HOME Kitayama

人命の特別を言わず*言う・05

立岩 真也 2021〜2022
010203040506

□:42→0115:63→
◆:11→02

 ★★第10回★★

 ※いろいろとひどいこともあったが、だから原稿を書きあぐねていたというわけではなく、しかし間があいてしまった。原稿はいったんは書いてしまっているので、次からはもっと詰めて、掲載できたら(掲載してもらえたら)と思う。
 この連載がもとになる本と(ほぼ)同時に、2008年の『良い死』、2009年の『唯の生』の一部を略し、つなげた本を、ちくま学芸文庫から『良い死/唯の生』として刊行していただこうと思っている。ただ、基本、分量を減らしたうえでそのまま、にしようとは思っているのだが、なにか、リクエスト、助言などいただければと。立岩(tae01303@nifty.ne.jp)までよろしくです。

* * *

■■■第3章 世界があり恐怖するから慎重になる

■■1 V・W:世界がある・恐怖する
■1 V:世界・内部
 第1章に見た人たちは人命の特権化には根拠がないと言うのだった。そしてその後、その人たちは自らが正しいと考える殺す/殺さないの区別とその理由を言う。そのように話が進んだ。
 それに対して、区別をしないという立場はあるだろうか。殺すものと殺さないものとの区別を認めない、みな殺さないことがあるだろうか。だがその前に、この場合には既に生物が前提されている。それもいけないとしたら、壊すものと壊さないものとの区別を認めない、壊さないということになるか。しかしそんなことは到底不可能であるように思われる。すると、やはり、生物と生物でないものには区別を――まだ理由はわからないのだが――付けるとするか。それで生物はすべて等しく、となるだろうか。だが、動物を殺さない人でも植物は食べている。ただ人工物をうまく作れるなら、生命を奪わないことは不可能ではないかもしれない。しかし、人間において仮にそんなことができたとして、生命の世界の全体はそうはならないだろう。人間を特権化しない立場を採るとして、それでよいのだろうか。
 このようにして、いったいこんなことを考えてどうするのだ、どんな意味があるのかと思われる問題が現れる。この「難問」に答えるということがどういうことなのかよくはわからないまま、考えてみるとどうなるのか。まず第2章第4節(連載第8回)で述べた。それに加えて、私の答は次のようなものだ。
 なぜその存在を消し去らないか、消去できないか。その存在の「世界」があるからだ、その世界が存在するその存在の「内部」があるからだ。このように答える。その中に外界への能動性はむろん含まれているのだが、それだけではない。その存在において、体外や体内のことが、感覚という語がふさわしいのかわからないが、感じられている。
 そしてその中に快苦もまた大切なこととしてある。その快苦について、ごく普通に、苦より快があった方がよいとは言えようが、その苦とその快とを足し算か引き算かできると考え、足し合わせるか差し引きするかすると負の値になったとしても、それで存在の価値がないと考えねばならないことはない。
 もちろん石ころも私ではない存在ではあり、様々な有機物、生物もそうなのではある。ただ、誰かを尊重するというときには、その誰か(なにか)に固有の世界があって、その活動が終わるときにはそこに生起している世界もまた閉じる、そのような存在であることが含意されているだろう。そのように言うことのできるその範囲がどれだけであるかは確定しないとしても、その存在を毀損してならないというとき、そこで想定される存在は、少なくとも今述べたような存在である。
 そしてこのように存在しているものはたくさんあって、その状態は多様であり、その中に基準を作り、その基準に照らして高等/普通/…等々の階層を設定することはできようが、その一部だけを取り出して、例えば理性を有する高等な存在だけを取り出してそれだけを特別に扱わねばならない理由は、まずは見当たらない。そう考えるから、第1章にみた線引きは不思議であり不合理なのだ。その人たちが想定するよりもずっと広い範囲がここでは考えられている。
 そして、人のことは知っているはずの人であっても、その人において何が起こっているかわからない、わかりがたい。だからその周りにいる者たちがせいぜいできることは、できるだけその判断を慎重にしようということだ。また、わからない時にはわからないと言おうということだ。もう世界が終わっていると確実にわかる手立てなどそう思いつかないのだから、その場合には、終わりが明らかになるまで待っていようということだ。快苦を大切にすると称する人たちがそのように言わないなら、それは不思議だ。

