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人命の特別を言わず*言う・03

立岩 真也 2021〜2022
010203


※ 連載の第3回になります。この3回分が第1章になります。書き始めて、というか、本としてまとめようとする作業の中で、第1回・第2回の分について、いや違うという人がいるように思いましたので、この回でいちおうその部分について答えてあります。それでも若干舌足らずのように感じますので、本になるまでにさらに手をいれていくつもりです。

※ 関連する企画であるとか、この連載中にお知らせできるものがあれば、お知らせするのがよいだろうと思いました。2月19日に、日本生命倫理学会・人生の最終段階におけるケア(End of life care)に関する部会主催の「エンドオブライフケアの諸相」で話をすることになりました。川島孝一郎さんから連絡いただきお受けしました。Zoom 13:30〜17:00。安藤泰至さん、中島孝さんの後話します。今メールみたら、会員向けイベントとありました。非会員の方々すみません。ただ、私の報告分については私が録画なり録音なりしてそのうち公開しようと思います。そしてその日のための資料のようなものを作り出しましたので、見ていただけます。→「私のような死ぬのが怖いだけの単純な人間には無用ですが、多くの人はそうでもない。」。昨年ちくま新書の1冊となった『介助の仕事』にある文言です(p.216)。


■■3 なぜまだ

■1 驚いたこと
 ここまで簡単に振り返った種類の言論について、私は、すくなくとも論理的には、かたがついていると考えてきた。ただそれにしても、「非人間中心主義」という標語は、いかにも、いかになんでもおかしなものだったから、そのことは一つ確認しておこうと思い、二〇〇九年にそのことを『唯の生』――の第1章「人命の特別を言わず、言う」――に書いた。それがここまでだ。この章をさらに書き足し、書き直してこの連載(→本)を書いている。(『唯の生』第5章以降と『良い死』は、合わせて文庫本(立岩[2022])になる。)
 ただ、その後、議論はどうなっただろう、本書をまとめるに際して、読んで知的に得られるものがあるとはあまり思えず、実際にほぼ予想は外れなかったのだが、いくつかを読んでみることになった。文献表に日本語で読めるものの多くをあげ、その一部は第4章(註◇・◇頁)で紹介している。
 そうして読んだ本の一冊に生田武史の『いのちへの礼儀』(生田[2019])があった。全体としていろいろ教わることのある、よい本だと思ったが、また生田は重要な活動をしてきた人としていくらか存知あげていたが★12、というより、だからこそなのだが、私としては三〇年ほど前に決着したと思ってきた話がまだ生きているようで、驚いた。

 ▽シンガーが言うように、もし障がい者の立場を悪化させず動物をより尊重するのなら、彼の哲学は現実には障がい者の立場から問題はないはずです。しかし、シンガーの議論には、おそらく障がい者を「健常者」や「感覚をもつ」動物に対して「劣る」存在と考えさせる面があり、それが「事件」を引き起こすことになったのです。
 シンガーの議論に対して、このような反論が考えられます。シンガーは(種としての)「人間」と(理性的で自己意識のある存在としての)「人格」を区別し、「人格」を持つチンパンジーを殺すことは「人格」ではない人間を殺すより「悪い」としました。それは従来、考えるまでもなく自明とされていた「人間中心主義」を否定するほとんど革命的な転換でした。しかしそれは「人間中心主義」から「人格中心主義」へ、つまり「理性的で自己意識がある」ことを価値基準にした新たな差別体制でしかないとも考えられます。それは従来の「人間でなければ殺してもいい」を「人格でなければ殺していい」へ変えただけではないでしょうか。
 しかし「人格中心主義」が新たな「差別」だとしても、それに対するシンガーの回答は、「人間中心主義」に比べれば「人格中心主義」の方がはるかに妥当だ、ということかもしれません。現実に、動物解放運動によって障がい者が殺されることはなく、一方で多くの動物の扱いが改善されています。かりに「人格中心主義も差別だ」と批判するなら、わたしたちは、より差別の少ない(あるいは差別が全くない)別の提案をする必要があります。少なくとも、「どちらも差別だから「人間中心主義」のままでいいか」と主張するのは不可能なのです。(生田[2019:179-180])△

