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人命の特別を言わず*言う・04

立岩 真也 2021〜2022
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■■■第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する

■■1 殺し食べる
■1 動物倫理を動物に拡張すると
■2 0:殺すなとは言えない [第04回]
■■2 それにしても
■1 人はずっと間違えてきたと言える不思議
■2 種主義は人種主義ではない [第05回]
■■3 食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする
■1 予告
■2 T:食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする [第06回]
■■4 人の特別扱いについて
■1 U:人のもとに生まれ育つ人であることを受け止める人 [第07回]
■2 私たちの事実だから/だが私たちを超えたものとする [第08回]
■3 照合してみる [第09回]


 


※ 連載の第4回です。この回から全4章の第2章になります。第2章の進行は以下の予定です。 全体の目次(予定)等は『人命の特別を言わず*言う』にあります。
第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する

1 殺し食べる
 1 動物倫理を動物に拡張すると
 2 0:殺すなとは言えない  [第04回]
2 それにしても
 1 人はずっと間違えてきたと言える不思議
 2 種主義は人種主義ではない  [第05回]
3 食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする
 1 予告
 2 T:食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする  [第06回]
4 人の特別扱いについて
 1 U:人のもとに生まれ育つ人であることを受け止める人
 2 私たちの事実だから/だが私たちを超えたものとする  [第07回]

※ 前回したお知らせをもう一度。2月19日に、日本生命倫理学会・人生の最終段階におけるケア(End of life care)に関する部会主催の「エンドオブライフケアの諸相」で話をすることになりました。川島孝一郎さんから連絡いただきお受けしました。Zoom 13:30〜17:00。安藤泰至さん、中島孝さんの後、話します。今メールみたら、会員向けイベントとありました。非会員の方々すみません。ただ、私の報告分については私が録画なり録音なりしてそのうち公開しようと思います。そしてその日のための資料のようなものを作り出しましたので、見ていただけます。→「私のような死ぬのが怖いだけの単純な人間には無用ですが、多くの人はそうでもない。」。昨年ちくま新書の1冊となった『介助の仕事』にある文言です(p.216)。


■■■第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する

■■1 殺し食べる

■1 動物倫理を動物に拡張すると
 本人、当の存在において「よい」ことに「決める」「律する」ことを加え、この決める・律する・できるに大きな価値を与えることによって「生命倫理学」の主流が現れ、人が自ら死ぬことにもなることを前章第3節(連載第03回)で述べた。他方、基準を「よい」だけにし、そしてその「よい」を、「感覚」「快苦」のほうにもっていくと、それを有するらしい存在の幅は広がっていって、近頃は「動物倫理学」などと言われることもあるらしい領域の話になっていく。ただ、するとそれは、新しいものではなくなるのでもある。人間的とされる高度な性能から考慮されるべき範囲を広げていくことによって、その話自体は、世界のかなり広い範囲に昔からある、殺生に否定的な思想に近づいていくことにもなる。
 そうした領域の本を何冊かでも読めば感じることだと思うが、そこにはとてもたくさんの事例が出てきて、たくさんの論点が現れる★01。たしかに気分のわるくなるような実例がたたみかけて示される。そうして主張されるいくつか、あるいは大部分について、私はもっともだと思う。
 しかし、やはり論点を分けて考えていく必要がある。その際、生物の世界により広く存在するだろう快苦といったところに基準をもっていくことと連動して、前章第2節(連載第02回)で私が実際には人間中心主義的であると述べたことが、いくらか変動することを確認する。普通には人間の側から延長していった話だとは思われるが、しかしそうではないと主張することはできる。動物擁護側の人たちの言い分を聞くところから考えてみる。
 まず、前章第2節(連載第02回)で三番目に述べたこと。どんな存在を殺してならないかについて。それを理性だとか、自己意識だとかを有する存在ということにすると、前章第1節(連載第01回)に見た話になる。基準の設定にもよるが、人間のかなりの部分を除外したうえで、せいぜい類人猿あたりが救われることになったのだった。それを広げて、快苦、痛みや恐怖を感じている生物とする。これもとりようだが、より広い範囲にそんな生物が多く存在することは否定できない。植物だって苦を回避していると言いうる★02。そうするとだいぶ広くなる。そして、そのいくらか手前のところで止めるなら、ときに昆虫なども含む動物全般の殺生を否定する立場となる。
 次に、一番目に述べたことについて。要するにその「倫理」は人間が考えて発案したものだということだった。このこともまた認めざるをえないだろう。ただ、擁護を発議するのは、あるいは代弁するのは、人間であるとしても、そして人間であるしかないとしても、動物たち生物たちが望んでいるという主張は可能であり、実際になされる。例えばテイラーの本『荷を引く獣たち――動物の解放と障害者の解放』にはそんなことが書かれている。その動物たちは人間の言葉を話すわけではないが、殺されないことを望んではいる、苦痛から逃れようとしているというのだ。動物たちの行動から解する限り、そのように見ることはできるだろう。植物にしても、自己保存の方向に生きているとは言えるだろう。すると、人間の側の勝手な押し付けであるとまでは言えないことになる。
 テイラーの本では次のようにある。

 ▽排除と慈善の歴史ゆえに、「声なきものたちのための声」になろうとする動物擁護家の後見人のような口調を好ましく思えない障害運動家もいることは、十分理解できる話だ。例えば、スティーブン・ドレイクはこのように語る。「動物権擁護は、人間と動物の相互関係を位置づけるべき一連の原理を定義および擁護することによって機能する大義だ。けれどもこのことを要求するのは動物たち自身ではない……〔動物権の〕擁護家および運動家たちこそ、動物に対する権利擁護の言葉を定義できるのであって、かれらは決して、動物たちについての自分たちが誤って理解しているのではないかとか、動物たちが自分について自分で語りたいのではないかといったことについて、心を悩ませる必要はないのだ」。
 ドレイクの指摘は動物擁護運動に対する批判としてはありふれたものだ。作家およびジャーナリストのマイケル・ポーランもまた、類似した点を『雑食動物のジレンマ――ある四つの食事の自然史』において提起している。
 いったい運動家にどうやって動物の望みがわかるというんだ? 動物のために語るのは、単に恩着せがましく温情主義的なパラダイムを強化するだけだ。けれども(Taylor[2017=2020:116-117])△

 スティーブン・ドレイクの文章(Drake[2010])は「Not Dead Yet」のサイトに掲載された、訳すと「障害者の権利と動物の権利とを繋ぐ:本当にひどいアイディア」という題の文章だ★03。そしてポーランの本はだいぶ話題になり多く読まれたという★04。引用の続きは以下。

 ▽「けれども、ドレイクとポーランの議論における問題は、動物を利用し搾取する人びとは、動物たちのためにいっそう破壊的なかずかずの選択をしているということだ――動物を投獄と死に至らせる、そうした選択を、だ。動物が利用される実質的にあらゆる環境において、動物たちには、その檻から抜け出したり、屠殺されるのではない生を選ぶ能力も、〔そのための〕自由も与えられてはいないのだ。
 ドレイクとポーランはまた、動物たちは人間に自分の望みを伝えていないとする点でも間違っている。ロイの言葉、すなわち「選択的に傾聴されない」というのがずっと妥当だ。動物たちは、絶えずみずからの選好について声をあげ、自由を要求している。痛みで叫び声をあげるとき、あるいは突き棒、電撃棒、ナイフ、そしてスタンガンから逃れようとするとき、かれらは日々、わたしたちに語りかけているのだ。動物たちは、檻の外に出たいと、家族と再び出会いたいと、あるいは死が待ち構えているシュット〔chute:屠殺場において動物を一匹ずつ殺す場所に送りこむためのトンネル状の滑降斜路、訳書七〇頁にある訳注〕には行きたくないと、わたしたちに絶えず訴えかけている。」(Taylor[2017=2020:116-118])△

 そして続けてテイラーは、「動物が自分の解放を求めて行動を起こすことができ、また実際にそうしてきたという事実にはまた、驚くほどたくさんの証拠がある」(Taylor[2017=2020:118])と述べて、檻や柵から逃げ出そうとした動物たちの事例を列挙する。それがよいことなら、その方向に行くこと、またそのような人間が代行することはよいことだということにはなる。
 しかしまず、ここでテイラーは人が生物に対して行なう行為に限定している。人間以外の動物も動物を殺しており、そこに殺される側の苦痛は――たしかにその度合いは同じでないとしても――存在するだろう。とするとそれはどのようになるのか。
 このことは、前章第2節(連載第02回)で第二に述べたこと、規範の遵守を人間にだけ求めていることをどう考えるか、人間に限定してよいのかにも関わる。求められているのは人間による行ないの変更であり、なされるのはもっと人間が動物を大切に扱おうという方向の主張ではある。しかし、その規範を動物にも及ぼそうとする極端な人たちもいることはいるようだ★05。動物をもっと大切にしようという多くの人たちは、きっと普通に、ただやさしい人たちなのだろうと思う。ただ、こういう社会運動の常ではあるが、より原理主義的な主張が現れることにもなる。しかしそれをまったく無視するというわけにもいかないし、理屈は整合している。(人間が与える)「過度な」苦痛はとくに問題だと主張するにしても、その基底には、苦痛全般が避けられるべきであるという価値があるはずだ。とすれば、動物擁護の人たちの多くが自らは主張しないとしても、世界の苦痛の全体を減少させるべきだとなる。
 すると、動物を殺さないという規範の遵守が他の生物にも求められる。とはいっても、その生物たちが人間の言うことを聞くことはないだろうから、それは実質的には人間の側の営みになる。そして、なすべきことは拡張され拡大されていく。殺すなというだけでなく、治療したり予防したりするべきだとなる。実際、ペットだとか、動物園の動物だとか、森林火災に巻き込まれる動物であるとかに対して、人間はある程度のことをしている。動物を病院につれていったり、あるいは死にそうな動物を救おうとする。それがその時々の愛護の精神からというのでなく、世界の全体についてなされるべきであるとなる。さらに、すくなくとも論理的には、肉食の動物たちを肉食せずに生きられる動物に変えるといった、生物、生物界全体の改変が指示され支持されることになる。
 それに対して思われそして言われることは、まず、そんなことは無理だということだ。よいものとして描かれる世界は、これまでのそして現在の生物の世界全体とは異なる。それを別のものに替えることは、たいへん大がかりなことであり、事実上不可能である。肉食動物に肉食をやめさせることがよいことであるとして、そんなことはできそうに思えない。想像するだけであれば、世界に生命がいることはよいことだとして、無機物・非生命だけを摂取して、生命の交代を一定の数の範囲内で繰り返していく、あるいは永遠に生き続ける生命だけが存在する世界といったところになる★06。そんな世界を現実的には想定できない。
 しかしまったくできないかと言えば、それはそうではないだろう。たしかにそれは容易なことではなく、できないことはたくさんあるだろうこと、すべてを変更することは無理だと認めたうえでも、可能な限りのことはできる、という言い方はあるだろう。そしてその範囲を徐々に拡張していくこともできる。そこで、できるだけのことはしようという主張はありうる。無理なことであるのは間違いないが、できる限りのことはできる、だからできるだけのことはするべきであるとする。あるいは、最大限を目指さないとしても、いくらかでもすることはよいことだとなる。いろいろと人間ができること、できてしまうことはあるだろう。せめて人は、できるのだから、行なおうということになる。実際そんな主張もないではないようだ。