■2 だから絶対尊重派ではない
 次に、以上は「質」による「差別」を認めるということでもある。他方に、それを認めないと述べる立場はある。生物に範囲を限ったとしても――しかしそのように限る理由はなにか――「生命の絶対尊重派」がいる。その人たちから、私がよしとした立場は批判され、否定されるだろう。しかし、その人たちに対して私は、まずその立場は不可能であり、実際に存在しないことを言う。
 まず、その立場は摂食がなされ殺生が行なわれている今ある世界を否定せざるをえず、それが実現すれば、世界は死滅することになる。さらに、人だけを対象とし、規範を遵守する主体を人だけに限ったとしても――しかしそのように限る理由はなにか、ないはずだと言った――あらゆる状態にある人の身体あるいはその部分の状態を維持しようとするだろうか。すると、そんなことまでは言っていないと反論されるのかもしれない。しかし、線引きを認めないとか、あらゆる生命を大切にしましょうという話をすなおにとればそうなる。現実にはそんなことはなされていない。だから、実際には線引きをしている。
 次に、その人たちが「かけがえのなさ」などと言う時、それを言う人たちは、さきに私が述べたことを認めているはずであり、実際には、言おうとすること、認めようとするものは、そう違わないはずだ。
 そして、この主題が語られる時、しばしば「二人称」が持ち出されるのだが、その論調をそのまま受け入れられない。ごく簡単にすれば、その二人称は、「私があなたを大切に思う限りにおいて、あなたは生きている」というふうに使われる。実際、腐乱しあるいは干からびていくその時になお大切に思うことがあるだろうし、その思いが尊重されるべきであるとも思う。ただ、私ではないあなたが存在しているということは、私のそのようなあなたへの思いと別にあなたが存在しているということである。私(たち)からの思いによってその存在を認めるというのであれば、それは、その存在が存在しているということではないのであり、またそれは、私が私でない何かを大切にするということでもない。むしろその時、私はその存在を領有してしまっているのだとも言える。
 死者は私(たち)に訪れることがあるだろう。それは私(たち)が何かを知らされ伝えられるその機制を考えれば不思議なことではない。私たちは不在の存在から様々を伝えられる。しかし、そうした事々は、私(たち)がその者が生きていると思う限りはその者が「この世」に生きているということとは別のことである。
 条件をいっさい置かないのか、それともそうでないのかによって立場は分かれる。ただそれは置かれる、既に置かれていると述べた。だから、私の立場は「生命の質」を言う人たちの立場とまったく別なのではない。根本的に異なる場所にいるのではない。私は、区別をするという点では、むしろ、絶対尊重――という人が仮にいるとして――と別の立場をとることになり、「質」だとか「線引き」だとか言う人たちの中にいる。
 しかし、実際にどこに線を引くかについては、「尊重派」の人たちとそう大きくは変わらない。他方、私と「生命の質」派の人たちとの違いは程度の違いであり、問題は程度問題なのだが、その程度の違いは大きい。程度問題は大切だと、あるいは程度問題こそが大切だと、私は考える。第2節で述べるのはそのことだ。
 『私的所有論』では第5章3節4「その人のもとにある世界」([1997→2013:325ff.])に記した。以下はほぼそこに述べたことそのままだが、いくらか表現を変えた部分がある★01
 V:私から発することなく私から到達しえない世界がその人に開けている。その人に私を超えてある世界がある。そのように私が思うことが、その人・他者を奪えないと思うことの大きな部分を占めていることは確かだと思う。
 そこにその人(だけ)の世界があるとは、自己意識があること等々と同じではない。自らを意識したり反省したりしなくても、何が自分に有利かどうか判断したりしていなくても、どのようにか、世界を感受していることがある。
 それにしても、これは、その存在にある「内容」を、最低限においてではあっても、想定しているということである。そこで、U=「世界を有する」存在とする。第2章で、T=「人から生まれた存在」が、命を奪うべきでない存在としての人であると述べた。と同時に、その存在にその存在だけの世界が開けていることが、奪いえない存在としての人としての他者であることを構成する重要な一部にはなっている。奪いえないと思うのは私(たち)であるしかない★02。しかしそのように思う私(たち)は、そこに私(たち)が及ばないその人(の世界)があると思うから、そう思うということだ。
 もし私たちがあることについて(例えば、殺してはならない範囲について)ある判断をしているのだとすれば(例えば、人は少なくとも殺さない範囲として特権化されるべきだとしているなら)、それはUの側にいることを意味するというものだった。私は、第1章に見たように、理性・自己意識を持ち出すことがはっきりとした立場として打ち出されているのに対して、Uはそうではなく、しかも、考えてみれば、Uがかなり基本的な価値として存在していると思うから、第2章で、これを言葉にしてみようとした。
 ただ、さらにV=[世界がある]という契機があり、そしてそれは、全てが私たちが思うことであるというあり方の中にあっても特別の意味をもっていると考える。
 『私的所有論』第4章で、私でないものが世界に在ることを言い、それを他者と言い、そのことゆえにそれが在ることを認めるという価値があるのだと述べた。ただ、そのような意味で他者があるというだけでなく、より強く、人という他者があると思う時、そこにはたんに私でないものがあるというだけでなく、さらに人から生まれたという契機がある(本書第2章)だけでなく、そこにおいて世界があるという契機が確かに重要なものとして加わってはいるのだと思う。その人において世界があると思う時、より強く、奪ってはならないと思う。
 確かにここでも私がそのように思うのではあるが、ただたんにそう思うというのと少し違っている。他者の存在はより強い現実性として、凌駕することの不可能性として現われる。それもまた、私が見て感じているということの内部にあるとも言えよう。その世界にそのこともまた現象しているのだと言えば言えよう。しかし、けっして私には感じることができない世界がそこにあることを私たちは、そこで感じている。それは普通の言葉の意味では、事実として知っているということだ。その人の世界を直接には知りえないけれども、確かにその者に私の世界ではない世界があると私は思う。私においてしか私の世界が存在しないことと少なくとも同格のことがそこに存在していることを知っているということだ。
 このように言うことは、第1章に見た論理によって、例えば嬰児を無資格者とする議論から離れたところにある。次に、UとVが指示する範囲は実質的にはほとんど重なっている。つまり、生まれて生き始めていることと、その子に世界が存在することはつながっている。けれども、U:人が人の中から現われたことにおいて既に人であると思うことから、V:その人において世界があることを差し引いた状態、空白という状態がありえないのではない。この場合には、他者において世界があると言えない。この時にも、私はその者を人、他者と思うことがあるだろう。ただその当人において空白である以上は、私だけがその他者のことを思っている、私が他者であると思うことだけが残っている、だからその限りで、その他者に即して何か思っていることとは違う、とは言えるだろう。
 この状態をどう考えるか。「脳死」について考えるのが困難なのはこのことに関係する。問題となっており、問題とすべき一切の事実問題、そしてその状態であることを確認できるかという理論的な問題を省き、また、測り難いことを測れるとする危うさとその危うさに周囲の者たちの様々な利害が絡む危うさをここで差し置き、▼もし仮に…傍点▲、脳死という状態がその人において全くの空白であり、そこから回復することがない状態であるとしたらどうだろう。ある者は人工呼吸器等を止めることができると思う。問題はないと判断するのは私である。さらに、その臓器を利用するのは私(たち)であり、そのように利用したいと思うのは確かにこちらの都合である。
 だが他方で、そうと受け止めない者もまた、やはり私の思いとして、そのように思っているのである。死体であると、物体であると思えず、死んでいない(生命を奪うべきではない)存在だと考え、いわゆる三徴候死を待つのも私(たち)である。もちろん、前者は「科学的」な立場だから正しく、後者はそうでないなどいうことではまったくない。「科学」は状態についての情報を提供するだけであり、まず両者は等しく私たちの思いなのであり、この限りでは両者は等価であると言い得る。
 その上で、次に、この全くの空白にはその存在の独自の場という契機が欠けていると言いうる。だから、後者のように思うことが、何かその存在との「共同性」の上に成立していると考えるのは誤っている。端的にその存在との「共同」は不可能なことであり、むしろ、この思いは、私からの思いとしてしか存在しないのならば――何かのためにその存在を用いよう、何か不都合なことになるから死んだことにしようといった水準とは異なった水準で――、より「私(たち)中心」的な思いであると言いうるのではないか★03
 そのことを認めた上でどのように考えるかである。一方で、ある人がその空白の状態にある存在を前にして、その生命を奪ってならないと思っている。この場合に、その人の思いが何かおかしなものだとは言えない。私たちがそのような世界に(も)生きていることは確かなのであるから。そしてもちろん、この空白の状態にいる存在の生存を奪えるという積極的な理由は現われてこない。Vでないことは、その生存を止めてよい積極的な理由にはならない。ただ奪ってはならないことの理由を弱めるものではある。ヒトを殺さないこと(U)を優先するか、より強い=狭いがやはり奪えないことを私たちに思わせる決定的な条件である、その人の世界があること(V)を満たしていないことをどこまで考慮するか。いずれかに決する絶対的な答はない。それは、両者ともが私たちの現実のかなり深いところに根差しているからだと考える。
 脳死状態からの臓器移植といったここで主題としない事柄を外せば、VからUの間、つまりその人の世界が終わる時から生物としての活動の終了までの間の時間が過ぎるのを私たちはただ待っていればよいのだから、この問いに対する答を未定にしておいたままでも、現実的な問題はそれほど起こらない。ただ、もう少しだけ考えを進めることはできる。脳死ということでなく、一切の生物的・生理的な生存が終わった後も、人はその存在を生きていると思い、破壊しないようにしようと思うことはできる。生きているように保存し続けることもできるかもしれない。しかし、このような場でよりはっきりと明らかになるのは、それがそのように保存しようとする私の思いだけに発していることである。既に生存を止めた存在にとって既に生きられ受容されるものでなくなっている身体をそのままに保存しようとすることは、かつてその身体を受容してそれとともにあった存在から離れ、それを私の側に置こうとする行いではないか。そのような権利が私にあると言えるだろうか。少なくとも、その人が、自らにとって世界の一切が終わった上での生存や生存を終えた後での保存を放棄しようとするのであれば、私にとっての他者の意味合いではなく、他者があることそのものが尊重されなければならないという立場からは、その人の意志に従うべきであることになるだろう★04