 一つには、「はるかに妥当」である――「かもしれません」と続くのではあるが――となぜ言えるのか。そして次に一つ、より妥当な「別の提案」は可能であり、それをかつても述べたし、これまで明示的に言わなかった部分を含め、本書で述べる。
 ここでは前者について。シンガーがどのように考えていたのかはわかっているのだが、生田がどのような根拠で判断しているのかはわからない。「現実に、動物解放運動によって障がい者が殺されることはなく、一方で多くの動物の扱いが改善されています」がその前の段落の記述ともあわせ、根拠になっているのだろう。たしかに「動物解放運動」は、多くの場合には、人のことに残念なほど関わること関心をもつことが少ない。その運動は動物解放のための運動なのだから、直接に人に向かわず、その限りで障害者を殺すことはないだろう。人を殺すことを意図したり殺したりすることは、凶悪な肉食主義者に対する敵意が嵩じて、といった人がいないではないかもしれないが、まずはないだろう。多くが心優しい人であることに疑いはない。
 だが、そのことをが前段落の「立場を悪化させず」ということであれば、それはやはり違う。まず、理論的に示すものとして、それが何を否定したかということがある。その人は治療停止や安楽死と呼ばれているものを支持した。支持し主張することと実際に行なうこととはもちろん異なる。だがやはりもちろん、支持し主張することが現実に影響しないわけではない。シンガーという人個人の論がこの五〇年ほどどれほどの影響を与えたかは知らないが、支持する人たちに大きな影響が与えられたというのが本当なら、すくなくともこの種の論の塊が影響を与えたはずである。その影響を与えられたという人たちが知ったのが、動物愛護の教説に限らない人も時にはいたのであれば、その「生命倫理」についての説も知られたのではあるだろう。知らないこともよくないと思うし、知って受け入れるのもよくない。
 この文章には註が付されている。

 ▽シンガーが旧西ドイツで言論弾圧の迫害を受けた一九八九年頃、わが国の倫理学者たちがシンガーの生命倫理説を批判したことがあった。当時シンガーには世界中の先進国から賛否両論、質問や支援、抗議の手紙が集まったという(筆者が直接シンガーに訊いたところ日本からは一通しかなかった。ところが奇妙なことに日本人の批判は訳者の一人にすぎない私のところにきた。私はシンガー説とは違う考えを持っていたが、対話・論争を愛する哲学者として、挑発にのってシンガー擁護を買って出た。ところがその結果、論争はおこらず、私はシンガー攻撃者たちから黙殺されただけだった。(『グローバリゼーションの倫理学』監訳者解説、生田[2019:181]に引用)△

 注意せず何も知らずに読むと「」内は生田自身の文章かとも思われる。私も最初そのように間違って読んでしまった。ただ、もちろん生田はその本の(監)訳者ではなく、この文章は監訳者の山内友三郎が書いたものだ。この人が、ずっと、シンガーの本を翻訳し紹介する文章を多く書いていることは知っている★13
 その人に批判を送ったという、一人だけという人が誰であったかを私は知らない。ただ、シンガーとのまた監訳者とのやりとりがどうであったにせよ、検討・議論がなかったわけではない。山内のいう「言論弾圧の迫害を受けた一九八九年頃」のことを私は知らないが、一九九一年の夏に『The New York Review of Books』に掲載された「ドイツで沈黙させられたことについて」は市野川容孝加藤秀一によって訳されて、九二年の『みすず』に掲載されている([1991=1992])。そしてそれには訳者の市野川による解説(市野川[1992a])が付されている★14
 そして、哲学者倫理学者の土屋貴志が、九三年に「「シンガー事件」の問いかけるもの」(土屋[1993])を、九四年に「シンガー事件」と反生命倫理学運動」(土屋[1994])、九五年に「生命の「置き換え可能性」について――P.シンガーの所論を中心に」(土屋[1995])を書いている★15。これらを受けて、九七年の『私的所有論』第5章註08(【】内は二〇一三年の第二版での加筆部分)。