■2 0:殺すなとは言えない
 以上は事実・現実に即すならこうなるだろうということだが、次に、現実に無理というのでなく、実現可能性の問題とは別に、「べき論」、規範論としてはどうか。
 動物は、さらには生物全般が、害と死を避けようとしているとは言えよう。その存在が殺されるのだから、悲しいことであるとも言えるだろう。それに対して、けれども仕方がないと言うとしたらどのような言い方になるだろうか。
 一つに、淘汰を通した進化を信じる人は、殺したり、生き残ったりすることのなかで生物は進化するのだから、殺生が支持されると言うだろう。たしかに淘汰を介して環境への適応度が高まるといったことがあるかもしれない。ただ、その進化がとくに望ましいことだと考える必要はなく、そのために殺して食べることが正当化されると、私たちは考えない。より優れた生物の出現が必要であるとは考えず、そのために摂食・殺害・淘汰が必要であるとは考えないからだ。そこで私たちは、この主張を殺生を認める理由として採用しない★07
 食べられ殺される生物がある。他方で、食べる・摂取するほうの生物は食べることも望んでいると言えるだろう。だとすると、なぜ食べられることが負であることのほうを優先するのか。殺して得ている。その快は苦を上回っている、だからよいのだといったことを言う人はあまりいないとして、合わせれば苦と楽とは均衡しているといったことを言う人はいる。
 それに対しては、比較のしようがあるのか、という問い方はあるだろう。よいことのある一方もあるが、殺される他方もあり、そのできごとを見た時、どちらがより望ましいかがはっきりしていることはそう多くはないはずだ。殺さない/殺されないことのほうがよりよいことだとは言えない★08
 食べる・食べられるといった一対一のその刹那のことをみるなら、このようだ。たしかに、殺され食べられそうな場面で、それを避けようとしていること、その刹那のことであったとしても、苦痛を感じているといったことは言えるだろう。さらにいくらか複雑な場面になるとどうか。とくに飼育という要素を入れるとどうなるのだろう。自然界で暮らすよりも、人間に飼われたほうが、さらに食用にするために飼われたとしてもその方が、長く生きられる可能性は高いといったことはあるだろう。それで寿命をまっとうできるといった場合もあるだろうが、屠殺される場合もある。しかしそうした場合でも、野生にいるよりもより長く生きられるといった場合はある。そんな時、家畜になって平穏で長生きできたほうがよいと思う人と、野生でスリルのある人生がよいと思う人と分かれるかもしれないが、当の動物に即した時にはよくわからないとしか言いようがない。動物の「家畜化」を嘆く人たちがいて、それもわからないではないのだが、野生のままにいるほうが必ずよいとも言いにくいはずである。
 さらに、ここで比較されるのは、現今の生物界と殺生全体が極小化された世界とだ。生物、生物界のあり様の基本が変更されることになる。とすると、その前の世界にいた生物と変更後の世界にいる生物とはまったく異なった存在であり、後者のほうが、前者から見たときによいなどと言えるだろうか。比較のしようがないし、さらに、変更したほうがよいと言える根拠が見当たらない。
 その人たちは自然を大切にしようという人たちのはずだから、その自然のままという主張と、自然の変更が求められることと、この両者は論者の各人において、どのように、辻褄が合わされているのか、合っていないのか、あるいはこの論点に気づいているのか。私は関心がないが、興味のある人は調べてみたらよいだろう。ただ大きくは二つに分かれるようだとは言える。一つには、人間のことに限定するものだ。人間である自分(たち)だけがなすべきことだと考えるのである。その気持ちはわからないではない。しかし、その気持ちから発する掟を他人たちに及ぼせるか。他人たちに及ぼすなら、なぜ人間に限られるか。人間だけがなすことに限ってならできるとは言えたとしても、だから人間がするべきだという論には与しないことを述べた。
 そうすると、もう一つ、(可能なかぎり)すべての動物・生物がその方向に行くことをよしとすることになる。これを主張するほうが少数派ではあるだろうが、一貫はしている★09。そしてその人たちは自然のままを支持していない。むしろ否定している。このことを認めさえすれば辻褄が合わないということにはならない。他方、自然が大切だと思って支持しようとした人たちは違うことを言う必要がある。
 それは、生物における世界の営みを否定するということだ。基本的な仕組みを動かすことになる。それは、むりやりなことではある。そしてそれは、その相手の「意を汲んだ」ものであったとしても、人間が行なおうとすることだ。個別に、傷ついた動物に出会ったり、保護することはあるし、あってわるいことはないだろう。ただ、殺生することを止めさせることを局所的に行なったとしても、それは有効な行ないではない。すくなくともたいして有効な行ないではない。食べることをやめさせることができたとして、しかしそのままでは、食べることができなかった動物は死ぬだろう。とすると、別の、殺生しないという規範に抵触しないものを与える、それを与えられて生きることができるようにすることになる。つまり、この規範のもとで有効なことを行なうなら、それは生物の世界全体に対する行ないとなり、そのように世界を改変するべきであるとなる。
 そんなことは実現可能性において無理なことだというだけのことではない。人間の側に、と限らなくとも、変更を考えている側に、そこまでの権利はないはずだ。意を同じくする者たちだけの世界であったら、そこでその者たちの一致した意思による行ないとなったら、一挙にそのような世界にすることはあるかもしれない。しかし実際の世界はそうではない。
 許容されるのは、せいぜいが個別の利害を推量することであり、そのもとでいくらかを実践することであろうと思う。その生物たちが痛みを避けようとしているとは言えようが、そのことをもって、世界全体を変更することに同意していると推量するのは行き過ぎだ。そうして営まれている世界を否定するだけの根拠を思いつかない。そんなことをする権限・権利は誰にも、そして人間にはないと考える。
 このように述べると、私たちが極端な想定を行ない、その想定を用いて、殺生を否定することを否定しようとしているという批判があるだろうか。しかし私たちは、たしかに極端な状態を想定したが、それが極端であるために実現できないからやめようと言ったのではない。困難であるのは確かだが、しかし、だから取り下げよと言っているのではなく、そのよしあしを問題にしている。そしてよくないと言っているのだ。
 なすべきであるとされる殺さないという行ないについて、人間の動物・生物に対する行ないに限定することに正当性が得られれば、違ってはくるだろう。行なうべきことの範囲は大幅に狭まり、量は少なくなるだろう。人間だからできる、せめて人間がする、というのは、わからないではない。しかし、そのことが言えるだろうか。
 まずなされる主張の一つは、肉食は他に食べるもののないある種の動物については仕方がないが、他のものも食べることのできる人間にとっては必須ではない、だから食べる・殺すのをやめるべきだというものだ。生きていくのに必須ではないというのは、そうかもしれない。ただ、猫にしても、どうしても小鳥を殺して食べないと生きていけないかといえば、そんなこともないだろう。さらに、猫だったら、食べないで殺すこともある。とくによいこととも思わないが、それをよくないことだとか認めても仕方がないと思う。かつては肉食であった動物に、植物を食べさせるようにすることができることがある。あるいはそのような動物の性格・性質を変えることができることがある。実際、そのような方向に主張が行くこともある。そしてそれはまったく不可能というわけではない。
 人間なら行なうことができる。そのことを理解し実行することはできる。よく言われるように、別のものを食べるようにすることができる。雑食動物である人間はその度合いがより高いとは言えるかもしれない。しかし、他の動物に対して(あまり)強く言えない(できないこと)を、人間に対して言えるだろうか。言えない。
 その時に言われうるのは、人間はより高級な存在であるから、というものだ。しかし第一にそのようにどうして言えるのか。その理解を否定することはできる。第二に、仮に高級であることを認めたとして、なぜそれを止めねばならないか。人間がその規範を理解でき実行できることは言えたとしても、それをすべきであるとは言えない。できるならば食べてはならないという規範に従わねばならない、とはならない、ということだ。

 であるなら、人が動物を食べる(殺す)ことがわるいとは言えない。普通はこうなるはずだ。
 では動物擁護の人たちから聞くことはないのか。そんなことはない。まず、人間の行なっているその殺生はあまりに大規模である。とくに大規模な工場のような場でのことも含めれば、苦痛を与えるのは、他の動物が行なっているように殺生の瞬間だけではないといういう指摘にはもっともなところがあると認めよう。関連して、もう一つは資源の問題とのかねあいだ。大量の餌を食べ、環境によくないものを排出しながら食べ続けさせられて太った動物を食べるよりも、その手前の、餌とされる植物を食べた方がよい。これもよく言われる。そして、こうした指摘についてはいささかの猜疑心はあったほうがよいとは思うが、それでもおおむねもっともだと思う。本書の最後でもこのことを述べる。

■註

★01 第1章にあげた文献を除いて、入手した書籍は以下。原著の刊行年順に並べる。
 『動物の権利入門――わが子を救うか、犬を救うか』(Francione[2000=2018])、『児童虐待と動物虐待』(三島亜紀子[2005])、『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(Derrida[2006=2014])、『雑食動物のジレンマ――ある4つの食事の自然史 (上・下)』(Pollan, Michael[2006=2009])、『動物からの倫理学入門』(伊勢田[2008])、『アメリカ動物診療記――プライマリー医療と動物倫理』(西山ゆう子[2008])、『肉食の哲学』(Lestel[2011=2020])、『動物倫理入門』(Gruen[2011=2015])、『ジャック・デリダ――動物性の政治と倫理』(Llored[2013=2017])、『動物倫理の新しい基礎』(Rollin, Bernard E.[2016=2019])、『荷を引く獣たち――動物の解放と障害者の解放』(Taylor, Sunaura[2017=2020])、『環境と動物の倫理』(田上孝一[2017])、『動物の声、他者の声――日本戦後文学の倫理』(村上克尚[2017])、『人と動物の関係を考える』(打越綾子編[20180315])、『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』(生田[2019])、『快楽としての動物保護――『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ』(信岡朝子[2020])『ベジタリアン哲学者の動物倫理入門』(浅野幸治[2021])、『はじめての動物倫理学』(田上孝一[2021])。
 「入門」と題された本が四冊ある。また、これらの中で「倫理的ベジタリアン」を批判する立場をはっきりさせているのは『肉食の哲学』(Lestel[2011=2020])。そこでこれから幾度か引用はするが、私の主張との違いもまたある。
★02 「世界中ほとんどの文化において植物はある種の感覚を持つと考えられており、とりわけシャーマニズムの文化では顕著だ。西洋でも、少なくともゲーテ以降には見られる考えである。興味深いこの現象は今日ますます研究が進んでおり、なかでも…」(Lestel[2011=2020:46])
★03 そのHPには「Not Dead Yet(NDY・「まだ死んでない」)は、幇助された自殺と安楽死を合法化する運動に反対するために作られた、草の根の障害者の権利のためのグループです」とある。
 『ALS』で以下のように記した。
 「安楽死に反対する人たちは外国にはいないのかといえば、そんなことはない。そして反対者はカトリックなどの宗教的生命尊重主義者たちに限られるかと言えばそんなこともない。例えば米国には『まだ死んでない(Not Dead Yet)』(http://acils.com/NotDeadYet/)というホームページがあり、次のようなことが書いてある。《障害をもつアメリカ人は、あなた方の憐れみもいらないし、私たちを死に追いやる慈悲もいらない。私たちが欲しいのは自由だ。私たちが欲しいのは「生」だ。》また探してみると、「反安楽死国際機動部隊(International Anti-Euthanasia Task Force)」(http://www.iaetf.org/)などという組織もあるらしい(私のホームページですこし紹介している)。
 こうした組織がどれほどの規模のものなのか、またどのくらいの影響力があるのか私は知らない。大きな組織だとは思えない。論文や書籍で紹介されているのを見たことはない(そんなわけで私は、二〇〇一年二月、NHK教育テレビ〈人間ゆうゆう〉の「安楽死法成立・あなたはどう考える」という回に呼んでもらった時、こうした組織のことを無理やり、短い時間に押し込んで話した)。ただ、生きたい人はどこにでもいるということだ。」(立岩[2004:341])
 ここで「私のホームページ」と述べているものは、現在は生存学研究所によって運営されている『arsvi.com』となっている。
★04 『雑食動物のジレンマ』。カリフォルニア・ブック賞(ノンフィクション部門)、『ニューヨーク・タイムズ』の10 Best Books of 2006、『ワシントン・ポスト』のTop 10 Best of 2006、等。
★05 『雑食動物のジレンマ』の第17章が「動物を食べることの倫理」。(シンガー流の)動物擁護論に反駁しようとするが、反駁できず、しぶしぶ肉食を(一時期)断念するという筋になっている。
 「動物もお互いを食べるからという論理に対して、擁護派は、シンプルで痛烈な答えを用意してる。あなたは自然界の理法をもとにした倫理規範に従いたいのか、それなら殺人や強姦も自然ではないか。それに、人間は選ぶことができるではないか、と。人間は生きのびるためにほかの物を殺す必要はない。肉食動物は殺さなければ生きることはできないが(わが家の猫オーディスを見てみれば、動物はただ殺す楽しみのために殺すこともあるようだが)。」(Pollan[2006=2009:119])
 例えばこのようにして、この人は、反論しようとして、自分で負けて、負けを認め、しぶしぶ(しばらく)菜食することになるのだが、その自ら負ける負け方には疑問がある。
 まず、(人間的な意味合いにおける)殺人や強姦が人間を別とした自然界に存在するのか知らない、むしろ、ないと言ってよいと思うと返すこともできる。また、どんな時にでも私たちは常に例えば物理法則には従っているとも言える。だが、これはまじめな反論ではないということになるだろう。もっとまじめに返すことにする。私たちは、世界に存在するすべてをそのまま肯定するわけではない。しかし、そのある部分についてはそれを否定しないもっともな理由があると考える。そのことを本文に述べる。もう一つ、人間は肉を食べなくても生きていける(から食べるべきでない)という主張についても本文で述べる。
★06 もっと進めれば(動物的な)生全般に否定的になることになることがあるだろう。
 「じっさい徹底したべジタリアンが動物的な生に向ける敵意はじつに深い。彼らが心底満足する唯一の方法は、地上のあらゆる動物的な生を消滅させることだろう――それはすべての苦痛とすべての捕食を根絶する唯一の解決策である。大半のべジタリアンは悪びれもせず、そんな企みなどないと抗弁するはずだ。だがある意味、こうした態度が状況をいっそう悪化させるように思える。彼らは潜在的には自らのやり方が無益で根拠を欠くことに気づいているからだ。だとすれば、中途半端にしか達成されない倫理的な計画に意味などあるのだろうか?」(Lestel[2011=2020:75])
★07 註06に引用した部分の次の節は「進化について」で、その冒頭は以下。「苦しみも残酷さも利害間の絶えざる対立も存在しないウォルト・ディズニーの魅惑の世界に生きたいと願うことは、少し大人になれば諦めるはずの子どもの夢である。ラドヤード・キプリング式のジャングルの掟という古の世界観をきっぱり捨て去ったからといって、進化の理論とミッキーの世界が両立するわけでは決してない。」(Lestel[2011=2020:75])
 この後いいさかまわりくどい記述によって、しかし基本的に進化論が肯定される。なお私たちは、事実の記述としての進化を否定しているわけではない。
★08 「より普遍的に言えば、ベジタリアンが拒んでいるのは、現実世界が本質的に闘いの世界であり、たがいの基本的利害は一致するどころかむしろ衝突するとの認識である。だがある生物にとっての食われないという利益が、その捕食者の食うという利益につねに勝っていると言えるだろうか。」(Lestel[2011=2020:61])
 「動物が個々のレベルで自分の苦痛を最小限にしたがるとしても、普遍的に見ればその動物にとって苦痛は何らかの意味を持つかもしれない。じっさい、あらゆる苦痛を排除した世界の本当の意味について考えてみなければならないだろう。そんな世界は端的に言って耐えがたく、さらに痛ましく不毛であるはずだ。われわれの理性はふだんこうした問いには閉じられている。なぜならわれわれは願望を現実と取り違え、善意は完全に無償だと言わんばかりに、有益だと信じ込む行為の代償のことは考えない傾向があるからだ。」(Lestel[2011=2020:70-71])
 私はこのようには言わない。それは註07に述べたことにも関わる。
★09 前の三つの註に引いた本には、「狐を草食にしたがるような過激なベジタリアン」(Lestel[2011=2020:57])といった記述がある。「たとえばスティーブ・サポンツィスは、捕食動物の生態を草食や果実食に転換しようと考えている。」(Lestel[2011=2020:57])。訳注では「Steve Sapontzis, 1945- アメリカ合衆国の哲学者。動物倫理、環境倫理を専門とする。」(Lestel[2011=2020:167])少し調べると『Food for Thought: The Debate over Eating Meat』(Sapontzis ed.[2004])といった本がある。


 
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※ 2度お知らせしましたが、2月19日、日本生命倫理学会・人生の最終段階におけるケア(End of life care)に関する部会主催の「エンドオブライフケアの諸相」で話をしました。私の分を録音した記録を「私のような死ぬのが怖いだけの単純な人間には無用ですが、多くの人はそうでもない。」から聞けるようにしました。本書のこと、そして、『良い死』と『唯の生』の一部を合わせたを文庫版で出していただく相談をしていること、何を思って、その本を、そしてこの連載をしているのか、終わりの方で話しています。(「多くの人はそうでもない。」の続きは、『介助の仕事』、p.216をご覧ください。)