■註
★01 その項の全体を以下引用する。書籍においてはこの註は略される。△325等はそこまでが325頁であることを示している。この文章の中の註(☆17)の引用は略す。
 「[4]その人のもとにある世界
 では何か人に関わる「内容」を言う主張は何も言っていないのだろうか。そうではな△325 いと思う。B'私からは決して到達しえない世界が他者に開けている、その他者に私を超えてある世界がある、そのように私が思うことが、その他者を奪えないと思うことの大きな部分を占めていることは確かだと思う。そこにその人(だけ)の世界があるとは自己意識があること等々と同じではない。自らを意識したり反省したりしなくても、何が自分に有利かどうか判断したりしていなくても、どのようにか、世界を感受していることがある。それにしても、これは、その存在にある「内容」を、最低限においてではあっても、想定しているということである――そこでB'とする。A'人から生まれた存在が命を奪うべきでない存在としての人であると述べた。と同時に、その存在にその存在だけの世界が開けていることが、奪いえない存在としての人としての他者であることを構成する重要な一部にはなっている。
 線を引く時も引かない時も、どんな線を引く時も、それは必ず、私達の側の理由に発している。その存在が人である、すなわち殺してならない存在であると思うのも私であり、そうではないと思うのも私である。その限りでは同じである。これはいずれの立場に立つ場合にもわかっておく必要がある。資格を持ち出す人達はこのことがわかっていない。あるいは曖昧にしている。しかじかの資格をもたない存在は生きる権利がない、のではなくて、しかじかの資格をもたない存在を殺してもよいと私達はする、しようと△326 思うということである。ここまでは、資格を持ち出す人にも是非認めてもらわなければならない。ただ、このことを確認した上で、どちらにしても、これらのこと一切が人の内部でしかないとは言える。いずれにしても、それは私の他者に対する関係である。B資格を満たさないから死んでよいとするのも私達の思いであり、A'そういうわけにはいかないと思うのも私達の思いである。第4章からこの章にかけての論述の方法は、もし私達があることについて(例えば殺してはならない範囲について)ある判断をしているのだとすれば(例えば、人は少なくとも殺さない範囲として特権化されるべきだとしているなら)、それはA'の側にいることを意味するというものだった。私はBがはっきりとした立場として打ち出されているのに対して、A'はそうではなく、しかも、考えてみれば、A'がかなり基本的な価値として存在していると思うから、これを言葉にしてみようとした。
 ただ、さらにB'という契機があり、そしてそれは、全てが私達が思うことであるというあり方の中にあっても特別の意味をもっていると考える。第4章で、私でないものが世界にあるということを言い、それを他者と言い、そのことゆえにそれが在ることを認めるという価値があるのだと述べた。そのことを覆そうとは思わない。ただ、そのような意味で他者があるというだけでなく、より強く、人という他者があると思う時、そこには単に私でないものがあるというだけでなく、さらに人から生まれたという契機があ△327 るだけでなく、そこにおいて世界があるという契機が確かに重要なものとして加わってはいるのだと思う。その人において世界があると思う時、より強く、奪ってはならないと思う。確かにここでも私がそのように思うのではあるが、ただ単にそう思うというのと少し違っていて、他者の存在はより強い現実性として、凌駕することの不可能性として現われる。私が見て感じているということの内部にあるとも言えようその世界にそのこともまた現象しているのだと言えば言えようが、しかし、決して私には感じることができない世界がそこにあることを私達は、事実として知っている。その世界を直接に知りえないけれども、確かにその者に私の世界ではない世界があると私は思う。私においてしか私の世界が存在しないことと少なくとも同格のことがそこに存在しているのだということを知っている。
 このように言うことは、Bの論理から例えば嬰児を無資格者とする議論から離れたところにある。A'とB'が指示する範囲は実質的にはほとんど重なっている。生まれて生き始めていることと、その子に世界が存在することはつながっている。けれども、A'人が人の中に現われたことにおいて既に人であると思うことから、B'その人において世界があることを差し引いた状態、空白という状態がありえないのではない。この場合には、他者において世界があると言えない。この時にも、私はその者を人、他者と思うことが△328 あるだろう。ただその当人において空白である以上は、私だけがその他者のことを思っている、私が他者であると思うということだけが残っている、だからその限りで、その他者に即して何か思っていることとは違う、とは言えるだろうと思う。
 この状態をどう考えるか。「脳死」について考えるのが困難なのはこのことに関係する。問題となっており、問題とすべき一切の事実問題、そして事実を確認できるかという理論的な問題を省き、測り難いことを測れるとする危うさとその危うさに周囲の者達の様々な利害が絡む危うさをここで差し置き、もし仮に、脳死という状態がその人において全くの空白でありそこから回復することがない状態であるとしたらどうだろう。ある者は人工呼吸器等を止めることができると思う。問題はないと判断するのは私である。さらに、その臓器を利用するのは私(達)であり、そのように利用したいと思うのは確かにこちらの都合である。だが他方で、そうと受け止めない者もまた、やはり私の思いとして、そのように思っているのである。死体である、物体であると思えず、死んでいない(生命を奪うべきではない)存在だと考え、いわゆる三徴候死を待つのも私(達)である。もちろん、前者は「科学的」な立場だから正しく、後者はそうでないなどということではまったくない。「科学」は状態についての情報を提供するだけであり、まず両者は等しく私達の思いなのであり、この限りでは両者は等価であると言い得る。△329
 その上で、次に、この全くの空白にはその存在の独自の場という契機が欠けていると言いうる。だから、後者のように思うことが、何かその存在との「共同性」の上に成立していると考えるのは誤っている。端的にその存在との「共同」は不可能なことであり、むしろ、この思いは、私からの思いとしてしか存在しないのならば――何かのためにその存在を用いよう、何か不都合なことになるから死んだことにしようといった水準とは異なった水準で――、より「私(達)中心」的な思いであると言いうるのではないか☆17。
 そのことを認めた上でどのように考えるかである。一方で、ある人がその空白の状態にある存在を前にして、その生命を奪ってならないと思っている。この場合に、その人の思いが何かおかしなものだとは言えない。先に述べたことを認めてもらえるなら、私達がそのような世界に(も)生きていることは確かなのであるから。そしてもちろん、この空白の状態にいる存在の生存を奪えるという積極的な理由は現われてこない。B'でないことは、その生存を止めてよい積極的な理由にはならない。ただ奪ってはならないことの理由を弱めるものではある。A'を優先するか、より強い=狭いがやはり奪えないことを私達に思わせる決定的な条件であるB'を満たしていないことをどこまで考慮するか。いずれかに決する絶対的な答はない。それは、両者ともが私達の現実のかなり深いところに根差しているからだと考える。△330
 脳死状態からの臓器移植というここで主題としない事柄を外せば、B'からA'の間の時間が過ぎるのを私達はただ待っていればよいのだから、この問いに対する答を未定にしておいたままでも、現実的な問題はそう起こらない。ただ、もう少しだけ考えを進めることはできる。脳死ということでなく、一切の生物的・生理的な生存が終わった後も、人はその存在を生きていると思い、破壊しないようにしようと思うことはできる。生きているように保存し続けることもできるかもしれない。しかし、このような場でよりはっきりと明らかになるのは、それがそのように保存しようとする私の思いだけに発していることである。既に生存を止めた存在にとって既に生きられ受容されるものでなくなっている身体をそのままに保存しようとすることは、かつてその身体を受容してそれとともにあった存在から離れ、それを私の側に置こうとする行いではないか。そのような権利が私にあると言えるだろうか。
 少なくとも、その人が、自らにとって世界の一切が終わった上での生存や、生存を終えた後での保存を放棄しようとするのであれば、私にとっての他者の意味合いではなく、他者があることそのものが尊重されなければならないという立場からは、その人の意志に従うべきであることになるだろう。
 本節で述べようとしたことを少し超えたところまで、いささか不用意に、話を進めて△331 しまった。けれども、こうした主題について考えるのであれば、最低、以上は押さえておくべきだと思う。第9章で「出生前診断」「選択的中絶」という、やはり少しも明るくない主題について考えることになるのだが、そこではここで述べたことと一部同じことを言い、また別のことを述べることになる。それを、いずれも生存の資格の問題であり同じ問題だと考えるのだとすれば、それは粗雑な思考であり、論理と称するものが、私達が思ったり悩んだりする現実――それも、論理を操ることを仕事をする人が論理と称するものよりは複雑ではあろうが、ある論理を備えている――に追い付いていないということだと考える。」(立岩[1997→2013])
★02 「線を引く時も引かない時も、どんな線を引く時も、それは必ず、私達の側の理由に発している。その存在が人である、すなわち殺してならない存在であると思うのも私であり、そうではないと思うのも私である。その限りでは同じである。これはいずれの立場に立つ場合にもわかっておく必要がある。資格を持ち出す人達はこのことがわかっていない。あるいは曖昧にしている。しかじかの資格をもたない存在は生きる権利がない、のではなくて、しかじかの資格をもたない存在を殺してもよいと私達はする、しようと思うということである。ここまでは、資格を持ち出す人にも是非認めてもらわなければならない。
 ただ、このことを確認した上で、どちらにしても、これらのこと一切が人の内部でしかないとは言える。いずれにしても、それは私の他者に対する関係である。B資格を満たさないから死んでよいとするのも私達の思いであり、A'そういうわけにはいかないと思うのも私達の思いである。」([1997→2013:326-327])
★03 ゆえに小松美彦の『死は共鳴する』(小松[1996])の主張をそのまま肯定しない。小松の論の検討・批判は、「死の決定について」([2000c])で行なった。この文章は大庭健(→◇頁)と鷲田清一の共編の本『所有のエチカ』(大庭・鷲田[2000])に収録されたもの。後に『唯の生』(立岩[2009a])に収録され、この度『良い死/唯の生』(立岩[2022])に収録される。なお、その批判は「共同性」に依拠する部分についてであり、他の多くの論点については、私は小松の主張に同意している。その後の小松の著作に小松[2000][2004a][2004b][2012]がある。
 その差異は、この社会に対抗する根拠として共同性を言う流れがあってきたことの捉え方を巡ってあるものだと思う。それを基本的に肯定的に受け入れ続けた人たちがいて、小松はその一人だと思う。それには十分な力があることを認めながら、私は違うように言おうと思って書いてきた。
 以下は小松についての個人的回顧。なお「民青」は「民主青年同盟」。日本共産党系の学生組織。
 「大学などない田舎にいたわけだから、誤解していたところ、間違った期待をしていたところもある。高校生のとき、大江健三郎の小説は読んでいた。彼は東大の文学部を卒業した人だ。なにか「そういう人」がたくさんいるような気持ちがしていたのだ。しかし、当たり前のことだが――そこらに大江健三郎のような人ばかりいたら、それはそれでたいへんである――そんなことはなく、普通だった。もっと言うと、説明は略すが、「嫌いなタイプ」の人たちもいて、どうもいけなかった。比べれば、湿った・湿気った(と私には聞こえた)演説を繰り返している民青の学生の方がよかったぐらいだ。そんなこともあり、いくらか違うかんじの人たち、そして「政治的嗜好」に似たところがある人たちとのつきあいの方が気持ちがよかった。例えば、小松美彦がいて、彼はそのころから妙な貫禄があった。後に彼は河合塾という予備校の小論文講師になり、予備校生を煽動していたのだが、それはとても彼には似合っているように思われ、後に大学の教師になり『死は共鳴する』(一九九六年)などという本を出したりするとは思わなかった。また、大学を終えた後技術系の翻訳で生計を立て、ダナ・ハラウェィという人の『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』の翻訳(二〇〇〇年)を出すことになったりもする高橋さきのといった人もいた。」(立岩[2007-2017(1)]
★04 続きは以下。「こうした主題について考えるのであれば、最低、以上は押さえておくべきだと思う。第9章で「出生前診断」「選択的中絶」という、やはり少しも明るくない主題について考えることになるのだが、そこではここで述べたことと一部同じことを言い、また別のことを述べることになる。それを、いずれも生存の資格の問題であり同じ問題だと考えるのだとすれば、それは粗雑な思考であり、論理と称するものが、私達が思ったり悩んだりする現実――それも、論理を操ることを仕事をする人が論理と称するものよりは複雑ではあろうが、ある論理を備えている――に追い付いていないということだと考える。」(立岩[1997→2013:332])
 言いたかったこと、しかしここで明示していないことの一つは単純だ。つまり、死んでもらうことと産まないことの動機・利害が同じであっても、既に人が生きていて恐怖や苦痛がある場合と、そうでない場合とは、異なる。その本の第9章で考えられたことは書いたから、ということもあるが、その本以後私は、既に生きてしまった人たちが死のうとすること、安楽死や尊厳死と呼ばれることについて、夥しい数の文章を書くことになった。今度『良い死/唯の生』として刊行していただこうと準備している2008年の『良い死』と2009年の『唯の生』とでほぼ言うべきことを尽くしたと思う。