 ▽シンガーは、第一に無感覚の存在、第二に快苦の感覚だけをもつ存在、第三に快苦の感覚に加えて理性と自己意識をもつ「人格」の三つを分ける。そして、選好功利主義の立場から、一番目は配慮すべきそれ自体の利害をまったくもたない、二番目は苦痛を与えないように配慮すべき、三番目は快苦に関する利害と自分の将来に関する利害の両方に配慮すべきとする(Singer[1979=1991])。ここから快苦の感覚をもつ動物の生存権を認める主張をする(Singer[1973=1988][1975=1988][1990b]、Mason & Singer[1980=1982]、Singer ed.[1985])一方、障害をもつ新生児については安楽死を認めるべきだとする(Singer[1991b]、Singer & Kuhse[1984]、Kuhse & Singer[1985]、他に「生命の尊厳【(神聖)】」説(→第4節4)を批判するKuhse[1987]、「潜在性」に依拠する議論(→注16)等を否定しつつヒトの胚を用いた実験を支持するKuhse & Singer[1990]、Singer & Dawson[1988→1990]等)。
 こうした主張がドイツで障害者の組織に批判され、彼は壇上で抗議を受け、講演はとりやめになった。もちろん彼はそれに不満だ(Singer[1990a][1991a=1992][1992]。この「シンガー事件」及びシンガーの主張を検討したものに市野川容孝[1992a]、土屋貴志[1992][1993][1994a][1994c][1995a]、川本隆史[1996]、ドイツ哲学界の状況の報告を含む河村克俊[1996]。以上にシンガー批判の側の論点も紹介されている。)【またシンガーの主張を解説する本として山内・浅井編[2008]。】「表現の自由」を何より特権的に保護すべきだとは考えないが、この場合には表現自体の禁圧という方法を選ぶべきでないと思う。彼の主張は、どれほど露骨にはっきり言うかという程度の差はあるせよ、私達の生の一部なのではあり、発言を禁止したところでなくなるものではなく、できるのは、そうした主張がどれほどのものかを検討し、それをその主張に対置することだと考えるからである。土屋[1993:338-339]でほぼ同趣旨の主張がなされている。【シンガーらの主張はあいかわらずで、その同じことを『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』(Singer[1994=1998])で繰り返している。その一部は有馬[2012]で紹介されている。私のシンガーとクーゼの主張に対する批判は『唯の生』([2009a])で行なっている。】」(立岩[1997→2013:354-355])△

 この部分で私は、シンガーの議論を検討するというより、一つに文献を紹介しており、一つに発言をやめさせるより言わせておいて批判するならしようと言っている。その後、こちらがわざわざ黙らせるのはよそうなどと言う必要もなく、結局本人はすこしも懲りることがなかったようだ。そして、その主張に対する論がすくなくとも多くの人に、すくなくとも生田に届くことはなかったということだ。あげたのは多く「学術論文」の類だから、接近の容易なものでなかったとは言えよう。それについてはいくらか反省してその多くをネットで読めるようにしてみた。ただ、議論自体はいま引用した部分を含む『私』で行なっている★16
 言われたこと、そして私も書いたことはもっともであると思ったから、議論としてはそれで終わっていると思っていた。それが、九七年に右のように私が書いて、そして二〇〇九年の『唯の生』からも十二年が経って、このたび読んだ生田の本ではそうではない。いくらか驚いた。シンガーたちの主張を普通に受け取れば、それを脅威と感じる人たちは出てくる。言われていること、それが含意することははっきりとしているので、そのことに気づかないはずはないと思うのだが、そうは受け止められていないようだ。
 動物のことを気にし食生活を改善しようという人の多くは、きっと優しい人たちなのだと思うのだが、あまり人間のことに関心を持たない。動物を肯定することと人間を広く肯定することをなんとか両立させようという、本章と第4章(◇頁)で紹介するテイラーの本はあるが、そうしたものは少ない。それでまず、抗議や批判があったことあることもたんに知らないのかもしれない。ただ他方、誰かに知らされないとわからないことだろうか、読めばすぐにわかることではないかとも思う。みなが知るべきだとまでは言わないが、知ってほしいとは思う。少なくとも職業研究者であればそのことを知り、紹介ぐらいはしてほしいものだと思うだが、この度読んだ本では、そのことが出てくるのは伊勢田哲治の『動物からの倫理学入門』(伊勢田[2008])ぐらいものだった★17
 そしてさらなる繰り返しになるが、「近代」を批判するものとして知らされた。「ポストモダン」の人たちを持ち上げて動物を擁護する人が、シンガーをもってくる。しかし、それはまったく新しいものではなく、陳腐とさえ言ってよいものだ。ここでもそのことを繰り返して述べた。
 けれども、『唯の生』で私が論じなかったこととして、基準のずれ、ぶれがある。功利主義が快苦を言うのであれば、快苦を基準にすればよいはずだが、とくに人間の生死に関わる時には、シンガーやクーゼはもっと高級な基準をもってくる。おかしなことではないか。どういうことになっているのか。
 ただその前で、結局のところ、この幅の範囲で、この半世紀ほどの議論はなされてきたことは言える。前者、つまりより高級なより人間的な基準の方に行くと、話は生命倫理学的な話になる。後者、感覚・快苦の方に行くと、議論はいくらか趣向の違ったものになる。そして後者を進めていくと、それは近代や脱・近代において登場したものではまったくないものだが、殺生全般が否定されるべきだという主張、しかしそんなことができるのか、それを規範とすべきかという問いに対することになる。