* * *

■■2 それにしても

■1 人はずっと間違えてきたと言える不思議
 人を殺すべきでないことをまず言い、人を特別扱いするなと言い、「殺すな」を他の動物にも適用していくというのが、動物を擁護するという人たちの話の筋だった。しかし私たちは、殺して食べることが悪いことだとはしなかった。そのように考えるほうが普通のことだと私は思うのだが、ある種の人々はそのように考えないようなのだ。
 次に、そのうえで、私は人を殺すことがよくないと主張することになる(本章第3節以降)。すると、やはり人・ヒトを特別扱いすることには違いないということになり、「種主義」でよくないなどと言われるのだろうか。そこで少し寄り道をし、確認をしておく。
 「種(差別)主義」の定義やその問題を何とするのかは一様ではないようだが★10、批判する側の批判の大きなものは、種(差別)主義がただヒトという種を特別に扱っているだけで、その扱いが正当である根拠を示していないということのようだ。
 しかし、「ただ特別に扱っていること」は、種主義の批判者についても言えるのではないか。このことを第1章に述べた。その人たちの側につけば、自分たちは理由を言っていると言うのだろう。知性・意識が尊重されるべき立派な大切なものであると言っている。立派であるから、殺されてならない。あるいは殺されてならないほど立派だという。そのことを言っていることになる。(1)○は大切、(2)大切なものはなくしてならない(大切でないものはなくしてよい)、(3)○のあるものをなくしてならない(ないものはなくして)よい。
 とすると、(1)でどのようにどうして大切かを言っている、論理の階段の段数が一つ増えていると言い、種主義はそれを言っていないということになるか。しかし、わからない。○が大切なことは認めてもよいが、それを(たくさん)有さない存在を消去してよいという理由がわからない。あるいは、その理由は否定される。だから、有意な説明が付加されているとは判断できない。このように述べた。
 その限りでは、批判の側が優位なわけではない、と私たちはまずは応じる。その上で、種主義の場合はヒトの尊重を言うだけで、そこで行き止まりだ、何も言っていないとする指摘に応じてみる。それが本書で以下行なおうとすることでもある。
 ただ、その前にやはり言っておく。人を特別扱いすることに特別の理由が必要なのだろうか。
 動物は殺すことがあるが人間は殺さない。それは、おおむね、殺生することがよいことであるとは思わないとしても、これまで人々がずっと守るべきだとしてきたことである。そのことを新たに理論的に考えなおしてみると、これまでの人々の営為はじつは根本的にまちがっていた、などということがあるのだろうか。二〇世紀の後半になって初めて、人は間違いに気づくといったことがあるのだろうか★11。問いを考え始める前に思ってしまうと述べたのは、このことだ。それまで、全世界的に、間違えてきたといったことがあるのだろうか。第1章で、変わったことを主張するという人の言っていることは、実はまったくこの時代・社会にあっては珍しくもないことだと述べたのだが、同時に、自分(たち)が言うまでみなが間違っていたといったことがあると本当にこの人たちは思えているのだろうかというのが普通に不思議なのだ。
 すると必ず言われるのが、しばらく前までは例えば人種主義は不当なことだとはされてこなかった。しかし、今はよくないことだとされている。それと同じだというのである★12。同じである可能性全般は否定されない。ただ、前者が「ゆえない」(正当な根拠がない)扱いであると言えたとして、他方がそうでないかはまだ言えない――これからのことだ。加えれば、このような言い方には次第に世界は開明の度合いを増していくという考えがあるように思われるのだが、人種主義はむしろ近代のものであるという理解にももっともなところはあり、常に「人種」の間に争いがあったわけでなく、少なくとも殺し合いに至るようなことはほぼなく、自発的でない場合も含め交配の現実もあったことも言えるだろう。とすると比較の対象、複数のものを同列に扱うその扱い方を間違えてはいないか★13
 そのように言っても、批判者たちは今までの道徳に対してもっと正しいものを提示していると言い続けるのだろうが、そしてたぶん言うだけでなく本当に思っているのだろうが、それは不思議だ。一つに道徳の進歩を信じているということか。私も進歩がないとは考えておらず、そして言葉の定義上、進歩はよいことだろう。ただ、ここで問われているのは生きていく際のとても基本的な規範だ、それが間違いであり、自分たちが正しい、と、その人たちは思えているのだろうか。やはり不思議だ。ただここでは平行線を辿るだけだろう。進むことにする。

■2 種主義は人種主義ではない
 次に、それにしても、ヒトだから殺さないという種主義はどのようによくないのか。
 ヒトであるから殺さないという主張に対して、知性があるから殺さないという主張は、知性がある存在は存在するべきであるという根拠があり、ヒト(の一部)にはそれがあるから、ヒト(の一部)は生かさせるべきという主張であり、他方で、ヒトであることには存在するべき根拠がない、というのだった。そうなのだろうか、が問いであり、第1章で検討した。
 ただその前に一つ、種差別→人種差別という連想・連合があるのだろうと思う。「生物的なこと」で差をつけるのはよくない、人種差別主義と同じだからだめだと言うのだろうか。実際、そのようなことを言う人がいる。
 障害をもった新生児の「安楽死」を論ずる著書の中でレイチェルズが言うのは、「尊重されねばならない」「特別の敬意を受ける」その集合の範囲をヒトという「種」とする理由を見つけにくいということである。例えばその集合を特定の人種としても論理としてはよく、とするとこの主張は人種主義を肯定してしまうことにさえなるのではないか。レイチェルズは、「ある集合に属するものたちがその集合に属するものを尊重するのは正当な行ないだという」ノージック★14の提案を引用する(訳文はRachels[1986=1991:139-140]による)★15

 ▽普通の人間の特性(理性を持ち、自律的であり、内面的に豊かな生活を送る、等)は、ケンタウルス座の主星の住人を含むすべての人によって尊重されねばならない。しかしおそらく、もっとも重度の知恵遅れの人さえ持つような、単に人間であるという種としての裸の特性が、他の人間からだけ特別の敬意を受けるということが分かるであろう。このことは、いかなる種の一員も他の種の一員にたいしてよりも自分の仲間を重視するのが正当であるという一般的原則の一適用例である。ライオンの場合でも、もしライオンが道徳的主体であるなら、そのときには他のライオンの利害を最優先したからといって、批判されることはないであろう。(Nozick[1983])△

 それに対してレイチェルズが言う。

 ▽例えば、われわれの人種に属している者にたいして特別な考慮を払うことは正当化されると提案されたとしよう。そういう提案にたいしては、拒否するのが正しいであろう。しかし、それはなぜなのか。それにたいしては、他の人種に属する者もわれわれと同じように理性的で、自律的で、内面的に豊かな心理生活を営むのであり、したがって、彼らを同等の配慮を払って扱うべきと言われるであろう。ところが、ノージック主義者によれば、こういった考え方はただ「ケンタウルス座の主星の住人」がわれわれとの関係において位置づけられるように、われわれを他の人種との関係において位置づけるにすぎない。つまり、われわれはその住人たちが持たない特別な関係をわれわれと同じ人種の一員にたいしては持っているのだから、その住人たちにはそうすべき理由がないにしても、われわれが同じ人種の者を特別に扱うことは正当なことであろう。だが、こういった考え方が人種に関しては拒否されるなら、種に関してもそれを受け入れなければならない正当な理由はないと私には思われる。(問題は、ノージックが人種差別主義者であるということではない。実際、彼はそうではない。問題なのは、種に基づく差別を正当化しようとするときに、もしそれが認められるなら、人種差別をも正当化するような議論を不注意にも彼が行ったということなのである。)(Rachels[1986=1991:140-141])△

 私はこの種の論に応じることができると考える。
 まず生物(学)的な差によって区別し差別するのがよくないという主張であるとして、人種というものが生物的な差であると言えるものなのか。私はよく知らないが、少なくともたいした差はないと言えるはずだ。ただ、ここでは、それが生物的な差であることを認めることにしよう。そして人種主義はよくないことも認める。そして人・ヒトという範疇が生物的な範疇であることも認めるとしよう。しかし以上からは、生物的・物理的・外見的…区分自体がよくないということにはならない。そして、人・ヒトとそれ以外という生物的な区分自体がよくないということにもならない。
 すると残るのは、種主義が人種主義を帰結する、あるいはそこまで言わないとしても、それを増進させる方向に作用するのでよくないという主張の可能性だ。しかし、種主義は、むしろ逆に、人種という区画を重要なものとしていないと見ることができるはずだ。むしろ、種主義は積極的に人種主義を否定すると言ってよい。そのように考えるほうが普通の考えではないか。まったく通俗的な標語として「人類はみな兄弟」という標語がある。私はその方向で考えていけばよいと思っている。人種主義が人類のなかに境界を引き差別する営みであるなら、種主義はそれを否定している★16
 知性や理性については、よい/よくないが言えるということだった。その属性を基準にとっていくと、それを(十分に)有さない人・ヒトが除外されるという。それに対して私は、知性等が(ときに)よいものであることを認めないわけではないが、選別するほどのものではないと述べた。ヒトという境界についてはどうだろうか。生物的なもの、外見的なものを持ち出すこと自体がよくないわけではない。ならば、そこに意味があればよいということだろう。これから四つあるいは三つのことを言う。

■註

★10 生存学研究所のサイトに「種/種差別主義」という頁を作った。以下はそこに引用した文章の一部。
 「種差別主義(speciesism)」[…]――つまり、人の生命を、それが人のものであるという理由だけに基づいて、その他の有意味な点で違いがない人以外の生命とは異なった扱いをすることを、道徳的に正当化しうるとする見解」(Kuhse[1987=2006:19-20])
 「〔『動物の解放』等の〕著作の特徴は、動実験施設や工場畜産と呼ばれる現代の畜産のやりかたにおいてどれだけ動物が苦しめられているかを細かく描写した上に、動物の扱いを考える上での枠組みと、「種差別」(speciecism)という概念を紹介したことであった。」(伊勢田[2008:18])
 ここに付された注が「正確に言うと、「種差別」そのものはイギリスの動物愛護活動家リチャード・ライダーの造語だが、有名にしたのがシンガーであったためにしばしばシンガーが造語したと思われている。」(伊勢田[2008:18])
 「多くのベジタリアンは、動物を殺さない意志を正当化するのに反=種差別の主張をふりかざす。反=種差別主義者にとって、彼ら自身の種、すなわちヒトを別種の生物の犠牲のもとに優遇するのは受け容れがたいものだ。種差別という語は一九七〇年、英国のリチャード・ライダーが導入し、一九七五年、オーストラリアのピーター・シンガーにより再度取り上げられ、人種差別という語と重なりながら練り上げられてきた。だが種差別と人種差別は同じ意味をもっているのか? そこには疑問の余地がある。またカニバリズムは動物には稀であり、大型の肉食動物には存在しない。豹が同類を食うのを拒むからといって種差別主義者と言えろうか? そしてもし栄養を摂るのにヒト以外の動物を殺すことに同意するとしたら、ヒトは種差別主義者でありうるのだろうか? あるいはより正確に言えば、ヒトは豹よりも種差別主義者でありうるのだろうか? 他の種より優位に立とうとは考えず、自身を動物コミュニティのひとりだと認識している私からすると、あらゆる捕食動物と同じ行動を受け容れることが、唯一真の反=種差別的位置を築くことに繋がるように思える。つまりある種の種差別のかたち――「他の動物がそうであるように種差別主義者である」ことは、逆説的にも種差別主義者にならない唯一の方法なのだ。」(Lestel[2011=2020:52-53])
 リチャード・ライダーについての訳注:「Richard Hood Jack Dudley Ryder, 1940- イギリスの心理学者、動物の権利を守る活動家」(Lestel[2011=2020:168])
★11 日本での肉食の歴史については、第1章でも紹介した生田武志の著書の前篇X「屠畜と肉食の歴史」(生田[2019:82-133])。また、動物解放の議論に肯定的であったが、「そういえば」、と、肉食の歴史や文化があることに思いを致すことになるという順序の文章もいくつかある。例えば、シンガーらの説を紹介した後(日本の関西の)肉食の文化に言及する白水士郎[2009]。『環境倫理学』(鬼頭・福永編[2009])に収録されている。
★12 「仲間に特別な配慮をするのは当然なことではないか。/あなたが種差別主義者なら当然なのだろうというのが、擁護派の答えだ。それはそう遠くない昔、多くの白人が自分たちの仲間である白人だけの面倒を見ようといっていたのと同じことなのだ、と。」([2006=2009:121]、「しかし私は」と続く)
★13 分子生物学者が人種について語られてきたことを紹介し現在の知見からどこまでのことを言えるかを述べた本に『人種は存在しない――人種問題と遺伝学』(Jordan[2008=2013])。その第1章が「人種および人種差別に関する小史」。
 では性差別と近代社会・資本制社会との関わりはどのように捉えられるか。『家族性分業論前哨』(立岩・村上[2011])に私の考えたことを述べた。
★14 ノージック(Nozick, Robert、1938〜2002)は最初の著書ということになる『アナーキー・国家・ユートピア』(Nozick[1974=1992])で知られている。その論について『私的所有論』で検討し、批判した(立岩[1997→2013:75-76,115-116])。ただこの人は一生同じことを言い続けるという種類の人ではなかった。
★15 レイチェルズの文章とレイチェルズが引用しているノージックの文章を『私的所有論』で引いた([1997→2013:313-314,353-354])。そして「この素朴な区別は、レイチェルズからノージックに投げかけられた問いにひとまず答えていることになる。」とした。その直前の文が「人は人から生まれる。人は人以外のものを産まない。人から生まれるものが人であり、そうでないものが人ではない。他にはどんな違いもないとしても、これだけの違いはある。そしてこの時に、人が生きていくものとしてあるのは既に前提されてしまっている。」(立岩[1997→2013:315-316])「既に前提されてしまっている」は少し強い表現かもしれない。それで本書も書いた。
 レイチェルズには他に訳書としてRachels[1999=2003]。その論は有馬[2012]でも紹介されている。以上は『私的所有論 第2版』に付した情報(立岩[1997→2013:354])。
★16 World Conference Against Racism(WCAR、反人種主義・差別撤廃世界会議)「人種主義の本質」より。「はじめに、もともと「人種」の概念は、政治的な目的で頻繁に利用される社会的に作られたものであると認識する。圧倒的勢力の権威が、科学的、人類学的な問題として、人間が違う「人種」に決定的に分類されるという認識が神話であることを証明している。人種は一つしかない。それは「人間」という人種である。」(World Conference Against Racism[2000])


 
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※ 以下に書いたことは半年ほど前に書いてあったことだが、昨日(2月24日)、戦争が始まった。以下は、そのことについてどんな意味ももちはしない。


■■3 食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする

■1 予告
 本書で言う第一のこと(T)は、それを次項で述べるのだが、人・ヒトはたいした理由でもない理由で殺しあってしまうので、それはよしにしようということだ。その集団は人・ヒトの集団ということになる。そこには、第1章にみたような人たちが肯定的に評価した知性や理性が関わっている。殺される側はともかく、殺す側はそのような性能を有している。そういうことをしそうな集団として人・ヒトを指定することに問題はない、意味があるということになる。
 第二のもの(U)は、次節で述べることだが、人が人を産む、人から生まれたものが人だという契機だ。この時私たちは、遺伝子のことなど、そんなものを知らなかった長い時期も含め、意識しているわけではないが、その範囲は、事実上、ヒトに限定されることになる。そのように存在するものを否定できないという感覚はあり、その感覚を規範として採用してよい。否定できないという感覚が他の生物にも及ぶことがあることは否定しない。しかし、なかでも否定できない存在(U)を、つまらない、人間的理由によって殺すのはやめよう(T)ということ(T+U)になるから、ヒトに限定した殺さない(殺し合わない)は認められてよい。人・ヒトは、殺しにくい存在として、同時に、同類であり生殖・繁殖可能であるがゆえに、人間的な理由によって、ときに殺害の対象になる。まったく別の種類の生物と思われていることもないではないかもしれないが、十分に軽蔑し「もの扱い」しているとしても、しかし、大きくは同種・同類であることを知っており、むしろそのために、殺してしまう相手として人・ヒトがいる。だからこそ禁じることにしようということだ。人種主義の否定もまた、その内部での争い、差別を抑止しようという主張である。種主義も、私たちが支持する限りでのそれは、また同じ主張を行なう。
 そして第3章では、その存在における世界があること(V)、死への恐怖(W)があることが、その尊重を否定できない理由として加わることを述べる。VはUに付随して現れるものでもあって、人が人について思うことではあるが、別の生物にもあるとは言えよう。そして幸いにも多くの生物にはなさそうな恐怖を、人は、ヒトとして有している才能によって抱いてしまうが、これもいくらかの生物にはあるのだろう。ただ、V・Wは、T・Uに付加され、人・ヒトを殺してしまう理由であるとともに、人を殺さないそのわけを補強するものであって、人・ヒトを優先することを認めながら、殺さないことが他の生物に及ばされることとは矛盾しない。