 ★★第11回★★
 W:恐怖することを慮る/そのうえで慎重になる

 ※第3章が今回と次回まで。その後わりあい長い第4章を予定では4回に分けて掲載していただく。そうすると1冊ができるはずだ。全体を読んでもらわないとなんだかわからないのも当然だ。それで、私の頁に『人命の特別を言わず*言う』『人命の特別を言わず*言う 補註』を置いてある。全体としてどういうことを言いたいのか、どういう流れの話になっているのかおわかりになると思う。また、とくにこの「note」という媒体ではうまく註に行かないようだ。それを『捕註』のほうに掲載していく。合わせて読んでいただければと思う。


■3 W:恐怖することを慮る
 人が、能動的であることと受動的であること、その二つとも否定はされない。ただ、世界を受け取っている状態の方が、人が生きている期間の早くから始まり、遅くまで続く。終わりの方で多くの人はそのような生を送る。その間、人が生きられるようにあるのがよいとする。
 死んでも世界は残るだろう。そしてそのことは、死んでいく人々にとって慰めであることはあるだろう。しかし死の時、その人にとってのその世界は――別の、次の世界が信じられているとしても――終わる。もちろんそこでは、人が世界に働きかけることも終わるのだが、それは多く死の前に、多くはだんだんと、時に急に減っていく。その後も世界は残っている。しかし、その人がそこにいる世界は終わる。
 そしてそのことを人は思ってしまう。こうして人間は死を恐怖してしまう存在であってしまっている。これは困ったことだ。死において、少なくとも私の前にある世界が、世界そのものはきっと続くのだろうが、終わる。そのことを(予め)認識してしまう存在として人間はある。あってしまっている。それは願わしいことではない。そんなことを意識せずにすむならその方がよい。しかし、残念ながら、人はそのような存在であってしまっている。
 だから、たんに死ぬことと・殺されることと、死の予期を与え続けながら殺すこととは異なる。だから死刑はやはり特別な殺人である。中井久夫は次のように言う。

 ▽不条理の最大は死である。私たちが死期を知りえないために死はひとごとになっている。[…]私たちの「希望」はしばしば不確定な将来の先送りである。だから希望を奪われている死刑囚だけにはこの基本的信頼がない。死刑という刑罰の核心はそれかもしれない。(中井[2004:401])△★05

 死の予期が与える恐怖だけによっても死刑は否定されると私は考える。
 人間がとくに高等であるから人間を殺さないことにしようというわけではない。しかし人間が意識を有してしまっているという属性に関わって、人は死を恐怖する。であるなら、それを考慮せざるをえない。死の到来はどうにも仕方のないことではあるが、それを防げる間は防ごうということになる。それは人間を特別に扱おうということになる。とすると、結果としては、伝統的な倫理の言うことと結局はあまり変わらない。けれどもそれは、ただ同じものの正の面と負の面を言い合っているということではない。まず、私(たち)は、よいものであることを否定していない。まず最も基本的には、意識されている世界とそれが不在である世界との比較自体が成立しえない。そのうえで、生きていくうえでの道具として有益であることがあり、またたんに道具として便利という以上のよさがあることは認める。私(たち)がただ言ったのは、それだけが生存を積極的に指示する根拠にはならないということだった。他方で、たしかに負の側面と言ってよい死の意識は、その意識が存在した後に、それを奪うべきでない積極的な理由になる。
 そのうえで、死を観念するのは人間に限らないと言われるかもしれない。どのように確かめるのかわからないが、もし本当にそうなら、私はその生物の「保護」を支持することになる。

■4 そのうえで慎重になる
 こうして私は絶対的人命尊重主義者ではない。だから私は、人命絶対尊重の立場の人たちから批判されて当然である。
 しかし、実際のところ、とくに表に聞こえる声のない人たちはどうなのか、その現在がどうであるから、そして将来どうなるかの可能性についてはほとんど原理的にわからない。そして、感じたりすることがないとされていた人に感覚があることがわかってきたことが多く報告されるようになっている。さらに、「ある」ということがどんなことか、私たちはわかっていない★06
 それでも仮に「ゼロ」であると言えるならどうか。はっきりしたことを言う人もいる。

 ▽第一に、永続的に無意識の患者においては、生存において苦痛は存在しないはずだが、他方延命から得られる利益も存在しない。この場合には家族の負担や苦痛、社会にとってのコストを原理原則にしたがった形で考慮に入れることも許される。(Dresser & Robertson[1989]を紹介している長岡[2006:140-141])△

 本人においてゼロの時には、ゼロの存在はなくしてよいという主張である。しかし、第一に、ゼロであるなら(本人において)負ではない。そして第二に、本当にゼロであるかは、たいへんわかり難くもある。さらに第三に、周囲の都合を考慮すべきでないとは言わないが、何人かにとってのマイナスをゼロに足してマイナスであると言えたとしても、なくした方がよいとはならない――説明は次の次の段落★07。ならば、その場合には、周囲は仕方なくでもつきあえばよい。こうなる。
 では負の場合にはどうか。苦痛は負であると単純に認めるとしよう。けれども、苦痛を感じている時、人は感じている。苦痛が負であることと、苦痛を伴う生が負であるとすることとは、もちろん異なる★08
 そして、その判断の場には、必ず他の人間たちの都合が働く。つまり、私たちは役に立たない者を、役に立たないのはまだ許容できるとして、迷惑な者を、殺そうとする。あるいは使える部分を使おうとする。そしてその世界がどんなであるかわからないその人たちの多くは、(まだ、あるいはもう、ほとんど動かないのだから)積極的に加害的でないとしても、そういう人たちである。
 このことが多くの場合に想定されないのは不思議なことだ。「終末期」について家族にも決定に加わってもらうことが肯定される時、例えば『医療現場に臨む哲学II』(清水哲郎[2000])の主張において想定され共同決定に与るものとされる家族は、本人のことをよく思うよい家族なのだが、実際にはそうと決まってなどいないことを私は繰り返し述べてきた★09。だから、待っている時間を長めに、判断しない範囲を広めにとるのがよいということになる。だから、人の状態がどうであるか、考慮しないようにしよう、そのような制約を課すことにしようというのである。これが一つ。