■2 生命倫理学的な基準
 一つめの「生命倫理学」の辿った道について。この言論の領域がかたちをなし、時間が経って、たくさんの教科書や辞典の類も出されている。ただ、すっかり体系化され完結しているかというとそんなことはない。それは複数の原理を併存させる。三つとか四つとかの原理が示されるのだが、その三つや四つはたいがいは並列され併記される★18
 さらにまとめれば、一つは、本人に対してよいことをするべきであるという原則だ。一つは、本人の「自律(autonomy)」を大切にしようという原則だ。いずれもまずは穏当な考えのように思える。そして、多くの場合、両者が支持するものは背反せず、たいてい同じものがよいとされる。これも不思議なことではない。自分で決めたことが自分にとってよいことだと、たいがいの場合に言えるからである。その人にとってよいことは何か、その人に聞けばよいとなる。
 以上だけならとくに問題はない。よいものがよい、というのは同語反復であって、なにか教えてもらっているという感じがしない気はするが、間違ってはいないだろう。しかし、二つの契機が加わると、当人にとってよいこと、また、当人の決定が、変わってくる。一つに、社会にある価値が作用する。一つに、資源の制約(の認識)が作用する。
 決めることをここに置くことによって何が起こるか。各種の動物たちもなにかしらの規則に従って行動していると言えるかもしれないが、とくに人間の場合には、社会規範・価値が大きな位置を占め、大きな力を有する。このことは、私は社会学をやっている者だが、そんなことと関係なく言えることであり、本来は、と言わねばならないのが残念だが、誰もが認めるはずのことだ。
 人々の選好や行為に規範が作用すること自体を否定することはできないし、否定しようとする必要もない。また、作用するからといって、本人の決定を軽視したり無視したりすることもよいことではない。純粋な個人の意志を規範に対置することは無意味だし、間違ってもいる。するべきことは一つだ。つまりは、そこに存在する種々の価値・規範を検討し、それに対する態度を定めることである。ここで、価値は人それぞれだから口を挟まない、とは、少なくとも常には、ならない。ずっとそのことを考えて言うのが私の仕事であってきたから、そして本書は別のことを言おうと思っているから、ごく短くする。
 決定や利害の背後にある価値、また資源(についての認識)について、生命倫理学ではどういう扱いになっているのか。きちんと決まってはいない。だから、各々の論者の主張にかなりの幅がありながら、その業界がなんとなく一つのまとまりとして維持されているとも言える★19
 そのなかで、わりあい、あるいはたいへん、その主張がはっきりしているのがさきにあげた人たちである。私たちの社会・時代にあって、その人たちが信じる、自らを認識し、自らを統御するのがよいことであるという規範が大きな力を有する。すると、その規範に基づいて自分の価値や評価をその基準で行なうことなり、結果、低くされる人たちが出てくる。そしてまた、自らを低くし、例えば死のうとし実際死ぬ人たちが出てくる。それはあからさまな強制として作用するのではなく、人の価値と決定を通して作動する。
 そのことについて、説明を求められることを想定できないほど、とにかく信じている、というような人たちもいる。さきにあげたフレッチャーといった人たちはそんな具合の人かもしれない。そしてそんな人のなかには、第4章にあげる地上の富を増やすことに貢献することが人間の存在の意味だといった考え方もあるだろう。
 そうした考えは、学問の内部においても相当の勢力を有しているし、そうした人たちも含め、社会がそのように構成されている。そのもとでの決定は左右される。