■2 T:食べるために殺すのでない人間は殺してならないことにする
 生物全般について、摂取・摂食すること、殺生することの全般をやめることにしようとは言わないことを前節で述べた。とするとむしろ、「殺すな」のほうが正当化されにくい規範であるということになる。人が人を殺すことだってわるいこととは言えないのではないかと問われる。それに応える。
 一つ、間違った(と私が思う)理路にはまってしまうとよくないと思う。その道筋は以下のようなものだ。殺してならないとは言えない、とすると、人を殺してはいけないとも言えない、ということになり、人命の相対主義に行ってしまう、ように思える。そこで、それを避けようとすると、どうなるか。一つには、人のもつ特性を持ち出して、人はそうした特性をもつから特別扱いしてよいという話にすることだ。するとその特性をもたない、すくなくともたくさんはもたない人がいるからその人は除外される。他方で、そうした特性をもつ人・ヒト以外のものが入れられることになる。つまり、なんのことはない、本書が前の章で相手にした最初の話に戻ることになるのだ。このように考えるのはよくないと私は述べた。この道はとらないし、とる必要がない。このことが言いたいことだった。ではやはり(あらゆる)生命尊重主義に行くか。しかしそれは無理だといま述べた。
 すると行き止まりになるか。そうでもないだろうというのが私の考えだ。そのことをこれから述べる。いくつかのこと、複数のことを述べる。そのうちの一つだけで十分にはならない。そして、そのいくつかには今まで言われてきたことに近い部分もある。ただそのことは、論理的に矛盾しているということでも、言葉にできないということでもない。
 まず、生物が生物を殺生していることを認める、のであれば、人による人の殺生を認めることになるはずだ、とはじつは言えない。他の生物は自分が生きるために他の生物を摂取し殺生する。他の食物でも代替できると言える場合はあるとしても、このことは、そのように暮らしていることを否定するものではない。そのことを認めるしかないだろうと前節で述べたのだった。
 次に、このことについてこれから述べていくことになるのだが、人が人(だけ)を殺さないことを主張することはとても難しいと思われているようだ。しかしそうだろうか。言えるはずだと述べる。このように考えていく。一つの答があるというわけではない。そして、その一つひとつは誰でも思うようなことであり知っていることだと私は思うのだが、それが言われることはあまりない。不思議だと思いながら、並べていく。
 人は人を殺すが、それはほとんどの場合、生きるために食べるためではない。食べようと思ったり、食べてしまったりするのは、雪山に飛行機が落ちて何人かが助かったが人間の他に食べるものがなくなったといった場合に限られる★17。そんな時には、よいことだとは言えないだろうし、なにより本人たちがよいことだと思っていないだろうが、その肉を食べても仕方がないだろう。多くは死んだ人の肉を食うのだが、本当に殺して食べないと死んでしまうなら、殺しても、殺したこと、そして食べたことを責めることはできない。しかし、そうした状況は、皆無にすることはできなくても、極少にすることができる。
 人が人を殺すのは、ほとんどすべての場合、そのような水準のできごとではない。食物として入り用だからではない。別の理由、明らかに人間的な理由からである。
 生きるためではある場合があるとしても、それは生きるためにその相手を食べるためではない。カニバリズムは様々に言われてきたことでもあり、実際になされることもあってきたが、それも腹が減ったので食用にしよう、というのとはたいがい異なる★18。まず、殺すことは、怒りや怨恨から、そして土地や財を奪うに際してのことであり、そして攻撃から逃れるためのことだ。動物たちにおいても同じ種の中で争いが起こり、殺すことがなくはないようだ。ただ、たいがいは殺害に至るまでのことにはならない。それに対して、人は知性を有し、記憶と感情を持続させることができ、計画を立てることができる。なにより、人を使い、技術を使うことができる。
 たいがいは他に方法がないのではない。すくなくともそれを回避できる状態を実現することはできる。しかし、自分たちのために、護るために、より豊かになるために、戦って殺す。それは、殺して食べるのと同じほどよいことであるとは言えない。そのことについていろいろなことが言われうるし、実際言われてきたし、その多くは当たっている。殺害は殺害を拡大させてきた。恐怖や憎しみ、のようなものによって殺すことは人間に限らないかもしれない。しかし、正しいことのために殺すことをするのは、人間に限られるようだ。それで、もっと殺すことが多くなる。
 そして人間は殺害のための種々の手段をもち、大規模な殺害をすることができ、実際、殺害は大規模になされてきた。それは前世紀からさらに顕著なことになっている。これは明らかに人がもってしまった才能によるものだ。
 個別の行ないでなく、自らの身体を使った行ないとしてではなく、他人(たち)に指図して、指図された人(たち)が行なう。あるいは機械が行なう。それは他の生物や無機物や地球全体にも向かいうるし、実際向かっているのだが、多く人間に向けられた。直接性といったものが常によいなどということはない。ただ、人は人に面してしまうと、あるいはその人の顔を見てしまうと、ためらってしまうことはある★19。そのような条件・制約のもとでそれでも時に行なっているのだが、その抑制が効かなくなる。そのことを命じる人は実際に殺すのではないから、その負荷は少ない。他方、実際に行なう人は命じられて行なうのだから、やはりいくらか負荷が少なくなる。結果、一人が一人で一生に殺せる数よりもずっと多い人たちが殺された★20。人は、行なおうと思えば、大規模に行なうことができるし、実際行なってきた。そこで容易さと規模が拡大した。
 モノのように、という言われ方がなされる。たしかにとくに戦争などの死の前後の扱いにはそんなところがある。ただ、人が人であることが顧慮されないから殺されるのではない。多く、そのことを真剣に受け止めるとやりにくくはなるから、そのようなことを考えたりはしないが、しかし、人は死を避けようとするから、その恐怖を利用して、統制する。応報や防衛のために実際に殺すこともある。後で恐怖のことを言うが、功利主義者と同様、私たちも恐怖は計算したほうがよいとする。人は、その恐怖を利用して、得たいものを得ようとして、行なってきた。そして、嘘だとわかると効かないから、実際に恐怖される死を与える。
 それを認めてよいかということだ。そのことの全体についてここで論じるつもりはない。やむをえない、さらに正しいと思える場合もあるだろう。だが、同時に多くの場合、そこまでのことはせずにすむ。そのすべての場合にだめだと言えるかという問いはある。すぐに思いつくのは、人が殺される・死ぬのはよくないとした上でのことだが、ある人物をそのまま生きさせると多くの人が死んでしまう、それを回避する緊急のいたしかたないこととして殺す、暗殺するといった場合だ。私はそんな場合がありうると思う。「ほんとうに正しい」ことのために人を殺してはならないのかについては、よい場合がある、という答はあるだろう。ただ、そうして認めると、やむをえぬとされる場合・対象は広がっていくだろう。また、特定の人間を殺すことがどれほど効果的であるかということもある★21。だからといって、常にどうしても殺すのがだめだとはならないとしても、基本的にはだめ、とはやはり言えるだろう。ただ、そんな場合のほうがずっと少ない。かなりまじめに正当化されるとされてなされてきた殺害にしても、後で、どれだけの意味があったかと思われることは多い。
 そしてもっとやっかいなのは、正しいとされる場面だ。今どき、戦争がよいことであると言う人は少ない。基本的にはよくないことではある、しかしときにはやむえないという具合に言われる。ただ、さらに、この時代・社会において、よくないことであるとされないことがある。自分を殺すにせよ他人を殺すにせよ、正しいと言われたり、否定できないと思える場合だ。そこにはシンガーたちがあげる理由もある。本書と同じ時に文庫となった『良い死/唯の生』(立岩[2022])で考えた安楽死・尊厳死と呼ばれるものはそうした死だ★22。快や苦はたしかに大きな部分を占めるが、それでも身体の苦しいことによる死への傾動が、観念としての死の恐怖に勝つことは少ない。しかし、生きるに値するとされるものをもたなくなることへの恐怖が、死の恐怖に勝つことはある。さらに、死ぬことを立派に果たすことがよいことだと思い、死のうとする人たちがいる。そんな人たちには死ぬことはないと言う。それは、生きている人たちのためにもよくない。人間的なものを大きく持ち上げることによって、そこから外れる存在が否定される。
 死や殺害を生物のほうに引き寄せて正当化する人たちもいる。「淘汰」は生物界の摂理であるといった主張をする人たちがいる。さらに、それこそが「進化」のための行ないであるからと言う人たちもいる。これもまた、長いことある人々が主張してきたことだし、それを理由に実際に行なわれてきたことでもある。このことは『私的所有論』でいくらか書き、そして別の短い本で書こうと思うが、優生学とはそんな営みだった★23。それは、技術を用い、進化を早めようとした。また人間社会において弱者が救済されること等によって人間が退化してしまうことが恐れられ、それを防ごうとした。それで、最も野蛮な方法としては殺害が、そして生殖を制限することがなされた。
 それはまず、遺伝その他についての間違った知識による行ないだった。例えば日本人も含め黄色い皮膚の人たちがとくに「劣等」であるという事実・根拠はないのだが、劣等であることにされて、移民の制限など様々が行なわれた。人間以外の生物はそんなことを考えず、だから間違いをしないし、それを行なうための手段も有していない。では間違っていなかったらよかったのか。本当に優秀な人の集団というものが存在するなら、社会の発展のために、その集団に属する人の数(の割当)を増やすのがよいのか。「発展」は言葉の定義上よいことだが、そんなことをしてまでするべきことかと考えたらよい。自分自身については勝手にすればと放っておくとしても、この行ないは他の存在のあり方を決めるという行ないであるから、それは認めないとする。