■5 苦痛についての補足
 その人の世界があるなら、奪わないことにすると述べた。その人に恐怖があるなら、そのことを無視しないようにと述べた。恐れもまた苦痛の一部である。この種の倫理学では、苦痛は、死なせてよい理由とされる。功利主義は快苦を大切にする立場だ。私も快苦は大切だと思う。第1章でみたシンガーは功利主義者なのだから、本来は快苦から議論を立てたらよいと思うのだが、死なせてよい範囲の規定については、そうしなかった。快苦とすればもっと救うべき範囲は広くなる。この基準から、快苦を感じているだろう動物を殺さないことを言う立場があることは第2章(連載第4回)で見た。
 一つに、痛み・苦痛は防御、回避のための仕組みである。これもまた、生物学の知見などなくても誰もがわかること、既に知っていることだ。そこをどう間違えたのか、いま念頭に置いているのは線維筋痛症等なのだが、ただ常に痛いということが、人間以外にもそうしたことが起こることがあるのか私は知らないが、起こってしまうのがやっかいないところだ。通常は苦痛は一時的なものだ。痛いから、痛いことを避けようとする。避けられることもあるし、そうはいかないこともある。そのようななかに生物界はまわっている。
 そして一つ、人は苦を予感したり意識したりできることによっても、辛さは相対的にも大きいものになってしまう。人はどうやら苦痛が続くことを知るし、実際続くことを感じ、まだ続くと思って辛くなる。できないことは(かなりの部分)代わってもらえるが、痛みは身体にへばりついて、代わってもらうことができない。社会が変わればよいのだという「社会モデル」の主張は、ここでは基本的には通用しない。だからまず、痛みを物理的・生理的に減らすしかないということになる。
 私は、苦痛について書けること、そして書いてどうにかなることは少ないと思ってきたから、ほとんど書いてこなかった。ただ、苦痛のために死ぬというのが安楽死のもともとの定義だが、実際には痛みのために死ぬといったことは思うより少ないと述べてきた。むしろ多く人間は「できない」ために死のうとする。そして死ぬことが自分の身体ではできないから、他人に行なってもらう。それが安楽のたいがいの場合だ。そのことについて述べてきたことを取り下げる必要はないと考える★10。ただ他方で、死のうと思うほど痛いことがあることは事実である。できないために死のうという場合には、できないことによる不都合を、完全には除去できないとしても、周りの者たちは軽減はできるから、死ぬのは待ってくれと言うことはできるし、実際言うべきだと述べてきた。それに比べると、痛みの場合にそのようなことを言えることは少ない。とくに言葉を言うだけの私のような者にとっては少ない。
 しかし一つ、まずよいこととよくないことの合算など可能であるようには思われない。ただ死ぬほど痛いと思うだけだ。そこではよいこととよくないことが天秤にかかっていると考えることの方に無理がある。
 次に、苦痛だけがあるといった状態について、その人の言うことを信じよう。しかし、他人が語る場合には用心しよう。苦痛について語れることは少ないのに、それにしては多くのことが語られてきた。それは、精神的な苦痛、それも身体としての精神に直接にくる苦痛というよりは、悲しみとしての苦痛であって、するとそれに対応するのは癒しであり慰めであるということになる。そして、苦しみからなにか得るものがあるといったことが語られる。たしかにそんなことなら語れる。語りに対応する事実もある。だから語られるのは当然のことではある。実際にもそんなことがないわけではないだろう。なにか肯定的なことを見出し、言おうという。しかし、その善意はわからないではないが、まず痛みはただ痛いのであり、そのような意味づけは無用であると思う。なにか苦しいことを常によいことのように語れるわけではない。その語りは、とくによいこともなく、苦しい人たちにとっても愉快なことではない。その当たり前のことはわかった上で、ものを考えて言葉を使ってよいことはある★11
 まず、痛みの重みを軽くしてしまう事情を考えることはできる。
 一つ、痛みは、痛くない周囲の人たちによっては、無視あるいは軽視されやすいものである。一つに、それは他人には直接に感じられない。傍にいれば痛そうだとかわかることはあるが、たいがいの他人はその場から離れることができ、実際離れてしまう。何も、少なくともたいしたことはできないのもわかっている。病院にでもいればその職員などはいる。ただ、その人たちは、その職業を続けていくためにも、それはその人にとって有効な処世術ということになるが、あまり深刻にとりあわない人でもある★12
 そして一つに、その多くは、たぶん特定の容易な単一の要因によるものではなく、その現われも多様であり、原因や機序は、ときに、むしろ多くの場合、はっきりしない。身体の特定の箇所に特定の要因を見込んでそれを除去しようとする近代・現代医学は、その対象にするのを面倒だと思い、放置することが多い。
 こうした機制があることはわかる。そこから直接に手立てが出てくるわけではない。しかし、以上の事情をわかったうえで、しかし大きな苦しみを与えていることは事実なのだから、できることをしようというのにつきる。周囲の者たちができることは少ないが、痛くて仕事ができないというのであれば、仕事ができず生活費が足りないので必要だとなれば、その「確たる証拠」がなくても、仕事をしないこと、財の分配を認めるといったことはできる★13
 こうして人間は、たしかに知恵を絞って特別なこと――それもまた自然の営みであるとも言えるのだが――をしようとしている。そこでそういう人為的なことはやめて自然に委ねる、というのが一つになされる話だ。ただ人間はこの道を選んでしまった。種々の人為をみなやめて自然の方に、ということであれば少なくとも一貫はしているのだが、実際にそのことを言い実際に行なう人たちはほぼいない。そしてそれを自ら貫く人を止めないとしても、社会としてその道を行くことはすべきでない。