 もう一つが現実の制約、そして資源の問題である。よいことをする、人が要するもの・人の意向を大切にするというだけのことなら、順序や序列は関わらないはずだ。しかし、得られるもの・提供できるものが限られている場合がある。功利主義に現実性とまた問題を人が感じるのも、その「主義」が、誰か(たち)にとってのよいことが増えることと別の誰か(たち)のよいことが減じられることが連動する場面を見ることによるだろう。資源は全体として有限であり、そして個別に危機的な状況になることがある。実際にそんなことが時に起こる事情があり、その状況に対して答を出すことが仕事であると思っているということもあり、順番についての議論が多くなされる。
 そのときに何が順序を決めるのか。救命を急ぐ人をさきにすることはすぐに思いつくが、それだけですまないと思われることがある。このことは『良い死』の第3章「犠牲と不足について」に書いた。資源に関わる現実はたしかに制約条件として作用する。そして、言うまでもなく、制約は制約についての認識や配分についての価値から独立ではない。そのたしかに有限ではあるものの配分を規則が規定しているし、価値が関係している。ここでも人間の場合には、できることがあるために、それをするかしない加減ができるために、いちだん話がややこしくなる。動物たちが(意外にも)助け合っているという話はときどき聞くが、普通には弱ったものから消えていくということなのであれば、当の生物のできることは少ない。比べて人間はいろいろことができる。できるがしないこともある。
 そしてこうした価値と資源についての認識が、本人にとってよいこと、と、本人の決定の優先の順序の設定、周囲の介在のあり方に関わる。大切にしようというそれだけである限りでは人間の資格は言われないはずだ。決定を尊重することと、決定能力を要件にすることとは別のことである。人が言うことを聞くべきだということと、言うことができない人はいなくてもよいということとは、まったく別のことだ。しかし、大切な能力をもっているからその決定も大切とされ尊重される、といった組み立てになっているなら、その大切な能力を有しているかどうかが問われ、有していない人が除外されるということにもなる。
 そして、先記した、おおまかには二つの原則の間の優先順位や介入にも関わってくる。原則は先記したものであるとして、一つに、その本人の益にはならないと思われる決定を認めないことがある。「パターナリズム」ということになるが、それは常に否定されるものではないだろう★20。ただ、採用されない場合は、価値や事実認識に沿っていないと判断される場合も多いはずだ。他方、理性的な判断がなされているとされる場合には、それが認められてよいとされ、それに介入するのは不当な介入とされる。「決定」の方が「よさ」に優先するということになる。
 例えば死ぬのに自分の身体を使えない(ということは他の様々のこともできない)人が人の手を借りて死のうという行ないがある。自分で熟慮して決めたことなのだから――たしかに多くの場合にそのように言えるだろう――退こうとし、それが認められる。それははっきりと死のほうに作用する。それは、この世からの自発的な退場、つまり安楽死や尊厳死と呼ばれる死を是認することになり、実際に行なわせることになる。「人格主義」で困った人はいないと生田の本に書いてあったことに驚いたと述べたのはそういうことである。その「主義」を信じることはない、採用するべきでない。これらについて『良い死』に述べた。
 何を言っても自らの信仰を確固とした前提とし原理とする人、はてはそのことに気づいかない人たちがいる世界・業界に向けてなにか言うことが、ほとんど徒労だと思うことがある。しかし、それは仕方がない。繰り返して、それを最初に置くのはおかしいと言う。正しいことを一度言えばそれが通るのが学問の世界だと思われているとして、そんなことはない。何度でも言うことになる。