■註

★17 一九七二年、アンデス山脈の雪山に飛行機が落ちて、生き残ったが食物が無くなった人たちが死んだ人の肉を食べた話はよく知られている。その生存者に取材して書かれた本として、『アンデスの聖餐――人肉で生き残った16人の若者』(Blair[1973=1973→1978])。翻訳がハヤカワ・ノンフィクションとして刊行され、後に文庫になった。そして『生存者――アンデス山中の70日』(Read[1974=1974])。訳書の表紙には八七頁にある以下の文章の引用がある。「「これは肉なんだ」と、彼はいった。「ただそれだけのものなんだ。彼らの魂は肉体をはなれて、いまは神とともに天国にいる。あとに残されたものは単なる死骸で、われわれが家で食べている牛の肉と同じものだ。もう人間じゃないんだ。」
★18 カニバリズムをとりあげた本はいろいろとあるようだ。中野美代子の『迷宮としての人間』(中野[1972])は二度文庫化されていて、今はちくま学芸文庫で『カニバリズム論』となっている。この種の主題を私たちが好むことが示されている。
 人類学者がアステカ族の人身供犠について書いた章を含む本に『ヒトはなぜヒトを食べたか――生態人類学から見た文化の起源』(Harris, Marvin[1977=1990→1997])。人口増を抑止するためにという筋になっている。親族の遺体を食べて愛情と敬意を示すニューギニア山岳地域の慣習等にふれた随筆「われらみな食人種」を書名とした『われらみな食人種(カニバル)――レヴィ=ストロース随想集』(Levi-Strauss, Claude[2013=2019])。
★19 「顔」などと言うと、『存在の彼方へ』(Levinas[1974=1990→1999])といった著作を思い出す人もいるかもしれない。ただここで言っているのはそれよりずっと普通の顔・身体のことだ。レヴィナス、というよりレヴィナスへの言及について、『良い死』に短い言及がある。
 「生き死ににかかわる臓器の所属について、現実には、もとの帰属主が優先されているのは確かだ。だから、そこには「公共財」という規定とも、生命の尊重という原理とも別の論理が入っているはずである。それが何であるのかがこの本の中では示されていないということである。この本で(も)引かれているのは、ジョン・ハリスの論文(Harris[1980=1988])に出てくる「サバイバル・ロッタリー(以下、生存籤)」という話である。一人のうまく機能している臓器二つを取り出して、二人のうまくいってない人に持っていけば二人生きられてよいではないか、そして公平を期すためにその一人は籤で決めよう。そんな話である。これがいけないと言えるか。そう簡単ではなく、ハリスもその幾つかの反論を退けている。小泉の本で紹介されているように、また私も紹介したように、結局ハリスも籤を否定するのだが、その理由はたいした理由ではないので、あまり考えなくてよい。二人と一人の比較という功利主義が気になるだろうか。ならば、一人と一人で考えてもよい。
 こんな難題がここには現われている。しかしそのことを言う人は少ない。小泉によればその少ない人たちの中に、レヴィナスがいるという。その人がこの本ではおもにとりあげられている。その人は、ハリスのような種類の学者とはずいぶんと異なったところからものを考え書いた人なのだろう。なにかわがこととしてこの事態を感受してしまっているようなのだ。『存在の彼方へ』(Levinas[1974=1999])が取り上げられる。たとえば、「責任の存在内への参入に関しては、私たちはまったく選択権を有していない。このように選択の余地を与えないこと、それを暴力とみなすことができるのは、不当な、あるいはまた性急で不躾な反省のみである。なぜなら、ここに言う選択の余地なしは自由、非自由の対連関に先だっているからだ。」(Levinas[1974=1999:270-271]、『病いの哲学』では[127-128])
 このように問題を真に受けることを、『病いの哲学』の著者は真に受けてよいこと、真に受けるべきことと見ているだろう。そしてここからそのまま進めば、責任を負った者はそれを果たさねばならない、となる。もちろん、具体的にその義務がどのような義務としてあるのか、それは法的な義務なのか等の問題はある。それにしても、レヴィナスが言っている(らしい)のは、そうした義務を人は負うことになったのだということだ。その人は、そのことを身に迫って感じている感じがする。
 そう思えるかと私が問われるなら、そんなことはない。新たな事態の出現に震撼させられたりはしない。私に限らず、少なからぬ人は、たしかに「他者」の「顔」がそこにあったら、顔が向けられたりしたら、他の物がそこにあるのに比べて、何か違って感じるものはあるだろうと思いはするものの、しかし、人に呼びかけられたりすると応答せざるをえない、とは必ずしも思わなかったりするのではないか。そんなことを思うと、この人は不思議な人であるようにも思える。
 ただ、そんな問いはおかしな問いだとは思えない。心情として深刻に受け止めたりはできないとしても、とるにたらない問題だとして除去してしまうのはよくないと思える。そんなところからどう考えるか、と私の場合にはなる。『病いの哲学』の著者はもっと共感しているように思える。しかし、その論を追い、そしてさきにすこし紹介したハリスの生存籤の話をはさんで、そして結局、命のやりとりは否定する。生存籤はやめておこうと言うのだ。しかしその理由は示されていない。
 第二に、生命そのもの以外はどんなことになっているのか。生命(ゆえに生命に関わる臓器)以外はすべて公共財だと言うのだが、しかし言われていることは極度に極端、というわけでもない。移動が求められるのは、目の二つのうちの一つであるし、腎臓の二つのうちの一つである。それにしてもなかなかのことではあると思われる。この主張を受け入れるか、どうするか。そのままに受け入れないとしたら、どのようにそのことを言うか。
 同時に、以上のような主張をする人も問われることがあるだろう。一度に二つではなく、二つのうちの一つを分けることはその議論の内部で正当化されるだろうからそれはよしとしよう。では、一つしかない、しかし生命には直接に関わらないような器官についてはどうか。例えば、技術的な問題はここではさておくとして、口、生殖器。それらはどのように扱われるのか。それは明らかではない。生命(に直接関わるもの)でないものは分けるべきであるとなれば、この分割しようのないものをどう分けるのか。分けようがないから分けることはできないとして、その論理からは移動が積極的に否定されることはないはずである。その人のもとに留め置かれることが積極的に肯定されることはないはずである。それでよかったのだろうか。
 こうした問いがある。このような問いがあることをこの本は知らせている。」(立岩[2008:246-247])
★20 みながよく知っていることだから、わざわざ文献などあげる必要もないのだが、多くの人は『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(Arendt[★])などを想起するだろう。
★21 楽しめるとすると、その話の噛み合わないところであるように思う永井均と小泉義之の対談の本『なぜ人を殺してはいけないのか?』(永井・小泉[1998])に付された小泉の文章に次のように書かれている。
 「かつての私は殺人は良い場合があると思っていた。国家統治機構の一部である人や、君主の血統をリレーする人物や、資本輸出に加担する人物を、世間から消去することは良いことだと思っていた。しかも私は、殺人と死体化を区別していなかったので、死体化は殺人のためには避けられない必要悪であると思っていた。現在でも私は、特定の人物が特定の世間的な舞台から退場して消え去るほうが良いと思うことはある。しかし舞台が残っているかぎりは、いくら人物を消去しても必ずや別の人物が登場すると思い知らされてきた。切りがないのである。切りがないはずなのに、恣意的に何人かを選ぶのは日和見である。だから殺人のためのより良い方法は、舞台を破壊することだと考えるようになった。
 同じことは、私的な殺人についても成り立つと思う。殺したいほど憎い人物がいるなら、その人物を消去したところで、必ずや別の殺したいはと憎い人物が登場してくる。憎む精神と憎い人物を絶えず登場させるような舞台が残っているからである。舞台を破壊するか、舞台から降りてしまうほうが簡単だと思う。実際、近年のサイコな舞台は演じるのが簡単であるだけ、そこから降りるのも簡単だ。心的異常者の役ほど演じやすいものはないし、演技賞をとりやすいものはない。心的異常者とは、そもそもの初めから、舞台で演じられる人物にすぎないし、現代版悪魔学であるプロファイリングで表象される人物にすぎないからである。だからこそ、簡単に流行る。だからこそ、簡単に降りられる。
 同じことは、殺し合いの舞台についても成り立つ。」(小泉[1998:125-126])
★22 『良い死』より。
 「生の否定の方に向かう事態の基本にあると考えるものについては、この本の前に、もう幾度も同じことを繰り返し述べている。死への決定をもたらすものは、一つはこの社会のもとで生きることの困難であり、一つは自分の価値の低下である。そしてこの二つともが、私たちの社会の所有・主体のあり方に関わっている。それはごく単純なことである。自分で動き働ける範囲で得ることができるという所有の規則のもとでは、動けない人は暮らしていけない。まったく何もしないわけではないが、できることには限りがある、資源は有限だなどと言われる――このことについては次の章で考える。また、人は暮らすために生産するのだが、だから生産は手段であるのだが、その手段の価値が目的を上回るという倒錯が起こっている。自らを統御してよく動かせることが人の存在価値を示すという価値のもとで、それがうまくいかない人が自らの価値を否定する。これらのもとで人は生き難く、死を選ぶことがある。それはよいことか。よくない。だからそれを変えればよい。ひっくり返っているものをもとに戻せばよい。そのことを述べてきた。」(立岩[2008:160])
★23 本書(のための連載)の前に、この主題について本を出してもらうことを考えていた。とりあえず、そのためのこちらのサイト上の頁を読んでいただくことができる→『優生思想を解(ほど)く』(仮題・出版未定)

★21 優生学についてはまず『私』第6章「個体への政治」の第2節「性能への介入」(立岩[1997→2013:387-406,427-435])。『介助の仕事』に続き、いくつかの場で話したことをもとに新書を作ろうとしたその原稿(立岩[2022])はサイト上に掲載している。▲


 
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※2月26日と27日、障害学国際セミナー 2022という催しがあった。ここしばらくはZoomでやるしかなかったのだが、その前は、各地域もちまわりで、このセミナー、もう長くやっている。日本と韓国から始まって、中国・台湾が加わってやっている。東アジアは東アジアなりにたいへんななかで、共通の主題でのやりとりを続けることは、その主題に関わるところでの進展というだけのためでないところで意義があるという思いが、とくにこの企画をずっと担当している長瀬修にある。私は「東アジアは介助で恊働できる」という報告をした。その録音記録も掲載してもらっている。よろしかったらどうぞ。
 3月10日と11日、フランスと日本との企画があって、私は今日(3月4日)、ずいぶん遅れてしまったのだが、「反能力主義運動の射程 / Anti-Ablism Movement, Its Range」と題した30分ほどの動画をフランスの主催者側にお送りした。この動画もご覧になれる。本連載の主題・内容にも関わる。
 どこで何を話したのか、なんでも忘れてしまう。せめて記録はとっておこうと思うし、それを聞いたり見たりできるようにしようと思う。「声の記録――生を辿り途を探す:身体×社会アーカイブの構築」は、多くの人へのインタビューの録音記録を文字化して公開したりしているもの等を一覧にしたページだが、そこに私自身のもので記録があることに気がついたもの、そして最近のものについてはできるだけ皆、記録を見聞きしてもらえるようにしたいと思っている。それもまたよろしくです。


* * *


■■4 人の特別扱いについて

■1 U:人のもとに生まれ育つ人であることを受け止める人
 食べるために殺すことは認めたが、人が人を殺すことはそういう殺しではない。そうした死については認めないとした。その範囲がヒトとなること、そして事実として、また規範として、殺さないが初期値とされることについて。他の種の生物についてもおおむね同じ種のものは殺さないようであり、そこには「本能」があると言われても、とくに否定はしない。ただ、生きている間の経験としても、殺しにくいというできごとはあると言えそうだ。それは食用に殺さないことの理由にもなり、実際にはおおいに殺しているが、基本は殺さないでおこう
 『私的所有論』、第5章「線引き問題という問題」の第3節は「人間/非人間という境界」とした。そこでは、みながではないとしても、多くの人がヒト=人を特別に扱ってよいと思っているとして、思う前にそのように行動しているとして、それはどのようなところに発するのかと考えた。そこに述べたことを繰り返しながら、いくらかを足す。
 「種」では根拠が脆弱だ、とすると「性質」にしかないではないか、「生命倫理学」においてはそのように論が運ばれる。
 しかし、正当化の理由になるかどうか、それはまずは措くとして、境界はある。人は人から生まれる、人は人以外のものを生まない。人から生まれるものが人であり、そうでないものが人ではない。他にはどんな違いもないとしても、これだけの違いはある★24
 まず、ひとりから生まれる者がいる。産む者がその生まれる過程を体験し、知るようになる。その者を実際にこの世に迎えるかについて、いくらかの手間がかけられ、なかったことにされることもままあるが、そんな場合でも、そこに、そのままなら子が現れるとは思われている。産む者はそれを次第に経験する。
 これはまずまったくその都度の個別のできごとではある。ただその都度のことは、個別に、しかし私の個別性を超えることとして起こる。つまり、身体の一部であるようなものが、私でない存在となる。そのことが経験される。
 そして普通には、性的交渉があって子が生まれることが、知られている。その相手が「仲間」であるかについてはときに疑義が生じたり、否定されたりするが、そんな場合でも、子の現れるに関わる存在であることは知られている。そしてこの場合に、そこに生まれる存在がまず、他の子とだいたい同じく、子であることは認識され知られている。相手が敵である等の理由で子が殺されることはあるが、それは例えば、生き続けたら災厄をもたらすかもしれない存在・人とされるからだ。
 そして、これらは、多くの場合に、周囲の者たちによっても知られ、経験されている。産んで、生まれた人がそうして生まれた人であることは、この過程を周囲は直接に間接に見ていて、知られている。その存在が子とされる。子を産むことにおいて、その過程を知ることにおいて、そして、その都度知るという過程が重なりあって、人々は子を知っている。そのように、そのことの重なりが知られる。周囲が経験する。関係から普遍のほうに行く道筋がここにはある。
 遺伝子のことなど何もわかっていないとしても、そうした知識とは別に、性、生殖という世界があることを人は知っている。おおむね同じものの間において生殖が成立していることは知られている。すると、生物としての交配の可能性/不可能性が事実として付随し、そこに生まれてくる者が、そこに関わった者たちの範囲が縁取られるということである。仮に異星人か誰かとの性交渉が可能になって、あるいは神様から授かって、子が生まれたとしたら、それは子として受け取られるだろう。
 以上はまず事実であるが、その事実の過程において、その事実は規範的な事実として作動する。つまりその存在が、殺せない存在として受け止められる過程がある。みなが一致していないとしても、そしてだんだんと、ということであるだろうが、その生存を止めるには、理由・事情がいるという程度のことにおいて、その者は生きることが想定されている。それは私、また私たちが思うという事実ではあるが、その事実にはそうせざるをえないという程度の規範性は作動している。私(たち)が決めることのできないことが現れるというように経験される。その規範を否定するのには事情や理由が付され、次に、その妥当性が問われるという順番になっている。
 それは、近さの感覚と別のものではないとしても、それだけではない。むしろ近くにあることによって、別の存在であることを感じる。そしてそのことは、遠くにいる人も、近くにいる子たちと同じく遇するべきことを指示する。これは今述べた、生まれたり育ったりということに関わり、事実でしかないともいえようが、事実ではある。
 いくらも例外的なことがあるとしても、基本はそうなっている。そのことはまず尊重されるべきだとされる。それが基本的な規範としてあり、それが承認される。それ以上のことを言う必要があるのかということだ。それであえて言葉を加えるなら、こうして、人々のなかにそう簡単に殺せないように思う過程がある時に、その思いは尊重されるべきだという規範があるということだ。さらに加えれば、その上で、それでも殺したり、殺すのが仕方がないという時には、その事情のほうを考え、その事情をなくしたり軽くする手立てがないものかと考えるべきだ、そうされているということだ。
 「そんなことはない」と主張することは、どんな主張も行なうことができるのだから、できる。そして、とくに技術の進展があって、この世に現させるのかどうかという選別が、述べてきた過程の手前に置かれることはあるのだから、時間的な順序の問題ではない。答は決まらないと言い続けることは、いつも可能なように、可能だ。しかし、ここに基本的な規範がある、そのうえでの選択についてはその後に議論されるものだと、なお主張することはできるし、そのほうが妥当だと考える。
 また、私が世話するものは人間以外にも猫や犬といろいろとあるはずで、そうするとそれらは皆、人間=殺してはならないものということになるではないか、と言う者もいるだろう。たしかに育てるものは他にもある。そして育てていると情が出てきて、殺せないし、殺されたら復讐するかもしれないし、手術につれていったり、葬式をしたりする。そういう存在が他の人によって害されてはならないとは言えるだろう。ただ人が産んで、人が生まれて育てているのと、人が産んだのではないのと、まったく単純素朴な違いもまた認識されており、両者の間に差別をする。それは認められてよいと思われている。
 そして、犬も犬を、猫も猫を、産み育てる、世話をすることを指摘する者もいるかもしれない。たしかに、犬も子犬を育てるし、猫も子猫を育てる。犬が犬の子を育てているのをみると、感情が動かされたりはする。ただ、ここでその経験をしている人は、人−ヒトの集合に属する。その集合の内部で起こることと、それとまったく同様のできごとがその隣で起こっていることとは区別される。その区別の事実については同意されるだろう。そして、「せめて」、さきに述べたような事情のもとにある集合内については、その「初期値」としては「保全」することが認められてよいだろう。
 ある存在が他者Bであるという経験が現われるのは私においてだと、私においてでしかないと述べた。子は、私が関わっていながら、私を超えるように現われる。その子に対する私の関わりとは、私を越えるように現われる、独立してあることになることを予感しつつ、あるいはそのことを感じながら、そのことに私が関わっているというようなあり方である。
 その存在に対してだけ向けられたものではないとしても、そのような現われ方にそのようにAが関われるのは、また事実関わっているのは、人の、というよりA(達)の子の場合だけである。AからBが生まれる、BがAのもとに現われる。そしてAがBの生存を受け止める。そのAにおいて、Bが生まれることとBが他者であることとは等しい事態ではないにしても、つながってはいる。
 そのように経験するAを、殺す存在と殺さない存在との境界について争う相手として、私達は認めている。AのBに対する感覚、Bが生存者として、殺せない存在として現われることを受け止めているという関わりがあることを認めている。倫理を云々するのは私達でしかないというその私達の中に、Bに対するAの関わり方があり、そのような関わり方をしているAがいる。この時に、私達はBを殺せない存在として認める、認めざるをえないものとして認めると言えないだろうか。
 このように見た場合に、人において子が現われることと、猫の子が猫のもとに現われること、この二つの事態は、その人、その人を含む私達において異なっている。他の生物に対する感覚と決定的に異なるとは言えないかもしれない。しかし違いはある。それは犬を殺せないという感覚とは違っている。
 そのことの「本体」が何であるのか。それはわからない。「本能」によってそのことを説明したい人はすればよいが、そのような問題設定自体にそう意味があるとは私には思えない。
 短く繰り返す。人は人を産む。人は人から生まれる。生まれるものがどんな存在であっても、さしあたり現在、人が人から生まれることは事実である。殺し難いものとして現われてくる過程がそこに、その都度ある、その反復には外延があって、境界がある。それはまず事実である。しかしその事実は既に「べき」を含む事実である。あるいは、その事実が尊重されるべきだという規範があると言ってよい。
 法哲学者の井上達夫★25の文章から。