■註

★05 このことは死刑を執行する人に対しても、通常、苦を与えることになる。では快を得るような人――そんな人も実在するだろう――に委ねればよいか。そうとも思えない。死刑執行人の歴史について『死刑執行人の日本史』(櫻井悟史[2011])。
★06 『自己決定権は幻想である』(小松美彦[2004b])、『脳のエシックス――脳神経倫理学入門』(美馬達哉[2010:118ff.])等。
★07 『私的所有論 第2版』に加えた「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」の註14より。
 「功利の計算は多くの場合に有益であり大切である。しかしいつもではない。例えば人々の幸福の平均値を上げることが目的とされるなら、値の低い人を除外したほうがよいということにもなるだろう。
 人間は、相手が「人間」であっても、正当化された罰としてでなくとも、正当化された争いにおいてでなくとも、殺してきた。それは良くないことであるとされてきた。【しかし第2章4節1で紹介したように生存籤が正当化されるなら――多くそこまで徹底していないから、死の定義を変更するなどして利用しているのだが――殺人もまたよいということになる。以上述べてきた私たちの立場からは、こうした計算、計算にもとづいた行いは基本的に正当化されない。「集計」という行ないが間違えていることがある。
 もっとも、「救命ボート問題」として知られているような状況においてその計算がやむなく必要である場合があることは認める。しかし、そんな状況は一般的なことではないから、一般的・代表的なことをまず語るべきでないし、さらにそうした状況を減らすことができるし、まずそのことをするべきである。(そのようであってならないという感覚もまた功利の計算に算入されることになるかもしれず、されるべきであるという主張は、功利主義にとっても受け入れねばならない主張であるように思われる。そして、それは新古典派の経済学的に対して常套的に言われることでもある。そして指摘された側は正しい計算をするためには、その指摘を受け入れることになるだろう。しかし、問題はここで起こる。そこでなされる計算とは何かである。例えば今述べた「感覚」は計算のリセットを求める。それをどう計算するのか。」(立岩[1997→2013:808-809])
★08 『私的所有論第9章4節2が「死/苦痛」。以下はその一部。
 その存在に予想される苦痛によって存在を現わすことをしないという「行いが何か空虚であるとすれば、それは、長く、苦痛の少ない生の方がよい生であろうと思う私の感覚によって、何事かを決定した、変えたということである。それは私の都合というわけではない。しかしそれでも私がそのように思うのであり、私が決定している。多分、それは「よいこと」ではない。というのも、この決定があればなかった生が一つあることになって、そしてその生はあった瞬間から、それが短いものであったとしても、独自の生として現れ、しばらく持続し、やがて終わるのだから。苦痛を想像してそれを選ばなかったのは私であり、その私は、苦痛がある時には苦痛とともに生きる存在があるのだという精神の強度をもつことができなかったのだ。当の存在にあくまで即そうとする時、これは正当化されない行いである。」(立岩[1997→2013:673-674])。
★09 清水[2000]の書評より。「仲良くできる人たちの現場もあるが、それだけではない。だから「よりよいあり方」を示せばよい、か。正解だとは思う。だが、様々な力関係があり、それに対して(喧嘩にならないための、喧嘩をするための)「現場に臨む」「倫理」もあるのではないかと思う人もいるだろう。」(立岩[2010]
 『唯の生』に収録した(『良い死/唯の生』に再録される)「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」(立岩[20041101])は、清水の著作の別の論点を検討・批判したもの。
★10 2006年に『通販生活』に掲載された短文を「急ぐ人のために――最も短い版」と改題して『良い死』に収録した。なおここでは安楽死と尊厳死とはそう大きく異なるものと捉えられていない。
 「尊厳死を望む理由には、まず、病による身体的な苦痛があるでしょう。たしかにこれは大きな問題です。でも、ていねいな対応が大前提です。日本の医療はそれが下手ですが、それをなんとかすれば、かなり少なくできます。患者の苦痛を緩和する努力を十分にせずに尊厳死を語るのは、順序が逆だと思います。苦痛は多くの場合にかなり少なくすることができます。
 他方、意識がなくなっていれば、その状態は、本人にとって、よいこともないと言えるとしても、その状態が続いてわるいこともありません。
 すると、その当人自身にとって、早く死にたい理由はなくなってきます。
 それでもなお、治療を控えたり止めたりするのがよいと人が思うのは[…]」(立岩[2008:16-17])
★11 痛みや病や死について、例えば人間存在について反省させ意味を考えさせるといった情緒的なことが語られることがあってきた。『病いの哲学』(小泉[2006])の著者はそんな話の収め方に反感を感じている。私たちは結局たいしたことはできない。できないから語るが、語る時にはむしろつまらなくしてしまう。つまらないのは仕方がないが、ときに有害である。それが悔しくまた腹立たしくて、なにかおもしろいことを言おう、そんな具合に考えて、『生殖の哲学』(小泉[2003])、『病いの哲学』、『生と病の哲学――生存のポリティカルエコノミー』(小泉[2012])など書いてきたのだろうと思う。多分、小泉は身体に存して動いている力を認めようとしている。病んでいようと、いろいろな器具・機械がつながれていようと、身体、身体の内部は動いている。それはその通りだ。そしてその気持ちの幾分かを私も共有している。ただそれを言って、「それで、それから?」、と思うということだ。だが、では代わりになにかある か、言えるかというと、そうは思いつかない。(それにしても、『病いの哲学』は他に書かれないことが書いてあるよい本で、『唯の生』の第7章は『病いの哲学』について。1「何か言われたことがあったか」、2「死に淫する哲学」、3「病人の肯定という試み」、4「病人の連帯」、5「身体の力を知ること」。『良い死/唯の生』に再録される。
 とりあえず、語ってしまうことや、語ってしまい方を記述することはできる。スーザン・ソンタグは病に、かつては結核に対して、そして癌に対して、そしてエイズについて意味が付与されてきたさまを記し、そしてそれを拒絶した――『隠喩としての病い』(Sontag[1978=1982])と『エイズとその隠喩』(Sontag[1989=1990])、この2冊は1冊になった([1989=1992])――ことで知られている。その姿勢はよいと思う。ちなみに、その人は、自らもがんに罹ったのだがそれはいったんはなおって、そしてまた罹って、「死生学」的には「往生際」のわるい死に方をした。その最期について、その人の息子であった人が書いた本『死の海を泳いで――スーザン・ソンタグ最期の日々』(Rieff[2008=2009])がある。さらに、その人に『他者の苦痛へのまなざし』(Sontag[2003=2003])がある。やはりそこでも苦痛についてではなく、苦痛を見ることや描くことが語られている。しかし、まず、私たちにできることは、病や苦しみや痛みや死を、例えば試練として、そこから何かを見出すための手段のように語ることが、実際そんなことはあるのだから、その全般を否定することはないけれども、多くの場合に思慮の足りないものであることを指摘することぐらいではないか。
 そして私は、もっとつまらなく退屈に考えることにした。私がしてきたのは。一つには何を悲惨であると私たちは言っているのかということだ。『良い死』の第2章は「自然な死、の代わりの自然の受領としての死」で、その註25(立岩[2008:227-230])で、胎児性の水俣病者とその母を撮った写真を巡ってあったごきごとについて記している。そこでは、「ここまで書けばわかるだろう」と、はっきりとは言わなかったが、つまりは、「何をもって私たちは悲惨と思い言うのか」ということだ。強い痛みは悲惨であるであるだろう。しかし、写真に写っているのはそういうものではない。その話を引きついで、おそろしく単純に短く記したのが『不如意の身体』立岩[20181130])の第1章「五つある」、第3章「三つについて・ほんの幾つか」。
 そして痛い(が、原因等わからず、病・障害と認められない)病であり障害でもあるものについて、研究したり話をしたいという人たちが何人か周囲に集まってきている。それでまず、「私とからだと困りごと座談会」というZoomでの企画が2021年11月14日にあった。企画には何も関わらなかったが、私はその冒頭で挨拶のようなことをしている。その一部を引用しておく。
 「中身は何もないんですけれども「痛み・苦痛」というページがあるにはあって。その下には「名づけ認め分かり語る…」っていう、これは今日企画運営してくれている中井〔良平〕さんが今、増補してくれてますけど、そういうページがあったりします。何か役に立つかなっていうか、まずこういうものを時々見ていただいていいかなと思って紹介します。
 僕は社会学というのをやっていて、それは医療とか障害とか病気とかっていうことに関わってもいるわけだけれども、たとえば「痛み」とか「疲労」とかそういうことについて、社会学、社会科学が何か役に立つようなことを言ってこれたかというと、そんなことはないです。だめなんですね。だけど、だめだって居直っていてもしかたなくて、やれることはやらなきゃっていうことは思っています。そういうことは思ってる人はいるんだろうけれども、「研究は始まったばかりか、始まってもいない」っていう感じだと思うんですよね。それには理由があります。まず、「痛いことをいくらしゃべったって書いたって、痛いものはなくならない」っていうことがあって。どうしようもない、しょうがないって。
 ではある、んだけれども、だけど一つ、たとえばその「痛み」に対応する医学的・技術的な処置はそこそこあるわけです。でもなかなかやってくれないと。これは理由があるわけです。現代の医療、近代の医療っていうのは、「痛みを和らげる」っていうようなことにあんまり使命感を感じないっていうか、やりがいを感じてないっていうか、どうでもいいとまでは言いませんけどそんな感じで受け止めてしまっているから、そういう地味な、でも大切な仕事をなかなかしてくれないっていうことはあります。
 じゃあ、そこのところをどうしたらいいのかということは考えることができるわけだし。でもそもそもその体験っていうのはどういうものなのかということも知ることができる。
 もう一つ、痛みそのものはどうにもならなくても、たとえば、僕は社会学をやってるんだけれども、「障害学」っていうよくわかんないものもあって、それは、主には、「できない」っていうことに焦点を当てて、できないってことを社会がどうしているか、どうすべきかっていうことをやってきた。痛いことを他人がじかに代わることはできないけども、できないことなら、代わりに他人が補える、社会的に対応できる、ので社会科学の主題になりやすいということもあったと思います。この「できない」ってことと「痛い」ってことは違う。けれども、「痛いからできない」ということはありますよね。そしたら、痛いことそのものはちょっと難しいけど、「痛いからできない」っていうことにかんしては、本来は社会が対応できるはずです。してないけどね。
 ではなぜしてないのか、じゃあどうしたらいいのかっていうことを考えるっていう。「痛みの測定が難しいから」とか言われる。それは本当か。本当だとして、測定できないと対応できないか、そんなことないだろう、とか。等々。大切でおもしろいテーマだとも思っていて。もっとみんな考えようよっていうか、調べようよ。調べる前に、どういう経験・体験をしているのかっていうことを知りたいなということを思っています。
 それから、「わからない病気」「わからない障害」っていうのも確かにいっぱいあるわけですよね。そうした時にそれをどう考えるのかってことも、難しいけどとても大切なことです。[…]」
★12 このことに関わる書籍を紹介した短文として「摩耗と不惑についての本」(立岩[2004/07/25])。加筆して『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』(立岩[20170816])に収録した。
★13 『自閉症連続体の時代』(立岩[20090325])の終わりに補章「争いと償いについて」がある。そこで、ときに証明は求められてしまうのはあるが、なくてもさほど支障がないのであれば、求めないほうがよいことがあると述べた。


 ★★第12回★★

 そうして二つの術に応じる
 ※ ……

■■2 そうして二つの術に応じる

■1 技に応ずるものでもある
 こうして、結局のところ私たちは、最初に勇ましく批判した側に近づいているようでもある。しかし、それが必要だと思った。私は快苦が大切でないと言ったのではない。大切だ。しかしそれを慎重に扱うこと、そこに残る、小さい差異に注意した方がよい。そのように考えているから、そのように考えると見えることを述べている。
 人を自らの主張のほうに寄せようとする時のよく取られる方法が大きくは二つある。一つは、新しく受け入れがたいと思われていることも、実は既になされていることで、皆がもうしていることだから、同じなのだ、認められてよいのだという話をする。一つは、一見それとは逆のもので、極端なことを言う。それはそのまま通らないとしても、そんなことも言われているのだから、そして理屈としては成立しているようだから、いくらか前に進んでもよいのではないかということになり、現実は間に落ちる。両方とも、どこまで自覚的であるかは時と場合によるが、わりあいよく使われる。
 この人たちはその主張をどのように行なうのか。大きくは二つの、ただ結局は一つに収まるとも考えられる道筋がある。一つは論敵の主張を吟味・批判し、自らの方がまともであると言うことだ。死なせることは既に支持されていると語る。次項では、このものの言い方に対して述べる。もう一つ、自らの主張をより積極的に正当化することである。「あなたの主張を一貫させるなら、それは私たちの味方になることだ」と主張する。第3項では、第二のものについて検討する。第1節で述べた小さい差、程度の差に注意深くあることが大切だと言う。

■2 既になされているからよいという話に→小さいが確実にある差異
 第1章にとりあげた人たちにおいて、いわゆる積極的安楽死は許容される。障害を有する新生児を死なせることも肯定される。その人たちの本ではむしろ後者の例が多く出てくる。そしてこの場合には、本人の意思をもとに、ということではないから、その主張は、本人の決定の尊重という筋のものではないということでもある。
 本章第1節ではひどく当たり前のことを述べた。人は恐怖する存在であり、その存在にとっては、やがてやってくるだろう死と確実に実現する死とは異なるということだ。しかしこの当たり前のこと確認しておくと、私たちが既に行なっていることだからよい、行なっていることと同じだからよいという筋の話にもっていかれることを避けることができる。
 一方では伝統的な倫理感を覆すのだと勇ましく言うシンガーの『生と死の倫理――伝統的倫理の崩壊』は、同時に、人々の現実に訴える。例えばこんな具合だ。

 ▽オランダで安楽死が公然とおこなわれるようになった話の始まりは、よくある状況からである。すなわち、さまざまな能力を失った老女が、ナーシング・ホームで暮らしながら死にたいと思っているような状況である。ナーシング・ホームで働いたことのある人なら、誰でもそのような患者を知っている。そのような場合、医師はたいてい患者が肺炎にかかるのを待つ。(Singer[1994=1998:181])△