■3 二つの併存
 シンガーの場合、どういう構造になっているか。本書はその議論を詳細に検討することを目指していないのだが、始めてしまった手前もある。簡単に整理し、位置づける。
 まずこの人の場合には、議論が二段になっている。A:一段めでは、いまみた生命倫理学の一つの流れとさしてかわらない主張がなされるが、B:二段めでは快/苦だけが基準に置かれる。
 A:一段目について。ここでのこの人の議論は、たんに知性・理性が立派なものだから大切にするのだというのとは異なり、それを算定するだけの理由があることを示していると見ることもできる。死を観念し、ゆえに恐怖するといったことがある。死を気にしてしまう人については、そのことを考慮すべきだとなる。他方、そのような能力を有していない場合には、それを顧慮する必要がないという。ここまででは事実に基づいているのだからたんに信仰を吐露しているわけではないとされる。理解し恐怖を感じるからそれを奪うのは、その人を害することであり、それはよくない。私もその契機は大切だと思い、そのことを第3章で述べる。
 しかし、恐怖についてゼロである存在がいたとして、その存在を殺してよいとするまでには、死を気にしていない(その限りで、ゼロである、そしてそれでよいことであることを認めよう)に加えて、マイナスであるという条件が入るはずだ。どのようにマイナスであるのか。ここで、結局のところ、さきの話に合流することになる。つまり一つには、その人にとってのいくつかの正負を合算するとマイナスになるという。そして、それはその人――は自らについて語れるような存在であるとされているのだから――自身の話に基づいて言われているのではなく、周囲が負であると判断していることになる。しかし、苦痛しか得ていないように思われる状態があることを認めた上でも、この判断が妥当であると言えないはずだ。
 もう一つには、普通に功利主義的になり、周囲に対する影響からよしあしを言い、本人はゼロであっても、あるいは快苦において快をよいものとする存在であるとしても、周囲にとっての正負を合計するとマイナスになるといったことを言うことになる。
 この二つのどちらの道を行っても、あるいは両方を合わせても、さきに記した生命倫理学のある流れとかわらない。シンガーは、ある人たちのようにある存在を無価値であると決めつけているわけではないと言われて、いくらかはそう言いたい気持ちをわかった上でも、結局、私たちの結論は変わらない。
 ただまず、多くはこの二層があるについて論じることがない。その中でこのことを示しているのはさきあげた伊勢田だ。Aでは、人間の一部と類人猿を生きられようにするべきことは言っているが、その他を殺してならないとは実は言っておらず、ただ、苦しませるのはよくないというBから、(有感)動物の扱いのかなりの部分を批判・否定しており、ゆえにその議論は一貫しているとする。ただその立場をとると、「ごうごうたる非難」を浴びることになるから、「覚悟がいる」と述べるのだった(→註17)。
 また、後で取り上げるテイラーの本『荷を引く獣たち――動物の解放と障害者の解放』は、AとBを区別し、シンガーがAの基準をとったことを批判し、A(一本)で行くべきだとする。それに対して、私は、苦を避けるのがよいという倫理的な立場から殺生を否定するBについて次の第2章で考えを述べる。  そしてA:死の恐怖を有さないとされる存在に対する扱いは、普通に考えればBの立場からも、否定されると考える。よって、意気地があまりない私自身は「ごうごうたる非難」をすることはなかったのだが、非難・批判は正当なものだと捉えることになる。
 なぜこんな具合に二層になっているのか。まずBを言ったのはどうしてか。よく知らないが、もちろん動物たちの惨状に心を痛めたということはあるのだろう。生物に苦を与える殺生はよくないというBの基本はまったく単純であり、そしてずっと以前からあり続けてきた話でもあるから、なぜその人の主張として影響があったのかもよくわからないところがある。ただ一つには、功利主義という倫理学の枠組みに載せて語ったことがあっただろう。また、その論に対する反論に対する反論が説得的であった(と受け止められている)ということもあったのだろう。
 ではAはどうか。本人にとってのよしあしに層があるという把握は間違いておらず、そのあり様に応じた対応がなされてよいという主張も受け入れられるものだ。ただいま簡単にだが見たように、その扱い方は間違っている。そしてそれは、結局のところ、私(たち)が前項で批判した価値、人と人の間の優先についての順序に関わる価値を信じているということではないか。
 次に、動物を擁護する多くの人たちは、なぜ鈍感なのか? まず読んでいない、知らないということはあるのだろう。Aが書かれている本、AとBの両方が書かれている本も幾つもあり、翻訳もなされているのだが、もっぱら動物のことについて書かれている本もたしかにある。職業研究者についてはそんなことがあるのはよくはないとは思うが、BとAはまずは別であり、類人猿をより丁重に扱うべきだという話はAに関わるが、基本的には動物のことはBになるので、そちらに関心があまり行かなかったということなのだろうか。動物のことが気になるあまり、人間のことに関心がないということなのか。あるいは、本書に私が書くことから邪推するなら、じつは、動物を擁護しようという人々は基本的な水準で人間の優位を信じていて、そのときに想定される人間の質、人間のあり様を信じ肯定しているということなのだろうか。
 あまり詮索しても仕方のないことかもしれない。次章ではBを検討し、そして私はどう考えるかを述べる。ここからが本書の本体になる。