 ▽生存資格無用論…の立場を貫徹させるならば、あらゆる生命を平等に尊重しなければならないことになるが、実際にはこの立場にたつ人々も、ヒトの生命とヒト以外の生物の生命とを差別的に取り扱っている。(井上[1987:49ー50])△

 井上はこの差別を正当化するために、ヒトのみがもつ重要な特質をあげるならいったん否定した生存資格の観念を復活させることになり、他方で、ヒトという種の同一性に訴えかけることにも問題があるとする。

 ▽例えば、染色体異常の障害者に対してきわめて残酷なヒトの生物学的定義が与えられる恐れはないか。…さらに、この立場は人類エゴイズムの謗りを免れない。(井上[1987:50])

 出されているのは同じ問いであり、そして井上自身による答は与えられていない。私が本章に記した「答」は、「人類エゴイズムの謗りを免れない」ものではあるけれども、ダウン症等の染色体異常の人が人の範疇から除かれることにはならない。言うまでもなく、ダウン症のヒトもヒトから生まれたからである。

■註

★24 『私的所有論 第2版』、「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」、第2節「人に纏わる境界」、の2「殺生について」。その註10より。
 「「仲間」は、基本的には、殺さないということはあっただろう。あるいはそういうものを仲間と呼んだ。そこから「人類」までにはずいぶんの懸隔がある。その結びつきというか越え方が実際のところどうであったのか、私は知らない。ただ最初から「人類」という範囲が獲得されていないとしても、それは本章で述べたことを否定するものではない。
 そして他方、かつて、人間でない様々な範疇があって、それが今日に至るまで次第に拡大されてきたといつも考える必要もない。人間主義者・博愛主義者・民主主義者たちにおいて、いつも(人間としての)考慮の対象にならない人間たちの範疇があったことはよく指摘される。その通りなのではあるだろう。ただその際、いくらか慎重であった方がよいということだ。例えば、「一人前」の人間とされる/されないことと、人間とされる/されないこととは同じでない。たしかに「市民」(その他)から除外されていたとして、それは人=ヒトでないとみなされていたということと同じではない。」(立岩[1997→2013:806])
 その続きが本書第1章註01。「そして同時に、人は人を殺すこともある」と続く。
★25 井上と加藤秀一の論文が『生殖技術とジェンダー――フェミニズムの主張3』(江原由美子編[1996])に収録されている。加藤の論文には、法哲学者の井上達夫の一九八七年の論文(井上[1987])への批判があるのだが、この井上論文もこの本には収録され、さらにそのうえで、井上の「胎児・女性・リベラリズム――生命倫理の基礎再考」(井上[1996])、加藤の「「女性の自己決定権の擁護」再論」(加藤[1996])が掲載されている。十人弱ぐらいの著者が分担して書きましたといった種類の本は、たんに十個弱の文章が並んでいますといったことが多いのだが、この本――あるいは江原が編者となったこの「フェミニズムの主張」というシリーズ――では、珍しく議論が議論として成立している。


 ※今回で第2章を終わらせるつもりだったが、結局、本には収録しないとても長い註を置いて、もう1回分を次回に残すことにした。私としては何度も書いてきたことなのだが、それでも、繰り返すことにする。


■2 私たちの事実だから/だが私たちを超えたものとする
 そして、このこと〔→前回「U:人のもとに生まれ育つ人であることを受け止める人」〕と、第3章で述べること、V:その存在から開けている世界がある限り、そのことを尊重せざるをえないという態度とはまったく別のものではない。というか、現実には二つの契機が連続して、合わさって存在している。人は様々なものを身体から分離し、排泄するのではあるが、その中で、生まれてくる人が、内部を有した存在、世界を有した存在として現われることを強く感じてしまう。そうなると、そう手荒には扱いにくい。それは人々の経験により多く合致しているとは言える。
 村瀬学の文章をかつて引用した★26。村瀬は第4章で言及する吉本隆明の影響を受けて書き始め、書き続けてきた人でもある。

 ▽はじめに「人間」の定義があって、そういう「人間」の世話をしてきたのではなく、世話をすることによってはじめて生じる「内部」があったと理解すべきなのであろう。そこで生じる「内部」こそが「倫理」だったのだと私は思う。(村瀬学[1985→1991:184-185])△

 この文章を批判するのはひとまず簡単だ。というか、それは第1章に紹介したような論の様式からすれば、論の形式をそなえていないと言われる。しかしこの文章は何かを述べていると思う。その存在に対する行ない、その存在についての経験があること、このことが、人が人であること、すなわちその存在を奪えない存在だと思うことに関係するようだということである。
 すると、世話をすることでその存在が人間であるという意識=殺さないという意識が生ずると言うが、世話をするという行ない自体が、その存在を人間=殺すべきでない存在と認めている上ではじめてなりたつはずだ、と言う者がいるだろう。
 しかし、すくなくとも現実には、規範があって、それを知りそれに従うという順序でだけことが起こるわけではない。そして、よいか悪いかわからないまま、というかそんなことを考えたりしないまま、関わっていって、そうした過程の後で、例えば手にかけられないと思うことはある。
 そして第二に、個別の関係においては、育てるという行為が育てるという決定に先行することがある。しかし、私が私とその直接の子とだけ生きているのではないという単純な事実があり、生の過程で様々な人の生と生への関わりに関わるという事実がある。また、関わってしまうというできごとがある。それが、育つ/育てることのほうぼうにあり、その累積がある。そうしたことのなかで、世話することがまた行なわれるということだ。
 こうしたことの「本体」が何であるのか。「本能」によってそのことを説明したい人はすればよい。どのようにしてその説明の妥当性が言えるのかという疑問はあるが、否定はしない。ただ、おおむね同類を殺さない、殺せないことを本能であると言えたとして、他方で、たまに、そして人間の場合にはとても頻繁に、殺すこともある。そちらは何なのか。「進化」のための淘汰であると言う人たちもいる。そんなことで進化するのかという問いもあるが、それはここでは措く。進化することもあるとしよう。そちらのほうに向かおうとする人間の傾性といったものも「もともと」あると言って言えなくはない。それは「もともと」あるとも、進化した「後」に現れるものであるとも言える。いずれなのか決まらないだろう。そして、前者であるからよいとも、後者であるからよいとも言えない。
 そうすると、「結果」「効果」が問題にされる。あるいは「進化」といった言葉自体が、結果・帰結としてより望ましいことを意味するものとして使われる。そして私たちは、例えばその集団の生存率が上がるとか、平均して生存する時間が長くなるとかいったことがよいことであることを否定する必要はない。しかし、そのために払うもの、失われるものがどれほどかを考えればよい。殺さないことを選ぶならそのよいことが実現する速度が、もしかしたら遅くなるかもしれない。しかし、それを行なうのがよいかということだ。そんなことをする必要がない、しないほうがよいと思うことに結びつくできごとがある、そちらを選ぼうという事実があり、それを選ぶと、それが規範となる。
 事実から規範は生じないというのが常套句だ。そのことは私自身も幾度も言ってきた。ただそれは今述べたように、よしあしが定まっていない事実をもってきて、よいとかわるいとか言ってしまってはならない、もう言ってしまっているというつもりになってはならないという当たり前のことを言う時のことだ。殺してしまってよいと思えない(思えなくなる)という「事実」と、殺してならないという「規範」があることとはつながっている。それが社会的規範として認められることはまた別だが、そうされることもあり、実際ほぼそうされている。それに異論は、なんに対しても異論を言うことはできるのだから、言えるが、否定するべきでないと考える。
 さきに言ったのは、個別の一つの私の経験のなかに私を越えるところがあるということだった。そしてそれは一つの個別の関係だけのことではないとも述べた。個別の経験のなかに、また個別のことの集まりのもとに、むしろ個別性を越えることが起こっている。それを否定する事情や思いもまたいくらもあるが、そのような事情は基本的には排することにしよう。そこでその水準に規範を置こうということだ。
 なににせよ、みな私(たち)が思うことであり、思うことでしかない。これは否定のしようのないことだ。ただそのうえで、個々の存在に対してそのような気持ちになる、なることがある、ことと、その気持ちとは別に、しかじかしてはならない、とすることとは別のことだ。これは関係主義と普遍主義の問題だ。とくにこの国の人のなかには、「天賦人権」だとか「道徳律」だとか、そういうことを言いたくない人がいる。今引いた村瀬もそういう種類の人かもしれない。ただ、その気分はひとまずわかるが、私の思いと別に、というところに規範があると考えることは大切なことだと考える。そしてそれは具体的な個別の経験に現れるものでもある。このことを述べた★27