 高齢者の施設では、治療しないことは以前からよく行なわれていた、事実上認められていた、という話である。そしてそれを認めるなら、もっと「積極的」な行ないも、考えれば両者はそう違わないのだから、堂々と正式に認めればよいではないか。こういう筋になる。
 『生と死の倫理』は「一般市民」向けの本だから、「もうみんなやってるでしょ」という言い方がいくらか強めにはなっているかもしれないが、他でも基本的には同じことが言われる。シンガーの主著ということになるのだろうか、『実践の倫理』(Singer[1979=1991])、その改訂版である『実践の倫理 新版』(Singer[1993=1999])でも同じような書かれ方は随所にある。例えば以下。なお、新版で「胎児を殺すことが多くの社会で認められている」という箇所は、初版では「我々には胎児を殺すつもりがある」(Singer[1979=1991:194])となっている。

 ▽妊娠後期の胎児に障害のある可能性が高い場合、妊婦が胎児を殺すことが多くの社会で認められている。また、成長した胎児と新生児とを分ける境界線は決定的な道徳的分岐を示すというものではないのだから、なぜ、障害があるとわかっている新生児を殺すほうが悪いことであるのか理解し難い。(Singer[1993=1999:243])△

 このごろよくなされる話もこれと似たところがある。もう「現場」ではなされている、しかしそれが非公認のままでは「裁判沙汰」にならないとも限らないから、法律で、せめて学会や業界団体のガイドラインで公認してもらおうというのである。ただシンガーたちの場合は、現在なされていることと、まだ認められていないこと、この二つは考えてみれば同じなのだから、認められていないことも認めようという拡張の主張になっている。この人たちは哲学者なので、実は同じであるというつなぎが、理屈でつながっている★14
 クーゼの『生命の神聖性説批判』(Kuhse[1987=2006])ではその部分にかなりの紙数が割かれている。この本は専門書ということになろうが、同じことが専門書のような書き方で書いてある。理論的な本ではあるが難解なところはない。むしろ、同じことが繰り返し書かれているから、言いたいことはたいへんよく伝わる。そして主張は、やはり、はっきりしている。たんに人はもうやっているからというのでなく、なぜある人たちの死が認められるべきだと考えるのか。
 こんな筋になっている。第一に、「生命の尊厳」を言う人も、死に至る治療の停止・差し控えは認めている、認める場合があるとする。第二に、そうした控えめな行ないと、死に至る/至らせる積極的な行ないとが基本的に違わないことを言う。そして第三に、以上より、より積極的な処置も認めるべきであると言う。つまり、生命尊重などと言っているが、すでに選別し殺しているではないかと言う。もうし少し詳しく説明する。
 クーゼにとっての論敵は(1)「生命の神聖性原理」(SLP=the sanctity-of-life principle)を主張する人たちである。その原理とは「意図的に患者を殺すか、意図的に患者を死ぬにまかせること、そして、人の生命の延長あるいは短縮に関する決定を下すに当たりその質あるいは種類を考慮に入れることは絶対に禁止される。」(Kuhse[1987=2006:16])というものである。
 次にクーゼは、実際にはこの原理が、この原理を採っているように見える論者によっても採用されていないことを言う。実際に採用されているのは、著者が(2)「条件付き生命の神聖性原理」(qSLP、q=qualified)と呼ぶものであると言う。それは「患者を意図的に殺すか、意図的に患者を死ぬにまかせること、そして、人の生命の延長か短縮に関する決定にその質あるいは種類を考慮に入れること、これらは絶対的に禁止される。しかし、死なないように処置するのを差し控えることは時として許される。」(Kuhse[1987=2006:31])という原理である。
 さらにクーゼは、差し控えることと積極的に死に至らせることとの間に基本的な違いはないことを主張する。すると、前者だけを認めるqSLPを主張する人たちも、その論を一貫させるためには、(3)より積極的な処置を(も)認めるべきである。こうなる。
 基本はわかりやすい話だ。人工呼吸器を付けたら生きてしまうから、呼吸器を付けないと決めることは、人工呼吸器療法の「不開始」などと言われるが、それは自ら死を決めることと違うだろうか。あるいは、今度は呼吸器を外したら呼吸はできなくなるからやはり死ぬのだが、それを外すのは「治療停止」であるとされ、安楽死ではなく尊厳死であると言われ、さらには「自然死」であると言われたりもするのだが、やはりそれは、死なせること、あるいは自ら死ぬことと違わないのではないか。彼らはそうして中庸な人を自らに引き寄せるのだ。「既に人は〈人間の質〉による対応の違いを認めている。それをはっきりと確認しよう。私たちが幾度も確認してあげよう。すると行くべき道は、今まで思われていたのと違う。」こんな構成になっている。
 これに対して反論するとしたらどんな方向があるだろうか。違いがあるという「条件付き生命の神聖性原理」の立場を第一とすれば、第二の立場は、SLPを堅持することである。第三に、「しないこと」と「すること」は違うと主張することである。第四に、第三の主張を、基本的には、採らずに――その点ではさきほどの第一の立場の人たちに同意しつつ――、第二の立場との距離を考えながら、第一の立場の人たちと違うことを言うことである。
 多くなされるのは、第三の主張であるように思う。同じだとされるものの間にやはり違いはあると主張される。つまり、「しないこと」と「すること」はやはり違う、治療を差し控えることと何か積極的な処置を行なうことは、それが死をもたらすことがわかった上でのことであれば同じだと言われるのだが、しかし違いはやはりあると主張するのである。そして、しばしば「たんなる延命処置」と呼ばれる積極的な処置をしないことは許容される場合があるが、致死性の薬物を飲んだり(飲ませたり)注射したりするのはだめだというのである。実際、日本尊厳死協会といった団体が(今のところ)主張するのもそういったことである。他の人や団体もよく同じことを言う。「けっして私(たち)は安楽死を認めているのではない。そう受け取るのは誤解であり、たいへん困ったことである。私(たち)はあくまで「自然な死」「尊厳死」を主張しているだけなのだ。」、「認めるのはあくまで尊厳死であり、安楽死はそれとはまったく別ものであり、認めていない、誤解しないでもらいたい」、こんな具合である★15。なかには本気でそう言っている人もいるのだろうことも認めよう。生命倫理学者の中にもそのように主張する人はいる。例えばダニエル・キャラハン(カラハン)の主張はそのようなものである★16
 ただ私は、この点については、おおいに異なる場合があることを一方で確認しながら、シンガーやクーゼに近い。つまり、二つが大きくは違わない場合があることを認める。コックを開けるのと締めるのと、いずれによっても死がもたらされるなら、その二つには違いがないと言ってよいと思う。コックを開けたまま、あるいは閉めたままにすることと、コックを締めること、あるいは開けること、いずれによってもすぐに確実に死がもたらされるなら、違いがないと言ってよいと思う。
 しかしその上で、異なる場合がある。私が大切だと思う違いは、その確実性、死の時点の確定性に関わる。
 一方で、死が確定的であり、死の時点もはっきりしていることがある。他方、やがて亡くなってゆくのではあるが、それがいつになるのかはそれほど明確でなく、意外に時間がかかることもある。それまでの過程が緩やかに進んでいくことがある。誰もが死を免れないことは知っているが、その日取りや日時が決まってしまうことは、多くの人にとって恐ろしいことではある。だからこの違いは、多くの人にとって大きな違いである。恐れが重要な契機としてあることは本章第1節で述べた。そこからこのことが言える。たしかに、どうせ私たちは死ぬ。しかし、いつ死ぬかはっきりわからない。そうして、私たちはそれまでの時間をやり過ごしているということだ。
 ただ、「消極的」とされる行ないが、必ずしも後者の、緩慢な過程を経て死に向かうことではないことには注意しておこう。つまり、やめること、しないことが即座の死を確実にもたらすことがある。コックを開けるとすぐに死ぬこともあれば、コックを閉めればすぐに死ぬこともある。そうした場合には、積極的・消極的と分けられる二つが同じであること、すくなくとも大きく違わないことがあることを認める★17
 しかし、その上で、私の考えは、Aを認めるならBも認めるはずだ、と言われたら、いや本来はAもおかしいと返すことになる。つまり、そう違いはしない(場合がある)という主張を認めた上で、いわゆる(積極的)安楽死だけでなく消極的安楽死とか尊厳死とか言われているものの多くを肯定できないと主張するのである。ここに論理的な矛盾はない。すると批判者たちの主張を受け入れる必要はない。その人たちのここでの論の眼目は、論敵たち(生命の神聖を言う人たち)が自らの主張を自ら裏切っていることを指摘する(ことによって自らの優越性を言う)ことにあるが、それは一定の妥当性を有するものの、結局はうまくいかない。
 そして批判者たちも自らの主張をより積極的に示さなければならなくなる。その人たち自身は何を言っているのか。第1章でそれを見た。そしてその主張を受け入れる必要がないことを述べた。
 ではそれは「尊重」を強化するということか。批判者に比べれば、そして批判者が捉える限りでの――実際には相対的な――尊重派に比べれば、そうだと言ってもよい。ただ私は、「絶対尊重」の立場には立たない。線の引き方が異なるということだ。このことを第1節に述べた。

