:20211216, 20220203
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