■註

★26 村瀬学は一九四九年京都府生まれ。同志社大学卒業。その最初の本は『初期心的現象の世界』(村瀬[1981])。この本の奥付には心身障害児通園施設職員とある。その後、同志社女子大学教員。引用した本とは別の本『「いのち」論のひろげ』では次のように言う。『私的所有論』で引用した。
 「…この両親にとっては、この子は「ゆり」と呼ぶことのなかにしか見出せない何者かなのである。「ゆり」と呼ぶこと以外ではけっして見えてこないものがある。
 そういうふうに言えば、そんな「ゆり」なんていう名前なんぞ、世間にはいっぱいあるじゃないか。人間にも植物にもつけられる名前が、何で一人の女の子の唯一の生を表し得るのか、という人もいるかもしれない。「品名」として見たらたしかにそうである。しかし「品名」だけをほじくってもわからないのである。「品名」はあるときに「名前」として意識され、そして「名前」は「姿(顔+身)」を呼びだすきっかけとして自覚されるときがくる。そのきっかけを作るのは「場所(位置)」なのである。
 『苦海浄土』には、「とかげ」のような手足を持つわが子に寄り添いつづける親の「場所(位置)」がある。その「場所」から呼ばれる「ゆり」という「名前」は、その場所からしか見えない「姿」をとらえていて、それは「無比の姿」として見出されているのである。
 つきつめると、「名前」というものには、個人的な命名行為というより、人間の姿(原型)を呼びだすための共同の行為としてあったものである、としか考えられない面がある。「人間の姿(原型)」を産む行為とでも言えばよいか。しかしそこには、その産む「場所」が問題であった。おそらく昔の人たちには、その場所を「共同の場所」として共有できる感性があったのではないかと思う。しかし、今日ではその場所は、一人一人の育ての親たちが個別的に意識する、個人的な場所になりつつあるように見える。が、私はそのようには単純には思うことはできない。「名前」をつけて「姿」を自覚する「場所」は、あくまで「共同の場所」でしか発生しない、そうとしか私には考えられないのである。というのも、「名前」をとおして感じとる「人間の姿(原型)」は、人間の共同体の活動のなかでしか自覚できないものだからである。」(村瀬[1995:35-36])
 村瀬[1996:132-133]もほぼ同文。「自分の名付けたものは「大事」にする。この「名づけ」のもつ利己的な共生力について」書かれた文章である。『苦海浄土』は石牟礼道子の著書(石牟礼[1969])。」(立岩[1997→2013:359-360])
★27 『唯の生』の一部と合わせて文庫化してもらおうと思っている『良い死』『良い死』の第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」の第5節「思いを超えてあるとよいという思い」。その全体を、註(◇)は略し、引用する。△の後の数字はそこまでが『良い死』のその頁であることを示す。なお、本書刊行とほぼ同時期に文庫本も刊行されるので、この注は本書には収録されない。本書の文献表にも以下で引用・参照する文献は掲載されない。なお第6節は「多数性・可変性」、第7節は「肯定するものについて」。
 「1 普遍の不可能性?
 しかしいま述べたことは、ずいぶんと個別的なことのようでもある。ある時にある人がそんなことを思ったことがあるといっただけのことではないか。だが私はそうではないと考える。以下、すこし長くなるが、そのことを述べる。
 好き嫌いというものがどのぐらいのところに位置づいているのか。あるいは位置づけたらよいのか。本人の、あるいは別の人々の好き嫌いによって何ごとかが規定されてよいものだと考えるとしよう。すると好悪がもつ意味が△177 大きくなり、同時に、好かれたり嫌われたりすることにかかる負荷が大きくなる。それでよいのだろうか。このことについてすこし私たちは鈍感になってしまっているのかもしれない。
 例えば、リチャード・ローティという人がいる。二〇〇七年に亡くなった。『人権について――オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(Shute & Hurley eds.[1993=1998])という、幾人かの講演が収録されている本の中で、「人権、理性、感情」という話をしている。わりあいよく引かれることがあり、私も言及したことがある箇所をここでも引く。
 「道徳教育者の使命は[…]「どうして私は親戚でもない、不愉快な習慣を持つ、あかの他人のことを心配しなければならないのか」という、もっとしばしば発せられる問いに答えることだ、ということがわかるでしょう。[…]より妥当な答え方は、次のように始まる長い、悲しい、感情を揺さぶる種類の物語を語ることです。すなわち「家から遠く離れて、見知らぬ人のあいだにいる彼女の立場になってみると、現状はこのようなものなのだから」あるいは「彼女はあなたの義理の娘になる可能性もあるのだから」あるいは「彼女の母親が彼女のために嘆き悲しむだろうから。」」(Rorty[1993=1998 : 163-164])
 私はローティという人が考えていることをよく知らず、この文がその人の思想の全体にどのように位置づいているのか、その人がどこまで本気で言っているのかもわからない◇26。ただ、受けそうな話ではある。不変の普遍の実体として正義があると考えたって、そんなものはないのだし、そんなもので人は動きはしない。代わりに、身近な人との関わりに発する思いを基礎に置こう。そしてそれを延長させていくことができるなら、より広いところに、良いあり方は波及していくだろう。だからそのような思いを喚起することに努めるのがよい。これはわかりやすい、△178 そして説得的な話であるように思う。
「普遍的な正義」「真理」というものがあるのではない。それがあると言って何ごとかが可能になると思うのは幻想である。もっと身近なところから論を立てていく、というだけでなく、現実を組んでいくべきだ。このように言われる。「正義の倫理」に対して「ケアの倫理◇27」が言われ、それがわりあいすんなりと受容され流通する時にも、こんなことが想定されているところがあるように思う。そしてこのような捉え方は、このごろ「残酷さ」を避けるための営みとして政治的な営みを捉えようと言われる時にも働いているように思う(Shklar[1984][1989=1998]がよく引かれる。cf. 大川正彦[1999]、齋藤純一[2005]。さきにあげたローティの著作では Rorty[1989=2001])。他の様々についてはわからないが、しかし、残酷なこと、痛いことは皆がわかるはずだと、それをとにかく避けるのだと、それならできるだろう、それをしよう、そんなことを言うのである。そして私たちは、それならわかる、それはもっともだと思う。そして私もまた、「たんなる苦痛」をもっと見るべきだと言ってきたし、本章1節5で述べたのでもあるから、そうした陣営にいると思われるのかもしれない。
 誰かの悲しみを知り、それと同じ悲しみが別の人のところにもあることを知る。それでその別のところのことも無視してはならないと思う。たしかにそんなことはあるだろう。人を説得する方法としては有効だろうと思う。しかしよくわからないようにも私は思う。このことはきちんと考えねばならないと思う。
 それは何を言っているのだろう。まず、普遍的なものは「ない」と言っている。しかしこの場合に「ある」とか「ない」とかいう言葉が何を指しているのか、それが私にはわからないのだ。
 第一に、それは目の前にある湯呑茶碗が「ある」ようには「ない」。しかしそんなことは、誰から言われるまでもなく、誰でも知っている当然のことだ。その人たちも、そんなことを言いたいのではないはずだ。(ただ、ときにたんにそんなことを言っているように思えることがある。形而上学を批判する、実体主義を退けるといった言い方で言われ△179 ていることが、実際にはその程度のことでしかないことがしばしばある。)ではどんなことを言いたいのか。
 第二に、そこで存在しないとされるものは、すべての人が受け入れるという意味での普遍性だろうか。たしかに事実としてはそんなものはないかもしれない。ただここでの問題はそのことをどう考えるかである。わからないのは、この意味での普遍性が要求されているとし、そしてそれが不在であるとし、そして嘆いてしまうという行ないである。なぜ合意、全員一致が必要なのか、あったらよいとされるのか。実際には、多くの人が支持することは、とくに民主制の政体においては大切だろう。そのような決定機構が存在しないところでも、社会の作動には人々の意識や意向が関わり、影響するだろう。この意味では私たちは人間主義から脱することができない。しかしすべての人の同意は望めないだろうし、また考えていけば、それを望む必要もないはずだ。(にもかかわらず、合意が重要視されるのは、また偏重されるのは、規範の内容を言わず、あるいは言ってはならないという制約を自らに課した上で、誰からも文句のでない決まりならそれでよしとされるはずだという前提でものを考えようとするからだと、また考えるべきだと決めてかかっているからだと私は考えている。)
 では、第三に、ある規範や理念がすべての人に及ぶということ、この意味での普遍性か。先の引用はこの第三のものに関わりそうだ。このことについて考えると、たしかに、私の気持ちはそう広い範囲には及ばないだろうという気がする。及ぶのは、存在が実感できる人、既に関係のある人に限られるような気がする。この問いは私も気になってきたし、また、安楽死・尊厳死のことについてものを言うときにも問われてきたことだった。そのことを言われて、次のように答えた◇28。
 「――[…]おまえ死ぬなよっていうのは、他者一般の死みたいなところでは起こらないですね。まったく知らない人間に対してそういう感じは抱き得ないという感じがする。△180
 立岩 ほとんどそうでしょうね。
 ――私が知っていて、長年つき合ってきた人間が、目の前で死のうとしているというときに初めてやっぱりそうなると思うんです。
 立岩 その通りだと思います。大切なことを言われたと思うんですね。少なくとも顔ぐらい知っている人、たぶんそうだと思うんです。けれど、どうなんだろう。今、私はその人から遠い。しかし、もし近づいてしまったら、私はその人の死を平静には受け取れないだろうということはわかっているということがあると思うんですね。そのことをどう考えるか。そしてまた、近づかないですむように現実が組み上がっているということもある。まったく知らないですんでいる人たちと、日々死に接して摩耗している人たちと、その二種類しかいないように現実が作られてしまっているとしたら、それはどうかということ。そして、その存在の現われを受け止めずに済ませられるような、その存在を門前払いにしてしまえるような価値がこの社会にあるということをどう評価するかということがあると思います。」([1998e→2000h:74-75])
 ここで私はさきに引用したローティの発言とそう違わないことを言っているのかもしれないし、そうではないかもしれない。一つに距離というものが自然にあるのではないだろうと言っている。距離があることにし、知らないことにする、そんなことが多々あるではないかと言っている。「日々死に接して摩耗している人たち」とは、言うまでもなく、日々「死に逝く人」の「看取り」を行なっている(行なっていないかもしれない)医療者や看護者のことであり、そして「知らないですんでいる人たち」とはそれ以外の人々のことである。そしてもう一つ、ここでは明示的でないが、既に距離を越えて行くものがあることを知っていて、知っているのにそれを距離という自然にある(とされる)ものをもってくることによって、ないことにしてしまっているのではないかと言いたかったのかも△181 しれない。
 同じ本に収録された「遠離・遭遇――介助について」で、「承認」――これもまたあるところではよく使われる語である――を巡って次のように書いた。
 「好きではないあるいは憎悪したり軽蔑しているけれども認めてしまうといった位相、水準があるだろうということである。本当にそう思っているのか、わからないといえばわからないのだが、しかしどこかでそうであったらよいとは思ってはいて、そのように思うことの中に既に承認は訪れている。[…]
 おそらく権利は[…]具体的・個別的でありながら、その具体性のうちに普遍性へと向かう契機を含んでいる。権利についての不信は、それが天から降ってきたもの、与えられたものであるとされることにあるのだろう。その不信にはもっともなところがある。しかしやはり権利がただ人であることにおいて一律に与えられるというその普遍性は重要なことではあるのだろうと思う。人権の普遍性とは、まったく普通にある関係そのものにあるのではないかもしれないが、しかしその関係に内在していてそれを延長させていこうとする意志が関わっている。」(立岩[2000b→2000h:312-313])
 ここで私が気になっていたことの一つは、「ある」とはどんなことかということだった。この場合に「ある」ことと「あることを望む」こととがそれほど違うことなのかということだった。
 2 個別から語ることの流行△182
 他人のことが、あるいは自分のことが、好き/嫌いだから、その気持ちに沿って決めるということであってよいではないか。しかじかになった自分が嫌いだから、そうなったら死んでしまおう。とにかく私にはそう思えてしまう。こうした正直な、あるいは居直った言葉にどう答えたらよいだろう。このことについて考えている。
 第3節2で、それは自然な感情だと言われ、それに対して、そうでない、好悪等々は作られたものだ、時代や地域に相対的なものだと言っても、あまり納得してもらえないだろうと述べた。そして、気持ちわるいという気持ちを感じてはならないとは言えないだろう。それを禁圧すべきであるとされることの方がかえってよくないようにも思える。
 そしてそのような正直さは、この社会にあって、肯定されること、積極的に肯定されることがある。なにか抽象的な原理があるからでなく、実際に人が思い感じることからこそ連帯や協力は生じるとされる。そう言われるとそんな気もする。どのように考えたらよいか。
 まず、人の世のことは人の行ないによって形作られる。そしてその行ないには人の思いが関わっている。以上はそれとしていつでもまったく否定しようのないことだ。その限りにおいて、私たちは「人間的なもの」から抜けることはできない。しかし、間違えない方がよいのは、この自明なこと、いつもそうであったしこれからもそうであるほかないことと、今語られることとは異なるということである。今語られるのは、個々人の思い、感情から、関係のあり方、社会のあり方を立てていこうということである。実際の関係、実際の関係に発する実感をもとに据えていこうという行ないである。このようにして何かを語るのがすこし流行している。その事情はわからないでもない。わからないではないと思うのは、一つに、ただ抽象的な原理を言われ、教義を説かれても納得することはできないという感覚、不満があって、それはいくらかはもっともであると思えるからだ。これが正しいから従えと言われてしまうと、納得できない。かえって信用できなくなってしまう。そのように思うのはもっともなことかもしれ△183 ない。
 「ケアの倫理」などというものが語られるのもこんなことに関係しているところがあるのだろう。その心性が、なにやら天然自然のもの、本能のように語られることには批判がある。あるいはまた、それが特定の性に偏ったものとして、「女性的なもの」として想定されていることについても批判がある。それらの批判はもっともなものではあるが、そのような契機があること、そしてそれは肯定されてよいものであること、このことは認めるとしよう。
 ただ、それにしても難しい場面があるように思われるし、そのことは指摘される。つまり、具体的な関係に生起する感情からその人に対する行ないが起動するとしよう。しかしそうした関係がなかったり薄かったりする人がいるだろう。すると、それらの人には何もなされないことになるのではないか。また、今私はしかじかが人に気にいられてそれでうまいぐあいにいっているのだが、それはいつまで続くのだろう。そんな心配もある。
 もちろんこれに対して、ケアする心性はそのように狭隘なものではない、などと言われもしようし、それもかなりの程度当たっているのだが、それでも不偏・普遍に対する懐疑から「ケアの倫理」等々といった話は始まっているのでもあるから、限界は認めざるをえない。それでさきに見たローティのような漸進主義も出てくる。つまりだんだんと人の輪を広げていこうなどと言われる。また教育の必要性が説かれる。人には類推の能力があるのだから、しみじみとした話をし、それで身近な人との間にたしかに存在することが確認された感情を、他の人にも差し向けられるように誘導していこうというのである。
 それはたぶん有効な手立てだと思う。この手立てを使うことに反対する理由はない。けれどもこの戦術がうまくいくいかないのとは別に、ここで押さえておくべきことは、このような道筋の話をするときには、あるいはこの種の議論の弱点を言うときには、既に、予め、気遣われるその範囲が世界の全体に及ぶことがよしとされているということである。そうあってほしいのだが、それはなかなか難しく、それで具体的なところから順々にやっていこう△184 という筋になっているのである。もちろんそんな拡張は不可能であり、また望みもしないという人もいるだろうが、そうでない人は、実現可能性は別として、それを期待しているということである。このことが何を意味しているかである。つまり、個々の関係にある心性を超えたものがあった方がよいと思っているということである。ならば最初からそう言えばよいではないか。それなのになぜその方向に進まないのだろう。普遍主義の何が批判されているのだろう。
 3 思いを超えてあるとよいという思いの実在
 プラトンやカントが持ち出されて「西洋形而上学」が批判される。そうした哲学者たちが何を言ったのか知らないし、その人たちの味方にならなければならない特段の事情も私にはない。ただ、批判する人たちは、批判する相手をなにか攻撃しやすいものにして、小さなものにして、それから攻撃しているように思えるところがある。
 批判者たちは、批判される相手が「普遍的な道徳原理なるもの」の実在を主張していると言い、しかしそんなものは実在しないのだと言う。だが、この場合に実在するとはどんなことなのか。もちろん、それは物がそこにあるように存在することではないだろう。このことは誰もが認めるはずのことだ。とするとどのような意味であるとかないとか言っているのだろう。もののようにあるのでないとすればどのようにあるのか。ある理念があればよいと思うのと、理念があることと、違うとは言えよう。しかし、いずれにしても、まずは人の思いとしてある。その人の行ないとして現実のことになる。それは、ものがある(と思う)こと、ものがあるとよいと思うこととが異なることであるようには、異ならない。そして、言葉は人に対するあり方として現実のことになる。むろんそれが実現しないこともある。しかし、その時でも遂行されねばならないこととして想念されてはいる。△185
 それ以上・以外のことを批判される側は言っているのだろうか。よくはわからないが、一つに考えられるのは、その態度、主張を後ろから支えて前に押す強さがあったらよいと思っているのかもしれない。実際、超越者への信仰は、世界の全体を見れば減じてはいない。ただ他方、そのことが疑わしさを招いてもいるということなのかもしれない。ことのよしあしは別として、見たことのないものは信じられないという思いをもつ人はいて、そのような人に対しては、経験の世界の外にあるものを持ち出すのは逆効果でもある。
 ただそれでも、そんな人たちにとっても、もう一つ、私が思っていたり私が思われたりするのと別に、私や他の人たちが生きて暮らせたらよいと思う。それは、やはり私が思ってはいるのではある。人間の感覚ではある。しかし、その感覚とは自分の感覚で決めないという感覚であり、個人の心情に還元しないという心情である。
 そしてこのことは、直接に、規範が誰にでも及ぶという意味での普遍性につながる。その前に、普遍性に、皆が思うという契機と皆に及ぶという契機と二つの契機があることさえ、ときに私たちは忘れるから、このことを確認しよう。そしてその一つめのものもまた、私が思うこと、私が思うのでしかないことの位置づけに関わってはいる。
 4 誰もが、について
 普遍性の一つは、信じたり是としたりする側の人の普遍性である。そしてそれに対する批判は、主張されるものは誰もが信じているのではない、是とするようなものではない、そんなものは存在しないという批判である。どこででも信じられていることではない、その意味で特殊なものだ、すべてがそうだと言うのだ。それに対して、一つに、実際には言われているよりは普遍的であると言う。一つに、普遍的であろうとなかろうとかまわないと言う。
 まず一つめ。批判者は、例えば人権といった理念が、ある時期以降の西欧の国々に生じた限られたものであると△186 いったことを言う。ただ、この点については、批判される側もそう違ったことは言ってこなかった。その人たちは、例えば、特定の時期・場所に出現したことを認め、しかし、やがて他の社会も進化してその場所に辿り着くはずといったことを言うのだ。つまり、時間軸に差異を配置し、終極を同じくすることによって普遍主義が確保される。両者は、問題になっている思想は西欧・近代の特殊なものであるといったお話をする点については同じである。やがて他も追いつくと考えるかそうは考えないか、またそれを正しいものと認めるか、そうでないか、態度を保留するかで異なるものの、事実認識においてはあまり違わない。
 しかしそんなことは信じる必要のないことだと思う。どんな社会で、誰が、このような私であるまま生きていけたらよいと思わないだろうか。人のそんな思いを認めたら損をする人たちはそう思わず言わないかもしれない。しかしそれは、言ったら得にならないから、その人たちが言わないのだと考えた方が理にかなっている。そんな人たちでない人たちも常にたくさんいて、その人たちは大きな声で言わないあるいは言えないかもしれないが、そう思っている。私がどんなであろうと、よく生きていられることがよいと思うことが、限られた地域や時間の中にだけしかないと考えなければならない根拠はない。そんな物語を信じる必要はない。
 ここで、さらにその「もと」があるかとかないとかいう議論をしても仕方がない。しかじかの知見によれば結局人間は利己的であることが、あるいは利己的な遺伝子のために利他的であることがわかったとしよう。しかし、だからそれでどうなのだろう、と思ったことはないだろうか。たしかに新たに得られたとされる知見や仮説はなにかおもしろそうではあって、なにかをもたらすかもしれないと思うことがないではない。何か今まで思いつかなかったことが現われるという可能性を否定しない。しかし知らなかったとしよう。すると、知らないことによって私たちは間違えるのだろうか。どうもそんなことがあるようには、私にはあまり思えない。そして私には、その知識によって基礎づけられるということもまたわからない。ここでは存在と当為とは別だといったことを――それはその△187 とおりだが――言いたいわけではない。何かを知ることが信じることを強めるということは、予め知ることをありがたがっている場合には有効かもしれない。しかしその有効性はそのような特殊な趣味をもっている人たちだけに限られる。
 次にもう一つのこと。いま述べたことが本当であるとして、それでも、すべての人がなにか同じことを信じたり肯定したりすることはない。その意味では、たしかに普遍的な価値は存在しない。しかし、このことは当然のことであり、仕方のないことだ。実際、神さまが一意に定めた掟があることを信じている人たちにしても、現実にみなが信じていることを想定してはいない。またそうでなければそれを信じるに足る理由がないなどとも思っていない。むろん、多くの人が受け入れたり、合意があったりすることは大切ではあるだろう。まず現実の問題として、人々が受け入れないものは実現したり維持されたりすることが難しい。そして、人の思いを否定するのがよくないとすると、その人の思いに反することを行なうことは好ましいことではない。行なおうとすることにその人も同調してもらえた方がよい。しかしこのいずれも、同意・合意を絶対化するものではない。とくに、既に現実の社会があり損得が配分されてしまっているなら、その現状で得をしている人はその状態を変えることに同意しないだろう。この場合に皆が反対しない案しか採用しないことは、今得をしている人を喜ばせることでしかない。この意味で、人はそれぞれだから比較しない、誰もが文句を言わないところが落ち着かせどころだという筋の話は、まったく反動的な話である。ときに、比較し、誰かを誰かより、何かを何かより優先せざるをえないことがある。それは、比較が可能か否かという問題への答としてではなく、それをすべきであるという要請によってなされる。いつも合意がなければならないと思うのは間違っている◇29。
 だから、ここで普遍主義を非難する人たちと一部同じで一部違うことを言うことになる。たしかに皆が同じことを信じている必要はなく、何かに皆が合意しなければならないわけでもない。しかし他方で、例えばどのように暮△188 らせればよいかについて、人々の思いにそう大きな違いはないはずだ。
 5 誰をも、について
 もう一つは価値や規範が誰にでも及ぶという意味での普遍性である。たしかに人に対する濃淡は違う。ほとんど実感しないことはたしかにある。近い人になら「死ぬな」と言いたい気持ちにわりあい簡単になるけれども、そうでない人ならそうではない。
 ただ、このことについても幾つかのことは言える。一つは、遠近と濃淡とが関わることは認めるとして、その距離を自然の距離と言えないことが多いことだ。例えば、関わりにならないのがよいから遠ざかることもある。遠ざけられることもある。このことは述べた。
 もう一つ。人に接し、知るのであれば、その人を大切にすることになるのか。このことについてあまり単純に純情にならない方がよい。慣れることに積極的な契機があることを後で述べるけれど、それとともに、死ぬことに慣れる人が死なせることにも慣れることもあるだろう。そして苦労が多く、それが蓄積された人は、その相手を恨み、殺そうとすることがあるだろうし、実際に殺すこともある。それでも近しい関係を称揚したい人は、そのような関わりは本当の関わりでないと言うのだろうが、すくなくともその関わりは事実存在する関わりではある。
 そして一つ。近い人に対する関係が特別なものではあること、それはよいことでもあり、また苦痛でもあること、両者は並存するのだが、さらに同時に、誰がどのような位置にいてどのような関わりをもっているとかもっていないとかと別にうまく生きていけたらよいと思うということがある。欲望の複数性についてはまたあとでも述べるけれども、これら複数が同時にあってすこしも不思議なことではない。△189
 さらにもう一つ、誰であってもよく遇されてよいという方に向かうことが、なにかリアルなことから離れた抽象的なことだとは言えない。それはまず私について言える。私がどのような私であるかによって、様々が左右されるし、ときには左右されたいとも思う。しかし、それはそれとして、そうした思いがあるのとともに、私がどんな私であるにせよ、よく生きられたらよいと思う。これはまったく具体的な現実的な思いだが、その思いは、誰でもが生きられるという普遍を指示する。そしてそのことは一人ひとりが有している属性を無視したり否定することではない。むしろそれを保存したり享受したりできる方に向かう◇30。また、自分がどう思っているというのと別に、他人が存在しているのはまったくの事実であり、自分の好き嫌いがそのままその人の存在を規定してしまうなら、その人はもう他人ではなくなってしまう。好きだとか嫌いだとか思うのはつまり私であり、そのことは否定できず、否定する必要もないとしても、他方で、同時に、その私は、それですべてを決めてはつまらないとか、うっとうしいとか、おこがましいとか思っている。それもまた私の現実的な思いである◇31。
 こうして、誰かのそのときどきの思いに左右されないものとして、自分自身や他の人々があってほしいと思う。むろんその上でも、恣意や好悪は残る。なくなることはない。それは仕方のないことでもあり、また享受されることでもある。ただ確認できるのは、一人ひとりに向かって個々に異なるあり方だけがリアルなものであり、どんな人であれどんな状態であれと思う方が観念的なものであるとは言えないということだ。自分がどんな者であったとしても、ここに、この社会にいさせてほしいと思うことも、また現実的で具体的な、ときにはまったく差し迫ったことである。両者ともに同じ人の欲望であり、いずれも具体的に現に存在する欲望である。このようにして、たしかに私たちが考え思っていることであり、思っていることでしかないのだが、そのことの中に、私の個々の思い、個々の関係から離れたところで、私が、人々が生きていられるとよいと思う思いがある。この意味での普遍性が、まったく具体的に現実的に要請されるのである。△190
 それ以外の何かが必要なのだろうか。それを押す強さ、あるいは強さのもとのようなものがあってほしいと思うのだろうか。あってほしいと思うのと、あると思うのと、後者の方が強い。誰がどうであろうとだいじょうぶであるように、もう決まっているのだと、神さまが決めたのだと思えた方がその規範は安定するし、日々思い煩わずにすんでよいかもしれない。強い信が得られ、気弱にならずにすむかもしれない。だから、自分がどう思うのかと別に、それはすでに命じられ決められたこととしてそこにあった方がよいのかもしれない。しかし、残念ながらであるのか、残念ながらでないのか、信じようにも信じることはできず、かえってそのような水準に訴えると、嘘のようだと思えてしまう。人々は、人々に押しつけたいものを人間の上の方に持ち上げるという仕掛けを知ってしまっているから、この所作はあまり効かないのかもしれない。とすれば、かえって人間界のこととして語った方がよいのかもしれない。あること、あるいはあるという言い方が、なにか天から降ってきたようで、どうも実感できない、嘘のように感じられるという人がいたら、人が、そのようであったらよいとどうやら思っている、そういうことのようだと答えるしかない。」(『良い死』』pp.177-191)