■3 先まで行ってなかを取る、に対して
 以上、もうやっているのだから、というものの言い方、実質的には認められていることを公認しようというだけなのだという論法について見てきた。もう一つ、それと対照的に見える論の用い方がある。みなもう同じなのだみな仲間なのだと言って陣地を広げるというのが前項で見たやりだが、自分は先まで走って行ってしまって、誰かが中間をとる。これも、なかなか有効な手ではあって、私たちもよく使う。大きく主張する人と、間をとる人と違った方がよさそうだが、両方の役を自分が担当することもある。
 前項ではみながやっているのと同じだと言ったシンガーは、他方で、伝統の破壊者として自らを規定する。クーゼも同じように言う。
 それは、この領域でのきまり文句のようなものでもある。この件に限らず、とくに死については同じ語り方がよくなされる。ここでは「生命尊重」という「伝統」に反旗が翻される。他方では、「たんなる延命」に向かってしまう「近代医療」に対する批判が、中身としては同じことを言う。そして、いずれについても、つねに既にある「常識」が、「新たに」槍玉に挙げられるのだが、実際にはその批判・反省の行ない自体が既にもう何十年と繰り返されているという具合になっている。例えば、死について何を考えたら考えることになるのかわからないまま、「私たちは死について考えることを怠ってきたから(今日から)考えましょう」という言葉が毎日繰り返されるのである★18
 しかし今あるもの、そして/あるいは昔からある(とされている)ものの破壊は、現在や伝統に安住する多くの人を敵にまわすことにならないか。そうかもしれず、シンガーたちもあえてそれを引き受け、それを楽しんでいるようだ。
 ただ、なんでもありという「ラディカル」な人たちがいてくれると、今度は、そこまでは行かないものがすべてかなり穏便なものとして受け止められ、受け入れられることになるかもしれない。例えばシンガーたちは「(積極的)安楽死」を認めるのだが、そうすると、そこまで行かない「尊厳死」の許容は穏健な中庸な立場に見えてくるといったことがある。それも認めない人はよほど偏屈な人間だということになるのである。実際にまったくそのとおりのことを言う主張がこれまでなされてきた。
 つまり、既に認められているBと新たに認めようというAはじつは同じだと言ってAをよしとするのが前項にみた論法だが、Aを主張した後、それよりは穏健なBを実現させるといった手もある。これは主張する本人が意図している場合とそうでない場合とがある。なにかを要求する時に、誰かが、一〇〇を要求しそれをあくまで言い続けるが、別の誰かが間に入って、五〇もらえるなら飲んでもよいと持ちかけ、そこに収める。両者がじつはぐるになっていること、また、とくに連絡をとりあっているわけではないが、それぞれの役割を暗黙に承認しあっているといったことがある。この場合にはシンガーたちはあくまでAを主張しているのだたろうから、Bで落ち着いたら本人たち的には不本意ということはあるだろう。ただ、現実にはしばしば、「より穏健なもの」が実現され普及されていくことはある。
 その場合にはどのように言うか。まず、AはAとして、たんに間をとるためのアドバルーンのようなものだと軽く見るのではなく、それはそれとして考えて、認められないなら認められないと言うことである。次に、Bはそれ自体として正当化されねばならないということだ。Aより「穏健」であるように見えるからといって、それはBがよいことを意味するわけではもちちろんない。そしてその場合に、「なさない」という場合にも、それが確実に死をもたらすなら、それは積極的な行ないと実質的には同じ場合がある。これは前項に見たのことであり、繰り返すと、私たちは同じである場合があることを認めたうえで、Bを認めるならAも認めよとするのではなく、AもBも認めないとするのである。
 だから両者についてなされるべきは、結局一つの同じことだ。やはり、小さく見えるかもしれない差異を見ていくということである。すると、よりずっと「中庸」なことのように見えること、つまり、やめること、差し控えることが、中庸なこと穏当なことでは「ない」こと(があること)がわかる。
 こうして乗らずにすむ話にうっかり乗ってしまうことを防ぐ。その差をもたらすのは、人が意識し恐れる存在だということだ。それはよいことではないが仕方のないことだと私たちは述べた。
 では意識をとても大切にするはずの人たちはこのことに気づかないのだろうか。一つにそんな場合も、意外に、ある。もう一つ、それは気づかないことにも関わるのだが、自らが制御しえないと思われることをも制御すること、しようとすることに、予めの価値を付与しているという場合だ。死をわかって行なうことの方が立派であると考えるなら、わからないまま死ぬより、わかってわかった通りに死を行なうのと、同じか、むしろ後者の方が立派だということになる。そしてこれは極端であるとともに、すこしも新規な考え方ではない。その意味でこれはまったく近代社会の伝統に乗っ取った考え方であり、作法の勧めということになる。第1章に見た論は、新規であるより、まったく普通に凡庸に近代の伝統を継いでいると見た方がよいのである。
 そしてそれは、私の死を恐れてしまう私より、私を殺してしまう私のほうが偉いのだということであって、超越できないものを超越しようとする営みが肯定されているということである。その超越する私の代わりに別の超越するものをもってきても結果としては同じことが起こる。つまり、人はそのもののために死ぬことになるだろう。第4章ではそのこともまた見ていくことになる。

■■註
★14 『生と死の倫理』の書評を『週刊読書人』の依頼で1998年に書いている。いつものことだが字数の制約がきつく難儀した。多くの主題が取り上げられていて、検討・批判は様々可能だが、その一つでもそれなりに行なおうと思ったら、すぐ長くなってしまう。何も中身は書けなかった。本書を補うものとしてオンラインで提供する『補註』(立岩[2022])に全文を掲載。そのおわりの部分だけ引用する。
 「本書で一義的な社会的決定が回避され、それなりに穏当な印象の論調となっているのは、「周囲の人」の扱い方による。筆者は家族の利害を家族外の利害に優先させ、家族の決定を尊重すべきだとする。しかしその理由は何か。家族が負担を負っているから。では、「社会」が負うならどうか。こちらが正しいと言いたいのではない。この時、「社会」が決定者として現われ、新生児の生殺を決めるかもしれないこと、選好と決定が置かれている仕組みを考えるべきなのであり、その解析に向かう装置が筆者の論にはないことを言いたいのだ。安楽死についても、安楽死への「選好」が存在する条件は問われない。ある程度の常識の範囲内で筆者は語る。筆者と読者の共通性によって読者は筆者に感応し、その時に本書は説得の書であり納得の書となる。自分では考えないし、物議をかもしそうなことは言わないが、都合のよい選択肢を支持するそれなりに著名でもある論者が一人いるという安心がその人を呼び寄せてしまうといった怠惰は拒絶しなければならない。他方に、この書の情緒への訴え方、事実の記述の偏りを感じる人がいて当然だと思うが、それは単なる事実誤認でなく筆者の思考の構造に由来する。だから基本的なところから、少なくともこの舌足らずの「書評」の何十倍かの分量の検討がなされるべきである。それは筆者の思考が、現実の私達の思考でもあるからである。」(立岩[1988]
★15 日本安楽市協会の時の八一年の「新運動方針」――「一、自発的消極的安楽死に重点を置く[…]二、積極的安楽死は原則として認めない――と、その前と、それ以降について『唯の生』(立岩[2009:88ff.])。この部分は分量の制約から『良い死/唯の生』(立岩[2022])には収録されない。『唯の生』の第2章「近い過去と現在」、第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」、第4章「現在」はオンラインで提供する書籍(題名未定)として、より現在に近い部分についての記述を加え、提供していく。
★16 関連する訳書に――いずれも原題はずいぶんと異なるのだが――『老いの医療――延命主義医療に代わるもの』(Callahan[1987=1990])、『自分らしく死ぬ――延命治療がゆがめるもの』(Callahan[2000=2006])。天田[2007-(6)]でこれらが紹介され、批判されている。Callahan[1992][1995]について有馬[2012:147,162]で検討されている。他にキャラハンについて論じたものに土井[2008]。
★17 このことは『ALS』(立岩[20041115])で、また清水哲郎の論を検討した「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」(立岩[20041101])でも述べている。この文章は『唯の生』(立岩[20090325])に収録し、『良い死/唯の生』(立岩[2002])に再録された。
 殺すことと死なせること、死ぬにまかせることの差異・共通性に関連する文献、苦痛緩和の処置(良いこと)の(副次的)結果としての死(悪いこと)は許容されるといった「二重結果論」に関する文献はたくさんあるようであり、「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」(立岩[20041101])でも少しあげている。重複するものも含めいくつか列挙する。Rachels[1975=1988]、Beauchamp[1978=1988]、Rachels[1986=1991]、Molm[1989=1993]、Brock[1998]、山本[2003]、飯田[2008]。多くの論・論者の見解を検討した理論的な著作として有馬斉の『死ぬ権利はあるか――安楽死、尊厳死、自殺幇助の是非と命の価値』(有馬[2019])がある。別途検討する。
★18 「死はタブーとされてきた、だから/しかし、私が語る」と言って、幾度も幾度も同じことを繰り返して語るというその語りについて『生死の語り行い・2』(立岩[2017])で紹介している。


UP:2021 REV:2022
TOP HOME