■註
★12 『「野宿者襲撃」論』(生田[2005])、『ルポ最底辺――不安定就労と野宿』(生田[2007])等の著書がある。
★13 共編書に『シンガーの実践倫理を読み解く――地球時代の生き方』(山内・浅井編[2008])、単著としては『相手の立場に立つ――ヘアの道徳哲学』(山内[1991])。
★14 翻訳のほうは著者の了承を得ねばならないから難しいかもしれないが、市野川の解説他、当時のできごとについて、シンガーについての頁の中に置いてある「シンガー事件」を増補するつもりだ。
★15 土屋は自らが書いた文章を多く、勤務先のサイトに掲載してきたが、このたび自らのHPを運営することになった。そこに掲載される文章の在処を別途お知らせする。
★16 『私』におけるシンガーへの言及を『補註』(立岩[2022])に掲載した。
★17 「シンガーは実は邪悪な哲学者として非常に強硬な批判をあびている。殺すことの是非をめぐるシンガーの議論は、種差別を否定する以上、人間にもあてはまる。ということは、「死」という概念が理解できない幼児や認知症の患者も、幸福の大化のために殺してよい場合があるということになる。シンガーはこれを積極的に認め、重度障害新生児の安楽死を場合によって認める議論をしている。重度障害新生児は苦痛に満ちた短い生涯を送る。快楽をより多く苦痛をより少なくという考え方からは、重度障害児の苦痛を減らすために安楽死を行うことは場合によって容認される(ただし、そうした安楽死がほかの人に与える影響も考えなくならないので全面的に「容認される」と言い切ることはできない)。成人の場合は死ぬこと自体への本人の嫌悪という別の要素が入ってくるが、新生児の場合、そもそも「死」という概念を持たないので、「死にたくない」という欲求を持つこともない。シンガーはこの主張のために、世界各国の障害者団体から「障害者生きる権利を認めていない」として強く批判されている。シンガーの主張を支持するにはそれなりの覚悟が必要である。」(伊勢田[2008:41])
 「一つは功利主義を使ってシンガーの路線で全体の整合性をとるやり方である。「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」という部分を修正して、動物の命(とある種の限界事例の人たちの命)は奪ってもよいということにするということだった。この路線は障害者差別だと△321 いってごうごうたる非難をあびたから、あえてシンガーの後に続くのほかなりの覚悟がいる。」(伊勢田[2008:321-322])
★18 1「人に対する敬意(respect for persons)」、2「無危害 (nonmaleficence」)、3「慈恵(beneficence)」、4「正義(justice)」の四つがあげられることが多い。そして2と3の意味することは多くは変わらないと2を3に含めることがある。そして1が「本人の決めることを尊重すること」、2が「本人によいことをすること」になる。4は公平性を言っているから財・資源の配分に関わる。
★19 日本では、一九八〇年代以降のしばらく、多くの翻訳がなされ紹介が書かれた。それらを紹介し整理し続ける人たちもいる。ただそれはもうそう多くない。多くの人たちはそういう議論からはほぼ撤退して、一つにはより個別の主題について現実の推移を調べたりする。また教育・実践に役立つ手立てを開発し普及させようとしている。全体について批判的な人たちは、私も含めて、依然としていくらかはいるが、教育と普及に注力している人からなにかを言われることは少ない。
 生命倫理学という世界の仕組みを概観する手頃な本がないのはよくないと思ってきた。新書では『医療の倫理』(星野一正[1991])があるが、これを読んでも何が論点なのかはわからない。いくつかの仕事の後、本文でごく簡単に記したこと、つまりもっともな原則に何が加わるとよろしくない(と、私を含め少なくない人が思う)ことを説明する本を書いたらよいのかもしれない。
★20 『弱くある自由へ』の第7章「遠離・遭遇――介助について」の第5節が「口を挟むこと、迎えること、他」その第1項が「パターナリズム」。
 「まとわりつく様々な利害を無害化し、少なくとも世間で行なわれている様々なことと同じくらいには本人に決めさせればよいと――言うだけなら簡単なことだが――述べてきた。にもかかわらず、代行は避けられず、パターナリズムを否定できない。
 パターナリズムという語は通常否定的な言葉であり、それは当然のことである。その人を先取りし、その人を侵害する様々なことが行なわれてきたからである。だから自分で決めること、選ぶことが執拗に言われてきた。自分がすべて行なうのが面倒なので他の人にまかせることもあるにせよ、その結果が気にいらなければ、別のところに頼めばよい、あるいは自分ですることにすればよい。しかし、そうはいかない場合がある。
 ……」(立岩[2000→2020:302])


UP:20211220 REV:20211226 .... 20220131
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