 ここまで第8回


 

★★ここから第9回★★

※ 筑摩書房から出してもらった2021年の本が『介助の仕事――街で暮らす/を支える』。このところも、新聞やテレビからの取材があって、番組の一部に使われることもあるらしい。また取材の時の録音記録もとってある。このへん確実なことがわかったり、整理がついたら、お知らせする。今回は一つ、日本解放社会学会という学会があってその学会誌が。その雑誌に『介助の仕事』への書評が掲載され、それへの返信=リプライを載せてくれるというので、書いた。「『介助の仕事』書評へのリプライ」。最初は、お礼だけ言ってすませようと思ったのだが、そうもいかず、とても長いものになった。私のためになるよい書評であったからではない。要するにそれは残念な文章だった。ただ、このような文章を書いてしまう研究者もいるのなら、そういうことではだめなんだということは、きちんと書いてみなさんにわかってもらう必要があると思ったから書いた。読んでもらえたらと思う。雑誌が発行されるまでは掲載しておくつもりだ。


■3 照合してみる
 殺すのがだめだと言えないと述べた。次に、しかし、もっぱら別の理由で人を殺す人について、その理由で殺すのはだめだから、人を殺してならないとした(T)。そして、人が人を殺す理由であるとともに、殺しにくい理由について述べた(U)。さらにV・Wを次の章で加える。
 普通に考えると、そうなる、と私は思う。しかし、別の筋立てで考えるとそうはならないようだ。
 伊勢田哲治の『動物からの倫理学入門』(伊勢田[2008])は様々な説が紹介されておりとても有益な本だが、その本に紹介されたことのまとめのような部分は、以下のようになっている。

 ▽なぜ動物解放論はそんな影響力を持つのだろうか。特に本書の前半で詳しく述べたように、動物解放論の議論は、はじめて接したときには突拍子もなく感じるかもしれないが、論破しようとするとなかなか手強い。それは動物解放論がいくつかのかなり広く共有されている規範的判断や背景理論を組み合わせることで導き出せるものだからである。「倫理判断は普遍化可能である」「遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」「動物も人間と同じように苦しむ」「認知能力や契約能力など、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)」「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」、これらの組み合わせから容「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける。
 この結論に反対しようとすると、前提のどれかを否定しなくてはならないが、ここに挙げられている規範的判断は、少なくとも現代市民社会に生きるわれわれにとっては抜きがたい確信となっているものであり、動物に権利を認めたくないばかりに少し修正しょうしすると他のところに大きな影響が生じてしまう。「倫判断は普遍化可能である」というのを否定すれば、人々が自分に都合のよいときだけ都合のよい規範を持ち出してらおとがめなしということになってしまう。遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」というのを否定すると性別やの肌の色による差別も認めることになってしまう。「動物も人間と同じように苦む」というのを否定すると、「自分以外の人も自分と同じように苦しむというのも否定せざるをえなくなる可能性が高い。「限界事例の人たちが存在する」というのを否定するのは明白なまざまな事実に目をつぶることになってしまうだろう。「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてほならない」というのを否定すると赤ん坊や知的障害者に危害を加えてもよいことになってしまう。動物に権利を認めないのはそれなりに覚悟が必要なことなのである。」(伊勢田[2008:320-321])★28

 「倫理判断は普遍化可能である」=A、「遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」=B、「動物も人間と同じように苦しむ」=C、「認知能力や契約能力など、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)」=D、「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」=E、としよう。
 (すくなくともある部分の)動物には、人・ヒト(のある部分)と同程度のものはあり、同じものは同じものは同じに扱えという規範があるなら、動物にも認めることになる(A)という話だと思う。C:人間も苦しむ(から害してならない)のだが、苦しむのは他の動物もだから、動物も害してならない。また、D・E:高等でない(「限界事例」の)人たちにも認めるなら、同等の動物にも認めるべきだとする。こうして、(ある範囲の)人間を殺さない、ならば同じような性質をもっている動物も、ということになり、人間を優先する理由がうまく言えないのだと言う。しかしそういうことだろうか?
 それに対して、私たちは、0:殺すこと(殺して食べること)は仕方がない、を最初に置いた。私たちは、生物が生物を殺してはならない(食べない)という主張を採らないとしたのだ。すると、その一部として人間が動物を殺すことも悪であるとはならない。ここまでは矛盾はない。一貫している。だからA:普遍化について問題はないことになる。
 すると、今度は人間が人間を殺すことがいけないことが特別のことになり、人・ヒトを特別扱いをすることになって、論として一貫しないということになるだろうか。つまり、問いは、生物全般において殺生を否定できないとして、そのうえで、せめて(人間が)人間を殺さないことにしよう、と言えるだろうかという問いだ。言えるだろうと答えた。
 食べることに伴って殺すことと、人が人を殺すことと、その性格・理由が異なる。別の理由なのだから、0:食べることに伴い殺すことは否定しないが、T:人が人を食べるために殺すのでないのに殺すことは否定される、という二者は、同じものは同じにという規範には抵触しないことになる。
 次に、私たちのように考えない人たちが持ち出す、同じだから同じに、について。言われる一つが、C:人間も動物も苦しむから、動物も苦しめない殺さないという話だ。苦しむこと/苦しめることをよいことだとはしない。しかし、仕方がない、とした。それに対してすぐに言われる、人間については動物を食べなくてもなんとかなるのだから、仕方なくはないという指摘についても、第4回「殺し食べる」で答えた。
 もう一つが、D+E:つまり利口でない人も殺さないのであれば、同程度の利口さ(以上)の動物も殺すべきでないという話だ。私たちも、死ぬ・殺されることの怖さは計算にいれるべきだと述べる(第3章・W)。利口であるから怖い。その恐怖は考慮せざるをえないという意味において、大切なものであるとは考えていて、そのことを述べる。ただ私たちは、ある程度利口である存在であっても、殺して食べることはあると認める。同時に、利口さの度合は殺す/殺さないの基準と考えないのだった。
 そして、B:遺伝的な差異自体は、ほとんどの場合なんにせよなにか「自体」がよしあしを示すことがないのと同じに、差別する理由にはならない、とは言えよう。ただ、U:人=ヒトから人=ヒトが生まれる、このことは人間・社会的な理由によって殺す理由となるととともに、殺さない(殺しにくい)ことにも関係があるようだった。そしてそのことは規範として認められるのだろうと述べた。そのことには意味がある、と少なくとも多くの人は――むろんなんでも認めないことはできるから、認めない人もいるとしても――思うだろう。するとそれは理由になっている。すると、結果として、境界線はヒト/ヒトでないという遺伝的な差異に添って引かれることにもなる。

■註

★28 ただここで話が完結するわけではない。次のように続く。リンク先の頁にはさらに長い引用がある。
 「といっても、動物に権利を認めれば問題が解決かと言えばそうは簡単には言えない。動物解放論者は「少なくともぎりぎりの選択では人間の方が他の動物より優先される゛」という強固な直観と向き合わなくてはならない。この直観を動物解放論の中で生かすのは難しい。別の言い方をすれば、「倫理判断は普遍化可能である」をはじめとした前述の判断や背景理論に「極限的選択における人間の優先」を付け加えると、全体としてつじつまがあわなくなってしまう(均衡が破れた状態になってしまう)ということである。これはまさに往復均衡法が発動するシチュエーションであるが、とうやって均衡を実現したらよいのだろうか。
 一つは功利主義を使ってシンガーの路線で全体の整合性をとるやり方である。「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」という部分を修正して、動物の命(とある種の限界事例の人たちの命)は奪ってもよいということにするということだった。この路線は障害者差別だといってごうごうたる非難をあびたから、あえてシンガーの後に続くのはかなりの覚悟がいる。動物の権利を重視するのなら、解決策は極限的選択における人間の優先という方向になるだろう。これはレーガンよりも過激な立場で、憲法にうたわれるような基本的人権をあらゆる動物に同等に認めることになる。これならたしかに当面の矛盾は解決されるが、もっと大きな問題を抱え込むことになる。というのも、それだけ強力な権利になってくると、どの範囲にまでその権利を認めるのかが大きな問題になってくるからである(シンカーのバージョンでその間題がないわけではないが)。
 他方、徳倫理学は[…] 」(伊勢田[2008:321-322])
 「ごうごうたる非難をあびた」ことが別の箇所でも紹介されていることは、第3回「なぜまだ」の註17でも引用した。この本に対するコメントとして、野崎泰伸「『動物からの倫理学入門』の一つの読み方――倫理・正当化・正義」(野崎[2009])。このたびの私の書き方とはだいぶ違う立場からのものだが、一環したものではある。


UP:20211220 REV:20211216, 20220114, 19, 20, 21, 22, 0210, 0303, 29, 0403
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